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第四章 ノンストップ! キャシー号
⑥
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「おい、庄三爺さん。どこへ行ってたんだよ」修太郎さんが呆れたように首を振った。「まさかスーパーの中で迷子になったわけじゃないんだろ?」
「けっこう何でもあるスーパーだな」庄三さんが満足そうな顔をする。「昌枝と二人で食料品売り場に行くと、昆布巻きの試食をやっていてな。その美味いことといったらなかったぞ。わしはそのあとウインナーの試食をしたのだが、昌枝はいらんと抜かしおった。あんな美味いウインナーを。まずはそこで揉めたんだ」
もう何やってんだか。僕は老人二人が試食コーナーで揉めている光景を想像して憂うつになった。
「食料品売り場の隣りは電化製品があってな。マッサージ器のお試しコーナーをちょっとばかし冷やかしてやったんだ。肩が軽くなったわい。あまりに気持ちがいいので思わずウトウトしかけたら、昌枝のやつ頭を叩きおった。まったく信じられんわい」
「ペットコーナーでワンちゃんも見たじゃありませんか」昌枝さんが庄三さんの話をはぐらかすように話題を変えた。
「そうだった。ポイヌードルがかわいかったな」庄三さんが首をかしげる。「あの犬、ラーメンが好きなのかな」
「トイプードルのことね」菜々実がすかざず訂正する。「あたしも大好き」
「俺のチャッピーのほうがかわいいよ」卓也が話に参加する。
「仲がいいんですね、お爺さんたち」カナさんがうれしそうな寂しそうな、それでいてちょっぴり悲しそうな顔になる。「庄三さんと昌枝さん、さっき手をつないで戻ってきましたよね。お年を召しても手をつないで歩けるなんて、とっても素敵ですね。うらやましいな」
修太郎さんがじっとカナさんの顔を見ていたけれど、やがて片頬を上げて笑った。「面白おかしく生きているのさ。爺さんたちは」
「ううん、ものすごく幸せなんだと思います」カナさんが修太郎さんの顔を真っ直ぐに見る。「あたしにはわかります」
カナさんの視線を真っ向から受け止めながらも、修太郎さんはニヤケた顔を保っている。「そうかな。もしかしたら、おそろいのパンツとか穿いているかもしれないぜ」
「なぜそれを知っているんだ?」修太郎さんの言葉を耳にした庄三さんが不思議そうな顔をする。「おそろいの毛糸のパンツだ」
もはや言うことはない。僕たちは別の話題を探そうと努力する。
「夏はちょっと暑いですが」昌枝さんがとどめの一発をくれてからお茶を飲んだ。
「暑いのなら、ホットな茶はやめて冷えた麦茶にしなよ」修太郎さんが呆れ顔になる。「だいたい、なんであんた、そんなにしょっちゅう茶を飲めるんだ? よく腹の中に入るな」
「私、お茶ならとことん飲めるのです」昌枝さんが淡々とした口調で言う。横で庄三さんがとことん、とことんだ、と相槌を打つ。「おそらく三リットルくらいは貯め込むことができる場所が設けられているのだと思います。でもこの体質を、私は遺伝だとは思いません」
遺伝なわけがない、そんなの聞いたことがないわ、ともはや悲鳴に近い声を上げる姉貴。
「わかったわかった。もういいから次へ行こう」修太郎さんがその場を収束させる。「あんたらをあやしながら立石氏の職探しをするのは至難の業だな。花火大会までにエネルギーを使い果たしそうだよ」
あの人たちプラス修太郎さんを相手にする僕のほうが、もっとエネルギーを使いそうなんですけど。僕はそっと息を吐いた。
「ところで、カナちゃん」修太郎さんがカナさんのドレスを指さす。「いい加減にそのドレス、脱がなきゃな。俺たちと一緒に行動するのなら、そいつは邪魔だ」
「そうね、目立ちすぎるわねえ」姉貴が同意する。「どこかで服を調達しなきゃ」
