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STEP 9 「今日もめちゃくちゃ可愛いっすね」
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「明菜ちゃんは出張土産、何が良い?」
「あ……、三週間ですよね。お土産は……、気にしないで大丈夫です」
「言うと思った。めちゃくちゃ買ってくるわ」
「ええ?」
「覚悟しとけ」
はっきりと宣言した八城が、けらけらと笑ってソフトドリンクに口を付けている。
八城との関係は、いつ終わりを迎えるのだろうか。こうして彼女のように扱われている間、優しい夢を見ているような気がする。
もうすでに、私の生活の至る所に八城の痕跡が残されている。この生活が、終わってしまったら——。
「明菜?」
「うん?」
「飯、食わねえの?」
「あ、食べます」
声をかけられて、ようやくしばらく自分の世界に入ってしまっていたことに気づいた。
慌てて目の前に置かれた豪勢な肉にナイフを入れる。
綺麗にカットして口に含んだら、八城が同じように食事を始めた。八城の一口は本当に大きいと思う。私がしっかりと味わっているうちに、次々と八城の口に料理が入ってしまうから不思議だ。
「美味しいです」
「ん、うまいね。明菜の飯が一番だけど、こういうのもたまにいい」
「あはは、いつも褒めてくださって、嬉しいです。お家でも作れるかな……、調味料が何となくわかるので」
「え、わかんの?」
「あ、何となくですよ?」
「何となくもわかんねえわ。すごいな」
「いや、全然、こんなふうに焼いたりはできないですし、軽い出来心で、できるかなと思っただけです」
「あはは、なんで慌ててんの?」
「なんだか、お店に失礼かもしれないと思いなおして」
作ってもらったものを家で再現できるかどうか話すのはあまり行儀がよくない気がしてきた。
慌てて話を変えようと口を開いたら、足の上で握っていた手の上に大きな手のひらが乗った。
「八城さ、」
「今日もめちゃくちゃ可愛いっすね」
「ええ?」
「今すぐキスしてやりたいくらい」
すこしだけ顔を寄せてくる八城に吃驚して頭を引けば、咎めるように指先を握る手に力を込められた。横に座っているから、すぐにでも、触れ合える距離まで近づくことができてしまう。
「ここ、では、」
「ん?」
「やしろさん、」
「名前、もう呼んでくれない?」
「あ、はるうみさん……?」
「はい」
「ここでは、ちょっと……」
「じゃあ、後でたっぷりもらうわ」
茶化しているのか本気なのか、図りかねる言葉を囁かれて、何も言えずに押し黙ってしまった。
私の表情を覗き込んだ八城は、触れ合っていた指先を簡単に手放して、もう一度ナイフとフォークに手を伸ばしている。
「ああ、そういやこの間中田が……」
ぐるぐる回る考えは、結局八城の軽快な話に引き込まれて有耶無耶になってしまった。
八城と交際する女性は、こうして八城の好きなお店に連れられて、彼が話してくれるすてきな話を聞くことができる。心底うらやましいと思う。
「八城さんは、本当にうちの会社が好きですよね」
「ん? あ~、まあ、世話になった人も多いし、明菜みたいな可愛い後輩がたくさんできちゃって、辞めらんないんだよね」
「辞めようと思われたこともあるんですか?」
「まあ。そりゃああるよ。ただ、その時に三島社長に結構助けてもらってさ」
「社長ですか?」
「そう。新人の時、大口の契約でトラブって役職者連れてくからって言われて、待ち合わせ場所に行ったら、まさかの社長が来ててさ。とんとん拍子で丸く収まったんだよね。あれはビビった。児島なんかにはめちゃくちゃに言われたんだけど、社長は普通に『人を喜ばせるためにやって起きたトラブルなら、きみが謝罪することはない』って」
「そんなことが」
「そう。ぜんっぜん会えるような人じゃないけど、そういう男がトップに座ってんなら、まだ続けても良いかって思い続けてこの歳まで来ちゃったわ」
