蓬莱皇国物語 Ⅳ~DAY DREAM

翡翠

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   帰国

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 武たちは冬季休暇に入ってすぐ、ロサンゼルス空港から飛び立って帰国した。影暁の帰国は今回は間に合わなかったが、夏期には何とかすると約束して武たちは二人と再会を告げた。



「にーた」

 伝い歩きをするまでに成長したのぞむが、一挙に増えた兄たちの間を行き来する。

 武以外がベタ甘な兄と化した。そう武以外は。希は何故か夕麿が一番のお気に入りで、すぐに寄って行っては抱っこを強請る。最初は笑っていた武も次第に不機嫌になった。

「にーた」

 笑顔で見上げて首を傾げる。夕麿が手を差し出すと声をあげて笑う。そのまま抱き上げようとする夕麿の手から武は弟を取り上げた。

「夕麿にばっかり行くな、希!赤ん坊でもダメなものはダメだ。夕麿は俺のものだからな」

 希の顔をしっかり見据えて言い放つ武に全員が吹き出した。

「武さま、希君はまだ乳児でございますよ?」

 異母妹由衣子の時にもしっかりと自己主張した武を、思い出しながら周が告げた。

 すると雫が言った。

「わからないぞ、周?三つ子の魂百まで…というのもある」 

「あり得ますね。 少なくとも周、あなたはそんな感じだったと記憶しています」 

「………は?」 

「従兄弟、近所に互いの屋敷がある。 翠子さまがご健在の頃は、久我と六条は頻繁に行き来があった。 これだけ材料を提供したら、あなただってわかるでしょう?」 

「え?」 

 周が目を丸くしたのを見て、高辻が苦笑しながら言葉を続けた。 

「私はよくあなたの子守をしていましたからね。 あなたの記憶に残っていない事も記憶していますよ?」 

「あの…高辻先生は、赤ちゃんの時の夕麿を知ってるんですか?」 

 武が希を抱いたまま訊いた。 

「私の記憶にあるのはちょうど…希君くらいまでですね。 なかなかやんちゃで、お茶目な方だったと記憶しております」 

「やんちゃで…」 

「お茶目?」 

 武の呟きに義勝が繋げ、二人が夕麿を振り返った。 夕麿は耳まで真っ赤になっていた。 

「夕麿…真っ赤!」 

 武が笑い出すと義勝が吹き出した。 

 今更語られる高辻と周と夕麿の関係。 確かに考えてみれば高辻は久我家で育ったのだ。 当然ながら夕麿の事を知っていなければ逆におかしく思う程だ。 高辻が最近まで黙っていたのは自分と久我家との関わりを、安易に口に出来ない状況に置かれていたからだった。 

