蓬莱皇国物語Ⅱ~飛翔

翡翠

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   過去との決別

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 冬休みもあと2日。明日の夕方までには、学院に戻らなければならない。戻れば生徒会の引き継がが始まる。2月末で夕麿たちの任期は終わり彼らは白鳳会に学籍が移る。3月の海外留学しなかった生徒たちの卒業式が武たちの初仕事となる。それは否応なく夕麿たちが学院を離れる時期が近い事を告げていた。

 あと半年………

 武の心に現実が重く伸し掛かって来る。それでもこれは夕麿の為でも自分の為でもあると言い聞かせ続けていた。たかが一年だと自分に言い聞かせる。

 高辻 清方を説得して、UCLAへの留学と引き続き夕麿たちの治療も依頼した。

 ビバリーヒルズで彼らが滞在する屋敷も購入され、着々と渡米の準備が進んでいる。

 残された時間を大切に過ごそう。二人とも敢えて口にはしないが想いは同じであった。

 武は夕麿と買い物に出掛け大量の本を買って来た。

「やはり書店に実際に行くと違いますね」

「いや…だからって、夕麿、買い過ぎだろ?

 店員が驚いていたじゃないか」

「これでも半分くらいに減らしたのですが?」

「はあ?」

「大丈夫ですよ、武。読書に夢中になってあなたを構わない…などいう事にはなりませんから」

「な、何を言ってんだよ!」

 真っ赤になった武に夕麿は艶やかに笑いかけた。車から降りて玄関先で相変わらずのやり取りにもう誰も突っ込まない。

 今日は義勝と雅久も、買い物へ出掛けている。

 靴を脱いで玄関ホールに上がると、困った顔で文月が武に耳打ちして来た。

六条 陽麿ろくじょうはるまさまがいらっしゃってます…夕麿さまにお会いになりたいと。旦那さまも奥さまもお出掛けになられておりまして」

「そう、で、どこに?」

「控えの応接室に」

「わかった、俺に任せて」

「お願いいたします」

 文月が下がると武は夕麿に向き合った。

「夕麿、六条 陽麿さんが来てるそうだよ」

「え…お父さんおもうさんが…」

 夕麿が顔色を変えた。

「どうする?会いたくないなら俺が会って追い返すけど。夕麿と御園生には関わらない約束だしね」

 夕麿に黙って追い返す事も可能だった。

「会います」

「じゃ、一緒に来て」

 武は夕麿を連れて幾つかある応接室の一つのドアをノックして開けた。

「入って夕麿」

 武は中に夕麿を入らせるとドアを閉めて、敢えてそこに立ったままでいた。

 夕麿は無言で父親の前のソファに座った。

「夕麿…」

「今更、何のご用ですか、おもうさん」

 努めて冷静になろうとしているのがわかる。微かに声が震えていた。

「夕麿、助けてくれ…会社がこのままでは、乗っ取られてしまう…」

 夕麿は武を振り返った。彼はドアにもたれかかって無表情で立っていた。

「私は六条とはもう関係はありません。頼られても困ります」

「せめて…せめて有人氏に…」

「お断りします」

 父親の無様な姿を見れば見る程、夕麿の心は冷めて行く。血の繋がった父親。情に縋って見ていたものが、自分の幻想に過ぎないとわかってしまった。 それでも息子として愛して欲しかった。

「頼む! 頼む、夕麿!」

「佐田川にでも頼めば良いでしょう? あなたは息子の私より、彼らの方が大事だったみたいですから。

 ああ、もう無理でしたね。 あちらがダメなら私ですか?

 今更、捨てた息子に何を期待されているんです? それとも私をどこかへ売りますか?」

 陽麿は夕麿の言葉に息を呑んだ。

「彼女が何をしていたのか、知っていたでしょう? なのにあなたはそれを放置したばかりか、学院の寮に入る手引きをさせる人間を送り込みましたね?」

「し、知らなかったんだ!」

「そんな言い訳が通ると本気で思っていらっしゃるのですか?」

「すまなかった…」

「武さまに重症を負わせ、私も頭部を2針縫う怪我をしました。 一つ間違えば…武さまの生命に関わる事態だったのです。

 それでもあなたは私を頼れると思っていらっしゃるのですか?」

 膝の上で握った拳が震えていた。 武は無言で傍観者に徹している。 全ては夕麿自身が決着をつける事。 血の繋がった父親に慈悲を垂れるのも、無慈悲に拒絶するのも、夕麿次第。武は夕麿がどちらを選択しても受け入れるつもりでいた。

 六条家が経営する企業に、ある乗っ取り屋を通じて仕掛けたのは武の命令だった。 御園生の中にはそういうダーク部分も存在する。佐田川一族の企業の乗っ取りから、その一部が完全に武の命令で動くように有人が手配していた。 佐田川という資金源がなくなった今、元々余り経営状態が良いとは言えなかった六条家の企業は虫の息になっていた。

「私は…おもうさん、あなたを信じていたかった…でも、真実を知った今はもう、あなたを父と呼ぶのはこれで最後にします。

 お帰り下さい。 二度とお目にかかる事はないでしょう」

 夕麿は静かに立ち上がった。

「夕麿、待ってくれ、夕麿!」

 立ち去ろうとする息子に陽麿は這い縋った。

「見苦しいですよ、おもうさん。あなたの摂関貴族の誇りはどこへ行ったのです?」

 夕麿は冷たく父の手を解いて武に歩み寄った。

「終わりました」

 陽麿は武がそこにいるのに、初めて気が付いたようだった。

「武さま…武さま…どうか…」

 今度は武に救いを求めようと手を伸ばす。

「お止めなさい!」

 夕麿は鋭い言葉と同時にその手を足で蹴った。

「あなたは…皇家への尊崇の心も失われたのか!床に触れた手で、武さまに触れるおつもりか!?」

 夕麿の頬を涙が零れ落ちた。

「夕麿、行くよ?」

「はい…」

 ドアを開けて夕麿の手を取って廊下へ出る。

 控えていた文月に頷いて、そのまま夕麿を自分たちの部屋へ連れて入った。

「武…すみません…しばらく、一人にして下さい」

「わかった。廊下にいるから、いつでも呼んで」

 武は部屋に夕麿を残して廊下に出たが、ドアを完全に閉めなかった。ドアの横の壁に寄りかかって、号泣する夕麿の声を目を閉じて聞いていた。

 本当は真実を知らせたくはなかった。母を亡くしている彼から、父親まで奪いたくはなかった。せめて六条 陽麿が詠美の所業を何かの形で、止めようとした形跡が存在したならばここまでの事はしなかった。六条家から詠美を排除するだけで良かったのだから。だが事実は武の願いを虚しく裏切った。詠美の贅沢と経営能力のない陽麿の所為で、六条家の企業は倒産寸前だった。佐田川からの資金援助で、辛うじて生き残っていたに過ぎない。六条家の屋敷も既に抵当に入っていた。それを密かに手を回して、御園生が買い取った。企業の権利もいずれは夕麿に委ねるつもりでの乗っ取りである。むしろ六条家を守る為に武は動いたのだ。だが陽麿には痛い目を見てもらわなければ、気が済まないのも確かだった。