カナさんは、自分を包んでいるウエディングドレスにゆっくりと視線を落とした。数秒後、苦笑いしながら顔を上げた。「でも、お金が。すべて置いてきちゃったから、一文無しです」
「そのくらいは俺が出してやるよ」修太郎さんは微笑んだあと、真面目な顔になった。「世の中は金だというやつがいるが、俺はその意見に、ある意味賛成だ。そいつらの常套文句、知ってるよな。『金がなけりゃ、何にもできない』とか『愛があれば金なんて? そんな甘ったれたことでは生きていけない』とか。俺はそんなベタなセリフはどうでもいいんだけどな、いざというとき、金が幸せを運んできてくれることも多いんだ。俺がカナちゃんに服をプレゼントしたり、あるいは広島に行ってから行動を起こすための初期費用を出してやったりしたとして、それで次のステップに上がることができれば、金は役に立ったと言うべきだろ。なんでもかんでもゼロから築き上げてのし上がっていかなきゃならないことはないんだ。苦労すればするほど、絶対的なタフさは得られるかもしれないけどさ、苦労しなくてもいいのなら、さっさと次のステップに上がっちまって、そこでがんばったほうがいいってこともある。いわば人生の逃げ切り型だ。人の寿命なんて、たかが百年足らずだ。ボヤボヤしてたら足腰立たない年齢になっちまってたなんていうんじゃ、シャレにならない。二百年生きる予定のあるやつは、バンバン下積みすればいけどな」
「うーん、あたしは二百年生きる予定はないけど」姉貴が腕組みする。「修太郎の言っていることはわかるけどさあ、やっぱそれだけじゃないような気がするんだよね。なんかうまく言えないけど、地道な努力ってのも、そんなにバカげたことじゃないような気がするなあ」
「じゃあ聞くが」修太郎さんが姉貴のほうへ体を向けた。「若いときの苦労は買ってでもせよ、なんて言うけどさ、苦労することが大事なんだとばかり、しなくてもいい苦労や地道な努力をしているうちに、気がつけば、人生の大半を失っていたなんてことになったらどうする? いや、世の中、そんなやつのほうがはるかに多いんだ。成功するやつは一握りだからな。失敗するだけならいいが、それによって自ら命を落とすやつが、この国にはどのくらいいると思う?」
姉貴は何も言わず考え込んでしまった。
「反発を招く言い方かもしれないが、『苦労を買う』んじゃなく、『金で苦労をしないことを買う』ということも必要なんじゃないか? 日本人は、なんでもかんでも自分でやろうとするやつが多いし、それがすごいことなんだと思っている。そうじゃなくて、人に任せられることはどんどん任せて、自分は自分にできることだけをやればいい、第一段階を楽にスルーできれば、さっさと次のステップに移ってさらにハイレベルのことに着手できる。限られた人生、常人では到達できないステージに立つことも可能だ。そして、そうなるためには金の助けが必要なことも多い。すぐ金の話をするのは品がない、なんて言っている場合じゃないんだよ、日本人は」
そこまで一気にしゃべった修太郎さんは、カナさんに向き直った。「どうだカナちゃん。この考え、間違っていると思うかい?」
カナさんはじっとウエディングドレスを見ていたけれど、やがて、まるでドレスの上に最愛の人がいるかのように優しく微笑んだ。
「私にはわかりません」カナさんは微笑みを崩さない。「でも、やってみたいと思ったことだけは、やってみようと思います」
「やってみたいと思ったこと、か」修太郎さんが満足そうな顔をする。「そこだよ、ポイントは。すべてそこに集約できると言ってもいいかもな」修太郎さんがキャシー号のエンジンをかける。二度三度、アクセルをふかした。「さあて、アクビの出る講義の時間は終わりだ。立石氏の次の面接へ行く前に、カナちゃんの服を調達するぞ。静香、途中によさげな店があれば教えてくれ。立石氏は次に行きたい会社を調べていてくれよ」
