六影相剋――記憶喪失の剣士は、六大勢力の争いの中で世界の歪みと向き合う

いぬぬっこ

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第一章 影走

第七話 噂の手前で止まる

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昼の光が、霧の薄い街道に滲んでいた。

朝の名残はもう遠いはずなのに、地面には冷えが残っている。湿り気ではない。霜の前触れみたいな乾いた冷たさが、足首からじわりと上がってくる。枯草が擦れ合う音は鈍く、風は軽いのに、息の奥だけが薄くなる。

白黎はくれいは歩く。

歩けている。足取りは乱れていない。乱れていないからこそ、妙に怖い。整えたまま崩れる、という崩れ方があるのだと身体が知ってしまった。

半歩横には燕秋えんしゅう。前を見たまま歩いている。視線の置き方が、道だけではなく、人の「逃げ道」まで読んでいる。置いていかない速さで、けれど寄り添いすぎない速さで。

少し後ろに蘇雨そうう。追い越さず、遅れすぎず、息の幅だけで距離を保ってくる。近いのに、手を出さない。手を出さないのに、離れもしない。香が薄く揺れて、白黎の喉の奥のざらつきを、ほんの少しだけ落ち着かせた。

白黎は、疑問が形になって落ちてくるのを感じた。

知らないまま歩くのは、怖い。怖さの形を知らないまま踏み込むのは、もっと怖い。

だから、言葉を選んで口にする。

「……蘇雨。清談派せいだんはとは、何をする門派もんぱなのですか」

蘇雨は歩調を崩さず、淡々と答えた。

正派三門せいはさんもんの一つです。東域の学都に根を張り、治癒と修養を担います」

『正派』。『三門』。言葉の塊が、まだ白黎の中で噛み砕けない。

白黎が首を僅かに傾けると、蘇雨はその仕草を読んだらしい。声の温度を変えず、言い換えを足した。

「剣で片づける前に、人が『戻れる状態』を作る。それが清談派の役目です。……戻れる余地を、先に残します」

「戻れる……余地」

蘇雨が続けようとした、その前に。

「要するに――」燕秋が一度だけ言葉を挟んだ。「白黎が斬らずに済む形を作るってことだ」

蘇雨は否定しない。淡く頷くだけだ。

「はい。……そのために、みゃくを取り、息を整え、喉をゆるめます。『痛い』と言えるところまで戻す。そこから先は、本人が選べるようにする」

白黎の胸の奥に、前の村が刺さる。腫れた腕、抜けた力、歪んだ家の骨。血は少ないのに、抵抗した痕だけが残っていた。村人は声を出さない。痛みをごまかすのではない。出せないのだ。

――逆らえば、もう一度「同じこと」が起きる。だから村は、息ごと小さくしていた。

白黎は丁寧に問う。

「戻れる状態、とは……具体に言うと、何ですか」

蘇雨は短く頷き、具体に落とした。

「まず脈です。手首で脈を取り、内功ないこうの滞りを見る。胸が固まって息が浅いなら、呼吸を整える。喉の筋がこわばって声が出ないなら、筋をゆるめる。必要があればあんで押し、しんで通し、湯で温める」