「周、あなたが夕麿さまに初めてお目もじしたのは、お生まれになられてすぐだったのです。 ベビーベッドの側から離れなくて、浅子が困っていました」 

「ほお…それはそれは…2歳くらいかな?」 

  雫が楽しそうに呟いた。 

「周は冬生まれですから、1歳半くらいでしたでしょうか?」 

 赤ん坊だった夕麿が寝るベビーベッドの側を離れなかった周。 

「周、伝い歩きを始められた夕麿さまがちょうど今の希君のように、あなたを追っかけていたのを覚えていませんか?」 

「…覚えてない…」 

「あんなに嬉しそうだったのに?」 

 今度は周が真っ赤になった。 

「なる程、確かに三つ子の魂百までだな」 

 雫が笑う。 周が夕麿への想いを吹っ切ったからこそ、語られる昔話であった。 

「ご歓談中、失礼いたします。 護院家の方がお見えになられました」 

 文月の言葉に雅久が、膝に置いていた木箱をテーブルに置いた。 

「さあ、高子たかいこさま、こちらですわ」 

 小夜子がドアを開けて言った名前に何人かが息を呑んだ。 

「失礼いたします、皆さま。 夫、護院 久方ごいんひさかたの代理で参りました、護院 高子でごさいます」 

 彼女はそう挨拶すると夕麿に近寄った。 

「お久しぶりでごさいます、夕麿さま。 私をご記憶されていらっしゃいますか?」 

「…高子伯母さま?」 

 今は護院家に嫁いでいるが、彼女は間違いなく夕麿の母翠子の異母姉高子だった。 

「すっかりご立派になられて…でも、すぐにわかりましたわ。 亡くなった翠子さんにそっくりですもの」 

 そう言った高子の笑顔は、夕麿の記憶に残る母の笑顔と重なる。 

「伯母さまも母にやはり、似ていらっしゃいますね。 

 あ…ご紹介いたします。 こちらが紫霞宮武王さまです」 

 夕麿は自分の横に座っている武を紹介した。 

「初めてお目もじいたします、宮さま。 この度は我が護院家の家宝を見付けていただきました事、夫に代わってお礼申し上げます」 

「あ…いえ、手に入れられて幸いだったと思っています」 

 武の言葉を受けて雅久が木箱を開けて、中の竜笛を取り出した。 

「御改めくださりませ」 

「失礼いたします」 

 高子は箱書きと竜笛を確認して頷いた。 

「雅久、音色をお聴かせして」 

 夕麿の言葉に雅久が頷いた。 

「え? 『雲居』は鳴らないと聞いていますが?」 

「ええ。 『雲居』を所有していた店のオーナーも、そのように言って欧州の骨董市で売られていたと申していました。 

 実際、他の誰が吹いても全く音は出ません。 しかし、雅久だけは鳴らせる事が出来るのです」 

 夕麿は雅久に向かって頷いた。 

 雅久は『雲居』を手に取って唇に当てた。 澄んだかん高い音色が、辺りの空気を切り裂くように震わせた。 

「これが名笛『雲居』の音色でございます」 

 その稀なる美しい音色に、高子はしばし言葉を失った。 

「……奏者を選ぶと言い伝えにあると聞いてはいましたが…本当にそうだったのですね、驚きました」 

 鳴らない筈の竜笛。 護院家ではやはりそう思っていたらしい。 

 高子はバックから封筒を取り出し、中の小切手をテーブルに置いた。 

「御立て替えいただきました、『雲居』の代金でございます」 

 夕麿が小切手の金額を確認した。 そこに明記されていたのは、武が購入した金額よりも少し多かった。 

「これが購入証明書です」 

 夕麿がサンフランシスコで購入時に受け取った証明書を手渡した。 続いて領収書を書いて渡した。 

「確かに」 

 高子は領収書をバックにしまうと、証明書の向きを変えて武に差し出した。 

「この『雲居』は我が護院家では既に荷が重うごさりますれば、紫霞宮さまに御献上あそばしたいと夫より言い遣っております」 

  これには全員が驚いた。代金を支払った上で献上は昨今、金銭的に不自由をしている貴族が多い中では珍しい申し出と言えた。 

「よろしいのですか、伯母さま?」 

「はい。 その昔、私共夫婦は夕麿さまを翠子さんの亡き後、護院家にて御養育したいと申し出ました。 しかしそれは叶いませんでした。 後々の夕麿さまの御身を今顧みて、やはり無理にでも護院家へお連れするべきであったと後悔しております」 

 昔、夕麿を引き取りたいと言っていたのは、翠子の実家の近衛家ではなく、高子夫婦だったのだと今知った。 

「当時は父が反対いましましたの。 私は…失った息子の代わりに、あなたを育てようと思っていました」 

 高子の視線が伏せられた。 

「息子?」 

 何も知らない武が問い返した。 

「はい。 若い頃、父がすすめる縁談の相手が嫌いで…私、今の夫と駆け落ちいたしましたの。でも父に見つけ出されて連れ戻されました。その時には既に私は懐妊して臨月間近でした。 

 そして…生まれた子は父に取り上げられて隠されてしまいました。 父は私に子供は死んだと申しましたが、私はちゃんと子供の産声を聞いています。 後に男の子だった事も知りました」 