社長は、一般社員からすると、ほとんど会うことのない人だ。総務部二課所属であればまだしも一課の私も、ほとんど社内で目にしたことがない。八城ほど活躍している社員なら、社長に目をかけられていてもおかしくはないのかもしれない。
実際に一か月後に予定されている三週間の海外出張も、八城が担当するのは、社長直々の指名があってのことと噂されていた。
「昇進のお話、受けないんですか?」
小さく笑っている八城に、つい、本音がこぼれてしまった。
「あー、聞いた? まあ、そうだなあ。有難いけど、現場でやってるのが楽しいし、あの権力争い見てると、さすがになあ」
「それは、なんとなくわかります」
児島を含め、重役の中には、次期トップの座を狙う揚げ足取り合戦が見え隠れしているのも事実だ。新崎から聞いていた通りの八城の回答に頷いて、肉を頬張った。
穏やかで、当たり前のしあわせがある、あたたかい家庭にあこがれていると言っていた。八城の将来が薄っすらと思い浮かぶ。微笑ましい未来を想像して、一人で笑ってしまった。
「はは、なに笑ってんの」
「いえ。八城さんはすてきだなあと思いまして」
「ん? 俺が昇進蹴ってる話が?」
「あはは、そうですね」
八城のすてきな夢に沿う優しい女性の姿を思い浮かべて、炭酸水の飛沫のようにはじけて消えてしまった。
ほとんど食べ終わった料理に手を止めて、小さく息を吐く。
「明菜ちゃん、ケーキ食えそう?」
「結構、お腹がいっぱいになってしまいました。半分こして……」
半分にして食べようと提案しかけて、不自然に声が滞ってしまった。
路面店のここは、お店の外の様子がよく見える。たまたま八城から視線を逸らした先に、この店に入ろうとしている二人組の姿が映り込んだ。瞬時に目を逸らして、息を整える。
「ん? 明菜ちゃん?」
「あ、あの」
「ん?」
「違うお店に、いきたいです」
「ん? 行きたい店、なんかあった?」
「うん、なんか、アイス食べたい」
「明菜ちゃんのリクエストとはめずらしい」
八城は私の言葉に、目をまるくして笑っている。その視線をどうにか、事実から隠したい。
必死になっていた。どう考えても2人組はこの店に入ろうとしていた。見計らって店を出れば、鉢合わせずに済むかもしれない。
「はやく、いきたい」
「何その可愛いの」
「いこ」
どうにか窓の外から意識を逸らしたくて、八城の腕を引いた。私の突然の行動で、八城はますます表情を驚かせていた。
自分らしくない行動をとっていることは分かっている。けれど、あれだけは、絶対に見せてはいけない。
どうにか立ち上がらせようとして、八城が鞄へと顔を向けてしまうのを見ていた。八城の鞄の先に、一面ガラス張りの窓がある。
「八城さん、」
「あー……、なるほど」
必死になっていたのに、八城の目は、はっきりとその姿を捕らえてしまったらしい。
楽しそうに腕を組んで歩いている。男性を愛おしそうな目で見つめているその女性——絢瀬菫は、いつもの綺麗な微笑みではなく、心底楽しそうな、笑い声が聞こえてきそうな笑顔を浮かべていた。
一目で、隣の男性を愛しているのだと理解できてしまう。
「……見ちゃ、だめです」
一度見たものを記憶から消すことは出来ない。
絢瀬との間であれば、たしかに優しい家庭を作ることもできるだろう。あの男性と笑い合う姿を見ていれば、こころの底からそう思える。
八城の腕を力なく引いて、振り返った彼に、小さく笑われてしまった。
「うん、じゃあもう見ない」
鞄を持ち直した八城が立ち上がる。同じようにソファから立ち上がって、八城の後ろを歩いた。
今度こそお金を支払おうと財布を出すものの、始まりの日のバーと同じように八城があっさりと支払いを終えて店から出る。
絢瀬と恋人は、すでに店の中に入っているらしい。軒先に出るころには、それらしい人影はどこにも見当たらなかった。
「付き合わせてしまって、ごめんなさい」
「ん? なんで明菜ちゃんが謝んの?」
「さっきの……見せてしまって、その」
