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暗転
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目覚めると真っ暗闇だった。武はフラフラと立ち上がって部屋から廊下へ出た。しかし廊下も真っ暗闇だった。有り得ない事だった。廊下はいつも日が落ちる前に灯りが点けられ、煌々と朝日が昇るまで消される事はない。
武は真っ暗闇な廊下を進んだ。屋敷の中に人の気配がない。それどころか、どの部屋も空っぽだった。まるで空き家状態だった。
「嘘だ…嘘だ…嘘だ!」
武は自らの悲鳴で本当に目覚めた。 だが室内は真っ暗闇だった。 眠る時にはいつも小さな灯りが点いているというのに。 手探りでサイドテーブルの上から、室内の灯りのリモコンを取った。 どこにどう触れても、真っ暗闇のままだった。
夢を見ていたのではなかったのか?
それともまだ夢の中にいるのか?
ベッドから降りようとして左手が何かに触れた。
「痛ッ!」
激痛が走った。 夢には痛みはない。 自分は間違いなく現実の中にいる。
武はベッドから降りると懸命に脚を踏みしめた。 手探りで杖を見付けて寝室から隣のリビングへ移動した。
そこも真っ暗闇だ。 夢の中のように必死になって廊下へ出る。 すると廊下も真っ暗闇だった。
恐怖が胸を満たす。 次の瞬間、ガックリと膝をついた。
誰もいない。 夢の内容が幻覚として武を襲う。 武は何もかもを失って使用人すらいない屋敷に独りきり。 自分が叫んでいるのすら最早わからない状態だった。 ただ真っ暗闇が武を取り囲んでいた。
屋敷内に武の絶叫が響いた。いち早く反応したのは周だった。ビバリーヒルズ一体は数時間前から落雷が原因で停電していた。すぐさま周はペンライトを手に、廊下で座って叫んでいる武を発見した。
「武さま! 如何なさったのです!」
そこへ雫が来た。
「周、清方を呼べ!バッドドリームだ! 幻覚が反転したんだ!」
だが周が呼びに行くよりも早く高辻と保が駆け付けた。 武は手首の怪我も忘れて雫の腕の中で叫びながらもがいていた。
「嫌だ!!嫌だ!!嫌だあ!!独りにしないで!!独りは嫌だ!!助けて!!誰か!!嫌だ!!」
「清方、鎮静剤は!?」
「ダメです、高辻先生! つい先ほど点滴を終えたばかりです!」
保が叫んだ。 今の武に薬剤投与は配慮がいる。 だがこのままだと武がもたない。
動いたのは貴之だった。
「武さま、お許しを!」
首筋に触れて意識を失わせた。 雫はぐったりとした武をベッドに寝かせた。 それを見守った周は廊下にとって返した。
「夕麿!」
ペンライトの光に浮かんだ彼は、悲痛な顔をして立っていた。 と、廊下の灯りがいきなり点いた。
周は夕麿の胸座を掴んで締め上げた。
「これがお前のやっている事の結果だ! 今日こそ答えてもらう。 お前が今やっている事は、武さまを犠牲にしてまでしなければならない事か!? そうだと言うならお前をこの屋敷から叩き出してやる!!」
許せなかった。 夕麿のやっている事は武への裏切りだ。 武が許しても周には許せない。 記憶がなかった時ならまだ理解出来た。 だが今は武の愛情がどんなものかをわかっていて、夕麿は本庄 直也の元へ行っているのだ。どのような理由があろうとも夕麿を一番に想って、自分を犠牲にする武を彼より下にする行為だ。
「やめなさい、周」
高辻が周を夕麿から引き離した。 そこへ保が一通の封書を夕麿に手渡した。
「これは先日の事件に臨まれる時に、武さまからお預かりしていた遺言書です。 皆さまへの分は焼却いたしましたが、夕麿さまへお宛てになられたこれは、お渡しする機会を見て預かったままにしておりました。
武さまのお気持ちを余す事なく、お書きになられていると思います」
保はどんな言葉よりも、今の夕麿にはこれが必要であると思っていた。
『 夕麿へ
これを読んでいるという事は俺はもう死んだ後だな。 こんな選択をした俺を恨んでくれて良い。 でも絶対にお前は死ぬな。
生きてくれ。
生きて俺のやり残した事を果たしてくれ。 もう俺と同じ目に誰かが合わないように。 お前が味わった数々の悲しみを、二度と繰り返さない為に。
夕麿、どうかお前はお前の天寿を全うしてくれ。 死ななければ解決出来なかった俺の分も。
六条家に帰って本来あるべき姿に戻れば良い。 誰かを愛して今度こそ本当に幸せになって欲しい。
俺はお前にいろんな幸せをもらった。 だから幸せの中で逝ける。 お前だけを愛して。 それを幸せだと本当に思っている。
悔いはない。 だから、幸せになれ。
ありがとう、夕麿。 もしこんな選択を許してくれるなら、来世で俺を見付けてくれ。 許せないなら…探さなくても良い。
さようなら、夕麿 』
「落ち着きなさい、周。これは夕麿さまが選ばれる事です」
「清方さん、よくそんな事が言えますね!?」
保が手渡した武の遺言書を持たせて、夕麿を武の傍らに残して来た。先程の武の状態は周には余りにも衝撃的だった。今にも心が壊れてしまいそうになる程、本庄 直也の存在は武を苦しめていたのだと。
中等部時代、夕麿にとって本庄 直也は単なる同級生に過ぎなかった。その証拠に夕麿は彼を姓でしか呼ばない。義勝たちを名前でしかも呼び捨てにしているのと比較して、現在でも姓に君という敬称を付けて呼ぶ。それなのに何故、彼に固執するのか。武が傷付くのも構わずに。
