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第4章 幽鬼

第30話 皇帝の過去 ※永翔視点

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 ――これは夢か現か。

 夜空いっぱいに、ゆらゆらと数多の天燈ランタンが飛んでいく。
 天燈の小さな炎は目の前に広がる湖の上にも映り、まるで満天の星空のように瞬いていた。

 私はまるで自分が夜空を鳥のように飛びながら、星々に囲まれているような感覚にとらわれる。
 ふと我に返ると、隣にいたはずの少女の姿が見えない。焦って周りを探すと、少し離れた場所に少女が立っているのを見つけた。

 ――琥珀こはく、何を話し込んでいるんだろう。

 私が頭の中で名を呟いた琥珀こはくという少女は、祭りの屋台の近くで大人の男と話し込んでいる。男はちょうど木の陰にいてこちらから顔は見えないが、琥珀に何か屋台の食べ物を渡したようだった。

(琥珀は食いしん坊だな。こんなに綺麗な空なのに、食べ物の方が気になるのか)

 何かの包みを持って小走りに戻って来る琥珀を見ていると、自然と頬が緩んだ。

 琥珀の父に黙って、勝手に子供二人だけで祭りに遊びに来てしまったからには、琥珀を迷子なんかにさせるわけにはいかない。しっかりと彼女を守らなければと自分に言い聞かせ、琥珀が戻ってくるのを見守っていた。


「永翔様! あそこの男の人がね、饅頭まんじゅうをくれたの!」


 まだ四歳の無邪気な少女は、饅頭の包みを大切そうに抱えている。


「饅頭を半分こして二人で食べたら、大人になったときに結婚できるんだって!」
「琥珀、絶対にそれだまされてる。そんな話聞いたことないよ」
「ええっ、だって。あのおじさんが必ず半分こして、『せーの!』で食べなさいって言ったよ? 結婚できるからって」


 小さな女の子にそんな嘘を教えるなんて、とあきれながらも、私は内心幸せで満たされていた。
 母を亡くし、皇宮での後ろ盾も居場所もなくした私にとって、教育係の曹侯遠そうこうえんは父のような大切な存在だった。そして侯遠の一人娘である琥珀も、こうして何の裏も打算もない純粋な気持ちで私を慕ってくれている。
 琥珀から向けられる無条件の愛は、とんでもなく心地よかった。

(でも……)


「ごめんね、琥珀。私は外で勝手に食べ物を口にしてはいけないと言われているんだ。必ず毒見を……」
「え?」


 隣にちょこんと座った琥珀は、私の話が終わる前にもう饅頭を半分割って口にくわえていた。
 まるで団栗どんぐりのように丸い目をして、琥珀は私を見つめる。

 体から、さあっと血の気が引いた。
 どこの誰かも分からない者から受け取った菓子を、何の疑いもなく口にするなんて。慌てて琥珀の手から饅頭を取り上げると、私はそれを地面に投げつけた。


「駄目だよ! 食べたら、駄目だ!」
「う……うぁ、うわあぁぁん!」


 私の勢いに驚いた琥珀が、大声で泣き始める。

 湖の桟橋さんばし近くに、突然姿が見えなくなった私たちを探しに来た、曹侯遠の姿が見えた。侯遠は私たちを見つけると、こちらに向かって駆け出す。
 侯遠に無断で供も付けずに娘の琥珀を祭りに連れ出した挙句、勝手に菓子まで与えてしまった。その上、今まさに琥珀は大泣きしている最中だ。

(絶対に、怒られる……)

 情けなさのあまり、涙がにじんだ。
 すると、隣で泣いていた琥珀の泣き声が突然止まる。


「あれ、琥珀? どうした?」
「……う……(ゴホッ)」


 咳き込んだ琥珀の衣に、どす黒い染みが大きく広がる。私の目に浮かんだ涙は引っ込み、手が震えた。
 琥珀が口から血を吐いたのだ。口元を押さえる小さな手の間から、まだポタポタと血がしたたり落ちて染みを広げていく。


「琥珀、血が、血が出てる……! ちょっとだけ待ってて、侯遠を呼んでくるから!」


 長椅子に琥珀を横たわらせ、私が侯遠の元に走ろうと立ち上がった瞬間――


「えいしょ‥‥…う……さま……!」


 一度横たわった琥珀が私の衣のすそを掴んで、引き留めた。ぐったりとした様子のまま立ち上がると、まるで何かからかばうように抱きついて来る。

 その瞬間、琥珀の背後で、トスンという小さな音がした。

 どこからか飛んで来た矢が、琥珀の背中に刺さったのだった。





「……っ!」


 夜半の冷たい空気に包まれた房の寝牀の上で、私は飛び起きた。夜着は汗でぐっしょりと濡れており、静寂の中に自分の心臓の音だけが大きくこだまする。

(……嫌な夢を見てしまった)