「ごめんなさい…夕麿…」

 愛する人に残酷な決断をさせて幻想を打ち破った。人間はどんな仕打ちをされても親に愛情を求め続ける。憎しみも恨みも根底に愛情があるからこそ強く深くなる。

 武は手で口を塞いでその場に泣き崩れた。ここまでしなければいつか、彼らは夕麿の生命を本当の危険にさらすだろう。もしこれで夕麿が武を憎んだとしても、それだけは防ぎたかった。


 外出から戻った義勝は、この出来事を知って武を怒鳴りつけた。

「何故会わせた!?」

 どんなに責められ非難されても武は黙っていた。全ての責めも憎しみも恨みも、全て受け止めるつもりだった。もしも何もかも失ったとしても夕麿の生命には代えられない。その結果…学院に閉じ込められたとしても。そこまでの覚悟を決めていた。

「やめて下さい…義勝」

 夕麿が血の気のない顔で、リビングに姿を現した。泣き腫らした目が赤かった。

「武を責めないで下さい…」

 泣くだけ泣いた彼が廊下を覗くと、そこには武の姿はなかった。代わりに義勝の怒鳴り声が聞こえた。

「武を許せるのか、お前は!?」

「義勝、一番辛い想いをしているのは、私ではなく武なのです。

 わかりませんか?」

 武はそれでも黙って立っていた。

「わかりませんか、本当に?」

 夕麿の言葉に息を呑んだのは、雅久の方だった。

「まさか…私たちに憎まれるのを覚悟で…?」

 夕麿は頷くと武を抱き締めた。

「武、私はあなたを憎んだり恨んだりしません。全て私の為にしてくれた事でしょう?わかっています。あなたは自分を悪者にして、私を守ろうと考えてくれたのだと」

「どうして…俺を恨まないんだよ!俺は夕麿にお父さんを捨てさせたんだぞ!」

「あの人の真実の姿を見たからです。もうあの人は私の知っていた父ではありませんでした」

「それでもお父さんには違いないだろ…!」

 最後は涙声で掠れていた。義勝はそれを聞いて、やっと雅久の言葉を理解した。

 細やかな気遣いをする優しい武がまるで鬼か悪魔がとり憑いたかのように、残酷で冷酷に佐田川一族を潰して六条 陽麿を追い込んだ。だが本当はその影で血の涙を流していたのだと。残酷な手段という両刃で、自らをも切り裂き続けていながら、武はそれを隠していた。苦しみに我が身を灼き焦がしながら、懸命に笑顔でいたのだ。

「武、もう充分です。これ以上あなた自身が傷付くような事はやめてください。お願いですから…」

「夕麿…ごめんなさい…」

 見上げた顔は苦情に満ちていた。啜り泣く武を夕麿は優しく抱き締めた。



 3学期が始まった。

 特待生の本年度の授業はほぼ終了しており、武たちは生徒会の引き継ぎに多くの時間を費やしていた。外部編入の武にはまだまだわからない事が多く、PCファイルとアナログのファイルとの格闘が続いている。

「武君、お茶が入りましたよ?」

「すみません…こっちへ持って来て下さいますか?」

「あんまり根を詰めると、逆効果ですよ?」

 お茶を持って来た雅久が言うと武は笑顔で答えた。

「途中で中断すると、訳がわからなくなるから」

「毎日遅くまでいるみたいですけど、時間はまだまだあるのですから」

「わかってるんだけどね」

 雅久は一見、屈託のないように見える武に内心溜息吐いた。意図して皆から距離を置いている気がした。

 原因は恐らく義勝にあった。武がやった事の理由は理解したが、やはり夕麿を深く傷付けた事を許してはいなかった。あれから武と一言も言葉を交わしていない。夕麿たちと交わす戯れ言の会話も武が加われば、義勝は席をはずしてしまう。だから武は皆と一緒にいるのを極力さけた。覚悟していたとは言え針の筵が続いていた。距離を置けば不安が増す。

 武は次第に全員に責められている気分になっていた。夕麿が優しければ優しい程、不安と疑心暗鬼に心がキリキリと締め付けられて呼吸すら辛く感じた。それでもやらなければならない事をやったのだと、自分に言い聞かせて耐える日々が続いていた。

 間もなく後期試験もある。

 憂いている暇がなくなる程の多忙さが返って有り難がった。夕麿は生徒会長の任期の終了後、白鳳会の会長に就任する。白鳳会の会長に引き継ぎはない。ましてや前任者である司は既にこの世にはいない。彼は武に引き継ぎの資料を渡して、白鳳会の資料と教職員との会議に忙殺されて、この事態を未だ知らないままだった。二人が顔を合わすのは寮の部屋に戻ってから。一人生徒会に残り、最後に食堂に武がいる事も知らない。そして雅久たちも夕麿がこの事態を知らないとは思っていなかった。

 ズレた歯車が少しずつ、食い違いを初めているのに、誰もが多忙過ぎて気が付かないでいた。

 ある朝、珍しく全員が食堂で顔を合わせた。

「久しぶりに揃いましたね」

 何も知らない夕麿が笑顔で言うと、全員が慌てて笑顔をつくった。

「武、それだけですか?」

 武の手にあるトレイに乗っている物を見て夕麿は顔を曇らせた。オレンジ・ジュースとリンゴしか乗っていない。

「…また、食べられないのですね?いつからです?」

 武がストレスを溜めて行く過程で、飲食に明らかな変化が現れるのを、さすがに夕麿は把握するようになっていた。少しずつ食が細くなり、固形物を拒絶するようになる。無理に食べれば嘔吐を繰り返し、足りないカロリーをオレンジ・ジュースで補うようになる。だがそれも受け付けなくなると、ミネラル・ウォーターしか嚥下出来なくなる。そうなると倒れたり高熱を発するのは時間の問題だった。