「本庄 直也の担当医に会って来ました。夕麿さまには申し訳ありませんが、小夜子さまと有人氏の許可をいただいて、身元引受人を私に変更しました。いろいろ話を担当医としたのですが、未だ治療中の夕麿さまをこれ以上接見に引っ張り出さないようにとお願いしました。
ですが納得していただけませんでしたので、医局長に担当医の交代を要求しました」
「受け入れてくれたのか?」
「もちろんです。私を何だと思っているんです、雫?」
夕麿とその伴侶である武が未だ治療中の状態で、本庄 直也に関わらせるのは二人の病を悪化させるだけだと、医局長に強く抗議した。その上でもし聞き入れてもらえない場合は外交問題になると言ったのだ。訝る医局長の目の前で高辻は総領事館の領事に電話をして、事の次第を説明して協力を求めた。この前の負い目と単なる抗議だった事もあり、領事は医局長を説得してくれたのだ。
これで夕麿が呼び出される事はなくなったと言える。彼が直也に強い罪の意識を持った経緯も監視カメラの映像と音声で確認出来た。
「本当に最後のトラップでしたよ、雫。麿さまに罪の意識を持たせ、彼に迫らせる。
夕麿さまは彼と武さま、双方に罪悪感を持ってしまいジレンマに陥る。その結果、些細な事に苛立ち神経をすり減らして、武さまと八つ当たり的な口論になってしまったのでしょう」
些細な事が口論になって拗れて捻曲がり、そこへ身元引受人の変更を言われたのだから、夕麿にすれば余計に意固地にならざるを得なかった。 全てを武の望みと思い込んで。冷静に考えれば、武は絶対にそんな事はしないとわかった筈だった。それだけ夕麿は追い詰められていたのだ。
「ま、取り敢えず俺たちも部屋へ戻ろうか、周」
「はあ?僕は僕の部屋へ戻ります、放してください、雫さん」
周は肩に回された雫の手を振り払った。すると懲りずに抱き寄せられた。
「清方、お前もそのつもりだろう?」
「え!?」
「今更何を驚いているんです、周?ほら、行きますよ?」
「え!?」
半ば雫に引きずられるように、周は連れて行かれてしまった。
「わけのわからん3人だな?」
義勝が苦笑した。
「さあ、お茶を淹れますから、居間に戻ってください」
雅久の言葉に保も貴之も頷いた。
「義勝、行きますよ?」
「ああ」
義勝はもう一度、二人の部屋のドアを見つめてから、居間に向かうべく踵を返した。
武が起きた気配がした。寝室へ行ってみると武はベッドの上に座り込んで、イルカのぬいぐるみを抱き締めていた。
「なぁ、お前は本物か?それとも幻か?」
ぬいぐるみに向かって武は言った。
「もう、どこまでが現実で何が幻なのかわかんないよ…なあ、お前は本物か?」
ぬいぐるみを脇に置いて顔を上げた、武の瞳はどこか遠くを見つめていた。
「武」
ベッドに近付いて声を掛けた。 だが武は反応しない。 再びぬいぐるみを抱いて呟いた。
「俺、何しにアメリカに来たんだろうな?」
あれ程焦がれて来たロサンゼルス。 やっと夕麿と一緒にいられる。 今は武のそんな望み自体が幻のようだった。 肩を落として深々と溜息吐いた。
「武、お願いです。 私を見てください」
両手を伸ばして懇願すると武はようやく夕麿をみた。 戸惑うようにその手を取りかけて力無く首を振った。
「もう…幻は良いよ…幸せな幻は…虚しいだけだから」
涙が零れ落ちた。
「シャボン玉みたいにすぐ消えてなくなるくせに…もっと悲しくなるだけなのに…」
武の口から悲痛な言葉が次々と溢れ出して来る。 誰にも言わない本当の気持ち。
「…夕麿は…もう…戻って来ない…俺を…もう…抱き締めてはくれない…」
怪我しても側にはいてくれなかった。 恐怖に悲鳴を上げても真っ先に来てはくれなかった。 抱き締めて大好きな声で安心させてはくれなかった。
「武…」
自らベッドへ上がって背後から抱き締めた。
「…だから…幻は…いらないって…消えてくれよ…」
武の口から嗚咽が漏れる。
「どうして…俺…生きて…だろ…」
絶望でいっぱいになった心にはもう何も入れる場所がない。 悲しいのも辛いのも深い底に沈んで今は月も星もない夜の闇のようだ。
「俺…ダメだよな…わがまま…だな…夕麿が…幸せなら…何だって良いって…そう思うのに…未練たらしく…こんな幻…」
幸せになりたかった。 夕麿とずっと歩いていきたかった。 側にいて欲しかった。 初めて逢ったあの日から、夕麿しか見えなかった。 それ以前にはそんな感情すら知らなかった。
夕麿だけ…… ももう届かない。 追い掛けてはいけない。
武は途切れ途切れに、泣きながらそんな言葉を紡いだ。 全てが幻だと思い込んでいるがゆえの、普段は絶対に口にしない本心の吐露だった。
「これから…どうやって…生きて行けば…良いんだろ…?」
何も見えない。 何もわからない。 真っ暗闇な中で独りぼっち。
そう嘆く武の痩せ細った身体を、抱き締めて一緒に夕麿は泣いていた。 自分も絶望して何もわからなくなった時があった。 独りぼっちだと思って、何も見えない闇の中にいた。 泣いて泣いて泣き続けて…あの頃をどう過ごしたのか、泣いた以外の記憶が曖昧だ。
直也に自分を見て迷った。 けれどももっともっと自分と同じか、それ以上の絶望に泣いている武がいる。 自分は一体、何をしていたのだろう? 直也がどんなに夕麿を求めても、それに応える事は出来なかった。 何故なら夕麿の腕は武を抱き締める為にあるから。
たった一人。
