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第一章 晩春

インターバル1

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 六月上旬。例年よりやや早く梅雨入りが宣言され、昨日は雨、今朝も小雨。
 じっとりとした湿気が気持ち悪い。肌がべたつく。人の多い電車の中は、空気がこもって蒸し暑い。汗ばむのが嫌で、上着は脱いで荷物とともに棚の上だ。早く冷房を入れてくれと、鉄道会社に内心でクレームをつけながら、神前は通勤電車を降りた。誰かの傘がぐっしょりとパンツの膝下を濡らしたのも不快だった。

 人波に流されるように駅を出て、オフィスに向かう。
 しとしとと降る小雨のために、折りたたみ傘をいちいち差すのも億劫で、どうせすぐだしと大股で歩く。その背に、声がかかった。

「おはようございます、神前さん」

 透明な傘を差した三小田真藍が、いつもどおりの毒気が抜かれるマヌケ顔をさらしていた。なにも面白くもないのにへらっと笑っているのが、彼女のデフォルト。最初見たとき、舐めてるのかこいつ、と思った笑顔だ。

「おはようございます」

 濡れるから先に行く、と言おうとした神前に、三小田が目を見開いた。

「これ、どうしたんですか」
「なにが」

 立ち止まり、指さされた背中を見る。白地にブルーのストライプの生地を軽く引っ張ってみると、肩甲骨より拳一つ分くらい下のあたりに、赤いものがついていた。ややピンクがかっていて、油分を含んでいるようだ。

「神前、三小田。なにしてんだ」
「あ、おはようございます、鹿瀬さん。これ、見てくださいよ」

 声をかけてきたのは、鹿瀬だった。太っていて大柄な彼は、三小田たち新人の教育も担当している。気さくな性格らしく、神前相手でも喫煙室で行き会うと声をかけてくることがあった。だからおあいそ程度の世間話はするが、さほど親しくはない。
 彼は神前の背を見るなり、哄笑した。

「これ、口紅だろ! かーっ、朝からすげえな神前。この艶福家め」

 言うだけ言って、彼はさっさと行ってしまう。

「嘘だろ……」

 神前は呻いた。おそらく、電車で付いたのだ。混み合ってる区間で押された女性が顔をぶつけたに違いない。ぶつかった本人は、絶対に気づいていたはずだ。言えよな、と肩を落とした。申告してトラブルになるのを避けたかったのだろうが、被害を受けた側としては腹が立って仕方がない。

「これ落ちるのか」
「とりあえず応急処置しましょう。私、クレンジングオイルなら持ってますよ」
「笑うな、人の不幸を」

 すみませんと言いながらも、三小田はにやにやしている。必死に口を閉じようとしているのだが、そのせいで頬が膨らんでいた。その頬をつねってやろうかと思った。

× × × × × 
 
 ビルについてすぐ、自分のロッカーにしまっていたシャツに着替えて、汚れたものを三小田に手渡した。急な泊まり込みに備えて、一着は予備の服を持っているのだが、それが役に立つとは。嬉しくはない。

 三小田は妙にうきうきと、給湯室に入って、クレンジングオイルでそのシミを処理しだした。お節介な性分らしいので、楽しいのかもしれない。

「あんまり濃いシミじゃないから、あとは中性洗剤で洗えば大丈夫だと思いますよ。ほら、落ちた。ちゃんとおうちで洗濯してくださいね」

 水でその箇所を洗った彼女は、得意顔を作ってそれを差し出した。

「ありがとう」

 釈然としないままシャツを受け取って、適当なビニール袋につっこんだ。

「私も、自分でやっちゃったことあるんです。化粧したまま着替えようとして。それから一応持ち歩いてるんですよ、これ」
「鈍くせえな」

 その彼女の鈍くささに今回助けられたのだというのはわかっていたが、つい憎まれ口を叩いてしまった。神前は自分の幼稚さに辟易した。
 さほど気にした風もなく、彼女は自分の小さなポーチに携帯用のクレンジングオイルのボトルをしまった。

「そうだ、神前さん。今日あれですよね、岡田さんの。参加します?」
「まあ、一応」
 先日担当した目黒のバラ園の事件のつながりで、分析係だけで飲みに行こうと岡田に声をかけられていた。迷ったが、せっかくだからと参加することにしたのだった。
 分析係に来て、誰かに飲みに誘われることは滅多になくなった。誘われて行ってみてもきっと面倒な思いをするだけだっただろうから、それでも構いやしないが。