 高子の頬を涙が零れ落ちた。 

 今、彼女の口から語られているのは間違いなく自分の事だと、高辻は震える指で雫の腕を掴んでいた。 

「幸いにも私は久方と結婚いたしました。 だから…だからその子を取り戻したいと、二人で何度も父に頼みました。 しかし……聞き入れてもらえないままに30年以上が過ぎてしまいました。 

 夕麿さま、あなたの事も後悔だらけです。 ただ、あなたがお幸せであらしゃると小夜子さんから伺いました。 そしてお二方のご結婚のお祝いも父が拒否したという事も知りました。 

 『雲居』は遅ればせながら、護院家からのお祝いの品でごさいます」 

「ありがとうございます」 

 武が笑顔で礼を言った。 

「それで、伯母さま。 お話の続きをお聞かせいただけますか」 

 夕麿も高辻が高子の息子だと朽木 綱宏から聞かされている。 だから真実が聞きたかった。 

「私と夫は今でもその子を探しています」 

 高子はそう言って顔を上げた。 

「父は今、病床におりますの。 癌で|余命いくばくもございません。 その所為でやっと私に真実を話してくれました。 私たちの最初の息子は久我 浅子さんに預けられたと」 

 武は思わず周を振り返った。 

「あなたが…浅子さんの御子息なのね?」 

「はい…周と申します」 

 答えた周の声が震えていた。 

「では、あなたに訊きます。 私たちの息子、清方は今、どこにいるのですか?」 

 真っ直ぐな高子の問い掛けに、全員が一斉に高辻を見た。 高辻は言葉もなく雫の腕を掴んだままで、その場に立ち竦んでいた。 

 高子はバックをテーブルに置いて立ち上がった。 ゆっくりと高辻に歩み寄る。 

「あなたが…私の息子…清方?」 

 差し出された手に戸惑っている高辻の背を雫がそっと押した。 高辻はよろめくようにその腕の中へ。 

「ああ…清方…やっと会えました。 愛しい私の子!」 

 自分は捨てられたのではない。 両親共に探してくれていたのだ。 その事実はどんなに嬉しい事か。 

「お…たあ…さん…」 

 そう呼べる相手は自分にはいないのだと思っていた。 

「長い間、ごめんなさい」 

 高子の言葉に高辻は首を横に振った。 

「私は死んだとあなたは聞いていると。 だから、仕方がないのだと思っていました」 

 求めれば辛くなる。 生まれて来た事を呪いたくなる。 だから高辻は母の事を考えるのを、かなり早い時期にやめてしまっていた。 

 ただ…夕麿が従弟だとわかって、静かに医師として寄り添い治療する決意をした。 それが結局、高辻を学院から出させ、離れ離れになっていた雫との再会を呼んだ。 

 人の縁とは不可思議なものだ。 サンフランシスコで発見した竜笛をかつて保持していた護院家に、高子が嫁いでいたとは誰も知らなかったのだから。 

「清方、私たちの所へ戻って来て。 私たちに償いをさせてちょうだい」 

 高子の言葉に武はとっさに雫を見た。彼は顔を背けて立っていた。高子本人に悪意はない。だが彼女の言葉は高辻に、両親か恋人かを選ばせるものだった。

 同時にそれは武にとって有り得た自分の姿でもあった。 小夜子が武の事を知らせていたら…高辻と同じような事になっていたかもしれない。 紫霄で夕麿に出逢い、今の高辻のように小夜子と再会したなら…。 夕麿と小夜子、どちらかを選ばなければならないとしたら。 

 武は希を降ろして夕麿の手を掴んだ。 夕麿が武を見た。 どちらかを選ばなければならないなら、愛する人を、夕麿を選ぶ。 小夜子とは離れても親子だが、夕麿と離れてしまったら…失ってしまう。 れだけは嫌だから。 武が握り締めた手に夕麿の手が重ねられた。 武のその気持ちをわかっていると言うように優しい笑顔が返って来た。 

