不埒に溺惑

藤川巴/智江千佳子

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STEP 14 「誰にも渡したくない」

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「や、しろさん」
「代わりに俺の彼女役、もらってください」

 言葉の意味が噛み砕けず、慌てているうちに、八城の唇がもう一度私の唇に落ちてくる。私の抵抗を隠すように唇をぱくりと食んで、どうしようもなく優しい目で見つめてくる。瞳はやさしいのに、口元に浮かべている笑みは苦くて、印象がちぐはぐになる。

 自嘲をしているようにも、見えた。

「マジで、人生最初で最後だわ。こんなに口説くのに苦戦してまで、縋りついてんの」
「すがり、ついてる?」
「抱いたら、顔も合わせずに帰るつもりだったとか言われて、泣きながら出ていかれて、家まで追いかけても居ないし、あげく出張帰りにストーカー呼ばわり覚悟で部屋行っても出てきてくれねえし。……まじで頭狂うかと思った」
「おうち、来てくれていた、んですか」
「行くだろ。必死だっつうの」
「ひっし」
「逃がしたくない。明菜が好きだ」

 はっきりと断言して、もう一度私の唇に吸い付いてくる。遠慮なんてすこしもない。八城のセールスはいつもそうだ。考えている隙を、与えてくれない。それなのに、いつも丁寧に条件を提示してくれる。

「約束破って悪い。普通に、結構序盤から惚れてた」

 一度も、思いもしなかった言葉を吐かれて、とうとう混乱で目が泳いだ。

 答えを返す方法が分からない。狼狽えているだけなのに、逃げだそうとしていると思われたのか、八城の手が、私の指先に絡んでくる。すこしも抜け出せない。もう一度見た八城の目は、もっとつよく私を捕らえようとしていた。

「誰にも渡したくない」
「や、しろ、」
「花岡より、絶対尽くす」

 信じられない言葉ばかりが耳元に住み着いている。まるで、ずっと私が好きだったみたいだ。こんな言葉を八城から捧げられる日が来るなんて、一度も思わなかった。

「明菜だけを好きでいるし、ほかの女の子はどうでもいい」
「……絢瀬さんは」

 自分の唇が、こわごわとつぶやいていた。八城は、一度も絢瀬への好意を否定してくれなかった。

 こんなにも熱く囁いてくれているのに、絢瀬のことも好きだと言われたら私のハートはもう、捻じれて真っ二つに割れてしまう。悲痛な表情を浮かべてしまったのか、私を見下ろす八城がすこしだけ苦しそうに眉を顰めて、私の瞼の下に口づけてくれる。あの日の涙を、慰めてくれているかのような、優しい口づけだった。

「ごめん。はじめからもう吹っ切れてた」

 唇が離れた瞬間にあっさりと言葉を返されて、さすがに吃驚してしまった。

「えええ」
「ごめん。あの時は……、はじめに話した日は、もう吹っ切れてるって言うのは絢瀬さんに失礼かと思ってわざわざ言わなかったし、そのあともまあ、……明菜に、絶対に惚れられない相手だから俺にしたって言われてたから、誤魔化してた」

 八城の丁寧な説明で、目が回ってしまう。まさか、まさかそんなことがあるとは思わない。呆然としているうちに、もう一度唇に口づけられる。

 何度も確認するように、欲を引き出すように、口付けられている気がする。本当に、間違いなく誘惑されているのだと分かってしまった。

 八城は、ここで私が断る可能性なんて、見えても居なさそうだ。それくらい、真っ向から私の身体を抱こうとしていることを隠さずにアピールしてきている。

「今は、すきなひといないんですか」
「いやいるって。だから、明菜が好き」

 誘惑をされようと思って聞いたわけではない。それなのに、さらりと口説き文句を囁いてくる八城を前に、疑う言葉を口にする隙もない。八城はあっさりと私の身体を手繰り寄せて、ベッドの端から、シーツの中央に転がしてしまった。

 すぐに押し倒されて、真上から覗き込むカラメルみたいな熱い瞳と視線がぶつかった。八城の瞳は、私の視線の動きさえも絡めとって、八城のものにしてしまいそうなほど熱い。

「これなに? 明菜の態度、結構脈ありだと思ってんだけど。はじめから俺が好きだったと思っていいの? 花岡はもうどうでもいい?」

 私の好意なんて、八城にはばればれだったみたいだ。きっとそうだろう。私は嘘を吐くのが下手だ。自覚があるのに、八城相手に下手な交渉を持ち掛けてしまった。

 交渉が上手な八城なら、すぐに私の好意に気づいていたのかもしれない。

 好きだと言ったら、八城の人生の妨げになる。それだけがおそろしくて、答える前にそっと問いを立てる。

「私の、父に、よろしくって言われたから、じゃないですか」
「ん? 社長?」
「やっぱり知ってましたよね。……この間、娘をよろしくって、言われているのを、聞いてしまって、それで」

 よろしくと言われていた。間違いなく八城だった。思いだすだけで胸にとげが刺さる。悲しくなってじっと睨んでいるのに、八城は、少しの間呆然として、軽く首をかしげている。

 間抜けな体勢から抜け出したくなって八城の身体を押したら、考え込んでいるからか、簡単に拘束から抜け出せた。シーツの上で正座をしたら、八城があぐらをかいて座りなおしたのが見えた。じっと見つめてみれば、「ああ、」と口を開いた八城が簡単に説明してくれた。