「お店の情報見ました? メッセージに添付されてたやつ。お料理も美味しそうでしたよ。コースにしたのかなあ」

 話し続ける三小田の唇に視線が行った。柔らかそうな唇には、うっすらと口紅が刷いてある。さっき神前のシャツについていたものよりは、朱寄りの色合い。こんなときでも彼女の唇は微笑みの形だ。
 あいかわらず愛嬌振りまいてやがる。
 だが一月前、初めて会ったときのようにその笑顔に苛立つことも少なくなった。神前のほうが慣れたのだろう。今ではその間抜けな笑顔を見て、今日も平和だなと妙にのんびりした気分にさせられることすらあった。ここのところ、事件の後始末も終わってしまって、弛んでいるのかもしれない。
 三小田のへなっと下がった眉尻に、丸い双眸。喜と楽以外の感情あるのかと思わせるような、毒気のなさ。けれど、ちゃんと彼女にも喜怒哀楽すべての感情が備わっているということも、今ではわかっていた。

 なんだか今日は顔色悪いな、こいつ。いや、ここ最近ずっとこんな感じだが。そこまで考えて、いちいち彼女の顔色を伺っている自分の気色悪さに、神前は思考を中断した。

「だめですか?」
「なにが」
「ええー、話聞いてなかったんですか。今日、お店まで一緒に行きましょうって言ったんです。岡田さんと砂押さんは、出先から直接向かうっておっしゃってたので」
「わかった」
「いいんですか? ありがとうございます」
 三小田はまた微笑んだ。
 
× × × × × 
 
 飲み会という言葉にふさわしいほど、カジュアルじゃない。
 店に着いて、神前は真っ先にそう思った。先に受け取っていた情報から推測していたとおり、酒も料理も少々お高くて、気軽に飲み食いするというよりは、好きな人間がゆっくり楽しむ店に近いに違いない。確実に、岡田の趣味だ。
 店の前に置かれていたメニューをちらっと見ると、やはりワインを推している。

「うーん、ワイン悪酔いするからちょっと苦手なんですよね」

 のこのこここまでやって来て、三小田はそんなことをつぶやいた。独り言かもしれないので、神前も突っ込みはしなかった。彼女もいい大人なのだから、酔いつぶれたりしないよう自分でセーブできるはずだ、と。

 店内はカウンター席がほとんどで、二席ほど四人がけのテーブル席があった。そちらに通されると、岡田がすでに着席していた。
 挨拶し、注文をしているうちに砂押がやってきた。
 乾杯して、さっそくビールに口をつけた。一応、わずかながら、ワイン以外のアルコールもあった。
 岡田の隣に三小田、その正面に神前、神前の隣には砂押という席順だ。

 岡田は初めて捜査に参加した三小田のことをねぎらって、次に神前のことをねぎらった。お手柄だったな、神前。よく気づいたな、手がかりに。
 その言葉には、神前もわずかに頬が緩んだ。が、すぐに「だけどな」と喜びに待ったをかけるもう一人の自分に気付く。
 たしかに今回、捜査の進展に寄与したが、あれはラッキーだっただけだし、結局最後に被疑者を取り調べして逮捕したのは自分ではない。お手柄だ、と褒められてもピンとこなかった。
 もっと現場に出たい。ちゃんとした捜査をしたい。一年間抑えていた欲が、一度臨場する機会を与えられたことをきっかけに、どんどん強くなっている。

 ――笑える。ちょっと前までは、辞めてやるとすら思っていたのに、なに色気を出してるんだ、自分は。

 神前は冷えたビールを飲み干して、出された料理をぱくついた。濃い目の味付けが、箸を進ませる。
 正面では、岡田のお説教にいちいち丁寧に頷いている三小田が、勧められるままにワインを飲んでいる。こいつ、自分のペースわかってるんだよなと、あっという間に空になったグラスを見て思う。以前一緒に飲んだときより、あきらかなハイペースだ。

「ところで三小田は歳はいくつなんだ」
「あ、もうすぐ二十九です。月末で」
「六月生まれか。なるほど、だから真藍」

 なにがなるほどなのかわからない。というか岡田はよく、新人の下の名前まで覚えているなと感心する。あるいは、今期の女の新人が三小田だけだったから覚えていたのかもしれない。すけべなおっさんだなこの人も、と本人の前では言えないことを思った。自分も三小田の下の名前を覚えていたことに、俺は指導担当だからと誰にともなく言い訳をする。