「それは…出来ません」 

 苦汁に満ちた高辻の声がして武は振り返った。 

「どうして? 私たちを許してはくださらないの?」 

「許すも許さないも…おたあさんにもおもうさんにも、最初から何の罪もないと思います。 それにこうして来てくださっただけで私は、十分に報われたと感じています」 

「だったら何故?」 

 高辻は一度、雫を振り返ってから答えた。 

「愛する人がいます。 学院に閉じ込められて、彼とも10年以上、離れ離れでいました。 周と武さまのお陰で学院から出られ一年前に再会しました。 今、彼と一緒に暮らしています。 だから私は護院家には行けません。 彼と共にいる事が私の望みです」

 確かに両親を求める気持ちはあった。他の者には当然のようにいたのに、高辻にはそう呼べる対象すらいなかった。だがおとなになった今としては、全身全霊を込めて欲するのは雫なのだ。高辻が抱いて来た悲しみも苦しみも傷みも雫が全て受け止め、受け入れてくれたからこそ、離れ離れになっても生きて来れたのだ。ありのままの自分をそのまま抱き締めてもらえたから、高辻は自分が生きていても良いのだと教えてくれたから。

 だから高辻は雫の手を離せない。放したくはない。

「私が生きて来られたのは、彼が…雫がいたからです。彼が私を支えてくれたからです。13年離れていても彼は、私に逢う為に様々な努力をしてくださいました。だから私は彼と生きて行きます」

 迷いのない言葉だった。高辻がまだ10代ならば或いは迷ったかもしれない。だがもう既に高辻は子供ではない。雫がそっと背後から抱き締めて来た。その力強い温もりに涙が溢れて来た。その腕にそっと手を重ねた。

「あなたは?」

 高子は取り乱しもせずに雫に問い掛けた。 

「成瀬 雫と申します」 

「成瀬? 史子ふみこさまの御子息かしら?」 

「母をご存知ですか?」 

「ええ。 そう、あなたがこの子の…」 

「お許しいただけますか、おたあさん」 

 同性愛を理解する者は徐々に増えつつあるが、けれども自分の息子がそうだと知って、なかなか受け入れられるものではない。 

「私に反対する事は出来ません。 それに…あなたはこの方と一緒にいるのが、幸せなのでしょう?」 

「はい」 

「成瀬さん、この子をよろしくお願いしてます」 

「ありがとうございます」 

 雫は深々と感謝の為に頭を下げた。 

「では二人で一度、護院家の屋敷へ来てくださいな。 2~3日でよろしいの。 清方、あなたの家族に会ってちょうだい」 

「おたあさん、雫は仕事でここへ滞在しているんです」 

「お仕事? 何をされていらっしゃるの?」 

 雫はポケットから皇宮警察の手帳を出して開いた。 

「まあ、皇宮警察に所属していらっしゃいますの? では何故ここへ?」 

「武さまの専任警護を拝命しております」 

「おたあさん、武さまと夕麿さまは再三、お生命を狙われていらっしゃるんです。 だから雫はお側を離れるわけにはいかないのです」 

 そう答えた高辻を見ていた武が言った。 

「行ってくれば良いじゃん。 2~3日なら俺も夕麿も外出しないでおとなしくしてるよ? 折角なんだし成瀬さんも高辻先生も休暇くらい取ってよ、なあ、夕麿?」 

「ええ。 お二人ともずっと私たちの為に、ロサンゼルスでは不休でいらしたのですから、是非に」 

「ですが…」

 迷う雫に周が提案を出した。

「高子さまも、久方さまもお顔がお広くてあらしゃります。雫さん、例の件、お二方にご相談してみては?」

 周の言葉に雫が目を見開いた。

「あら、何でしょう?私たちで何かお役に立ちますかしら?」

「はい。是非とも武さまと夕麿さまのこれからの御為に御尽力を賜りたく思います」

「わかりました。宮さまの御恩に報いる為にも、私たちに出来得る事をお手伝いさせていただきます」

「ありがとうございます」

 宮中に出入りしている周には、貴族社会の人間関係がある程度はわかっている。だがまだ若い故にさほど人脈を持てはしないのだ。武と夕麿の後々の憂いを絶つ為にも、最後の詰めをしなければならなかった。だが紫霞宮の名前と御園生は逆に働いてしまい、どうしても八方塞がり状態に陥っていた。護院家ならばあらゆる手を打てる。紫霞宮家との関わりは竜笛の件のみ。高辻が現当主夫妻の実子である事は知られてはいない。

