不埒に溺惑

藤川巴/智江千佳子

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STEP 9 「呼んで」

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 八城に言われる通り、残業せずに退勤してしまった。

 特に待ち合わせもしていない上に、ちらりと確認したスマホにも連絡はなかった。どうするべきか考えつつエレベーターに乗り込んだところで、扉が閉まる寸前に人が入り込んでくる。

「あ、すみません、大丈夫で……」

 相手の顔を見て、思わず言葉が続かなくなってしまった。

「大丈夫です。一階で」
「は、い」

 滑り込みで入ってきたのは、どう連絡をしようかと考えあぐねていたその相手だ。何事もなかったかのように隣に立った八城が、小さく「間に合ってよかった」とつぶやいたのが聞こえた。

「置いて行くつもりではなかった、です」
「うん、わかってます。ただ、待ち合わせにしたら、しばらく会えないから」
「うん?」
「仕事終わった瞬間からの明菜の時間、全部ほしくて、必死こいた」

 どうしようもなく離れがたい人を思うような声を出されて、わずかに動揺してしまった。何も言えずに俯いていれば、視界の端で、私の手に八城の手が触れる。

「八城さ、ん」
「ん?」
「手、」

 八城は恋人のように繋ぎ合わせ、私の顔を覗き込んで、小さく笑った。

「なにその顔」
「び、っくりしているんです」
「かーわい」
「手、」
「このまま繋いでおくか?」

 エレベーターの階層が見る見るうちに減っていく。機械的なカウントダウンの前で、何も言えずに押し黙ってしまった。

「別に、俺はそれでもいいけど」

 私の表情をたっぷりと楽しんだ八城が、モニターに映し出された数字が一に切り替わった瞬間に優しく手を放した。

「お、八城さん、……と小宮、今から帰りですか」
「おお、眞緒ちゃん残業か。今日もお疲れ」
「ういーす」

 開かれた先に、花岡が立っている。営業先から戻ってきたのだろう。

 あまりにも驚きすぎて何も言えずに立ち尽くしていれば、不思議そうな顔をした花岡が私の表情を覗き込むように近づいてきて、首を傾げた。

「なにぼうっとしてんの?」
「小宮さん、俺に口説かれてびっくりしてんの」

 さらっと言いきった八城に軽く背中を押されて、慌ててエレベーターから出る。

 あながち間違いでもない八城の言葉にうまく否定もできずに、彼が花岡をエレベーターに押し込んだところで、吃驚する花岡ともう一度目が合った。

「は? マジで?」
「眞緒ちゃんも早く帰れよ~」
「八城さん、どういう」

 混乱しているらしい花岡が、エレベーターの扉に阻まれて消えてしまった。八城はおかしそうに笑っている。

「笑い事じゃない、です」
「あー、ごめんごめん。なんかあいつの顔見たら、むかついて」
「ええ? むかつくお顔でしたか?」
「そうそう。むかつく顔だった」
「また真似していますね?」
「ばれました?」
「ばれちゃっています」

 恨めしくなってじっと見つめてみても、八城はとろけそうに笑むばかりだ。

「なんか、かわいいから、真似したくなるんだよね」
「普通におしゃべりしているだけです」
しゃべりね」
「あ、また」

 八城の明るい声に、結局笑ってしまう。

 さりげなく私の背中を押していた手が離れて、スマートに「行こうか」と宣言される。何一つ言葉がまとまらないままゆっくりと頷いて、静かに八城の横についた。

 八城の歩みは、私の歩幅にしっかりと合わせてくれている。

 忘れ物を渡しに、社内を歩いている八城の後を追ったことがあるから分かるようになった。

「店、希望ある?」
「いえ。とくには。あ、でも、八城さんの好きなお店が、知りたいです」
「……ほんと、いちいち可愛いよな」
「ええ?」
「了解、なんか肉食いたい」
「ふふ、肉、くいたいですね」
「お、真似してきたな」
「ばれました?」

 八城の真似をして顔を覗き込めば、一瞬足を止めた八城に顔を寄せられて、ふと固まった。しばらく私をじっと見下ろした目が、苦笑に染まる。

「……あーやべ、普通にキスしそうになった。あぶね」
「ええ、なん、で」
「あんま可愛いんで、つい」

 口に出しながら私の髪を撫でまわして、「誘惑が上手っすね」と笑ってくる。したつもりのないことを褒められて首をかしげても、「わかんないならいいよ」と言われて、結局往来の多い道で立ち止まり続けるわけにもいかずに二人で歩みを再開した。

 八城が連れてきてくれたお店は、会社の最寄駅から徒歩十分圏内に位置する肉料理がメインのスペインバルだった。

 本当に八城の好きな店に連れてきてくれたのだと感じてひそかに喜んでいるうちに、優しく微笑んだ八城に「ここ、ケーキも旨いらしいから、明菜ちゃんに食べてほしかったんだよね」と言われて、あっけなく胸に甘さが突き刺さる。