「そうです、あじさいからとって、真藍です」

 全然意味がわからない。ので聞き流す。
 三小田はにこにこしたまま続けた。

「昔学校でその話をしたら、どっちかって言うとあじさいより、鈍くさいからその上にいるカタツムリみたいって言われて。一時期あだ名がでんでん虫からとって、でん子でしたよ。子供って残酷ですよねー」
「ぴったりじゃねえか」

 つい突っ込むと、彼女は口をへの字にした。怒ってるらしい。

「虫扱い酷くないですか? 高校にあがるまでずっとでん子ですよ、軽いトラウマです」

 おそらくだが。そのあだ名を作ったのは男で、彼女の嫌がることをしたくてたまらなかったに違いない。

「そういう神前さんはあだ名なんだったんですか」
「ねーよ、んなもの。それからカタツムリは厳密に言えば貝だぞ」

 無難に名字で呼び捨てされていた気がする。それより昔はきーちゃんとかそんな呼ばれ方をしていたが、この流れでそれを言うつもりはなかった。

 貝なんだ、ちょっと出世した気分とわけのわからないことに喜色を示して、三小田はまたグラスに口をつけた。

「三小田、お前結婚は?」

 それまで黙っていた砂押が、急に口を挟んだ。

「そういうの縁がなくて」

 へへ、と苦笑した顔を見て、神前はおや、と思った。一瞬だけ、本当に一瞬だけだが、彼女の笑顔に陰がさした気がした。暗い照明のせいで見間違えた可能性もあったが。そう言えば、以前、久慈山と同じ話をした時も、笑って誤魔化そうとしていたなと、いらぬことを思い出した。

「じゃあ、鹿瀬はどうだ。あいつ嫁募集中なんだよ。ああ、でもデブはやっぱり嫌か?」

 お世辞なのかよくわからないが、三小田は首を小さく横に振った。

「それよりどうして鹿瀬さんですか?」
「ああ、同期で同い年なんだ、俺ら。あいつ合コンであまりに連敗してるから可哀想になってよ」

 にやにや笑って砂押はハイボールのジョッキを空にした。
 まさか、鹿瀬も、こんな場所で後輩相手に自分の恋人探しの成果をバラされているとは思わないだろう。朝、自分の不幸を笑って去っていった先輩に、神前は心の中で合掌した。ちょっとせいせいした気分で。

「あいつ料理もうまいし、面倒見いいし、仕事も真面目だし。良ければ相手してやってくれよ。お情けでもいいから」
「あはは、そうですね」

 当たり障りない返事をして、三小田はまた岡田のお説教に耳を傾けていた。岡田は自分のうんちくを語りたいタイプのようだ。三小田が居てよかった。神前がもし話しかけられ役だったら、早々にうんざりしていただろう。隣同士の席で、体を傾けて話している二人は、三小田がスーツでなければ、別な趣旨の店の一幕に見えなくもない。

 砂押が懐からタバコを取り出すと、きょろきょろした。灰皿がない。完全禁煙の店だ。自分がタバコを吸わない岡田のチョイスらしい店だ。

「すみません、タバコ吸ってきます」

 砂押は軽く頭を下げて席を立つ。神前も食欲とは違う口寂しさを感じて、それに倣った。

 外は雨こそ降ってないものの、湿気を含んだ空気が冷やされて、肌寒かった。

「サンキュー」

 火を貸すと、砂押は小さくそう言って、うまそうにタバコを吸った。

「神前は? お前結婚してるのか?」

 話題に窮したなら無理に話をしなくてもいいのだが、と思いつつ神前は首を横に振った。

「してるように見えますか」
「いや、全然」

 砂押が軽くにやりとした。だと思ったよと言いたげな顔だった。

「砂押さんは」
「俺? だめだな。パチンコと競馬が趣味の男には、女は寄り付かねえわ。親父もお袋も、もう諦めてるだろ」

 三十後半であれば、まだ結婚を諦める年齢でもなさそうだが、そもそも本人に興味がなさそうだった。

「お前は馬とか舟とか興味ないのか」
「舟はともかく、馬は嫌いですね」
「そうかい」

 会話も弾まないまま、席に戻ると、三小田の前の空のグラスの形が細いものに変わっていた。飲み途中のものに手をかけているが、それももうすぐ無くなりそうだ。ほのかに顔が赤いようにも見える。おいお前大丈夫かよ、と心中で突っ込む。

