呪われた悪女は獣の執愛に囚われる

藤川巴/智江千佳子

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 ——いったい、どなたがこのような惨たらしい悪戯を思いつくのかしら。気分が悪いわ。
 
 胸のうちで怒りを吐き捨てたソフィアは、利口な狼を見下ろしつつ、ふとある事に気づいた。

 この腕輪には、どのような力が働いているのだろうか?

 見たところ、彼の脚に嵌められたプラチナバングルは間違いなく獣人が着用するものと同一の形状だ。

 獣人の腕輪は一度腕に嵌めると一生外すことができないものとして知られている。彼らはこの腕輪を装着している限り、成人して人と全く同じ身体を得たところで、獣人であることを隠すことができない。

 緩やかにその地位が回復されかけている間はソフィアも目を瞑っていたが、獣人の位置が再び揺らぎ始めている今、彼女はその腕輪の存在がやはり気にかかって仕方がなかったのだ。

 いったいどのような力で、外すことのできないものとされているのか。獣人の側に近寄った記憶などそう多くないソフィアには、見当もついていなかった。

 そうして彼女は三か月ほど前から、狼の右前脚に嵌められたバングルを外すため、ありとあらゆる手段を講じてきた。

 ソフィアがその腕輪を取ろうと試みていることに気付いたらしい狼は、彼女の行動を咎めることなく、じっと寝ころんだ体勢を維持し続けてくれていた。

 彼がソフィアにじゃれつき、触れてくることはない。

 利口な狼なのだとソフィアは思う。

 彼はソフィアが呪いに侵されていることを察しているのだろう。

「これよ。……どう? 綺麗な模様じゃない?」

 一週間前、ようやくその腕からバングルを取り外すことに成功した。数多の試行錯誤の後、ソフィアは手に汗を握りながらそのバングルのみに指先を触れ合わせ、己の魔力を狼に流し込み、解術を試みた。

 バングルが外れた瞬間、ソフィアは魔力の著しい消耗に意識を失った。しばらくして目覚めたソフィアは、目の前でじっと座り込む狼の姿を確認して飛び起きたものだ。


 バングルには何かしらの術が込められている。ソフィアは取り外したバングルを拝借し、その裏側に彫り込まれた魔法陣を紙に模写したのだが、全く読み解くことができなかった。

 彫り込まれた紋様は、おそらく古代の文字だろう。

 ソフィアはグラン帝国の中でも類を見ないほど魔力量が多い魔術師だ。フローレンス家の傑作とも呼ばれる令嬢である。

 特に解術と魔法陣の読み解きに関しては豊富な知識を有する自覚があった分、彼女は全く覚えのない魔法陣の呪文に出会ったことに衝撃を受けた。

 獣人の腕輪は、単なる見分けのために作られたものではない。

 そのことに気付いたソフィアは、即座に狼のバングルに魔法干渉の呪文を彫り込んで、今日この場に持ち帰った。

 この魔方陣が悪しき力を封じるために彫り込まれたものであったなら、狼はたちまちソフィアの排除の対象となる。

 しかしこの一週間、狼の様子が特段変化していないところを観察し、ソフィアは引き続き彼の様子を見極めつつ、その腕に魔法陣の効力を失ったバングルを戻すことを決めた。

 何かしらの意図があってこの狼にバングルを嵌めていた場合、その腕からバングルが消えていることに気付いた何者かが、ソフィアの密かな検証に気付く可能性があった。

 獣人に気付かれた場合も、そうでない者に察せられた場合も、ソフィアはおそらく相手を抹消することを余儀なくされる。

「いやだろうけれど、我慢してね。もし貴方に必要な力を与える物だったなら、必ず干渉を解いてあげるから心配しないで」

 ソフィアは魔法の力を使って、触れることなくバングルを狼の腕に装着する。力を失ったバングルは、魔力のない者でも着脱が可能になる。くれぐれも外さぬようにと言い含めれば、狼は得意げに鼻を鳴らした。

「いい子ね」

 ソフィアは詫びの印として、こっそりバングルの表面に、花の模様を彫り込んでいた。その模様をちらりと見下ろした狼が、バングルを嵌めた前脚に頭を擦り付けている。

 気に入ってくれたらしい。

 ソフィアは唯一の友人をどれほど愛おしく思っていたとしても、この手で触れることはできない。彼女はそのことを毎度のことながら残念に思いつつ、静かに笑って冷め切ったハーブティを飲み下した。