「大丈夫だよ、夕麿。試験前で少し落ちているだけだから」

 見せる笑顔が返って痛々しい。夕麿が全員に視線を走らせると、一人を除いて皆、視線を彷徨わせた。義勝だけが強い眼差しを夕麿に返す。睨み返すとフイと視線をそらした。

「武、これを」

 夕麿は目玉焼きの半熟の黄身をスプーンにすくって差し出した。

「さあ、食べなさい」

 半ば強制されて、武はそれを口に入れて嚥下する。

「全く…大丈夫だって」

 武は笑いながらオレンジ・ジュースを手にする。一気に飲み干して立ち上がった。

「先、行くね?」

 トレイを手に行ってしまう。夕麿は手にしていたフォークを叩き付けるようにして、食事を中断して武の後を追って退席した。残された者たちは苦い顔で見送るしかなかった。

 食堂を出た武はトイレに飛び込んだ。だったひと口の黄身が今の武には負担になる。胃の中を全て吐き出して、口をすすいで鏡の中の自分の顔を見た。青ざめた顔に嘔吐の苦痛で流れた涙の跡があった。顔を洗って鏡の中の自分に笑いかける。まだ大丈夫だと自分に言い聞かせて、廊下に出ると夕麿が立っていた。無言で抱き締められた。

「一人で苦しまないで下さい…」

 こんな事になっていると、今の今まで知らなかった後悔が胸を満たしていた。

「部屋へ戻りましょう」

「何言ってんの、この忙しい時に」

「1日休んでどうにかなるものでもありません。身体を少し休めて下さい…倒れてからでは遅いのです」

 高辻医師には既に連絡してあった。


 武を高辻医師に預けて、夕麿は親友と対峙すべく生徒会室に足を運んだ。

「義勝、話があります」

 会長執務室のドアを開けて、感情を押し殺した抑揚のない口調で告げた。義勝は無言で従う。

「あなたは以前、私を傲慢ごうまんだと言いましたね?今その言葉をそっくりそのまま、あなたにお返しします」

「武のやった事を俺は肯定する事は出来ない」

「あなたは第三者に過ぎない。あれは私と六条の問題だったのです」

 夕麿は言葉を切ると義勝を睨み付けた。

「あなたは武を傷付けた。そんな事をすれば彼がどうなるかを知っている筈です」

「その前に武はお前を傷付けた!」

「だから何だと言うのです!武は自分のしている事のリスクを理解しています」

「だからと言ってやって良い事と悪い事があるだろう!」

「あなたにその裁きを下す資格があるとでも言うつもりですか!」

「誰もそんな事は言ってない!」

「武が何故、あなたの態度についてもこんな状態になっているのも、私に言わなかったかわかりますか?」

「お前にバレたら不利だからだろうが?」

「本気でそれを言うのですか…武の性格を知っていながら?

 わかりました。どうやらあなたとの友情はここまでのようですね…武が悲しむでしょう。彼はあなたと私が仲違いするのを、一番心配していました。私にとってあなたが最も大切な友であると武は知っているからです。……あなたと武、私に選択しろと…言うのですね、あなたは?

 私が武を切り捨てれば彼は生涯、この学院からは出られなくなります。私がそんな残酷な選択は出来ないと、わかっていながら…選べと言うのなら私はあなたを切ります。

 話はそれだけです」

 夕麿は義勝にそう言うと踵を返して出て行った。

 入れ違いに貴之が入って来た。言葉をなくして立ち尽くす義勝に今度は彼が向かい合った。

「どこまで頑固なんだ、お前は。夕麿さまにあそこまで言わせて……武さまを非難するなら俺も一緒に非難しろよ、義勝。俺は武さまのやってる事に協力した。武さまが徹底的にやったのは、六条 詠美が夕麿さまの生命を脅かす危険があったからだ。

 陽麿氏は彼女を六条家から出した。六条の企業の経営陣から追われても、まだ内部に留まる条件として提示されてな。

 彼女は佐田川一族の犯罪に加担していたとして、逮捕された。

 抵当に入って競売にかけられる寸前だった、六条家の屋敷を買い取り、企業の株を買い取るのにどれだけの資金が必要だったか、お前は知っているのか?武さまは有人氏に手をついて借金をしてまで、10数億の資金を用意したんだぞ」

「それがどうした。だからと言って武がやった事の言い訳にはならない」

「おまえは…これだけ言ってもわからないのか?

 いいか六条の屋敷の権利書の名義は、夕麿さまになっている。企業の株もいずれ時期を見て、夕麿さまに渡るように手配されてある。それでも一度、夕麿さまは実家と切れる必要があったんだ。

 夕麿さまより身勝手に自分の保身ばかりを考える陽麿氏に、本当に大切なものは何であるのかをわからせる為に。

 夕麿さまにしても現実を受け入れるべきだった。ご本人がそれを悟られて、親友のお前がわからないとはな」

 貴之は深々と溜息吐いて義勝の顔を見つめた。

「いい加減、自分の非を認めろ、義勝。本当に夕麿さまを失うぞ?

 おまえにとっても夕麿さまにとっても、互いに唯一無二の親友だろうが」

 義勝の視線と貴之の視線が絡み合いぶつかり合う。先に目をそらせたのは義勝だった。

「話にならん」

 そう言うと貴之に背を向けた。

「愚か者め!」

 その言葉に鼻で笑って義勝は会長執務室を後にした。生徒会室の視線が一斉に集まる。だが彼は平然と見返し副会長執務室へと消えた。

 雅久が席を立って後を追う。

「義勝」

「何だ?」

「何だじゃないでしょう?夕麿さまに謝って下さい」

「その必要はない」

「何故です!あなたは夕麿さまをとても大切に思っていたではありませんか!」

「選んだのは夕麿だ」

「当たり前でしょう!?あなたは比べてはならないものを、夕麿さまに比べさせたのですよ!?」

 生徒会室を立ち去る夕麿の顔は苦汁に満ちていた。

「武君を非難するあなたが、夕麿さまを傷付けてどないするんです!」

 冷静に話すつもり、義勝の態度を見てさすがの雅久も激する。

「お前には関係ない」

「ほんまに関係あらへんと、言わはりますか?義勝…忘れてはりませんか?

