蓬莱皇国物語Ⅱ~飛翔

翡翠

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   奮闘と孤独

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 学祭の準備でバタバタしている最中に、高等部に外部編入生が来る連絡があった。 しかも海外からの留学生だという。 前例の全くない事態に学院中が戸惑っていた。

 10月に入って雫が皇宮警察へ帰り、武の護衛は間部 岳大が行っていた。 夕麿が武を迎えたように、編入生の出迎えはいらないのかと尋ねると周が答えた。

「武さまの時は特別だったのです。 夕麿に一番最初に逢わせる事で、武さまのお心が他へ向かわれないようにする為だったのでないでしょうか?」

「…本当に俺と夕麿を引っ付ける気満々だったわけか…今となっては感謝してるけどね」

 周はまた高等部寮に泊まり込んでいた。 今度は岳大も一緒だ。 雫が引き払った特別室の隣室を、そのまま使用している。

 雑談をしているとエレベーターが最上階に到着した。 フロアへ降りると特別室の方から怒声が響いて来た。

「何故私の為にこの部屋を空けない!? 私に他の生徒と同じような部屋へ入れと申すか!」

 見ると特待生の制服を着た、褐色の肌の生徒が二人、高等部長に怒鳴っていた。 セキュリティードアを警備する警官は、立ち塞がるようにして中には一歩も入れないとばかりだ。

「高等部長、これは何事ですか? 紫霞宮さまが部屋へお戻りですぞ?」

 周が鋭く言い放つ。

「久我さま…ああ、紫霞宮さま、お帰りなさいませ」

 高等部長は狼狽えたように言った。

「貴様がこの部屋の住人か? 今すぐこの部屋を私に明け渡せ」

 武に詰め寄ろうとする留学生を間部が庇った。

「あなたがどなたか知らぬが、紫霞宮さまに対して無礼であろう。 まず名乗り身分を告げなさい、留学生!」

 周の言葉は当然の事だった。 どのような時でも名乗りもあげずに、相手に頼み事や命令をするなど、礼儀知らず以前の問題である。 すると後ろに控えていた、やはり褐色の肌で特待生の制服を着ている少年が進み出た。

「ご無礼を致しました。 こちらはサマルカンド首長国の王太子、ハキム・アマド・シャーリ殿下であらせられます。

 私は殿下の侍従、カリム・マフームと申します」

 カリムと名乗る少年の日本語は訛りもなく流暢だった。

「こちらは紫霞宮武王殿下であらせられます。 私は殿下の侍従のひとり、久我 周、こちらは護衛を務める間部 岳大です」

 確かに相手が王太子なら、武より身分は上と言えるかもしれない。 だが皇家は日本の天皇家に次ぐ世界的権威を保持する古い血筋であり、武は継承権こそ持たないが前の皇太子の遺児である。蓬莱皇国の貴族は諸外国の王族や貴族に敬意は払っても、徹底的に自国の皇家を優先して大切にする。ましてやわがままで傲慢に育てられて、命令しか出来ない礼儀知らずの王太子などに、払う敬意など持ち合わせてはいない。 それが周の率直な気持ちだった。

「申し訳ありませんがお通しください。 紫霞宮さまはお疲れになられています」

 時刻は22時を過ぎた所だった。 実行委員の会議が美禰たちの度重なる妨害発言で長引き、高等部生徒会室へ帰還してからの業務を終えると、どうしてもこんな時間になってしまう。 多忙とストレスで武の食欲が低下気味な状態で、周としては早く休ませたいのだ。

「ならば明日で良い。 この部屋を私に明け渡すと約束しろ」

「立場をわきまえられよ!」

 周の叱責が響き渡った。

「貴様! 王太子たる私を愚弄ぐろうするか!?」

「あなたが王太子殿下だから何だと申されるのです? この学院では最も御身分が高く、尊敬され慕われておられる紫霞宮さまに対する非礼は我が国の貴族の一人として、黙って見過ごすわけにはまいりません。

 カリム殿、追従するのが侍従ではないでしょう? ご自分がお仕えする方のご教育を怠るのは、恥ずべき事だと思われないのですか?」

「久我、やめよ」

 武が止めた。

「ハキム殿下。 その部屋がどういう意味を持っているか、ご存知ないだろう? そこはある条件を失えば、私を幽閉する牢獄になる。

 だから私以外はそこの住人にはなれない」

「牢獄…?」

 驚く二人が退いたのを見て、周と間部がセキュリティードアを開けた。 武はそのまま振り返らずに特別室へと入った。

「編入生って中東の王族だったんだ」

「そのようですね。 二人の経歴を調べておきますか?」

「そうして。 時期がズレてるし…海外からの編入生なんて、普通は受け入れないだろう、ここは?」

「確かに私が知る限りでは前例がありません」

「あの調子でわがままを言われると困るよね。 しかも特待生という事は…生徒会でも問題を起こしてくれそうだ…」

 こんな時、夕麿ならばどう対応するのだろう? 明日、電話で相談してみようと武は思った。



 結局、ハキムとカリムに与えられたのは本来、生徒会長が使う部屋だった。 ここは特別室とその隣室の次くらいに、広く調度品も整えられている。 この部屋と同等なのが白鳳会々長用の部屋だが、司と清治の死後、後任の夕麿が特別室の住人だった事もあって現在は閉鎖されていた。 彼らがそこで生命を絶ったわけではないが、何となく空室のままになっている。

 兎にも角にも周を姓で呼ぶなどという、武がしたくない事をやらせてくれたハキムに、不快感しか覚えなかった。

「あ、夕麿? 今、良いかな? ……うん、相談があるんだ…」

 時間を計算して日付が変わる頃、ロサンゼルスに電話を入れた。 向こうは朝。 本来はこんな時間に電話をしない。 けれどこの複雑に絡んでしまった事態を、どうすれば良いのか戸惑ってしまう。

 まだまだ力量が足らない。 昨年のあの騒動で緊迫した中で、生徒会長としての役目を全うした夕麿を本当に尊敬する。

 朝からのいきなりの電話に快く応じて一緒に考え、アドバイスをくれた夕麿に武は心から感謝した。

 学祭の準備の為に午前中だけになっている授業を終えて生徒会室へと急ぐ。 ここの所、昼食は執務室で軽く摂るだけ。 吐き気はないが咀嚼そしゃくして嚥下えんかするのが酷く難しく感じる。御厨に頼まれて透麿が高等部に来る都度、スイーツを買って来てくれているが、それはまだ美味しいと感じていた。

