不埒に溺惑

藤川巴/智江千佳子

文字の大きさ
46 / 52

STEP 13 「俺だけにして」

しおりを挟む

「や、しろさ」
「――もう来てくんないかと思った」

 意味もなく、ただ名前を呼んだ私を振り返った八城が、静かにつぶやいた。その言葉が先だったのか、八城の抱擁が先だったのか、よく、覚えていない。

「明菜」

 ただ、その時の八城の声が、いっとうあたたかい音で、その抱擁が、どうしようもなく優しい熱だったことだけが確かだった。

「……くるつもりは、なかったんです」

 言い訳みたいな、頼りない言葉だ。本当に来るつもりはなかったのに、おかしな言葉だと思う。たったの三週間で、私が必死に心を切り裂いて作った言葉が、ばらばらに壊れてしまった。

 八城に乞われれば、きっと、すぐにでも壊れてしまっていたのだろうと思う。

 どうしようもなく、好きだった。

「もう俺のこと、忘れた?」

『来るつもりはなかった』だなんて、私の小さな抵抗の声を聞いた八城が、ますますつよく抱きしめてくる。まるで私の形を覚え直すみたいに、自分の形を教え込むみたいに抱きしめてくれる。たった一つの抱擁だけで、すべての熱が思いだされてしまった。

 好きから逃げられる、わけもない。

「触れたことも、キスしたことも、抱かれたことも、綺麗さっぱり忘れた?」
「なんで、そんなこと」

 八城はどうして、こんなことを聞いてくるのだろう。必死に忘れようとしていたのに、ただ抱きしめられるだけですべてが浮かび上がってしまう。

 八城にとって私は、ただの社長の娘だ。私という面倒くさい存在に付き合ってくれているだけだ。

 八城の好きな人でも何でもない。抱かれている間も、何をしたらいいのかも分からなくて、きっと、八城にとっては楽しくもない時間だっただろう。それなのに、最後まで根気強く付き合ってくれた。そんな人を、これ以上巻き込むわけにはいかない。

「こっちは、全然忘れらんなくて、まいってんだけど」

 突っぱねようと必死になっていた。それなのに、八城の声で、抵抗しかけた身体の力が抜けてしまう。

 過ちを犯したことを後悔しているから忘れられないとか、社長の娘だからだとか、そういう言葉には、どうしても聞こえなかった。

「もう一回思い出してくれねえ?」
「な、にを」
「ダメなら、思い出させてやるから、もう一回食われて」

 どうしてこんなにも、焦がれてたまらない人みたいな声を出すのだろう。

「もう、誘惑ゲーム、は、しなくて、いいんです、よ? もう、おわり、です」

 恋愛ゲームは終わりだ。誘惑はもうする必要もない。震える声で囁いたら、私を抱いていた手の力が緩んで、上から瞳を見おろされた。

「本気で誘惑してんだから、終わりもクソもねえよ」

 熱を吐き出すような声だった。目を見張っているうちに八城が勝手に顔を寄せて、抵抗する間もなく唇に噛みついてくる。後退りしかけた身体を彼に押されて、壁に背中が触れた。

 張り付けるように壁に手を縫い付けられて、ただされるがままになる。八城に教えられた身体が従順に熱を追いかけようとする。簡単に口内に侵入してきた舌に自分のものを舐められて、あっけなく喉から音が飛び出た。

「……っん!」

 私の反応を見て、さらに力をこめてくる八城の熱に浮かされて、指先から力が抜ける。八城に熱を灯されたら、あとはもう、欲しがるしかできなくなる。もう、この部屋に来てはいけないと思っていた理由さえも遠くかすんでくる。

 唇が離れる寸前に、無意識に口づけを強請って身体が動いてしまった。

「やしろ、」
「名前、忘れた?」

 誑かすような音が鳴っていた。ただしく誘惑されている。わかっているのに、抗うすべを知らなかった。

「あきな、呼んで」

 二度目、催促して耳にキスを落とされたら、もう、ただ従ってしまいたくなった。

「はる、うみ、さ」
「食っていい?」

 神経細胞にエラーが起こっているみたいに、八城以外のことがよく分からなくなる。こんなにも人を溺れさせるわざを持っている人だったなら、私にしてくれたたくさんの誘惑は、ただの子ども騙しだった。