修太郎さんがゆっくりとキャシー号を走らせた。街路樹の立ち並ぶ道路には、オシャレな店も並んでいる。姉貴はせわしげに首を動かして適当な店を探した。
そのとき、僕はふと修太郎さんの後ろ姿が気になった。修太郎さんは口笛を吹きながらキャシー号を走らせている。カナさんの服を調達するために。でも、全然店をチェックする様子はない。もちろん車を運転しているからあまり回りを見ることができないし、姉貴に任せているから安心しているのかもしれないけれど。
僕は菜々実に目を向けた。キャシー号に個性的なひまわりの絵を描いた画家は窓の外を指さして「あそこがいいんじゃない? あの店、オシャレな服を売ってそう」なんてはしゃいでいる。カナさんの服選びは姉貴と菜々実に任せておけばだいじょうぶだろう。僕はシートに深々と体をあずけて息を吐いた。
「ちょっと修太郎。さっきいい店があったじゃない? 停めてくれればよかったのに」姉貴が唇を尖らせた。「とりあえず中に入ってみないと服が選べないじゃない」
「一通りこの辺りを回ってみるから目星をつけていてくれ。後でまた戻ればいい」修太郎さんは迷わずキャシー号を走らせた。
交差点に入る。角を曲がったキャシー号は相変わらずゆっくりと走り続けている。後続車がクラクションを鳴らしながら追い抜いていく。横に並んだとき、キャシー号のボディに描かれたひまわりを見た向こうの運転者がぎょっとした顔をする。それを見るのがちょっと楽しい。
「あの」カナさんが細い声を漏らした。修太郎さんの背中を見る。「私、やっぱりあの人とがんばってみようと思います」
「ええっ!」「ええっ!」「ええっ!」
キャシー号の乗客の素っ頓狂なハーモニーが車内に響き渡った。もちろん僕もその一端を担っている。
「あの人って、まさか結婚するつもりだった人のことよね?」姉貴がおそるおそる尋ねる。「借金があるのに、それを式の前日まで内緒にしていた男」
「はい、その男のことです」カナさんが薄く笑う。
「ちょ、ちょっと待ってよ。どうして急に」姉貴があわてて修太郎さんの肩に手を置いた。「修太郎、なんとか言ってよ」
修太郎さんは、ちらと横目を姉貴の顔に走らせた。が、運転を続けたままクスリと笑う。「そう言うと思った」
「は? そう言うと思ったって、そんな」姉貴が驚きに目を見開く。「でも、あんなにカナさんの結婚相手のことを非難していたじゃない? それどころか、広島行きだって進めていたし、服だって買ってあげるって」
「こうなることくらい、ずっと前にわかってたよ」修太郎さんは、相変わらず涼しげな顔で運転を続ける。
「嘘でしょ、そんな……どうしてよ」
「考えても見ろ。結婚をきっぱりと諦めたのなら、なぜウエディングドレスを脱ごうとしない? そんなもん、さっさと脱いで別の服に着替えるはずだろ」
「だから、それは服を買うお金が」
「金くらい俺たちから借りればすむことだろ」修太郎さんが姉貴の言葉をさえぎる。「本気でドレスを脱ぎたいのなら、それくらいして当然だよ。お前ならどうだ、静香? 同じ立場にあったとして、我慢してドレスを着ているか? 金を借りられる人間がいたら、その好意に甘えないか?」
「あ、それは」姉貴がアゴに手を当てて考える。「まあ、そうね。あたしだったら、そうするわね。一刻もはやくドレスを脱ぎたいから」
「そこだよ。結婚を取りやめたのに、そのままウエディングドレスを着ているほど辛いものはない。ものすごい苦痛だろうな。だから、ソッコーで脱いでしまいたいよな」修太郎さんが、もう一人、同意を求めたいと思ったのか、あるいは緊張感を緩和するためのクッションを入れたかったのか、菜々実に問いかけの目を向けた。
「あ、あたしも同じです」菜々実がちらと僕の顔を見る。「あたしも脱ぐと思います。どんな手段を使っても」
