11 / 16
第一章 影走
第七話 噂の手前で止まる
しおりを挟む
昼の光が、霧の薄い街道に滲んでいた。
朝の名残はもう遠いはずなのに、地面には冷えが残っている。湿り気ではない。霜の前触れみたいな乾いた冷たさが、足首からじわりと上がってくる。枯草が擦れ合う音は鈍く、風は軽いのに、息の奥だけが薄くなる。
白黎は歩く。
歩けている。足取りは乱れていない。乱れていないからこそ、妙に怖い。整えたまま崩れる、という崩れ方があるのだと身体が知ってしまった。
半歩横には燕秋。前を見たまま歩いている。視線の置き方が、道だけではなく、人の「逃げ道」まで読んでいる。置いていかない速さで、けれど寄り添いすぎない速さで。
少し後ろに蘇雨。追い越さず、遅れすぎず、息の幅だけで距離を保ってくる。近いのに、手を出さない。手を出さないのに、離れもしない。香が薄く揺れて、白黎の喉の奥のざらつきを、ほんの少しだけ落ち着かせた。
白黎は、疑問が形になって落ちてくるのを感じた。
知らないまま歩くのは、怖い。怖さの形を知らないまま踏み込むのは、もっと怖い。
だから、言葉を選んで口にする。
「……蘇雨。清談派とは、何をする門派なのですか」
蘇雨は歩調を崩さず、淡々と答えた。
「正派三門の一つです。東域の学都に根を張り、治癒と修養を担います」
『正派』。『三門』。言葉の塊が、まだ白黎の中で噛み砕けない。
白黎が首を僅かに傾けると、蘇雨はその仕草を読んだらしい。声の温度を変えず、言い換えを足した。
「剣で片づける前に、人が『戻れる状態』を作る。それが清談派の役目です。……戻れる余地を、先に残します」
「戻れる……余地」
蘇雨が続けようとした、その前に。
「要するに――」燕秋が一度だけ言葉を挟んだ。「白黎が斬らずに済む形を作るってことだ」
蘇雨は否定しない。淡く頷くだけだ。
「はい。……そのために、脈を取り、息を整え、喉をゆるめます。『痛い』と言えるところまで戻す。そこから先は、本人が選べるようにする」
白黎の胸の奥に、前の村が刺さる。腫れた腕、抜けた力、歪んだ家の骨。血は少ないのに、抵抗した痕だけが残っていた。村人は声を出さない。痛みをごまかすのではない。出せないのだ。
――逆らえば、もう一度「同じこと」が起きる。だから村は、息ごと小さくしていた。
白黎は丁寧に問う。
「戻れる状態、とは……具体に言うと、何ですか」
蘇雨は短く頷き、具体に落とした。
「まず脈です。手首で脈を取り、内功の滞りを見る。胸が固まって息が浅いなら、呼吸を整える。喉の筋がこわばって声が出ないなら、筋をゆるめる。必要があれば按で押し、鍼で通し、湯で温める」
言葉は淡いのに、やっていることは手順だった。手順は白黎にとって掴みやすい。
白黎は続ける。
「香は、そのためのものですか」
「薬香です。眠らせるためではありません。息が入るように、吐けるようにする。吐けるようになれば、声は出やすい。……あなたがたの言い方なら、『順』を戻す匂いです」
燕秋が鼻で小さく笑う。
「悪くない言い方だね、蘇雨」
蘇雨は表情を変えずに、ただ一つ頷いた。
「そう言う方が、伝わると思いました」
息。脈。喉。筋。
抽象が消えると、白黎の中の余計な想像が減る。想像が減ると、怖さの輪郭が増えない。増えないぶん、足が前へ出る。
白黎は、次の塊を拾う。
「……正派、という言葉が分かりません。正派とは何ですか」
燕秋が前を向いたまま答えた。声は軽いのに、言葉は短い。刃の形にならない。
「江湖で『表の揉め事』を引き受けてきた門派だ。妖や賊を討ち、争いを止め、掟を残す。――伝統として、武林を守る側に立ってきた」
白黎は頷ききれず、もう一段だけ丁寧に問う。
「その正派は……どこですか」
「三つ。天衡流、照剣門、それから清談派」
燕秋は空に指で線を引く。図ではない。位置だけを置く仕草だ。
