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旅立つ者 残る者
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GWに夕麿たちのUCLAへの入学許可が出て、武は胸を撫で下ろしたと同時に、寂しさが胸を満たすのを感じていた。 たった1年だと自分に言い聞かせても、その1年の長さに不安を感じてしまう。夕麿は今、高等部々長に呼び出されて部屋にはいない。 広い部屋に一人でいると寂しさを否応なく自覚してしまう。 こんな寂しさに1年、耐えて頑張らなければならない。 夕麿以外の誰かを同室に迎える事は出来ない。 第一、夕麿の部屋に別の誰かが生活するのを他ならぬ武が見たくはない。
「趣味を増やすかなあ…」
この学院に来て立場上、習い事が増えてしまった。 それらは皆、夕麿たちが武に指南している。 彼らは自分たちの卒業後の手配はしてくれたが、それも寂しさを募らせる一因だった。
自分でも女々しいとは思う。 この1年、皆にどれだけ大切にしてもらって来たのか。 自分がどれだけ甘えていたのか今更ながら自覚する。せめて…残る者として引き継いだものだけでもしっかり守りたいと生徒会の業務に没頭するが、気が付いたらそれも夕麿たちの作成したマニュアルに助けられている。本当に自分は会長に相応しいのか。 身分だけでその椅子に座っていないか。 前任者が司や周ならば、武はこんなに悩まなかったかもしれない。 武は夕麿という理想を見続けてしまった。憧れから入った想い。 だからこそ消えない。
『私になる必要はありません。 あなたはあなたらしい会長になれば良いのです』
夕麿の言葉の意味はわかる。 しかしまだ武には自分らしさとは何かがわからない。 わからないから見付けられない。 行長と敦紀を見ていると自分の不備ばかりが見えてしまう。
ああ……またこんな事をウダウダと……
自己嫌悪の迷宮には出口はあっても、自分で辿り着くのは安易な事ではない。 ぐるぐると同じ所を回り続ける思考を打ち切って、時計を見ると昼食の時間になっていた。
武は高辻医師に紹介された新しい主治医に、処方してもらった薬を飲み包みを処分して食堂へと向かった。 出来る事をやれば良いのだと自分自身を叱咤して。
夕麿たちの卒業まで、既に2ヶ月を切っていた……
高等部々長に呼ばれて足を運ぶとすぐさま理事用の部屋へと案内された。待っていたのは義父有人だった。
「やあ、来てくれましたね。夕麿君にこの書類を見て、出来れば承諾のサインをもらいたくてね」
にこやかに手渡された書類束の表書きに、夕麿は目を見開いて息を呑んだ。それはこの紫霄学院の理事用の書類だった。
「あの…」
戸惑う夕麿に有人は真っ直ぐに向き直った。
「理事資格を得れば君は卒業しても学院内へ入る事が可能になる」
紫霄学院では卒業などで去った者は、OBであっても敷地内へ入る許可が出される事はまずない。武の伴侶と言えども憂慮されない可能性が高かった。
「ありがとうございます」
有人に感謝を述べて素早く書類に目を通して行く。UCLAに在学中には定例理事会に参加は出来ない。だが同時に有人が理事に名を連ねる為、委任状で何とかなるらしい。夕麿の理事資格はあくまでも武の為で、もしもの緊急時に彼の側に駆け付けられるように、自由に学院内へ入れるアイテムとして夕麿に用意されたのだ。
理事資格を得る為の書類に美麗な文字を書き連ねて行く。 PCのワードを使用する時代だからこそ、手書きの美しく鮮やかな文字は値打ちがある。 美しい文字が書ける者は力配分も良いため、かえって悪筆な者よりも書くスピードが早い。 夕麿は十数枚にも渡る書類に短時間で必要事項を、間違いひとつせずに書き上げてしまった。
有人は内心舌を巻きながら夕麿の為に造らせた印を差し出した。 最近では需要が減りつつあるが、まだまだこういう所では実印が必要とされる。
夕麿は間もなく18歳になる。皇国の貴族として成人を迎える。理事資格もそれにあわせて認可が下りる手筈になっているが、その前に印章も整えておく必要があった為、有人がオーダーしておいたのである。学院内では全てサインで通る。 生徒会長としても白鳳会々長としても、書類は全てサインだけで良かった。 夕麿の筆跡を真似る者はいないし、真似られるものではないからだ。 だが外ではそれは一部でしか通用しない。
夕麿は自分の姓名が刻まれた印章を手に、書類に次々と押して行った。
「理事資格が正式に使用出来るのは、君が卒業した後だが認可自体はすぐに下りる」
「お手数をおかけいたします」
「武君は元気かね? 君たちの卒業が近付いているから、小夜子が心配していてね」
「今のところは、食事も普通に変わりなく摂取出来ています。
………まあ、悩んではいますが」
「悩む?」
「生徒会長としての自分の在り方…のようなものを見付けられなくて」
「なるほど」
夕麿の言葉に頷きながら有人は少々武を気の毒に思った。 夕麿は完璧過ぎる。 その後を引き継ぐのは、並大抵の努力ではすまないだろう。 武が悩むのは当たり前に思う。
「私の前任者や前々任者が問題を放置した状態で受け継いだので、私たちは一年間、様々な問題を処理改善して来ました。しかし、やり過ぎたのではと反省しています」
「やり過ぎた? どのような事をそう思うのかね?」
「マニュアルを整え、問題が起きた時に対処する術を幾つか用意しました。 ………これは武の為だけではなく、この先の生徒会運営がスムーズに運ぶようにと、私たちが考えた上の処置でした。しかし、逆にこれが武に対して枷になっている様子なのです。それは私に責任があります。 武の為…そう想いながら過保護だったのではないかと今更遅いのですが反省しています」
行長の危惧にはとっくに夕麿も気が付いていた。 武が同級生との関係に於いて希薄なのは、自分と常に行動を共にしていたのが原因であると。 気が付いた時にはもう夕麿は改める為の時間がない事に気付いた。 卒業までの短い期間を、その為に離れる勇気も夕麿にはなかった。 夕麿自身、自分がどれだけ武に依存してしまっているのか、痛い程自覚しながら、どうしても距離をとれないでいる。
「確かにそれは問題ではあるとは思う。 しかし夕麿君、経営者、財閥の総帥として言うならば、それを乗り越えるのもまた将来の為ではないだろうか。 武君には御園生を継いでもらわなければならない。 君という補佐がいても、立場は立場。 自分で立てなければ誰もついては来ないだろう。
私は悩むのも大切だと知っている。 物事に完全は存在しない。 武君はきっと、君たちのしなかった事や出来なかった事があるのを発見するだろう。
君は自分の役目を精一杯、果たしたに過ぎないのではないかね?」
有人の言葉は夕麿の胸の内に、清水のように吸い込まれて行く。
御園生関連の全ての企業を統括し、従事する何万という人々とその家族の生活を守る…経営者として、トップとしての尊敬すべき姿を目の当たりにした気がした。 真の優しさは強さの裏打ちがなければただの優柔不断…… 身にしみてわかっている筈の事だった。
武に対しても彼を皇家の人間に相応しく教育する…その点に対しては躊躇してはいない。 だが自分の甘えが武に反映してしまっていたのでは…と思ってしまう。 夕麿は今まで、自分を抑圧する在り方しか出来なかった。 それが自らの内に歪みとして蓄積して、様々な不安定さを生み出している原因であると、ようやく理解して受け入れた。
武への依存と甘えは、の反動ともいえた。 武もそれを当たり前のように受け止め、受け入れてしまう為に、夕麿は違和感を抱かずに来てしまった。 武の為に…が自分の言動の言い訳になってはいなかったか。
そう考えると不安になる。
「夕麿君、武君を信用したまえ」
「……そうですね…もっとも、信用出来ないのは自分自身なのかもしれません」
「君の年齢ならば当たり前だよ。 これから学ぶべき事を学んで、本当の自信を付けて行けば良いんだから。
その為の留学ではないのかな?」
「あ…」
「武君の心配よりも、もっと自分を見つめたまえ。
では、この書類をもらって行く。 そちらの冊子は君が持って起きたまえ」
「はい、ありがとうございました」
立ち去る有人に心から感謝して深々と頭を垂れた。夕麿は理事用の部屋を出ると、しっかりとした足取りで歩き出した。時計を見ると丁度昼食の時間になっていた。寮の食堂へ向かうべく足を早めた。窓の外には5月の蒼空が広がっていた。
食堂に着くと武が料理を皿に盛っている最中だった。
「あれ、夕麿、用は済んだの?」
「ええ。
今日の昼食はイタリアンですか?」
「うん」
イタリア料理がビュッフェ方式で並んでいるが、パスタやご飯類はカウンターで注文する。武のトレイには玉子を巻いたタイプのオムライスがのっていた。
「武、オムライスはイタリアンではないと思いますが?」
「あははは…食べたかったから、作ってもらっちゃった」
ストレスにメゲずにいる姿を見て夕麿はホッとする。今の所は食欲は落ちてはいない。新しい主治医の薬の処方がどうやらあっているらしい。
