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しおりを挟む「……ええ、まあ。……はい」
「どのようなお気持ちだったのかしら」
まだ続くのか、と言い出しそうなダリウスにもう一歩近づきその瞳を見上げると、彼は観念するようにぽそりと答えを返してくれる。
「恐れながら、私も夫人と同じです。ただ、……美しいお方だと」
「ではどのようにしてそれが恋だとお気づきに?」
「……その方の知らぬ一面を見るたび、目が離せなくなる己に気付きました。その方の愛するものへのまなざしやそれに接するその方の笑みを見るたび暖かな充足感に包まれる一方で、病のようにその瞳でこちらを見てほしいと、そのように独りよがりな願いを持ち始めるのです」
熱いまなざしが降り注いでくる。言葉にするだけでもこれほどの熱意が感じられるのだ。愛の持つ魔力に触れ、目が眩んでしまいそうになった。何も言えずに立ち尽くす私を見下ろしたダリウスは、小さく息をついて、幼子を導くもののようにそっと囁く。
「元来、恋や愛のようなものとは身勝手な存在であると私は考えております。ですからユゼフィーナ様、人間が各々に勝手な欲望を抱く恋愛という行為には万能の公式のようなものは存在しないでしょう。最も重要なのは真正面から向き合うこと。互いを知り合い、何を重んじ、何を苦とするのか。それを知ることが苦痛でなければ、やがてその者を愛することもできましょう」
普段の無口な騎士らしからぬ長い回答に呆気にとられてしまった。長い間、己の愛について考察を深めていたかのような言葉だ。些か気まずげな表情をしているが、ダリウスは私のよき先生となりうる可能性がある。
「互いを知り合い、何を重んじ、何を苦とするか……?」
この三人の中で最もまっとうに人生を謳歌しているのがダリウスであるらしいことを確認しつつ、彼の言葉を復唱する。知ることを苦痛に思わなければ、やがてフェルナンドを愛することもできるはずだ、と。何とも希望の持てる言葉だ。
「ダリウス、あなたは素晴らしい紳士だわ。そうね、これからは私の先生として、もっといろいろなことを教えて――」
「ユゼフィーナ?」
喜び勇んで今後もレクチャーを受けさせてほしいことを伝えようと声を上げたところで、斜め後ろあたりから穏やかな声音が響いてくる。その声音は男性らしく低いものでありながら、丸みを帯びた柔らかな印象を抱かせる。まるで春の日差しのような声だ。
思わず振り返りたくなるような優しい声音に惹かれるまま視線を動かし、書庫の扉を閉じながらこちらを見下ろすフェルナンドの姿を捉えた。
「……殿下?」
どのような道を歩んで生きていれば、このような穏やかな声を持つ人間になりうるのだろう。
「……あなたがここにいるとアレクに聞いたものだから」
アレクとはこの邸を取り仕切る執事のことだ。どうやらフェルナンドは帰宅早々に執事に私の居場所を聞き、すぐにここへやってきたらしい。
「それは、……大変失礼いたしました。お出迎えもできず……」
「いや、かまわないよ。あなたが随分と熱心に読書をしているようだとは聞いていましたし、朝にも申し上げたようにあなたにはこの邸で自由になさっていただきたいですから」
ゆったりと微笑んで話しつつこちらへと歩みを進めたフェルナンドは、私の目の前でその足を止めた。微かに薔薇の香りがする。今日の公務は軍事の――特に騎士団に関係するものであるとアレクから説明を受けていたのだが、ここにあらわれたフェルナンドはまったくそれを感じさせなかった。
彼は真正面から私の表情を見下ろし、頬に湛えた笑みをなくすことなく一瞬私の背後へと視線を移した。その場には少し前まで私に問い詰められていたダリウスが控えている。ダリウスはフェルナンドがこの書庫に足を踏み入れたその瞬間に音を立てずに一礼し、私の背後に下がっていたのだ。会話をしながら一瞬使用人に目を向けたフェルナンドに疑問を抱きつつ、彼がとくに表情を変えることなく会話を再開すると、すぐにその疑問はかき消されてしまった。
「ユゼフィーナ。書庫に足りないものがあれば、いつでもアレクに声をかけてください」
「いえ、十分ですわ。重要なことがよくわかったように思いますし」
「調べ物をされていたのですか? それであれば使用人に調べさせればよいでしょう」
「旦那様に恋をする方法を探していたのです。ですからこれは、今後も私自身が努力し己で調べるべきかと」
不可思議そうに軽く首をかしげるフェルナンドに嘘偽りなく答えを述べると、彼はわずかに虚を衝かれたような表情を浮かべて脱力するように笑った。
「ユゼフィーナ、あなたは努力の天才ですね」
フェルナンド・エズオスパルドとは完璧に整えられた王宮の庭園のように美しく、それでいて隙のない王子だと勝手な評価を下していた。しかしどうだろうか。実際にこの目に映るフェルナンドは成熟した紳士のようで、時に実年齢よりも幼い少年のようにも見える。複雑な魅力をお持ちの方なのだ。
「殿下、それはお褒めいただいていると受け取ってもよろしいのでしょうか」
「ええ、もちろん。……ただそれが、今回ばかりは徒労になってしまわないか不安ではありますが。昨夜申し上げたとおり、好意とは持とうとして持てるものではありませんから」
「ですが、この国の太陽であらせられる殿下をお慕いしない女性などいらっしゃるかしら」
「夜の星の数ほどいらっしゃいますよ。とくに美しい明星は、太陽などなくとも光り輝くものでしょう。たとえばそれは、……あなたのように」
――わたくしではなく、ミリア嬢のことをおっしゃっているのね。