「武さま、クラス毎の催しの企画書が上がって来ています」

「わかった、すぐに確認する」

 生徒会室の扉から執務室のドアまでのわずか数mの間に次々と書類が手渡される。 実際に受け取るのは御厨ではあるが、それら全てに決済が求められていた。 執務室のデスクにも、本日中に決済の必要な書類が積まれている。

 昨年、夕麿も同じような状態だった。 武は今更ながら夕麿の処理能力の高さに驚愕する。 しかも途中で生徒会室のPCがハッキングに合って、義勝と二人で深夜まで対策と対応にあたっていたのだ。 今、同じ事をしろと言われたら、武は不可能だと答えるしかない。 同じ事が起こっても困るが、将来、御園生の総帥を預かるなどと、本当に自分に可能なのかと思ってしまう。

 次々と書類に目を通して決済をしていく。 承認のサインをするペンは、昨年、夕麿が使っていたドイツ製の万年筆だ。 卒業前に交換したそれを、ただひたすらに動かす。

「失礼致します。 お食事をお持ちいたしました」

「あ、ありがとう」

 一年生執行委員のひとりが、テーブルにトレイを置いて下がる。運ばれて来たのは食堂のメニューでは、お目にかかった事のない鍋焼きうどん。土鍋の蓋を開けるとしっかりと旧都風になっていた。誰かが気を利かせてつくらせたらしい。

 武は小夜子の作ったのを思い出しながら、嬉しそうにうどんを食べ始めた。ゆっくりと食べている暇はなく、早々に終えて再びデスクに戻る。敦紀が立ち上がってトレイを執務室から下げると、行長が覗き込んで周に告げた。

「空っぽになってます」

「なる程、さすがは小夜子さまだ」

  周は武の食事について昨夜、小夜子に電話を入れていた。幾つかのメニューを聞いて、二ヶ所の食堂に話を通してあった。武が食べられないなら食べられる物を作らせる。夕麿の心遣いから行長が学んだ事だった。それを周に話したのである。行長は武が昨年の夕麿に少しでも近付こうと、懸命になっているのを知っている。その想いがストレスに変化しているのも。

 行長から見て夕麿の処理能力は異常とも言える。一度、夕麿が書類を読むのを見た事があるが、そのスピード自体が信じられないものだった。 世の中には速読術なるものが存在するが夕麿のは、恐らく彼自身が成長過程で身に付けたものらしかった。 しかも承認する書類を重ねて半分に折り、一番下からサインをしていくスピードも多分、真似出来る者はいないだろう。 PCのキィ操作はピアノ奏者であるから、当然ながら速く正確。

 標準からあまりにもかけ離れた能力を、理想にしてしまった武を不運と呼ばずにはいられない。 普通に見て夕麿を目標にする所為もあって、武の処理能力は十分に高いと行長は感じている。 もっともそれを言っても武は信じないだろう。だからこそ歴代の生徒会長が果たせなかったものを叶えようと奔走する。 武にしか出来ない事。 夕麿に追い付けないならば違う事をする。 その健気さを認めはするが、身体に負担をかけるような無理をして欲しくはないと、生徒会執行委員も周も思う。

 康孝が武のお茶を入れ直していると昨夜、武が予想した通りにハキムとカリムが高等部長に案内されて生徒会室へと来た。

 この多忙な時に厄介な…と、全員が思った。

「昨夜の…お前が生徒会長とやらか?」

「ハキム殿下、言葉をお選びください」

 カリムが懸命にハキムに注意するがまるでどこ吹く風だ。 武は彼に軽く挨拶すると会議に出席するべく、行長と敦紀、周と岳大を伴って生徒会室を後にした。

「全く…何でこう面倒な事ばっかり…周さん、ここは毎年こうな訳?」

 去年も今年も種類は違っても騒動続きなのは確かだ。

「多少は何かしら問題が起こります。 昨年は事件絡みでしたし…それを除いた騒ぎは、例年通りだと言えます。

 今年は少し毛色が違いますが、武さま、中等部生徒会の反発はあなたにも責任がおありだと思いますが?」

「それは自覚してるよ。 だけど聞けば聞くほど見過ごすわけには行かなくなったんだから」

「お気持ちはわかりますが」

「学祭の企画自体については心配はしてない。 周さんたちの協力もある訳だし」

「武さまご自身がお呼び寄せになられただけです」

 武を慕う者が増え続け大学部にまで及んでいる。それを誰よりも実感しているのは周であろう。

「夕麿に電話したのだけど…あの事件以来、中等部が荒れ出したって本当?」

「教職員と生徒の間に溝が出来たのは確かです。 それに貴族も平堂上の末端から、庶民化が進んで来ています。戸沢 美禰はその典型的な者でしょう。 堂上に名を連ねる者として、認めたくなくはなくても認めざるを得ません」

 太平洋戦争が終わり蓬莱皇国も敗戦国として、様々な事の改革を迫られて変化せざるを得なかった。貴族の中には大戦のきっかけとなった世界恐慌で、持てる資産の殆どを失ってしまった家もあった。かつては千家あった貴族も今は体面を保てなくなってしまい、身分を返上して庶民の中へと消えていった家もある。その数は既に半数を切っているが、戦後は新たな爵位を与える事自体が廃止になっている。

 周にすればこのまま貴族が減り、残った者も美禰のように本来在るべき矜持も失って、皇家を守護する意味を見失っていくのかもしれないと憂う気持ちしかない。

 時の流れは止められない。 特権階級が良いというわけではない。だが昨今の政治の荒廃の原因が、国家に対する責任と義務の放棄であるのを見るにつけ、この国の行く先を本当に憂いてしまう。 そのような権力指向、拝金主義が貴族にまで及びつつある。

 それはまたおとなの都合で子供たちを蔑ろにした事の反動かもしれなかった。 このような風潮が強まればきっと、生真面目で真っ直ぐな夕麿と健気で懸命な武は生き難いだろう。 ある程度は社会の波に呑まれてしまうのは、仕方がないであろうし逃れる事は不可能だ。