 意図を持った爪先が、服の上から肩をなぞっている。ランジェリーストラップを曖昧に引っ掻いて、今にも肩から落とそうとしているのが分かる。

 こんなふうに誘惑されるものだなんて、知りもしなかった。

「脱がせてほしそうな顔してんね」

 ふ、と小さく笑われて、酩酊するまま、とうとう本音がこぼれてしまった。

「……抱いて、くれるんです、か」
「抱きたいよ、もうずっと」

 私のふしだらな本音に、すこしうれしそうな顔をしてくれる。すぐに答えを返してきた八城が、髪を撫でてくれた。

 ぼうっと見つめていれば、八城がしゃがみこんで、私の足に触れてくる。何も言わずに靴を脱がされて、もう一度見つめあったら身体を抱き起された。

「明菜が忘れられなくなるまで、抱く」
「ひ、あ」

 耳元にたっぷりと囁き落とされて、背筋に電流が走る。何も言えずに抱き着いたら、大股の八城が私の身体をベッドに下ろした。ここに来るのは二度目だ。もう、ないと思っていた。

 何もできずに、逆光の中に立つ八城を見上げている。八城はじっと私の瞳を射抜くように見下ろしていた。

 獰猛な瞳が不敵に笑んでいる。

 ジャケットを脱ぐ手つきは、どうしてかいつも荒っぽい。私に触れる時は、何よりも優しくしてくれているのに。今日も乱暴に脱ぎ捨てられた背広を見送っているうちに、ベッドのコイルが軋んだ。振り返って、ベッドに乗り上げてきた八城と目が合う。

「俺と同じとこまで、夢中になってもらうわ」
「おなじ、とこ」
「すっげえ深みまで」
「ふ、か、み」
「ぬま?」

 小さく笑いながらもどかしそうにネクタイを解いている。その姿を見ているだけで、心不全を起こしてしまいそうだ。

 いつも、すこし笑わせようとしてくれている気がする。私の緊張を解きほぐしてくれる。まるで、私が八城にとってのどこまでも優しくしたい相手であるかのように振る舞ってくれる。

 勘違いしたくてたまらない言葉ばかりを吐かれている。八城の好きな人になったみたいな感覚だ。

 ウソに決まっているのに、本気だと言ってくれたことを、どうしても信じたくなっている。夢中になっているのは、私の身体に、だろうか。とても、そんな風には思えない。

「わたし、ぜんぜん、上手じゃない、のに」

 上手も下手もわからない、ただの初心者だ。

 ネクタイをベッドの下に投げ捨てた八城に迫られて、無意識に後退りすれば、すぐに背中に枕の感触があたった。

 もう、逃げ場もない。

 八城の色気の前で、いつもすこし逃げ出したくなってしまう。勝手に指先が震えていた。シーツについたその手の上に、八城の手のひらが乗せられる。私に跨って、上から見おろしながら、なおも小さく笑っていた。

「なんで? めちゃくちゃ可愛かったけど」
「なにも、わからなくて」
「ん、わかんなくてずーっとしがみついて俺の名前呼んでんの、たまらなくそそられた」

 まるで、私が好きみたいな言葉ばかりだ。

「はる、」
「あれからずっと、明菜の声が聞きたくてたまんなかった」

 八城の言葉を聞いているだけで、名前を呼んでほしいと言われているのだと、錯覚してしまう。顔を寄せて、瞳を覗き込まれる。すこしでも頭を動かせば、いつでもキスできるような、恋人同士の距離だ。

「俺以外に触らせた?」

 この距離で囁く人以外に触れさせていたら、きっとそれは不貞行為だ。そう思えるくらいに、親密な声だった。

『NO』以外の回答が求められていないのだと、はっきりとわかってしまうような仕草にくらりと眩暈が広がった。

 八城以外に触れた男性が居たら、どうなってしまうのだろうか。

 想像しようとするだけでおそろしさを感じるような、たっぷりと欲を孕ませた声だ。マーキングされている、ような気がする。

 八城の、あまい囁き声だけで。

「ない、で、す」

 震えながら言葉を返したら、優しい唇に吸い付かれた。可愛い音を立てて、愛でられる。愛でられているのだとはっきり自覚した。あまりにも、隠す気がない。好意のようなものにしか見えない。

「良かった。俺だけにして」
「はるうみさん、だけ?」
「ん、明菜の初めてもらった責任、勝手に取るから」

 どこまでも酔いしれていた気分に、ぴしゃりと水をかけられたような思いだった。

 責任なんて、取らなくていい。ただ私が勝手に好きになってしまっただけだ。絶対に、父の言葉に従ったりしないでほしい。八城のこころを、大事にしてほしい。どうにか伝えようと慌てて八城に掴まれた手を動かそうとしても、びくともしない。