言葉は淡いのに、やっていることは手順だった。手順は白黎にとって掴みやすい。

白黎は続ける。

「香は、そのためのものですか」

「薬香です。眠らせるためではありません。息が入るように、吐けるようにする。吐けるようになれば、声は出やすい。……あなたがたの言い方なら、『順』を戻す匂いです」

燕秋が鼻で小さく笑う。

「悪くない言い方だね、蘇雨」

蘇雨は表情を変えずに、ただ一つ頷いた。

「そう言う方が、伝わると思いました」

息。脈。喉。筋。

抽象が消えると、白黎の中の余計な想像が減る。想像が減ると、怖さの輪郭が増えない。増えないぶん、足が前へ出る。

白黎は、次の塊を拾う。

「……正派、という言葉が分かりません。正派とは何ですか」

燕秋が前を向いたまま答えた。声は軽いのに、言葉は短い。刃の形にならない。

江湖こうこで『表の揉め事』を引き受けてきた門派だ。あやかしや賊を討ち、争いを止め、掟を残す。――伝統として、武林ぶりんを守る側に立ってきた」

白黎は頷ききれず、もう一段だけ丁寧に問う。

「その正派は……どこですか」

「三つ。天衡流てんこうりゅう照剣門しょうけんもん、それから清談派」

燕秋は空に指で線を引く。図ではない。位置だけを置く仕草だ。

「天衡流は江湖の中央。会盟地かいめいちを持って、全体の秩序をまとめる役だ。――当主は天衡宗允てんこうそういん
「照剣門は北方高原。剣で裁く。決めたら抜く。速い。――当主は照剣烈真しょうけんれっしん

そこで蘇雨が、淡く補う。

「清談派は東域学都。治癒と修養を担います。――当主は清談月静せいだんげっせい

白黎は一つ息を整える。名前が出ると、世界が少し固くなる。固くなるが、輪郭ができる。

「他の門派はありますか」

「中立が二つ、邪道が一つ。合わせて六つだ」

六つ。数が揃うと、頭の中に並べる場所ができた。

蘇雨が静かに言う。

「中立は、正派の掟を借りません。従属もしない。邪道は、掟そのものを拒みます」

「中立とは、どういう立場なのですか。どこにも属さない……のですか」

「属さない、じゃない」燕秋が短く切る。「均衡に立つ」

そして、名を置く。置いて、それ以上を盛らない。

流雲衆りゅううんしゅう。街道と都市を巡って情報を集める。統括は流雲恒一りゅううんこういち
無縁会むえんかい。破門や追放の寄せ集めで、全域に潜る。象徴は無縁老むえんろう