「どんな手段を使っても」立石氏がボソリとつぶやく。「それはまるで下着でいてもかまわない、見たいのなら見ればいいとでもいうような」
「だから、立石さんは就職情報誌とにらめっこしていなさい!」姉貴が声を荒げた。
「結局、さっきカナちゃんが言った『やってみたいと思ったことをやる』というのは、このことだったのさ。そのことに、カナちゃん自身がやっと気づいたってわけだ」
「じゃあ、カナさんは本当は逃げ出したくなかったってこと?」と姉貴。
「それは違うな」
「じゃあ、あたしたちに背中を押してもらいたかったってこと? 気を取り直して結婚しろって」
「それも違う」修太郎さんが顔の横で左手を振った。「むしろ俺たちは彼女に逆のことを勧めていたわけだ。結婚なんかやめて新しい人生を送れ、と。背中を押すどころかこっちへ引き寄せていたわけだ」
「じゃあ、なんでよ」姉貴がわけがわからないというように首を振る。
「カナちゃんが式場を逃げ出したのは、精神的に壊れかけていたからだったと思う。式の時間が近づくにつれて感情が大きく膨らんできた。それがとうとう爆発しそうになって、気がつけば式場を飛び出していたんだと思う。だが、すぐに正気に戻った。大変なことをしたと思ったんじゃないかな?」
修太郎さんがカナさんの反応を待つ。カナさんは、はい、と小さな声で答えた。
「だが、『今の脱走はナシね』なんて笑顔で済ませられるものじゃないだろ。だから、彼女は悩んだ。迷った。迷いながら逃げ、迷いながら俺たちの車に乗り、そして、迷いながらここまで来たんだ。服を買うことも迷っていたんだよ」
カナさんがコクリとうなずいた。
「だから、彼女はあえて自分にプレッシャーを与えたんだ。結論を出すためにな。他からの誘惑に負けないようなら、安易な逃げ道を絶つことができるようなら、彼に対する自分の気持ちを貫いていけると」
「なるほど、そういうことだったのね」姉貴がため息をつく。「じゃあ、本当はまだドレスを脱ぎたくなかったのね」
「俺がカナちゃんにドレスを脱がなきゃな、って言ったとき、カナちゃんは数秒間、無言だった。即答しなかった。これ以上言わなくても、それがどういうことかわかるだろ?」修太郎さんがニヤリとする。「数秒間の沈黙ってのは大きいぞお。特に気持ちを伝える上での数秒間ってのはな。相手にいろいろと考える時間を与えるからな」
「じゃあ、さっきの合理主義的な持論展開も、カナさんの本当の気持ちを引き出すための演技だったの?」
「まあ、あれは本気半分、冗談半分ってとこかな」修太郎さんが手をひらひらと振る。「どっちにしても、そーんな面倒くさいことをいちいち考えて生きていないよ、俺は」
僕はあっけにとられていた。それは、カナさんの本当の気持ちを知ったからじゃない。この男、失礼、この修太郎さんという破天荒な男が、そこまで考えているとは夢にも思わなかったからだ。どうせ修太郎さんのことだ、カナちゃんを広島に連れていって遊び仲間を増やすくらいのことしか考えていないんじゃないかと思っていた。
悔しいけど、僕にはカナさんの気持ちがわからなかった。女心、男女の機微のことなんて、僕にわかるはずがない。でも、僕はカナさんの表面的な部分しか見ていなかったと思う。目に見える部分だけ。
僕は、どこかのマンガで読んだことがある文章を思い出した。『優雅に泳ぐ白鳥も水面下では激しく足を動かしている』っていうフレーズ。あれと同じだ。キャシー号に乗ってからのカナさんは、次第に明るさを取り戻してきた。笑顔さえ見ることができた。だから僕は「カナさん、広島で楽しく暮らすことができればいいな」なんてお気楽なことしか考えていなかった。カナさんが無理やり水面下に押し沈めている悲しさや苦しさに気がつかなかった。
まいったな。
思わず苦笑する。顔を上げて修太郎さんの背中を盗み見た。そして、もう一度心の中でつぶやく。
まいったな。