「はは。幸せそうだったね。絢瀬さん、楽しそうに笑ってたな」
私とまったく同じ感想を抱いている八城に対して、掛ける言葉が見当たらない。ゆっくりと歩き出した八城の横について、ちらりとその瞳を見上げる。
八城の瞳は、どこまでも優しそうな色をしていた。
何度か口を開いては閉じて、結局何一つ言葉にならずに八城の横顔を見続けていた。ふいに私を振り返った八城が、空気を乱すように意地悪そうな笑みを浮かべた。
「慰めようとしてくれてますか」
まるで、傷ついてなんかいなさそうな目をして、私に微笑みかけてくれる。こんなときにも場の空気を明るくしてしまう八城は、本当に優しい。
「ごめんなさい、何も、できなくて」
絢瀬と恋人から視界を覆い隠すことも、巧みな話術で八城を笑わせることもできない。自分の不甲斐なさに呆れてしまった。
謝りながら小さく頭を下げたら、隣り合っている八城の手が、やんわりと私のものに触れた感覚があった。顔を上げると、優しい瞳で見下ろす八城と真っ直ぐに目があった。
「手、繋ぐ?」
「ええ?」
「繋いでくれたら、元気出るかも」
わざと触れ合わされる指先を感じて、視線を向ける。八城の大きな手が私の皮膚を撫でるように触れて、答えも聞かずにつなぎ合わされた。
八城の指先は、いつも温かい。
拒絶する理由が一つも見当たらなくて、八城が握ってくれているように、自分の指先に力を込めた。
駅前方面に向かって、ゆっくりと歩いている。時刻は八時で、まだ、終電までも時間があった。ケーキやアイスクリームが食べたい気分なんて霧散して、ただ八城と一緒に歩き続けている。
無謀だと思いながらも、どうしても声がこぼれ落ちてしまった。
「まだ好きですか」
「ん?」
「すてきですよね、絢瀬さん」
わざわざ自分から傷つきに行かなくていいと思うのに、どうしてか声になってしまった。八城との時間が増えれば増えるほどに、どんどん好きの重さが増えて、胸が苦しくなる。
絢瀬は、一度給湯室で話をして以来、会社で会えば必ず声をかけてくれるほどには仲が良くなった。
話せば話すほどに魅力的な女性だと思うから、絢瀬を思う八城の気持ちを奪いたいだなんて、大それたことを考えることもできない。
そもそも私は、八城春海にこの思いを伝えるべきではない。
分かっているくせに、自嘲のような苦しい表情を浮かべてしまった。私の顔を見た八城が、慰めるように優しく笑って、口を開いてくれる。きっと、私の望む答えを作ってくれる。そんな予感があった。
「あーそうだね。可愛い人だと思う。でも今は、明菜がいてくれてるだろ」
はっきりと、私のほしい言葉を口にしてくれる。八城の優しさの前で、泣き出してしまいそうになった。
慰めだろうか。それとも、誘惑だろうか。誘惑だとしたら、私はとっくの昔に、陥落して溺れきっている。
「私で、事足りていますか」
「こんなに可愛いのに、自覚ないんだ?」
「そんなことを言ってくださるのは、八城さんだけです」
「あはは。もしかして絢瀬さんに嫉妬してる?」
「違います」
——嫉妬ができるような、立場にはいない。
ただ、一度抱いてもらうためだけの関係だ。好きになって、同じように好きになってもらおうと思うのはおかしい。
私は、八城と付き合って、その先に結婚して、ずっとそばに居られるような人間ではない。
八城の望むようなしあわせは、私の未来には、おそらくないだろう。だからこそ、八城をこれ以上好きになってはいけない。
「なんだ。残念だな」
もう何度も胸の内で思い続けていることをもう一度刻み付けている私を見ながら、八城はまた楽しそうな表情を作って笑っていた。繋がれた手をぎゅっと引かれて、身体がくらりとよろめいた。ぴったりと八城の肩に自分の肩がくっついて、近くに迫った八城の瞳を見上げる。
「絢瀬さんは確かに魅力ある人だけど、明菜は明菜の魅力があるだろ。それって比べたり優劣つけたりできるもんじゃないし」
「は、い」
「たぶん、明菜の飯、世界一うまいし」
「そんなことは」