夕麿はトレイを取るとちょうど焼き上がって来た、生ハムとバジルのピザを2切れ取り、深皿にブイヤベースをたっぷり入れる。 夕麿の食欲は普通の男子高校生と同じである。
特待生寮にあるジムや部屋でのストレッチを欠かさない為、バランスの取れた無駄のない身体をしている。 武も夕麿を真似てストレッチをしてはいるが、彼ほどの柔軟性がないのが悔しい。 それでも貴之に合気道といざという時の受け身を習って、それなりに身体が出来つつはあった。ただ何と言っても食事量が違う。 雅久程ではないにしても武の食欲は女性くらいしかない。 今もオムライスは通常の半分。 ビュッフェから取ったのも少量ずつを種類多く。 それでも今日はまだ食欲がある方だった。
席に着いて嬉しそうにオムライスを口に運ぶ武を見て、夕麿は眩しそうに微笑んだ。
「ん…何? オムライス、食べる?」
スプーンにオムライスを乗せて、武は満面の笑みで差し出す。 夕麿は苦笑しながらそれを口に入れた。 有機栽培のトマトで作られたケチャップソースが甘酸っぱい味わいで美味しい。 武が食べたがるのもわかる。
「ではお返しに」
夕麿はブイヤベースの白身魚をフォークに刺して武に差し出した。 武は当たり前のようににこやかに口に含む。
「ん…これ、美味しい!」
夕麿は笑顔でブイヤベースの入った深皿を武の方へ動かした。
「食べて良いの?」
「なくなったらまた、入れて来ますから大丈夫です」
新たに皿に入れる程、武は食べられない。 夕麿は時折、こうして自分が取った物を武に食べさせる。 その方が種類多く食べられる。 特にブイヤベースのように、大きくカットされた物には武はまず手をつけない。 だから、残しても大丈夫なように夕麿が自分の分を武に食べさせる。
側から見ているとカップルの甘々な光景にしか見えないが、この一年間で夕麿が考えた方法だった。
少しでも多く食べさせる。 その努力が武の健康を支えている。 武も彼のその気遣いをちゃんとわかっているからこそ、分量を食べれなくても種類多く食べる努力をしているのだ。
「夕麿、昼からの予定はある?」
「別にありませんが、どうかしましたか?」
「えっと…」
少し頬を染めて良いよどむ。
「それはお誘いと判断してよいのでしょうか、武?」
「え!? あ…いや…そうじゃなくて…」
午後は一緒にいたい…ただそれだけの気持ちなのに、夕麿から返って来たのは艶っぽい言葉。 昨夜だって日付が変わっても、夕麿は武を離さなかったというのに。 武はもっと赤くなって俯いてしまった。
「もう…」
「ふふ、そんな可愛らしい反応をされると、そそられますね」
耳元で囁かれて、カッと身体が熱を帯びた。 チラッと見上げたら、夕麿の瞳は既に欲望の色を浮かべていた。
「バカ…夕麿のエロ…」
潤んだ瞳で睨んでも、欲しがっているようにしか見えない。 武は赤くなったまま、残りの料理を食べ終えた。 夕麿も自分の分を食べ終わると、武のトレイと合わせて片付ける。 座ったまま困っている武を立たせて腰を抱き、衆目の中を平然と後にした。
「あッ…ヤぁ…夕麿ァ…」
声を嗄らして身悶える武を抱き締めながら、自分を止められない事を責めている夕麿がいた。GWに入ってから部屋にいればほとんどベッドに引っ張り込んでいた。武が気を失っても意識を回復させてまた抱く。
昨夜も互いに何も出せなくなるまで抱き合い、今また求めてしまう。求めても求めても餓えは満たされない。身体を離してもまだ欲しい。
「どうしてそんな顔するの?」
泣きそうな顔でいる夕麿の頬に手を当てて、武が心配そうに問い掛ける。
「私は酷い事をしてます…」
「ずっとベッドの中にいるから?俺も欲しいから、酷い事じゃないよ?満足出来ないんだろ?
夕食摂ったら入れ替わってみる?」
武はどこまでも優しい。
「俺も夕麿が欲しい。ダメ?」
青みがかった瞳が煌めいていた。紛れもない愛情の籠もった眼差しが夕麿を満たして行く。
「ああ…武…」
涙が溢れた。
「愛してる、夕麿。」
両腕を差し出して抱き寄せる。学院の中で生きて来た彼の不安は、どれほどのものだろうか…と。側にいられるものなら、ずっと側にいたい…1歳の年齢差が互いの障害になる。学生でなくなれば、きっと思い出にしかならない。笑って語れる。けれど、不安定になっている夕麿を目の当たりにすれば、ここから動く事が出来ない身が恨めしい。自分自身の問題も山積みだが、彼のこんな状態を見てしまうと、後回しで良いと思ってしまう。完全完璧な表の姿。不安定で泣き虫な裏の姿。
どちらも夕麿の姿。表の姿だけで懸命に生きて来た反動が、裏の姿として表を揺るがす。どちらが良い…はない。どちらも同じ夕麿なのだ。武は夕麿の頬の涙を拭い唇を重ねた。舌先で唇を割開き、差し入れて絡める。
「ン…ふン…」
たっぷりと口腔内を蹂躙して、余韻を惜しむように離れた。
「食事に行こう、夕麿。」
夕食を終えて部屋へ帰って来て、武はリビングテーブルの上の見慣れない冊子に気が付いた。
「何…これ? 理事規約…? 何でこんなものがここにあるわけ?」
首を傾げているとバスタブに湯を入れに行った夕麿が戻って来た。 武の手にしている物を見て、笑顔で手を差し出して言った。
「ああ、そこへ置いたままでしたね」
「え…!? どういう事? 夕麿、理事になるの?」
「ええ。 今日の呼び出しはこれだったんです。 義父さんがいらっしゃって手続きをしました」
「理事って、何するの?」
「私の場合はUCLAに在学中は何も出来ません。 ただ理事資格があるといつでも戻って来られます」
「あ…そうか、卒業したら入れなくなるのか」
理事資格も自分の為に用意されたもの。 そう思うと申し訳なくなる。 もっと夕麿を自由にしたいのに結局、自分の事で彼をここへ縛り付けてしまう。
「堂々とここへ戻れるわけですから、有り難いと思っています。 あっては困りますが、緊急の場合もすぐに戻れます」
穏やかな口調で語りながら、武から冊子を受け取って微笑む。
「夕麿は…本当にそれで良いの? いつまでもここに…学院に縛り付けられて?」
「縛り付けられる? とんでもない! これはここをいずれ変えて行く足掛かりにしたいと、今から画策しているのですが?」
「学院を…変える?」
「ええ。 私は出来れば身元引受人がいなくても、ここを出て行けるようにしたいのです」
ただ武の為だけに理事になるのではない。 書類にサインをしながらそう思っていた。 こんな時代錯誤な規則はあってはならないと。
「暁の会が必要でなくなる…そんな時が、来るようにしたいとは思いませんか?」
「うん! そうだね。」
まだまだやらなければならない事は、山積みになっているのだ。 閉鎖的な場所でも学院は、夕麿には大切な場所だった。 悲しい事も辛い事もあったが、友と出会い愛する武と出会った。 学院というゆりかごの中で、成長して来た事実が存在する。 今ここにいる『自分』という存在があるのは、ここで過ごした日々の結果だ。 未来を見出し、夢を抱き、希望を胸に旅立つ時が来ようしているからこそ、見えて来たものもある。
武と離れる辛さを乗り越えられず、未だに不安定な自分を自覚しながらも。 それは武にも自分にも同じ試練なのだと。 頭でわかっている事を、卒業までに受け入れられるかどうか…自信はない。 笑顔でいてくれる武に応えたい。 甘えていたいのは同じだと思いたい。
「武、そろそろ湯が溜まる頃です」
「一緒に入るの? 鏡の前で抱いて欲しいの?」
ニヤニヤと笑う武の顔を直視出来ず赤面して目を伏せた。
「返事がないって事は、イイって事だってとるよ?」
覗き込まれて全身が熱くなる。 羞恥に言葉が見付からない。
「行こう、夕麿。 覚悟しとけよ? 朝まで離してやらないからな」
手を掴まれて告げられた言葉に全身を悦びが貫く。
「ああ…武…」
身の内の熱に眩暈すら覚える。武が抱き寄せてくれた。
「離さないで…下さい。あなたが欲しい…」
「その言葉、忘れないでよ、夕麿?後で取り消しは許さないからね?」
武の言葉が愛撫のように心を揺らす。衣類を脱ぎ捨ててバスルームの灯りの下に立つ。降り注ぐシャワーの中、どちらともなく唇を重ねて激しく求め合う。抱く時も抱かれる時も、口付けは同じなのに…身の内に宿る熱の在処が違う。同じ相手を前にして真逆の欲望を抱いてしまう。
「ふふ、夕麿、そんなに欲しいの?もうこんなにして…」
欲望のカタチをありありと示すモノに武の指が絡み付く。
「ンン…あッ…」
官能の戦慄きが止められない。
「今日は敏感だね?これじゃ辛いよね?」
跪いた武が蜜液を溢れさせるモノを、見せ付けるようにゆっくりと口に含んだ。
「あッ…あッ…」
温かな口腔に包まれて押し寄せる快感に、耐え切れない夕麿の指が武の髪を撫でまわす。腰を突き出し仰け反った喉が震え、唇からは絶え間なく嬌声が漏れる。
抱いて欲しかったのだと。満たされない欲望のわけをようやく理解する。柔らかな舌先が絡み強く吸われると、弾けるように武の口腔内に吐精した。息が乱れ目の前がチカチカとする。強過ぎる絶頂に脚が震えて座り込んでしまった。
「悦かった?」
武の言葉に快感に朦朧とした頭で素直に頷いてしまう。
「夕麿、可愛い」