 周はその手の夢も素直さや純粋さは、とっくの昔に棄てていた。 両親を含めたおとなを信じられなくなり、自らがおとなになる事自体を嫌悪した。それでも時は流れて、貴族としても皇国民としても成人した。だからこそおとなたちの都合と思惑に翻弄される武を、彼の伴侶として寄り添う夕麿を守りたいと思う。 何の役にもたたないかもしれないが、何かをしたいと願うようになった。 失った想い棄ててしまった筈の夢の欠片がまだ心の片隅に残っていた。

 会議に臨む武は怯む事も媚びる事もない。 誰よりも気高くそれでいて穏やかな温もりを放っていた。それを見守る者は彼と同じ時をこの学院で、共に過ごせる事を誇りにも幸せにも思っていた。

 連日の会議を終えて生徒会室に戻った時には、武はすっかり疲労困憊していた。 自分で直接発言が出来ない立場である事にも苛立ちを感じる。

「お疲れさまです」

「千種、お茶お願い」

 休息用のソファにふんぞり返っているハキムを無視して武は執務室へと向かう。 わがままで学院の事情など知らない王子の相手をしている余裕などない。

「おい…」

 無視されたハキムが声をあげた時、武の携帯から『紫雲英』のメロディーが流れた。

「はい…夕麿?」

 疲れた顔をしていた顔が途端に明るい笑顔になる。 執務室のドアを閉めながら弾んだ声をあげる。 ドアの向こうに武が姿を消すと、そこここから忍び笑いが漏れた。

「お昼にかかって来なくなりましたね?」

 敦紀が行長に言う。

「この時期の忙しさをご存知だからでしょう、夕麿さまは」

「前年度の会長ですものね」

 行長は知っていた。 会議が終了すると周がこっそり、夕麿に合図のメールを送っているのを。

「向こうは夜中…ですよね?」

 康孝が言う。

「午前3時頃…ですね、確か」

「起きていらっしゃるんですね…夕麿さまだって、大学と企業の重役の双方で大変であられるのに」

 拓真がPCから目を上げて言った。

「そりゃね…あの方は『武さま生命』だから。 就寝時間を削る事くらい、当たり前だと思っていらっしゃるよ」

 行長が苦笑しながら言う。

「あれ…? そう言えば久我先輩は?」

 康孝が室内を見回して気付いて言った。

「ああ、周さんは今日は夜勤だそうだ」

「夜勤…ああ、医学部の学生だっけ、あの方は」

「普通は学生に夜勤がつくのは、もっと学年が上がってからだけど、武さまの側近として医学的な事は必要不可欠だからね…」

「夕麿さまも久我先輩も…体力があるよね? 六条家の血筋って丈夫なのかな?」

「まあ、周さんはご母堂さまが六条家の方だけど…そうなのかもしれませんね?」

 敦紀が答える。

「武さまは? 虚弱とは言わないけどご丈夫でないよね?」

「御園生 小夜子さまのご実家、葛岡家も私が知る限りでは、そういうのは聞きません………やはり、皇家のお血筋故ではないでしょうか?」

「かもしれませんね……今上も、あまり丈夫ではあらしゃりませんしね…」

 それぞれが深刻な顔をしている。

「千種、お茶入った?」

 行長が柱の時計を見上げながら言った。

「あ、はい」

「何か食べ物はある? 武さま…会議で出された食事をほとんど召し上がっていらっしゃらない」

「お昼を完食されたのが、ほとんど奇跡ですものね」

「売店で今朝購入した、柏餅えもんがありますが…食されますでしょうか?」

「えもんか…これが、麗先輩のご実家のものならば、喜ばれるのだけど…ないよりは良いか」

 どうにかして麗の実家結城和菓子司の菓子が手に入らないだろうか…と思う。 麗が在校中ならば安易に手に入った。 だが今は伝がない。

 康孝がドアを叩いて執務室のドアを開く 武の楽しげな笑い声が響いた。

「ええ!? そうなの? …………あはっは、何それ!」

 康孝は黙ってテーブルにトレイを置いて静かに執務室を辞した。

 どうやら夕麿はたわいない話で、武の気分を和ませるように仕向けているらしい。 武や生徒会の様子は、行長が毎日メールで貴之に知らせている。当然、貴之から夕麿に内容が知らされているだろう。 周も細かく夕麿や高辻と連絡を取り合っている様子だ。

 彼らは生徒会長としての武の資質は信用している。 心配しているのは武の健康状態なのだ。7月の肺炎の事もあって夕麿たちの心配は、遠く離れているのもあって募るばかりなのだろう。

「さ、仕事、仕事。 みんな、持ち場に戻って」

 行長の言葉に全員が動く。 敦紀は今日の議事録を会議用のテーブルに置いてPC入力を始めた。 武の邪魔をするわけにはいかないので、今は会長執務室には入れない。

「揃って私を無視するのか!?」

 ハキムが声を荒げる。

「申し訳ありませんが、あなたに構う暇はないのです。 学祭が終了したら、生徒会の案内をさせていただきます」

「何!? 王太子たる私を何だと…」

「あなたは外部編入生で、しかも一年生です。 生徒会を動かすのは2年生の役目です。 一年生は補助を務めていただくのが、この学院のルールです」

「補助だと?」

「ついでに言うと身分が何であろうとも、生徒会では会長に従うのがルールです。 それがお嫌ならばどうぞ、その特待生の制服をおやめになってください」

 夕麿たちが苦労して築いて、武が心身を削るようにして守っているものだ。 高飛車に傲慢な態度を身分が高い者の立ち振る舞いだと勘違いしている愚か者に、掻き回されるなど真っ平だと行長は思う。

「ご不満ならばどうぞ、学院をおやめください。ここはあなたの国ではないのです」

 一歩も引く気はない。

「殿下、よろしいではございませんか。寮に戻りましょう」

 カリムが不利と判断して、ハキムを生徒会室から連れ出した。

「カリム、何ゆえに私に逆らう!」

「殿下、あの者の申す通りでごさいます。ここは蓬莱皇国。我々は他国人でございます。しかもこの学院の中は、外とは違う空気が流れているように思えます」

「違う空気?それはあの皇家の者の所為ではないのか?」

「確かにあの方を中心に、よくまとまっていると思えます。しかしそれだけではない様子です」

「そう言えば、電話の相手の話をしていたな?」

「はい。確か…ロクジョウとか、ユーマとか申していたと記憶しています」

「調べてみよ」

「国許へは無理ですので、誰か一般の生徒を捕まえて問い質してみましょう」

 カリムにしてもここは奇妙な場所だった。 男だけの場所は彼らには普通である。 そのどこが奇妙なのかがわからない。

 一方、ハキムは別の事を考えていた。 電話を取って見せた武の笑顔を、綺麗だと思ってしまった自分が信じられなかった。 母国サマルカンドには既に妻がいる。 第一、同性にときめくなど神への反逆にも等しい。

