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STEP 13 「俺だけにして」
しおりを挟む「や、しろさ」
「――もう来てくんないかと思った」
意味もなく、ただ名前を呼んだ私を振り返った八城が、静かにつぶやいた。その言葉が先だったのか、八城の抱擁が先だったのか、よく、覚えていない。
「明菜」
ただ、その時の八城の声が、いっとうあたたかい音で、その抱擁が、どうしようもなく優しい熱だったことだけが確かだった。
「……くるつもりは、なかったんです」
言い訳みたいな、頼りない言葉だ。本当に来るつもりはなかったのに、おかしな言葉だと思う。たったの三週間で、私が必死に心を切り裂いて作った言葉が、ばらばらに壊れてしまった。
八城に乞われれば、きっと、すぐにでも壊れてしまっていたのだろうと思う。
どうしようもなく、好きだった。
「もう俺のこと、忘れた?」
『来るつもりはなかった』だなんて、私の小さな抵抗の声を聞いた八城が、ますますつよく抱きしめてくる。まるで私の形を覚え直すみたいに、自分の形を教え込むみたいに抱きしめてくれる。たった一つの抱擁だけで、すべての熱が思いだされてしまった。
好きから逃げられる、わけもない。
「触れたことも、キスしたことも、抱かれたことも、綺麗さっぱり忘れた?」
「なんで、そんなこと」
八城はどうして、こんなことを聞いてくるのだろう。必死に忘れようとしていたのに、ただ抱きしめられるだけですべてが浮かび上がってしまう。
八城にとって私は、ただの社長の娘だ。私という面倒くさい存在に付き合ってくれているだけだ。
八城の好きな人でも何でもない。抱かれている間も、何をしたらいいのかも分からなくて、きっと、八城にとっては楽しくもない時間だっただろう。それなのに、最後まで根気強く付き合ってくれた。そんな人を、これ以上巻き込むわけにはいかない。
「こっちは、全然忘れらんなくて、まいってんだけど」
突っぱねようと必死になっていた。それなのに、八城の声で、抵抗しかけた身体の力が抜けてしまう。
過ちを犯したことを後悔しているから忘れられないとか、社長の娘だからだとか、そういう言葉には、どうしても聞こえなかった。
「もう一回思い出してくれねえ?」
「な、にを」
「ダメなら、思い出させてやるから、もう一回食われて」
どうしてこんなにも、焦がれてたまらない人みたいな声を出すのだろう。
「もう、誘惑ゲーム、は、しなくて、いいんです、よ? もう、おわり、です」
恋愛ゲームは終わりだ。誘惑はもうする必要もない。震える声で囁いたら、私を抱いていた手の力が緩んで、上から瞳を見おろされた。
「本気で誘惑してんだから、終わりもクソもねえよ」
熱を吐き出すような声だった。目を見張っているうちに八城が勝手に顔を寄せて、抵抗する間もなく唇に噛みついてくる。後退りしかけた身体を彼に押されて、壁に背中が触れた。
張り付けるように壁に手を縫い付けられて、ただされるがままになる。八城に教えられた身体が従順に熱を追いかけようとする。簡単に口内に侵入してきた舌に自分のものを舐められて、あっけなく喉から音が飛び出た。
「……っん!」
私の反応を見て、さらに力をこめてくる八城の熱に浮かされて、指先から力が抜ける。八城に熱を灯されたら、あとはもう、欲しがるしかできなくなる。もう、この部屋に来てはいけないと思っていた理由さえも遠くかすんでくる。
唇が離れる寸前に、無意識に口づけを強請って身体が動いてしまった。
「やしろ、」
「名前、忘れた?」
誑かすような音が鳴っていた。ただしく誘惑されている。わかっているのに、抗うすべを知らなかった。
「あきな、呼んで」
二度目、催促して耳にキスを落とされたら、もう、ただ従ってしまいたくなった。
「はる、うみ、さ」
「食っていい?」
神経細胞にエラーが起こっているみたいに、八城以外のことがよく分からなくなる。こんなにも人を溺れさせるわざを持っている人だったなら、私にしてくれたたくさんの誘惑は、ただの子ども騙しだった。
意図を持った爪先が、服の上から肩をなぞっている。ランジェリーストラップを曖昧に引っ掻いて、今にも肩から落とそうとしているのが分かる。
こんなふうに誘惑されるものだなんて、知りもしなかった。
「脱がせてほしそうな顔してんね」
ふ、と小さく笑われて、酩酊するまま、とうとう本音がこぼれてしまった。
「……抱いて、くれるんです、か」
「抱きたいよ、もうずっと」
私のふしだらな本音に、すこしうれしそうな顔をしてくれる。すぐに答えを返してきた八城が、髪を撫でてくれた。