 武君は今は私の義弟や。義兄として大事な義弟を傷付ける人と共に歩く事は無理です」

 そう言うと雅久は、左手の薬指の指輪を外してデスクに置いた。次いで首に鎖に通して着けていたスクールリングを外しこれもデスクに置いた。

「私のスクールリングを返して」

 義勝は差し出された彼の手に、無言でやはり鎖に通して着けていたスクールリングを外して渡した。

「これがあなたの答えなんや。親友の夕麿さまより、私より…あなたは自分の意地を取るいわはるんや?」

 だが義勝は雅久に背を向けて沈黙を守った。

「わかりました。部屋は今日中に貴之の方へ、移らせてもらいます」

 雅久は返された自分のスクールリングを握り締めて、静かに副会長執務室から出た。

「雅久…良いの?」

 麗が余りの出来事に顔色を失っていた。

「貴之、引っ越し手伝うてもらえへんやろか?」

 雅久は麗に哀しげに微笑んでから貴之に声をかけた。

「雅久…本当に義勝と別れるつもりなの?そんな事したら、武君が泣くよ?」

「そやね……でも許せへん。」

 他の人間ならば愚かだと嘲笑ってすませる。だが義勝の行動ならば許せないと思ってしまう。愛しているからこそこんな暴挙は許せない。

「僕は中立でいるよ。全員が夕麿さま側って、ダメだと思うし…引き続きに支障が出ても困るでしょ?」

 悲痛な面持ちの雅久を励ますように麗が笑顔で告げた。

「おおきに、麗」

 麗の心遣いに雅久は頭を下げた。

「我々一年生執行委員も、介入干渉はしません。通常通り引き続き業務を行わせていただきます」

「お願いします」

 夕麿を会長に頂く本年度生徒会は、非常に結束の堅い事で知られていた。義勝は夕麿が手が回らない事柄や、気付かない事を完全なまでにサポートして来た。武が絡むと時折見境がなくなる夕麿を諫めたり、ブレーキをかけさせる事が出来たのも義勝ただ一人だった。それが年度末の引き継ぎ時期になって、こんな亀裂が入るとは…誰も予想出来なかった。

 部屋の引っ越しの為に雅久と貴之が寮に戻って、生徒会室に残った者は頭を抱えた。

 打開策が見付からない。

 そして…あろうことか控え室の生徒が一人、朝一番の書類を受け取りに来て、一部始終を目撃してしまったのである。生徒会の中ならば外部に漏れる事はなかった。だが控え室の生徒にはそこまでのモラルも責任もない。

 この日の夕方には多少の尾鰭おひれがついて、この事態が学院中に噂が広がってしまった。


 夕麿は自室の机に飾っていた、クリスマスの時の写真を引き出しに入れて寝室に戻った。

「夕麿…何かあったの?」

「いえ、何もありませんよ?ここの所の忙しさで、少し疲れ気味なだけです」

「だったら良いんだけど…」

「あなたは余計な心配をしないで今は休んで下さい。何か食べられそうな物はありませんか?」

「リンゴ…の摺り下ろしたのなら、食べられるかも」

「食堂に注文しましょう。私が作れれば良いのですが…残念ながら、皮も剥けません」

「しなくて良いよ…指を切ったり、卸し金で摺ったらどうすんの」

 武が苦笑する。夕麿が無理して摺り下ろしリンゴは、何だかちょっと怖い気がする。彼は鋏やカッターナイフすら滅多に使わない。何かを切る作業なぞ他の者が予め済ませるのがここの常識である。

「他に何か入りますか?」

「飴なら、大丈夫かもしれない」

「わかりました、買って来ましょう。一人で大丈夫ですか?」

「小さな子供じゃあるまいし…」

 膨れる武の頬をつついて、笑いながら買い物へと夕麿が出て行った。武はそっとベッドから立ち上がり夕麿の部屋を覗いた。誤魔化されたふりをしたが、夕麿が武の体調を推測出来るように、武だって夕麿の微妙な変化がわかる。室内を見渡して机の上にある筈のフォトスタンドがないのにすぐに気付いた。

「やっぱり…」

 考えられる事はひとつしかない。義勝と揉めたのだ。武は胸が痛くなった。肩を落としてベッドに戻る。事態は悪い方にばかり行く。やった事を後悔してはいなくても、理解してもらえないのはやはり辛く哀しい。何よりも親友同士が仲違いしてしまったらしい事が辛い。親友より自分を選んでくれた事を、喜ぶなど絶対に出来なかった。

 特別室の玄関扉を開けると、荷物を持った雅久と貴之が廊下を移動している最中だった。

「何事ですか?」

「引っ越しをしました」

「引っ越し?どういう事です、雅久?」

「…義勝と別れました」

 告げられた言葉に夕麿は絶句した。

「それで、夕麿さまはどちらに?武君をお一人にされて大丈夫ですか?」

 雅久は何事もなかったかのように微笑んで聞いて来る。

「あなたは…それで良いのですか?私と武の問題に…あなたまで…」

「武君は今は私の義弟ですから。

 それで…どこへ?」

「あ…摺り下ろしたリンゴなら食べられると言うので…食堂に注文に。

 あと、飴を買いに」

「私が参りましょう。摺り下ろしたリンゴなら私が作ります。夕麿さまは武君の側にいらして下さい。

 貴之、これが最後ですからお願いします」

「わかった。」

「では夕麿さま、後ほど伺います」

 エレベーターホールに向かう雅久を、夕麿は言葉を失ったまま見送った。

「貴之、生徒会は…どのようになっていますか?」

「麗が…中立を買って出てくれました。一年生執行委員も同じです。

 雅久は…義勝を諫めに行ったのです。けれど彼は雅久の言葉にすら耳を貸しませんでした」

 貴之は副会長執務室から聞こえて来た話を夕麿に掻い摘んで話した。一緒に武に口止めされている事以外の自分と義勝との会話も。

「そうですか…貴之、この事は武には話さないようにお願いします」

「黙っていても武さまにはわかってしまうと思いますが…」

「わかっています」

「一応、雅久にも話してはおきます。どうぞ武さまのお側にお戻りになって下さい」

「貴之、雅久を頼みます」

「お任せ下さい」

 頭を下げる貴之を残して夕麿は特別室に戻った。今知った事実に自分が激しく動揺しているのがわかっている。そんな状態で武の側には行けない。夕麿は心を落ち着かせるべくそのまま静かに瞑目した。武の為に生きると誓ったのだから。夕麿を目を開いてゆっくりと歩き出した。リビングを横切り螺旋階段を上がって行く。