「天衡流は江湖の中央。会盟地を持って、全体の秩序をまとめる役だ。――当主は天衡宗允」
「照剣門は北方高原。剣で裁く。決めたら抜く。速い。――当主は照剣烈真」
そこで蘇雨が、淡く補う。
「清談派は東域学都。治癒と修養を担います。――当主は清談月静」
白黎は一つ息を整える。名前が出ると、世界が少し固くなる。固くなるが、輪郭ができる。
「他の門派はありますか」
「中立が二つ、邪道が一つ。合わせて六つだ」
六つ。数が揃うと、頭の中に並べる場所ができた。
蘇雨が静かに言う。
「中立は、正派の掟を借りません。従属もしない。邪道は、掟そのものを拒みます」
「中立とは、どういう立場なのですか。どこにも属さない……のですか」
「属さない、じゃない」燕秋が短く切る。「均衡に立つ」
そして、名を置く。置いて、それ以上を盛らない。
「流雲衆。街道と都市を巡って情報を集める。統括は流雲恒一」
「無縁会。破門や追放の寄せ集めで、全域に潜る。象徴は無縁老」
白黎の喉が小さく鳴った。潜る、という言葉が、霧に似ている。見えないのに、確かにある。
「邪道は……」
燕秋の声が、ほんの僅かだけ落ちる。
「玄影。西域の辺境、廃村や焼け跡に根を張る。奪われた者が集まった。強さ=生存を信条にする。――首領は玄影破軍」
玄影。
その名を聞いた瞬間、白黎の胸の奥で、別の記憶が擦れた。
分かりすぎる。分かった瞬間、身体が先に出る。
火でも霧でもない。乾いた革の匂い。奪う、という言葉の温度。淡々とした宣言。
——必要なだけ奪う。示さなきゃ次がある。
鴉梁。
顔の輪郭は曖昧なのに、声の硬さだけが残っている。優しくない。怒ってもいない。だからこそ怖い。怖いのに、妙に理解できてしまう気がするのが、もっと怖い。
白黎は反射的に符袋へ指を寄せかけ、止めた。触れれば落ち着く。落ち着けば、今の『思い出し』が形になってしまう。
形になる前に、息を整える。
「……敵、なのですか」
「敵にも味方にもなる」燕秋は淡々と言った。「だから厄介だ。……白黎、そこで結論を急ぐな。急ぐほど、引っ張られる」
白黎は小さく頷く。急がない。今は、置く。
蘇雨が、静かに付け足した。
「清談派は……玄影を憎む者もいます。けれど、救えるなら救いたい、と考える者もいる。憎しみを捨てられない人間も、救いを捨てられない人間も、同じようにいます」
憎む。救いたい。
矛盾が、そのまま置かれる。置かれた矛盾は、白黎の中で勝手に膨らまない。今はそれでいい。
そのとき、風向きが変わった。
霜の冷えに、焦げた匂いが混じる。紙が焼ける匂いではない。毛が焦げ、霧が熱を帯びる匂い。
白黎の肌がひりつく。空気が薄くなる。霧の縁が、薄いのに舌の上にざらつく。
燕秋が足を止めずに言った。
「……来る」
蘇雨の足音が薄くなった。消えたのではない。息が沈んだ。戦う側の呼吸になると、そう聞こえるのだと白黎は覚えてしまった。
白黎は丁寧に確認する。
「……霧狐焔《むこえん》、でしょうか」
「群れだ。数がいる」
群れ。
赤霄原では一匹だった。だが霧は味を覚える。人の匂いを覚える。戻ってくる。今度は狩りの距離で。
燕秋の言葉が短く落ちる。
「白黎。先に動くな。霧の中は、先に動いた方が負ける。……目は端。鼻で熱を拾え。熱い方が、本体の寄る位置だ」
燕秋が息を吐く。白黎も同じテンポで吐く。
合図じゃない。ただ、並ぶための癖だ。
白黎は剣の柄に手を置く。抜かない。抜かないまま、息を整える。息が先。刃は後。
蘇雨が小さく言う。
「霧の流れが速い。足元を取ります」
「取らせない」燕秋が返す。「順で取らせない」
説明ではなく手順。
「蘇雨、後ろを薄くして道を残せ。符でいい。薄く、長く」
「はい。……香は切らしません」
「白黎、真ん中を見るな。端だ。端の揺れで来る。来たら『置け』。当てに行くな」
「承知しました」
霧がざわりと立った。