 自分たちには向けられない、幸せそうで明るい笑顔。 執務室の中から漏れ聞こえた笑い声も耳に心地良く響いた。

 彼はあの部屋に幽閉されるかもしれない…と言う。 確か、国許で調べた蓬莱皇国の皇家には『紫霞宮』という名前はなかった筈だ。

 ハキムとカリムは最後に同じ所に辿り着いた。 公式に名前が記載されていない、『紫霞宮』という存在。 武の普段の物言いや立ち振る舞いは、高貴な生まれとは感じられない部分がある。 だが周囲はそれを当たり前のように受け止めている。 他国とはいえやはり疑問は拭えない。

 外とは違う学院の因習に彼らは戸惑ってもいた。ここは何かが違う……理由がわからないまま二人は、多忙を極める生徒会室にそれでも通い続けた。

 
 再び雫が、数人のSPを連れて学院に戻って来た。 貴之から知らされた彼の性癖に、さすがに武も警戒を抱かずにはいられなかった。 多忙を理由に透麿を遠ざけたが、自分の為に配置されただけに申し訳なく思っていた。

 今のところ、ハキムを狙ったと思われるような異変はない。

 この学院は地図には記載されていない。 近くの街の人々も、学院へ商品を納入する業者以外、自分たちの住む場所の近くに、広大な敷地を持つ学院都市がある事を知らないであろう。 万が一耳にしても、正確な位置はわからない筈だ。ここは外部の人間が安易に、侵入出来る場所ではない。 誰かが内部から手引きしない限りは。 出入りの業者も、搬入用道路側のゲートの手前に並ぶ、搬入用倉庫や冷凍庫、冷蔵庫等に商品を置くだけであり、その向こうに入る事はない。 徹底的に隔離遮断された場所なのだ。

 ハキムは少しおとなしくはなった。 それでもSPと雫に警護されている武に、付きまとって悩ませてばかりいた。

 カリムは結局、生徒たちからは何も情報を聞き出せなかった。 彼らはまず武の身分に対する詳細な理由を知らない。 ただ武が『紫霞宮』という立場になった事を、無条件にそのまま受け入れていた。 しかも彼らは異国からの留学生に、目一杯の警戒心を抱いていた。武や夕麿の事を話すような愚か者は存在しない。話して良い事と悪い事をきちんと分ける。 それも貴族としての教育の一貫だった。

 カリムは一人くらいは例外がいる筈とかなりの人数に尋ね回ったが、武と夕麿の人望からしても彼らに口を開く者は皆無だった。

 武はというと紆余曲折の果てに会議が終了し高等部は本格的な準備に入った。 昨年と同じく校庭の一角に本部テントを設置し、武と敦紀が詰めて指揮を取っていた。 昨年の夕麿たちと変わらないが武は合間を見て、先日メールで送信されて来た曲と格闘していた。

 夕麿が送信して来たのは、二曲。 片方は既に夕麿自身の手で詞が書き込まれていた。 もう片方は武が詞を書く約束のものである。

 同時に時間をつくって、軽音楽の練習が始まっていた。 詞のない曲も含めて軽音楽らしいアレンジを周が行い、楽器を担当する他の生徒会メンバーはしっかりと練習している。

 そう残ったのは武の詞だけ。 だから余計に悶絶してしまう。 何しろ周が夕麿に曲を作らせる為に、武に約束させたのはLove Songなのだから。夕麿の詞は武への熱烈なLove Call。 春の花の宴の相聞歌のように返歌を求められ、望まれているようなものだった。

 あの時は武が詠んだ歌に夕麿が返歌した。 あれが元で今でも時折、夕麿から歌がメールで送られて来る。 武はそれに四苦八苦しながら、何とか返しているのだ。

「ったく…こっちの歌まで、返しを書かせるなよ…てか…これを俺に唄えって?

 だあぁぁぁ…軽音楽なんか選択するんじゃなかった!」

 後悔しても既に後の祭りである。

「武さま、百面相、みんなが見てますよ?」

「え!?」

 拓真の言葉に武は慌てて周囲を見回した。 テントの下にいた全員が忍び笑いをしている。 武はそれを見て真っ赤になった。 敦紀が運んでくれた昼食を取りながら、あれやこれやと考え込んでしまっていたのだ。

「それで、歌詞、出来ました?」

「う…まだ…」

「もう時間がありませんよ? 急いでくださいね、夕麿さまの熱烈な詞の返歌」

「返歌って言うな!」

 頭を抱える武にまた皆の笑い声が降り注ぐ。 その光景をハキムは不思議に思って眺めていた。 もし自分ならば笑ったりからかった者を直ちに処罰する。 それが身分の高き者の姿である筈だ。たが武は怒りもせず、ただ首まで真っ赤になって困っている。 不意に後ろでひそひそと話す声がした。

「あーあ、武さま、真っ赤になられてるよ」

「相変わらずお可愛いなあ」

「そりゃ、『氷壁』と呼ばれた夕麿さまがデレデレになられたんだから…」

 振り返ると実行委員の腕章をつけた一般生徒が、武の様子を覗き込むように見ていた。

「はいはい、皆さん、休憩はこれくらいにして、作業を再開してください。

 武さま、講堂の準備のスケジュール表が届いています」

「あ、わかった」

「ご飯、ちゃんと召し上がられました? あれ香々こうこ(漬け物の事)お嫌いでしたっけ?」

「嫌いじゃないけど…喉を通らない気がする」

「後は召し上がっていらっしゃいますね。 次から香々は外させましょう」

 行長は懸命に武がちゃんと食べられるものを考えて、手配に神経を使っていた。未だ食べられるとはいえ、かなり分量が減っていたからだ。これ以上悪化すると、点滴の世話にならなければいけなくなる。出来るだけ武に負担が行かないように、配分に苦心する行長だった。