それは既に決まっているから応えられないのに…中途半端な事をしていた。 そして大切な愛しい人をこんなにも深く傷付けて悲しませていた。
出逢ったあの日から心惹かれた。 多々良への感情が自分を守る為のすり替えだったと、わかってしまった今、夕麿にとっても武は初恋の相手なのだ。
「武…武…愛してます…どうか、愚かな私を許して」
ベッドに細い身体を組み敷いて愛を囁き、許しを請いながら口付けを繰り返した。
「幻でも良いや…抱いて…夕麿がシてくれたみたいに…」
どうしても現実だと認めない。 それはそのまま武の心の傷の深さを物語っていた。
パジャマのボタンを外す。 肋骨が浮き出た胸が痛々しい。 あれ程滑らかだった肌も、病み疲れて荒れてしまっていた。
「こんなに…痩せて…許してください…全部、私の所為です」
武以外の誰を愛せるというのか? 互いに全身全霊で求めているのに。
「夕麿…夕麿…もっと…もっと…」
全てが幻だと思っているのに、それでもなお懸命に求める姿が胸に詰まる。
夕麿は武が気を失うまで抱き締めた。
朝、武は目を覚まして周囲を見回した。
「!?」
傍らに眠る夕麿に息を呑んだ。 恐る恐る触れてみた。 確かな温もりがあった。
「本物…?」
本物であって欲しかった。 もう幻は嫌だった。 眠る夕麿の唇にそっと唇を重ねた。 おずおずと怯えながら、わずかに触れて離れた。
やっぱり好きだ、と思う。 失っても気持ちは消えない。 もう一度、そっと唇を重ねた、これで最後にすると。
すると背中に両腕が回されて、力強くしっかりと抱き締められた。 慌てて離れようとする武の唇を舌先が割って、口腔内を激しく貪って来る。
「ン…ぁ…ンン…」
快感が全身を駆け巡った。 夕麿はたっぷりと甘い唇を味わってから武を放した。
「おはよう、武」
笑顔で言うと武は笑顔を返そうとして泣き笑いの顔になった。
「熱は…ないようですね? 昨夜も下がっていましたが…無理をさせてしまいましたから」
「……え……?」
夕麿の言葉に改めて武は昨夜の事を思い出した。
「幻…だったんじゃ…」
幻だから本心を言った。
幻だから甘えた。
その筈だった。
「どうして…」
夕麿は自分を捨てて本庄 直也を選んだのではないのか?
「本庄君の言葉に惑わされていました」
夕麿は直也が自分の身代わりだった話をした。
「それ…嘘だと思う。 本庄さんにおとなしく言う事をきかせる一番の方法じゃない? 俺だって…そんな事言われたら、同じ気持ちになるよ? 好きな人を守れるなら…好きな人がこんな目に合うよりは…って。
そんな気持ち、佐田川なら利用したんじゃない?」
「そう…でしょうか? そんな風に思って良いんでしょうか?」
「夕麿だってたくさん辛い想いしたじゃないか。 自分を責めるなよ。 責めて失ったものが返って来るわけじゃないだろ?」
「武…私は、あなたに酷い事を…許していただけますか? まだ私は、あなたを失ってはいませんか?」
「当たり前だろ?」
武の笑顔はまだ少し翳りがあった。
「ても…良いの? 本庄さんは…夕麿を待ってるんじゃないの?」
本当はYESの返事が怖い。 怖いのに訊かずにはいられない。
「武…私が愛しているのはあなたです。 本庄君の事は彼の話が真実だったとしても、私には今更何も出来ません。
何かをしたいと思ってはいました」
夕麿を見て喜ぶ直也の姿を思い出す。 その瞳に宿る光は異様だった。
「でも…彼が求めるのは私の心です。 武、この心はあなただけを求めています。 私の全てはあなたのものです。 彼には同情はしますが私の心はあげれません」
「夕麿…」
「私はそんな当たり前の事を悟れなかった。 あなたを傷付けてしまいました」
腕の中の温もりは武の温もりでないとダメなのだ。
「ありがとう…夕麿」
「昨夜、私はあなたの本心を聞かせていただきました」
いつも武は自分の感情を抑えて夕麿の事を考える。 悲しくても辛くても夕麿に起因するものならば、本心を言わないで隠してしまう。
「あなたはいつも私を責めない」
「責めたら元に戻るわけじゃないから。 そんな事したら…もっと辛くなる」
責めて失ったものが戻るならいくらでもする。 けれど結局は互いに傷付け合って悲しい想いをするだけなら、自分一人が我慢すれば良い。
「あなたという人は…」
それでも人間は相手を責め傷付けて恨むものだ。 そうしなければ自分を支えられない。 自分を守る為に相手を恨む。 それなのに武は傷付けるのを嫌う。 恨む事もしない。 だから一人で傷付いてしまう。 それが武の優しさであり愛情なのだ。
それに比べて自分は何と愚かで情けないのだろう? 武に甘えていただけだ。 武が黙っているのを良い事にして。
「夕麿…わがままを言っても良い?」
「何ですか? 何でも言ってください」
どんな無理難題でも、武の望みならば叶えてやりたい。
「今日…休んでも良い? 夕麿と一緒にいたい」
「武…」
ささやかな願いをわがままだと言う。
「昨日、保さんが私に謝ってくださいました。朝、発熱しているのを知りながら黙っていて欲しいという、あなたの望みで知らない振りをしたと」
「保さんは悪くない」
「わかっています。 あなたは私の為に望んでくださった事を」
武の発熱を知れば周か義勝が夕麿を責める。 それがわかっていたから隠そうとしたのだと。 結果、雨に降られて濡れて悪化して倒れた。 高熱にうなされて朦朧とする武に、保は解熱剤と消炎剤を点滴で投与した。
……そしてあの騒動だった。