 深呼吸をしてから寝室のドアを開けた。

「あれ、夕麿、早くない?」

 武が驚いた顔で出迎えた。

「そこで雅久に会いましてね。彼が作ってくれるそうですよ」

「何でこんな時間に、兄さんが寮にいるの?」

 体調を崩した武の為に夕麿が戻って来たのはまだ理解出来る。だが雅久が戻る理由がわからない。

「本日は散会になったそうです。

 雅久の引き継ぎはほぼ終了したみたいですし、貴之も風紀委員長の引き継ぎは終わらせていますからね。麗はまだ残っているようですが…少し今年は全体的にペースが早過ぎなんです」

「そう…なの?」

「昨年の引き継ぎは、2月末ギリギリまでかかりました。引き継いだ後も大変でしたけどね」

「大変なの?」

「前任者も前々任者も、面倒な事は全部放置して、私たちに押し付けてくれたのですよ…」

「前任者って…慈園院さんだよね?前々任者って…周さんか…」

 何となく状況がわかる気がして、武は天を仰いだ。

「恐ろしくやる気のない会長を2年続けて抱えていたんです」

「あははは…それは、お気の毒さま……それでもよく動いたね、生徒会」

「笑い事ではありませんよ、武。私は一度、春休みに外出しましたが、途中で切り上げて帰って来て、処理に連日連夜大変だったのですから……それでもそれぞれの副会長がまだ、有能でしたから何とかなったのです。

 あなたをゲートに迎えに出た前日に、目途がついたばかりでした」

「そうなんだ…」

「今となっては良い思い出です」

「……あのね、夕麿の会長記章、もらえない?」

 会長記章は毎年新しいものが用意される。何代目の会長なのか、各自の記章に刻印されたNO.を見ればわかるようになっている。夕麿で81代目の会長で、武が82代目の会長として間もなく就任する。

「ではこうしませんか、武?

 私が卒業する時に互いに交換しましょう。学年記章も置いて行きます、使って下さいますか?」

「うん…ありがとう」

 夕麿が旅立つ日へ少しずつ近付いている。その事実が辛い。

「じゃあ…交換しよう」

 夕麿が使っていた物をたくさん身に着けていたら、寂しさは少しは薄れるのだろうか?

「武……」

 シーツごと抱き締められ重ねられた唇を貪り合う。余裕のない口付けが、夕麿の心の内を表しているようだった。

「…ンン…」

 両腕で夕麿の背を抱く。

「愛してます、武…」

 真っ直ぐな瞳に、麿の決意を感じる。小等部からの親友を捨ても武を選ぶと。胸が痛かった。原因は自分にあるのだから。だから義勝と話してみようと思った。このままではいけない。このままで良い筈はない。

 クリスマスの幸せが遠く感じられた。


 次の日、武は登校した。心配してやめさせようとする夕麿に、一般授業に出ると言って無理やり納得させたのだ。2年生の前期の単位まで取得した武には今更、一般授業は必要ではない。だが2年生になると完全な成績別のクラス分けがされて、今のクラスはバラバラになる。

 板倉 正己の事件以後、クラスメートは皆、優しく接してくれた。武は1年生の残りの時間を彼らと過ごしたかった。生徒会の引き継ぎに時間的余裕があると言うならば。

 夕麿はその気持ちを尊重して、1-Aの教室まで武を送って来た。昨日の生徒会室での出来事が、既に学院中に広がっているのをまだ知らなかった。武と並んで歩いていると一般生徒たちの視線が絡み付いて来る。疑問に感じながら武と1-Aの教室の前で別れてしまった。

 教室に入ると一斉に視線が集中する。 戸惑いながら席に着くと隣の席の生徒が話し掛けて来た。

「えっと…あの、大丈夫なの?」

「体調は大丈夫…って何?」

「いや…今、生徒会が大変そうだから…」

 妙に歯切れの悪い口調に武は嫌な予感を感じた。

「みんなが見てるけど、何なの? 俺、昨日は夕麿に部屋に閉じ込められてたから、よくわからないんだけど?」

「え!? 聞いてないの夕麿さまから?」

「隠し事はされてるとは思ってる」

「高等部中でもう、噂になってるけど…」

 生徒会室での出来事が噂になる。 次期会長としてはそれは由々しき問題だと思って詳しく聞く事にした。



 義勝は四面楚歌の中で、副会長執務室で引き継ぎの為のファイルを整理していた。

 朝、登校してみると生徒たちの視線が突き刺さって来る。 見回すと誰もが視線をそらしてそそくさと逃げ出す。 生徒会室に行くと麗が噂が広がっていると耳打ちして来た。

 すぐ後に遅れて来た夕麿も、それを聞かされて顔色を失った。

「武を今、一般教室へ送って来たばかりです…」

 すぐにとって返そうとしたが、昨日休んだ分の仕事が入って、身動きがとれなくなってしまった。 間の悪い時には幾らでも雑多な事が重なり身動きがとれなくなる。 誰もが時間と武を気にしながらも、自分の目の前にある事柄に忙殺されていた。