赤い光が二つ、三つ。九尾の影が跳ぶ。霧の奥で同じ形が重なって見える。——群れ。
最初の一匹が飛び込む。焦げた尾の匂いが、刃の届く距離で濃くなる。
白黎が抜く。
刃は派手に走らない。最小限。短く置く。赤霄原の時より線が短い。短い分、迷いが少ない。
浅い。致命ではない。だが裂けた。
霧狐焔が甲高く鳴き、次が横から入る。尾が薙ぐ。風が頬を裂き、髪が一房だけ持っていかれる。白黎の身体が反射で前に出そうになる。
囲まれる。囲まれれば終わる。霧の中は距離が嘘をつく。半歩が一歩に化ける。
その瞬間、燕秋の吐息が落ちた。長く、一定の吐息。身体が合図だと分かる吐息。
「白黎」
名だけ。
白黎の足が止まる。止められる。止めたまま刃先だけが軌道を変え、尾の先を紙を切るように落とす。尾の火が一瞬だけ弱まり、匂いが薄くなる。
そこで蘇雨が一歩だけ踏む。
袖の内から小さな符を滑らせ、指で弾く。霧を押し返すのではない。霧の流れを一息だけ割る札。割れた隙間に、道が細く残る――はずだった。
風が一段、横から来た。符が半寸だけ流れ、霧の裂け目が『薄い』まま残る。
視界は開く。だが足りない。開いた真ん中が、誘いになる。
白黎の目が反射で真ん中へ寄りかける。寄れば、引かれる。
燕秋の吐息が落ちた。短く、強い吐息。合図というより、止めるための息。
「白黎」
名だけ。
白黎は視線を端へ戻す。戻せる。戻したまま、刃先だけを置き直す。端の揺れ――霧の厚みが一瞬、歪む。
遅れた一息を、燕秋が刃に換える。踏み込みは軽いのに、地面が沈む。内功が足に落ちる気配。石が鳴らず、土だけが押し潰れる。
燕秋は斬らない。掌で押す。脇腹の『気』の溜まりを外し、霧狐焔の動きが鈍る。尾が遅れ、群れの間合いが半拍ずれる。
白黎は、その半拍を見逃さない。
刃が走る。短い。まっすぐ。尾の根元。群れの連携を断つ場所。
霧狐焔が崩れ、霧が乱れる。乱れた隙間から次が焦って飛び込む。焦げ臭さが、無秩序に濃くなる。
——焦った方が負ける。
燕秋が言う。
「来い。順番を渡せ」
白黎の喉が動く。息を整えて答える。
「……はい。僕が受けます」
『受ける』と言えた。突っ込むのではない。受けて返す。
白黎は一歩、わざと遅れる。尾が届く距離に入れた瞬間、刃を置く。置いて当てる。致命ではない。足。踏み込みの起点。
霧狐焔が転ぶ。霧が跳ね、地面に黒い粒が散る。燃え残った毛が転がって、すぐ霧に溶けた。
蘇雨の符がもう一枚走る。今度は低く、地を這うように。霧が薄くなり、道が残る。逃げ道ではない。追われないための線。
「……通りました」蘇雨が小さく言った。「今なら、背を取られません」
「十分」燕秋が返す。「蘇雨、そのまま維持」
燕秋が最後の線を入れる。派手に裂かない。霧を落とす。刃を見せるのではなく、霧の『足』を奪う。
霧狐焔の身体が黒く崩れ、霧に溶けた。
残りの気配が、すっと引く。群れは賢い。勝てないと知れば餌を変える。
静寂が戻る。
戻った静寂は欠けていない。普通の静けさだ。白黎は遅れて、自分の心臓の音を聞いた。強く脈打つ音。生きている音。
白黎は剣を収め、丁寧に息を吐く。
「……終わりましたか」
燕秋は前を見たまま答える。
「今の群れはな。……次は、向こうの腹次第だ」
蘇雨が袖を整えながら言った。
「霧が東へ逃げました。……村の方角です。匂いも、そちらに残っています」
白黎の視線が僅かに硬くなる。硬くなるが、足は止まらない。
「……霜灯村、ですね」
「そうだ。霜灯村」
丘を越えると、白い布が見えた。
家々の軒先に結ばれた白布。飾りではない。霧の夜に、家と家の境目を失わないための印だ。
さらに進むと、低い屋根が寄り合う影が、薄い靄の向こうに浮かぶ。村の入口には細い柱が一本。そこに白紙の小さな灯籠が吊られていて、昼なのに火が入っていた。
弱い灯が、冷えた空気の中で妙に目立つ。
霜の匂いが、ここから濃くなる。