「今日は登校の許可は出ないでしょう。 だから私も一緒にいます」
「いいの?」
「ええ、もちろん。 何をしたいですか、私と?」
「話をしたい」
「話?」
「うん。 紫霄にいた時にはいろんな話をしただろう? こっち来てから余りゆっくりと話をしてないから」
二人で一緒にいたい。 そして話がしたい。 それのどこがわがままだと言うのか。 こんな小さな望みすら、叶えてやっていなかった。
武はそう、いつもたくさんの事を望まない。 ちょっとした行事。 記念日やイベント。 取り留めのない雑談。 ただ寄り添って座っているだけの時間。 夕麿が奏でるピアノ。
武が好きなのは普通の日常生活の穏やかで温かい時。 寂しがりな武とはここへ来てから、そんな時間を殆ど過ごしていない。
「美味しいお茶を淹れて、話をしましょう」
「うん…ありがとう。 嬉しい…」
左手首に巻かれた包帯が痛々しい。
「手はまだ痛みますか?」
「今朝はあまり痛くない」
「側にいてあげられなくてごめんなさい」
武は首を振った。 それでは夕麿の気がすまない。
「武、お願いです。 どんな風に思ったのか、話してください」
「もう…夕麿は…俺の事を嫌いになったんだって思った。 一昨日の夜、帰って来ても何も言わなかった。 昨日の朝、俺がベッドに寝てなくても何も言わなかった」
「一昨日、私は本庄君の事で呼び出されました。 あなたの怪我を知ったのは、メディカルセンターを出てからでした。
周さんに叱られました。 私はあなたにどんな顔でどんな言葉を、掛けたら良いのかわからなくなりました」
武の背中に拒絶を感じて裏切っているのと同じだ、という罪悪感に夕麿も絶望を感じていたのだ。
相手に嫌われる事。
拒絶される事。
互いに同じ事を恐れて臆病になっていた。
特に武には夕麿のかつての同級生という直也の立場が怖かった。 それが余計に誤解を生じさせた。 不安が暗闇の中で独りきりの夢を呼び暗転した幻覚を呼んだ。
そもそも武の夕麿への想いは、憧れ見つめる事から始まった。それが武の恋だった。振り向いて欲しいとか、振り向かせたいとか…武は思わなかった。あの頃の武には側に夕麿がいても遠かった。優しく親切にはしてくれるけれど、それは他の皆にだってそうだった。自分と同じように夕麿に憧れて、恋する生徒はたくさんいた。でも夕麿は誰にも応えない。義勝たち生徒会で活動する友人たちに向ける笑顔を、夕麿はそれ以外の生徒たちに向ける事はない。武に直接、そう言った生徒もいた。だから懸命に夕麿への恋心を否定した日があった。
武が恋をして振り向いてもらった。武の心にはどこかそんな想いがある。武にとって夕麿は理想と憧れる存在。手本とする存在。今もそれは変わらない。
その想いが武を臆病にする。
その想いが夕麿を守ろとする、無茶な強い想いになる。
いつもいつも夕麿に背を向けられ、去って行かれる恐れから逃れられない。夕麿の背中を武は追う事は出来ない。縋って止められはしない。だからこそ自分を脇に置いて、夕麿の幸せを願ってしまう。 彼の傍らに自分がいなくても、ただその幸せだけを。 夕麿に返せるのはそんな気持ちだけだと信じ込んでいた。
「武、もっとわがままを言ってください」
喧嘩をしたら武は身を引いてしまう。 特に最近はそれが多い。
「言ってるよ、俺?」
不思議そうな瞳が見返して来る。
「足りません」
「何、それ? 変なの……」
いろんな事を我慢して生きて来た武。 寂しがりなのに母一人子一人の母子家庭では、寂しいとすら言えなかったらしい。 甘え方を知らず、 甘えさせてやりたいと思いながら、結局また自分が甘えていた。
そして夕麿も武も出逢い惹かれ合うまで、立場や境遇は違えども孤独に生きていた。
「ふふ」
「何?」
「よくよく考えたら私たちは出逢いからずっと学校の中だった所為か、一緒に遊ぶ……という事をしていませんね?」
「遊ぶ…? そう言えばそうだね。
あれ? 俺たち、何をして過ごして来たっけ?」
紫霄時代は生徒会と勉強ばかりだった。 寮で二人っきりの時は抱き合っていた。 二人してそれを思い出して吹き出した。
「うわ~俺たちって不健康~」
「武、それは言い過ぎです」
「じゃ、不健全」
「変わらないでしょう?」
夕麿が眉をひそめると武は笑い転げた。
アメリカへ来てわかった事。 アメリカ人はON/OFFをきちんと切り替える。 切り替える事でONに全力を尽くす余裕が出来る。 OFFはONの為に必要不可欠であり、心の拠り所である家族や友人たちとの絆を深める時間であると。
紫霄に在校している時は、外に出て家に帰るだけで十分だった。
「でも夕麿、俺、遊ぶって言ってもどうすれば良いのか知らないんだけど?」
「……それは…私も同じです」
武は紫霄に入る前も入った後も勉強ばかりして来た。 夕麿たちのように楽器が出来るわけではない。 身体が丈夫でなかった事もあって、本ばかり読んでいた。 紫霄に入ってからは、夕麿に教えられた株式を熱心にしたがそれも遊びではない。
夕麿にしても小等部から紫霄にいる。 ピアノ、茶道や花道、書道、乗馬と遊ぶというより習い事ばかりしていた。 帰宅すれば蔵に閉じ込められた為に、やはり空いた時間は本を読んでいた。
「困りましたね…どうすれば遊べるのでしょう?」
「誰かに相談してみる?」
「それしかありませんが…」
義勝は武と夕麿と大差なさそうだ。 雅久は舞や和楽器に時間を費やしていそうだ。 貴之はどうだろうか?
