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第1章 転生
第5話 額の花鈿から
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水の冷たさに震えながら立ち上がった男は、衣の水を絞りながら堤を登って来た。
沓の中まで水が入り込み、一歩踏み込むごとにぐちゃりと重そうな水音が鳴る。
どうやら曹先生の来客が帰るのを待つ間に、私は長椅子で眠ってしまっていたらしい。
子供の頃の嫌な夢を見ているところに、この男が声をかけてきて起こされたようだ。
「あのまま放っておいたら、眠ったまま地面に落ちて頭をぶつけるところだったぞ。それに、そもそもこんな開けたところで年頃の娘が一人で寝ていたら危ないだろう。(ゲホッ)」
「……もしかして、私が椅子から落ちないように支えてくれていたということですか?」
「ああ、それだけだ。声をかけてもなかなか起きないから、致し方なく……。せっかく助けてやったのに、本当に失礼な娘だな」
鼻をすすりながらゆっくりと長椅子に近付き、男はもう一度そこに腰を降ろした。濡れた靴を脱ぎ、逆さにして中の水を出す。
(あの高そうな生地の衣を、またしてもずぶ濡れにしてしまったわ。それに――)
私はもう一つ、自分がやらかしてしまったことに気付いていた。
恐る恐る、男に尋ねてみる。
「あの……足、怪我しちゃいましたよね?」
「ああ。昨日君に川に突き落とされた時に足をくじいたし、そのせいで風邪もひいたよ。その上今日もまた川に落とされるとは。全く、私が寛容な人間で良かったな」
「……うっ、ごめんなさい」
助けてくれた相手に対してやらかしてしまった自分の失態を次々と聞かされながら、私は渋い顔をする。
驚いて咄嗟の行動だったとは言え、見ず知らずの人を突然殴ったり川に落としたりするのは良くないことは分かっている。師匠である曹侯遠先生にも、無暗に武道の技を他人に使うなと口を酸っぱくして言われていたのに。
「……せっかく助けて頂いたのに酷いことをして申し訳ありませんでした。でも、突然手を掴まれて名前や年を聞かれたら、私じゃなくても誰だってびっくりすると思います。今日だって、目が覚めたら目の前に知らない顔があるんだもの」
(しかも、あの大事な場面を見逃したのは、貴方のせいでもあるのだし)
「それはそうだな。驚かせてすまなかった。君が、昔の知り合いに似ている気がして……つい力が入ってしまった」
俯く私に、男は長椅子の横に座るように促す。
「そんなに申し訳なさそうにされたら此方も困る。私も悪かったのだから」
「……でも」
「そうだ、改めて名を聞いてもよいか。私は……翔永という」
「私は、黄明凛です」
翔永と名乗ったその男は、昔の知り合いを訪ねて皇都に来たと言う。聞けば『昔の知り合い』とは、なんと私が今から訪ねようとしていた曹侯遠先生らしい。
そう言えば先ほど曹家の裏庭で、二人組の男の背中を見たではないか。
「もしかして、先ほど曹家の庭で先生とお話されていた方?」
「ああ、そうだ。曹家から宿に戻る途中で、君が寝ているのを見つけた」
「曹先生のお客様だったなんて。私ったら全く知らずに、失礼なことをしてしまって申し訳ありません」
先ほどから何度目だか分からないが、私はもう一度男に頭を下げた。
ずぶ濡れの衣を手で絞ったぼろぼろの格好をしていても、長身で精悍な顔立ちをした翔永様はなかなかの美丈夫だ。
質の良さそうな藍衣は、よほどの名家でないと手に入れられない品に違いない。もしもこの男が皇宮で官職に就いているのなら、父とも顔見知りかもしれない。
道行く人たちが、すれ違いざまにチラチラと翔永様に視線を向ける。私は翔永様をずぶぬれにしてしまった罪悪感で居心地悪く肩をすくめた。
「遠くの街からわざわざ皇都までいらっしゃるなんて……曹先生に、大切なご用事なんですね」
「ああ、そうだな。とても大切なお願いがあったのだが、実は今のところ交渉決裂だ。しばらく皇都に滞在して、根気よく口説かねばならないかもしれん」
(「口説く」で思い出したけど、そう言えばこの人、出会い頭に私のことを口説いてきたんだった。何だか見た目によらず軽薄な人なのかも)
「明凛は、ずっとここに住んでいるのか?」
「はい、私は生まれた時から皇都育ちです。父が言うには」
「何だそれは。随分と他人事のような話ぶりだな」
「幼い頃の記憶なんて、誰しも覚えてないでしょう? 物心ついてから、この皇都を出たことがありません」