 バインダーを積み上げて、PCのキィを叩いていると喉が乾く。いつもならこの辺りで、雅久がタイミング良くコーヒーを入れて持って来る。

 だが今日はもう……

 昨日寮に帰ると彼の荷物がなくなっていた。自分の気持ちを雅久ならわかってくれると思っていた。けれど現実は違った。

 不意に携帯のメール着信を知らせるメロディーが鳴る。液晶画面に武の名前が浮かび上がっていた。

〔義勝先輩、二人で話がしたいです。すみませんが寮まで、戻って来ていただけませんか?なるべくみんなには、知られないようにお願いします〕

 義勝は了承の返信をして適当な理由をつけて生徒会室から出た。一般教室では授業が始まっている。人影のない敷地を抜けて特待生寮へと急いだ。

 義勝の部屋で二人は対峙した。武は床に正座して手をついて頭を下げた。

「お願いします。夕麿と兄さん…二人と仲直りして下さい」

「断ると言ったら、お前はどうするんだ?」

 意地悪く問い掛けてみる。

「では俺がどうすれば、義勝先輩は納得して下さいますか?」

 ソファに座る義勝を真っ直ぐに見つめた。

「そんな事は自分で考えろ」

 答えなどないのは義勝にもわかっていた。無理を承知で意地を通そうとしているのだ。

「わかりました。では答えが見つかるまで、ここにいさせてもらいます」

 自室には置き手紙をして来た。腹を据えて説得するしかない。

「勝手にしろ」

 言い捨てたものの武がここにいる限り生徒会室にも戻れない。武は正座したまま身じろぎひとつしない。義勝もソファに座ったままでいる。

 時間だけが過ぎて行った。昼食の時間を過ぎても二人は動かない。

 見つめ続ける武の眼差しが痛くて、ふと視線を窓にやって息を呑んだ。外はいつの間にか雨になっていた。武も首を伸ばして窓を見て息を呑む。

「雨…大変だ…夕麿がまた、発作を起こす…」

 慌てて携帯をポケットから取り出し切っていた電源を入れた。

〔武さま、今どちらにいらっしゃいます?〕

 貴之の切迫した声が事態を告げていた。

「寮に…います」

 恐らく何度もかけていたのだろう。電話の向こうから少し安堵した貴之の声が響いた。

「夕麿は?またパニック発作を起こしてるの?」

〔はい、降り始めた時に折り悪く渡り廊下にいらっしゃって…今は生徒会室にいらっしゃいます。

 武さまとご連絡がとれないので、高辻先生に来ていただきました〕

「良かった…ありがとう」

〔先生と代わります〕

「あ、うん」

〔武さま、どちらにいらっしゃいますか?〕

「寮にいます」

〔寮のどこにいらっしゃるのですか?〕

 さすがは精神科医である。武が自室にいない事を彼は見抜いていた。

「義勝先輩の…部屋にいます。あの…夕麿は…」

〔大丈夫です。今は落ち着かれました。

申し訳ありませんが、夕麿さまのお着替えをご用意願えますか。

 それと……葦名君とかわって下さいますか?〕

「はい。義勝先輩、高辻先生が」

 義勝は差し出された携帯を受け取った。

「はい、葦名です。……はい、わかりました。貴之の迎えを待って、武をそっちへ戻らせればいいのですね?……はい、俺はここで待っています。

 承知しました……武」

 武は返された携帯を手に、もう一度高辻医師と会話する。

「では夕麿の着替えを持って貴之先輩を自分の部屋で待ちます」

〔そうなさって下さい。

 それからそちらの件は私にお任せ下さい〕

「え!?あの…でもこれは…」

〔大丈夫です、武さま。私にお任せください〕

「わかりました。お願いします。」

武は携帯を切るともう一度、義勝に手をついて頭を下げた。

「すみません…夕麿が心配なので」

「ああ、わかっている」

「はい、ありがとうございます」

 武は立ち上がると義勝の部屋を飛び出した。特別室に戻って夕麿の部屋のクローゼットから、彼の制服を含めた衣類を全て取り出して袋に入れた。

「タオルとかも持って行った方がいいかな」
 
 螺旋階段を降りてリビングに立つと、窓越しにさらに雨が激しくなったのがわかる。寮に戻って来た頃には青空が広がっていたと言うのに…外には夕麿が一番嫌いだと思う冬の冷たい雨が降っていた。

 すべて用意して出入口で待つ。本当はすぐにでも飛び出して行きたい気持ちだった。夕麿が心配だった。一刻も早く生徒会室へ戻りたい。1分1秒が果てしない時間に感じられた。

 貴之が来てすぐに荷物を手に寮から生徒会室のある特別棟へ走る。傘が邪魔になるが差さないわけにもいかない。ただ貴之がレインコートを貸してくれたので、身体はさほど濡れる事はなかった。

 生徒会室の扉の前で一度立ち止まり乱れた息を落ち着かせる為に深呼吸してゆっくりと開いた。大きな音は発作に響くからである。

「武君!」

 雅久の声に視線を移すと、彼のすぐ横に夕麿が頭から毛布を被って座っていた。その後方で千種 康孝が夕麿の詰め襟を、ドライヤーで乾かしているのが見えた。

 武は息を呑んだ。着替えをと言われた事から予想はしていたが、やっぱり雨に打たれてしまったらしい。慌てて夕麿に近付いた。

「夕麿、ごめん……」

 声をかけると俯いていた夕麿がゆっくりと顔を上げた。長いまつげが濡れている。

「側にいなくてごめんね」

 身を屈めて顔を覗くと抱き付いて来た。

「武……武……」

 声も手も抱き返した身体も震えている。雅久が立ち上がって夕麿の横に座らせてくれた。今まで彼が代わりをしてくれていたらしい。

 雅久はその手で落ちた毛布を掃って拾ってかけ直すした。普通は床に触れたものを、身分の高い者に渡す事はない。だが夕麿は他者が使用した毛布に触れるのを嫌う。生徒会室には仮眠用の毛布が何枚か用意されているが、夕麿には専用の物が用意されているが何枚もあるわけではない。。肌に直接触れる物を他者と共有するのは、夕麿にとっては直接触れられるのと同じ感覚だった。

「シャツも濡れてる…」

「申し訳ありません、武さま。嫌がられまして……」

 この状態の夕麿は触れられるのを極端に嫌がる。もっともこんな所で脱がしてもらっても困る。清方にしても濡れたままでは身体が冷えてしまうのはわかっていた。だがこの状態の夕麿には武だけが触れる事が出来るのだ。

「執務室に連れて行くから荷物をお願い。それと温かい飲み物を」

「わかりました、すぐに」

 雅久が答えると武は頷いて夕麿を立たせた。

「風邪ひくからあっちで着替えよう、夕麿。寒いだろう?」

 夕麿はもう一度確かめるように武を見た。

「武……?」

「そうだよ」

 武が答えると頷いて手を引かれるままに執務室へと入って行った。

 程なく武が着替えた夕麿を連れて執務室から出て来た。まだ不安そうに周囲を見回す姿が、常の夕麿とは余りにもかけ離れている。

「貴之先輩、状況を説明して」

「はい。雨に気付いた時、夕麿さまは高等部々長室からここへ、移動されている途中だったと思われます。校舎から特別棟へ渡る2階部分の渡り廊下に、立っていらっしゃるのを発見した時には、吹き込む雨にかなり濡れていらっしゃいました。