「俺の世界では、もう結構初めての経験ばっかさせられてるんだけど」
誰にも教えたくない真実を教えてくれるみたいに、小さく囁かれた。
「あ……、三週間ですよね。お土産は……、気にしないで大丈夫です」
「言うと思った。めちゃくちゃ買ってくるわ」
「ええ?」
「覚悟しとけ」
はっきりと宣言した八城が、けらけらと笑ってソフトドリンクに口を付けている。
八城との関係は、いつ終わりを迎えるのだろうか。こうして彼女のように扱われている間、優しい夢を見ているような気がする。
もうすでに、私の生活の至る所に八城の痕跡が残されている。この生活が、終わってしまったら——。
「明菜?」
「うん?」
「飯、食わねえの?」
「あ、食べます」
声をかけられて、ようやくしばらく自分の世界に入ってしまっていたことに気づいた。
慌てて目の前に置かれた豪勢な肉にナイフを入れる。
綺麗にカットして口に含んだら、八城が同じように食事を始めた。八城の一口は本当に大きいと思う。私がしっかりと味わっているうちに、次々と八城の口に料理が入ってしまうから不思議だ。
「美味しいです」
「ん、うまいね。明菜の飯が一番だけど、こういうのもたまにいい」
「あはは、いつも褒めてくださって、嬉しいです。お家でも作れるかな……、調味料が何となくわかるので」
「え、わかんの?」
「あ、何となくですよ?」
「何となくもわかんねえわ。すごいな」
「いや、全然、こんなふうに焼いたりはできないですし、軽い出来心で、できるかなと思っただけです」
「あはは、なんで慌ててんの?」
「なんだか、お店に失礼かもしれないと思いなおして」
作ってもらったものを家で再現できるかどうか話すのはあまり行儀がよくない気がしてきた。
慌てて話を変えようと口を開いたら、足の上で握っていた手の上に大きな手のひらが乗った。
「八城さ、」
「今日もめちゃくちゃ可愛いっすね」
「ええ?」
「今すぐキスしてやりたいくらい」
すこしだけ顔を寄せてくる八城に吃驚して頭を引けば、咎めるように指先を握る手に力を込められた。横に座っているから、すぐにでも、触れ合える距離まで近づくことができてしまう。
「ここ、では、」
「ん?」
「やしろさん、」
「名前、もう呼んでくれない?」
「あ、はるうみさん……?」
「はい」
「ここでは、ちょっと……」
「じゃあ、後でたっぷりもらうわ」
茶化しているのか本気なのか、図りかねる言葉を囁かれて、何も言えずに押し黙ってしまった。
私の表情を覗き込んだ八城は、触れ合っていた指先を簡単に手放して、もう一度ナイフとフォークに手を伸ばしている。
「ああ、そういやこの間中田が……」
ぐるぐる回る考えは、結局八城の軽快な話に引き込まれて有耶無耶になってしまった。
八城と交際する女性は、こうして八城の好きなお店に連れられて、彼が話してくれるすてきな話を聞くことができる。心底うらやましいと思う。
「八城さんは、本当にうちの会社が好きですよね」
「ん? あ~、まあ、世話になった人も多いし、明菜みたいな可愛い後輩がたくさんできちゃって、辞めらんないんだよね」
「辞めようと思われたこともあるんですか?」
「まあ。そりゃああるよ。ただ、その時に三島社長に結構助けてもらってさ」
「社長ですか?」
「そう。新人の時、大口の契約でトラブって役職者連れてくからって言われて、待ち合わせ場所に行ったら、まさかの社長が来ててさ。とんとん拍子で丸く収まったんだよね。あれはビビった。児島なんかにはめちゃくちゃに言われたんだけど、社長は普通に『人を喜ばせるためにやって起きたトラブルなら、きみが謝罪することはない』って」
「そんなことが」
「そう。ぜんっぜん会えるような人じゃないけど、そういう男がトップに座ってんなら、まだ続けても良いかって思い続けてこの歳まで来ちゃったわ」
社長は、一般社員からすると、ほとんど会うことのない人だ。総務部二課所属であればまだしも一課の私も、ほとんど社内で目にしたことがない。八城ほど活躍している社員なら、社長に目をかけられていてもおかしくはないのかもしれない。