  その日の朝、まだ会長執務室に入ったばかりの武に、顔色を変えた行長が人払いを頼んだ。

「それで、一体何事、下河辺?」

「物井の正体がわかりました」

「正体?」

「六摂家の庶出の子息の母方の弟になります」

「つまり六摂家のどこかのコネって事?」

「それだけではありません。 その子息、つまり彼の甥は16年前、この学院の中等部に在籍中に自殺しています」

「え…!? 自殺!? 原因は!?」

「失恋だと噂されたとか」

「相手は…?」

 16年前…嫌な予感がした。

「当時の高等部生徒会長、つまり成瀬 雫さんです」

 武は絶句した。 貴之から知らされた話は事実だったのだ。彼の調査能力を疑ったわけではないが、今回は間違いであって欲しいと思っていた。たとえ彼にどのような噂があったとしても。

「待って…あの時、確か…」

 会議室で物井と揉めた時に、雫は自分が66代目の高等部生徒会長だと名乗った筈だ。

「下河辺、物井教諭はどこへ行った?」

「知らされてはおりません。 ですがまだこの学院都市のどこかにいるのは確かです」

 まだ学院都市の中にいる。 それは本来なら有り得ない事だった。 不意にポケットで携帯が『紫雲英』を奏でた。

「はい、夕麿? 珍しいね、こんな時間に?」

 最近は夕方か夜にかかって来る。

「……え!? デマ…? うん…うん……そんな…うん…いや、こっちも大変な事がわかったんだ」

 武はたった今、行長に聞いた話を口にした。

「うん…あの先生が生徒会長を目の敵にしてたのは、それが理由だと思う。 ……うん……多分…わかった。 夜に連絡する。 ……うん、じゃ」

 通話を切って武は深々と溜息を吐いた。 そして今の電話の内容を行長に話す。

「無茶苦茶な話ですね」

「俺、母に聞いてみる」

 武は再び携帯を手に小夜子に電話をかけた。

「母さん? 今、良い? …あのさ、ちょっと聞きたいんだけど…成瀬 雫さんの事で…」

 武が話している間に行長は、デスクの上の書類を整理し、会長用のPCを起動させた。 武が出したばかりのペンケースを定位置に置き、すぐに仕事が始められるようにする。

「あ、下河辺、ありがとう」

 電話を終えた武が、彼の心遣いに礼を言う。

「それで、如何でした?」

「やっぱりデマらしいよ。 母はそれで成瀬さんを外した訳じゃないって言ってた」

「そうですか…」

 武はデスクに着くとペンを手に書類に目を通し始めたが、手に着かないらしくすぐに投げ出してしまった。

「下河辺、成瀬さんを呼んで。 俺…謝らなきゃ…」

 自分に忠義を誓った者を疑った。 どんな事があっても自分だけは信じなくてはならなかったのに。

「失礼致します。 お呼びですか?」

「…成瀬さん。 まずあなたに謝罪しなければなりません。 あなたを疑いました。

 ごめんなさい」

「あなたや皆さんの雰囲気が、以前と違ったのは…何がありましたか? 私の何をお耳になさいましたか?」

 雫に動揺は微塵もなかった。

「16年前の事をアメリカで夕麿に知らせた人がいました。 その人に悪意はなかったと思います。

 …あなたの無実は、高辻先生が晴らしてくださいました」

「清方が…そうでしたか。 彼は…元気でしょうか?」

「はい。 夕麿と雅久兄さんの主治医として、UCLAのロースクールの生徒として、ロサンゼルスの御園生邸にいらっしゃいます」

「彼をここから出してくださったのは武さまですか?」

「周さんから嘆願を受けました。 彼も元生徒会長。『暁の会』の救援対象の資格がありました。 現在は御園生家が身元引受を負っています」

「ありがとうございます…心より……感謝致します」

 うっすらと涙を浮かべて頭を垂れる雫の姿に、武は先程の電話の向こうで響いて来た、母の言葉を思い出していた。

 小夜子はこう言ったのだ。

『成瀬さんはね、武。 確かにあなたを気に入ってくださったの。 でもどなたかをあなたに重ねていらした気がしたの。きっとこの方には忘れ得ない方がいらっしゃるんだって思ったのよ』

「成瀬さん、まだ高辻先生を愛していらっしゃいますね?」

 雫は武の言葉に顔を上げて、真っ直ぐに見つめ返した。

「忘れようとしました。 武さまとのお話もこの想いから逃れられると思って受けました。

 垣間見たあなたは…愛らしかった。

 彼とは違う。 けれど私は…求めてももう得られない相手の…身代わりにあなたをしようとしました…」

 許されない事だとわかってはいた。 それでもずっと心が身体が、求め続けるのはたったひとりだけだった。 学院の内と外に切り離されて、二度と会う日は来ないと諦めていた。だから武と夕麿の警護として学院に戻って来た時には、再会のチャンスがあるのでは…と祈るような気持ちだった。けれど彼はもう学院にはいなかった。 武や夕麿、周の会話に出て来る名前が、間違いないとは思っていても聞く事も出来ずにいた。ただ出られない筈の彼がここを去る事が出来たのを喜んだ。

「清方は私の仕打ちを、恨んでいるでしょうね…」

「いいえ。 先生が夕麿に話した内容からすると、あなたが何故そんな選択をしたのか、わかっていらっしゃいます。 高辻先生も懸命に忘れようとされたようです。 でも多分、まだあなたを想われていると夕麿は感じたそうです」

 引き裂かれた二人。 歳月が流れ様々な出会いの中でそれでもなお想うのはひとり。 夢で会う事すら許されない愛しい人を、ただ直向にひたすらに想い続けて生きて来た。 相手の消息すらわからぬままに。

 武は携帯を手にした。 遥か彼方の夕麿に電話をする。 高辻に直接かけても良かったが、逃げられてしまいそうだった。

「夕麿? あのね、そこに高辻先生、いる? ……うん。 俺からだって言って変わって」

 夕麿は武の言葉の意味がわかったらしい。 武は無言で雫に携帯を手渡して、行長を誘って執務室を出た。

 どうかもう一度。 武はそう祈らずにはいられなかった。 無理な事だとはわかってはいるけれど、誰も不幸になって欲しくない。 本人たちの責任で成就しない恋愛はそれは仕方がないと思う。 だが身勝手な周囲の悪意で、悲しい想いや辛い想いをする人がいなくなって欲しい。触れ合う事の愛しさと優しさの 温もりを知っているからこそ、武は祈らずにはいられない。