白黎は小さく言う。
「……灯が、昼でも消えていません」
「必要がある土地だ」燕秋が答えた。「必要だから、つけてる。……消せない理由がある」
蘇雨は一歩も前へ出ないまま村を見た。香袋に指を添え、息の薄さを確かめるように。
「……霧は薄いのに、張りがあります。布も灯も、ただの習慣ではありませんね」
燕秋が頷く。
「先に何かが入ってる。だから張ってる。……張ってるってことは、まだ破れてない」
白黎は丁寧に問う。
「……入る前に、何を見ますか」
燕秋は言葉を刃にしない形で置いた。
「境目だ。灯の数、犬の声、護符の位置。――村が『いつもの順』で息をしているか」
「息ができてないなら、誰かが先に口を塞いでる。順を奪ってる。……そこで初めて、こちらが動く」
白黎は頷いた。
「承知しました」
霜灯村は、まだ壊れていない。
壊れていないからこそ、奪われる前の匂いがする。白い布が風に揺れ、昼の灯がかすかに瞬いた。霧の向こうで、村が輪郭を固めていく。
白黎の胸の奥で、乾いた革の匂いがもう一度だけ擦れる。
——必要なだけ奪う。示さなきゃ次がある。
声そのものは、はっきり思い出せない。けれど、硬さだけが残っている。怒りでも憎しみでもなく、削って残った硬さだ。
白黎は息を落とし、その硬さを『今は遠くに置く』。置けるようになっている自分に気づくのが、少し怖い。
それでも足は止まらない。
三人の足音だけが、村の入口へ吸われていく。
——この村に入れば、鴉梁の声の温度が、もう少し言葉になる気がした。
朝の名残はもう遠いはずなのに、地面には冷えが残っている。湿り気ではない。霜の前触れみたいな乾いた冷たさが、足首からじわりと上がってくる。枯草が擦れ合う音は鈍く、風は軽いのに、息の奥だけが薄くなる。
白黎は歩く。
歩けている。足取りは乱れていない。乱れていないからこそ、妙に怖い。整えたまま崩れる、という崩れ方があるのだと身体が知ってしまった。
半歩横には燕秋。前を見たまま歩いている。視線の置き方が、道だけではなく、人の「逃げ道」まで読んでいる。置いていかない速さで、けれど寄り添いすぎない速さで。
少し後ろに蘇雨。追い越さず、遅れすぎず、息の幅だけで距離を保ってくる。近いのに、手を出さない。手を出さないのに、離れもしない。香が薄く揺れて、白黎の喉の奥のざらつきを、ほんの少しだけ落ち着かせた。
白黎は、疑問が形になって落ちてくるのを感じた。
知らないまま歩くのは、怖い。怖さの形を知らないまま踏み込むのは、もっと怖い。
だから、言葉を選んで口にする。
「……蘇雨。清談派とは、何をする門派なのですか」
蘇雨は歩調を崩さず、淡々と答えた。
「正派三門の一つです。東域の学都に根を張り、治癒と修養を担います」
『正派』。『三門』。言葉の塊が、まだ白黎の中で噛み砕けない。
白黎が首を僅かに傾けると、蘇雨はその仕草を読んだらしい。声の温度を変えず、言い換えを足した。
「剣で片づける前に、人が『戻れる状態』を作る。それが清談派の役目です。……戻れる余地を、先に残します」
「戻れる……余地」
蘇雨が続けようとした、その前に。
「要するに――」燕秋が一度だけ言葉を挟んだ。「白黎が斬らずに済む形を作るってことだ」
蘇雨は否定しない。淡く頷くだけだ。
「はい。……そのために、脈を取り、息を整え、喉をゆるめます。『痛い』と言えるところまで戻す。そこから先は、本人が選べるようにする」
白黎の胸の奥に、前の村が刺さる。腫れた腕、抜けた力、歪んだ家の骨。血は少ないのに、抵抗した痕だけが残っていた。村人は声を出さない。痛みをごまかすのではない。出せないのだ。
――逆らえば、もう一度「同じこと」が起きる。だから村は、息ごと小さくしていた。
白黎は丁寧に問う。
「戻れる状態、とは……具体に言うと、何ですか」
蘇雨は短く頷き、具体に落とした。