 ごまかすように密かに胸を押さえた。

 お洒落なソファの席に通されて、腰かける。席が対面ではなく、横並びになっていることにおどろきつつ、八城が隣に座ったのを感じて、口を開いた。

「八城さんの好きなお店でよかったんですよ?」
「ん、前来た時、うまいな~って思ってたら、ケーキが自慢だって聞いて、明菜ちゃん連れてきてえなって思っただけだから、俺の好きな店でもあるんですよ」
「なるほど」
「納得?」
「そんなふうに思ってくださったのは、とてもうれしいです」

 八城の世界のどこかで、私の存在が生きているのだろうか。そう思わせるには十分な言葉だった。

 私も、新しいレシピで作った料理がうまく行ったときには、一番に八城の顔が浮かんでくる。

「結構頻繁に明菜ちゃん連れてきたい店増えてるから、また付き合ってね」

 どうしようもなく、惹かれ続けている。

 オーダーを八城に任せて、新人らしき店員に、丁寧に注文する八城を見つめている。慌てた様子の男性に「ゆっくりで大丈夫ですよ」と笑う姿をただ見つめていた。

「全然、緊張するような相手じゃないんで、大丈夫です」
「いえいえ、とんでもない……、すみません、使い方が」
「あはは、逆に慌てさせて申し訳ない」
「いやいや! もう、彼女さんにも申し訳が……!」
「全然、大丈夫です。めちゃくちゃ優しい子なんで。な?」

 八城の威圧的でない、おおらかな瞳が笑っている。深く頷いて、八城と同じ気持ちであることを示せば、男性店員の表情がすこしだけ和らいだ。

 何も言わずに見つめていたから、いらぬ不安感を持たせてしまっていたらしい。

「ごめんなさい、何だか、すてきだなあと思って、見惚れてしまっていました。すこしも怒っていないです。ゆっくりで、大丈夫です」

 真剣につぶやいたら、目の前に立つ店員からも、八城からも目をまるくされてしまった。

「すてきっていうのは、俺ですか」

 一呼吸置いた八城が茶化すように言葉を返してきて、ようやく自分が何を言って驚かれてしまったのか、理解する。さすがに、慌てる店員と八城の姿を見て、すてきだという評価はおかしかった。

「ああ、ええと、一生懸命にお仕事をされているところも、親身ですてきだなあと思いますし、八城さんも、丁寧で、お優しくて、なんだか、しあわせな気分だなと思っただけで、慌てているところを見て、笑っていたわけではないです……!」
「はは、それは分かってます。慌てさせてごめんね」
「あ、伝わっていたのなら……」

 ほっと息を吐くと、まじまじと私を見つめていたらしい男性店員と目が合った。首を傾げたら、小さく笑われてしまう。

「彼女さん、可愛いっすね」
「いや、マジでそうなんですよね。盗らないでください」
「いや、お兄さんから盗ったりできるわけがないっす。……、すみません、お待たせしました。オーダーしっかり打ち込めたので、もう少々お待ちください」
「ありがとう」

 すこし前まで慌てていた様子の男性が遠ざかっていく。視界の端から消えて視線を八城に向き直せば、楽しそうな顔で笑っているのが見えた。

「八城さん、お酒は頼まなくて良かったんですか?」
「あー、うん、大丈夫。若干禁酒中」
「え? そうなんですか」

 八城はかなりの酒豪だと聞いている。重要な接待には、八城春海を連れていけば問題ないと言われるほど酒に強いと聞いていたから、禁酒とは意外だった。

 私の反応に、八城もすこしだけ苦笑している。

「それよりも、」
「うん?」
「明菜はいつになったら名前で呼んでくれんの」
「え?」

 八城の禁酒の謎に迫る前にあっさりと話が切り替わってしまった。呆然として、「名前?」と問い直せば、なおも楽しそうな八城が笑った。

「ずっと八城さんだから、結構寂しいっす」
「あ……」
「呼んで」
「え、あは、はるうみ、さん?」

 実は、土曜の草野球に行くたびに周りの人たちが『ハル』と呼んでいるのを聞いて、あの場で名字で呼び続けることに違和感があって、子どもたちに合わせて勝手に『ハルくん』と呼んでいるのだけれど、八城が知っているはずもない。

 秘密を隠すようにして、「春海さん」と丁寧に声に出せば、八城の表情が明るく華やいだ。

「お、ちゃんと覚えられてる」
「それは……、書類でも何度も見ていますし」
「よくさ、はるみって言われんだよね」
「はるうみさん、なんですよね」
「気づいてくれて嬉しい」
「気付きますよ」

 好きな人の名前だから、気づかないはずもない。

 こんなにも喜んでもらえるのであれば、もっとずっと前から呼んでいればよかったと思う。

 私も、八城に名前を呼ばれるたびに胸がぎゅっと詰まって仕方がなくなる。あまい瞳にじっと見つめられて、照れながらも笑ってみたら、八城も同じように小さく笑ってくれた。
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