 ただ、まっすぐに、あまく見下ろされていた。

「せ、きにん、は」
「俺と同じくらい、それ以上に明菜が俺に惚れてくれるよう、努力する」

 責任なんて取らなくていい、と、はっきりと言おうと思っていた。

「――だから、俺のこと好きになってほしい」
「言われている、意味が……?」
「わかんねえの?」
「誘惑、ですか?」
「普通に、お付き合い交渉だろ」
「や、しろさん、私、のこと……」
「夢中だって言っただろ。わかんない? 勝手に惚れてるから、同じとこまで突き落とすために誘惑してんの。明菜もらえる責任狙って、口説いてんだよ」
「もらえる、せき、にん?」

 私が思っていた、重たい、気持ちの悪い責任とは、何かが違う、ような気がする。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

シンデレラは王子様と離婚することになりました。

及川 桜
恋愛
シンデレラは王子様と結婚して幸せになり・・・ なりませんでした!! 【現代版 シンデレラストーリー】 貧乏OLは、ひょんなことから会社の社長と出会い結婚することになりました。 はたから見れば、王子様に見初められたシンデレラストーリー。 しかしながら、その実態は? 離婚前提の結婚生活。 果たして、シンデレラは無事に王子様と離婚できるのでしょうか。

あなたがいなくなった後 〜シングルマザーになった途端、義弟から愛され始めました〜

瀬崎由美
恋愛
石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの二十七歳の専業主婦。三歳歳上の大輝とは大学時代のサークルの先輩後輩で、卒業後に再会したのがキッカケで付き合い始めて結婚した。 まだ生後一か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。二歳年上で公認会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。 息子の為にと自立を考えた優香は、働きに出ることを考える。それを知った宏樹は自分の経営する会計事務所に勤めることを勧めてくれる。陽太が保育園に入れることができる月齢になって義弟のオフィスで働き始めてしばらく、宏樹の不在時に彼の元カノだと名乗る女性が訪れて来、宏樹へと復縁を迫ってくる。宏樹から断られて逆切れした元カノによって、彼が優香のことをずっと想い続けていたことを暴露されてしまう。 あっさりと認めた宏樹は、「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願った。 夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで…… 夫のことを想い続けるも、義弟のことも完全には拒絶することができない優香。

【完結】もう一度やり直したいんです〜すれ違い契約夫婦は異国で再スタートする〜

四片霞彩
恋愛
「貴女の残りの命を私に下さい。貴女の命を有益に使います」 度重なる上司からのパワーハラスメントに耐え切れなくなった日向小春(ひなたこはる)が橋の上から身投げしようとした時、止めてくれたのは弁護士の若佐楓(わかさかえで)だった。 事情を知った楓に会社を訴えるように勧められるが、裁判費用が無い事を理由に小春は裁判を断り、再び身を投げようとする。 しかし追いかけてきた楓に再度止められると、裁判を無償で引き受ける条件として、契約結婚を提案されたのだった。 楓は所属している事務所の所長から、孫娘との結婚を勧められて困っており、 それを断る為にも、一時的に結婚してくれる相手が必要であった。 その代わり、もし小春が相手役を引き受けてくれるなら、裁判に必要な費用を貰わずに、無償で引き受けるとも。 ただ死ぬくらいなら、最後くらい、誰かの役に立ってから死のうと考えた小春は、楓と契約結婚をする事になったのだった。 その後、楓の結婚は回避するが、小春が会社を訴えた裁判は敗訴し、退職を余儀なくされた。 敗訴した事をきっかけに、裁判を引き受けてくれた楓との仲がすれ違うようになり、やがて国際弁護士になる為、楓は一人でニューヨークに旅立ったのだった。 それから、3年が経ったある日。 日本にいた小春の元に、突然楓から離婚届が送られてくる。 「私は若佐先生の事を何も知らない」 このまま離婚していいのか悩んだ小春は、荷物をまとめると、ニューヨーク行きの飛行機に乗る。 目的を果たした後も、契約結婚を解消しなかった楓の真意を知る為にもーー。 ❄︎ ※他サイトにも掲載しています。

結婚直後にとある理由で離婚を申し出ましたが、 別れてくれないどころか次期社長の同期に執着されて愛されています

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「結婚したらこっちのもんだ。 絶対に離婚届に判なんて押さないからな」 既婚マウントにキレて勢いで同期の紘希と結婚した純華。 まあ、悪い人ではないし、などと脳天気にかまえていたが。 紘希が我が社の御曹司だと知って、事態は一転! 純華の誰にも言えない事情で、紘希は絶対に結婚してはいけない相手だった。 離婚を申し出るが、紘希は取り合ってくれない。 それどころか紘希に溺愛され、惹かれていく。 このままでは紘希の弱点になる。 わかっているけれど……。 瑞木純華 みずきすみか 28 イベントデザイン部係長 姉御肌で面倒見がいいのが、長所であり弱点 おかげで、いつも多数の仕事を抱えがち 後輩女子からは慕われるが、男性とは縁がない 恋に関しては夢見がち × 矢崎紘希 やざきひろき 28 営業部課長 一般社員に擬態してるが、会長は母方の祖父で次期社長 サバサバした爽やかくん 実体は押しが強くて粘着質 秘密を抱えたまま、あなたを好きになっていいですか……?