「まず脈です。手首で脈を取り、内功の滞りを見る。胸が固まって息が浅いなら、呼吸を整える。喉の筋がこわばって声が出ないなら、筋をゆるめる。必要があれば按で押し、鍼で通し、湯で温める」
言葉は淡いのに、やっていることは手順だった。手順は白黎にとって掴みやすい。
白黎は続ける。
「香は、そのためのものですか」
「薬香です。眠らせるためではありません。息が入るように、吐けるようにする。吐けるようになれば、声は出やすい。……あなたがたの言い方なら、『順』を戻す匂いです」
燕秋が鼻で小さく笑う。
「悪くない言い方だね、蘇雨」
蘇雨は表情を変えずに、ただ一つ頷いた。
「そう言う方が、伝わると思いました」
息。脈。喉。筋。
抽象が消えると、白黎の中の余計な想像が減る。想像が減ると、怖さの輪郭が増えない。増えないぶん、足が前へ出る。
白黎は、次の塊を拾う。
「……正派、という言葉が分かりません。正派とは何ですか」
燕秋が前を向いたまま答えた。声は軽いのに、言葉は短い。刃の形にならない。
「江湖で『表の揉め事』を引き受けてきた門派だ。妖や賊を討ち、争いを止め、掟を残す。――伝統として、武林を守る側に立ってきた」
白黎は頷ききれず、もう一段だけ丁寧に問う。
「その正派は……どこですか」
「三つ。天衡流、照剣門、それから清談派」
燕秋は空に指で線を引く。図ではない。位置だけを置く仕草だ。
「天衡流は江湖の中央。会盟地を持って、全体の秩序をまとめる役だ。――当主は天衡宗允」
「照剣門は北方高原。剣で裁く。決めたら抜く。速い。――当主は照剣烈真」
そこで蘇雨が、淡く補う。
「清談派は東域学都。治癒と修養を担います。――当主は清談月静」
白黎は一つ息を整える。名前が出ると、世界が少し固くなる。固くなるが、輪郭ができる。
「他の門派はありますか」
「中立が二つ、邪道が一つ。合わせて六つだ」
六つ。数が揃うと、頭の中に並べる場所ができた。
蘇雨が静かに言う。
「中立は、正派の掟を借りません。従属もしない。邪道は、掟そのものを拒みます」
「中立とは、どういう立場なのですか。どこにも属さない……のですか」
「属さない、じゃない」燕秋が短く切る。「均衡に立つ」
そして、名を置く。置いて、それ以上を盛らない。
「流雲衆。街道と都市を巡って情報を集める。統括は流雲恒一」
「無縁会。破門や追放の寄せ集めで、全域に潜る。象徴は無縁老」
白黎の喉が小さく鳴った。潜る、という言葉が、霧に似ている。見えないのに、確かにある。
「邪道は……」
燕秋の声が、ほんの僅かだけ落ちる。
「玄影。西域の辺境、廃村や焼け跡に根を張る。奪われた者が集まった。強さ=生存を信条にする。――首領は玄影破軍」
玄影。
その名を聞いた瞬間、白黎の胸の奥で、別の記憶が擦れた。
分かりすぎる。分かった瞬間、身体が先に出る。
火でも霧でもない。乾いた革の匂い。奪う、という言葉の温度。淡々とした宣言。
——必要なだけ奪う。示さなきゃ次がある。
鴉梁。
顔の輪郭は曖昧なのに、声の硬さだけが残っている。優しくない。怒ってもいない。だからこそ怖い。怖いのに、妙に理解できてしまう気がするのが、もっと怖い。
白黎は反射的に符袋へ指を寄せかけ、止めた。触れれば落ち着く。落ち着けば、今の『思い出し』が形になってしまう。
形になる前に、息を整える。
「……敵、なのですか」
「敵にも味方にもなる」燕秋は淡々と言った。「だから厄介だ。……白黎、そこで結論を急ぐな。急ぐほど、引っ張られる」
白黎は小さく頷く。急がない。今は、置く。
蘇雨が、静かに付け足した。
「清談派は……玄影を憎む者もいます。けれど、救えるなら救いたい、と考える者もいる。憎しみを捨てられない人間も、救いを捨てられない人間も、同じようにいます」
憎む。救いたい。
矛盾が、そのまま置かれる。置かれた矛盾は、白黎の中で勝手に膨らまない。今はそれでいい。