抱き締められて抱き締め返す。
「風邪ひくよ、湯に入ろう?」
手を引かれ支えられながら、二人でバスタブに身を浸す。身長差がある為、どうしても武が夕麿の胸に身を預ける形になる。
「湯加減は如何ですか、武?」
「大丈夫、いつも一緒の時は俺に合わせてるけど、夕麿はどうなの?」
「私はこれで丁度良いのですが…」
「じゃあ問題ない」
答えながら指先で目の前の紅い小さな膨らみを押し潰す。
「あッ…」
湯の中で夕麿の身体が震える。
「知ってる、夕麿?」
「ン…何…?」
「左の方が敏感だって」
「そっ…ンあッ…知らない…」
右の乳首を口に含んで、舌先でつつき強く吸う。
「あッあッ…ダメ…」
「ふふ」
「ああッ!ヤぁ…あンッ!」
左側を同じようにされて、今度はゾクゾクと感覚が背中を這い上がる。
「ね? こっちの方が感じるだろ?」
互いに小さな発見が嬉しい。 自分だけが知っている相手の弱い場所。 独占欲と征服欲が満たされる。 湯から出て夕麿を鏡の前に座らせた。
「今日は俺が洗ってあげる」
「それは…」
「二人っきりの時にまで、身分だ何だを持ち込むなよ?俺と夕麿は夫婦…何だから。 背中ぐらい流させろよ…」
鏡に映る武は真っ赤になりながら言葉を紡いでいた。 泡立てた海綿を手に夕麿の背を洗う。 シミも黒子もひとつない背中。 美しくきちんとした姿勢で常にいる為、歪みのない真っ直ぐな背筋。 不意にある事に想い当たって、武は背後から夕麿を抱き締めて笑った。
「武…?」
訝しがる夕麿の声に明るい声で答えた。
「バカだな…俺は…って思ったんだ、今。 もうすぐ夕麿はここからいなくなる…って、そればっかり考えてたよ。
ねぇ、夕麿。 この一年間を乗り越えたら、俺たちはずっと一緒にいられるんだよな? それこそ…『死が二人を分かつまで』さ。ずっと一緒にいる為に頑張る時間なんだって…今気付いた」
「武……そう…ですね。 ずっと一緒にあなたと生きて行けるのですね…」
胸が熱い。 そんな風に考えられなかった。 目の前の別れが辛くて、それしか見えていなかった。
「それに、こっちの冬休みには帰って来てくれるんだろ?」
「もちろんです。 あなたとまた、クリスマスや正月を過ごしたいですから」
「うん…待ってる。 夕麿、浮気するなよ?」
「する筈がないでしょう? 私はあなた以外には反応しないのですから。
そういうあなたはどうなのです?」
「するわけないだろ?」
「怪しいものです。 新入生が私に似てると喜んでいたではありませんか?」
「はあ!?」
「私がいなくなって、寂しさに負けてつい…」
「バカ言うなよ! 絶対に御厨は夕麿の代わりに何かならない! だって…どんなに雰囲気が似てたって夕麿じゃない。 俺…夕麿の全部が好きだけど、一番好きなのは何かって聞かれたら声だって答える」
「私の…声?」
「うん。 ちょっと意地悪に俺に囁くのも、俺の腕の中で色っぽく啼くのも好きだけど…一番好きだって思うのは…」
武の眼差しが鏡越しに、真っ直ぐに注がれて、視線をそらせない。
「俺が一番好きな夕麿の声は、毅然としてみんなの前で話をする時の。 凛としてて…マイクなしでも、講堂の端までちゃんと届く声。
御厨は声質が違うよ……
それに、俺…夕麿が俺を呼ぶ時の声も好きだ。 呼び捨てにする時も、もうひとつの方も…」
心が熱いもので満たされて行く。 数時間前の渇望が嘘のようだった。
海綿が胸を洗う。 時折触れる指先にいちいち感じて反応して声が漏れる。
「武…お願いです…もう、我慢出来ません…」
熱くなった吐息混じりに言うと、シャワーで泡が洗い流された。
「夕麿、手を付いて…」
武の力ではこの前、夕麿がやったような事は不可能だ。 鏡に向いて這わせて、腰を抱いてそこここに口付ける。
「あッあッ…ヤぁ…武…早く…」
身悶えして求める。
「まだ無理だって…」
形の良い尻を開いて、欲望にヒク付く蕾に舌を這わせた。
「ひィァ…武…止めて…下さい…あッ…ンッあッあッ…」
とんでもない場所を舐められている…… 羞恥に震えそれが快感を呼ぶ。 蕾は快感を貪るように花開いて舌先を招き入れる。
「ああッ!ダメ…そんな…中…舐めないで…ヤぁ…ンあッ…」
指を挿れられた刺激に腰が揺れる。 顔を上げて見た自分の顔は、強過ぎる快感に瞳は潤み、嬌声に開く唇からは唾液が滴り落ちていた。 いつもこんな顔で抱かれているのかと、息を呑んだ途端に体内から指が抜かれた。 代わりに灼熱の塊が蕾を押し開いて挿入されていく。
「あッあッあッあッ…」
熱い。 受け入れたモノも中も熱い。
「ああッ…熱い…」
「夕麿の中も熱いよ…」
「武…早く…」
腰を揺らして抽挿を強請る。 それに煽られるように、武が腰を打ち付けるように動き出した。
「あンあッあッ…ンンあ…」
あまりの快感に眩暈に似た状態になる。 首を振り、溢れる嬌声が止まらない。
「ンあ…武…もうッ…あッ…イく…」
「イってイイよ…俺も…イく…」
「ああッあああッ!」
大きく仰け反って絶頂の痙攣に身を委ねた。 ほぼ同時に武も吐精した。 夕麿は余韻に伏したまま啜り泣く。
「夕麿、大丈夫?」
武が心配して抱き起こす。
「武…武…」
両腕を首に絡めて口付けを強請ると、貪るように激しく唇が重ねられた。
時の流れは指からこぼれ落ちる乾いた砂のようだった。夕麿は薬の助けを借りて梅雨を何とか過ごし、今日の旅立ちの時を迎えた。
昨夜までの雨が嘘のように空は雲一つない晴天だった。 今年の白鳳会のメンバーの海外留学するのは、夕麿たち特待生6人と一般生徒から会へ上がった3人、計9人の卒業式となった。
講堂に高等部全員が集合し卒業生は壇上の席に着く。 今年の卒業式は一つだけ通常と違っていた。 高等部の在校生全員から最後にもう一度、夕麿のピアノが聴きたいという声が上がり彼が答えたのだ選んだ曲はやはりショパンだった。『ポロネーズ 第15番 変ロ短調 別れ』 美しく物悲しい旋律が夕麿らしい選択だった。
夕麿のピアノ、ベヒシュタインは既に数日前に寮の特別室から御園生邸へと運び出されていた。 彼全員の荷物も昨日の午後に全て梱包されて送り出した。 若干残った手荷物も卒業式の実行委員が、ゲートで既に待つ迎えの車に運んでいる筈だった。
『別れ』は7分にわたる長めの曲である。 武は舞台の袖でピアノを弾く夕麿の姿を、瞼に焼き付けるようにじっと見つめていた最後まで涙は見せない。 笑顔で皆を送り出す。 熱くなる目を懸命にこらえて武は立っていた。 祝辞も答辞も互いに笑顔で読んだ。在校生が別れを惜しんで啜り泣いても、共に歩く日の為のホンの僅かな時間の別れ。 共に過ごした一年数ヶ月の出来事が、互いの胸を通り過ぎて行く。
夕麿こそ、武の誇り。 義勝たちと過ごした日々も、夕麿との思い出に欠かせない。 今、武の胸の中は彼らへの感謝でいっぱいになっていた。 この別れは共に生きる未来の日々の為のもの。 そしてこの学院の囚われ人だった夕麿たちを解放し、光が煌めく空へと羽ばたかせる為のもの。
ピアノの音が空間に溶け込んで消えた。 夕麿はしばらく目を閉じて、ピアノの上に手を置いたまま動かなかった。
11年半…夕麿は紫霄学院で過ごした。 泣くのも笑うのも怒るのも学院の中だった。 ここが彼の住まいであり世界だった。
今、最愛の人を置いて旅立つ。
涙が溢れ落ちた。 もう、止める事は出来なかった。 舞台袖から武が歩いて来た。 差し出された手を取って立ち上がった。
「ありがとう、夕麿」
差し出されたハンカチを受け取りながら、紡がれた言葉に嗚咽が漏れる。 義勝たちがやって来て、泣く彼の肩を抱く。
武はひたすら涙をこらえて、夕麿の手を握り締めていた。
本来ならば武は長期休暇以外の時にゲートに出る事は許されない。 だが今日は卒業式であり夕麿を送り出すという事で、特別に生徒会が揃ってなら…という条件で出る許可が下りた。
「麗先輩、お元気で」
「うん、武も元気でね? 来年、ちゃんとUCLAに行くんだよ?」
「はい」
「ロスに遊びに行くからね?」
「待ってます」
「じゃあね!」
まず麗が迎えの車で去って行った。 フランスへ向かう彼とは、会う機会は少なくなるだろう。 屈託のない笑顔どお茶目な性格で、いつも場を和ます人だった。 時折、彼の実家から送られて来る和菓子は絶品で、余り和菓子を知らなかった武をすっかり和菓子好きにしてしまった。 小柄な彼は笑顔を残して爽やかに去って行った。
「貴之先輩、いろいろとお世話になりました。 ありがとうございます」
「こちらこそ、武さまにたくさんの事を学ばせていただきました。 合気道の稽古をお忘れにならないで励まれて下さい」
「頑張ります」
「ロスで再会いたしましょう」
「はい」
「どうかお健やかにお過ごし下さい」
「貴之先輩も!」
再会を約束して貴之も迎えの車に乗り学院を去って行った。
「武」
「武君」
義勝と雅久が順番に武を抱き締めた。
「義勝兄さん、雅久兄さん……夕麿をお願いします。」
「任せておけ」
「あなたも無理はしないで身体を大切に」
「うん、ありがとう。 冬休みには帰国するよね?」
「当たり前だ」
「もちろんです」
「また、一緒にツリーを飾ろうね?」