 嫌な予感は的中した。

 二時間後に会計を済ませる頃、三小田はテーブルで突っ伏していた。
 
× × × × × 
 
 飲ませたやつが責任持って送ってくれよ。などという言葉を、ベテランの先輩たちに向って吐き捨てるわけにもいかず、ぐてんぐてんの三小田の尻を蹴飛ばすようにして神前は店を出た。声をかければなんとか反応し、千鳥足ながら歩く彼女だが、危なっかしいことこの上ない。腕を掴んで誘導しても、荷駄馬以下のスピードしか出ない。

 なんとか店最寄りの駅のタクシー乗り場に到着する。まだ電車はあるが、この状態で彼女が電車を乗り継いで自宅に帰れるとは思えない。幸いなことに、端末に住所を登録しているので、タクシーに送らせることはできそうだった。

「困るよ。起きなかったり吐かれたりしたらどうすんの」

 ドアを開けるなり、渋面をつくったタクシー運転手に、仕事だろうがと文句をつけたくなった。後ろを見ると、それなりに並んでいる次の乗客たちの冷たい目。

「一緒に乗るんでいいですか」

 渋々承諾されて、神前はタクシーに三小田を放り込んだ。彼女は「まだ大丈夫なのに」とぶつぶつ文句を言っていた。瞼が重そうだった。
 住所を告げると、タクシーは走り出した。

 シートに深く腰掛けて、神前は胸の前で腕を組んだ。
 荷物を胸に抱えていた三小田は、こくこく舟を漕いでいたかと思えば、ずるずると倒れてきて、神前の腕により掛かかった。そこで落ち着いてしまったのか、徐々に体重がかかってくる。じんわり、高めの体温が伝わってくる。重たくはないが、暑い。

 神前は、朝のシャツの借りはこれでチャラだぞ、などと思う。

 無防備な寝顔を見ていると、また腹が立ってきた。このでん子め。飲む量くらいちゃんと自分で加減しやがれ。歳ばっかりとって鈍くさいままかよ。が、と思い直す。あのあとずっと岡田にロックオンされていた三小田は、相槌を打ちながら飲むしかない状況だった。神前と砂押は思い思いにスポーツの話なんかをして、そっちに助け舟を出すこともなかった。少しは様子を見てやるべきだったのだろうか。席順を変えてやったりとか。
 朝見たとき、顔色が優れなかったし、あまり体調が良くなかったのかもしれない。それも自己責任だと言ってしまえばそれまでだが。
 仕方がないので、家に送り届けるくらいはしてやるか。
 
× × × × × 
 
 以前一度訪れたことのあるマンションの前で、タクシーを降りた。
 三小田は、歩かせるのも困難になりつつあった。タクシー内で寝させたのがいけなかった。

「おい、三小田、起きろ。起きて鍵開けろ」

 頬を引っ張っても、軽く叩いても、むーとかうーとかいう不明瞭な返事があるだけだった。無駄にさわり心地のいいふわふわの頬に無性に腹が立つ。
 エントランスで完全に立ち往生だった。担ぎ上げた三小田を地面に下ろすと、彼女は横座りのまままたこくこくしだした。
 舌打ちして、神前は三小田のバッグを開けた。
 これは不可抗力だ。こんなところにこいつを放り出して何かあったら、俺が責任を問われるからだと、心中で言い訳しながら。がさがさ漁るも、端末がみつからない。サプリにイヤホン、今朝も見たポーチに財布。あとはハンカチ等々。
 もしかして、と思い彼女のジャケットを探るが硬い感触はない。ちらりとさらに下に視線をやると、パンツのポケットがわかりやすく盛り上がっていた。

「三小田、おい、端末貸せ」

 反応はない。
 頼むぜ、と懇願する気分で肩を叩いても揺すっても、頬を軽く引っ張っても返ってくるのは安らかな寝息のみ。これほどまでにこの後輩に切実になにかを期待したことは、今まで一度たりともなかったと断言できる。
 以前彼女が飲み屋で語った追い剥ぎ行為の話を、神前は馬鹿にして笑っていたのだが、まさに今自分がその立場に陥っていた。しかも、女性同士ならともかく、これは他人に見られたら一発で警察を呼ばれるパターンだ。冷や汗が出る。なんの意趣返しだ、ふざけんなと口中で罵る。