「けっこう何でもあるスーパーだな」庄三さんが満足そうな顔をする。「昌枝と二人で食料品売り場に行くと、昆布巻きの試食をやっていてな。その美味いことといったらなかったぞ。わしはそのあとウインナーの試食をしたのだが、昌枝はいらんと抜かしおった。あんな美味いウインナーを。まずはそこで揉めたんだ」
もう何やってんだか。僕は老人二人が試食コーナーで揉めている光景を想像して憂うつになった。
「食料品売り場の隣りは電化製品があってな。マッサージ器のお試しコーナーをちょっとばかし冷やかしてやったんだ。肩が軽くなったわい。あまりに気持ちがいいので思わずウトウトしかけたら、昌枝のやつ頭を叩きおった。まったく信じられんわい」
「ペットコーナーでワンちゃんも見たじゃありませんか」昌枝さんが庄三さんの話をはぐらかすように話題を変えた。
「そうだった。ポイヌードルがかわいかったな」庄三さんが首をかしげる。「あの犬、ラーメンが好きなのかな」
「トイプードルのことね」菜々実がすかざず訂正する。「あたしも大好き」
「俺のチャッピーのほうがかわいいよ」卓也が話に参加する。
「仲がいいんですね、お爺さんたち」カナさんがうれしそうな寂しそうな、それでいてちょっぴり悲しそうな顔になる。「庄三さんと昌枝さん、さっき手をつないで戻ってきましたよね。お年を召しても手をつないで歩けるなんて、とっても素敵ですね。うらやましいな」
修太郎さんがじっとカナさんの顔を見ていたけれど、やがて片頬を上げて笑った。「面白おかしく生きているのさ。爺さんたちは」
「ううん、ものすごく幸せなんだと思います」カナさんが修太郎さんの顔を真っ直ぐに見る。「あたしにはわかります」
カナさんの視線を真っ向から受け止めながらも、修太郎さんはニヤケた顔を保っている。「そうかな。もしかしたら、おそろいのパンツとか穿いているかもしれないぜ」
「なぜそれを知っているんだ?」修太郎さんの言葉を耳にした庄三さんが不思議そうな顔をする。「おそろいの毛糸のパンツだ」
もはや言うことはない。僕たちは別の話題を探そうと努力する。
「夏はちょっと暑いですが」昌枝さんがとどめの一発をくれてからお茶を飲んだ。
「暑いのなら、ホットな茶はやめて冷えた麦茶にしなよ」修太郎さんが呆れ顔になる。「だいたい、なんであんた、そんなにしょっちゅう茶を飲めるんだ? よく腹の中に入るな」
「私、お茶ならとことん飲めるのです」昌枝さんが淡々とした口調で言う。横で庄三さんがとことん、とことんだ、と相槌を打つ。「おそらく三リットルくらいは貯め込むことができる場所が設けられているのだと思います。でもこの体質を、私は遺伝だとは思いません」
遺伝なわけがない、そんなの聞いたことがないわ、ともはや悲鳴に近い声を上げる姉貴。
「わかったわかった。もういいから次へ行こう」修太郎さんがその場を収束させる。「あんたらをあやしながら立石氏の職探しをするのは至難の業だな。花火大会までにエネルギーを使い果たしそうだよ」
あの人たちプラス修太郎さんを相手にする僕のほうが、もっとエネルギーを使いそうなんですけど。僕はそっと息を吐いた。
「ところで、カナちゃん」修太郎さんがカナさんのドレスを指さす。「いい加減にそのドレス、脱がなきゃな。俺たちと一緒に行動するのなら、そいつは邪魔だ」
「そうね、目立ちすぎるわねえ」姉貴が同意する。「どこかで服を調達しなきゃ」
カナさんは、自分を包んでいるウエディングドレスにゆっくりと視線を落とした。数秒後、苦笑いしながら顔を上げた。「でも、お金が。すべて置いてきちゃったから、一文無しです」