そのとき、風向きが変わった。
霜の冷えに、焦げた匂いが混じる。紙が焼ける匂いではない。毛が焦げ、霧が熱を帯びる匂い。
白黎の肌がひりつく。空気が薄くなる。霧の縁が、薄いのに舌の上にざらつく。
燕秋が足を止めずに言った。
「……来る」
蘇雨の足音が薄くなった。消えたのではない。息が沈んだ。戦う側の呼吸になると、そう聞こえるのだと白黎は覚えてしまった。
白黎は丁寧に確認する。
「……霧狐焔《むこえん》、でしょうか」
「群れだ。数がいる」
群れ。
赤霄原では一匹だった。だが霧は味を覚える。人の匂いを覚える。戻ってくる。今度は狩りの距離で。
燕秋の言葉が短く落ちる。
「白黎。先に動くな。霧の中は、先に動いた方が負ける。……目は端。鼻で熱を拾え。熱い方が、本体の寄る位置だ」
燕秋が息を吐く。白黎も同じテンポで吐く。
合図じゃない。ただ、並ぶための癖だ。
白黎は剣の柄に手を置く。抜かない。抜かないまま、息を整える。息が先。刃は後。
蘇雨が小さく言う。
「霧の流れが速い。足元を取ります」
「取らせない」燕秋が返す。「順で取らせない」
説明ではなく手順。
「蘇雨、後ろを薄くして道を残せ。符でいい。薄く、長く」
「はい。……香は切らしません」
「白黎、真ん中を見るな。端だ。端の揺れで来る。来たら『置け』。当てに行くな」
「承知しました」
霧がざわりと立った。
赤い光が二つ、三つ。九尾の影が跳ぶ。霧の奥で同じ形が重なって見える。——群れ。
最初の一匹が飛び込む。焦げた尾の匂いが、刃の届く距離で濃くなる。
白黎が抜く。
刃は派手に走らない。最小限。短く置く。赤霄原の時より線が短い。短い分、迷いが少ない。
浅い。致命ではない。だが裂けた。
霧狐焔が甲高く鳴き、次が横から入る。尾が薙ぐ。風が頬を裂き、髪が一房だけ持っていかれる。白黎の身体が反射で前に出そうになる。
囲まれる。囲まれれば終わる。霧の中は距離が嘘をつく。半歩が一歩に化ける。
その瞬間、燕秋の吐息が落ちた。長く、一定の吐息。身体が合図だと分かる吐息。
「白黎」
名だけ。
白黎の足が止まる。止められる。止めたまま刃先だけが軌道を変え、尾の先を紙を切るように落とす。尾の火が一瞬だけ弱まり、匂いが薄くなる。
そこで蘇雨が一歩だけ踏む。
袖の内から小さな符を滑らせ、指で弾く。霧を押し返すのではない。霧の流れを一息だけ割る札。割れた隙間に、道が細く残る――はずだった。
風が一段、横から来た。符が半寸だけ流れ、霧の裂け目が『薄い』まま残る。
視界は開く。だが足りない。開いた真ん中が、誘いになる。
白黎の目が反射で真ん中へ寄りかける。寄れば、引かれる。
燕秋の吐息が落ちた。短く、強い吐息。合図というより、止めるための息。
「白黎」
名だけ。
白黎は視線を端へ戻す。戻せる。戻したまま、刃先だけを置き直す。端の揺れ――霧の厚みが一瞬、歪む。
遅れた一息を、燕秋が刃に換える。踏み込みは軽いのに、地面が沈む。内功が足に落ちる気配。石が鳴らず、土だけが押し潰れる。
燕秋は斬らない。掌で押す。脇腹の『気』の溜まりを外し、霧狐焔の動きが鈍る。尾が遅れ、群れの間合いが半拍ずれる。
白黎は、その半拍を見逃さない。
刃が走る。短い。まっすぐ。尾の根元。群れの連携を断つ場所。
霧狐焔が崩れ、霧が乱れる。乱れた隙間から次が焦って飛び込む。焦げ臭さが、無秩序に濃くなる。
——焦った方が負ける。
燕秋が言う。
「来い。順番を渡せ」
白黎の喉が動く。息を整えて答える。
「……はい。僕が受けます」
『受ける』と言えた。突っ込むのではない。受けて返す。
白黎は一歩、わざと遅れる。尾が届く距離に入れた瞬間、刃を置く。置いて当てる。致命ではない。足。踏み込みの起点。
霧狐焔が転ぶ。霧が跳ね、地面に黒い粒が散る。燃え残った毛が転がって、すぐ霧に溶けた。