 誰も見てないことを素早く確認して、慎重にそれを取り出した。斜め上の天井にある、機械の目の犯罪抑止力を身をもって感じながら。
 彼女の端末を起動して、力なく投げ出された手を拝借して認証をパスする。そのまま、マンションのオートロックを解除した。閉まってしまう前にと、三小田とその荷物を担ぎ上げドアを通過する。

「おい、部屋番号。三小田、部屋番号言え、へーやーばんごー」

 やけくそで、背に担いだ女の頭を軽く叩くと、よんまるにだよ、と返事があった。おまけに、怒らないでよぉ、と完全に緩みきった声が続く。今すぐ投げ落としてもいいだろうか、この廊下に。

 エレベーターを使い、中の防犯カメラを気にしながら、神前は指定の部屋までたどり着き、さっきの手順で鍵を開けた。途中で三小田の靴を片方落としたが、それはあとで拾うことにする。

「着いたぞ」

 遠慮はせぬとばかりにドアを開け、玄関に彼女を放り出す。
 玄関入ってすぐがキッチン、その奥にバス、玄関正面のドアの向こうが居室だろう。
 他人の家のにおいがした。どこか甘く感じるのは、住人の性別を知っているからだろうか。女の家に来るなんていつぶりだ。久々なのはたしかだが、その相手が酔いつぶれた後輩で、マヌケな三小田だと思うとちっとも嬉しくない。

 床にころんと寝転んだ三小田は、いったん訝しげな顔をしたものの、そのまま安らかな寝息をたてはじめた。
 せめて靴くらいは脱がしてやろうと、片方だけを脱がした後、外に置きっぱなしになってしまった靴を取ってきた。

 今度こそ、お役ごめんだ。
 不幸中の幸いか、まだ電車はある。

「ごめんね」

 やけにはっきりと、謝罪の言葉が飛んできた。床から。
 起きてんのかよ。神前は目を眇めて、大の字の後輩を見下ろした。

「ごめんね、ごめんなさ……」

 すんすん鼻を鳴らして、もぞもぞ寝返りを打つと、三小田は胎児のように小さく丸くなった。窓から差し込む青みを帯びたかすかな光に、柔らかな頬の線が照らし出されていた。そこを伝うものを見て、神前は苦々しい気分になった。

「……この酔っぱらいめ」

 泣き上戸なんてたちが悪い。なんでここまでしてやったのに罪悪感を覚えなければならないのか。
 がしがしと頭を掻いた後、彼はおもむろにしゃがみこんで、三小田の腕を掴みその体を持ち上げた。彼女の二の腕の柔らかさに、警察官の端くれなら体を鍛えろと言いたくなる。
 警察官なら頑健な体をしているべきだし、送致の書類は可読性に優れた文字で書くべきだし、弱者は身を挺してでも守るべきである。耳にタコができるほど繰り返し聞かされた祖父の持論は、神前の無意識下に刷り込まれている。

 引きずるようにして居室に運んだ三小田の体を、窓際に設置されたベッドに放り出す。いくら女でも、脱力した人間は運びづらかった。
 通りがかりのキッチンで見つけたスポーツ飲料のボトルを持ってきて、彼女の手に持たせる。背中に手を入れて体を起こしてやると、三小田はうっすら瞼を上げた。涙の膜が張った目は、焦点も危うく。

「ほら、飲め。明日二日酔いで死ぬぞ」

 祖父の言葉を思い出す。女の子には優しくするんだぞ、お前は男なんだからという時代錯誤甚だしい言葉。女は男よりよっぽど強かだ。精神的には。いや、肉体的にも。
 警察学校で柔道の稽古をしていたときに、喜々として自分を落としにかかってきた久慈山の顔を連鎖反応で思い出して、即刻記憶から消去した。身震いする。部屋が少し寒いせいだと思うことにした。

「ごめ……大丈夫だから」

 いやいやする子供のように顔を背けて、三小田は逃げた。いらいらさせんなよと思いながら神前が辛抱強く待っていると、彼女はのろのろとボトルを口につけた。そして咳き込んだ。飲みきれなかった飲料が甘い匂いとともにこぼれて、ボトル自体も中身をこぼしながら転がった。