 夜衾ふとんの端を握りしめながら大きく息を吐き、ここはどこだったかと辺りを見る。

(そうか、今日は馨佳殿には行かなかったのだ)

 今、隣に明凛がいないことが、寂しいようでもあり安堵もした。

 幼い頃、母を病で亡くした。
 懐妊中だった現・皇太后を階段から落とした疑いをかけられた母は、公に処罰はされなかったものの、母の親族であるよう家の者は軒並み官職を追われることになった。
 後ろ盾をなくした私を「療養のため」という口実で後宮から連れ出し、皇都の片隅でひっそりと育ててくれたのが、曹侯遠だ。

 その侯遠の恩に報いるどころか、私は自分の不注意により侯遠の一人娘を死なせてしまったのだ。
 その時のことを、今でもこうして時々夢に見る。

 侯遠の娘・琥珀こはくは、普段から皇太子である私を命がけで守るように、父から言い聞かされていたらしい。私が何かを口にする前には必ず毒見をする父や従者を身近で見て、琥珀も自然と自らの役割を学んでいたのだろう。

 あの祭りの夜も、きっと「毒見をするのは自分しかいない」と思って先に饅頭を口にしたのだ。本当は「せーの!」の掛け声で一緒に食べたかっただろうに、たった四歳の子がそれを我慢して自らの役割を全うした。
 その上、誰かが弓矢で私を狙っていることに気付くと、毒に侵された身を挺して私を庇ったのだ。

 毒入りの饅頭、そして毒の仕込まれた矢。

 どちらも私が従者と離れた隙に命を狙おうとした謀略ぼうりゃくのはずだ。何の罪もない幼い琥珀が、受けるべきものではなかった。

 琥珀の背中に矢が刺さったあと、侯遠は琥珀の体を抱き寄せてむせび泣いた。
 私の従者も侯遠と共に駆け付け、まだ私を狙っている者がいるかもしれないと言い、慌てて馬に乗せられた。

 六歳の子供である私の目から見ても、琥珀が既にこと切れたことは明らかだった。
 自分のせいで琥珀が犠牲になったのに、このまま彼らをおいてこの場を去れるものかと抵抗したが、大人の男の力には叶わない。そのまま私は馬で皇宮へと連れ戻されてしまったのだった。

(あの時、私が琥珀を勝手に祭りに連れ出さなければ)

 十五年近く経った今でも、後悔の念にがんじがらめに囚われている。

 青龍国を救うため、母を守るため。
 そんな名目で立ち上がり、本来ならば顔向けできないはずの曹侯遠にも会った。私のせいで娘を失った侯遠は、さぞや自分を恨んでいるに違いない。国のために官職に戻ってほしいなどと、本来であれば言えた立場でないことは重々分かっている。

 前を向いて進もうという皇帝としてあるべき姿の裏で、常に琥珀への罪悪感が糸を引いている。自分はいつ死んでもいい存在なのだと、そんな投げやりな気持ちがどうしても消えてくれない。

 そして今も私は、新たな罪悪感を積み重ねようとしている。

 琥珀と明凛は別人だ。
 毒に倒れて皇都で死んだ曹琥珀そうこはくと、名門黄家で育った黄明凛こうめいりん。それに琥珀には、明凛の額にあるような花鈿の痣はなかった。

 それなのに、自分の心の中で勝手に明凛と琥珀の姿を重ねている。
 四歳で亡くなった琥珀と十八になる明凛の顔など比べようがないのだが、どうしても明凛が琥珀の成長した姿に見えて仕方がない。

 そんな気持ちがあったから、明凛を仮初かりそめの妃にしようという商儀の愚策ぐさくにまんまと乗って明凛を後宮に引き入れ、巻き込んでしまった。

(早く曹侯遠を官職に戻して、明凛を後宮から出さなければ。そうしないと、私はまた新たな後悔を背負うことになる)

 馨佳殿にいるのは明凛であって、彼女は琥珀ではない。
 もう一度自分に言い聞かせながら、私はもう一度寝牀に横たわり目を閉じた。
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