「そのくらいは俺が出してやるよ」修太郎さんは微笑んだあと、真面目な顔になった。「世の中は金だというやつがいるが、俺はその意見に、ある意味賛成だ。そいつらの常套文句、知ってるよな。『金がなけりゃ、何にもできない』とか『愛があれば金なんて? そんな甘ったれたことでは生きていけない』とか。俺はそんなベタなセリフはどうでもいいんだけどな、いざというとき、金が幸せを運んできてくれることも多いんだ。俺がカナちゃんに服をプレゼントしたり、あるいは広島に行ってから行動を起こすための初期費用を出してやったりしたとして、それで次のステップに上がることができれば、金は役に立ったと言うべきだろ。なんでもかんでもゼロから築き上げてのし上がっていかなきゃならないことはないんだ。苦労すればするほど、絶対的なタフさは得られるかもしれないけどさ、苦労しなくてもいいのなら、さっさと次のステップに上がっちまって、そこでがんばったほうがいいってこともある。いわば人生の逃げ切り型だ。人の寿命なんて、たかが百年足らずだ。ボヤボヤしてたら足腰立たない年齢になっちまってたなんていうんじゃ、シャレにならない。二百年生きる予定のあるやつは、バンバン下積みすればいけどな」
「うーん、あたしは二百年生きる予定はないけど」姉貴が腕組みする。「修太郎の言っていることはわかるけどさあ、やっぱそれだけじゃないような気がするんだよね。なんかうまく言えないけど、地道な努力ってのも、そんなにバカげたことじゃないような気がするなあ」
「じゃあ聞くが」修太郎さんが姉貴のほうへ体を向けた。「若いときの苦労は買ってでもせよ、なんて言うけどさ、苦労することが大事なんだとばかり、しなくてもいい苦労や地道な努力をしているうちに、気がつけば、人生の大半を失っていたなんてことになったらどうする? いや、世の中、そんなやつのほうがはるかに多いんだ。成功するやつは一握りだからな。失敗するだけならいいが、それによって自ら命を落とすやつが、この国にはどのくらいいると思う?」
姉貴は何も言わず考え込んでしまった。
「反発を招く言い方かもしれないが、『苦労を買う』んじゃなく、『金で苦労をしないことを買う』ということも必要なんじゃないか? 日本人は、なんでもかんでも自分でやろうとするやつが多いし、それがすごいことなんだと思っている。そうじゃなくて、人に任せられることはどんどん任せて、自分は自分にできることだけをやればいい、第一段階を楽にスルーできれば、さっさと次のステップに移ってさらにハイレベルのことに着手できる。限られた人生、常人では到達できないステージに立つことも可能だ。そして、そうなるためには金の助けが必要なことも多い。すぐ金の話をするのは品がない、なんて言っている場合じゃないんだよ、日本人は」
そこまで一気にしゃべった修太郎さんは、カナさんに向き直った。「どうだカナちゃん。この考え、間違っていると思うかい?」
カナさんはじっとウエディングドレスを見ていたけれど、やがて、まるでドレスの上に最愛の人がいるかのように優しく微笑んだ。
「私にはわかりません」カナさんは微笑みを崩さない。「でも、やってみたいと思ったことだけは、やってみようと思います」
「やってみたいと思ったこと、か」修太郎さんが満足そうな顔をする。「そこだよ、ポイントは。すべてそこに集約できると言ってもいいかもな」修太郎さんがキャシー号のエンジンをかける。二度三度、アクセルをふかした。「さあて、アクビの出る講義の時間は終わりだ。立石氏の次の面接へ行く前に、カナちゃんの服を調達するぞ。静香、途中によさげな店があれば教えてくれ。立石氏は次に行きたい会社を調べていてくれよ」
修太郎さんがゆっくりとキャシー号を走らせた。街路樹の立ち並ぶ道路には、オシャレな店も並んでいる。姉貴はせわしげに首を動かして適当な店を探した。
そのとき、僕はふと修太郎さんの後ろ姿が気になった。修太郎さんは口笛を吹きながらキャシー号を走らせている。カナさんの服を調達するために。でも、全然店をチェックする様子はない。もちろん車を運転しているからあまり回りを見ることができないし、姉貴に任せているから安心しているのかもしれないけれど。