「貴之ですか…許婚者がいたくらいですから、多少は知っているのではありませんか?」
「う~ん、武道とかの練習をしてそう…」
「ああ…あり得ますね」
「周さんは?」
「やめた方が良いと思います。 彼の遊びはそれこそ、誰かをベッドに引っ張り込む事だった可能性があります」
それだけではないだろう。 周が聞いたら泣きそうな事を言う。 トコトン夕麿には信用されていない。
「成瀬さんは?」
「あの人も微妙な気が…」
「じゃあ、保さん!」
「貴之以上に堅物ですよ、あれは?」
二人は頭を抱えてしまった。
「麗先輩がいたらなあ…」
「麗…そうですね。 思いっ切り呆れられるとは思いますが…次の休日にでも電話をしてみましょうか?」
「そうだね、そうしようよ」
遊び方を相談するという事自体がそもそもがズレているのだと、一向に気が付かない二人であった。
武は真っ暗闇な廊下を進んだ。屋敷の中に人の気配がない。それどころか、どの部屋も空っぽだった。まるで空き家状態だった。
「嘘だ…嘘だ…嘘だ!」
武は自らの悲鳴で本当に目覚めた。 だが室内は真っ暗闇だった。 眠る時にはいつも小さな灯りが点いているというのに。 手探りでサイドテーブルの上から、室内の灯りのリモコンを取った。 どこにどう触れても、真っ暗闇のままだった。
夢を見ていたのではなかったのか?
それともまだ夢の中にいるのか?
ベッドから降りようとして左手が何かに触れた。
「痛ッ!」
激痛が走った。 夢には痛みはない。 自分は間違いなく現実の中にいる。
武はベッドから降りると懸命に脚を踏みしめた。 手探りで杖を見付けて寝室から隣のリビングへ移動した。
そこも真っ暗闇だ。 夢の中のように必死になって廊下へ出る。 すると廊下も真っ暗闇だった。
恐怖が胸を満たす。 次の瞬間、ガックリと膝をついた。
誰もいない。 夢の内容が幻覚として武を襲う。 武は何もかもを失って使用人すらいない屋敷に独りきり。 自分が叫んでいるのすら最早わからない状態だった。 ただ真っ暗闇が武を取り囲んでいた。
屋敷内に武の絶叫が響いた。いち早く反応したのは周だった。ビバリーヒルズ一体は数時間前から落雷が原因で停電していた。すぐさま周はペンライトを手に、廊下で座って叫んでいる武を発見した。
「武さま! 如何なさったのです!」
そこへ雫が来た。
「周、清方を呼べ!バッドドリームだ! 幻覚が反転したんだ!」
だが周が呼びに行くよりも早く高辻と保が駆け付けた。 武は手首の怪我も忘れて雫の腕の中で叫びながらもがいていた。
「嫌だ!!嫌だ!!嫌だあ!!独りにしないで!!独りは嫌だ!!助けて!!誰か!!嫌だ!!」
「清方、鎮静剤は!?」
「ダメです、高辻先生! つい先ほど点滴を終えたばかりです!」
保が叫んだ。 今の武に薬剤投与は配慮がいる。 だがこのままだと武がもたない。
動いたのは貴之だった。
「武さま、お許しを!」
首筋に触れて意識を失わせた。 雫はぐったりとした武をベッドに寝かせた。 それを見守った周は廊下にとって返した。
「夕麿!」
ペンライトの光に浮かんだ彼は、悲痛な顔をして立っていた。 と、廊下の灯りがいきなり点いた。
周は夕麿の胸座を掴んで締め上げた。
「これがお前のやっている事の結果だ! 今日こそ答えてもらう。 お前が今やっている事は、武さまを犠牲にしてまでしなければならない事か!? そうだと言うならお前をこの屋敷から叩き出してやる!!」
許せなかった。 夕麿のやっている事は武への裏切りだ。 武が許しても周には許せない。 記憶がなかった時ならまだ理解出来た。 だが今は武の愛情がどんなものかをわかっていて、夕麿は本庄 直也の元へ行っているのだ。どのような理由があろうとも夕麿を一番に想って、自分を犠牲にする武を彼より下にする行為だ。
「やめなさい、周」
高辻が周を夕麿から引き離した。 そこへ保が一通の封書を夕麿に手渡した。
「これは先日の事件に臨まれる時に、武さまからお預かりしていた遺言書です。 皆さまへの分は焼却いたしましたが、夕麿さまへお宛てになられたこれは、お渡しする機会を見て預かったままにしておりました。
武さまのお気持ちを余す事なく、お書きになられていると思います」
保はどんな言葉よりも、今の夕麿にはこれが必要であると思っていた。
『 夕麿へ
これを読んでいるという事は俺はもう死んだ後だな。 こんな選択をした俺を恨んでくれて良い。 でも絶対にお前は死ぬな。
生きてくれ。
生きて俺のやり残した事を果たしてくれ。 もう俺と同じ目に誰かが合わないように。 お前が味わった数々の悲しみを、二度と繰り返さない為に。
夕麿、どうかお前はお前の天寿を全うしてくれ。 死ななければ解決出来なかった俺の分も。
六条家に帰って本来あるべき姿に戻れば良い。 誰かを愛して今度こそ本当に幸せになって欲しい。
俺はお前にいろんな幸せをもらった。 だから幸せの中で逝ける。 お前だけを愛して。 それを幸せだと本当に思っている。
悔いはない。 だから、幸せになれ。
ありがとう、夕麿。 もしこんな選択を許してくれるなら、来世で俺を見付けてくれ。 許せないなら…探さなくても良い。
さようなら、夕麿 』
「落ち着きなさい、周。これは夕麿さまが選ばれる事です」
「清方さん、よくそんな事が言えますね!?」
保が手渡した武の遺言書を持たせて、夕麿を武の傍らに残して来た。先程の武の状態は周には余りにも衝撃的だった。今にも心が壊れてしまいそうになる程、本庄 直也の存在は武を苦しめていたのだと。
中等部時代、夕麿にとって本庄 直也は単なる同級生に過ぎなかった。その証拠に夕麿は彼を姓でしか呼ばない。義勝たちを名前でしかも呼び捨てにしているのと比較して、現在でも姓に君という敬称を付けて呼ぶ。それなのに何故、彼に固執するのか。武が傷付くのも構わずに。
