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刹那
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朽木はなかなか戻って来ない。武は彼が夕麿を解放しに出て、雫たちに拘束された可能性を考えた。もしそうならば夕麿の身はもう安全だ。ベッドに横たわって武はそう思った。
「で? 俺はどうやって殺す気だ? 言っておくが自分で毒を飲んだり、首を吊ったりはしないぞ」
「そんな無粋な真似はしませんよ。 あなたはこれで死んでいただきます」
佐久間が用意していたのは点滴だった。 プラスチック製の容器のチューブを繋ぐ場所に、シャーレから注射器で吸い上げた物を注入していた。
「それ、何?」
「ある鎮痛剤です。 それを致死量を超えた分量をたっぷり注入しました。 この薬でハイになりながら苦しまずに死んでいけます」
「悪趣味だな」
「おや、お気に召しませんか? でも穏やかな死に顔は素晴らしいものですよ? 点滴が終わってどれくらいで死に至るかは、あなたの体力次第でしょうね」
どこから持って来たのか、点滴台まで用意されていた。 武の右袖を捲り上げ上腕を縛って静脈に点滴の針を差し込んだ。 縛っている上腕を解放し、薬剤の落ちるスピードを調整する。
「すぐに薬の効果が現れます。これは新薬でしてね。毒性が強い上、麻薬のような幻覚作用があって、実用化はまだ先なんです。癌などの鎮痛剤として開発されました。 快楽度はそこの二人で試してあります。 肉体的依存は皆無ですが、その二人は現実から随分逃げたかったようで、精神的な依存にはなりました。
……そろそろ、効いて来たようですね?」
ベッドに横たわった武の瞳は、どんよりと澱み始めていた。 微かに開いた唇からは、乱れた呼吸が繰り返されている。
「宮さま、あなたはどんな幻を見ているのでしょうね」
遥がカメラをセッティングしていた。
「まだですか?」
「終わった」
「では行きましょう」
武の状態はカメラが写す。 佐久間たちは離れた場所で、モニターで観察しながら録画をする。 万一踏み込まれた時の為だった。
二人にも薬を打って佐久間と遥は出た。 落ち合う場所は決めてある。 だから朽木が戻って来ないのも気にならなかった。
「放してください!武!武!」
朽木に担がれた夕麿は必死に抵抗した。だが朽木は恐ろしい程力が強かった。
「そんなに暴れんなって。戻してやっても良いけどな……ただでは無理かな」
朽木はそう言って肩に抱えた夕麿の尻を撫でた。嫌悪と恐怖と屈辱に夕麿の全身が戦慄いた。
「ふ、何だかんだ言ってもまだガキだな?ちょっと我慢すりゃ、大切な背の君の元へ戻れるんだぜ?」
口調が随分荒い。どうやらこちらが素らしい。
「何、合流場所は決めてある。彼奴等ももう退去しただろうから、お前を戻しても文句はないだろうさ。慈園院もそっちの方が喜ぶだろうしなぁ?」
夕麿は唇を噛み締めた。武の言葉通り自分が身を犠牲にしても何も変わらない。
「あなたに身を任せても、武の生命を救えないなら同じです」
際限なく自己否定を繰り返していた時とは違う。武は生きようとしていた。それなのに……もう何も出来ないのだろうか?
「あなたにはわからないのでしょうね、私の気持ちも武の気持ちも。 それから13年を経てやっと最愛の人と再会した、成瀬さんの気持ちも」
そう言うと朽木は溜息を吐いて夕麿を降ろした。
「成瀬がロサンゼルスに来たのは…そうか、高辻 清方がこっちにいるのか」
「彼を知っているのですか?」
「中等部に美人がいるって噂になったからな、当時。 それを成瀬が落とすとは思わなかったが」
「だから引き裂いたのですか?」
「いや、そこまでのつもりはなかった。 ただ都合が良かっただけだ。 腹違いの弟なんざ、どうでも良かったしな」
この男にも遥と同じく何を言っても無駄だろう。 自分の都合でしか生きてはいない。
「それより知ってるか? 高辻 清方は相当身分の高い家柄の令嬢の私生児だって」
「それが何だと言うのです? 紫霄にはそんな者はたくさんいるでしょう?
現に武だってそうです」
「じゃあこれはどうだ? 高辻 清方の母親は近衛家の令嬢だという噂があった。 事実、彼は特別扱いにされていた。 特別室こそ入らなかったがな」
「近衛!?」
「確かあんたの母親も、近衛家の出身だよな?」
高辻が身内? それは聞いた事がなかった。 母 翠子の実家とは父が、詠美と再婚した折に夕麿の事で揉めていた。 近衛家は夕麿を引き取ろうとしたのだ。 周の母、伯母の浅子もそれに賛成だった。 六条家の嫡男を母の実家で養育する。 数百年前ならば当たり前の事であった。 ひょっとすると詠美が夕麿を虐待する可能性を、何となく感じていたのかもしれない。だが間に佐田川が入りその話は消えたと聞いていた。 今から考えれば、尋常な方法ではなかったのではないか…と思う。 その証拠に夕麿は未だに母の実家との交流を持っていない。
武との結婚の御披露目にも小夜子が一応、招待状を出したらしいが無視された。母方から捨てられた子供。そういう意味では自分も高辻も同じ。
「私と近衛家はもう無関係も同然です。 それは高辻先生も同じなのでしょう」
「ふうん…変わってるな。 家なんてのは疎ましいのは確かだ。 やれ、誰某に負けるな。 もっと成績を上げろ。
ふん、人の気も知らないで勝手なものだ。 幾ら頑張っても血筋も頭もあっちの方が上だってんだ」
「それは成瀬さんの事ですね?」
夕麿がそれを口にした途端、朽木は夕麿の腕を捻り上げながら壁に押し付けた。
「くっ…何を…?」
「高辻 清方の身内のお前をヤったら、成瀬はどんな顔をするだろうな?」
「…腕を傷め付けるのは…やめてください…ピアノが弾けなく…なります」
「こんな時にピアノがどうとか言うか?」
「私が…ピアノを弾けなくなったら…武が…悲しみます」
「抵抗しないなら放してやる」
「…わかりました。 その代わり私の願いも、訊いていただけませんか」
「なんだ?」
「武が…逝ったのを確認したら…私も殺してください…」
「ピアノが弾けなくなると言った口で、殺してくれだと? 変わった奴だな?