「役員面談の時、明菜だけ明らかに業務量が多いし、児島に個人的に攻撃されてるっぽいけどって指摘したんだ。それのこと、めちゃくちゃ感謝されてたらしくて、教えてくれてありがとう、今後もよろしくって……、そんな感じのよろしくなら、されたけど。……その時のことか?」

 一呼吸おいてから、引き続き思い当たる節を探すように真剣に考え込んでいる八城に聞かれて、今度は私が呆然としてしまう。私が正座する場の隣に寄ってきた八城が、ぐっと顔を寄せて私の表情を間近で覗き込んでくる。

「父に、私の残業のことを?」
「そう」

 尋ねてみれば、簡単に答えてもらえるようなことだったのか。八城の丁寧な説明がすとんと腑に落ちて、胸の奥に閊えていたわだかまりが綺麗に消え去っていく。

「明菜?」
「……なんだ、」

 父に脅されて、私が可哀想だからそばに居てくれたわけでは、なかったのか。どうしようもなく安心して、身体の力が抜ける。かくりと前に倒れそうになったところを、危なげなく八城に抱き留められた。

 優しい匂いがする。

 今日も、八城の腕は逞しい。力強いのにどうやってこんなにも優しく柔らかく抱きしめることができるのだろう。八城春海の魅力の秘密は、暴くこともできなさそうだ。

「大丈夫? どうした?」
「……なんか、力抜けちゃって」
「いい意味?」

 ほっと息を吐いて抱き着けば、小さく笑われた。私が答えなくても、いい意味で力が抜けてしまっていることは八城に伝わっているだろう。

「うん、もちろん、です。その、父に私のことを面倒みるように言われて、エッチしてくれたのかと思って」

 口に出すと、かなりひどい妄想だった。思わず、自分自身の思い込みの酷さに笑ってしまう。八城はしばらく黙り込んでから、咎めるように私の腰を抱きしめる腕に力を込めてきた。

「……いやいや。それはやばいだろ」
「やばいです、か」
「いや、まず、そんな出世欲強い男に見えてんの?」
「じゃなくて、」
「ん?」
「優しいから、断れないだろうなって」
「んなわけないだろ。それに親父さん、そんな無茶言う人じゃないと思うんだけど……」
「父のことは……、わかりませんけど」

 わけの分からない交渉を持ち掛けてきた女性が社内で無理をしながら働いていて、実は社長の娘で、社長にも便宜を図るよう言われていたとしたら、情に厚い八城なら、すこしくらい自分のこころを犠牲にしても、ばかばかしい交渉に応じてくれそうな気がしていた。

 でも、それは単に、私があまりにも、人と交わることの意味を知らなさ過ぎただけだ。

 あんなにもすてきなことなら、きっと八城は全く好意を持たない相手なら、初めに言ってくれた通り、好きな人に大事にしてもらうべきだと言って、すっぱりと断ってくれていたと思う。つまり、引き受けると言ってくれた時には、すこしでも私に興味を持ってくれていたということなのだろう。

「ごめんなさい。私も本当は、はじめから、好きです。……すきでした」

 私が好きになった人は、いつも誠実でまっすぐで、優しくて明るいすてきな男性だ。絶対に言ってはいけないと思っていた言葉が唇から零れ落ちる。私の声を聞いた八城が、力の入らない私の肩をしっかりと掴みながら抱き起してくれる。真正面から覗き込まれて、もう一度声がこぼれた。

「大好き、です」

 真剣に伝えたら、八城の目がきゅっと細められる。まるで、眩しいものを見つめている人のような仕草だった。

「眞緒ちゃんは?」

 そっと囁く唇に確認されて、慌てて身体に力を入れる。それでもうまく背筋を伸ばすことができなくて、結局八城に掴まれるまま、崩れた体勢で彼を見上げた。

「それは、うそです……、ごめんなさい」

 頭を下げて、ゆっくりとあげる。その先に座りこんでいる八城が、しばらく瞬きしてから、大きくため息を吐いた。もう一度謝ろうと口を開きかけたところで、優しい腕に抱き直されてしまう。すっぽりと身体を埋めるように抱かれて、耳元に八城の吐息がこぼれた。

「……駆け引きされてたのか」
「かけひき?」
「眞緒ちゃんが好きなのかと思って、めちゃくちゃ焦らされた。そのくせに抱いてほしいとか言うから、よっぽど安全な男だと思われてんだと思って、めちゃくちゃ必死こいた」

 私の知らない八城のことを教えてくれているみたいで、胸がきゅっと甘く痺れる。もうずっと砂糖でいっぱいだ。ハートがときめいて落ち着かない。

「ちがいます。ずっと、あこがれていて……、すきで、だからただ、本当に一度でいいから、抱きしめられたかったんです。それだけでいいと思って」

 それだけで、生きていける気がした。

 今となっては、綺麗な思い出なんかにはなれないくらいに熱くて、持て余していたけれど、それでもやっぱり、あんなにすてきなことだと知っていたら、私はやっぱり八城以外とはできないと思う。真剣に囁けば、ますます腕に力を込められた。

「むり」
「ええ?」
「ダメだろ。一回じゃ足りない」

 背中を爪先でなぞられる。欲を私の身体の中心から引き出すような手つきで肩が震えた。八城に抱かれて、その手つきの意味を理解できるようになってしまったから、だめだ。抗える気がしない。

「たりない、です?」
「もっと気持ちいいの、したくないの」

 誑かされているのだとはっきりわかる声だった。低くて甘い。そして、どこかずるい気がする。やわらかく背中をなぞっていた指先は、簡単に服の下に侵入して、私の肌に触れた。
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