僕は菜々実に目を向けた。キャシー号に個性的なひまわりの絵を描いた画家は窓の外を指さして「あそこがいいんじゃない? あの店、オシャレな服を売ってそう」なんてはしゃいでいる。カナさんの服選びは姉貴と菜々実に任せておけばだいじょうぶだろう。僕はシートに深々と体をあずけて息を吐いた。
「ちょっと修太郎。さっきいい店があったじゃない? 停めてくれればよかったのに」姉貴が唇を尖らせた。「とりあえず中に入ってみないと服が選べないじゃない」
「一通りこの辺りを回ってみるから目星をつけていてくれ。後でまた戻ればいい」修太郎さんは迷わずキャシー号を走らせた。
交差点に入る。角を曲がったキャシー号は相変わらずゆっくりと走り続けている。後続車がクラクションを鳴らしながら追い抜いていく。横に並んだとき、キャシー号のボディに描かれたひまわりを見た向こうの運転者がぎょっとした顔をする。それを見るのがちょっと楽しい。
「あの」カナさんが細い声を漏らした。修太郎さんの背中を見る。「私、やっぱりあの人とがんばってみようと思います」
「ええっ!」「ええっ!」「ええっ!」
キャシー号の乗客の素っ頓狂なハーモニーが車内に響き渡った。もちろん僕もその一端を担っている。
「あの人って、まさか結婚するつもりだった人のことよね?」姉貴がおそるおそる尋ねる。「借金があるのに、それを式の前日まで内緒にしていた男」
「はい、その男のことです」カナさんが薄く笑う。
「ちょ、ちょっと待ってよ。どうして急に」姉貴があわてて修太郎さんの肩に手を置いた。「修太郎、なんとか言ってよ」
修太郎さんは、ちらと横目を姉貴の顔に走らせた。が、運転を続けたままクスリと笑う。「そう言うと思った」
「は? そう言うと思ったって、そんな」姉貴が驚きに目を見開く。「でも、あんなにカナさんの結婚相手のことを非難していたじゃない? それどころか、広島行きだって進めていたし、服だって買ってあげるって」
「こうなることくらい、ずっと前にわかってたよ」修太郎さんは、相変わらず涼しげな顔で運転を続ける。
「嘘でしょ、そんな……どうしてよ」
「考えても見ろ。結婚をきっぱりと諦めたのなら、なぜウエディングドレスを脱ごうとしない? そんなもん、さっさと脱いで別の服に着替えるはずだろ」
「だから、それは服を買うお金が」
「金くらい俺たちから借りればすむことだろ」修太郎さんが姉貴の言葉をさえぎる。「本気でドレスを脱ぎたいのなら、それくらいして当然だよ。お前ならどうだ、静香? 同じ立場にあったとして、我慢してドレスを着ているか? 金を借りられる人間がいたら、その好意に甘えないか?」
「あ、それは」姉貴がアゴに手を当てて考える。「まあ、そうね。あたしだったら、そうするわね。一刻もはやくドレスを脱ぎたいから」
「そこだよ。結婚を取りやめたのに、そのままウエディングドレスを着ているほど辛いものはない。ものすごい苦痛だろうな。だから、ソッコーで脱いでしまいたいよな」修太郎さんが、もう一人、同意を求めたいと思ったのか、あるいは緊張感を緩和するためのクッションを入れたかったのか、菜々実に問いかけの目を向けた。
「あ、あたしも同じです」菜々実がちらと僕の顔を見る。「あたしも脱ぐと思います。どんな手段を使っても」
「どんな手段を使っても」立石氏がボソリとつぶやく。「それはまるで下着でいてもかまわない、見たいのなら見ればいいとでもいうような」
「だから、立石さんは就職情報誌とにらめっこしていなさい!」姉貴が声を荒げた。
「結局、さっきカナちゃんが言った『やってみたいと思ったことをやる』というのは、このことだったのさ。そのことに、カナちゃん自身がやっと気づいたってわけだ」
「じゃあ、カナさんは本当は逃げ出したくなかったってこと?」と姉貴。