【完結】あなた専属になります―借金OLは副社長の「専属」にされた―

七転び八起き
恋愛
『借金を返済する為に働いていたラウンジに現れたのは、勤務先の副社長だった。 彼から出された取引、それは『専属』になる事だった。』 実家の借金返済のため、昼は会社員、夜はラウンジ嬢として働く優美。 ある夜、一人でグラスを傾ける謎めいた男性客に指名される。 口数は少ないけれど、なぜか心に残る人だった。 「また来る」 そう言い残して去った彼。 しかし翌日、会社に現れたのは、なんと店に来た彼で、勤務先の副社長の河内だった。 「俺専属の嬢になって欲しい」 ラウンジで働いている事を秘密にする代わりに出された取引。 突然の取引提案に戸惑う優美。 しかし借金に追われる現状では、断る選択肢はなかった。 恋愛経験ゼロの優美と、完璧に見えて不器用な副社長。 立場も境遇も違う二人が紡ぐラブストーリー。

契約結婚のはずなのに、冷徹なはずのエリート上司が甘く迫ってくるんですが!? ~結婚願望ゼロの私が、なぜか愛されすぎて逃げられません~

猪木洋平@【コミカライズ連載中】
恋愛
「俺と結婚しろ」  突然のプロポーズ――いや、契約結婚の提案だった。  冷静沈着で完璧主義、社内でも一目置かれるエリート課長・九条玲司。そんな彼と私は、ただの上司と部下。恋愛感情なんて一切ない……はずだった。  仕事一筋で恋愛に興味なし。過去の傷から、結婚なんて煩わしいものだと決めつけていた私。なのに、九条課長が提示した「条件」に耳を傾けるうちに、その提案が単なる取引とは思えなくなっていく。 「お前を、誰にも渡すつもりはない」  冷たい声で言われたその言葉が、胸をざわつかせる。  これは合理的な選択? それとも、避けられない運命の始まり?  割り切ったはずの契約は、次第に二人の境界線を曖昧にし、心を絡め取っていく――。  不器用なエリート上司と、恋を信じられない女。  これは、"ありえないはずの結婚"から始まる、予測不能なラブストーリー。

課長のケーキは甘い包囲網

花里 美佐
恋愛
田崎すみれ 二十二歳 料亭の娘だが、自分は料理が全くできない負い目がある。            えくぼの見える笑顔が可愛い、ケーキが大好きな女子。 × 沢島 誠司 三十三歳 洋菓子メーカー人事総務課長。笑わない鬼課長だった。             実は四年前まで商品開発担当パティシエだった。 大好きな洋菓子メーカーに就職したすみれ。 面接官だった彼が上司となった。 しかも、彼は面接に来る前からすみれを知っていた。 彼女のいつも買うケーキは、彼にとって重要な意味を持っていたからだ。 心に傷を持つヒーローとコンプレックス持ちのヒロインの恋(。・ω・。)ノ♡

恋は襟を正してから-鬼上司の不器用な愛-

プリオネ
恋愛
 せっかくホワイト企業に転職したのに、配属先は「漆黒」と噂される第一営業所だった芦尾梨子。待ち受けていたのは、大勢の前で怒鳴りつけてくるような鬼上司、獄谷衿。だが梨子には、前職で培ったパワハラ耐性と、ある"処世術"があった。2つの武器を手に、梨子は彼の厳しい指導にもたくましく食らいついていった。  ある日、梨子は獄谷に叱責された直後に彼自身のミスに気付く。助け舟を出すも、まさかのダブルミスで恥の上塗りをさせてしまう。責任を感じる梨子だったが、獄谷は意外な反応を見せた。そしてそれを境に、彼の態度が柔らかくなり始める。その不器用すぎるアプローチに、梨子も次第に惹かれていくのであった──。  恋心を隠してるけど全部滲み出ちゃってる系鬼上司と、全部気付いてるけど部下として接する新入社員が織りなす、じれじれオフィスラブ。

処理中です...