前世では中国各地を一人旅で回りましたけど、とついつい言いそうになったが、ここは『玲玉記』の架空の世界で、中国ではなかったと思い直して言葉を飲んだ。
「翔永様は、曹先生への用事が終わったらすぐに地元に戻られるのですか?」
「そうだな。色々とあちらで仕事がある。早く交渉を終わらせて戻らねば」
「では……多分、もう私と会うこともないですよね」
私は、並んで歩いていた翔永の前に進み出て、向かい合うように立った。
長身の彼の顔を下から見上げ、ニッコリと笑みを見せる。
「ん? どうした?」
「今日で会うのは最後だから、私の秘密を教えます。誰にも言わないで下さいね」
私は翔永様の両頬に手を伸ばし、少し背伸びをして花鈿の描かれた額を彼の額にそっと合わせた。突然触れられて身を強張らせる翔永様に、「静かに、目を閉じて」と囁く。
額の花鈿がほんのりと温かくなり、翔永様の額に熱が伝わっていく。
「……これは?」
「足の怪我そのものは治せないけれど、これで少し痛みが和らぎませんか? それと、風邪も少し良くなっているはず」
翔永様は先ほどまで滝のように流れていた鼻水が止まったことに気付いたようで、不思議そうな顔をしている。
「私のこの額の花鈿には、体の毒を癒す力があるんです。人に知られてしまうと面倒なので、秘密ですよ」
「その花鈿の力で、私の風邪が治ったのか? その力は、いつどこで?」
「物心ついたときにはこの力があったので……。父によると、生まれた時から痣のように額に花鈿があったと」
「信じられん……そんな力、初めて聞いたぞ」
川に落ちてずぶ濡れになった衣のことも忘れて、翔永様は足のケガや自分の鼻を触って首を傾げている。
(そんな格好でずっと外にいては、せっかく風邪を治してもすぐにぶり返してしまいそうね)
「さあ、翔永様。また風邪を引いてしまっては治した意味がありません。早く宿に帰って着替えてください。私はここで」
「明凛、ありがとう。……元気で」
「こちらこそ、ありがとうございます。曹先生との交渉が上手くいくように願ってますね!」
翔永様に手を振ると、私は再び来た道を戻り始めた。
いつの間にか、青龍川の向こうには夕日が差し込んでいる。
曹家に手紙を届けるのをすっかり忘れたまま、私は翔永様と額を合わせた時の熱を確かめるように、花鈿にそっと触れた。
沓の中まで水が入り込み、一歩踏み込むごとにぐちゃりと重そうな水音が鳴る。
どうやら曹先生の来客が帰るのを待つ間に、私は長椅子で眠ってしまっていたらしい。
子供の頃の嫌な夢を見ているところに、この男が声をかけてきて起こされたようだ。
「あのまま放っておいたら、眠ったまま地面に落ちて頭をぶつけるところだったぞ。それに、そもそもこんな開けたところで年頃の娘が一人で寝ていたら危ないだろう。(ゲホッ)」
「……もしかして、私が椅子から落ちないように支えてくれていたということですか?」
「ああ、それだけだ。声をかけてもなかなか起きないから、致し方なく……。せっかく助けてやったのに、本当に失礼な娘だな」
鼻をすすりながらゆっくりと長椅子に近付き、男はもう一度そこに腰を降ろした。濡れた靴を脱ぎ、逆さにして中の水を出す。
(あの高そうな生地の衣を、またしてもずぶ濡れにしてしまったわ。それに――)
私はもう一つ、自分がやらかしてしまったことに気付いていた。
恐る恐る、男に尋ねてみる。
「あの……足、怪我しちゃいましたよね?」
「ああ。昨日君に川に突き落とされた時に足をくじいたし、そのせいで風邪もひいたよ。その上今日もまた川に落とされるとは。全く、私が寛容な人間で良かったな」
「……うっ、ごめんなさい」
助けてくれた相手に対してやらかしてしまった自分の失態を次々と聞かされながら、私は渋い顔をする。
驚いて咄嗟の行動だったとは言え、見ず知らずの人を突然殴ったり川に落としたりするのは良くないことは分かっている。師匠である曹侯遠先生にも、無暗に武道の技を他人に使うなと口を酸っぱくして言われていたのに。
「……せっかく助けて頂いたのに酷いことをして申し訳ありませんでした。でも、突然手を掴まれて名前や年を聞かれたら、私じゃなくても誰だってびっくりすると思います。今日だって、目が覚めたら目の前に知らない顔があるんだもの」
(しかも、あの大事な場面を見逃したのは、貴方のせいでもあるのだし)
「それはそうだな。驚かせてすまなかった。君が、昔の知り合いに似ている気がして……つい力が入ってしまった」