あなたのように、とつぶやくまでにわずかな間があったのだ。伏せられた睫毛はその髪と同じく金色に輝き、物憂げながらも危うい魅力を放っている。このような美しい人を簡単に捨てたミリアはやはり只者ではない。
一度も恋愛というものに触れたことがない私がミリアからフェルナンドの心を奪うことができるとは到底思えないが、そもそも奪えずともよいのだ。私は私が人生を謳歌するために理不尽に他者を振り回す。
『押しに弱い』らしいフェルナンドは、自身に盲目な恋をする妻を、決して捨て置くことなどできないだろう。
「わたくしはこれから殿下に恋をする予定ですからご心配なく。……それに、すばらしい師も見つけたのです」
万事がうまく進んでいる。繕わずとも笑みが浮かんでくるのだ。フェルナンドは私の表情を見て、呆れたような、気の抜けた笑みを浮かべていた。
「恋に関するすばらしい師とは?」
「それは……」
もちろんダリウスである。しかしそれを告げようと口を開きかけ、ふと思い至る。ダリウスは自身の恋についての話題を極力避けようとしていた。騎士として身を立てる彼は、普段そのような浮ついた話題を口にする機会もないのだろう。そのような個人的な情報をこの邸の主人であり、さらにこの国の王子でもあるフェルナンドに晒されてしまうのは苦痛なのではないだろうか。
嫌がりつつもヒントをくれたダリウスの表情がありありと眼裏に浮かぶ。ちらりとダリウスを盗み見て、いつもと変わらぬ真顔でまっすぐに前を見据える姿を確認してから言葉を変えた。
「これはわたくしの個人的なレッスンですから、殿下がお気になさることではありません」
淀みなく言い切ると、一瞬場の空気が重く感じられた。私の言葉を受けたフェルナンドは薄く唇を開きかけたまま私を見つめ続けている。背後からは突き刺さるような視線さえ感じた。この視線は間違いなくダリウスとブレンダのものだろう。
わざわざフェルナンドに配慮をさせるほどのことでもないと伝えるつもりが、随分と冷たい響きになってしまったようだ。
「……そうですか」
一呼吸おいて言葉を返したフェルナンドは、すでにいつもの柔和な笑みを浮かべている。
――最も重要なのは真正面から向き合うこと。互いを知り合い、何を重んじ、何を苦とするのか。それを知ることが苦痛でなければ、やがてその者を愛することもできましょう。
ふいにダリウスの言葉が思い出される。フェルナンドは公務を終えたその足でわざわざ私の姿を見るために書庫に向かい、今も真正面から私を見つめている。今日私がしていたことを聞き、関心を持って問いを立ててくる。その完璧な対応を遮断したのは、いったいどこの誰だろうか。
「で、殿下は……、その、……薔薇がお好きで?」
「はい?」
突然の話題変更に誰もが傾げそうになる首を押しとどめている。しかしこの時の私はそのようなことにも気づかず、とにかく必死だったのだ。フェルナンドはすでに、よき関係となるための努力をしているのではないか。そして私がそれに気づかずに無粋な行いばかりを繰り返しているのでは。
どうにかして、軌道修正しなければ。
「先ほどから、とてもよく香っていらっしゃるので、……お好きなのかと」
「ああ、いや。……そうですね。嫌いではありませんが、匂いがついたのは美しく咲いたものをあなたへの土産に摘んできたからでしょう」
「わたくしに?」
「あなたこそ、勝手ながら薔薇がお好きなのだと思っておりましたので」
どうしてそのように思われたのだろうか。まったく推測することができず、ただぼんやりとうなずいた。
「ええ、香りがとっても落ち着くものですし……」
「それはよかった。では後ほどあなたの部屋に届けさせますから、ぜひお受け取りください」
フェルナンド自らが摘んだということだろうか。ディアドレからは義務的な贈り物以外、受け取った記憶がない。じわじわと胸に柔らかな熱がこみ上げてくる。その熱は決して炎のような激しいものではないが、ぬるま湯に浸かっているときのような、心地よく優しい熱だ。
心地よく感じているはずが、どうしてかひどく落ち着かない気分にさせられる。どうにも内情を言い表すことができずにこわごわと口を開いた。
「このようなとき、どのように気持ちをお伝えするべきなのかしら」
「……お喜びいただいているということですか」
「もちろんです。殿下。……いえ、フェルナンド様」
もっと気楽に語らおうと決めていたはずが、すっかりもとの形に戻ってしまっていた。内心慌てて訂正すると、フェルナンドはかすかに目を見張ってからとろけるように柔らかな笑みを浮かべた。
「なにかな、ユゼフィーナ」
「……ありがとうございます。とってもうれしいわ。私の好きなものをプレゼントにと、考えてくださったことが……、とても、なんだかくすぐったいのです」
「……そこまで言われると、私もなんだかくすぐったくなってくるね」
「まあ。ではおそろいですね」
夕暮れに照らし出されるフェルナンドは気恥ずかしそうにはにかんでいる。フェルナンドの新たな一面を知るたび、新鮮な気持ちで胸が暖かくなる。
「フェルナンド様、もしよろしければ申し上げたいことが」
「どんなことかな」
「お疲れでないときで構いませんので……、フェルナンド様のことを、もっと教えていただきたいのです」
この、純粋にフェルナンドを知りたいと思う感情すらも悪魔的なものなのだろうか。答えを見つけ出すことができないまま、フェルナンドが笑う姿を見つめていた。
「……ユゼフィーナが望むのなら」
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