「本庄 直也の担当医に会って来ました。夕麿さまには申し訳ありませんが、小夜子さまと有人氏の許可をいただいて、身元引受人を私に変更しました。いろいろ話を担当医としたのですが、未だ治療中の夕麿さまをこれ以上接見に引っ張り出さないようにとお願いしました。
ですが納得していただけませんでしたので、医局長に担当医の交代を要求しました」
「受け入れてくれたのか?」
「もちろんです。私を何だと思っているんです、雫?」
夕麿とその伴侶である武が未だ治療中の状態で、本庄 直也に関わらせるのは二人の病を悪化させるだけだと、医局長に強く抗議した。その上でもし聞き入れてもらえない場合は外交問題になると言ったのだ。訝る医局長の目の前で高辻は総領事館の領事に電話をして、事の次第を説明して協力を求めた。この前の負い目と単なる抗議だった事もあり、領事は医局長を説得してくれたのだ。
これで夕麿が呼び出される事はなくなったと言える。彼が直也に強い罪の意識を持った経緯も監視カメラの映像と音声で確認出来た。
「本当に最後のトラップでしたよ、雫。麿さまに罪の意識を持たせ、彼に迫らせる。
夕麿さまは彼と武さま、双方に罪悪感を持ってしまいジレンマに陥る。その結果、些細な事に苛立ち神経をすり減らして、武さまと八つ当たり的な口論になってしまったのでしょう」
些細な事が口論になって拗れて捻曲がり、そこへ身元引受人の変更を言われたのだから、夕麿にすれば余計に意固地にならざるを得なかった。 全てを武の望みと思い込んで。冷静に考えれば、武は絶対にそんな事はしないとわかった筈だった。それだけ夕麿は追い詰められていたのだ。
「ま、取り敢えず俺たちも部屋へ戻ろうか、周」
「はあ?僕は僕の部屋へ戻ります、放してください、雫さん」
周は肩に回された雫の手を振り払った。すると懲りずに抱き寄せられた。
「清方、お前もそのつもりだろう?」
「え!?」
「今更何を驚いているんです、周?ほら、行きますよ?」
「え!?」
半ば雫に引きずられるように、周は連れて行かれてしまった。
「わけのわからん3人だな?」
義勝が苦笑した。
「さあ、お茶を淹れますから、居間に戻ってください」
雅久の言葉に保も貴之も頷いた。
「義勝、行きますよ?」
「ああ」
義勝はもう一度、二人の部屋のドアを見つめてから、居間に向かうべく踵を返した。
武が起きた気配がした。寝室へ行ってみると武はベッドの上に座り込んで、イルカのぬいぐるみを抱き締めていた。
「なぁ、お前は本物か?それとも幻か?」
ぬいぐるみに向かって武は言った。
「もう、どこまでが現実で何が幻なのかわかんないよ…なあ、お前は本物か?」
ぬいぐるみを脇に置いて顔を上げた、武の瞳はどこか遠くを見つめていた。
「武」
ベッドに近付いて声を掛けた。 だが武は反応しない。 再びぬいぐるみを抱いて呟いた。
「俺、何しにアメリカに来たんだろうな?」
あれ程焦がれて来たロサンゼルス。 やっと夕麿と一緒にいられる。 今は武のそんな望み自体が幻のようだった。 肩を落として深々と溜息吐いた。
「武、お願いです。 私を見てください」
両手を伸ばして懇願すると武はようやく夕麿をみた。 戸惑うようにその手を取りかけて力無く首を振った。
「もう…幻は良いよ…幸せな幻は…虚しいだけだから」
涙が零れ落ちた。
「シャボン玉みたいにすぐ消えてなくなるくせに…もっと悲しくなるだけなのに…」
武の口から悲痛な言葉が次々と溢れ出して来る。 誰にも言わない本当の気持ち。
「…夕麿は…もう…戻って来ない…俺を…もう…抱き締めてはくれない…」
怪我しても側にはいてくれなかった。 恐怖に悲鳴を上げても真っ先に来てはくれなかった。 抱き締めて大好きな声で安心させてはくれなかった。
「武…」
自らベッドへ上がって背後から抱き締めた。
「…だから…幻は…いらないって…消えてくれよ…」
武の口から嗚咽が漏れる。
「どうして…俺…生きて…だろ…」
絶望でいっぱいになった心にはもう何も入れる場所がない。 悲しいのも辛いのも深い底に沈んで今は月も星もない夜の闇のようだ。
「俺…ダメだよな…わがまま…だな…夕麿が…幸せなら…何だって良いって…そう思うのに…未練たらしく…こんな幻…」
幸せになりたかった。 夕麿とずっと歩いていきたかった。 側にいて欲しかった。 初めて逢ったあの日から、夕麿しか見えなかった。 それ以前にはそんな感情すら知らなかった。
夕麿だけ…… ももう届かない。 追い掛けてはいけない。
武は途切れ途切れに、泣きながらそんな言葉を紡いだ。 全てが幻だと思い込んでいるがゆえの、普段は絶対に口にしない本心の吐露だった。
「これから…どうやって…生きて行けば…良いんだろ…?」
何も見えない。 何もわからない。 真っ暗闇な中で独りぼっち。
そう嘆く武の痩せ細った身体を、抱き締めて一緒に夕麿は泣いていた。 自分も絶望して何もわからなくなった時があった。 独りぼっちだと思って、何も見えない闇の中にいた。 泣いて泣いて泣き続けて…あの頃をどう過ごしたのか、泣いた以外の記憶が曖昧だ。
直也に自分を見て迷った。 けれどももっともっと自分と同じか、それ以上の絶望に泣いている武がいる。 自分は一体、何をしていたのだろう? 直也がどんなに夕麿を求めても、それに応える事は出来なかった。 何故なら夕麿の腕は武を抱き締める為にあるから。
たった一人。
それは既に決まっているから応えられないのに…中途半端な事をしていた。 そして大切な愛しい人をこんなにも深く傷付けて悲しませていた。
出逢ったあの日から心惹かれた。 多々良への感情が自分を守る為のすり替えだったと、わかってしまった今、夕麿にとっても武は初恋の相手なのだ。
「武…武…愛してます…どうか、愚かな私を許して」
