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STEP 13 「逃がさないよ」
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「……あ、れ」
一度押しても出ない。もう一度、すこしつよく長押ししても、結果は同じだった。
花岡は、八城が通話の途中で倒れた可能性があると言っていた。そうだとしたら、インターフォンに気づかずに気絶しているのかもしれない。最後に見た、八城の苦しそうな表情を思いだして、ハートがちぎれそうになる。
どうして、すぐに駆け付けなかったのだろう。買い物なんて後回しでよかった。先にここへきて、八城の無事を確認するべきだった。動揺して、正しい判断ができていなかった。
「どう、しよう」
八城に何かがあったら、どうしたら良いのだろうか。慌ててスマホを取り出す。画面には、またしても花岡からの不在着信が残されていた。不安で自分の指先がひどく冷たくなっていることに気づいてしまう。ずっと震えっぱなしの手で通話を選択して、花岡の応答を待った。
「もしも」
『小宮? 今どこいる?』
私も慌てているけれど、花岡もひどく慌てている様子だった。吃驚して、「八城さんのお家の前だけ、ど」と言葉につっかかりながら言い終えれば、『まだ居んの?』と尋ねられた。
「うん、あのね、八城さん、インターフォンに気づいてくれなくて、もしかして相当ひどいのかも」
『……あー、そっか、それはやばいな。今から行くから、そこでちょっと待ってて』
「え? でも、お家開かないから、管理人さんとか」
『良いから待ってろ! 動くな!』
「は、はい」
豪快に切られて、さすがに呆然としてしまった。しばらく一人で放心して、もう一度インターフォンを押してみる。
「……だいじょうぶ、かな」
総務部に配属されてから、八城が体調不良になっているところなど見たこともなかった。つねに溌溂とした笑顔を見せてくれる人だ。出張先で倒れないように必死に帰ってきたのだとしたら、片付けもできないだろうし、食べるものもなくて困っているはずだ。
居てもたってもいられずにスマホをもう一度見つめて、連絡先の中から八城春海を探す。電話をかけようとして、先にスマホが着信の通知を伝えてくる。
「……え?」
ディスプレイには、今、私がかけようと思っていた相手の名前が映り込んでいた。おどろいてスマホを落としかけてしまった。慌てて掴みなおせば、運悪く指先が通話のマークに触れてしまう。
『明菜?』
ここ数日、何度も夢に聞いた音が鳴った気がした。
『あきな』
やっぱり、三週間では、すこしも忘れられなかった。
二度呼ばれて、切ることもできずにスマホを耳に押し当てた。八城の声は、私が想像していたような痛々しいものには聞こえない。
予想外の展開でずっと混乱している。よく分からないことが起こっているのに、八城を問い詰める気にもなれずに、声をあげていた。
「は、い」
『……よかった。出てくれた』
心底安堵したような、優しい声が耳に聞こえてくる。その声だけで、身体から、力が抜けてしまった。
八城の部屋が角部屋で良かった。横の壁にもたれかかって崩れ落ちる私を知る人が、誰も居なくてよかった。あまりにもあやしいから、きっと見つかってしまえばつまみ出されていただろう。
『あきな?』
「……ご出張、おつかれさま、です」
『ん、ありがとう。明菜も仕事、お疲れ』
「はい、あの八城さ」
『今どこいる?』
風邪の調子は、と聞こうとして、先に尋ねられてしまった。こころなしか、八城の声とは別に、どこかを歩くような音が聞こえる。どう考えても、八城は今、この部屋にはいなさそうだ。瞬時に理解して、押し黙ってしまった。
まさか、八城の部屋の前で、へたり込んでいるとは言えない。
「八城さん、あの、ご体調は……、大丈夫ですか」
『……体調? ああ、かなり寝不足だけど、いや、まあ、大丈夫』
「ね、ぶそく……」
『明菜に会えなくて死にそうだった以外は、わりと元気です』
嘘を吐いているとは思えない声だ。急激に胸に甘さが詰め込まれて、息が止まりそうになる。ようやく気付いた。花岡の電話の言葉は、たぶん嘘だ。
私と八城を、どうにか引き合わせようとしている。
『明菜? 今どこいんの?』
「……八城さんが風邪だと、花岡くんから聞いて」
『……は?』