 それから武はSPたちに向かって言った。 直接声を掛けるのは初めてだった。

「皆さんにお願いがあります。 物井という元教諭が成瀬さんを狙っている可能性があります。 彼を出来るだけ離さないつもりですから、彼も同時に警護してください」

 日本の天皇が被災地などで、普通にお声をおかけになる時代の今でも、皇族から直に言葉をいただける事の意味をわからない人間は多い。 かつてはその声が聞こえる場所にいられる事すら身分や資格が必要だった。そして皇国では現在でもその習慣は続いていた。SPたちは皇家の貴種を警護する意味を良く理解している。故に武が間に誰もいれずに声を掛けたのは異例中の異例であり、それだけ口にした内容が重大であると察した。 彼らは武の要請に承諾の意味と敬意を込めて深々と礼を返した。

 何としても学祭本番前に物井を発見して、雫に対する誤解を解かなければならない。



「ああ、もう!貸してみろ!のこぎりはこう使うの!」

 武の元気な声が校庭に響く。

「下河辺、何で切ったやつ仕入れないんだよ?」

「それなんですが…」

 康孝が申し訳なさそうに答えた。

「昨年、夕麿さまもそう思われたらしいのですが…雅久先輩に見事に却下されてました」

「はあ…?雅久兄さんか…そりゃ夕麿も提案を引っ込めるな……という事はコストの問題か?」

「はい、3割増くらいになります」

「3割増!?そりゃ高いな~俺でも却下するよ…

 千種、今年は仕方ないけど…どこかで費用削って、資材に回せないか考えてみてくれ。これじゃあ前に進まない。学祭が終わってからで良いから。去年はどうやったんだ?」

「去年は義勝先輩がひとりで、切っていらっしゃいましたよ?」

「へぇ?」

 義勝がそういうのをやる人だとは武は知らなかった。

「体力あるな~俺、これ全部は無理だぞ?誰か出来ないのか?」

 誰も手を上げない。

「冗談だろ~?マジ!?下河辺、どうすんだよ~」

 武が悲鳴をあげる。確かに武に山積みになった資材を、全部鋸で挽く体力はない。

「せめて電気鋸ないの?」

「ありません。そんな危険なものを彼らに使わせられないでしょう?」

「信じらんない…」

 これだから究極のお坊っちゃん学校は嫌だ…と武がブツブツと零す。武の気持ちが理解出来るSPたちがクスクス笑いを漏らした。

 それを見て武が彼らに言う。

「俺、おかしくないよな?全く…鋸は挽けない。釘は打てない。電動式は危ない。八方塞がりだろうが!」

 武が叫ぶ。その光景を雫と周が笑って見ていた。周の手にはデジタルカメラが握られている。

「夕麿さまに?」

「心配性な奴だからな」

「ふうん…」

「成瀬さん、ひょっとして…清方さんと僕の事、根に持ってます?」

「別に。もっと楽しい事を聞きましたから」

 雫は楽しそうに言うと武の方へと歩いて行った。

「武さま、釘打ちなら私が皆さんに教えましょう」

「出来るの!?頼む!

 こら! そんな屁っ放り腰で鋸が挽けるか! 腰を入れろ!」

 実行委員たちを叱り飛ばす武を見ながら、行長と康孝は深々と溜息を吐いた。

「どこの世界に鋸を挽いて釘を打つ宮さまがいる?」

「いらっしゃいますでしょう、副会長。 僕らの目の前に…」

「夕麿さまがご覧になったら、何と仰られるか…」

「案外、笑ってご覧になると思いますけど?」

 行長のボヤキも生徒会では日常茶飯事だ。 武のこんな姿を見て中等部の実行委員たちがひとり、またひとりと作業に積極的に参加をし出した。 美禰が不機嫌にしているが副会長の相良 通宗が、それを無視して誰よりも積極的に武たちを手伝っていた。

 通宗は透麿の願いを聞き入れて、最近では武にスイーツを購入して来る。 敦紀がそれとなく話を振ってみると、透麿が高等部に来られない間、彼の勉強を見てくれているという。

 今年は一番広い高等部の校庭で、中等部と共同の露天が企画された。 OBの訪問を考慮して、その方が警備がし易いと判断されたからだ。

「ちょっと、ハキム王子! 手伝わないならウロウロしない!」

 意味もなく武の周囲にいるハキムに行長の叱責が飛ぶ。 相手は異国の王族だというのにまるで容赦がない。 最初はいちいちヒステリーを起こしていた彼も、最近は慣れたらしく鼻で笑うだけになった。

 一方カリムは作業が面白いらしく、主の許可を得て参加している。 彼は驚く程器用ですぐに、鋸の使い方を覚えて武と交代で資材を挽くようになった。

「千種~飲み物!」

 本部に戻って来た武は汗だくだった。 作業の為に着ているジャージが濡れている程だ。周がクーラーボックスを開けた康孝に声をかけた。

「千種、スポーツドリンクを武さまに!」

「わかりました」

 急いで武に近付くと周はその首に触れた。

「やっぱり…」

 わずかだが熱い。

「誰か、武さまにお着替えを!」

 敦紀が制服を持って駆け付けて来た。 ちゃんと汗を拭う用のタオルも数枚出にしている。

「武さま、いつからです、発熱なさっているのは?」

「……」

 スポーツドリンクをストローで飲む武は周の言葉に返事をしない。 それは昨日や今日ではないという証でもあった。誰も責められない。 医学生の周ですら気が付いていなかったのだ。 周囲を囲わせて武のジャージを脱がせ、汗を拭い制服に着替えさせた。

 本来ならば生徒会長は作業に参加しない。 故にジャージを着る事はない。会長は本部テントで作業の進行具合の報告を受け、全体の指揮を執るのが普通なのだ。 実際に昨年、夕麿はずっとここに制服のままでいた。最も身分が高い者を雑事に参加させるなど、本来ならば言語道断の行為であるのだ。本部を離れるのは高等部内の準備の進行状態確認に見回りに出る時のみ。

 ところが今回は勝手が違う。 規模が昨年の倍になり、参加する実行委員が3倍になっている。それなのに鋸や釘打ちなどの問題が出る。 武は本部を行長に任せてあっちこっちを走り回っている状態だった。 当然、ストレスもかなりの筈。声を張り上げ元気に走り回っている為、誰もが安心していたのだ。

 今回、本部テントの傍らに救護用のテントを設置して、簡易ベッドを用意してあった。 表向きは怪我などをした生徒の為だったが、本当は武の体調を考えての配慮だった。

「下河辺、後を頼む」

「はい、久我先輩」

 元から丈夫ではなかったが夏の肺炎以降、発熱し易くなっている武には配慮をいくら重ねても足りない。 周は雫に声をかけて呼び寄せ、救護用テントに武を運んだ。

「黙っててごめんなさい」

「ちゃんと仰ってください。 まだ十分に免疫力が回復なさっていらっしゃらないのですから、ひとつ間違えばまた肺炎を起こしたり、別の感染症に罹患なさったりする可能性があるのですよ?