「ええ」
「上の星は俺がいなきゃ飾れないだろう?」
「うん」
「じゃあな」
「行って来ます」
迎えの車に二人が先に乗った。
武は真っ直ぐに夕麿に歩み寄った。
「武…」
夕麿の胸の中にしっかりと抱き締められた。
「夕麿、俺待ってるからね? 帰国したら迎えに来て」
「ええ、勿論です。
武……どうか身体を大切にして下さい。 何かあったらすぐに連絡を下さい。 飛んで帰って来ますから」
「うん…でもそうならないように頑張る。
夕麿も身体を大事にね? この学院からほとんど出た事がないんだから、気を付けなきゃダメだよ?」
「気を付けます」
夕麿の手が頬に添えられ武は自然に上を向いた。 唇が重ねられる。 武は夕麿の首に腕を絡めて貪るように深く求めた………名残を惜しむようにゆっくりと唇が離れた。
「武…行って来ます。 ごきげんよう…」
「行ってらっしゃい、夕麿」
武が一歩下がり夕麿が車に乗り込んだ。 ドアが閉められ車は静かなエンジン音と共にゆっくりとエントランスを出発した。
武は道に出て車を見つめ続けた。 拳を握り締めて唇を噛んで見送り続けた。
車は遠ざかり小さくなって行く。 それでも武は立っていた。
………やがて、車は遥か遠くへと消えて行って、もう幾ら目を凝らしても見えなくなった。
武の頬を涙が零れ落ちた。 一度溢れた涙はもう止まらなかった。
「夕麿…夕麿……夕麿…夕麿ア…!!」
泣けば夕麿は行くのを躊躇う。
だから笑顔でいた。
でも本当は泣いて縋り付きたかった。
行かないでくれと、 一人にしないでくれと、 叫びたかった。
この数ヶ月、ひたすら耐えた。
我慢し続けた。
だから今……
無事に見送った今… …
泣かせて欲しい
叫ぶのを許して欲しい…
武は道に泣き崩れた
最愛の人の名を呼んで、いつまでも泣き続けた……………
泣き崩れたまま最愛の人の名を呼び続ける武を前に、行長たちはかける声もなく立ち尽くしていた。 実際に武は良く頑張ったと思う。 幾つかの薬を服用しながらストレスに耐えて、こうして無事に夕麿たち卒業生を笑顔で送り出したのだから。泣きたいだけ泣かせてやりたいと思う。 だがゲートにいつまでもも出ているのは許されはしない。
行長は敦紀と二人で武に歩み寄った。
「武さま、もう戻られませんと……」
行長が声をかけると武は頷いてフラフラと立ち上がった。 敦紀がそっと抱き締めた。
「ご立派でした、武さま。 夕麿さまもきっと、誇りに思われたでしょう」
「さあ、戻りましょう」
生徒会の皆に守られるようにして武はゲートから高等部へと戻った。 するとそこには在校生たちが詰め掛けていた。 全員が涙を拭っていた。武の慟哭の叫びはここまで響いていたのだ。 彼らはずっと笑顔の武を冷たいと思っていた。 本当はそれが彼の精一杯の彼らへの餞だったのだとわかって、ここで共に泣いていたのだ。
夕麿が周囲の目もはばからず、武を溺愛していたのは、高等部中が知っている事実である。 夕麿に守られ義勝たちに支えられて来た武を皆が見ていたのだから。 泣き腫らした顔で戻って来た武の姿を見て再び啜り泣きが漏れた。
旅立ちは祝福すべき事。 けれど別れは悲しく辛く寂しい。 明日からは顔を上げてちゃんと前を見て歩く。
だから…今は、泣かせて欲しい…
拭った筈の涙がまた溢れ出す。 武は抱き締めてくれる敦紀に縋って声を上げて泣いた。 誰かが支えてくれなければ立ってはいられなかった。
行長と敦紀に送られて、武はひとりになった部屋へ戻って来た。 玄関の扉を開けてホールからリビングへ入って武は驚愕に立ち尽くした。
リビングいっぱいに美しいピアノの音が溢れていたのだ。
「これ…夕麿のピアノ…?」
独特の音色と弾き癖は間違いなく夕麿の演奏だった。 見ると備え付けのオーディオが起動している。 どうやらあらかじめ時間を計算して、武が部屋に戻って来る頃にタイマーで演奏されるようにセットされていたらしい。
武自身は卒業式の用意の為に今朝、夕麿よりも先に部屋を出ていた。 しかもリビングテーブルの上には、かなりの枚数のCDロムが置いてある。 添えるように置いてあるファイルには、夕麿の美麗な文字で作曲家別に曲名が綴られていた。
その数、80曲余り。 一体いつ録音をしたのか…… そう考えて思い当たるのは一つしかない。 春休みのあの日、水族館用にピアノ演奏の録音に行ったではないか。 帰って来た時には夕麿の指先は赤く腫れ上がっていた… 水族館用に名を借りてこれを録音して来たのだ……
オーディオのスピーカーはリビングを取り囲むように、数設置されている。 上下四方、中央の真上…音そのものに包まれるようにスピーカーから音が溢れ出す。
このスピーカーの設置は夕麿が望んだものだった。 夕麿の奏でる音に包まれる。 止まった筈の涙が、再び溢れて来た。
「もう…泣かせるなよ…夕麿…」
ひとりで部屋に戻って来る武の為の夕麿の優しい心遣いだと感じるからこそ胸がいっぱいで涙が止まらない。 涙を拭いながら着替えるべく螺旋階段を上がり寝室のドアを開けた。
「………あれ?」
違和感があった。 何かが違っている。 武は室内をゆっくりと見回した。 そして…目を見開いた。
イルカのぬいぐるみが一つなくなっていた。 あの日、水族館で購入した3つのぬいぐるみの一番小さいのがなくなっているのだ。 3つのぬいぐるみの一番大きな物は、小夜子へのプレゼントだった。 後の二つは武が自分の為に買ったもの。 3つのぬいぐるみを見て、あの時、小夜子がこう言った。
「まるで私と夕麿さんと武みたいだわね」 と。
大きな者を小夜子に、真ん中の大きさを夕麿に、一番小さいのを武に……小夜子は見立てて笑ったのだ。 夕麿はそれを覚えていて、武の代わりに連れて行ってしまったらしい。 夕麿はロマンチストな所がある。 武は残ったぬいぐるみを抱き締めて呟いた。
「バカ……」
クローゼットにはもう一つ残されているものがあった。 シャツが一枚、残されていたのである。 ふと見るとクリーニングに出す為の籠に入れた、昨日着ていたシャツがない。
「どこまで古風なんだよ…万葉人じゃないんだから、衣の取り替えなんか…するなよ…」
万葉の時代、愛する人と離れ離れになる時には、互いの衣を交換して自分の形代として預ける風習があった。 夕麿は万葉集を諳んじている程好きで、彼のロマンチストな面にたまに反映されていた。
手に取って抱き締めると夕麿の残り香がする。 一体どんな顔をして彼は、こんな事を残して行ったのだろうか?
「もう…」
シャツを握り締めたまま武は笑い泣きした。
3日後、6時限目終了のチャイムが鳴ってすぐだった。
武の携帯が着信を告げるメロディーを奏でた。 夕麿からの着信を教える曲『紫雲英』。 夕麿が武の為に作曲したこの曲を、互いの着信メロディーにしている。 もちろん武の携帯にメロディーを入力したのは夕麿自身である。
〔武?〕
「うん」
〔今、空港にいます〕
「これから発つの?」
〔ええ。 でももう一度あなたの声が聴きたくて〕
「うん。
部屋…面白かったよ?」
〔ふふ…ただの空っぽでは、芸がありませんから〕
「ぬいぐるみ、大事にしろよ? あんなものまで持ってくなんて思わなかったよ?」
〔すみません…何となく目に付いたら、欲しくなってしまったのです〕
「俺の代わりに持ってて…俺もそうするから…妬くなよ?」
〔特別に許す事にします〕
「あのな…」
電話の向こうで夕麿が笑う。 それに重なるように空港内のアナウンスが聞こえて来た。
〔どうやら登場手続きが始まるようです〕
「みんなによろしく伝えて… …電話、するからな」
〔私も必ず…〕
「行ってらっしゃい」
〔行って来ます〕
切れた携帯をしばらく眺めて……武はゆっくりと閉じた。
「夕麿さまですか?」
行長の言葉に無言で頷いた。
「とうとう…行ってしまわれるのですね」
康孝が万感の想いを込めて言う。
「千種も来年、UCLAを目指せば? 雅久兄さんと再会出来るよ? またスパルタで勉強教えてもらえよ。 駆け込みで特待生になれたんだから」
「特待生はうれしいですけど…雅久先輩はちょっと…」
そこに雅久がいるかのように康孝は尻込みした。
「あははは、兄さん怖いからな~」
「武さまにも?」
「琵琶の稽古なんて怖いのなんの…第一、夕麿ですら怖がるんだぞ?」
雅久を怖がる夕麿…思わず全員が想像してしまった。
「底が見えないんだよ…だから怖ッ…」
言葉の途中で武は激しく咳き込んだ。今朝から時折咳き込んでいる。 慌てて行長が背中を撫でる。
「…ごッ…ごめん…」
「夏風邪ですか? 張り詰めていられたから、お身体に負担がかかられているのでは?」
「大丈夫だよ」
笑顔で答えて7時限目の授業へ向かう。行長たちも気になりながらも従った…
放課後の生徒会室はこの時期、閑散としている。 例の如、不安定になる生徒たちの監視の為に人員を風紀に派遣していた。
武ますます激しく咳き込むようになっていた。 先程から背筋を悪寒が走り、胸に刺すような鋭い痛みが走る。 呼吸が上手く出来ず苦しい。 さすがに部屋へ早い目に戻った方が良いと判断して、補佐の敦紀に声を掛けようと立ち上がった。
「!?」