俯く私に、男は長椅子の横に座るように促す。
「そんなに申し訳なさそうにされたら此方も困る。私も悪かったのだから」
「……でも」
「そうだ、改めて名を聞いてもよいか。私は……翔永という」
「私は、黄明凛です」
翔永と名乗ったその男は、昔の知り合いを訪ねて皇都に来たと言う。聞けば『昔の知り合い』とは、なんと私が今から訪ねようとしていた曹侯遠先生らしい。
そう言えば先ほど曹家の裏庭で、二人組の男の背中を見たではないか。
「もしかして、先ほど曹家の庭で先生とお話されていた方?」
「ああ、そうだ。曹家から宿に戻る途中で、君が寝ているのを見つけた」
「曹先生のお客様だったなんて。私ったら全く知らずに、失礼なことをしてしまって申し訳ありません」
先ほどから何度目だか分からないが、私はもう一度男に頭を下げた。
ずぶ濡れの衣を手で絞ったぼろぼろの格好をしていても、長身で精悍な顔立ちをした翔永様はなかなかの美丈夫だ。
質の良さそうな藍衣は、よほどの名家でないと手に入れられない品に違いない。もしもこの男が皇宮で官職に就いているのなら、父とも顔見知りかもしれない。
道行く人たちが、すれ違いざまにチラチラと翔永様に視線を向ける。私は翔永様をずぶぬれにしてしまった罪悪感で居心地悪く肩をすくめた。
「遠くの街からわざわざ皇都までいらっしゃるなんて……曹先生に、大切なご用事なんですね」
「ああ、そうだな。とても大切なお願いがあったのだが、実は今のところ交渉決裂だ。しばらく皇都に滞在して、根気よく口説かねばならないかもしれん」
(「口説く」で思い出したけど、そう言えばこの人、出会い頭に私のことを口説いてきたんだった。何だか見た目によらず軽薄な人なのかも)
「明凛は、ずっとここに住んでいるのか?」
「はい、私は生まれた時から皇都育ちです。父が言うには」
「何だそれは。随分と他人事のような話ぶりだな」
「幼い頃の記憶なんて、誰しも覚えてないでしょう? 物心ついてから、この皇都を出たことがありません」
前世では中国各地を一人旅で回りましたけど、とついつい言いそうになったが、ここは『玲玉記』の架空の世界で、中国ではなかったと思い直して言葉を飲んだ。
「翔永様は、曹先生への用事が終わったらすぐに地元に戻られるのですか?」
「そうだな。色々とあちらで仕事がある。早く交渉を終わらせて戻らねば」
「では……多分、もう私と会うこともないですよね」
私は、並んで歩いていた翔永の前に進み出て、向かい合うように立った。
長身の彼の顔を下から見上げ、ニッコリと笑みを見せる。
「ん? どうした?」
「今日で会うのは最後だから、私の秘密を教えます。誰にも言わないで下さいね」
私は翔永様の両頬に手を伸ばし、少し背伸びをして花鈿の描かれた額を彼の額にそっと合わせた。突然触れられて身を強張らせる翔永様に、「静かに、目を閉じて」と囁く。
額の花鈿がほんのりと温かくなり、翔永様の額に熱が伝わっていく。
「……これは?」
「足の怪我そのものは治せないけれど、これで少し痛みが和らぎませんか? それと、風邪も少し良くなっているはず」
翔永様は先ほどまで滝のように流れていた鼻水が止まったことに気付いたようで、不思議そうな顔をしている。
「私のこの額の花鈿には、体の毒を癒す力があるんです。人に知られてしまうと面倒なので、秘密ですよ」
「その花鈿の力で、私の風邪が治ったのか? その力は、いつどこで?」
「物心ついたときにはこの力があったので……。父によると、生まれた時から痣のように額に花鈿があったと」
「信じられん……そんな力、初めて聞いたぞ」
川に落ちてずぶ濡れになった衣のことも忘れて、翔永様は足のケガや自分の鼻を触って首を傾げている。
(そんな格好でずっと外にいては、せっかく風邪を治してもすぐにぶり返してしまいそうね)
「さあ、翔永様。また風邪を引いてしまっては治した意味がありません。早く宿に帰って着替えてください。私はここで」
「明凛、ありがとう。……元気で」
「こちらこそ、ありがとうございます。曹先生との交渉が上手くいくように願ってますね!」
翔永様に手を振ると、私は再び来た道を戻り始めた。
いつの間にか、青龍川の向こうには夕日が差し込んでいる。
曹家に手紙を届けるのをすっかり忘れたまま、私は翔永様と額を合わせた時の熱を確かめるように、花鈿にそっと触れた。
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