 下河辺と二人で、放心状態の夕麿さまをここにお連れしましたが…」

 その後は錯乱状態に陥った夕麿が武を呼んだ為、貴之が携帯に呼びかけ続けていたと言う。持って来たタオルでまだ湿っぽい髪を拭うが、夕麿はまだ身体を震わせている。これは身体が冷えているからだろうか。それとも幼い頃の記憶が恐怖を呼んでいるのだろうか。毛布をかけ直して抱き寄せた。少しでも温めようと、抱き締める手を強める。

 初めて目撃する一年生執行委員たちは、錯乱状態の夕麿に慌て、今また、武に幼子のように縋る姿に絶句する。高辻医師はこの状態を彼らに昨年の事件によるPTSDだと説明していた。

 板倉 正巳の事件と寮で怪我を負わされた事件…双方の出来事が元々余り雨が好きでなかった事と結び付いた結果だと。夕麿の性格から鑑みて心の傷は相当なものであると説明され、1年生の執行委員は深く頷いていた。

 寮の件は表向きは金目の物を狙った賊の仕業…という説明がなされている。夕麿に名誉にキズがつかない一番の説明がなされただけに過ぎない。本当は発作状態の夕麿を人に見せたくはない。一年生執行委員はさぞかしショックだろう。

 夕麿は高等部全体、それこそ教職員に至るまで、カリスマ的な存在として見つめられて来た。如何なる時にも取り乱さず、事態に冷静に的確に対処するので、絶大な信頼を誰しもが抱いていた。他者に触れられるのを嫌うのも、彼の高貴さ故と解釈されて来た程だ。

 生徒会室内では武に対して手放しにいちゃつくので、生徒会執行委員には多少、完璧過ぎる見せ掛けは揺らいでいたかもしれないが……それでも錯乱状態になった姿は、彼らには受け入れ難いかっただろう。

 夕麿はまだ武に縋って震えている。雨に対する恐怖心もあるだろうが、やはり体温が下がったままなのだろう。 

「武君、これを」

 雅久がロイヤルミルクティをテーブルに置いた。

「ありがとう、兄さん」

 武の肩に頬を乗せて抱き付いている夕麿の背を撫でて耳元にそっと囁く。

「夕麿、お茶のもう?温まるよ?」

 夕麿は少し身体を離して武を見つめて甘えるように言った。

「飲ませて…」と。

 武はカップを手に取るとひと口含んで自分を見つめる夕麿に唇を重ねた。流し込まれたミルクティを嚥下して、そのまま舌を絡めて来る。その舌を押し戻しながら吸うと、甘い声をあげて身体を震わせる。

「あふン…」

 初めて聞く夕麿の悩ましげな声に、一年生執行委員は慌ててふためいた。ある者は鼻を押さえ、ある者は生徒会室から飛び出した。

「武君、加減して下さい…ここは、生徒会室ですよ?」

「あ…ごめん…つい…」

 責め受けどちら側でも夕麿に求められると弱い。つい応じてしまう。それでもここではとうっとりと武を見つめる夕麿の濡れた唇に、ティーカップを当ててみると首を振って嫌がる。

「しょうがないなあ…」

 武は苦笑した。恐らくは今の夕麿には武以外は認識されてはいないのだろう。人がいてもそれが誰であるのかがわからないのかもしれない。あるいはわかりたくないのか。強い恐怖と嫌悪がもたらす混乱の中に武だけが光を与えるのだ。ただそれにすがるしか今の夕麿には術がなかった。



「それで…俺に何の話ですか、高辻先生」

「今日は医師としてではなく、同じ道を目指す先輩として来ました」

「全く…どいつもこいつも、俺を諫める事しか考えない…」

「諫めるつもりはないですよ?ただね、あなたの気持ちは分析出来るんですよね、私は」

「医者をやってるじゃないか」

「使えるものは使うってだけです。

 ね、葦名君。寂しかったのでしょう?ずっと夕麿さまの保護者みたいな存在だった。誰も寄せ付けなくなられた夕麿さまに対して、あなただけが特別だった。

 今ではあなただけが知っている、昔の泣き虫で小柄な夕麿さま…あなただけがずっと傍らにいて守って来た」

「何が言いたいんです?」

「武さまはあなたに出来なかった事、わからなかった事をなされる方でしょう?しかもとても的確で夕麿さまはすっかり彼に、依存に近い信頼感を抱いておられます。

 でもそれはあなたが最も欲するものだった。親友と言えども夕麿さまは一定の距離を保って、それ以上は幼馴染みであるあなたにも踏み込ませる事は許さないでおられた。だから夕麿さまの精神的な壁を超えた武さまにあなたはずっと嫉妬していた。

 たとえ恋愛ではなくても似て非なる感情、『独占欲』というものを夕麿さまに対して持って来た筈です。

 違いますか?」

 真っ直ぐで射抜くような眼差しで高辻は義勝を見つめた。

「自覚はしてはいないようですね。あなたは武さまを可愛がっていたから認めたくないのかもしれませんが……

 夕麿さまに危害を加えようとする存在の繰り返しの凶行に、あなたは傷付いてしまった彼に為す術もないままです。けれど武さまはあなたが決して踏み込めなかった場所へ、夕麿さまの心の中へ入ってしまわれる」

 そうだ。武と出逢い結ばれてからは一番近かった筈の自分と夕麿の間に、誰よりも近い場所にいるようになった。義勝は武にアドバイスは出来るが、さらに踏み込めない領域が大きくなって行った。夕麿が本来持っていた他者を拒絶する壁に、武の防壁のようなものが加わったのだ。そして夕麿はそこに親友では与える事が叶わなかった、安らぎを見出してしまったのだ。