ぐらりと景色が揺れ身体が床に崩れた。
「武さま!?」
敦紀が駆け寄って来て、き起こした。制服の布越しに有り得ないと思う程の熱さを感じる。これはただ事ではない。
「御厨…夕麿に…連絡…するな…」
旅立ったばかりの夕麿には知らせるな、と言って武は意識を失った。
「誰か…誰か、救急車を!」
開いていた執務室のドアに向かって叫んだ。
「趣味を増やすかなあ…」
この学院に来て立場上、習い事が増えてしまった。 それらは皆、夕麿たちが武に指南している。 彼らは自分たちの卒業後の手配はしてくれたが、それも寂しさを募らせる一因だった。
自分でも女々しいとは思う。 この1年、皆にどれだけ大切にしてもらって来たのか。 自分がどれだけ甘えていたのか今更ながら自覚する。せめて…残る者として引き継いだものだけでもしっかり守りたいと生徒会の業務に没頭するが、気が付いたらそれも夕麿たちの作成したマニュアルに助けられている。本当に自分は会長に相応しいのか。 身分だけでその椅子に座っていないか。 前任者が司や周ならば、武はこんなに悩まなかったかもしれない。 武は夕麿という理想を見続けてしまった。憧れから入った想い。 だからこそ消えない。
『私になる必要はありません。 あなたはあなたらしい会長になれば良いのです』
夕麿の言葉の意味はわかる。 しかしまだ武には自分らしさとは何かがわからない。 わからないから見付けられない。 行長と敦紀を見ていると自分の不備ばかりが見えてしまう。
ああ……またこんな事をウダウダと……
自己嫌悪の迷宮には出口はあっても、自分で辿り着くのは安易な事ではない。 ぐるぐると同じ所を回り続ける思考を打ち切って、時計を見ると昼食の時間になっていた。
武は高辻医師に紹介された新しい主治医に、処方してもらった薬を飲み包みを処分して食堂へと向かった。 出来る事をやれば良いのだと自分自身を叱咤して。
夕麿たちの卒業まで、既に2ヶ月を切っていた……
高等部々長に呼ばれて足を運ぶとすぐさま理事用の部屋へと案内された。待っていたのは義父有人だった。
「やあ、来てくれましたね。夕麿君にこの書類を見て、出来れば承諾のサインをもらいたくてね」
にこやかに手渡された書類束の表書きに、夕麿は目を見開いて息を呑んだ。それはこの紫霄学院の理事用の書類だった。
「あの…」
戸惑う夕麿に有人は真っ直ぐに向き直った。
「理事資格を得れば君は卒業しても学院内へ入る事が可能になる」
紫霄学院では卒業などで去った者は、OBであっても敷地内へ入る許可が出される事はまずない。武の伴侶と言えども憂慮されない可能性が高かった。
「ありがとうございます」
有人に感謝を述べて素早く書類に目を通して行く。UCLAに在学中には定例理事会に参加は出来ない。だが同時に有人が理事に名を連ねる為、委任状で何とかなるらしい。夕麿の理事資格はあくまでも武の為で、もしもの緊急時に彼の側に駆け付けられるように、自由に学院内へ入れるアイテムとして夕麿に用意されたのだ。
理事資格を得る為の書類に美麗な文字を書き連ねて行く。 PCのワードを使用する時代だからこそ、手書きの美しく鮮やかな文字は値打ちがある。 美しい文字が書ける者は力配分も良いため、かえって悪筆な者よりも書くスピードが早い。 夕麿は十数枚にも渡る書類に短時間で必要事項を、間違いひとつせずに書き上げてしまった。
有人は内心舌を巻きながら夕麿の為に造らせた印を差し出した。 最近では需要が減りつつあるが、まだまだこういう所では実印が必要とされる。
夕麿は間もなく18歳になる。皇国の貴族として成人を迎える。理事資格もそれにあわせて認可が下りる手筈になっているが、その前に印章も整えておく必要があった為、有人がオーダーしておいたのである。学院内では全てサインで通る。 生徒会長としても白鳳会々長としても、書類は全てサインだけで良かった。 夕麿の筆跡を真似る者はいないし、真似られるものではないからだ。 だが外ではそれは一部でしか通用しない。
夕麿は自分の姓名が刻まれた印章を手に、書類に次々と押して行った。
「理事資格が正式に使用出来るのは、君が卒業した後だが認可自体はすぐに下りる」
「お手数をおかけいたします」
「武君は元気かね? 君たちの卒業が近付いているから、小夜子が心配していてね」
「今のところは、食事も普通に変わりなく摂取出来ています。
………まあ、悩んではいますが」
「悩む?」
「生徒会長としての自分の在り方…のようなものを見付けられなくて」
「なるほど」
夕麿の言葉に頷きながら有人は少々武を気の毒に思った。 夕麿は完璧過ぎる。 その後を引き継ぐのは、並大抵の努力ではすまないだろう。 武が悩むのは当たり前に思う。
「私の前任者や前々任者が問題を放置した状態で受け継いだので、私たちは一年間、様々な問題を処理改善して来ました。しかし、やり過ぎたのではと反省しています」
「やり過ぎた? どのような事をそう思うのかね?」
「マニュアルを整え、問題が起きた時に対処する術を幾つか用意しました。 ………これは武の為だけではなく、この先の生徒会運営がスムーズに運ぶようにと、私たちが考えた上の処置でした。しかし、逆にこれが武に対して枷になっている様子なのです。それは私に責任があります。 武の為…そう想いながら過保護だったのではないかと今更遅いのですが反省しています」
行長の危惧にはとっくに夕麿も気が付いていた。 武が同級生との関係に於いて希薄なのは、自分と常に行動を共にしていたのが原因であると。 気が付いた時にはもう夕麿は改める為の時間がない事に気付いた。 卒業までの短い期間を、その為に離れる勇気も夕麿にはなかった。 夕麿自身、自分がどれだけ武に依存してしまっているのか、痛い程自覚しながら、どうしても距離をとれないでいる。
「確かにそれは問題ではあるとは思う。 しかし夕麿君、経営者、財閥の総帥として言うならば、それを乗り越えるのもまた将来の為ではないだろうか。 武君には御園生を継いでもらわなければならない。 君という補佐がいても、立場は立場。 自分で立てなければ誰もついては来ないだろう。
私は悩むのも大切だと知っている。 物事に完全は存在しない。 武君はきっと、君たちのしなかった事や出来なかった事があるのを発見するだろう。
君は自分の役目を精一杯、果たしたに過ぎないのではないかね?」
有人の言葉は夕麿の胸の内に、清水のように吸い込まれて行く。
御園生関連の全ての企業を統括し、従事する何万という人々とその家族の生活を守る…経営者として、トップとしての尊敬すべき姿を目の当たりにした気がした。 真の優しさは強さの裏打ちがなければただの優柔不断…… 身にしみてわかっている筈の事だった。
武に対しても彼を皇家の人間に相応しく教育する…その点に対しては躊躇してはいない。 だが自分の甘えが武に反映してしまっていたのでは…と思ってしまう。 夕麿は今まで、自分を抑圧する在り方しか出来なかった。 それが自らの内に歪みとして蓄積して、様々な不安定さを生み出している原因であると、ようやく理解して受け入れた。
武への依存と甘えは、の反動ともいえた。 武もそれを当たり前のように受け止め、受け入れてしまう為に、夕麿は違和感を抱かずに来てしまった。 武の為に…が自分の言動の言い訳になってはいなかったか。
そう考えると不安になる。
「夕麿君、武君を信用したまえ」
「……そうですね…もっとも、信用出来ないのは自分自身なのかもしれません」
「君の年齢ならば当たり前だよ。 これから学ぶべき事を学んで、本当の自信を付けて行けば良いんだから。
その為の留学ではないのかな?」
「あ…」
「武君の心配よりも、もっと自分を見つめたまえ。
では、この書類をもらって行く。 そちらの冊子は君が持って起きたまえ」
「はい、ありがとうございました」
立ち去る有人に心から感謝して深々と頭を垂れた。夕麿は理事用の部屋を出ると、しっかりとした足取りで歩き出した。時計を見ると丁度昼食の時間になっていた。寮の食堂へ向かうべく足を早めた。窓の外には5月の蒼空が広がっていた。
食堂に着くと武が料理を皿に盛っている最中だった。
「あれ、夕麿、用は済んだの?」
「ええ。
今日の昼食はイタリアンですか?」
「うん」
イタリア料理がビュッフェ方式で並んでいるが、パスタやご飯類はカウンターで注文する。武のトレイには玉子を巻いたタイプのオムライスがのっていた。
「武、オムライスはイタリアンではないと思いますが?」
「あははは…食べたかったから、作ってもらっちゃった」
ストレスにメゲずにいる姿を見て夕麿はホッとする。今の所は食欲は落ちてはいない。新しい主治医の薬の処方がどうやらあっているらしい。
夕麿はトレイを取るとちょうど焼き上がって来た、生ハムとバジルのピザを2切れ取り、深皿にブイヤベースをたっぷり入れる。 夕麿の食欲は普通の男子高校生と同じである。