 また夕麿が痩せる程心配するでしょう?」

「そう…だね…」

 ぐったりとしている様子を見て先程までの元気さが、武の皆への気遣いだとわかる。

「成瀬さん、武さまをお願いします。

 私は校医に薬の処方をしてもらって来ます」

「承知いたしました」

 周が慌ただしく出て行った。

「ねぇ、成瀬さん。 周さんと成瀬さんは、身分的には変わらないよね?どうして周さんに敬語使うの?」

「それは…周さまが、紫霞宮家の職大夫しきのたいふに任じられていらっしゃるからですよ」

「職大夫? 何それ?」

「本来は皇宮御所と東宮御所のお世話をする官位です。 現在は位階を叙しませんが、旧に基づくと大夫は従四位。

 私は昔で言うと近衛府に所属しています。 官位は…そうですね、将監しょうげんくらいでしょう」

「それってどれくらい?」

「従六位になります」

「ふうん…よくわからない」

「そうですね。 東宮職大夫くらいならば、たまにニュースに名前が出ますが、周さまの場合は…表向きには出ませんから。そもそも宮家には宮司みやのつかさが配置されるのが慣例でありますが、紫霞宮家の場合は通常は宮内省や宮中と切り離された状態にありますので、間の連絡などの役目を担う大夫が任命されたと思われます」

「それって何か条件でもあるの?」

「かつてはその方のお身内が叙位を受けました。 周さまは夕麿さまの従兄にあたられますから適任だと思います」

「でもこの前、ハキム王子に侍従って答えてたけど?」

「ああ、勅命がつい先日、下ったからです。 内々の打診はお受けになっていたようですが」

「そうなんだ…」

 薄暗いテントの中の静けさが、今の武には心地良く感じられた。 間もなく昼休みの時間になる。 食欲はない。 何を口に入れても味がわからない。 吐かないだけマシだと、行長たちが用意してくれる食事を摂る。

 夜ベッドの中で、もう嫌だと泣きたくなる。 問題ばかりが山積みで処理が全く追い付かない。 皆が懸命に補助してくれるがそれでも減らない。誰もいない広い部屋に帰って、冷えたベッドに入って…なかなか眠れない夜を過ごす。 ぬいぐるみを抱き締めて寂しさにひとり泣く。でも朝になったらもう弱音は吐けない。

 顔を上げて真っ直ぐに。 泣き顔を笑顔に寂しさを心の奥に押し込めて、信頼される生徒会長の顔を造る。

 夕麿が側にいない。 その一番のダメージは声を上げて泣く場所を失う事だった。 生徒会メンバーにも、周や雫にも、声を上げて泣く姿は見せられない。 彼らにとっての武は『紫霞宮』という皇家の一員であり、自らが望んだ仕えるべき主。夕麿たちがいない学院ではもう、武を呼び捨てにしたり君を付けて呼ぶ者は存在しない。 誰もが一歩下がって武に向き合う。 どんなに居心地が悪くても逃れる術はない。

 武が『紫霞宮』ではなく『武』に戻れる場所は、今や独りぼっちの寮の部屋だけだった。辛くても独りぼっちで流す涙は心の翳りを増やすだけ。 生徒会長として明るく元気に振る舞えば振る舞う程、寮に帰って無気力になる。入浴してパジャマに着替えて室内履きを履かずに裸足で、部屋を歩いても誰も叱ってくれる人はいない。

「武、何度言えばわかるのです? 裸足で室内を歩き回るのは見苦しいですよ?」

 夕麿がいたならそう言ってスリッパを履かせてくれる。 髪を拭き直してドライヤーで乾かしてくれる。

「夕麿…夕麿…寂しいよ…」

 呼び掛けても独りぼっちの部屋は応えてくれない。

 昼と夜で真逆の自分に武は疲れ果てていた。

 誰にも言えなかった。 毎日、掛かって来る電話の向こうにも。 ただ明るく応えるだけ。



 テントの中のベッドで点滴が落ちるのをただ無言で眺めていた。運ばれて来た食事を無理やりに飲み込んで、簡易ベッドに身を横たえていても疲れ果てた心は眠りを呼ばない。眠りたくても眠れない。

「武さま、少しお休みください」

「うん…」

 返事をして目を閉じる。だが頭ははっきりし過ぎるくらいはっきりしている。それでも周を安心させたくて、閉じた目蓋を開く事はしない。だがそれも長くは続かなかった。吐き気がこみ上げて来たからだ。食べた物を全て吐いてもまだ吐き続けた。胃がひっくり返って口から飛び出してしまいそうな程の苦しみだった。周が背を撫でてくれるが尚も吐き続ける。

 周はもうどうして良いのかわからなくなって狼狽してしまう。彼はまだ医学生に過ぎないのだ。全てに対処出来る訳ではない。見かねた雫がテントから出て高辻に連絡を取った。彼は雫が知らせる武の状態に絶句した。すぐに周と入れ替わる。

「成瀬さん…ありがとう…もう、大丈夫…」

 血の気の失せた顔に、無理に浮かべたとわかる笑みが痛々しい。痛くても痛いと言わない。 苦しくても苦しいと言わない。 辛くても寂しくても、泣きたくても叫びたくても、笑顔の下に押し込めてしまう。 皆が武に要求するものに応える為に。