「でも、大丈夫なら、よかったです。今、お電話しようかと思っていたところで、ご無事ならそれで」
へたり込んだ足に力を入れて、ふらふらと立ち上がる。こんなところに居たら、迷惑だ。はやく、家に帰らなければならない。
「なんか、勘違いだったみたいですね。……他の誰か、ええと、ほら中田くんだったのかもしれないです。聞き間違えたかな、風邪、心配ですね」
『俺が風邪だと思って、心配してくれてたの』
「……ただ、同僚として」
ただ、同僚として、電話をしようと思っただけだ、なんて、苦しい言い訳だ。ようやく曖昧な力がこもるようになった身体を動かそうと顔をあげた時、本当に、苦しい言い訳だったと思った。
「……明菜」
その人は、まっすぐに私を見おろしていた。スーツ姿で、手には大きなスーツケースを持っている。あきらかに出張から帰って来たばかりの風貌だ。
私が言葉に躊躇って俯いているうちに、八城の革靴の爪先が、視界に映る。一瞬で八城の匂いが香った。ただそれだけで、安堵してしまいそうになる。
「ただの同僚なのに、心配して部屋の前まで来てくれたんだ」
「……すこし、様子を見てきてほしいと言われて」
「こんなに食料品買って?」
「なにか、たべものを、」
「こんな調理必要そうなもんばっか買って、俺がマジで倒れてたら、家入って、作ってくれてたんだ」
頭がうまく回らない。言葉が出なくて、ただ俯いている。もう一歩寄ってくる爪先が見えて、無意識に後退りしている。
八城が風邪だなんて、真っ赤な嘘だ。
「明菜、こっち見ろ」
私に差し出してくる言葉が、こんなにも力強くて、逃がしてくれない。
「明菜」
「……かえり、ます」
「無理」
「かえ、して」
「明菜、頼むから、こっち見て」
力強い口調で命令するのに、ふいにこうして、懇願するように優しく切なそうに囁いてくる。私は、この人を、すこしも、本当に、つめの先ほども、忘れられていなかった。
ゆっくりと顔をあげたら、どこまでも優しい瞳に見下ろされていた。こんなにも温かく見つめてもらっていたなんて、知らなかった。
「ただいま」
「……お、つかれさま、です」
「おかえり、じゃないの」
八城の一言で、私の全ての呼吸が、壊れてしまいそうだ。まっすぐに見下ろされて、すべての建前が崩れて消える。
この瞳を見ていたら、だめだ。どうしようもないくらい大きな好意が、隠しきれなくなる。ふ、と目を逸らして身体に力を入れた。
「……お元気そうで、よかったです。かえります」
言葉にしながら八城の横を通ろうと足を踏み出す。
「ダメだって」
低い、腹に響くような声だ。言葉とともに、しっかりと腕を掴まれる。三週間前に八城の部屋の扉から逃げ出したときのような、優しい力ではない。
「手、」
「好きな男に勘違いされてまで、俺の部屋来たんだろ」
「な、に」
「ぶっ倒れた男の看病、好きな男に依頼されて、それでも俺のことが心配して来てくれたんだろ」
「そ、れは、だって……」
次々と打ち込まれる声に、言葉が出ない。すべてが、私の本音にたどり着いてしまいそうだ。
花岡に八城の看病を依頼されたとき、私の頭には、八城のことしか浮かんでいなかった。どうやっても花岡が好きだと言い張るのに無理が生じる。
ごまかせない。八城のように弁の立つ人間でもない。
「部屋、入って」
八城の低い声に、簡潔に言い渡された。手首に触れている八城の手の力がすこしだけつよくなった気がする。すべてに目眩を感じていた。
入ってはいけない。きっと、入ったら、誤魔化せない。ここから逃げて、冷静にならなければならない。
ねえ、そうじゃないと、私は、八城の人生をぐちゃぐちゃにする。
「逃がさないよ」
ぞっとするほどに低い声だった。そらしていた視線が、勝手に八城の目を見上げてしまう。もうずっと、この場に来てからひたすらに私のことだけを見つめていたみたいな熱い瞳に絡まって、ただ狼狽えてしまう。
「にげ、るなんて」
「じゃあ入って」
八城の手に優しく引かれて、ドアの前に戻される。私の片手を掴んだまま空いた手でポケットから鍵を取り出した八城が、簡単に部屋のドアを開いて私の身体を中へと押した。
一度部屋から出て行った八城が、瞬きほどの束の間に戻ってきて、スーツケースを乱雑に部屋の端に滑らせた。ただ、何も言えずに立ち尽くしているうちに、八城が音を立てて鍵をかける。