白黎の喉が小さく鳴った。潜る、という言葉が、霧に似ている。見えないのに、確かにある。

「邪道は……」

燕秋の声が、ほんの僅かだけ落ちる。

玄影げんえい。西域の辺境、廃村や焼け跡に根を張る。奪われた者が集まった。強さ=生存を信条にする。――首領は玄影破軍げんえいはぐん

玄影。

その名を聞いた瞬間、白黎の胸の奥で、別の記憶が擦れた。

分かりすぎる。分かった瞬間、身体が先に出る。

火でも霧でもない。乾いた革の匂い。奪う、という言葉の温度。淡々とした宣言。

——必要なだけ奪う。示さなきゃ次がある。

鴉梁あらはし

顔の輪郭は曖昧なのに、声の硬さだけが残っている。優しくない。怒ってもいない。だからこそ怖い。怖いのに、妙に理解できてしまう気がするのが、もっと怖い。

白黎は反射的に符袋へ指を寄せかけ、止めた。触れれば落ち着く。落ち着けば、今の『思い出し』が形になってしまう。

形になる前に、息を整える。

「……敵、なのですか」

「敵にも味方にもなる」燕秋は淡々と言った。「だから厄介だ。……白黎、そこで結論を急ぐな。急ぐほど、引っ張られる」

白黎は小さく頷く。急がない。今は、置く。

蘇雨が、静かに付け足した。

「清談派は……玄影を憎む者もいます。けれど、救えるなら救いたい、と考える者もいる。憎しみを捨てられない人間も、救いを捨てられない人間も、同じようにいます」

憎む。救いたい。

矛盾が、そのまま置かれる。置かれた矛盾は、白黎の中で勝手に膨らまない。今はそれでいい。

そのとき、風向きが変わった。

霜の冷えに、焦げた匂いが混じる。紙が焼ける匂いではない。毛が焦げ、霧が熱を帯びる匂い。

白黎の肌がひりつく。空気が薄くなる。霧の縁が、薄いのに舌の上にざらつく。

燕秋が足を止めずに言った。

「……来る」

蘇雨の足音が薄くなった。消えたのではない。息が沈んだ。戦う側の呼吸になると、そう聞こえるのだと白黎は覚えてしまった。

白黎は丁寧に確認する。

「……霧狐焔《むこえん》、でしょうか」

「群れだ。数がいる」

群れ。

赤霄原せきしょうげんでは一匹だった。だが霧は味を覚える。人の匂いを覚える。戻ってくる。今度は狩りの距離で。

燕秋の言葉が短く落ちる。

「白黎。先に動くな。霧の中は、先に動いた方が負ける。……目は端。鼻で熱を拾え。熱い方が、本体の寄る位置だ」

燕秋が息を吐く。白黎も同じテンポで吐く。
合図じゃない。ただ、並ぶための癖だ。

白黎は剣の柄に手を置く。抜かない。抜かないまま、息を整える。息が先。刃は後。

蘇雨が小さく言う。

「霧の流れが速い。足元を取ります」

「取らせない」燕秋が返す。「順で取らせない」

説明ではなく手順。

「蘇雨、後ろを薄くして道を残せ。符でいい。薄く、長く」
「はい。……香は切らしません」
「白黎、真ん中を見るな。端だ。端の揺れで来る。来たら『置け』。当てに行くな」
「承知しました」