特待生寮にあるジムや部屋でのストレッチを欠かさない為、バランスの取れた無駄のない身体をしている。 武も夕麿を真似てストレッチをしてはいるが、彼ほどの柔軟性がないのが悔しい。 それでも貴之に合気道といざという時の受け身を習って、それなりに身体が出来つつはあった。ただ何と言っても食事量が違う。 雅久程ではないにしても武の食欲は女性くらいしかない。 今もオムライスは通常の半分。 ビュッフェから取ったのも少量ずつを種類多く。 それでも今日はまだ食欲がある方だった。
席に着いて嬉しそうにオムライスを口に運ぶ武を見て、夕麿は眩しそうに微笑んだ。
「ん…何? オムライス、食べる?」
スプーンにオムライスを乗せて、武は満面の笑みで差し出す。 夕麿は苦笑しながらそれを口に入れた。 有機栽培のトマトで作られたケチャップソースが甘酸っぱい味わいで美味しい。 武が食べたがるのもわかる。
「ではお返しに」
夕麿はブイヤベースの白身魚をフォークに刺して武に差し出した。 武は当たり前のようににこやかに口に含む。
「ん…これ、美味しい!」
夕麿は笑顔でブイヤベースの入った深皿を武の方へ動かした。
「食べて良いの?」
「なくなったらまた、入れて来ますから大丈夫です」
新たに皿に入れる程、武は食べられない。 夕麿は時折、こうして自分が取った物を武に食べさせる。 その方が種類多く食べられる。 特にブイヤベースのように、大きくカットされた物には武はまず手をつけない。 だから、残しても大丈夫なように夕麿が自分の分を武に食べさせる。
側から見ているとカップルの甘々な光景にしか見えないが、この一年間で夕麿が考えた方法だった。
少しでも多く食べさせる。 その努力が武の健康を支えている。 武も彼のその気遣いをちゃんとわかっているからこそ、分量を食べれなくても種類多く食べる努力をしているのだ。
「夕麿、昼からの予定はある?」
「別にありませんが、どうかしましたか?」
「えっと…」
少し頬を染めて良いよどむ。
「それはお誘いと判断してよいのでしょうか、武?」
「え!? あ…いや…そうじゃなくて…」
午後は一緒にいたい…ただそれだけの気持ちなのに、夕麿から返って来たのは艶っぽい言葉。 昨夜だって日付が変わっても、夕麿は武を離さなかったというのに。 武はもっと赤くなって俯いてしまった。
「もう…」
「ふふ、そんな可愛らしい反応をされると、そそられますね」
耳元で囁かれて、カッと身体が熱を帯びた。 チラッと見上げたら、夕麿の瞳は既に欲望の色を浮かべていた。
「バカ…夕麿のエロ…」
潤んだ瞳で睨んでも、欲しがっているようにしか見えない。 武は赤くなったまま、残りの料理を食べ終えた。 夕麿も自分の分を食べ終わると、武のトレイと合わせて片付ける。 座ったまま困っている武を立たせて腰を抱き、衆目の中を平然と後にした。
「あッ…ヤぁ…夕麿ァ…」
声を嗄らして身悶える武を抱き締めながら、自分を止められない事を責めている夕麿がいた。GWに入ってから部屋にいればほとんどベッドに引っ張り込んでいた。武が気を失っても意識を回復させてまた抱く。
昨夜も互いに何も出せなくなるまで抱き合い、今また求めてしまう。求めても求めても餓えは満たされない。身体を離してもまだ欲しい。
「どうしてそんな顔するの?」
泣きそうな顔でいる夕麿の頬に手を当てて、武が心配そうに問い掛ける。
「私は酷い事をしてます…」
「ずっとベッドの中にいるから?俺も欲しいから、酷い事じゃないよ?満足出来ないんだろ?
夕食摂ったら入れ替わってみる?」
武はどこまでも優しい。
「俺も夕麿が欲しい。ダメ?」
青みがかった瞳が煌めいていた。紛れもない愛情の籠もった眼差しが夕麿を満たして行く。
「ああ…武…」
涙が溢れた。
「愛してる、夕麿。」
両腕を差し出して抱き寄せる。学院の中で生きて来た彼の不安は、どれほどのものだろうか…と。側にいられるものなら、ずっと側にいたい…1歳の年齢差が互いの障害になる。学生でなくなれば、きっと思い出にしかならない。笑って語れる。けれど、不安定になっている夕麿を目の当たりにすれば、ここから動く事が出来ない身が恨めしい。自分自身の問題も山積みだが、彼のこんな状態を見てしまうと、後回しで良いと思ってしまう。完全完璧な表の姿。不安定で泣き虫な裏の姿。
どちらも夕麿の姿。表の姿だけで懸命に生きて来た反動が、裏の姿として表を揺るがす。どちらが良い…はない。どちらも同じ夕麿なのだ。武は夕麿の頬の涙を拭い唇を重ねた。舌先で唇を割開き、差し入れて絡める。
「ン…ふン…」
たっぷりと口腔内を蹂躙して、余韻を惜しむように離れた。
「食事に行こう、夕麿。」
夕食を終えて部屋へ帰って来て、武はリビングテーブルの上の見慣れない冊子に気が付いた。
「何…これ? 理事規約…? 何でこんなものがここにあるわけ?」
首を傾げているとバスタブに湯を入れに行った夕麿が戻って来た。 武の手にしている物を見て、笑顔で手を差し出して言った。
「ああ、そこへ置いたままでしたね」
「え…!? どういう事? 夕麿、理事になるの?」
「ええ。 今日の呼び出しはこれだったんです。 義父さんがいらっしゃって手続きをしました」
「理事って、何するの?」
「私の場合はUCLAに在学中は何も出来ません。 ただ理事資格があるといつでも戻って来られます」
「あ…そうか、卒業したら入れなくなるのか」
理事資格も自分の為に用意されたもの。 そう思うと申し訳なくなる。 もっと夕麿を自由にしたいのに結局、自分の事で彼をここへ縛り付けてしまう。
「堂々とここへ戻れるわけですから、有り難いと思っています。 あっては困りますが、緊急の場合もすぐに戻れます」
穏やかな口調で語りながら、武から冊子を受け取って微笑む。
「夕麿は…本当にそれで良いの? いつまでもここに…学院に縛り付けられて?」
「縛り付けられる? とんでもない! これはここをいずれ変えて行く足掛かりにしたいと、今から画策しているのですが?」
「学院を…変える?」
「ええ。 私は出来れば身元引受人がいなくても、ここを出て行けるようにしたいのです」
ただ武の為だけに理事になるのではない。 書類にサインをしながらそう思っていた。 こんな時代錯誤な規則はあってはならないと。
「暁の会が必要でなくなる…そんな時が、来るようにしたいとは思いませんか?」
「うん! そうだね。」
まだまだやらなければならない事は、山積みになっているのだ。 閉鎖的な場所でも学院は、夕麿には大切な場所だった。 悲しい事も辛い事もあったが、友と出会い愛する武と出会った。 学院というゆりかごの中で、成長して来た事実が存在する。 今ここにいる『自分』という存在があるのは、ここで過ごした日々の結果だ。 未来を見出し、夢を抱き、希望を胸に旅立つ時が来ようしているからこそ、見えて来たものもある。
武と離れる辛さを乗り越えられず、未だに不安定な自分を自覚しながらも。 それは武にも自分にも同じ試練なのだと。 頭でわかっている事を、卒業までに受け入れられるかどうか…自信はない。 笑顔でいてくれる武に応えたい。 甘えていたいのは同じだと思いたい。
「武、そろそろ湯が溜まる頃です」
「一緒に入るの? 鏡の前で抱いて欲しいの?」
ニヤニヤと笑う武の顔を直視出来ず赤面して目を伏せた。
「返事がないって事は、イイって事だってとるよ?」
覗き込まれて全身が熱くなる。 羞恥に言葉が見付からない。
「行こう、夕麿。 覚悟しとけよ? 朝まで離してやらないからな」
手を掴まれて告げられた言葉に全身を悦びが貫く。
「ああ…武…」
身の内の熱に眩暈すら覚える。武が抱き寄せてくれた。
「離さないで…下さい。あなたが欲しい…」
「その言葉、忘れないでよ、夕麿?後で取り消しは許さないからね?」
武の言葉が愛撫のように心を揺らす。衣類を脱ぎ捨ててバスルームの灯りの下に立つ。降り注ぐシャワーの中、どちらともなく唇を重ねて激しく求め合う。抱く時も抱かれる時も、口付けは同じなのに…身の内に宿る熱の在処が違う。同じ相手を前にして真逆の欲望を抱いてしまう。
「ふふ、夕麿、そんなに欲しいの?もうこんなにして…」
欲望のカタチをありありと示すモノに武の指が絡み付く。
「ンン…あッ…」
官能の戦慄きが止められない。
「今日は敏感だね?これじゃ辛いよね?」
跪いた武が蜜液を溢れさせるモノを、見せ付けるようにゆっくりと口に含んだ。
「あッ…あッ…」
温かな口腔に包まれて押し寄せる快感に、耐え切れない夕麿の指が武の髪を撫でまわす。腰を突き出し仰け反った喉が震え、唇からは絶え間なく嬌声が漏れる。
抱いて欲しかったのだと。満たされない欲望のわけをようやく理解する。柔らかな舌先が絡み強く吸われると、弾けるように武の口腔内に吐精した。息が乱れ目の前がチカチカとする。強過ぎる絶頂に脚が震えて座り込んでしまった。
「悦かった?」
武の言葉に快感に朦朧とした頭で素直に頷いてしまう。
「夕麿、可愛い」
抱き締められて抱き締め返す。
「風邪ひくよ、湯に入ろう?」
手を引かれ支えられながら、二人でバスタブに身を浸す。身長差がある為、どうしても武が夕麿の胸に身を預ける形になる。
「湯加減は如何ですか、武?」
「大丈夫、いつも一緒の時は俺に合わせてるけど、夕麿はどうなの?」
「私はこれで丁度良いのですが…」
「じゃあ問題ない」
答えながら指先で目の前の紅い小さな膨らみを押し潰す。