まあ、良い。 多々良が涎よだれ垂らしそうな顔で欲しがった身体、味合わせてもらおう」
朽木は捻り上げていた腕を一旦放して、すぐに夕麿の手首を掴んですぐ近くのドアを開けた。中は先程の部屋と大差はない状態だった。 ただ窓際に古びたカーテンが風に揺れていた。朽木はそれを引き千切ると埃だらけの床に広げた。 そこへ夕麿を押し倒し組み伏せた。 武の願いを無碍にしてしまう状態に涙が零れ落ちた。 朽木の手がシャツの中に入り、肌を撫で回す感触が気持ち悪い。 嫌悪感に吐きそうだった。
「確かに手触りの良い肌だな」
舌舐めずりして言う声すら吐き気を呼ぶ。 夕麿が着ているシャツは絹だ。絹布は素手で引き裂くのは、なかなか難しい。しかも引き裂く時に悲鳴のような音を発する。『絹を裂くような悲鳴』という表現の由来である。
最近、武が体調が良くなくそれを反映するように、常以上に皮膚が弱くなっていた。顔のように普段露出している肌はまだしも、首や胸などの敏感な肌を傷めない為に、出来る限り絹を使用した衣類を身に着けていた。それが幸いして、朽木は夕麿のシャツを引き裂けない。
舌打ちしてボタンを外し始めた。先程の朽木の言葉から推定すると、武はすぐには死なない方法で殺されようとしているらしい。本当はこんな事をしている場合ではない。だが夕麿では武道……恐らくは柔道の有段者らしい朽木には到底対抗は出来ない。抵抗しても武を救いに行けなければ意味がないのだ。
ここへ引っ張り込まれる時に、指輪を床に落として置いた。雫たちが気付いてくれれば良いが……
シャツのボタンが外され剥き出しになった胸を見て朽木は口笛を吹いた。
「舌打ちの次は…口笛ですか?随分と…らしくない振る舞いですね?」
舌打ちも口笛も下品な行為として、絶対にしてはいけないと貴族ならば教えられて育つ。
「悪いか?俺は所轄勤務が長かったんだ。成瀬のように一級試験トップ合格で、財務省蹴って警察庁って超エリートとは違うんでな」
一級公務員試験合格者は個人の希望がもちろん優先されるが、大体に於いてトップは財務省官僚になるのが普通である。だが雫は財務省や厚労省、外務省などの誘いを断って警察庁入りを希望したと言うのだ。恐らくは学院都市警察の幹部として赴任したかったのだろう、学院から出られない高辻に逢いに行く為に。武との結婚すら高辻に逢う為に承諾しようとしたくらいだから。形振り構わない雫の一途さを思うと頭が下がる。
諦めるな。
夕麿は自分に言い聞かせた。雫たちは必ず来る。そして武を助ける事は出来る。ここでこの男に良いようにされても、武を助ける事が一番大切だ。
肌を這う手や唇が気持ち悪い。唇を噛み締めて悲鳴を噛み殺す。朽木の手が下着の中に入り込んだ。
「ちッ!催淫剤をもらっとくんだったな」
武以外には反応しない身体が今は有り難く思う。朽木は手を抜いて下着ごとパンツを脱がそうとした。
「そこまでだ、朽木。この腐れ野郎。汚い手で夕麿さまに触るな!」
「雫さん、下品ですよ?」
銃を突き付けられ、朽木は再び舌打ちした。ここを嗅ぎ付けられるとは思っていなかったようだ。
「夕麿、大丈夫か!?」
周が慌てて夕麿を抱き起こした。彼らの顔を見て必死に耐えていた恐怖が溢れ出し、周の腕の中で啜り泣く。
「雫さん、そいつ、僕の代わりに殴っておいてください」
夕麿が抵抗していなかったのは、武の安否が絡んでいるからだと安易にわかる。
「さて、武さまはどこだ?殴る前に教えてもらわないとな、朽木?何せ全員分殴るとお前は病院送りだからな。夕麿さまの色香に迷った気持ちはわかる。だがそこをグッと堪えるのが男だろうが?」
高辻がいたら間違いなくひっぱたくような事を言う。
「雫さん、清方さんに言いますよ?」
「え!?いや、その、今のは言葉のあやだ」
「何だ?成瀬が尻に敷かれてるのか?こりゃ傑作だ!」
朽木が笑い転げる。すると徐に立ち上がった夕麿が彼を殴り付けた。
「元の場所へ案内しなさい!さもないとロサンゼルスとサンフランシスコのSexual Minorityたちに、あなたを今回の協力の礼に差し出しますよ?」
夕麿が口にした恐ろしい状況に朽木の顔から血の気が引いて、恐怖に口をパクパクさせながら頷いた。如何に武の生命がかかっているとは言え、夕麿の剣幕には周も雫も蒼褪めた。
本当にやりかねない。武が夕麿を守る為に容赦ないように、夕麿も容赦のない行動をとるだろう。
「ほら立て。頭を吹っ飛ばされるより、恐ろしい目に合いたくなかったらな」
「わかった…」
「急ぎましょう」
夕麿が朽木を急かせた。廊下を抜け階段を駆け上る。部屋に飛び込んだ時には武はベッドに横たわり、本庄 直也と板倉 正巳が倒れていた。武の腕に刺さっている点滴針を、周が慌てて引き抜いた。容器の中身は半分ほどになっていた。
「これは何だ?何の薬だ!?」
周が朽木に詰め寄った。
「多分…新薬として開発されながら、臨床前に中止された鎮痛剤だと思う」
「鎮痛剤!?」
「モルヒネより鎮痛効果はあるが、毒性が強くて激しい幻覚症状がある。習慣性はないが精神的依存を示したのが、その二人だと佐久間から聞いている」
「まて、佐久間だと!?」
「そうです、周さん、成瀬さん。紫霄の高等部の校医だった、佐久間 章雄です」
「彼奴が首謀者だったのか……」
雫が唸った。紫霄で怪我をした時に大急処置をしてくれたのが、当時の高等部校医の佐久間だった。犯人を目の前にしたという事だ。
「それで? 何故、武に投与したのです?」
「それ全部を注入したら、致死量になるんだろう」
「体内に入ったのは半分か…」
「死なないかもしれないが、その本庄ってガキみたいに感情のない人形みたいになってるかもしれんぞ?」
朽木が笑い出す。