霧がざわりと立った。

赤い光が二つ、三つ。九尾の影が跳ぶ。霧の奥で同じ形が重なって見える。——群れ。

最初の一匹が飛び込む。焦げた尾の匂いが、刃の届く距離で濃くなる。

白黎が抜く。

刃は派手に走らない。最小限。短く置く。赤霄原の時より線が短い。短い分、迷いが少ない。

浅い。致命ではない。だが裂けた。

霧狐焔が甲高く鳴き、次が横から入る。尾が薙ぐ。風が頬を裂き、髪が一房だけ持っていかれる。白黎の身体が反射で前に出そうになる。

囲まれる。囲まれれば終わる。霧の中は距離が嘘をつく。半歩が一歩に化ける。

その瞬間、燕秋の吐息が落ちた。長く、一定の吐息。身体が合図だと分かる吐息。


「白黎」

名だけ。

白黎の足が止まる。止められる。止めたまま刃先だけが軌道を変え、尾の先を紙を切るように落とす。尾の火が一瞬だけ弱まり、匂いが薄くなる。

そこで蘇雨が一歩だけ踏む。

袖の内から小さな符を滑らせ、指で弾く。霧を押し返すのではない。霧の流れを一息だけ割る札。割れた隙間に、道が細く残る――はずだった。

風が一段、横から来た。符が半寸はんすんだけ流れ、霧の裂け目が『薄い』まま残る。

視界は開く。だが足りない。開いた真ん中が、誘いになる。

白黎の目が反射で真ん中へ寄りかける。寄れば、引かれる。

燕秋の吐息が落ちた。短く、強い吐息。合図というより、止めるための息。

「白黎」

名だけ。

白黎は視線を端へ戻す。戻せる。戻したまま、刃先だけを置き直す。端の揺れ――霧の厚みが一瞬、歪む。

遅れた一息を、燕秋が刃に換える。踏み込みは軽いのに、地面が沈む。内功が足に落ちる気配。石が鳴らず、土だけが押し潰れる。

燕秋は斬らない。掌で押す。脇腹の『気』の溜まりを外し、霧狐焔の動きが鈍る。尾が遅れ、群れの間合いが半拍ずれる。

白黎は、その半拍を見逃さない。

刃が走る。短い。まっすぐ。尾の根元。群れの連携を断つ場所。

霧狐焔が崩れ、霧が乱れる。乱れた隙間から次が焦って飛び込む。焦げ臭さが、無秩序に濃くなる。

——焦った方が負ける。

燕秋が言う。

「来い。順番を渡せ」

白黎の喉が動く。息を整えて答える。

「……はい。僕が受けます」

『受ける』と言えた。突っ込むのではない。受けて返す。

白黎は一歩、わざと遅れる。尾が届く距離に入れた瞬間、刃を置く。置いて当てる。致命ではない。足。踏み込みの起点。

霧狐焔が転ぶ。霧が跳ね、地面に黒い粒が散る。燃え残った毛が転がって、すぐ霧に溶けた。

蘇雨の符がもう一枚走る。今度は低く、地を這うように。霧が薄くなり、道が残る。逃げ道ではない。追われないための線。

「……通りました」蘇雨が小さく言った。「今なら、背を取られません」

「十分」燕秋が返す。「蘇雨、そのまま維持」

燕秋が最後の線を入れる。派手に裂かない。霧を落とす。刃を見せるのではなく、霧の『足』を奪う。

霧狐焔の身体が黒く崩れ、霧に溶けた。

残りの気配が、すっと引く。群れは賢い。勝てないと知れば餌を変える。

静寂が戻る。

戻った静寂は欠けていない。普通の静けさだ。白黎は遅れて、自分の心臓の音を聞いた。強く脈打つ音。生きている音。

白黎は剣を収め、丁寧に息を吐く。

「……終わりましたか」

燕秋は前を見たまま答える。

「今の群れはな。……次は、向こうの腹次第だ」

蘇雨が袖を整えながら言った。

「霧が東へ逃げました。……村の方角です。匂いも、そちらに残っています」

白黎の視線が僅かに硬くなる。硬くなるが、足は止まらない。

「……霜灯村そうとうむら、ですね」

「そうだ。霜灯村」

丘を越えると、白い布が見えた。

家々の軒先に結ばれた白布。飾りではない。霧の夜に、家と家の境目を失わないための印だ。

さらに進むと、低い屋根が寄り合う影が、薄い靄の向こうに浮かぶ。村の入口には細い柱が一本。そこに白紙の小さな灯籠が吊られていて、昼なのに火が入っていた。

弱い灯が、冷えた空気の中で妙に目立つ。

霜の匂いが、ここから濃くなる。

白黎は小さく言う。

「……灯が、昼でも消えていません」

「必要がある土地だ」燕秋が答えた。「必要だから、つけてる。……消せない理由がある」

蘇雨は一歩も前へ出ないまま村を見た。香袋に指を添え、息の薄さを確かめるように。

「……霧は薄いのに、張りがあります。布も灯も、ただの習慣ではありませんね」

燕秋が頷く。

「先に何かが入ってる。だから張ってる。……張ってるってことは、まだ破れてない」

白黎は丁寧に問う。

「……入る前に、何を見ますか」

燕秋は言葉を刃にしない形で置いた。

「境目だ。灯の数、犬の声、護符の位置。――村が『いつもの順』で息をしているか」
「息ができてないなら、誰かが先に口を塞いでる。順を奪ってる。……そこで初めて、こちらが動く」

白黎は頷いた。

「承知しました」

霜灯村は、まだ壊れていない。

壊れていないからこそ、奪われる前の匂いがする。白い布が風に揺れ、昼の灯がかすかに瞬いた。霧の向こうで、村が輪郭を固めていく。

白黎の胸の奥で、乾いた革の匂いがもう一度だけ擦れる。

——必要なだけ奪う。示さなきゃ次がある。

声そのものは、はっきり思い出せない。けれど、硬さだけが残っている。怒りでも憎しみでもなく、削って残った硬さだ。

白黎は息を落とし、その硬さを『今は遠くに置く』。置けるようになっている自分に気づくのが、少し怖い。

それでも足は止まらない。

三人の足音だけが、村の入口へ吸われていく。

——この村に入れば、鴉梁の声の温度が、もう少し言葉になる気がした。
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