「あッ…」
湯の中で夕麿の身体が震える。
「知ってる、夕麿?」
「ン…何…?」
「左の方が敏感だって」
「そっ…ンあッ…知らない…」
右の乳首を口に含んで、舌先でつつき強く吸う。
「あッあッ…ダメ…」
「ふふ」
「ああッ!ヤぁ…あンッ!」
左側を同じようにされて、今度はゾクゾクと感覚が背中を這い上がる。
「ね? こっちの方が感じるだろ?」
互いに小さな発見が嬉しい。 自分だけが知っている相手の弱い場所。 独占欲と征服欲が満たされる。 湯から出て夕麿を鏡の前に座らせた。
「今日は俺が洗ってあげる」
「それは…」
「二人っきりの時にまで、身分だ何だを持ち込むなよ?俺と夕麿は夫婦…何だから。 背中ぐらい流させろよ…」
鏡に映る武は真っ赤になりながら言葉を紡いでいた。 泡立てた海綿を手に夕麿の背を洗う。 シミも黒子もひとつない背中。 美しくきちんとした姿勢で常にいる為、歪みのない真っ直ぐな背筋。 不意にある事に想い当たって、武は背後から夕麿を抱き締めて笑った。
「武…?」
訝しがる夕麿の声に明るい声で答えた。
「バカだな…俺は…って思ったんだ、今。 もうすぐ夕麿はここからいなくなる…って、そればっかり考えてたよ。
ねぇ、夕麿。 この一年間を乗り越えたら、俺たちはずっと一緒にいられるんだよな? それこそ…『死が二人を分かつまで』さ。ずっと一緒にいる為に頑張る時間なんだって…今気付いた」
「武……そう…ですね。 ずっと一緒にあなたと生きて行けるのですね…」
胸が熱い。 そんな風に考えられなかった。 目の前の別れが辛くて、それしか見えていなかった。
「それに、こっちの冬休みには帰って来てくれるんだろ?」
「もちろんです。 あなたとまた、クリスマスや正月を過ごしたいですから」
「うん…待ってる。 夕麿、浮気するなよ?」
「する筈がないでしょう? 私はあなた以外には反応しないのですから。
そういうあなたはどうなのです?」
「するわけないだろ?」
「怪しいものです。 新入生が私に似てると喜んでいたではありませんか?」
「はあ!?」
「私がいなくなって、寂しさに負けてつい…」
「バカ言うなよ! 絶対に御厨は夕麿の代わりに何かならない! だって…どんなに雰囲気が似てたって夕麿じゃない。 俺…夕麿の全部が好きだけど、一番好きなのは何かって聞かれたら声だって答える」
「私の…声?」
「うん。 ちょっと意地悪に俺に囁くのも、俺の腕の中で色っぽく啼くのも好きだけど…一番好きだって思うのは…」
武の眼差しが鏡越しに、真っ直ぐに注がれて、視線をそらせない。
「俺が一番好きな夕麿の声は、毅然としてみんなの前で話をする時の。 凛としてて…マイクなしでも、講堂の端までちゃんと届く声。
御厨は声質が違うよ……
それに、俺…夕麿が俺を呼ぶ時の声も好きだ。 呼び捨てにする時も、もうひとつの方も…」
心が熱いもので満たされて行く。 数時間前の渇望が嘘のようだった。
海綿が胸を洗う。 時折触れる指先にいちいち感じて反応して声が漏れる。
「武…お願いです…もう、我慢出来ません…」
熱くなった吐息混じりに言うと、シャワーで泡が洗い流された。
「夕麿、手を付いて…」
武の力ではこの前、夕麿がやったような事は不可能だ。 鏡に向いて這わせて、腰を抱いてそこここに口付ける。
「あッあッ…ヤぁ…武…早く…」
身悶えして求める。
「まだ無理だって…」
形の良い尻を開いて、欲望にヒク付く蕾に舌を這わせた。
「ひィァ…武…止めて…下さい…あッ…ンッあッあッ…」
とんでもない場所を舐められている…… 羞恥に震えそれが快感を呼ぶ。 蕾は快感を貪るように花開いて舌先を招き入れる。
「ああッ!ダメ…そんな…中…舐めないで…ヤぁ…ンあッ…」
指を挿れられた刺激に腰が揺れる。 顔を上げて見た自分の顔は、強過ぎる快感に瞳は潤み、嬌声に開く唇からは唾液が滴り落ちていた。 いつもこんな顔で抱かれているのかと、息を呑んだ途端に体内から指が抜かれた。 代わりに灼熱の塊が蕾を押し開いて挿入されていく。
「あッあッあッあッ…」
熱い。 受け入れたモノも中も熱い。
「ああッ…熱い…」
「夕麿の中も熱いよ…」
「武…早く…」
腰を揺らして抽挿を強請る。 それに煽られるように、武が腰を打ち付けるように動き出した。
「あンあッあッ…ンンあ…」
あまりの快感に眩暈に似た状態になる。 首を振り、溢れる嬌声が止まらない。
「ンあ…武…もうッ…あッ…イく…」
「イってイイよ…俺も…イく…」
「ああッあああッ!」
大きく仰け反って絶頂の痙攣に身を委ねた。 ほぼ同時に武も吐精した。 夕麿は余韻に伏したまま啜り泣く。
「夕麿、大丈夫?」
武が心配して抱き起こす。
「武…武…」
両腕を首に絡めて口付けを強請ると、貪るように激しく唇が重ねられた。
時の流れは指からこぼれ落ちる乾いた砂のようだった。夕麿は薬の助けを借りて梅雨を何とか過ごし、今日の旅立ちの時を迎えた。
昨夜までの雨が嘘のように空は雲一つない晴天だった。 今年の白鳳会のメンバーの海外留学するのは、夕麿たち特待生6人と一般生徒から会へ上がった3人、計9人の卒業式となった。
講堂に高等部全員が集合し卒業生は壇上の席に着く。 今年の卒業式は一つだけ通常と違っていた。 高等部の在校生全員から最後にもう一度、夕麿のピアノが聴きたいという声が上がり彼が答えたのだ選んだ曲はやはりショパンだった。『ポロネーズ 第15番 変ロ短調 別れ』 美しく物悲しい旋律が夕麿らしい選択だった。
夕麿のピアノ、ベヒシュタインは既に数日前に寮の特別室から御園生邸へと運び出されていた。 彼全員の荷物も昨日の午後に全て梱包されて送り出した。 若干残った手荷物も卒業式の実行委員が、ゲートで既に待つ迎えの車に運んでいる筈だった。
『別れ』は7分にわたる長めの曲である。 武は舞台の袖でピアノを弾く夕麿の姿を、瞼に焼き付けるようにじっと見つめていた最後まで涙は見せない。 笑顔で皆を送り出す。 熱くなる目を懸命にこらえて武は立っていた。 祝辞も答辞も互いに笑顔で読んだ。在校生が別れを惜しんで啜り泣いても、共に歩く日の為のホンの僅かな時間の別れ。 共に過ごした一年数ヶ月の出来事が、互いの胸を通り過ぎて行く。
夕麿こそ、武の誇り。 義勝たちと過ごした日々も、夕麿との思い出に欠かせない。 今、武の胸の中は彼らへの感謝でいっぱいになっていた。 この別れは共に生きる未来の日々の為のもの。 そしてこの学院の囚われ人だった夕麿たちを解放し、光が煌めく空へと羽ばたかせる為のもの。
ピアノの音が空間に溶け込んで消えた。 夕麿はしばらく目を閉じて、ピアノの上に手を置いたまま動かなかった。
11年半…夕麿は紫霄学院で過ごした。 泣くのも笑うのも怒るのも学院の中だった。 ここが彼の住まいであり世界だった。
今、最愛の人を置いて旅立つ。
涙が溢れ落ちた。 もう、止める事は出来なかった。 舞台袖から武が歩いて来た。 差し出された手を取って立ち上がった。
「ありがとう、夕麿」
差し出されたハンカチを受け取りながら、紡がれた言葉に嗚咽が漏れる。 義勝たちがやって来て、泣く彼の肩を抱く。
武はひたすら涙をこらえて、夕麿の手を握り締めていた。
本来ならば武は長期休暇以外の時にゲートに出る事は許されない。 だが今日は卒業式であり夕麿を送り出すという事で、特別に生徒会が揃ってなら…という条件で出る許可が下りた。
「麗先輩、お元気で」
「うん、武も元気でね? 来年、ちゃんとUCLAに行くんだよ?」
「はい」
「ロスに遊びに行くからね?」
「待ってます」
「じゃあね!」
まず麗が迎えの車で去って行った。 フランスへ向かう彼とは、会う機会は少なくなるだろう。 屈託のない笑顔どお茶目な性格で、いつも場を和ます人だった。 時折、彼の実家から送られて来る和菓子は絶品で、余り和菓子を知らなかった武をすっかり和菓子好きにしてしまった。 小柄な彼は笑顔を残して爽やかに去って行った。
「貴之先輩、いろいろとお世話になりました。 ありがとうございます」
「こちらこそ、武さまにたくさんの事を学ばせていただきました。 合気道の稽古をお忘れにならないで励まれて下さい」
「頑張ります」
「ロスで再会いたしましょう」
「はい」
「どうかお健やかにお過ごし下さい」
「貴之先輩も!」
再会を約束して貴之も迎えの車に乗り学院を去って行った。
「武」
「武君」
義勝と雅久が順番に武を抱き締めた。
「義勝兄さん、雅久兄さん……夕麿をお願いします。」
「任せておけ」
「あなたも無理はしないで身体を大切に」
「うん、ありがとう。 冬休みには帰国するよね?」
「当たり前だ」
「もちろんです」
「また、一緒にツリーを飾ろうね?」
「ええ」
「上の星は俺がいなきゃ飾れないだろう?」
「うん」
「じゃあな」
「行って来ます」
迎えの車に二人が先に乗った。
武は真っ直ぐに夕麿に歩み寄った。
「武…」
夕麿の胸の中にしっかりと抱き締められた。
「夕麿、俺待ってるからね? 帰国したら迎えに来て」
「ええ、勿論です。
武……どうか身体を大切にして下さい。 何かあったらすぐに連絡を下さい。 飛んで帰って来ますから」