「ごめん、たくと、……ごめん」

 顔を手で覆ってベッドに転がった三小田は、また寝息を立て始めた。泣きながら。
 濡れてしまった上着とシャツを強引に剥ぎ取る。今なら、腹いせにその白い二の腕に噛み付いてやってもバチは当たらない気がする。

 下着姿のまま、三小田は小さくなる。それに毛布をかけて、神前はスーツの応急処置をした。部屋の壁にかかっていたハンガーに上着をかけて、シャツはざっくりキッチンのシンクで水洗いして、ベッドの横の椅子に引っ掛けた。今朝三小田が自分のシャツにしてくれたのより、何倍も適当かつ雑な作業だった。
 玄関のドアを閉めたとき、音が大きくなったのは、立て付けのせいだ。
 
× × × × × 
 
 終電に間に合わなかった。それもこれも、鈍くさいでん子のせいである。
 神前は、くさくさした気分のまま、タクシーの後部座席で腕を組んだ。

 明日、彼女はどういう顔をするだろうか。とくと見てやる。意地悪くそういうことを考えた。
 目をつぶると、さきほど青白い光の中で見た、まろい頬を思い出す。目を開けてもそればっかり思い出す。
 泣いてんの見るのは初めてだな。ぼんやりと思った。

 怒ってるところは見た。偉そうに説教たれたときに、自分に向かって肩を怒らせていた。
 ニュートラルなときの愛想笑いではなくて、心の底から笑っているという表情も見たことがある。これはわりと頻繁で、きっかけは操作テストの成績が良かったとか、料理がうまかったとか、あとはくだらない冗談がツボに入ったとか、そんなしょうもないこと。
 悲しそうな顔をしていたときもあった。仕事を失ったことを話してくれたとき、笑っていたけど、辛そうでもあった。
 あれを見たとき、不思議な気分になったのを覚えている。叱られても叱られても、へこたれもせずに次の日には笑顔になって戻ってくるしぶとく鈍い女の、その笑顔のメッキの下にあるのは、どうやらまっさらではないらしいと。実は凹みもあるし、傷もあるし、なんなら腐食している部分もあるかもしれない。隠蔽力のある塗膜のせいで普段は見えないだけで。

 たくと。男の名前だ。
 結婚には縁がなくて、と笑った顔を思い出した。
 塗膜の下の、傷を垣間見たのだろうか。それは随分深くてささくれだっているように思えた。あるいは酸で焼け爛れて。

 腹立たしい。人の踏み込まれたくない部分にはずけずけ踏み込んできて説教垂れたくせに、自分の領域はしっかり封じ込めている彼女はずるい。
 お前の傷も見せろよと言ってやりたい。今度はこっちが説教してやる。
 そしたらまた泣かれるだろうか。
 泣いているところを、しげしげと眺めてやりたいと思う。嘲笑混じりに。鼻先が触れ合うほど、間近で。それで嫌がるところをじっくり観察する。
 同時に、もし目の前で泣かれたら罪悪感は今日の比じゃないだろうとも思う。

 神前は、嘆息した。

 借りを返したいはずなのに、なんの算段をたてているのか。借りは借りでも、シャツを洗ってもらったというものではなくて、もっと大きなものなのだが。おそらく、でん子というしょぼいものより気の利いた呼び名が思いつかなかったから、それで。

× × × × ×

「おはようございます、神前さん」
「……おはようございます」

 明るい声がして、神前は顔を上げた。三小田が、いつもの顔で席に着いた。
 本当に、いつもどおりの顔だ。しかし、目が合うと、ちょっと声を潜めて問うた。

「あの、昨日はありがとうございます。タクシーに乗っけてくれたの、神前さんですよね」

 どうやら記憶が飛んで、その先は覚えてないらしい。
 ご迷惑おかけしましたと、少し恥ずかしそうに言うので、いっそのことあったことすべてを洗いざらい話してやろうかと思った。

「別に。それより、二日酔いは平気かよ。あんなにハイペースで飲みやがって。お前が一番飲んだぞ」

 口をついて出たのは、白々しい言葉だった。

「私、翌日残らないみたいなんですよね。起きたらちゃんとベッドで寝てました」

 へらっと笑う顔を見て、毒気も抜かれた。もうそれでいい、面倒だ。投げやりな気分になって、神前は小さく言った。

「あっそう」

 いつか、昨日のことを話すことがあるだろうか。なんとなくだが、そんな日は来ないような気がした。
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