がちゃり、と雑な音が鳴った。カギをかけるための音だったはずが、どうしてか、私のこころの鍵を、強引にこじ開ける音に聞こえた。
一度押しても出ない。もう一度、すこしつよく長押ししても、結果は同じだった。
花岡は、八城が通話の途中で倒れた可能性があると言っていた。そうだとしたら、インターフォンに気づかずに気絶しているのかもしれない。最後に見た、八城の苦しそうな表情を思いだして、ハートがちぎれそうになる。
どうして、すぐに駆け付けなかったのだろう。買い物なんて後回しでよかった。先にここへきて、八城の無事を確認するべきだった。動揺して、正しい判断ができていなかった。
「どう、しよう」
八城に何かがあったら、どうしたら良いのだろうか。慌ててスマホを取り出す。画面には、またしても花岡からの不在着信が残されていた。不安で自分の指先がひどく冷たくなっていることに気づいてしまう。ずっと震えっぱなしの手で通話を選択して、花岡の応答を待った。
「もしも」
『小宮? 今どこいる?』
私も慌てているけれど、花岡もひどく慌てている様子だった。吃驚して、「八城さんのお家の前だけ、ど」と言葉につっかかりながら言い終えれば、『まだ居んの?』と尋ねられた。
「うん、あのね、八城さん、インターフォンに気づいてくれなくて、もしかして相当ひどいのかも」
『……あー、そっか、それはやばいな。今から行くから、そこでちょっと待ってて』
「え? でも、お家開かないから、管理人さんとか」
『良いから待ってろ! 動くな!』
「は、はい」
豪快に切られて、さすがに呆然としてしまった。しばらく一人で放心して、もう一度インターフォンを押してみる。
「……だいじょうぶ、かな」
総務部に配属されてから、八城が体調不良になっているところなど見たこともなかった。つねに溌溂とした笑顔を見せてくれる人だ。出張先で倒れないように必死に帰ってきたのだとしたら、片付けもできないだろうし、食べるものもなくて困っているはずだ。
居てもたってもいられずにスマホをもう一度見つめて、連絡先の中から八城春海を探す。電話をかけようとして、先にスマホが着信の通知を伝えてくる。
「……え?」
ディスプレイには、今、私がかけようと思っていた相手の名前が映り込んでいた。おどろいてスマホを落としかけてしまった。慌てて掴みなおせば、運悪く指先が通話のマークに触れてしまう。
『明菜?』
ここ数日、何度も夢に聞いた音が鳴った気がした。
『あきな』
やっぱり、三週間では、すこしも忘れられなかった。
二度呼ばれて、切ることもできずにスマホを耳に押し当てた。八城の声は、私が想像していたような痛々しいものには聞こえない。
予想外の展開でずっと混乱している。よく分からないことが起こっているのに、八城を問い詰める気にもなれずに、声をあげていた。
「は、い」
『……よかった。出てくれた』
心底安堵したような、優しい声が耳に聞こえてくる。その声だけで、身体から、力が抜けてしまった。
八城の部屋が角部屋で良かった。横の壁にもたれかかって崩れ落ちる私を知る人が、誰も居なくてよかった。あまりにもあやしいから、きっと見つかってしまえばつまみ出されていただろう。
『あきな?』
「……ご出張、おつかれさま、です」
『ん、ありがとう。明菜も仕事、お疲れ』
「はい、あの八城さ」
『今どこいる?』
風邪の調子は、と聞こうとして、先に尋ねられてしまった。こころなしか、八城の声とは別に、どこかを歩くような音が聞こえる。どう考えても、八城は今、この部屋にはいなさそうだ。瞬時に理解して、押し黙ってしまった。
まさか、八城の部屋の前で、へたり込んでいるとは言えない。
「八城さん、あの、ご体調は……、大丈夫ですか」
『……体調? ああ、かなり寝不足だけど、いや、まあ、大丈夫』
「ね、ぶそく……」
『明菜に会えなくて死にそうだった以外は、わりと元気です』
嘘を吐いているとは思えない声だ。急激に胸に甘さが詰め込まれて、息が止まりそうになる。ようやく気付いた。花岡の電話の言葉は、たぶん嘘だ。
私と八城を、どうにか引き合わせようとしている。
『明菜? 今どこいんの?』
「……八城さんが風邪だと、花岡くんから聞いて」
『……は?』
「でも、大丈夫なら、よかったです。今、お電話しようかと思っていたところで、ご無事ならそれで」
へたり込んだ足に力を入れて、ふらふらと立ち上がる。こんなところに居たら、迷惑だ。はやく、家に帰らなければならない。