ベッドに細い身体を組み敷いて愛を囁き、許しを請いながら口付けを繰り返した。
「幻でも良いや…抱いて…夕麿がシてくれたみたいに…」
どうしても現実だと認めない。 それはそのまま武の心の傷の深さを物語っていた。
パジャマのボタンを外す。 肋骨が浮き出た胸が痛々しい。 あれ程滑らかだった肌も、病み疲れて荒れてしまっていた。
「こんなに…痩せて…許してください…全部、私の所為です」
武以外の誰を愛せるというのか? 互いに全身全霊で求めているのに。
「夕麿…夕麿…もっと…もっと…」
全てが幻だと思っているのに、それでもなお懸命に求める姿が胸に詰まる。
夕麿は武が気を失うまで抱き締めた。
朝、武は目を覚まして周囲を見回した。
「!?」
傍らに眠る夕麿に息を呑んだ。 恐る恐る触れてみた。 確かな温もりがあった。
「本物…?」
本物であって欲しかった。 もう幻は嫌だった。 眠る夕麿の唇にそっと唇を重ねた。 おずおずと怯えながら、わずかに触れて離れた。
やっぱり好きだ、と思う。 失っても気持ちは消えない。 もう一度、そっと唇を重ねた、これで最後にすると。
すると背中に両腕が回されて、力強くしっかりと抱き締められた。 慌てて離れようとする武の唇を舌先が割って、口腔内を激しく貪って来る。
「ン…ぁ…ンン…」
快感が全身を駆け巡った。 夕麿はたっぷりと甘い唇を味わってから武を放した。
「おはよう、武」
笑顔で言うと武は笑顔を返そうとして泣き笑いの顔になった。
「熱は…ないようですね? 昨夜も下がっていましたが…無理をさせてしまいましたから」
「……え……?」
夕麿の言葉に改めて武は昨夜の事を思い出した。
「幻…だったんじゃ…」
幻だから本心を言った。
幻だから甘えた。
その筈だった。
「どうして…」
夕麿は自分を捨てて本庄 直也を選んだのではないのか?
「本庄君の言葉に惑わされていました」
夕麿は直也が自分の身代わりだった話をした。
「それ…嘘だと思う。 本庄さんにおとなしく言う事をきかせる一番の方法じゃない? 俺だって…そんな事言われたら、同じ気持ちになるよ? 好きな人を守れるなら…好きな人がこんな目に合うよりは…って。
そんな気持ち、佐田川なら利用したんじゃない?」
「そう…でしょうか? そんな風に思って良いんでしょうか?」
「夕麿だってたくさん辛い想いしたじゃないか。 自分を責めるなよ。 責めて失ったものが返って来るわけじゃないだろ?」
「武…私は、あなたに酷い事を…許していただけますか? まだ私は、あなたを失ってはいませんか?」
「当たり前だろ?」
武の笑顔はまだ少し翳りがあった。
「ても…良いの? 本庄さんは…夕麿を待ってるんじゃないの?」
本当はYESの返事が怖い。 怖いのに訊かずにはいられない。
「武…私が愛しているのはあなたです。 本庄君の事は彼の話が真実だったとしても、私には今更何も出来ません。
何かをしたいと思ってはいました」
夕麿を見て喜ぶ直也の姿を思い出す。 その瞳に宿る光は異様だった。
「でも…彼が求めるのは私の心です。 武、この心はあなただけを求めています。 私の全てはあなたのものです。 彼には同情はしますが私の心はあげれません」
「夕麿…」
「私はそんな当たり前の事を悟れなかった。 あなたを傷付けてしまいました」
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「ありがとう…夕麿」
「昨夜、私はあなたの本心を聞かせていただきました」
いつも武は自分の感情を抑えて夕麿の事を考える。 悲しくても辛くても夕麿に起因するものならば、本心を言わないで隠してしまう。
「あなたはいつも私を責めない」
「責めたら元に戻るわけじゃないから。 そんな事したら…もっと辛くなる」
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それでも人間は相手を責め傷付けて恨むものだ。 そうしなければ自分を支えられない。 自分を守る為に相手を恨む。 それなのに武は傷付けるのを嫌う。 恨む事もしない。 だから一人で傷付いてしまう。 それが武の優しさであり愛情なのだ。
それに比べて自分は何と愚かで情けないのだろう? 武に甘えていただけだ。 武が黙っているのを良い事にして。
「夕麿…わがままを言っても良い?」
「何ですか? 何でも言ってください」
どんな無理難題でも、武の望みならば叶えてやりたい。
「今日…休んでも良い? 夕麿と一緒にいたい」
「武…」
ささやかな願いをわがままだと言う。
「昨日、保さんが私に謝ってくださいました。朝、発熱しているのを知りながら黙っていて欲しいという、あなたの望みで知らない振りをしたと」
「保さんは悪くない」
「わかっています。 あなたは私の為に望んでくださった事を」
武の発熱を知れば周か義勝が夕麿を責める。 それがわかっていたから隠そうとしたのだと。 結果、雨に降られて濡れて悪化して倒れた。 高熱にうなされて朦朧とする武に、保は解熱剤と消炎剤を点滴で投与した。
……そしてあの騒動だった。
「今日は登校の許可は出ないでしょう。 だから私も一緒にいます」
「いいの?」
「ええ、もちろん。 何をしたいですか、私と?」
「話をしたい」
「話?」
「うん。 紫霄にいた時にはいろんな話をしただろう? こっち来てから余りゆっくりと話をしてないから」
二人で一緒にいたい。 そして話がしたい。 それのどこがわがままだと言うのか。 こんな小さな望みすら、叶えてやっていなかった。
武はそう、いつもたくさんの事を望まない。 ちょっとした行事。 記念日やイベント。 取り留めのない雑談。 ただ寄り添って座っているだけの時間。 夕麿が奏でるピアノ。