蘇雨の符がもう一枚走る。今度は低く、地を這うように。霧が薄くなり、道が残る。逃げ道ではない。追われないための線。
「……通りました」蘇雨が小さく言った。「今なら、背を取られません」
「十分」燕秋が返す。「蘇雨、そのまま維持」
燕秋が最後の線を入れる。派手に裂かない。霧を落とす。刃を見せるのではなく、霧の『足』を奪う。
霧狐焔の身体が黒く崩れ、霧に溶けた。
残りの気配が、すっと引く。群れは賢い。勝てないと知れば餌を変える。
静寂が戻る。
戻った静寂は欠けていない。普通の静けさだ。白黎は遅れて、自分の心臓の音を聞いた。強く脈打つ音。生きている音。
白黎は剣を収め、丁寧に息を吐く。
「……終わりましたか」
燕秋は前を見たまま答える。
「今の群れはな。……次は、向こうの腹次第だ」
蘇雨が袖を整えながら言った。
「霧が東へ逃げました。……村の方角です。匂いも、そちらに残っています」
白黎の視線が僅かに硬くなる。硬くなるが、足は止まらない。
「……霜灯村、ですね」
「そうだ。霜灯村」
丘を越えると、白い布が見えた。
家々の軒先に結ばれた白布。飾りではない。霧の夜に、家と家の境目を失わないための印だ。
さらに進むと、低い屋根が寄り合う影が、薄い靄の向こうに浮かぶ。村の入口には細い柱が一本。そこに白紙の小さな灯籠が吊られていて、昼なのに火が入っていた。
弱い灯が、冷えた空気の中で妙に目立つ。
霜の匂いが、ここから濃くなる。
白黎は小さく言う。
「……灯が、昼でも消えていません」
「必要がある土地だ」燕秋が答えた。「必要だから、つけてる。……消せない理由がある」
蘇雨は一歩も前へ出ないまま村を見た。香袋に指を添え、息の薄さを確かめるように。
「……霧は薄いのに、張りがあります。布も灯も、ただの習慣ではありませんね」
燕秋が頷く。
「先に何かが入ってる。だから張ってる。……張ってるってことは、まだ破れてない」
白黎は丁寧に問う。
「……入る前に、何を見ますか」
燕秋は言葉を刃にしない形で置いた。
「境目だ。灯の数、犬の声、護符の位置。――村が『いつもの順』で息をしているか」
「息ができてないなら、誰かが先に口を塞いでる。順を奪ってる。……そこで初めて、こちらが動く」
白黎は頷いた。
「承知しました」
霜灯村は、まだ壊れていない。
壊れていないからこそ、奪われる前の匂いがする。白い布が風に揺れ、昼の灯がかすかに瞬いた。霧の向こうで、村が輪郭を固めていく。
白黎の胸の奥で、乾いた革の匂いがもう一度だけ擦れる。
——必要なだけ奪う。示さなきゃ次がある。
声そのものは、はっきり思い出せない。けれど、硬さだけが残っている。怒りでも憎しみでもなく、削って残った硬さだ。
白黎は息を落とし、その硬さを『今は遠くに置く』。置けるようになっている自分に気づくのが、少し怖い。
それでも足は止まらない。
三人の足音だけが、村の入口へ吸われていく。
——この村に入れば、鴉梁の声の温度が、もう少し言葉になる気がした。
1
あなたにおすすめの小説
完結 シシルナ島物語 少年薬師ノルド/蠱惑の魔剣/牙狼の王ノルド
織部
ファンタジー
ノルドは、古き風の島、正式名称シシルナ・アエリア・エルダで育った。母セラと二人きりで暮らし。
背は低く猫背で、隻眼で、両手は動くものの、左腕は上がらず、左足もほとんど動かない、生まれつき障害を抱えていた。
母セラもまた、頭に毒薬を浴びたような痣がある。彼女はスカーフで頭を覆い、人目を避けてひっそりと暮らしていた。
セラ親子がシシルナ島に渡ってきたのは、ノルドがわずか2歳の時だった。
彼の中で最も古い記憶。船のデッキで、母セラに抱かれながら、この新たな島がゆっくりと近づいてくるのを見つめた瞬間だ。
セラの腕の中で、ぽつりと一言、彼がつぶやく。
「セラ、ウミ」
「ええ、そうよ。海」
ノルドの成長譚と冒険譚の物語が開幕します!