実際に一か月後に予定されている三週間の海外出張も、八城が担当するのは、社長直々の指名があってのことと噂されていた。
「昇進のお話、受けないんですか?」
小さく笑っている八城に、つい、本音がこぼれてしまった。
「あー、聞いた? まあ、そうだなあ。有難いけど、現場でやってるのが楽しいし、あの権力争い見てると、さすがになあ」
「それは、なんとなくわかります」
児島を含め、重役の中には、次期トップの座を狙う揚げ足取り合戦が見え隠れしているのも事実だ。新崎から聞いていた通りの八城の回答に頷いて、肉を頬張った。
穏やかで、当たり前のしあわせがある、あたたかい家庭にあこがれていると言っていた。八城の将来が薄っすらと思い浮かぶ。微笑ましい未来を想像して、一人で笑ってしまった。
「はは、なに笑ってんの」
「いえ。八城さんはすてきだなあと思いまして」
「ん? 俺が昇進蹴ってる話が?」
「あはは、そうですね」
八城のすてきな夢に沿う優しい女性の姿を思い浮かべて、炭酸水の飛沫のようにはじけて消えてしまった。
ほとんど食べ終わった料理に手を止めて、小さく息を吐く。
「明菜ちゃん、ケーキ食えそう?」
「結構、お腹がいっぱいになってしまいました。半分こして……」
半分にして食べようと提案しかけて、不自然に声が滞ってしまった。
路面店のここは、お店の外の様子がよく見える。たまたま八城から視線を逸らした先に、この店に入ろうとしている二人組の姿が映り込んだ。瞬時に目を逸らして、息を整える。
「ん? 明菜ちゃん?」
「あ、あの」
「ん?」
「違うお店に、いきたいです」
「ん? 行きたい店、なんかあった?」
「うん、なんか、アイス食べたい」
「明菜ちゃんのリクエストとはめずらしい」
八城は私の言葉に、目をまるくして笑っている。その視線をどうにか、事実から隠したい。
必死になっていた。どう考えても2人組はこの店に入ろうとしていた。見計らって店を出れば、鉢合わせずに済むかもしれない。
「はやく、いきたい」
「何その可愛いの」
「いこ」
どうにか窓の外から意識を逸らしたくて、八城の腕を引いた。私の突然の行動で、八城はますます表情を驚かせていた。
自分らしくない行動をとっていることは分かっている。けれど、あれだけは、絶対に見せてはいけない。
どうにか立ち上がらせようとして、八城が鞄へと顔を向けてしまうのを見ていた。八城の鞄の先に、一面ガラス張りの窓がある。
「八城さん、」
「あー……、なるほど」
必死になっていたのに、八城の目は、はっきりとその姿を捕らえてしまったらしい。
楽しそうに腕を組んで歩いている。男性を愛おしそうな目で見つめているその女性——絢瀬菫は、いつもの綺麗な微笑みではなく、心底楽しそうな、笑い声が聞こえてきそうな笑顔を浮かべていた。
一目で、隣の男性を愛しているのだと理解できてしまう。
「……見ちゃ、だめです」
一度見たものを記憶から消すことは出来ない。
絢瀬との間であれば、たしかに優しい家庭を作ることもできるだろう。あの男性と笑い合う姿を見ていれば、こころの底からそう思える。
八城の腕を力なく引いて、振り返った彼に、小さく笑われてしまった。
「うん、じゃあもう見ない」
鞄を持ち直した八城が立ち上がる。同じようにソファから立ち上がって、八城の後ろを歩いた。
今度こそお金を支払おうと財布を出すものの、始まりの日のバーと同じように八城があっさりと支払いを終えて店から出る。
絢瀬と恋人は、すでに店の中に入っているらしい。軒先に出るころには、それらしい人影はどこにも見当たらなかった。
「付き合わせてしまって、ごめんなさい」
「ん? なんで明菜ちゃんが謝んの?」
「さっきの……見せてしまって、その」
「はは。幸せそうだったね。絢瀬さん、楽しそうに笑ってたな」
私とまったく同じ感想を抱いている八城に対して、掛ける言葉が見当たらない。ゆっくりと歩き出した八城の横について、ちらりとその瞳を見上げる。