「今日は獣人の可愛い女の子が私の目の前に現れて、本当に大変だったの」

 そろそろ獣軍の長としての仕事を終えたルイスが戻りつくころだと踏んだソフィアは、マリアを呼びつけて訓練場へと足を延ばした。

 今日のソフィアはダニエル・ドレスデンに簡単な嫌味を言うことを目的としていたはずが、目の前に現れてはならない者が登場し、内心酷く狼狽えていた。

 ルイスが来るまで、ダニエルとの無為な会話でその場を取り繕っていたが、ルイスの到着がもう少し遅れていれば、ソフィアは獣人の幼気な少女に何かしらの罰を与えねばならなかった。

「無事、何事もなく帰りつけたのかしら」

 ソフィアはシェリーとルイスの阿吽の呼吸で助け出されたはずの少女を思い返しつつ、静かにため息を吐く。

「シェリーさんに触れかけたときは……、本当に心臓が止まるかと思ったわ」

 彼女がほっと胸をなでおろしながら囁けば、黙して話に耳を傾けていたはずの狼がぴくりと耳を立てた。不満げな顔をしながら、ソフィアに頭を差し出してくる。

 ——これはもしかすると、自分にも触れてくれない私が他の獣人に触れかけたことを怒っているのかしら。

 ソフィアは己の頭に浮かんだ想像におかしな気分になりつつ、ひっそりと眉を下げた。

「ごめんなさい。私も貴方のかわいらしい頭をたっぷり撫でてみたいけれど……、呪いが解けているのか、全く自信がないの」


 フローレンス家は獣人に尋常ならざる憎悪を抱いている。実のところ、その憎悪の根源は、過去の悲劇への怒りのみではない。

 フローレンス家の直系の女児は、必ず悪しき呪いを持って生まれる。それは、獣とされる全般の生物に触れることを許さない呪いだ。

 触れればたちまち身体が呪いに侵され、死に至る。

 一族の女児に初めて呪いが発現したとき、その娘は高熱に魘されるまま、わずか一週間でこの世を去ったとされている。それ以来、フローレンス家の獣人嫌いは濯ぐことのできない深い憎しみに変わった。

 ソフィアも自ら解術を試みたり、こうして解毒作用のある薬草を口にしたりとあらゆる可能性を探っているが、効果を感じることはない。

 そもそも呪いがまだ発現していない今、どれほど足掻こうと、獣に触れた先にある呪いの効果など判りもしないのだ。

 一族は女児が生まれる度、女児に対してことさらに獣を憎しむよう教育を施した。

 その教育とは——。

 ソフィアが過去を思い返そうとしているうちに、狼がテーブルに身体を乗り出して野花が飾られた花瓶をぐいぐいと彼女の目の前へと押し付けてきた。

 狼の慰めるような仕草に、彼女は目を丸くして、ゆるゆると頬を綻ばせた。

「ええ、そうね。悲しいお話はやめましょう。……そうだわ、今日も怖い司令官様に嫌味を言われちゃったの。……狼さん、慰めてくださらない?」

 ソフィアが話を切り替えながら囁けば、ぶんぶんと尻尾を振った狼がますます花瓶をこちらへと押し付けてくる。その花を一輪手に取って、脳裏に浮かんでいた冷ややかな瞳の男の姿をかき消した。

「同じ狼さんでも、やっぱり貴方がお友達で良かったわ」

 ルイス・ブラッドがまさか、己の友人となるところなど想像もできず、ソフィアはくすくすと笑い声をあげた。悪女の微笑みを見た狼は、眦を緩めている。まるで笑みを浮かべているかのような表情だ。

「貴方って、きっと狼さんの中でも綺麗な顔立ちなのかしら」

 首をかしげつつ問うてみれば、いっそう激しく尻尾を振り乱した狼が、得意げに一吠えしてみせる。

「そうよね。独り占めなんてしたら、乙女に怒られてしまいそうだわ。……贅沢な時間をありがとう」

 浮かれる狼の姿にころころと笑ったソフィアは、やはり宿敵ルイスと違い、愛らしい姿の狼を視線でたっぷりと愛で尽くし、密やかな至福の時を過ごした。

「明日は邸に帰らなきゃいけないの。だからお茶会はお休みよ。また明後日に会いましょうね」

 別れの挨拶とともに約束すれば、狼はしょんぼりと尻尾を下げつつ、静かにうなずいたように見えた。

「お土産を持ってくるわ。だから一日だけ、許してね」

 本当は行きたくない。
 
 本心を飲み込んだソフィアは努めて笑みを浮かべつつ、己のただ一人の友人に許しを請うた。

 ——だが、その約束が果たされることはない。

 知る由もないソフィアはいつもと同じように友人と別れ、ひっそりと自室へ戻りついた。

 ころころと表情を動かしていた可憐な乙女はいない。すでに優しい表情を失くした悪女に戻ったソフィアはしかし、その表情には不似合いな野花をそっと握って、滅多に開かない古書の間に挟み込んだ。
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