「なんか、勘違いだったみたいですね。……他の誰か、ええと、ほら中田くんだったのかもしれないです。聞き間違えたかな、風邪、心配ですね」
『俺が風邪だと思って、心配してくれてたの』
「……ただ、同僚として」
ただ、同僚として、電話をしようと思っただけだ、なんて、苦しい言い訳だ。ようやく曖昧な力がこもるようになった身体を動かそうと顔をあげた時、本当に、苦しい言い訳だったと思った。
「……明菜」
その人は、まっすぐに私を見おろしていた。スーツ姿で、手には大きなスーツケースを持っている。あきらかに出張から帰って来たばかりの風貌だ。
私が言葉に躊躇って俯いているうちに、八城の革靴の爪先が、視界に映る。一瞬で八城の匂いが香った。ただそれだけで、安堵してしまいそうになる。
「ただの同僚なのに、心配して部屋の前まで来てくれたんだ」
「……すこし、様子を見てきてほしいと言われて」
「こんなに食料品買って?」
「なにか、たべものを、」
「こんな調理必要そうなもんばっか買って、俺がマジで倒れてたら、家入って、作ってくれてたんだ」
頭がうまく回らない。言葉が出なくて、ただ俯いている。もう一歩寄ってくる爪先が見えて、無意識に後退りしている。
八城が風邪だなんて、真っ赤な嘘だ。
「明菜、こっち見ろ」
私に差し出してくる言葉が、こんなにも力強くて、逃がしてくれない。
「明菜」
「……かえり、ます」
「無理」
「かえ、して」
「明菜、頼むから、こっち見て」
力強い口調で命令するのに、ふいにこうして、懇願するように優しく切なそうに囁いてくる。私は、この人を、すこしも、本当に、つめの先ほども、忘れられていなかった。
ゆっくりと顔をあげたら、どこまでも優しい瞳に見下ろされていた。こんなにも温かく見つめてもらっていたなんて、知らなかった。
「ただいま」
「……お、つかれさま、です」
「おかえり、じゃないの」
八城の一言で、私の全ての呼吸が、壊れてしまいそうだ。まっすぐに見下ろされて、すべての建前が崩れて消える。
この瞳を見ていたら、だめだ。どうしようもないくらい大きな好意が、隠しきれなくなる。ふ、と目を逸らして身体に力を入れた。
「……お元気そうで、よかったです。かえります」
言葉にしながら八城の横を通ろうと足を踏み出す。
「ダメだって」
低い、腹に響くような声だ。言葉とともに、しっかりと腕を掴まれる。三週間前に八城の部屋の扉から逃げ出したときのような、優しい力ではない。
「手、」
「好きな男に勘違いされてまで、俺の部屋来たんだろ」
「な、に」
「ぶっ倒れた男の看病、好きな男に依頼されて、それでも俺のことが心配して来てくれたんだろ」
「そ、れは、だって……」
次々と打ち込まれる声に、言葉が出ない。すべてが、私の本音にたどり着いてしまいそうだ。
花岡に八城の看病を依頼されたとき、私の頭には、八城のことしか浮かんでいなかった。どうやっても花岡が好きだと言い張るのに無理が生じる。
ごまかせない。八城のように弁の立つ人間でもない。
「部屋、入って」
八城の低い声に、簡潔に言い渡された。手首に触れている八城の手の力がすこしだけつよくなった気がする。すべてに目眩を感じていた。
入ってはいけない。きっと、入ったら、誤魔化せない。ここから逃げて、冷静にならなければならない。
ねえ、そうじゃないと、私は、八城の人生をぐちゃぐちゃにする。
「逃がさないよ」
ぞっとするほどに低い声だった。そらしていた視線が、勝手に八城の目を見上げてしまう。もうずっと、この場に来てからひたすらに私のことだけを見つめていたみたいな熱い瞳に絡まって、ただ狼狽えてしまう。
「にげ、るなんて」
「じゃあ入って」
八城の手に優しく引かれて、ドアの前に戻される。私の片手を掴んだまま空いた手でポケットから鍵を取り出した八城が、簡単に部屋のドアを開いて私の身体を中へと押した。
一度部屋から出て行った八城が、瞬きほどの束の間に戻ってきて、スーツケースを乱雑に部屋の端に滑らせた。ただ、何も言えずに立ち尽くしているうちに、八城が音を立てて鍵をかける。
がちゃり、と雑な音が鳴った。カギをかけるための音だったはずが、どうしてか、私のこころの鍵を、強引にこじ開ける音に聞こえた。
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