「武さま、夕麿。高子さまのご協力をいただけましたら、道が開けると思えます」

 周の言葉に武の目が輝いた。 

「ふふ。 何だか良からぬ企みのようですわね?」 

「良からぬ企みを繰り返される方々に、一矢報いるつもりでおります」 

 夕麿がきっぱりと言い切った。 

「それ、お二方のお生命を脅かした愚か者の事ですの?」 

「ええ。 武さまには野心も欲もあらしゃらない。 お望みは平穏に御暮らしになられる事と、紫霄学院の悲劇を終わらせる事。 それだけなのです」 

 高辻が言葉を継いだ。 そうそれは武の悲願であり、同時に全員の願いでもあった。 

「わかりました。 では夫の機嫌を良くする為にも清方、成瀬さんと家へ。 準備してくださる?」 

「すぐにですか、おたあさん?」 

「善は急げと言うでしょう?」 

 悪戯っぽい眼差しは、高辻とそっくりだった。 

「わかりました、お伺いいたします」 

 雫が答えた。 

「武さま、夕麿さま。 2~3日のご辛抱をお願い申し上げます」 

「了解。 

 で、どの程度制限?」 

「庭などにはお出にならない。 外から見える場所に長時間いらっしゃらない。 訪問客にはお会いにならない。 

 お願い出来ますでしょうか?」 

「わかりました。 基本、居間と食堂と私たちの部屋に限定して居る事にしましょう。 

 それでよろしいですね、武さま?」 

「あ、うん」 

「ありがとうございます。 では文月さん、お二方のお部屋と廊下のカーテンを閉めて来てください」 

「承知いたしました」 

 文月が居間を出て行った。 

「では、おたあさん。 準備をして参ります」 

 高子は嵐のように雫と高辻を連れて、御園生邸を去って行った。 それを見送りに玄関まで行った周が、思いっ切り脱力して戻って来た。 

「周さん」 

 武が笑顔で手招きして自分の横を指し示した。 

「何でしょう、武さま?」 

 言われたままに座ると、武が突然、抱き付いて来た。 

「!!?」 

 周は驚愕の余り、ソファから飛び上がりそうになった。 

「う~ん、周さんって結構…」 

 武のクスクス笑いのその後ろで、夕麿が凄まじい目で睨んでいる。 

「た、武さま…おやめください…」 

「良いじゃん、減るもんじゃなし。 周さんって抱き心地良いね~」 

「ひぃ!」 

 夕麿の全身から怒りのオーラが、メラメラと立ち上っているのが目に見えるようだった。 周は必死で首を振って、武を自分から放そうとする。 だが乱暴な事を武にするわけにも行かず、夕麿の視線に冷や汗をかきながら小さく悲鳴を上げた。 

「ん? どうかした?」 

 屈託のない眼差しで見上げられて余計に慌ててしまう。 それはまるで火に油を注ぐようなものである。 

「ちょっと脱がしてみたくなるタイプ? 成瀬さんと高辻先生…うわっ!」 

 ついにキレた夕麿が周から武を引っ剥がし肩に担ぎ上げた。 

「ちょ、夕麿。 何するんだよ!」 

「それは私のセリフです。 私の目の前で他の男に抱き付いた挙げ句に、脱がしてみたいとは何です、武? 浮気は許しませんよ?」 

「あれ? 前に側室持っても文句言わないって、言わなかったっけ?」 

「た~け~る~それは、どういう意味です?」 

「さあね~」 

「…」 

 怒りと嫉妬に武を担いだ全身が震えている。 それを見て周はその場から逃げ出したくなった。 別に周に何の責任があるわけでもないのに。 

「武、部屋でじっくりとその辺について、話し合おうではありませんか」 

「いいよ?」 

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 強くなりたい。 

 武を支えたい。 

 夕麿の切実な願いが焦りになる。 武を想うが故の願いは自らを雁字搦がんじがらめにしてしまう。 彼の愛情を感じるからこそ、武は別の事に気を移してやりたかったのだ。 周には申し訳なかったが、夕麿が一番嫉妬しそうな気がしたのだ。 