「そういう副作用も中止になった原因だってよ」
開かれた瞳はどんよりとして何も映してはいない。 乱れた呼吸を繰り返す唇は少し開いて涎が垂れている。
「武…武…!」
夕麿は武を抱き締めた。離すのではなかった。どんな事をしても縋り付いていれば良かった。後悔で胸が一杯になる。どんなに名前を呼んでも、武は反応すら見せない。
そこへ一緒に突入していたFBIが入って来て、雫に何やら耳打ちした。
「夕麿さま、慈園院 遥と佐久間 章雄を拘束したそうです」
「ありがとうございます。 感謝します。 武の一番の望みは果たされたのですね」
「夕麿、帰ろう」
「え? 屋敷にですか? メディカルセンターに行かないのですか?」
夕麿の言葉に周は首を振った。
「恐らく治療法はない。 実験材料にされるだけだ。 武さまだってセンターの冷たいベッドより、お前の側を望まれる筈だ」
「周さん…」
「雫さん、この中身をFBIで大至急、分析してもらってくれ。 佐久間め…もしもの事になったら同じ目にあわせてくれる」
周は腕も良く熱心だった佐久間を尊敬していた。 総合医を目指す決心をしたのも佐久間の影響だった。 それが紫霄への赴任自体が武の監視と暗殺が目的だったとは。
悔しかった。
腹立たしかった。
けれど武の皇家の霊感を以てしても見抜けなかったのだ。 その巧妙で狡猾さに全員が騙されていたのだ。
武はそっと夕麿に抱かれ周と雫に伴われて現場を離れた。 その後、本庄 直也と板倉 正巳を救急車を呼んで搬送した。
不思議な事に武は帰宅してベッドに横たえると目を閉じて眠ってしまった。
佐久間が黙秘を続けている為に投与された薬剤の事は、朽木 綱宏が彼から聞いたものと本庄たちに投与された状態を見聞きしたものしかなかった。
夕麿は共にベッドに入って、眠り続けている武を抱き締めていた。
周と高辻は隣のリビングスペースに待機した。
雫は近くの署に出向き保は貴之の様子を見ながら、武が投与された薬剤についてコネも伝も駆使して調べていた。
義勝は神降ろしをした結果、高熱を発した雅久を看病していた。
知らせを受けて屋敷に駆け付けたボブは、居間の床に跪いて『ロザリオの祈り』を延々と唱えていた。
屋敷の使用人たちもそれぞれの方法で祈っていた。
皇国の御園生邸でも全員が祈っていた。 小夜子は以前、義勝たちが流鏑馬神事を行った神社に詣でて、裸足で必死にお百度参りをしていた。
紫霄では現生徒会長、御厨 敦紀が中・高等部、大学部に呼び掛けて、学院都市中が祈りに包まれていた。 貴之が敦紀に武の危機を知らせたのである。
皇帝も内々に賢所で祈り続けていた。
六条家でも知らせを受けて、祈りが行われていた。
そして療養の為に帰国していた絹子も、六条邸の近くの神社でお百度参りをしていた。
誰もが武の為に祈っていた。
変化があったのはリビングスペースで遅めの夕食を摂っていた時だった。 周が夕麿を無理やりリビングスペースに連れ出して、昼食も摂っていなかった彼に食事を摂らせていたのだ。 夕食は武が取り寄せ、調理を命じていた松茸料理だった。
「武さまの御心遣いをいただけよ」
そう言われては夕麿も食べざるを得ない。
「わざわざ旧都のものを取り寄せられたらしい」
その松茸の荷物の中に呼び出しのメモが、入っていたというのは皮肉で腹立たしい事実だった。 武と一緒に食べているなら、どんなに美味しく食べられただろう。 そう思うと涙が溢れて来る。
すると夕麿の想いに応えるかのように寝室で声がした。 慌てて立ち上がって様子を見に行くと、武が床の上に座り込んでいた。
夕麿と周は顔を見合わせた。 武がいたのはベッドから離れた場所だった。 両脚が麻痺している武が行ける筈のない場所で、しかも普通に座り込んでいるのだ。
「武…?」
驚きを隠せない有り様で近付いた夕麿にあどけない、けれど幾分虚ろさが抜けていない表情を向けた。
「…気持ち悪い…」
「え!?」
慌てた周は側のゴミ箱を差し出した。 武はそれを躊躇する事なく、両手で掴んで吐いた。 夕麿が背を撫でている間に周は高辻に知らせ、リビングスペースの冷蔵庫からミネラルウォーターとグラスを持って来た。
「武さま、これを」
グラスを渡されて中の水を飲み干しまた吐く。 余りにも激しく繰り返して吐いた為、喉が切れ、吐き出した胃液に血が混じる程だった。 ようやく吐き気が治まった武は、立ち上がってふらふらとベッドに向かって歩き出す。 しかし2ヶ月近くも立ち上がる事も動かす事も出来なかった、両脚の筋肉はすっかり細くなって体重を支え切れない。 すぐに転んでしまう。
「…」
意識が未だはっきりしないのか、身を起こして茫然としている。
「大丈夫ですか、武?」
夕麿に抱き上げられて武は安心したかのように抱き付いた。 ベッドに運んで降ろすと夕麿の服を掴んで離さない。
「大丈夫です。 ちょっと着替えるだけですから離してください」
そう言うと頷いて手を離す。 小さな子供のようだった。
「夕麿さま、パジャマにお着替えになられて、どうか武さまとご一緒に御眠りください」
憔悴して血の気の薄い顔をしている夕麿に、高辻は部屋着への着替えではなく夜着への着替えをすすめた。夕麿は自分の体調の変化に少し鈍感な部分がある。義母詠美の虐待や紫霄で置かれた立場ゆえに、快・不快を我慢する傾向がありそれが体調不良にまで及んでいた。周囲が気付くまで本人が自覚しない事が多々ある。
今も憔悴しているのがありありとわかるのに、夕麿自身は一向に気付いた様子がない。放置しておけば倒れるまで自覚しないだろう。
高辻の指示通りにパジャマに着替えた夕麿は、ベッドに入って武を抱き締めるようにして横になった。武が首に腕を絡めて抱き付いて来た。それに応えるように唇を重ねるとしっかりと応えて来る。たっぷりと貪り合ったあと唇を離して笑みを交わす。
武は安心したのか、夕麿の胸に頬を寄せて目を閉じ、すぐに穏やかな寝息を立てて眠ってしまった。その姿を優しい笑顔でしばらく見つめていたが、やがて自らも瞼を閉じて眠りに就いた。
二人が眠ったのを確認した周は、シーツをかけ直して高辻と寝室を出た。
「清方さん、どう思う?」
「まだ何とも言えませんが……感情をなくす、というのはないように思います」
「僕もそう判断する。だけどまだ薬の影響が残っているにしても、何故、脚が回復されたのだろう?」
「投与された薬剤が脳に、何がしかの影響を与えた……と考えられはします。結果として脚を麻痺させていた心理的原因と影響を受けていた脳の部分が、遮断されたのだと考えるべきでしょう」
「それがどこまでどんな状態であるのか、一過性の症状か、後遺症的副作用として後々まで残るか…」
「今後の観察を強化するしかないでしょう。武さまのようにIQの高い脳はデリケートな傾向があります」
高辻は敢えて『それが心配』とは言わなかった。今は完全に薬剤が体内から消えた後の武の状態と、FBIに出した分析及び、保が探している開発元が判明する事が頼みの綱だった。
翌朝、夕麿が目を覚ますと、武が起き上がってキョロキョロと周囲を見回していた。
「武…?」
「あ…えっと…夕麿…」
戸惑ったような、困ったような顔をする。
「気分はどうですか? 何かおかしく感じるような事は?」
「俺…ちゃんと起きてるよね? 夢を見てたりしないよね?」
部屋のベッドで目覚める。 傍らで夕麿も眠っている。 死を覚悟して敵地にいた武には、投与された薬の幻覚と現実が区別出来ないでいた。 ただ幸せな幻を見ていた。 だからいつもの光景がまだ幻ではないのかと不安でたまらなかった。 それに自分の力で座る事すら困難だった筈なのに座れるし脚も動く。
目覚めたつもりでまだ夢の中にいる…… そう思えて怖かった。
夕麿は身を起こすと武をしっかりと抱き締めた。
「ちゃんと現実ですよ、武。 昨夜、吐いたのを覚えてないのですか?」
「吐いた…? 周さんがゴミ箱くれた?」
「ええ。 近くに何もなかったので」
「眠る時にキスしてくれた?」
「ええ、たっぷりと」
「夢…だと思ってた」
「まだ朦朧としていましたからね。ではこれは?」
頬に手を添えて上を向かせてそっと唇を重ねた。
「もっと」
離れた唇を追うようにして強請る。 再び重ねられた唇を互いに味わい貪り合う。 銀の糸を引いて離れた唇。 互いの視線が絡み合った後、武は夕麿の胸に頬を押し付けるようにしてしっかりと抱き付いた。
大きく息を吸って言った。
「ああ…夕麿の匂いだ。 本物だ…俺、ちゃんと生きてる」
「無茶な事をして…間に合わなかったらと思うと…今でも胸が痛くなります」
「ごめんなさい」
身体を張った武の気持ちは夕麿にも理解出来る。
「あなたが無事で良かった」
今度こそ失うのではないか。 どんよりとして光を失った瞳を見た時にはそう思った。 もし薬が武の心を壊しても、ずっと側にいるつもりだった。 毎日話し掛けて絶対に元に戻す。 車の中で武を抱き締めてそう決心していた。
しかしここにいるのはいつもの武だ。
「あっ!」
突然、何かを思い出したのか、武が夕麿の顔を見つめた。
「どうかしましたか?」
「あの男…! 夕麿、あいつに何もされなかっただろうな?」
朽木も紫霄の卒業生だ。 既に妻帯者だと聞いているが同性に欲望を覚えないという証にはならない。実際、拉致されて移動する車の中で、朽木は本庄 直也の身体を撫で回していた。彼が眠らされている夕麿を見つめていたのに。武を見る目も品定めするような陰湿な眼差しだった。視姦されている。自分も夕麿も。そう感じていた。だから夕麿を抱え上げて出て行ったのが今更気になる。
「大丈夫です。成瀬さんや周さんが来てくださいましたから」
「本当に?」
朽木に素肌を撫で回され下着の中に手を入れられた。その事実を口にすれば武がまた自分を責める。だから何もなかった事にしようと夕麿は決心した。
「ええ。大丈夫です」
「良かった」
安堵の表情を浮かべた武に穏やかに微笑みかけた。全ては終わった事だ。
「さて、朝食は食べられそうですか?」
「軽くなら…多分」
「雅久が倒れたらしいので、林檎は無理かもしれません」
「え!?雅久兄さん、何で倒れたの?」
「…義勝によると私たちの無事を祈願する為に、舞で神降ろしを行ったそうです」
「…雅久兄さんなら…出来そうだ」
「彼の口を借りて神が申されたそうです。 願いを聞き届けると」
「そっか…」
「何か持って来させましょう」
「俺、食堂で食べたい」
皆の顔が見たかった。 お詫びとお礼が言いたかった。
「夕麿、貴之先輩の怪我は?」
「明日には起きても大丈夫なようですよ?」
「そっか…板倉、貴之先輩の事を嫌いだって言ってた」
2年前の騒動の時も貴之が一番酷い怪我をした。 武には優しくて厳しい師匠であり、何をおいても自分と夕麿に忠義を尽くしてくれる存在だった。
「…多分、彼がそのまま在校していたら、貴之の後任になった筈です」
「風紀委員長? 板倉って武道してたの?」
「剣道と弓道の有段者です」
「俺、板倉の事、何も知らない」
「あの頃のあなたは自分自身の事で一杯いっぱいだったから仕方がありません」
確かに夕麿の言う通りではあった。 それでも友達だったのだ。 何も知らないではすまない筈。 これで取り敢えずは、生命を狙われる危険は当面の所はない。 あとは根源に会って交渉するだけだ。
それは冬季(クリスマス)休暇で。
武も18歳になった。
これ以上、彼らの好きにさせておくつもりはなかった。
「で? 俺はどうやって殺す気だ? 言っておくが自分で毒を飲んだり、首を吊ったりはしないぞ」
「そんな無粋な真似はしませんよ。 あなたはこれで死んでいただきます」
佐久間が用意していたのは点滴だった。 プラスチック製の容器のチューブを繋ぐ場所に、シャーレから注射器で吸い上げた物を注入していた。
「それ、何?」
「ある鎮痛剤です。 それを致死量を超えた分量をたっぷり注入しました。 この薬でハイになりながら苦しまずに死んでいけます」
「悪趣味だな」
「おや、お気に召しませんか? でも穏やかな死に顔は素晴らしいものですよ? 点滴が終わってどれくらいで死に至るかは、あなたの体力次第でしょうね」
どこから持って来たのか、点滴台まで用意されていた。 武の右袖を捲り上げ上腕を縛って静脈に点滴の針を差し込んだ。 縛っている上腕を解放し、薬剤の落ちるスピードを調整する。
「すぐに薬の効果が現れます。これは新薬でしてね。毒性が強い上、麻薬のような幻覚作用があって、実用化はまだ先なんです。癌などの鎮痛剤として開発されました。 快楽度はそこの二人で試してあります。 肉体的依存は皆無ですが、その二人は現実から随分逃げたかったようで、精神的な依存にはなりました。
……そろそろ、効いて来たようですね?」
ベッドに横たわった武の瞳は、どんよりと澱み始めていた。 微かに開いた唇からは、乱れた呼吸が繰り返されている。
「宮さま、あなたはどんな幻を見ているのでしょうね」
遥がカメラをセッティングしていた。
「まだですか?」
「終わった」
「では行きましょう」
武の状態はカメラが写す。 佐久間たちは離れた場所で、モニターで観察しながら録画をする。 万一踏み込まれた時の為だった。
二人にも薬を打って佐久間と遥は出た。 落ち合う場所は決めてある。 だから朽木が戻って来ないのも気にならなかった。
「放してください!武!武!」
朽木に担がれた夕麿は必死に抵抗した。だが朽木は恐ろしい程力が強かった。
「そんなに暴れんなって。戻してやっても良いけどな……ただでは無理かな」
朽木はそう言って肩に抱えた夕麿の尻を撫でた。嫌悪と恐怖と屈辱に夕麿の全身が戦慄いた。
「ふ、何だかんだ言ってもまだガキだな?ちょっと我慢すりゃ、大切な背の君の元へ戻れるんだぜ?」
口調が随分荒い。どうやらこちらが素らしい。
「何、合流場所は決めてある。彼奴等ももう退去しただろうから、お前を戻しても文句はないだろうさ。慈園院もそっちの方が喜ぶだろうしなぁ?」
夕麿は唇を噛み締めた。武の言葉通り自分が身を犠牲にしても何も変わらない。
「あなたに身を任せても、武の生命を救えないなら同じです」
際限なく自己否定を繰り返していた時とは違う。武は生きようとしていた。それなのに……もう何も出来ないのだろうか?
「あなたにはわからないのでしょうね、私の気持ちも武の気持ちも。 それから13年を経てやっと最愛の人と再会した、成瀬さんの気持ちも」
そう言うと朽木は溜息を吐いて夕麿を降ろした。
「成瀬がロサンゼルスに来たのは…そうか、高辻 清方がこっちにいるのか」
「彼を知っているのですか?」
「中等部に美人がいるって噂になったからな、当時。 それを成瀬が落とすとは思わなかったが」
「だから引き裂いたのですか?」
「いや、そこまでのつもりはなかった。 ただ都合が良かっただけだ。 腹違いの弟なんざ、どうでも良かったしな」
この男にも遥と同じく何を言っても無駄だろう。 自分の都合でしか生きてはいない。
「それより知ってるか? 高辻 清方は相当身分の高い家柄の令嬢の私生児だって」
「それが何だと言うのです? 紫霄にはそんな者はたくさんいるでしょう?
現に武だってそうです」
「じゃあこれはどうだ? 高辻 清方の母親は近衛家の令嬢だという噂があった。 事実、彼は特別扱いにされていた。 特別室こそ入らなかったがな」
「近衛!?」
「確かあんたの母親も、近衛家の出身だよな?」
高辻が身内? それは聞いた事がなかった。 母 翠子の実家とは父が、詠美と再婚した折に夕麿の事で揉めていた。 近衛家は夕麿を引き取ろうとしたのだ。 周の母、伯母の浅子もそれに賛成だった。 六条家の嫡男を母の実家で養育する。 数百年前ならば当たり前の事であった。 ひょっとすると詠美が夕麿を虐待する可能性を、何となく感じていたのかもしれない。だが間に佐田川が入りその話は消えたと聞いていた。 今から考えれば、尋常な方法ではなかったのではないか…と思う。 その証拠に夕麿は未だに母の実家との交流を持っていない。
武との結婚の御披露目にも小夜子が一応、招待状を出したらしいが無視された。母方から捨てられた子供。そういう意味では自分も高辻も同じ。
「私と近衛家はもう無関係も同然です。 それは高辻先生も同じなのでしょう」
「ふうん…変わってるな。 家なんてのは疎ましいのは確かだ。 やれ、誰某に負けるな。 もっと成績を上げろ。
ふん、人の気も知らないで勝手なものだ。 幾ら頑張っても血筋も頭もあっちの方が上だってんだ」
「それは成瀬さんの事ですね?」
夕麿がそれを口にした途端、朽木は夕麿の腕を捻り上げながら壁に押し付けた。
「くっ…何を…?」
「高辻 清方の身内のお前をヤったら、成瀬はどんな顔をするだろうな?」
「…腕を傷め付けるのは…やめてください…ピアノが弾けなく…なります」
「こんな時にピアノがどうとか言うか?」
「私が…ピアノを弾けなくなったら…武が…悲しみます」
「抵抗しないなら放してやる」
「…わかりました。 その代わり私の願いも、訊いていただけませんか」
「なんだ?」
「武が…逝ったのを確認したら…私も殺してください…」
「ピアノが弾けなくなると言った口で、殺してくれだと? 変わった奴だな?
まあ、良い。 多々良が涎よだれ垂らしそうな顔で欲しがった身体、味合わせてもらおう」
朽木は捻り上げていた腕を一旦放して、すぐに夕麿の手首を掴んですぐ近くのドアを開けた。中は先程の部屋と大差はない状態だった。 ただ窓際に古びたカーテンが風に揺れていた。朽木はそれを引き千切ると埃だらけの床に広げた。 そこへ夕麿を押し倒し組み伏せた。 武の願いを無碍にしてしまう状態に涙が零れ落ちた。 朽木の手がシャツの中に入り、肌を撫で回す感触が気持ち悪い。 嫌悪感に吐きそうだった。
「確かに手触りの良い肌だな」
舌舐めずりして言う声すら吐き気を呼ぶ。 夕麿が着ているシャツは絹だ。絹布は素手で引き裂くのは、なかなか難しい。しかも引き裂く時に悲鳴のような音を発する。『絹を裂くような悲鳴』という表現の由来である。
最近、武が体調が良くなくそれを反映するように、常以上に皮膚が弱くなっていた。顔のように普段露出している肌はまだしも、首や胸などの敏感な肌を傷めない為に、出来る限り絹を使用した衣類を身に着けていた。それが幸いして、朽木は夕麿のシャツを引き裂けない。
舌打ちしてボタンを外し始めた。先程の朽木の言葉から推定すると、武はすぐには死なない方法で殺されようとしているらしい。本当はこんな事をしている場合ではない。だが夕麿では武道……恐らくは柔道の有段者らしい朽木には到底対抗は出来ない。抵抗しても武を救いに行けなければ意味がないのだ。
ここへ引っ張り込まれる時に、指輪を床に落として置いた。雫たちが気付いてくれれば良いが……
シャツのボタンが外され剥き出しになった胸を見て朽木は口笛を吹いた。
「舌打ちの次は…口笛ですか?随分と…らしくない振る舞いですね?」
舌打ちも口笛も下品な行為として、絶対にしてはいけないと貴族ならば教えられて育つ。
「悪いか?俺は所轄勤務が長かったんだ。成瀬のように一級試験トップ合格で、財務省蹴って警察庁って超エリートとは違うんでな」
一級公務員試験合格者は個人の希望がもちろん優先されるが、大体に於いてトップは財務省官僚になるのが普通である。だが雫は財務省や厚労省、外務省などの誘いを断って警察庁入りを希望したと言うのだ。恐らくは学院都市警察の幹部として赴任したかったのだろう、学院から出られない高辻に逢いに行く為に。武との結婚すら高辻に逢う為に承諾しようとしたくらいだから。形振り構わない雫の一途さを思うと頭が下がる。
諦めるな。
夕麿は自分に言い聞かせた。雫たちは必ず来る。そして武を助ける事は出来る。ここでこの男に良いようにされても、武を助ける事が一番大切だ。
肌を這う手や唇が気持ち悪い。唇を噛み締めて悲鳴を噛み殺す。朽木の手が下着の中に入り込んだ。
「ちッ!催淫剤をもらっとくんだったな」
武以外には反応しない身体が今は有り難く思う。朽木は手を抜いて下着ごとパンツを脱がそうとした。
「そこまでだ、朽木。この腐れ野郎。汚い手で夕麿さまに触るな!」
「雫さん、下品ですよ?」
銃を突き付けられ、朽木は再び舌打ちした。ここを嗅ぎ付けられるとは思っていなかったようだ。
「夕麿、大丈夫か!?」
周が慌てて夕麿を抱き起こした。彼らの顔を見て必死に耐えていた恐怖が溢れ出し、周の腕の中で啜り泣く。
「雫さん、そいつ、僕の代わりに殴っておいてください」
夕麿が抵抗していなかったのは、武の安否が絡んでいるからだと安易にわかる。
「さて、武さまはどこだ?殴る前に教えてもらわないとな、朽木?何せ全員分殴るとお前は病院送りだからな。夕麿さまの色香に迷った気持ちはわかる。だがそこをグッと堪えるのが男だろうが?」
高辻がいたら間違いなくひっぱたくような事を言う。
「雫さん、清方さんに言いますよ?」
「え!?いや、その、今のは言葉のあやだ」
「何だ?成瀬が尻に敷かれてるのか?こりゃ傑作だ!」
朽木が笑い転げる。すると徐に立ち上がった夕麿が彼を殴り付けた。
「元の場所へ案内しなさい!さもないとロサンゼルスとサンフランシスコのSexual Minorityたちに、あなたを今回の協力の礼に差し出しますよ?」
夕麿が口にした恐ろしい状況に朽木の顔から血の気が引いて、恐怖に口をパクパクさせながら頷いた。如何に武の生命がかかっているとは言え、夕麿の剣幕には周も雫も蒼褪めた。
本当にやりかねない。武が夕麿を守る為に容赦ないように、夕麿も容赦のない行動をとるだろう。
「ほら立て。頭を吹っ飛ばされるより、恐ろしい目に合いたくなかったらな」
「わかった…」
「急ぎましょう」
夕麿が朽木を急かせた。廊下を抜け階段を駆け上る。部屋に飛び込んだ時には武はベッドに横たわり、本庄 直也と板倉 正巳が倒れていた。武の腕に刺さっている点滴針を、周が慌てて引き抜いた。容器の中身は半分ほどになっていた。
「これは何だ?何の薬だ!?」
周が朽木に詰め寄った。
「多分…新薬として開発されながら、臨床前に中止された鎮痛剤だと思う」
「鎮痛剤!?」
「モルヒネより鎮痛効果はあるが、毒性が強くて激しい幻覚症状がある。習慣性はないが精神的依存を示したのが、その二人だと佐久間から聞いている」
「まて、佐久間だと!?」
「そうです、周さん、成瀬さん。紫霄の高等部の校医だった、佐久間 章雄です」
「彼奴が首謀者だったのか……」
雫が唸った。紫霄で怪我をした時に大急処置をしてくれたのが、当時の高等部校医の佐久間だった。犯人を目の前にしたという事だ。
「それで? 何故、武に投与したのです?」
「それ全部を注入したら、致死量になるんだろう」
「体内に入ったのは半分か…」
「死なないかもしれないが、その本庄ってガキみたいに感情のない人形みたいになってるかもしれんぞ?」
朽木が笑い出す。
「そういう副作用も中止になった原因だってよ」
開かれた瞳はどんよりとして何も映してはいない。 乱れた呼吸を繰り返す唇は少し開いて涎が垂れている。
「武…武…!」
夕麿は武を抱き締めた。離すのではなかった。どんな事をしても縋り付いていれば良かった。後悔で胸が一杯になる。どんなに名前を呼んでも、武は反応すら見せない。
そこへ一緒に突入していたFBIが入って来て、雫に何やら耳打ちした。
「夕麿さま、慈園院 遥と佐久間 章雄を拘束したそうです」
「ありがとうございます。 感謝します。 武の一番の望みは果たされたのですね」
「夕麿、帰ろう」
「え? 屋敷にですか? メディカルセンターに行かないのですか?」
夕麿の言葉に周は首を振った。
「恐らく治療法はない。 実験材料にされるだけだ。 武さまだってセンターの冷たいベッドより、お前の側を望まれる筈だ」
「周さん…」
「雫さん、この中身をFBIで大至急、分析してもらってくれ。 佐久間め…もしもの事になったら同じ目にあわせてくれる」
周は腕も良く熱心だった佐久間を尊敬していた。 総合医を目指す決心をしたのも佐久間の影響だった。 それが紫霄への赴任自体が武の監視と暗殺が目的だったとは。
悔しかった。
腹立たしかった。
けれど武の皇家の霊感を以てしても見抜けなかったのだ。 その巧妙で狡猾さに全員が騙されていたのだ。
武はそっと夕麿に抱かれ周と雫に伴われて現場を離れた。 その後、本庄 直也と板倉 正巳を救急車を呼んで搬送した。
不思議な事に武は帰宅してベッドに横たえると目を閉じて眠ってしまった。
佐久間が黙秘を続けている為に投与された薬剤の事は、朽木 綱宏が彼から聞いたものと本庄たちに投与された状態を見聞きしたものしかなかった。
夕麿は共にベッドに入って、眠り続けている武を抱き締めていた。
周と高辻は隣のリビングスペースに待機した。
雫は近くの署に出向き保は貴之の様子を見ながら、武が投与された薬剤についてコネも伝も駆使して調べていた。
義勝は神降ろしをした結果、高熱を発した雅久を看病していた。
知らせを受けて屋敷に駆け付けたボブは、居間の床に跪いて『ロザリオの祈り』を延々と唱えていた。
屋敷の使用人たちもそれぞれの方法で祈っていた。
皇国の御園生邸でも全員が祈っていた。 小夜子は以前、義勝たちが流鏑馬神事を行った神社に詣でて、裸足で必死にお百度参りをしていた。
紫霄では現生徒会長、御厨 敦紀が中・高等部、大学部に呼び掛けて、学院都市中が祈りに包まれていた。 貴之が敦紀に武の危機を知らせたのである。
皇帝も内々に賢所で祈り続けていた。
六条家でも知らせを受けて、祈りが行われていた。
そして療養の為に帰国していた絹子も、六条邸の近くの神社でお百度参りをしていた。
誰もが武の為に祈っていた。
変化があったのはリビングスペースで遅めの夕食を摂っていた時だった。 周が夕麿を無理やりリビングスペースに連れ出して、昼食も摂っていなかった彼に食事を摂らせていたのだ。 夕食は武が取り寄せ、調理を命じていた松茸料理だった。
「武さまの御心遣いをいただけよ」
そう言われては夕麿も食べざるを得ない。
「わざわざ旧都のものを取り寄せられたらしい」
その松茸の荷物の中に呼び出しのメモが、入っていたというのは皮肉で腹立たしい事実だった。 武と一緒に食べているなら、どんなに美味しく食べられただろう。 そう思うと涙が溢れて来る。
すると夕麿の想いに応えるかのように寝室で声がした。 慌てて立ち上がって様子を見に行くと、武が床の上に座り込んでいた。
夕麿と周は顔を見合わせた。 武がいたのはベッドから離れた場所だった。 両脚が麻痺している武が行ける筈のない場所で、しかも普通に座り込んでいるのだ。
「武…?」
驚きを隠せない有り様で近付いた夕麿にあどけない、けれど幾分虚ろさが抜けていない表情を向けた。
「…気持ち悪い…」
「え!?」
慌てた周は側のゴミ箱を差し出した。 武はそれを躊躇する事なく、両手で掴んで吐いた。 夕麿が背を撫でている間に周は高辻に知らせ、リビングスペースの冷蔵庫からミネラルウォーターとグラスを持って来た。
「武さま、これを」
グラスを渡されて中の水を飲み干しまた吐く。 余りにも激しく繰り返して吐いた為、喉が切れ、吐き出した胃液に血が混じる程だった。 ようやく吐き気が治まった武は、立ち上がってふらふらとベッドに向かって歩き出す。 しかし2ヶ月近くも立ち上がる事も動かす事も出来なかった、両脚の筋肉はすっかり細くなって体重を支え切れない。 すぐに転んでしまう。
「…」
意識が未だはっきりしないのか、身を起こして茫然としている。
「大丈夫ですか、武?」
夕麿に抱き上げられて武は安心したかのように抱き付いた。 ベッドに運んで降ろすと夕麿の服を掴んで離さない。
「大丈夫です。 ちょっと着替えるだけですから離してください」
そう言うと頷いて手を離す。 小さな子供のようだった。
「夕麿さま、パジャマにお着替えになられて、どうか武さまとご一緒に御眠りください」
憔悴して血の気の薄い顔をしている夕麿に、高辻は部屋着への着替えではなく夜着への着替えをすすめた。夕麿は自分の体調の変化に少し鈍感な部分がある。義母詠美の虐待や紫霄で置かれた立場ゆえに、快・不快を我慢する傾向がありそれが体調不良にまで及んでいた。周囲が気付くまで本人が自覚しない事が多々ある。
今も憔悴しているのがありありとわかるのに、夕麿自身は一向に気付いた様子がない。放置しておけば倒れるまで自覚しないだろう。
高辻の指示通りにパジャマに着替えた夕麿は、ベッドに入って武を抱き締めるようにして横になった。武が首に腕を絡めて抱き付いて来た。それに応えるように唇を重ねるとしっかりと応えて来る。たっぷりと貪り合ったあと唇を離して笑みを交わす。
武は安心したのか、夕麿の胸に頬を寄せて目を閉じ、すぐに穏やかな寝息を立てて眠ってしまった。その姿を優しい笑顔でしばらく見つめていたが、やがて自らも瞼を閉じて眠りに就いた。
二人が眠ったのを確認した周は、シーツをかけ直して高辻と寝室を出た。
「清方さん、どう思う?」
「まだ何とも言えませんが……感情をなくす、というのはないように思います」
「僕もそう判断する。だけどまだ薬の影響が残っているにしても、何故、脚が回復されたのだろう?」
「投与された薬剤が脳に、何がしかの影響を与えた……と考えられはします。結果として脚を麻痺させていた心理的原因と影響を受けていた脳の部分が、遮断されたのだと考えるべきでしょう」
「それがどこまでどんな状態であるのか、一過性の症状か、後遺症的副作用として後々まで残るか…」
「今後の観察を強化するしかないでしょう。武さまのようにIQの高い脳はデリケートな傾向があります」
高辻は敢えて『それが心配』とは言わなかった。今は完全に薬剤が体内から消えた後の武の状態と、FBIに出した分析及び、保が探している開発元が判明する事が頼みの綱だった。
翌朝、夕麿が目を覚ますと、武が起き上がってキョロキョロと周囲を見回していた。
「武…?」
「あ…えっと…夕麿…」
戸惑ったような、困ったような顔をする。
「気分はどうですか? 何かおかしく感じるような事は?」
「俺…ちゃんと起きてるよね? 夢を見てたりしないよね?」
部屋のベッドで目覚める。 傍らで夕麿も眠っている。 死を覚悟して敵地にいた武には、投与された薬の幻覚と現実が区別出来ないでいた。 ただ幸せな幻を見ていた。 だからいつもの光景がまだ幻ではないのかと不安でたまらなかった。 それに自分の力で座る事すら困難だった筈なのに座れるし脚も動く。
目覚めたつもりでまだ夢の中にいる…… そう思えて怖かった。
夕麿は身を起こすと武をしっかりと抱き締めた。
「ちゃんと現実ですよ、武。 昨夜、吐いたのを覚えてないのですか?」
「吐いた…? 周さんがゴミ箱くれた?」
「ええ。 近くに何もなかったので」
「眠る時にキスしてくれた?」
「ええ、たっぷりと」
「夢…だと思ってた」
「まだ朦朧としていましたからね。ではこれは?」
頬に手を添えて上を向かせてそっと唇を重ねた。
「もっと」
離れた唇を追うようにして強請る。 再び重ねられた唇を互いに味わい貪り合う。 銀の糸を引いて離れた唇。 互いの視線が絡み合った後、武は夕麿の胸に頬を押し付けるようにしてしっかりと抱き付いた。
大きく息を吸って言った。
「ああ…夕麿の匂いだ。 本物だ…俺、ちゃんと生きてる」
「無茶な事をして…間に合わなかったらと思うと…今でも胸が痛くなります」
「ごめんなさい」
身体を張った武の気持ちは夕麿にも理解出来る。
「あなたが無事で良かった」
今度こそ失うのではないか。 どんよりとして光を失った瞳を見た時にはそう思った。 もし薬が武の心を壊しても、ずっと側にいるつもりだった。 毎日話し掛けて絶対に元に戻す。 車の中で武を抱き締めてそう決心していた。
しかしここにいるのはいつもの武だ。
「あっ!」
突然、何かを思い出したのか、武が夕麿の顔を見つめた。
「どうかしましたか?」
「あの男…! 夕麿、あいつに何もされなかっただろうな?」
朽木も紫霄の卒業生だ。 既に妻帯者だと聞いているが同性に欲望を覚えないという証にはならない。実際、拉致されて移動する車の中で、朽木は本庄 直也の身体を撫で回していた。彼が眠らされている夕麿を見つめていたのに。武を見る目も品定めするような陰湿な眼差しだった。視姦されている。自分も夕麿も。そう感じていた。だから夕麿を抱え上げて出て行ったのが今更気になる。
「大丈夫です。成瀬さんや周さんが来てくださいましたから」
「本当に?」
朽木に素肌を撫で回され下着の中に手を入れられた。その事実を口にすれば武がまた自分を責める。だから何もなかった事にしようと夕麿は決心した。
「ええ。大丈夫です」
「良かった」
安堵の表情を浮かべた武に穏やかに微笑みかけた。全ては終わった事だ。
「さて、朝食は食べられそうですか?」
「軽くなら…多分」
「雅久が倒れたらしいので、林檎は無理かもしれません」
「え!?雅久兄さん、何で倒れたの?」
「…義勝によると私たちの無事を祈願する為に、舞で神降ろしを行ったそうです」
「…雅久兄さんなら…出来そうだ」
「彼の口を借りて神が申されたそうです。 願いを聞き届けると」
「そっか…」
「何か持って来させましょう」
「俺、食堂で食べたい」
皆の顔が見たかった。 お詫びとお礼が言いたかった。
「夕麿、貴之先輩の怪我は?」
「明日には起きても大丈夫なようですよ?」
「そっか…板倉、貴之先輩の事を嫌いだって言ってた」
2年前の騒動の時も貴之が一番酷い怪我をした。 武には優しくて厳しい師匠であり、何をおいても自分と夕麿に忠義を尽くしてくれる存在だった。
「…多分、彼がそのまま在校していたら、貴之の後任になった筈です」
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「俺、板倉の事、何も知らない」
「あの頃のあなたは自分自身の事で一杯いっぱいだったから仕方がありません」
確かに夕麿の言う通りではあった。 それでも友達だったのだ。 何も知らないではすまない筈。 これで取り敢えずは、生命を狙われる危険は当面の所はない。 あとは根源に会って交渉するだけだ。
それは冬季(クリスマス)休暇で。
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