死に戻り令嬢は逃げ出したい ~前世で私を殺した暗殺者が、「一生離しません」と忠犬になって追いかけてきます~

ラム猫

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第49話 断片的な境界

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 ——暗く、静かな場所だった。痛みも、熱さも、脇腹を貫いた茨の感覚さえも、今は遠い霧の向こう側の出来事のように感じられる。

 エルセリアは、自分がどこにいるのか分からなかった。ただ、柔らかな光の粒子が舞う、底のない空にふわふわと浮いているような、不思議な安らぎの中にいる。

「……ああ、私、もう頑張らなくていいのかしら」

 そんな考えが、意識の端を掠める。苦しんできた日々から、ずっと背負っていた重い荷物を、ようやく下ろせたような気がした。しかしその静寂を破るように、近くで小さな、震える泣き声が聞こえてくる。

『……ごめんね……ごめんね、エルセリア……ボクが、君を呼んだから……』

 視線を向けると、そこには翡翠色の髪をしたあの少年がいた。彼は膝を抱え、透き通った涙をぽろぽろと零しながら、今にも消えてしまいそうなほど淡く震えている。

「……精霊さん?」

 エルセリアは、重い体を動かすようにして、少年の傍へと歩み寄る。いや、歩いているのか、泳いでいるのかも定かではない。ただ、彼の悲しみが放っておけなかった。

 彼女は少年の小さな肩に手をかけ、そのままそっと抱きしめた。

「泣かないで。……あなたは、何も悪くないわ」

 エルセリアの腕の中で、少年の体がびくりと跳ねた。彼は驚いたように顔を上げ、涙に濡れた翡翠色の瞳で彼女を見つめる。

『……どうして? 君は、ボクを助けようとして、あんなにひどい傷を負ったんだよ。もうすぐ、君の魂はここから消えて……向こう側へ行っちゃうんだよ?』
「……そう。でも、後悔はしていないわ。あなたが、あんなに悲しそうにしていたから」

 彼女が微笑むと、少年はさらに激しく泣きじゃくりながら、彼女の胸に顔を埋めた。温かい。彼の悲しみはこれほどまでに熱く、彼女の胸に伝わってくる。

『……エルセリア。君は、本当に……あの人が言った通りだね。……ボク、君に伝えなきゃいけないことがあるんだ。……精霊王様のこと、そして、君の力の……本当の意味について……』

 少年が、エルセリアの耳元で何かを囁こうとした。その声は、この空間の理を揺るがすような、重大な響きを孕んでいる。

『いい? 君の魔力は、ただ癒やすためのものじゃない。それは——』

 だが。少年の言葉が、核心に触れるよりも早く。
 その静謐な世界を、暴力的なまでの叫びが引き裂いた。

『ふざけるなッ!!』

 鼓膜を揺らすのではない。魂を直接掴んで、無理やり引き戻すような、凄まじい執念の塊。

『死ぬなど、俺が許さない! 死神がエルセを連れて行こうとするなら、その腕を、その概念ごと、俺が食いちぎってやる!!』

 その声を知っている。エルセリアの名を、誰よりも熱く、重く、狂おしいほどに呼び続けてくれた、あの男の声だ。

「……ギル?」

 少年の姿が、急速に遠ざかっていく。翡翠色の空間に亀裂が入り、そこから漆黒の魔力と、焼けるような温かさが溢れ出してきた。

「あ……待って、精霊さん! まだ、大切なことが……!」
『……エルセリア。ボクはもう、行かなきゃ。君の騎士が、世界を壊しちゃいそうだ。……でも、忘れないで。王様を、助けて……。そのためには……』

 少年の声は、濁流のような生の気配に飲み込まれて消えた。

 次の瞬間。エルセリアは肺が破けるほどの激痛と共に、大きく息を吸い込んだ。

「——っ、はぁっ、ごほっ……!!」

 視界が、真っ赤な鮮血と、それ以上に濃い黒に染まる。脇腹を貫いていた茨は、いつの間にか粉々に砕け散っていた。代わりに私を支えていたのは、強く、壊れ物を扱うように震えている、血塗れの腕。

「……ああ……あぁ、エルセ……エルセリア!!」

 目の前にあったのは、今にも泣きだしそうな、恐ろしいほどに美しい顔。

 ギルベルト。彼の金色の瞳からは、血のような涙が流れ落ちていた。彼の服は、呪いの茨を素手で引きちぎったせいか、ボロボロに裂けている。

「……ギル……? 泣かないで……。私は、ここに……」

 エルセリアが弱々しく手を伸ばし、彼の頬に触れる。その瞬間、ギルベルトは息を漏らし、彼女の首筋に顔を埋めて激しく慟哭した。

「……死なせない。死なせません。地獄の門があなたの前に現れたなら、俺が門番を皆殺しにして、門を叩き壊してきます。……あぁ、エルセ……俺を、置いていかないでください……!」

 彼の内側から溢れ出す膨大な魔力が、エルセリアの傷口へと無理やり流し込まれていく。目の前でなりふり構わず彼女を繋ぎ止めようとするこの男の温もりが、彼女に再び戦う理由を思い出させた。
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