「うん…でもそうならないように頑張る。
夕麿も身体を大事にね? この学院からほとんど出た事がないんだから、気を付けなきゃダメだよ?」
「気を付けます」
夕麿の手が頬に添えられ武は自然に上を向いた。 唇が重ねられる。 武は夕麿の首に腕を絡めて貪るように深く求めた………名残を惜しむようにゆっくりと唇が離れた。
「武…行って来ます。 ごきげんよう…」
「行ってらっしゃい、夕麿」
武が一歩下がり夕麿が車に乗り込んだ。 ドアが閉められ車は静かなエンジン音と共にゆっくりとエントランスを出発した。
武は道に出て車を見つめ続けた。 拳を握り締めて唇を噛んで見送り続けた。
車は遠ざかり小さくなって行く。 それでも武は立っていた。
………やがて、車は遥か遠くへと消えて行って、もう幾ら目を凝らしても見えなくなった。
武の頬を涙が零れ落ちた。 一度溢れた涙はもう止まらなかった。
「夕麿…夕麿……夕麿…夕麿ア…!!」
泣けば夕麿は行くのを躊躇う。
だから笑顔でいた。
でも本当は泣いて縋り付きたかった。
行かないでくれと、 一人にしないでくれと、 叫びたかった。
この数ヶ月、ひたすら耐えた。
我慢し続けた。
だから今……
無事に見送った今… …
泣かせて欲しい
叫ぶのを許して欲しい…
武は道に泣き崩れた
最愛の人の名を呼んで、いつまでも泣き続けた……………
泣き崩れたまま最愛の人の名を呼び続ける武を前に、行長たちはかける声もなく立ち尽くしていた。 実際に武は良く頑張ったと思う。 幾つかの薬を服用しながらストレスに耐えて、こうして無事に夕麿たち卒業生を笑顔で送り出したのだから。泣きたいだけ泣かせてやりたいと思う。 だがゲートにいつまでもも出ているのは許されはしない。
行長は敦紀と二人で武に歩み寄った。
「武さま、もう戻られませんと……」
行長が声をかけると武は頷いてフラフラと立ち上がった。 敦紀がそっと抱き締めた。
「ご立派でした、武さま。 夕麿さまもきっと、誇りに思われたでしょう」
「さあ、戻りましょう」
生徒会の皆に守られるようにして武はゲートから高等部へと戻った。 するとそこには在校生たちが詰め掛けていた。 全員が涙を拭っていた。武の慟哭の叫びはここまで響いていたのだ。 彼らはずっと笑顔の武を冷たいと思っていた。 本当はそれが彼の精一杯の彼らへの餞だったのだとわかって、ここで共に泣いていたのだ。
夕麿が周囲の目もはばからず、武を溺愛していたのは、高等部中が知っている事実である。 夕麿に守られ義勝たちに支えられて来た武を皆が見ていたのだから。 泣き腫らした顔で戻って来た武の姿を見て再び啜り泣きが漏れた。
旅立ちは祝福すべき事。 けれど別れは悲しく辛く寂しい。 明日からは顔を上げてちゃんと前を見て歩く。
だから…今は、泣かせて欲しい…
拭った筈の涙がまた溢れ出す。 武は抱き締めてくれる敦紀に縋って声を上げて泣いた。 誰かが支えてくれなければ立ってはいられなかった。
行長と敦紀に送られて、武はひとりになった部屋へ戻って来た。 玄関の扉を開けてホールからリビングへ入って武は驚愕に立ち尽くした。
リビングいっぱいに美しいピアノの音が溢れていたのだ。
「これ…夕麿のピアノ…?」
独特の音色と弾き癖は間違いなく夕麿の演奏だった。 見ると備え付けのオーディオが起動している。 どうやらあらかじめ時間を計算して、武が部屋に戻って来る頃にタイマーで演奏されるようにセットされていたらしい。
武自身は卒業式の用意の為に今朝、夕麿よりも先に部屋を出ていた。 しかもリビングテーブルの上には、かなりの枚数のCDロムが置いてある。 添えるように置いてあるファイルには、夕麿の美麗な文字で作曲家別に曲名が綴られていた。
その数、80曲余り。 一体いつ録音をしたのか…… そう考えて思い当たるのは一つしかない。 春休みのあの日、水族館用にピアノ演奏の録音に行ったではないか。 帰って来た時には夕麿の指先は赤く腫れ上がっていた… 水族館用に名を借りてこれを録音して来たのだ……
オーディオのスピーカーはリビングを取り囲むように、数設置されている。 上下四方、中央の真上…音そのものに包まれるようにスピーカーから音が溢れ出す。
このスピーカーの設置は夕麿が望んだものだった。 夕麿の奏でる音に包まれる。 止まった筈の涙が、再び溢れて来た。
「もう…泣かせるなよ…夕麿…」
ひとりで部屋に戻って来る武の為の夕麿の優しい心遣いだと感じるからこそ胸がいっぱいで涙が止まらない。 涙を拭いながら着替えるべく螺旋階段を上がり寝室のドアを開けた。
「………あれ?」
違和感があった。 何かが違っている。 武は室内をゆっくりと見回した。 そして…目を見開いた。
イルカのぬいぐるみが一つなくなっていた。 あの日、水族館で購入した3つのぬいぐるみの一番小さいのがなくなっているのだ。 3つのぬいぐるみの一番大きな物は、小夜子へのプレゼントだった。 後の二つは武が自分の為に買ったもの。 3つのぬいぐるみを見て、あの時、小夜子がこう言った。
「まるで私と夕麿さんと武みたいだわね」 と。
大きな者を小夜子に、真ん中の大きさを夕麿に、一番小さいのを武に……小夜子は見立てて笑ったのだ。 夕麿はそれを覚えていて、武の代わりに連れて行ってしまったらしい。 夕麿はロマンチストな所がある。 武は残ったぬいぐるみを抱き締めて呟いた。
「バカ……」
クローゼットにはもう一つ残されているものがあった。 シャツが一枚、残されていたのである。 ふと見るとクリーニングに出す為の籠に入れた、昨日着ていたシャツがない。
「どこまで古風なんだよ…万葉人じゃないんだから、衣の取り替えなんか…するなよ…」
万葉の時代、愛する人と離れ離れになる時には、互いの衣を交換して自分の形代として預ける風習があった。 夕麿は万葉集を諳んじている程好きで、彼のロマンチストな面にたまに反映されていた。
手に取って抱き締めると夕麿の残り香がする。 一体どんな顔をして彼は、こんな事を残して行ったのだろうか?
「もう…」
シャツを握り締めたまま武は笑い泣きした。
3日後、6時限目終了のチャイムが鳴ってすぐだった。
武の携帯が着信を告げるメロディーを奏でた。 夕麿からの着信を教える曲『紫雲英』。 夕麿が武の為に作曲したこの曲を、互いの着信メロディーにしている。 もちろん武の携帯にメロディーを入力したのは夕麿自身である。
〔武?〕
「うん」
〔今、空港にいます〕
「これから発つの?」
〔ええ。 でももう一度あなたの声が聴きたくて〕
「うん。
部屋…面白かったよ?」
〔ふふ…ただの空っぽでは、芸がありませんから〕
「ぬいぐるみ、大事にしろよ? あんなものまで持ってくなんて思わなかったよ?」
〔すみません…何となく目に付いたら、欲しくなってしまったのです〕
「俺の代わりに持ってて…俺もそうするから…妬くなよ?」
〔特別に許す事にします〕
「あのな…」
電話の向こうで夕麿が笑う。 それに重なるように空港内のアナウンスが聞こえて来た。
〔どうやら登場手続きが始まるようです〕
「みんなによろしく伝えて… …電話、するからな」
〔私も必ず…〕
「行ってらっしゃい」
〔行って来ます〕
切れた携帯をしばらく眺めて……武はゆっくりと閉じた。
「夕麿さまですか?」
行長の言葉に無言で頷いた。
「とうとう…行ってしまわれるのですね」
康孝が万感の想いを込めて言う。
「千種も来年、UCLAを目指せば? 雅久兄さんと再会出来るよ? またスパルタで勉強教えてもらえよ。 駆け込みで特待生になれたんだから」
「特待生はうれしいですけど…雅久先輩はちょっと…」
そこに雅久がいるかのように康孝は尻込みした。
「あははは、兄さん怖いからな~」
「武さまにも?」
「琵琶の稽古なんて怖いのなんの…第一、夕麿ですら怖がるんだぞ?」
雅久を怖がる夕麿…思わず全員が想像してしまった。
「底が見えないんだよ…だから怖ッ…」
言葉の途中で武は激しく咳き込んだ。今朝から時折咳き込んでいる。 慌てて行長が背中を撫でる。
「…ごッ…ごめん…」
「夏風邪ですか? 張り詰めていられたから、お身体に負担がかかられているのでは?」
「大丈夫だよ」
笑顔で答えて7時限目の授業へ向かう。行長たちも気になりながらも従った…
放課後の生徒会室はこの時期、閑散としている。 例の如、不安定になる生徒たちの監視の為に人員を風紀に派遣していた。
武ますます激しく咳き込むようになっていた。 先程から背筋を悪寒が走り、胸に刺すような鋭い痛みが走る。 呼吸が上手く出来ず苦しい。 さすがに部屋へ早い目に戻った方が良いと判断して、補佐の敦紀に声を掛けようと立ち上がった。
「!?」
ぐらりと景色が揺れ身体が床に崩れた。
「武さま!?」
敦紀が駆け寄って来て、き起こした。制服の布越しに有り得ないと思う程の熱さを感じる。これはただ事ではない。
「御厨…夕麿に…連絡…するな…」
旅立ったばかりの夕麿には知らせるな、と言って武は意識を失った。
「誰か…誰か、救急車を!」
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