カクヨム様 小説家になろう様でも掲載しております。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
女神の白刃
玉椿 沢
ファンタジー
どこかの世界の、いつかの時代。
その世界の戦争は、ある遺跡群から出現した剣により、大きく姿を変えた。
女の身体を鞘とする剣は、魔力を収束、発振する兵器。
剣は瞬く間に戦を大戦へ進歩させた。数々の大戦を経た世界は、権威を西の皇帝が、権力を東の大帝が握る世になり、終息した。
大戦より数年後、まだ治まったとはいえない世界で、未だ剣士は剣を求め、奪い合っていた。
魔物が出ようと、町も村も知った事かと剣を求める愚かな世界で、赤茶けた大地を畑や町に、煤けた顔を笑顔に変えたいという脳天気な一団が現れる。
*表紙絵は五月七日ヤマネコさん(@yamanekolynx_2)の作品です*
異世界召喚に条件を付けたのに、女神様に呼ばれた
りゅう
ファンタジー
異世界召喚。サラリーマンだって、そんな空想をする。
いや、さすがに大人なので空想する内容も大人だ。少年の心が残っていても、現実社会でもまれた人間はまた別の空想をするのだ。
その日の神岡龍二も、日々の生活から離れ異世界を想像して遊んでいるだけのハズだった。そこには何の問題もないハズだった。だが、そんなお気楽な日々は、この日が最後となってしまった。
東京ダンジョン物語
さきがけ
ファンタジー
10年前、世界中に突如として出現したダンジョン。
大学3年生の平山悠真は、幼馴染の綾瀬美琴と共に、新宿中央公園ダンジョンで探索者として活動していた。
ある日、ダンジョン10階層の隠し部屋で発見した七色に輝く特殊なスキルストーン。
絶体絶命の危機の中で発動したそれは、前代未聞のスキル『無限複製』だった。
あらゆる物を完全に複製できるこの力は、悠真たちの運命を大きく変えていく。
やがて妹の病を治すために孤独な戦いを続ける剣士・朝霧紗夜が仲間に加わり、3人は『無限複製』の真の可能性に気づき始める。
スキルを駆使して想像を超える強化を実現した彼らは、誰も到達できなかった未踏の階層へと挑んでいく。
無限の可能性を秘めた最強スキルを手に、若き探索者たちが紡ぐ現代ダンジョンファンタジー、ここに開幕!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
神様、ちょっとチートがすぎませんか?
ななくさ ゆう
ファンタジー
【大きすぎるチートは呪いと紙一重だよっ!】
未熟な神さまの手違いで『常人の“200倍”』の力と魔力を持って産まれてしまった少年パド。
本当は『常人の“2倍”』くらいの力と魔力をもらって転生したはずなのにっ!!
おかげで、産まれたその日に家を壊しかけるわ、謎の『闇』が襲いかかってくるわ、教会に命を狙われるわ、王女様に勇者候補としてスカウトされるわ、もう大変!!
僕は『家族と楽しく平和に暮らせる普通の幸せ』を望んだだけなのに、どうしてこうなるの!?
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――前世で大人になれなかった少年は、新たな世界で幸せを求める。
しかし、『幸せになりたい』という夢をかなえるの難しさを、彼はまだ知らない。
自分自身の幸せを追い求める少年は、やがて世界に幸せをもたらす『勇者』となる――
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
本文中&表紙のイラストはへるにゃー様よりご提供戴いたものです(掲載許可済)。
へるにゃー様のHP:http://syakewokuwaeta.bake-neko.net/
---------------
※カクヨムとなろうにも投稿しています
【完結】異世界で魔道具チートでのんびり商売生活
シマセイ
ファンタジー
大学生・誠也は工事現場の穴に落ちて異世界へ。 物体に魔力を付与できるチートスキルを見つけ、 能力を隠しつつ魔道具を作って商業ギルドで商売開始。 のんびりスローライフを目指す毎日が幕を開ける!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる