蓬莱皇国物語 Ⅳ~DAY DREAM

翡翠

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   もう一つの罠

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 武はしばらくは立ち眩みがしたり激しい吐き気に悩まされた。 時折、フラッシュバックする幻覚に襲われ、自分がどこに今いるのかわからなくなった。 だが心配されたような感情を失うと言った症状は見られず、念の為に受けた精密検査でも異常がなかった。 

 麻痺が消えた脚はリハビリで少しずつ回復しつつあったが、まだ長い時間立ち続けたり短い距離を歩くのも危なっかしい状態だった。 それでも出来るだけ歩こうとするあまりに、転ぶので青痣や擦り傷が絶えないでいた。 

 赤佐 実彦は監禁されてはいたが、丁重に扱われていたと言う。 多少の精神的な疲労もすぐに回復して、無事にニューヨークへと戻って行った。 

 佐久間と遥と朽木は資産家の子息を誘拐したとして、カリフォルニア州の法律で裁かれる事になった。 板倉 正巳は精神疾患が認められ、犯罪に加担したというよりも利用されたと判断された。 武自身の嘆願もあり専門の施設に収容されて治療を受けている。

  本庄 直也はメディカルセンターで治療を受けた結果、快方に向かっていた。 彼は佐田川によって売られたが、一年余りで買い手が事故死して再び売られた先が佐久間の所だった。 佐久間に同性愛嗜好はなかった。 佐久間の友人が製薬会社で研究をしており、その被験者にされていたらしい。 内臓に幾つかのトラブルを抱えて鎮痛剤としてあの薬剤が繰り返し投与されていた形跡があった。 

 板倉 正巳も本庄 直也も、直面している現実から逃れたかった。 薬が見せる幻覚は武の体験によると、その本人の最も幸せな記憶を繋ぎ合わせたような形だったと言う。 彼らの記憶がどんなものにしても、幻覚の中では幸せだったのだろう。 

 本庄 直也は実際には保に連絡用の携帯を運ぶなどの、単純な命令しか実行出来ない状態だった為、責任能力はないと判断された。 

 彼はかつての同級生だけは見分けられた。 特に夕麿にははっきりとした感情を示した。 担当医によると彼の心の状態は、確かに薬の副作用の部分があると言う。 しかし一番の原因は辛い現実から逃れる為に、心を閉ざした事によるものと診断されていた。 かつての同級生を見分けられるのは、そこに幸せな記憶が存在するからだとも言う。 

 武たちは冬季休暇で帰国する時に日本へ連れて帰る予定でいる。御園生系の病院で治療体制を整えてもらえるように、武が有人に電話して頼み込んだ。 本庄 直也の姿に夕麿が自分の『もしも』を、無意識に見ているのに気付いた事や義勝と貴之の願いもあったからだ。 武にしても夕麿たちの同級生で本来ならば、高等部で先輩になっていた筈の彼を無視する事は出来なかったのだ。 

 こうして武は渡米して来てようやく、真っ当な大学生活が出来るようになった。 友だちもたくさん出来て、武は常に笑顔の中にいた。 



「あれ? いつものお付きの人は?」 

 よく講義で顔を合わすので親しくなった女の子たちが、雫がいないのを見て声を掛けて来た。 

「お付き…って、成瀬さんの事? 今日はちょっとした用で来てないんだ」 

 雫が聞いたら苦笑しそうだと思いながら答えた。 彼は事件の後処理の一環で、ロサンゼルス市警に出向いていた。 

 武は朝から一人で筆記用具などの持ち物と格闘していた。 車椅子から肘と手首で支える杖(日本の松葉杖)になって歩く時に両手が塞がってしまう。 リュックタイプの鞄に詰めて、肩に背負う形になるので時間がかかる。 教室の移動に四苦八苦する有り様だった。 それでも武は投げ出さないで懸命に動いていた。 

「これからカフェテラス?」 

「うん、そう」 

「誰か迎えに来ないの?」 

「うん、一人で大丈夫だから」 

「荷物、持ってあげるよ」 

「あ、ありがとう」 

 賑やかな集団が出来上がる。 紫霄で男ばかりが周囲にいる状態が続いた為、同年代の女の子の集団に最初は戸惑った。特に白人はこの年齢で既に、せる程の香水を使っている者が多い。 武自身も余り好きではないし、移り香を夕麿が好まないと考えて、少し控えてくれるように頼んだくらいだ。 

 歩いていると男子学生も集まって来た。 現在、東洋人は中国や韓国からの留学生ばかりだ。 彼らは武たちには近付いては来ない。だから武の周囲にいるのは貴族などに憧れるアメリカ人とヨーロッパ系の留学生ばかり。 

 背の高い白人の中に小柄な武がいる。 武は人気者だった。 普通に冗談を言い合い笑い転げる。 身分も立場も忘れて過ごせる時間だった。 雫もそういう武の気持ちを配慮して、同じように冗談を言って笑う。 武にはそれが楽しかった。

 その集団のままでカフェテラスへ入ると 夕麿たちは既に来ていた。 奥のいつもの場所に陣取っている彼らの元へ笑顔で歩み寄った。 

「はい」 

 金色の巻き毛の女の子が、座った武に鞄を差し出した。 

「あ、ありがとう」 

 笑顔で受け取ると彼女も笑顔になる。 軽く手を振って行く彼女に、武も手を振って応えた。 

「遅くなってごめんなさい。 教室がちょっと遠い場所だったから、時間がかかっちゃった」 

 苦笑しながら差し出した手は、真っ赤になっていた。 

「武君、こんなに赤くなってますが、痛くありませんか?」 

 驚いた雅久が皿を手渡しながら言った。 

「見た目程じゃないよ? つい力んじゃうからこんなんだけど…お腹空いた…いただきます!」 

 出汁巻きを口に入れて笑顔になる。 

「ご不自由はおありになられませんか?」 

「ないって言ったら嘘になるけど、甘えてたらリハビリにならない」 

 早く元通りに動けるようになりたい。 武の望みはそれだけだった。 取り留めのない雑談にいつものように興じるが、武はふと違和感を覚えて首を傾げた。 ずっと夕麿が黙ったままなのだ。 

「夕麿、どうかした?」 

 気になって顔を覗き込んで見る。 すると夕麿はスッと視線をそらせてから答えた。 

「何もありません」 

 素っ気ない言葉に戸惑う。 不機嫌さ丸出しな様子に、武はちょっと考え込んだ。 心当たりはない。 

「武君、先程の方はお友だちですか?」 

「ん? ああ、マギーの事? そうだよ?」 

「綺麗な方ですね?」 

「そうかな? 雅久兄さんの方が美人だと思うけど…」 

「そのような事…」 

 雅久が真っ赤になる。 

「お友だちが増えましたね?」 

「うん。 みんな親切だからね。 でも最初は女の子に話し掛けられて、どうして良いのかわからなかったけど」 

「ああ、それはあったな。 俺と夕麿はずっと紫霄の中だったから余計に」 

「あのキャピキャピの賑やかさにはちょっと困るよね? でも変な遠慮されないから、楽と言えば楽かな?」 

 素直に感想を言って笑う。 

 ロサンゼルスに来てからずっと重い気持ちだったのが嘘のようだった。 

 夕麿の不機嫌の理由がわからないまま午後の講義に出席する。 

 終了後はそのままメディカルセンターでリハビリを受ける。 最近はそれが日課になっていた。 

 今日の講義が終わった。ここからメディカルセンターへ向かうが、南側ブロックにあるそこまではかなりの距離がある。 さすがに一人では行くのは不可能だ。 出入り口近くの席に座って、誰かが迎えに来るのを待つ。 

 現れたのは夕麿だった。 武が迎えを待っていると知った学生たちが教室に残ってくれたので、今日の講義内容について意見を交わしている最中だった。 

「遅くなってしまいました」 

 昼休みとは逆に笑顔で教室に入って来る。 二人の事は既に周知の事で、武が笑顔になっても誰も違和感を持たない。

  武が杖を手に立ち上がろうとすると夕麿は手でそれを制した。この教室の床は昨日の放課後にワックス掛けをされたらしく杖が滑ってしまう。 夕麿がそれに気付いて止めたのだ。 実際、教室に入る時に武は何度か転びかけてしまった。 学生たちが手を貸してくれて、出入り口近くの席に座れたがそれでも距離は結構ある。 夕麿は手を伸ばして武を抱き上げた。 そして呆気にとられているマギーに鮮やかな笑顔で言った。 

「申し訳ありませんが、彼の杖と鞄を廊下まで運んでいただけますか?」 

 彼が武の伴侶であると知ってはいても、東洋の美しい高貴なる男性に笑顔で頼み事をされたのだ。 気分が悪い筈はない。 

「ええ、喜んで」 

 頬を薔薇色に染めた彼女を見て、武が夕麿の顔を見上げた。 しかし夕麿は知らぬ顔だ。 廊下で降ろされて杖を受け取り鞄は夕麿が受け取った。 

「ありがとうございます。 助かりました」 

 再び溢れんばかりの笑みを浮かべた夕麿を、武は蹴っ飛ばしたい気持ちになった。 

「マギー、今日はいろいろありがとう」 

「あら、当たり前の事しかしてないわよ?」 

「でもありがとう。 じゃあ、また明日ね」 

「Bey、武!」 

「うん、Bey、マギー」 

 笑顔で手を振って別れると夕麿が不満げに言った。 

「随分と仲良しですね?」 

「夕麿こそ何だよ? あんな笑顔をするなんて? 皇国の女の子はダメでもアメリカ人の女の子は良いのか?」 

 夕麿が自分以外にあんな笑顔をするのは許せない。 

「何を言ってるんです。 あなたこそ楽しそうに仲良くしているではありませんか。 アメリカ人の側室は許可が出ませんよ? ましてマギーは女性ですしね」 

「はあ?」 

「選ぶならば皇国の人間にしてください」 

「それ…本気で言ってるのか!?」 

「あなたが私以外を望んだとしても、反対する事は出来ません」 

「…」 

 怒りがこみ上げて来た。いつもの嫉妬だと思っていたら、とんでもない事を言い出した。以前から武の側に女性が寄ると過敏に反応していたが… …今日のは度が過ぎる。

「俺にお前を裏切れと言うんだな?」 

「そんな事は言っていません」 

「言ってるじゃないか! もう良い!」 

「何が良いんです?」 

 メディカルセンターへ向かう道すがら、日本語で声を荒げて喧嘩する二人を、学生たちが驚いた顔で見ていた。 さすがにメディカルセンター内ではやめたが今度は視線すら合わせない。 武はそのままリハビリに向かい、夕麿は本庄 直也の見舞いに行ってしまった。 

 武がムキになった理由。それには本庄 直也の存在があった。彼を気遣う夕麿。自分だったかもしれない。その想いから来る罪悪感と同情。 本庄 直也は夕麿に一番反応を示すと言う。同情が愛情に変化する話はよく聞く。夕麿は優しい。武にはそれが不安だった。 疑いたくはない。だが先程のような事を言われれば、夕麿の心が揺れているのではないかと思ってしまう。 先に武に裏切らせようとしているのではないかと。 やっと当面の障害を排除して、穏やかな時間を過ごせるようになったのだ。 後は一時帰国した時に武を排除したがっている人々と直接対決するだけだ。 

 やっと…やっと、静かに過ごせるのに。 

 朝目覚めると夕麿がいる。その喜びの中で毎日を過ごせる幸せに、武は生きる事の喜びを感じていた。 だから先程の夕麿の言葉はショックだった。 泣きたい気持ちを堪えて何とかリハビリを終えた。 

 だが夕麿は戻って来ない。 待合室でひとり座って待つ。 時計の針が進んでも夕麿は迎えに来なかった。 

 そこへ保が通りかかった。 

「武さま? お一人であらしゃりますか?」 

「え? あ、保さん。 うん、待ってる所」 

 白衣姿の保に笑顔を向けた。 保はロースクールで授業を受けながら、研修医としてメディカルセンターで勤務に当たっている。 

 保は腕時計を見た。 武のリハビリの終了時間からは、一時間以上が経過していた。 雫がいたなら有り得ない。 いや、これが周でも有り得ない。 

「武さま、本日はどなたと?」 

「夕麿」 

「夕麿さま? ……また、本庄 直也の所ですか?」 

「うん」 

「お迎えをお呼び致しますから、お先にお戻りください。 お一人では危険でございます」 

 保はそう言って屋敷に電話を掛けた。 

「夕麿さまにはお知らせ致しますから」 

「わかった」 

 屋敷とメディカルセンターはそんなには離れてはいない。 とは言ってもロサンゼルスは広い。 武は迎えに来た文月に従われて屋敷へと戻った。 

 待合室で長時間待つのを保が懸念したのは二つの理由からだった。 

 一つは武に言ったように警護のない状態での危険性。 

 今一つは感染症の患者がいた場合、罹患する心配があった。 

 まだあの薬の影響から完全に解放されていない武は、免疫力が低下している可能性があるのだ。 


 本庄 直也の件も何とかしなければならないと、高辻や周と相談している最中だった。 と言うのも身元引受人に夕麿がなっている為に、事ある毎に担当医が彼に連絡をしてしまう。 すると夕麿が駆け付ける羽目になる。 

 直也の存在を武が気の毒に思いながらも、夕麿との関係に於いて気にしているのがわかる。 一番の年長者である雫かもしくは高辻に、身元引受人を交代した方が良いと今夜にでも夕麿に切り出す予定だったのだ。 

 危機が去ればまだまだ治療の途中である武の状態が不安定に戻る。 夕麿とて以前より安定して随分と回復はした。 だが直也というもう一人の自分にすら感じられる存在の出現で、解放された筈の罪の意識が戻りかけていた。 

 その矢先にここで武に会ったのだ。 

「保さん?」 

 声を掛けられて顔を上げると、やはり白衣姿の周が駆け寄って来た。 今日は実習だったらしい。 

「こんな所でどうしました?」 

 待合室に通じる廊下に佇んでいたのに今頃気付いた。 保は武の事を周に話した。 

「実は学生たちが武さまと夕麿が、口論しているのを目撃して噂しているんです。 日本語だったので内容まではわからないみたいですが…」 

「やはり、早急に本庄 直也の身元引受人を移した方が良いと思います」 

「僕は清方さんがなるのが一番良いと思っています」

 雫に移すと担当医の呼び出しに応じた場合、彼は武の側を離れる事になる。それは余り良い事とは周には思えないのだ。高辻はここでは学生でも、一応は日本で医師免許を取得した専門医である。担当医との相談も対等に出来る。

 周には夕麿が担当医に便利に扱われているように思うのだ。だからこそ高辻に任せたい。一難去ってまた一難とはまさにこの事だと頭が痛かった。



 その夜、武が早々に部屋に引き取ってしまったので、高辻が話を切り出した。ところが…夕麿が拒否したのだ。それどころか武がそれを望んだのではないかと、問い返して来たのである。

 夕麿にすればメディカルセンターへ向かう時の口喧嘩が、武にそのような方向へ考えさせたのではないか…と思ってしまったのだ。周たちがそうではないと説明しても、何が原因なのか、夕麿は頑なな態度を崩さなかった。結局、身元引受人を移せないままに、夕麿も部屋に戻ってしまった。

 夕麿が部屋に入ると武は既に眠っていた。イルカのぬいぐるみを抱き締めてベッドの端に寄って。

 話し合いも出来ないままで次の朝になった。それぞれが別々のわだかまりを持ってしまった為に、挨拶すら交わさないままに朝食を終えて大学へと登校した。 

 今日も雫は不在で武は一人だった。 昼休み、夕麿はかかって来た電話でどこかへ行ってしまった。 そのあとに武が複数の男子学生に支えられてカフェテラスに姿を現した。 

「武さま、如何がなされました!?」 

 慌てて駆け寄った周にマギーが説明した。 階段状になった教室で講義を受けたあと、立ち上がって出る為に降りようとして、ワックスで杖が滑って転げ落ちたのだと。 

 左手首が痛いと言うので袖を捲まくってみると腫れ上がっている。 保が骨折しているといけないからと添え木をして、義勝が抱き上げてメディカルセンターへ運んだ。 幸いにも関節がズレた為の捻挫で、ズレを治して固定させてカフェテラスに戻った。 

 午後は周が講義を休んで武に付いた。 

「周さん、ごめんね」 

 屋敷に戻っても武は謝り続けていた。 夕麿は夕方になっても戻って来ない。 

「清方」 

「何です?」 

「本庄 直也は佐久間の最後のトラップだと思うんだが?」 

「私もそんな気がしていたところです。 本庄 直也だけ板倉 正巳だけなら、私たちももっと警戒しました」 

「板倉と比べたら本庄は、害がないように思うものなあ…」 

「夕麿さまの病状を彼は把握していました。 罪悪感が彼を苦しめている元凶だと気付いていた筈です」

「また、奴の思う壺か! 堂々巡りする二人も二人だが…」 

「心の病とはそんなものです。 良くなったと思ったらまた悪化する。 その揺れ幅を少しずつ小さくして行く。 それが治療なんだと考えてください」 

「しばらくは様子見か…」 



 武は保が勧めた鎮痛剤を断った。 薬そのものが怖かった。 左手首はかなり痛んだが黙って耐えた。 気を紛らわす為に机に向かって、宿題のレポートを片付けていた。 

 夕麿が帰宅したのは夜も更けた頃だった。 彼は勉強部屋をチラリとと覗いて、そのまま寝室へ行ってしまった。 ただいまの言葉もなかった。 

 武も黙ってそのまま机に向かった。 痛みは一向に引く気配はなく寒気までして来た。 武はそれも無視した。 どのみちこの痛みでは眠る事は出来はしない。 




 夕麿はパジャマに着替えて早々にベッドに入った。 昼間の電話は直也の担当医からだった。 最近、直也は動的になっていた。 フラッシュバックで起こる幻覚が、ここに来て悪いものへと転じた事が原因だった。 

 その度に暴れる。 

 夕麿が行けばそれがおさまるのだ。 彼は余りにも薬の影響が残っている為、鎮静剤の投与に制限がある。 夕麿と面会する事で症状の改善もある。 

 高辻はこれにかなり抗議をしているが、担当医は治療のひとつにしてしまっていた。 

 もちろん、夕麿はそんな事は知らない。 ただ、彼を直也に繋ぎ止めた事実があった。 佐田川が直也を売る前に彼は夕麿の代わりとして売られると聞いたと言う。 直也は全てを想い人の代わりならと、夕麿が同じ目に合うよりもと思って耐えたと話したのだ。

  感情をなくした筈の直也が夕麿の前では感情を見せた。 泣きながら夕麿が無事でいるのを喜ぶ姿を見て、捨ててはおけなくなってしまったのだ。 

 あれは自分…… そう思ってしまった。 縋られて抱き締めた。 直也の気持ちを知っているだけに、武を裏切っているようで後ろめたい。 それがあの発言を生んだ。 

 武を傷付けたとは思っている。 売り言葉に買い言葉で喧嘩になった。 だが今は直也を投げ出せない。 見捨てられない。 あれは自分なのだ。 

 
 結局、武は机に向かって一睡もせずに朝を迎えた。 右腕だけで杖を使って何とか食堂の席に着いた。 片手で食事をしていると夕麿が起き出して来た。 

 武が昨夜、ベッドに就かなかったのには気付いている筈。 怪我についても昨日、周が知らせていた。 けれど夕麿はどちらにも言葉を紡ぎはしなかった。 武も黙っていた。 

 食後、居間で手首の包帯を解いた保は、武が発熱しているのに気付いた。 武は首を振った。 誰にも言うなと。 武はそのまま登校した。 出席日数の問題もあり、休めないのも事実だった。 だが一番の理由は怪我だけならまだしも、発熱の事実はみんなが夕麿を責める原因になってしまう。 そう考えたからだ。 

 夕麿が悩んでいる。 直也が原因であり武が原因である。 武はそう感じていた。 答えを出すまで黙って待つ。 彼がどちらを選んでも責めたりしない。 これが武の結論だった。 

 怪我をしてなお一人で奮闘ふんとうする武を友人たちは助けてくれた。 武が夕麿と喧嘩していた噂は、彼らの耳にも届いていたからだ。 

 発熱と痛み。 片腕だけで身体を支える負担。 武は昼には立つ事さえ苦痛になっていた。 昼食の席で顔を合わせたら、いくら何でもわかってしまう。 どうしようかと思案して歩いているとポツポツと雨が降り始めた。 

 10月のロサンゼルスで 雨は珍しい。 しかも雨は激しくなった。 雷鳴がとどろき、視界が白く煙る。 欧米人は余り傘をささない。 だがこの雨には悲鳴を上げて駆けて行く。 

 武は走れない。 

「ふふ、気持ちいい…」 

 発熱で火照った身体に雨は心地良かった。近くの建物に向かって歩くが、辿り着いた時には下着まで雨水に濡れていた。いつもなら夕麿が真っ先に探しに来る。もう雨の日の発作は完治したから。夕麿がダメなら周が来る。でも誰かの姿はない。武はズルズルと座り込んだ。 

「俺…ここで…何をしてるんだろう…?」 

 朦朧とする意識の中で武はそう呟いていた。
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