 従兄弟。 その関係を利用したのは確かだ。 そして案の定…夕麿は激しい嫉妬にかられている。 

 部屋に入るとやや乱暴にベッドの上へ投げ出された。 覆い被さって来る夕麿を、あっさりとベッドに押し付けた。 

「ふふ、俺の勝ち」 

 だが力では到底敵わない、あっという間に逆転されてしまった。 

「誰の勝ちですって?」 

「あははは…」 

 乾いた笑いで横を向いた。 

「逃がしませんよ?」 

「…逃げないよ」 

「武…?」 

 真っ直ぐに見上げると夕麿は戸惑った顔をした。 

「逃げるわけないだろ、俺が」 

 一緒に生きて行くと決めたのだから。 

「夕麿、ひとつ訊かせてくれ。 俺に側室の話をしたのは何故だ?」 

 喧嘩そのものは本庄 直也の事が関わっていた。 だがその喧嘩とは別に側室を武が望んでも反対しない…その言葉は棘のように、心の奥に突き刺さって抜けていない。 

 幸せだからこそ、明日を歩く為に本意が聞きたい。 ここの所、夕麿が思い悩んでいるのは自分たちが、袋小路に行き当たっているだけなのか。 それとも……武は夕麿の気持ちを知りたかった。 

「それは……」 

「本当は俺に抱かれるのは嫌なんじゃないのか?」 

「武?」 

「俺とお前は…俺が抱かれる事から始まった。 それが俺たちの関係だった。 俺がお前を抱いたのは…お前を死なせなくなかったからだ。 

 もうお前は過去の傷みから歩き出した。 俺に…抱かれる理由はなくなっただろう?」 

「そんな…武、私は…」 

「良いんだ」 

 戸惑って力を抜いた夕麿の下から武は身を翻ひるがえした。 

「俺はお前以外に触れるつもりはない。 抱き締めてくれれば…それで良い」 

 夕麿がいてくれるなら多くは望まない。 夕麿が望まない事を求めたりしたくない。 最初に戻るだけだ。 何も変わらない。 

「武…武…違います。 あれは…あれは…もう、あなたの側にはいられないと思ったのです」

「それは……どういう意味だ、夕麿?」

「本庄君を捨て置けなくて…何度か抱き締めました」

「……抱き締めた?」

「はい……だから…あなたが女性と一緒にいるのを見て、私は思わずあんな事を……怖かったのです。あなたに責められ、嫌われる事が」

 夕麿の後ろめたさが生んだ言葉。

「怖くて…逃げの言葉を口にしたのです。あなたはそんな事はしない。わかっています。私はどれだけあなたに愛していただいているのかを」

 それは……微妙なニュアンスだった。夕麿は武以外を抱けない。だがそれは封印された記憶が起因していた。本庄 直也の病室へあしげく行っていた時は既に全てを思い出していた。ならば…そういう意味での『抱き締めた』もありえるのではないか?

 武には恐ろしい事だった。自分以外を抱けるようになった、夕麿。武でなくても良いという意味に武の心には響いた。武を裏切ったから武も誰かをと望んだ?

 夕麿を信じたい。それは別の意味だと。だが怖い。真実を知りたくはない。

「もう…良いよ。わかったから」

 これ以上は聞きたくない。

「武…勘違いしないでください」

 夕麿は目を伏せた武を抱き寄せた。

「こんな風に抱き締めただけですから。あなたが思うような意味ではありませんよ?第一、監視カメラが設置されている病室で…それは無理だとは思いませんか?」

 悪い方へと武が想いを向けてしまうのは、『側室』という言葉にそれだけ武が傷付いていたからだ。夕麿は苛立ちと不安と罪悪感の混ざった心で口にした、不用意で残酷な言葉がどれだけ武を傷付けてしまったのかを悟っていた。 