ぼうっと見つめていれば、八城がしゃがみこんで、私の足に触れてくる。何も言わずに靴を脱がされて、もう一度見つめあったら身体を抱き起された。
「明菜が忘れられなくなるまで、抱く」
「ひ、あ」
耳元にたっぷりと囁き落とされて、背筋に電流が走る。何も言えずに抱き着いたら、大股の八城が私の身体をベッドに下ろした。ここに来るのは二度目だ。もう、ないと思っていた。
何もできずに、逆光の中に立つ八城を見上げている。八城はじっと私の瞳を射抜くように見下ろしていた。
獰猛な瞳が不敵に笑んでいる。
ジャケットを脱ぐ手つきは、どうしてかいつも荒っぽい。私に触れる時は、何よりも優しくしてくれているのに。今日も乱暴に脱ぎ捨てられた背広を見送っているうちに、ベッドのコイルが軋んだ。振り返って、ベッドに乗り上げてきた八城と目が合う。
「俺と同じとこまで、夢中になってもらうわ」
「おなじ、とこ」
「すっげえ深みまで」
「ふ、か、み」
「ぬま?」
小さく笑いながらもどかしそうにネクタイを解いている。その姿を見ているだけで、心不全を起こしてしまいそうだ。
いつも、すこし笑わせようとしてくれている気がする。私の緊張を解きほぐしてくれる。まるで、私が八城にとってのどこまでも優しくしたい相手であるかのように振る舞ってくれる。
勘違いしたくてたまらない言葉ばかりを吐かれている。八城の好きな人になったみたいな感覚だ。
ウソに決まっているのに、本気だと言ってくれたことを、どうしても信じたくなっている。夢中になっているのは、私の身体に、だろうか。とても、そんな風には思えない。
「わたし、ぜんぜん、上手じゃない、のに」
上手も下手もわからない、ただの初心者だ。
ネクタイをベッドの下に投げ捨てた八城に迫られて、無意識に後退りすれば、すぐに背中に枕の感触があたった。
もう、逃げ場もない。
八城の色気の前で、いつもすこし逃げ出したくなってしまう。勝手に指先が震えていた。シーツについたその手の上に、八城の手のひらが乗せられる。私に跨って、上から見おろしながら、なおも小さく笑っていた。
「なんで? めちゃくちゃ可愛かったけど」
「なにも、わからなくて」
「ん、わかんなくてずーっとしがみついて俺の名前呼んでんの、たまらなくそそられた」
まるで、私が好きみたいな言葉ばかりだ。
「はる、」
「あれからずっと、明菜の声が聞きたくてたまんなかった」
八城の言葉を聞いているだけで、名前を呼んでほしいと言われているのだと、錯覚してしまう。顔を寄せて、瞳を覗き込まれる。すこしでも頭を動かせば、いつでもキスできるような、恋人同士の距離だ。
「俺以外に触らせた?」
この距離で囁く人以外に触れさせていたら、きっとそれは不貞行為だ。そう思えるくらいに、親密な声だった。
『NO』以外の回答が求められていないのだと、はっきりとわかってしまうような仕草にくらりと眩暈が広がった。
八城以外に触れた男性が居たら、どうなってしまうのだろうか。
想像しようとするだけでおそろしさを感じるような、たっぷりと欲を孕ませた声だ。マーキングされている、ような気がする。
八城の、あまい囁き声だけで。
「ない、で、す」
震えながら言葉を返したら、優しい唇に吸い付かれた。可愛い音を立てて、愛でられる。愛でられているのだとはっきり自覚した。あまりにも、隠す気がない。好意のようなものにしか見えない。
「良かった。俺だけにして」
「はるうみさん、だけ?」
「ん、明菜の初めてもらった責任、勝手に取るから」
どこまでも酔いしれていた気分に、ぴしゃりと水をかけられたような思いだった。
責任なんて、取らなくていい。ただ私が勝手に好きになってしまっただけだ。絶対に、父の言葉に従ったりしないでほしい。八城のこころを、大事にしてほしい。どうにか伝えようと慌てて八城に掴まれた手を動かそうとしても、びくともしない。
ただ、まっすぐに、あまく見下ろされていた。
「せ、きにん、は」
「俺と同じくらい、それ以上に明菜が俺に惚れてくれるよう、努力する」
責任なんて取らなくていい、と、はっきりと言おうと思っていた。
「――だから、俺のこと好きになってほしい」
「言われている、意味が……?」
「わかんねえの?」
「誘惑、ですか?」
「普通に、お付き合い交渉だろ」
「や、しろさん、私、のこと……」
「夢中だって言っただろ。わかんない? 勝手に惚れてるから、同じとこまで突き落とすために誘惑してんの。明菜もらえる責任狙って、口説いてんだよ」
「もらえる、せき、にん?」
私が思っていた、重たい、気持ちの悪い責任とは、何かが違う、ような気がする。
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