「それは違うな」
「じゃあ、あたしたちに背中を押してもらいたかったってこと? 気を取り直して結婚しろって」
「それも違う」修太郎さんが顔の横で左手を振った。「むしろ俺たちは彼女に逆のことを勧めていたわけだ。結婚なんかやめて新しい人生を送れ、と。背中を押すどころかこっちへ引き寄せていたわけだ」
「じゃあ、なんでよ」姉貴がわけがわからないというように首を振る。
「カナちゃんが式場を逃げ出したのは、精神的に壊れかけていたからだったと思う。式の時間が近づくにつれて感情が大きく膨らんできた。それがとうとう爆発しそうになって、気がつけば式場を飛び出していたんだと思う。だが、すぐに正気に戻った。大変なことをしたと思ったんじゃないかな?」
修太郎さんがカナさんの反応を待つ。カナさんは、はい、と小さな声で答えた。
「だが、『今の脱走はナシね』なんて笑顔で済ませられるものじゃないだろ。だから、彼女は悩んだ。迷った。迷いながら逃げ、迷いながら俺たちの車に乗り、そして、迷いながらここまで来たんだ。服を買うことも迷っていたんだよ」
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「だから、彼女はあえて自分にプレッシャーを与えたんだ。結論を出すためにな。他からの誘惑に負けないようなら、安易な逃げ道を絶つことができるようなら、彼に対する自分の気持ちを貫いていけると」
「なるほど、そういうことだったのね」姉貴がため息をつく。「じゃあ、本当はまだドレスを脱ぎたくなかったのね」
「俺がカナちゃんにドレスを脱がなきゃな、って言ったとき、カナちゃんは数秒間、無言だった。即答しなかった。これ以上言わなくても、それがどういうことかわかるだろ?」修太郎さんがニヤリとする。「数秒間の沈黙ってのは大きいぞお。特に気持ちを伝える上での数秒間ってのはな。相手にいろいろと考える時間を与えるからな」
「じゃあ、さっきの合理主義的な持論展開も、カナさんの本当の気持ちを引き出すための演技だったの?」
「まあ、あれは本気半分、冗談半分ってとこかな」修太郎さんが手をひらひらと振る。「どっちにしても、そーんな面倒くさいことをいちいち考えて生きていないよ、俺は」
僕はあっけにとられていた。それは、カナさんの本当の気持ちを知ったからじゃない。この男、失礼、この修太郎さんという破天荒な男が、そこまで考えているとは夢にも思わなかったからだ。どうせ修太郎さんのことだ、カナちゃんを広島に連れていって遊び仲間を増やすくらいのことしか考えていないんじゃないかと思っていた。
悔しいけど、僕にはカナさんの気持ちがわからなかった。女心、男女の機微のことなんて、僕にわかるはずがない。でも、僕はカナさんの表面的な部分しか見ていなかったと思う。目に見える部分だけ。
僕は、どこかのマンガで読んだことがある文章を思い出した。『優雅に泳ぐ白鳥も水面下では激しく足を動かしている』っていうフレーズ。あれと同じだ。キャシー号に乗ってからのカナさんは、次第に明るさを取り戻してきた。笑顔さえ見ることができた。だから僕は「カナさん、広島で楽しく暮らすことができればいいな」なんてお気楽なことしか考えていなかった。カナさんが無理やり水面下に押し沈めている悲しさや苦しさに気がつかなかった。
まいったな。
思わず苦笑する。顔を上げて修太郎さんの背中を盗み見た。そして、もう一度心の中でつぶやく。
まいったな。
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穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
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