「監視カメラ?」 

「精神科の隔離病棟ですから。 私も8月に入院していたから…わかります。 もっとも、私は隔離病棟ではなかったので、監視カメラはありませんでしたが」 

 武の髪を指でく。 優しく想いを込めて。 

「さっきは本気で焦りました」 

 夕麿の言葉に武が不思議そうに首を傾げてみせた。 

「だってそうでしょう? 寄りによって周さんですよ?」 

「どういう意味?」 

「彼も抱く側も抱かれる側も可能だからです。 あなたの好みそのままでしょう、武?」 

「う~ん、周さんは押し倒したくないし…逆も遠慮したいな」 

 ただ夕麿に嫉妬させたかっただけ、思い悩む夕麿の心をそらす為に。 

 今、本心を聞く事も出来た。 

「周さんはね、時々凄く夕麿に似てるんだ。 紫霄で独りきりだった時、それに安心した」 

「私と周さんが似てる?」 

「うん。 俺に裸足で歩き回るなって叱るのは、周さんだけじゃなくて絹子さんまで同じ言い方だった」 

 クスクスと笑う武を抱き締める力を強めて、麿は耳許に囁いた。 

「絹に言われた? という事はロサンゼルスでも裸足でいたのですね、あなたは」 

「…裸足って気持ち良いぜ?」 

「全く…何度言ってもやめないのだから…」 

 深々と溜息を吐いた夕麿の声は笑っていた。 

「武…私の武…愛しています」 

 愛を囁いてもまだ足らない。 愛しさが心を満たし溢れ出る。 

「なあ…夕麿」 

「何です?」 

「周さんもいつか…誰かと幸せになるかな…?」 

 夕麿への想いから離れて雫や高辻との奇妙な関係も終わらせたらしい周。 同じように独り者の保は、ずっと孤高に生きて来た強さのようなものを持っている。 だが周はいつも何かに縋り付くようにして生きて来た。 

 夕麿への想いや高辻との関係、怠惰で奔放な在り方。 周が周として生きる為の命綱みたいなもの。 それらを自ら手放した今、周はどこか寂しげで儚い。 武はそれを申し訳なく思っている。 夕麿を横取りしたような武に、周は誠心誠意仕え尽くしてくれている。 それが辛く申し訳なく思ってしまうのだ。 

 だからこそ彼に愛する人を見付けて幸せになって欲しいと心から願っていた。

「大丈夫です、きっと。周さんは前を向いて歩いて行かれる決心をしました。 彼は優しい人です。 必ずそれに気付いて、周さんだけを必要と思う人、彼が心底愛せる人がこの世の中にはいると思います。 全てに絶望した私にあなたが現れたように」 

 夕麿もまた願っていた…… 祈っていた。 周には幸せになって欲しいと思う気持ちは同じであった。 

「うん…そうだよね。 早くその人が現れれば良いな」 

 その時には周に出来るだけの事をしたい、彼の献身に報いる為に。 今、幸せであるのは彼の献身があったからだ。 

「夕麿、シて」 

 夕麿の腕に手を添えて甘い声で強請った。 

「私を抱いてくださるのではなかったのですか?」 

「そっちも欲しいけど…先に抱いて欲しい……ダメ?」 

「まさか。 そんな顔で強請られたら、煽られているようなものです」 

「嬉しい…」 
 
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美醜逆転世界で”悪食伯爵”と呼ばれる男の話。

異世界にやってきたら氷の宰相様が毎日お手製の弁当を持たせてくれる

七瀬京
BL
異世界に召喚された大学生ルイは、この世界を救う「巫覡」として、力を失った宝珠を癒やす役目を与えられる。 だが、異界の食べ物を受けつけない身体に苦しみ、倒れてしまう。 そんな彼を救ったのは、“氷の宰相”と呼ばれる美貌の男・ルースア。 唯一ルイが食べられるのは、彼の手で作られた料理だけ――。 優しさに触れるたび、ルイの胸に芽生える感情は“感謝”か、それとも“恋”か。 穏やかな日々の中で、ふたりの距離は静かに溶け合っていく。 ――心と身体を癒やす、年の差主従ファンタジーBL。

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