武が好きなのは普通の日常生活の穏やかで温かい時。 寂しがりな武とはここへ来てから、そんな時間を殆ど過ごしていない。
「美味しいお茶を淹れて、話をしましょう」
「うん…ありがとう。 嬉しい…」
左手首に巻かれた包帯が痛々しい。
「手はまだ痛みますか?」
「今朝はあまり痛くない」
「側にいてあげられなくてごめんなさい」
武は首を振った。 それでは夕麿の気がすまない。
「武、お願いです。 どんな風に思ったのか、話してください」
「もう…夕麿は…俺の事を嫌いになったんだって思った。 一昨日の夜、帰って来ても何も言わなかった。 昨日の朝、俺がベッドに寝てなくても何も言わなかった」
「一昨日、私は本庄君の事で呼び出されました。 あなたの怪我を知ったのは、メディカルセンターを出てからでした。
周さんに叱られました。 私はあなたにどんな顔でどんな言葉を、掛けたら良いのかわからなくなりました」
武の背中に拒絶を感じて裏切っているのと同じだ、という罪悪感に夕麿も絶望を感じていたのだ。
相手に嫌われる事。
拒絶される事。
互いに同じ事を恐れて臆病になっていた。
特に武には夕麿のかつての同級生という直也の立場が怖かった。 それが余計に誤解を生じさせた。 不安が暗闇の中で独りきりの夢を呼び暗転した幻覚を呼んだ。
そもそも武の夕麿への想いは、憧れ見つめる事から始まった。それが武の恋だった。振り向いて欲しいとか、振り向かせたいとか…武は思わなかった。あの頃の武には側に夕麿がいても遠かった。優しく親切にはしてくれるけれど、それは他の皆にだってそうだった。自分と同じように夕麿に憧れて、恋する生徒はたくさんいた。でも夕麿は誰にも応えない。義勝たち生徒会で活動する友人たちに向ける笑顔を、夕麿はそれ以外の生徒たちに向ける事はない。武に直接、そう言った生徒もいた。だから懸命に夕麿への恋心を否定した日があった。
武が恋をして振り向いてもらった。武の心にはどこかそんな想いがある。武にとって夕麿は理想と憧れる存在。手本とする存在。今もそれは変わらない。
その想いが武を臆病にする。
その想いが夕麿を守ろとする、無茶な強い想いになる。
いつもいつも夕麿に背を向けられ、去って行かれる恐れから逃れられない。夕麿の背中を武は追う事は出来ない。縋って止められはしない。だからこそ自分を脇に置いて、夕麿の幸せを願ってしまう。 彼の傍らに自分がいなくても、ただその幸せだけを。 夕麿に返せるのはそんな気持ちだけだと信じ込んでいた。
「武、もっとわがままを言ってください」
喧嘩をしたら武は身を引いてしまう。 特に最近はそれが多い。
「言ってるよ、俺?」
不思議そうな瞳が見返して来る。
「足りません」
「何、それ? 変なの……」
いろんな事を我慢して生きて来た武。 寂しがりなのに母一人子一人の母子家庭では、寂しいとすら言えなかったらしい。 甘え方を知らず、 甘えさせてやりたいと思いながら、結局また自分が甘えていた。
そして夕麿も武も出逢い惹かれ合うまで、立場や境遇は違えども孤独に生きていた。
「ふふ」
「何?」
「よくよく考えたら私たちは出逢いからずっと学校の中だった所為か、一緒に遊ぶ……という事をしていませんね?」
「遊ぶ…? そう言えばそうだね。
あれ? 俺たち、何をして過ごして来たっけ?」
紫霄時代は生徒会と勉強ばかりだった。 寮で二人っきりの時は抱き合っていた。 二人してそれを思い出して吹き出した。
「うわ~俺たちって不健康~」
「武、それは言い過ぎです」
「じゃ、不健全」
「変わらないでしょう?」
夕麿が眉をひそめると武は笑い転げた。
アメリカへ来てわかった事。 アメリカ人はON/OFFをきちんと切り替える。 切り替える事でONに全力を尽くす余裕が出来る。 OFFはONの為に必要不可欠であり、心の拠り所である家族や友人たちとの絆を深める時間であると。
紫霄に在校している時は、外に出て家に帰るだけで十分だった。
「でも夕麿、俺、遊ぶって言ってもどうすれば良いのか知らないんだけど?」
「……それは…私も同じです」
武は紫霄に入る前も入った後も勉強ばかりして来た。 夕麿たちのように楽器が出来るわけではない。 身体が丈夫でなかった事もあって、本ばかり読んでいた。 紫霄に入ってからは、夕麿に教えられた株式を熱心にしたがそれも遊びではない。
夕麿にしても小等部から紫霄にいる。 ピアノ、茶道や花道、書道、乗馬と遊ぶというより習い事ばかりしていた。 帰宅すれば蔵に閉じ込められた為に、やはり空いた時間は本を読んでいた。
「困りましたね…どうすれば遊べるのでしょう?」
「誰かに相談してみる?」
「それしかありませんが…」
義勝は武と夕麿と大差なさそうだ。 雅久は舞や和楽器に時間を費やしていそうだ。 貴之はどうだろうか?
「貴之ですか…許婚者がいたくらいですから、多少は知っているのではありませんか?」
「う~ん、武道とかの練習をしてそう…」
「ああ…あり得ますね」
「周さんは?」
「やめた方が良いと思います。 彼の遊びはそれこそ、誰かをベッドに引っ張り込む事だった可能性があります」
それだけではないだろう。 周が聞いたら泣きそうな事を言う。 トコトン夕麿には信用されていない。
「成瀬さんは?」
「あの人も微妙な気が…」
「じゃあ、保さん!」
「貴之以上に堅物ですよ、あれは?」
二人は頭を抱えてしまった。
「麗先輩がいたらなあ…」
「麗…そうですね。 思いっ切り呆れられるとは思いますが…次の休日にでも電話をしてみましょうか?」
「そうだね、そうしようよ」
遊び方を相談するという事自体がそもそもがズレているのだと、一向に気が付かない二人であった。
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