八城の瞳は、どこまでも優しそうな色をしていた。
何度か口を開いては閉じて、結局何一つ言葉にならずに八城の横顔を見続けていた。ふいに私を振り返った八城が、空気を乱すように意地悪そうな笑みを浮かべた。
「慰めようとしてくれてますか」
まるで、傷ついてなんかいなさそうな目をして、私に微笑みかけてくれる。こんなときにも場の空気を明るくしてしまう八城は、本当に優しい。
「ごめんなさい、何も、できなくて」
絢瀬と恋人から視界を覆い隠すことも、巧みな話術で八城を笑わせることもできない。自分の不甲斐なさに呆れてしまった。
謝りながら小さく頭を下げたら、隣り合っている八城の手が、やんわりと私のものに触れた感覚があった。顔を上げると、優しい瞳で見下ろす八城と真っ直ぐに目があった。
「手、繋ぐ?」
「ええ?」
「繋いでくれたら、元気出るかも」
わざと触れ合わされる指先を感じて、視線を向ける。八城の大きな手が私の皮膚を撫でるように触れて、答えも聞かずにつなぎ合わされた。
八城の指先は、いつも温かい。
拒絶する理由が一つも見当たらなくて、八城が握ってくれているように、自分の指先に力を込めた。
駅前方面に向かって、ゆっくりと歩いている。時刻は八時で、まだ、終電までも時間があった。ケーキやアイスクリームが食べたい気分なんて霧散して、ただ八城と一緒に歩き続けている。
無謀だと思いながらも、どうしても声がこぼれ落ちてしまった。
「まだ好きですか」
「ん?」
「すてきですよね、絢瀬さん」
わざわざ自分から傷つきに行かなくていいと思うのに、どうしてか声になってしまった。八城との時間が増えれば増えるほどに、どんどん好きの重さが増えて、胸が苦しくなる。
絢瀬は、一度給湯室で話をして以来、会社で会えば必ず声をかけてくれるほどには仲が良くなった。
話せば話すほどに魅力的な女性だと思うから、絢瀬を思う八城の気持ちを奪いたいだなんて、大それたことを考えることもできない。
そもそも私は、八城春海にこの思いを伝えるべきではない。
分かっているくせに、自嘲のような苦しい表情を浮かべてしまった。私の顔を見た八城が、慰めるように優しく笑って、口を開いてくれる。きっと、私の望む答えを作ってくれる。そんな予感があった。
「あーそうだね。可愛い人だと思う。でも今は、明菜がいてくれてるだろ」
はっきりと、私のほしい言葉を口にしてくれる。八城の優しさの前で、泣き出してしまいそうになった。
慰めだろうか。それとも、誘惑だろうか。誘惑だとしたら、私はとっくの昔に、陥落して溺れきっている。
「私で、事足りていますか」
「こんなに可愛いのに、自覚ないんだ?」
「そんなことを言ってくださるのは、八城さんだけです」
「あはは。もしかして絢瀬さんに嫉妬してる?」
「違います」
——嫉妬ができるような、立場にはいない。
ただ、一度抱いてもらうためだけの関係だ。好きになって、同じように好きになってもらおうと思うのはおかしい。
私は、八城と付き合って、その先に結婚して、ずっとそばに居られるような人間ではない。
八城の望むようなしあわせは、私の未来には、おそらくないだろう。だからこそ、八城をこれ以上好きになってはいけない。
「なんだ。残念だな」
もう何度も胸の内で思い続けていることをもう一度刻み付けている私を見ながら、八城はまた楽しそうな表情を作って笑っていた。繋がれた手をぎゅっと引かれて、身体がくらりとよろめいた。ぴったりと八城の肩に自分の肩がくっついて、近くに迫った八城の瞳を見上げる。
「絢瀬さんは確かに魅力ある人だけど、明菜は明菜の魅力があるだろ。それって比べたり優劣つけたりできるもんじゃないし」
「は、い」
「たぶん、明菜の飯、世界一うまいし」
「そんなことは」
「俺の世界では、もう結構初めての経験ばっかさせられてるんだけど」
誰にも教えたくない真実を教えてくれるみたいに、小さく囁かれた。
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