 今回、武は夕麿を傷付けても彼の心を縛るものを取り去ろうとした。血の繋がり等というつまらない鎖を。

 どんな人間にも一度は傷付いて泣いても、前進しなければならない時がある。執着や幻想を打ち壊した向こう側に、初めて見えてくる真実が存在しているからだ。

 武はそれを夕麿に見せようとしたのだ。結果、夕麿にはそれが見えて受け入れられた。だからこそ彼は武を労りはしても、一切の非難は口にしなかった。

「あなたは武さまのご覚悟をわかっていたでしょう?わかった上で、武さまを非難しました。

 あなたはあなたなりに夕麿さまの痛みを代弁したつもりだった……」

「実際に……夕麿は泣いていた」

「自分の中の子供と無理やり決別させられた訳ですから仕方がない事です」

「仕方ない…?精神状態が悪化したら、どうするんだ?」

「私は事前に相談を受けていました、武さまに」

 高辻医師は揺るぎのない眼差しでなおも義勝を見つめる。 耐え切れず視線を外すと高辻医師は溜息を吐いた。

「そう、武さまはね、ちゃんと実行する前に私を訪ねて来られたんです。

 何をどうなさりたいのか。 その場合、夕麿さまが全てを知ってしまったら、どのような影響が出ると考えられるのか。 最小限の影響で済ませられるか、緩和する方法はないか。

 そして……最後の荒療治を、夕麿さまは乗り越えられるか」

 佐田川一族と詠美の企みに武が異常なまでの怒りを見せたのは、事実が彼の予想を遥かに超える残酷非道なものであったからだ。

「御園生 小夜子さま、つまり武さまのご母堂もご存知でしたよ? きちんと武さまのサポートをなさっていたでしょう?

 けれど武さまは私がお話申し上げた事以上に、夕麿さまを支えられました。 心的外傷によるパニック発作は安易には治癒するものではありませんが、夕麿さまの心の片隅にまだ存在していた自己嫌悪の感情から徐々に薄れて行くでしょう。

 今の夕麿さまは子供の自分と向き合う事が、出来るようになられましたから」

 10代はおとなと子供の狭間で揺らぐ。 周囲からはおとなである事を望まれ、要求される。 けれど同時に何も出来ない不安と苛立ちの中で子供扱いもされる。 ただ、巷の10代よりは立場や責任などで明確な線引きが示されているだけ、身分ある者は子供である自覚が強い。

 自分はもうおとなだと主張する限り人間はおとなにはなれない。 それは年齢でも経験でもない。 人間がおとなになる時、それは自分の未熟さを本当に悟った時なのだ。 おとなとは己の未熟さを正面から受け入れて前進する事を決意する。 ある意味、おとなになれない子供の自分を悟って、受け入れた時がおとなになった瞬間だとも言える。

 自分はおとな……そう言っているうちは何歳になっても子供なのだ。 そう考えれば年齢を重ねて老成しただけの子供が、世間には何と多い事であろうか。

「夕麿さまも武さまも、雅久君や貴之君も、自分の未熟さを十分に理解しておとなへのステップを始められました。 葦名君、あなたはいつまで子供にしがみ付いているつもりですか?

 そろそろありのままの自分を認めて歩き始める時期が、自分にも来たのだとおもいませんか。 そうでないと皆さんに、置き去りにされてしまいます」

 子供だと言われてムッとする。 だがそれすら子供である証だと自らが悟ってしまう。

「俺は…ただ、夕麿にこれ以上、傷付いて欲しくなかっただけだ」

「わかっています。けれど人生では傷付くのも傷付けられるのも、必要な事なのだと私は思っています。良い事や楽な事ばかり人間は求めますが、本当に成長させて大きくするのは痛みであると言えるのです。

 夕麿さまが周囲の信頼と尊敬を集められるのは、彼の完全完璧さだけではない筈です。それはあなたが一番知っているでしょう?」

 全ては夕麿が本来的に持っている優しさと、強い責任感からくる弛まない努力の結果であると小等部から一緒の義勝は知っている。武が編入しその出自が明らかになるまで、高等部で最も高い身分の存在として、彼は常に『貴族の義務』を心掛け努める事に心血を注いで来た。義勝にとって夕麿は庇護すべき存在であるのと同時に、幼なじみの親友として尊敬し誇れる存在でもあった。

 武と出逢って惹かれ合い結ばれる事で、夕麿の本来の姿が剥き出しになって来た。それを魅力的だと思う反面で自分の手から離れて行くようで、寂しかったのを今更のように義勝は自覚した。

 雅久が夕麿に対して恋愛感情を持った事がないのかと、嫉妬混じりに問われる筈である。恋愛ではないが…どこか、自分の所有物のように思っていたのではないだろうか。

「わかったみたいですね。今回の事は意見の相違という部分もあったでしょう。でもあなたの夕麿さまに対する過保護が原因でもあるのです。

 仲直りなさい。夕麿さまだってすき好んで、あなたと仲違いをされたわけではないのですから」

「許してもらえるでしょうか…?」

「当然でしょう?武さまにも謝罪なさい。順序から言っても彼の許しがまず必要でしょう。

 さあ、生徒会室へ。どうやら雨も止んだ様子です」

 高辻医師に促されて廊下に出ると、ちょうどエレベーターが上がって来てドアが開いた。中から夕麿の手を引いた武と荷物を手にした貴之が出て来た。

「落ち着かれたのですね」

「はい。やはりあのままでは身動きがとれませんし、風邪をひくといけないから」

 武が答えると夕麿が背後で顔を上げ、高辻と義勝を見た。その顔に怯えはもうない。
 
「夕麿は…雨に打たれたのか?」

「お探しした時にはかなり」

 貴之が答えた。

「まあ…夕麿は見た目を裏切るくらい丈夫だから、少々の事では風邪はひかないとは思う」

 武に向かって苦笑混じりに言う。義勝はずっと心の中でモヤモヤしていたものが、すっきりと晴れているのを感じていた。そしてそんな彼の様子を見て、貴之が安堵に胸を撫で下ろした。

 人間は互いに支えて生きる存在だ。どんなに意地を張っても一人では生きて行けない。一人でも生きれると思うのは傲慢でしかない。食物ひとつにしても生産者がいて流通が存在した上に、他の生命を貰って生きる為のエネルギーにしているのを忘れてはならない。

 この世に誕生する時は誰しもがひとりだ。死ぬ時もひとりで旅立つ。だからこそ愛される事を求め、愛する事を欲する。友を求め家族を想う。ひとりだからこそ、一人では生きて行けない。それこそが、人間という生き物なのである。




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