 戻って来た周が寮へ連れ戻ろうとするが武は首を振って拒んだ。 更に点滴が終わると何事もなかったかのように起き出した。周や雫が止めても、武は生徒会長の顔をして行ってしまう。 その光景に二人は胸が詰まって、何も言えなくなってしまった。武にすればそうでもしなければ眠る事も寂しさを忘れる事も出来ない。

 偽りの自分。 紫霞宮としての仮面を被る事が、ここでは求められているのだから。 真実の顔なぞ、誰も見たいとは思わないから。

 夕麿にも『頑張る』と約束したのだから。



「周さま、清方は何と?」

「張り詰めている間はまだ…それが切れたら大変な事になると。 武さまは私たちには決して、弱音を申されません。以前はただ一人、夕麿にだけは仰られていました。 でも…電話では一言も、口になさらないそうです」

 自分たちでは夕麿の代わりにはなれない。 小夜子とも話してみたが、武は母にも弱音は吐かない。 吐いた事がないと言う。公立の学校で私生児だと虐められたら経験があり、人間関係の構築が上手く出来ないらしいのは、夕麿から聞かされていた。

 自分の我よりも相手の要求を優先してしまう。 夕麿がいれば肩の力を抜いて他者と接するのに。 武は学院では夕麿や義勝たちを緩衝材にして、人間関係を綱渡りして来たのだ。

 大人びた生徒が多い中で、武の心は幼過ぎるとも言えた。周囲の眼差しに怯える小さな子供の心を抱いたままで、17歳まで生きて来てしまったのだ。愛するものに対する絶対的な愛情を示す一方でその手に縋り付いて震える。

 どんな人間にも、アンバランスで両極端な部分は存在する………が、武のそれは余りにも脆い砂の城だった。懸命に築き上げてはすぐに崩れ始める。だが本人にその脆さはわからない。ただ必死なだけ。

 夕麿を見習ってあれこれと気を回し心を砕いてみるが…武の心は閉ざされたままだ。周には最早為す術が見つからない。武の体調を少しでも安定させようと走り回るだけだった。

 同級生であり生徒会メンバーの行長たちとの冗談混じりの軽い会話も、上辺を固めただけの偽りの顔だとわかってはいるのだ。

 最近では夕麿の神経質さが伝染したかの如く、触れられるのを嫌がる傾向を見せていた。高辻は後任の医師を手配すると言っていたが、問題はその医師を武が受け入れるかどうかだった。

 夕麿の心配が現実になっていた。

 その夜は薬を投与されて夢すら見ずに眠った。

 しかし朝になると武はまるで機械仕掛けのように、いつもと変わらなく起き上がりパジャマを脱ぎ捨てて、制服に着替えた。 室内履きがまどろっこしくて裸足や靴下で歩き回る。 靴下を履くのさえ怠い。

 靴下を手に裸足で寝室を出た。 ……と、甘い香りが部屋に満ちていた。 不思議に思って降りていくとあろうことか周が、エプロン姿でキッチンに立っていた。

「周…さん?」

 靴下を手に持ったまま立ち竦む武を、周はじっくりと眺めた。

「武さま、部屋履きは如何なさいました? 裸足で彷徨うろつかれるのは、良い事ではありませんよ?第一、身体が冷えます。 せめて靴下は履いてください」

 武は彼の言葉に目を丸くして、それから鮮やかに笑った。

「はい、ごめんなさい」

 ソファに座って靴下を履くと、周が室内履きを持って来た。

「いけませんよ? 夕麿がいたら叱った筈です」

 言いながら室内履きを武に履かせた。

「うん」

 返事をした武は笑顔だ。

「武さま、僕はお叱りしているのですが…何故笑われるのですか?」

「だって…周さん、夕麿と同じ言い方するんだもの」

 答えながらクスクスと笑う。 武のこんな顔は久しぶりに見る。

「似て…いる…? 僕と夕麿が?」

 初めてだった。 今まで誰もそんな事を言わなかった。

「うん。 髪に触る時の手付きとか…似てるよ? 面白いね」

 武の何気ない言葉に周は歓びを感じる。こんなに簡単な事だったのか…とも思う。同時に悟ったのは自分自身の態度の変化だった。夕麿がいる時といない今。武に対する態度を、自覚しないままで変えていたのだ。恐らくは武はそれに敏感に反応していた。

「で、この良い匂いは何?」

「朝食を作ってみたのですが…お口に合いますかどうか……一応、夕麿のお墨付きですよ?」

「周さんって、料理をする人だったんだ?」

「作れるのは、甘い物ばかりですが」

 言いながら武をダイニングテーブルに着かせた。

「フレンチトースト!?」

 武はテーブルに出された物に驚き、瞬く間に笑顔になった。ナイフで添えられたマーマレードを塗り、何の躊躇いもなく頬張る。

「ん~美味しい!」

 フォークを握り締めて唸るように言った。

「周さん、凄い!」

 手放しで喜ぶ姿が幼い夕麿と重なる。

「お気に召されましたか?」

「うん!……でも、周さんは余り、甘い物は食べないよね?どうして?さっき夕麿のお墨付きとか…言ってたけど?」

 周は笑顔で小学生時代の話を武に聞かせた。

「そっか…周さんって、優しいお兄さんだったんだ」

 その言葉が照れくさい。

「マーマレードをお足しいたしましょう」

 瓶詰めした残り、まだ鍋のものをヘラで皿に乗せると、武の瞳がもっと輝き出す。

「マーマレードもお手製? うわ~凄い!

 周さん、いつでもお嫁に行けるね?」

「武さま、僕に誰の嫁になれと仰有るのです?」

「さあ? そこは自分で探してよ」

 武は楽しそうな笑い声を上げながら、周が用意したフレンチトーストと簡単なサラダを平らげた。

「ごちそうさま! 美味しかった!」

 吐き気が来る様子もない。 高辻より正確に武を把握している夕麿に、今更ながら関心してしまう。

「登校のご用意をなさってください」

「は~い」

 ダイニングから洗面所へ行く武を見送る。 周は少し気分が軽くなった。 少しでも夕麿の代わりになれば…と、気負い過ぎていたのかもしれない。 節度は必要だが、もっとフランクに柔軟に、武と向き合うべきなのだ。

 医師としての心構えが、まだまだ出来てはいないな…と自らに首を振った。 知識だけでは良い医師になれない。 わかってはいるつもりだったが、ここまで現実にぶつかってしまうと、自分の傲りを反省した。


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