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怨憎会苦
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「今日は飛び回るのはナシになさってください」
熱は完全に下がっていたが11月が近付いたこの時期は木枯らしが時折、吹き抜けて辺りの気温を下げる。 本部テントの奥は暖かいが気温が低くくなった外を、ジャージ姿で走り回られたら鼬ごっこになってしまう。本当ならば昨日の今日で部屋で休ませるか、せめて救護テントのベッドに横にならせて置きたいくらいだ。今日は制服で本部テントの会長席にいる。 登校を止められないからこそ周は武に約束をさせた。
「破られますと…お仕置きしますよ、武さま?」
「え…!?」
驚き蒼褪める武に周はニンマリと笑った。
「夕麿に頼まれましたからね、僕は。 武さまの御教育も…と。 夕麿と同じお仕置きは出来ませんから…何か考えて置きます」
「周さんの…イジワル…」
「何か仰いましたか、武さま?」
「……言ってません!」
『拗ねて頬を膨らませプイと横を向く。 子供の時に必要な行動を行わなかった人間は、治療の過程でその行動を行う事がある』
周はそんな言葉を思い出していた。
母一人子一人。 母を心配させない為に、周囲に非難中傷をさせない為に、物わかりの良い優等生でいなければならなかった。 周囲が羨むような子供ならば母は誉められ羨ましがられる。置かれた状況や対象になるものは違えども武と夕麿は、同じような道筋を選択して来たのだろうと周は感じていた。
武は母小夜子の為。
夕麿は六条家の誇りと名誉の為。
それぞれ優等生になる必要があった。 武は喜怒哀楽を捨てて自分の防御を固めた。 夕麿は心を凍り付かせて、完全完璧な鎧をまとった。
武は友人も持たず恋心すら抱いた事がなかった。
夕麿は誰かを求める心そのものを封印した。 友に囲まれてはいてもどんなに慕われても、彼を取り囲む氷壁越しの眼差ししか向けなかった。
武は自分の内側に誰かが入り込み、捨てた筈の喜怒哀楽が呼び戻されるのを恐れた。
夕麿は自分を嫌悪しその自分に触れようとする者に激しい嫌悪感を抱いた。
だが人間はどんなに否定しても、拒否しても、誰かを求める存在である。 一人で誕生し一人で終焉を迎えるからこそ始めと終わりの間、人生という束の間の煌めきと温もりを求めて生きるのだ。求めるからこそ、得られぬ傷みを恐れる。 愛するからこそ、愛されない悲しみを背負う。もし二人が他者よりも、救われている部分を上げるとするならば…彼らは誰も憎まなかった。誰にも恨みを抱かなかった。 与えられた境遇の中でもがき苦しんだけれど、他者の所為にして逃げる事はしなかった。 あくまでも逃げ込んだのは自分の中へだった。
憎しみや恨みは不毛。 しかも必ず連鎖を呼ぶ。 だから彼らは変われたとも言えた。
「でも全く動かないわけにはいかないよ?」
「わかってます。 お忘れですか? 夕麿には無能呼ばわりされてますが、僕も一応、元生徒会長ですよ?」
「知ってるよ? この時期は何してた?」
「目星を付けた実行委員の子を口説いてました」
「仕事してない…」
武が笑い転げる。
「確かに無能ですね、周さま」
雫が横槍を入れた。 彼も周の意図を理解した様子だ。
「伝説の切れ者は何をされていましたか?」
「昼はちゃんと仕事をしていましたよ?」
「夜は?」
「当然、デートです」
「高辻先生と?」
「もちろん。 昨年の武さまも、夜は夕麿さまと過ごされたでしょう?」
そう切り返されて武は真っ赤になった。
「独り者は辛いですね、周さま?」
笑みを浮かべて意味深な眼差しを周に向けて言う。
「周さんさあ…好きな人っていないの?」
「おりません」
武の質問にギクリとしながらも、懸命に取り繕って答えた。
「成瀬さん、周さんをお嫁に貰ってくれる人、どこかにいない?」
「嫁?」
「武さま、だから何故、僕を嫁に行かせたがれるのですか…」
「久我先輩、お嫁さん希望なんですか?」
拓真が後ろから声を掛けた。
「何でそうなる!?」
悲鳴を上げる周にテント内は爆笑の渦に包まれた。
「どっちも経験済みですよねぇ、周さま?」
雫が笑いながら言う。
「そうなの?」
武が驚きつつ不思議そうに問う。
「えっと…いや…あれは…」
「意外だな~。 昔、夕麿に手を出そうとしたらしいし、貴之先輩との事もあるから、抱く側一辺倒かと思ってた」
ニヤニヤと笑いながら武が言う。 どうやら先程の『お仕置き』の言葉の逆襲のつもりらしい。
「根に持っておられますね、武さま」
「まあね。 昔で未遂でもムカつく」
「そんな事を? なる程ね…」
また、雫は意味深に笑う。 周はその顔を軽く睨んだ。
「成瀬さん、絡む相手がいなくなって寂しいのはわかりますが、僕に絡まないでもらえませんか?」
「ふうん…そういうツレない事を仰いますか? 残念ですね…清方からいろいろ頼まれたのですが…」
周は高辻にはいろいろと、周囲にバラされるとマズい事を知られている。 その一部をどうやら雫は聞いているらしい。
「はいはい、何気に惚気はやめてください?」
「別に惚気てませんよ?」
「そこまで…煩い、二人とも。 俺、仕事したいんだけど?」
「あ…」
「え…」
書類を手にした武に睨まれて、二人とも黙り込んでしまった。 いつの間にか、武の顔は生徒会長の顔になっていた。 次々と回って来る書類に目を通して、可か不可を決定していく。 そのスピードには揺るぎない『想い』が見えた。
「お茶をどうぞ」
雫が武の前にお茶を出した。
「ありがとう。 去年、夕麿が飲み食いしないでここで仕事してたけど、何だかわかる気がする。
何でこんな細かい事まで生徒会長が決めるだろ?」
幾枚かの書類を手に武は、誰に言うともなく呟いた。
「拝見いたします」
雫がそれを武から受け取り読む。
「確かに…私の時代には、それぞれの現場で作業しているリーダーに任されていた筈です。
昨年もこれがあったのですか?」
「どうだろう…? 夕麿にメールで聞いてみる…」
現場の判断で済む事まで会長が決済する。 それを止めさせればもう少し武の仕事も減る。 何よりも作業のスピードが上がる筈だ。
夕麿からの返信はすぐに来た。
「え…?」
「武さま?」
「周さん、藤堂先輩に連絡着く?」
「出来ますが?」
「夕麿が昨年はそんな事をしていないって…」
「それで藤堂に確認を?」
「うん。 滝脇先輩、こういうの…慈園院さんの時には?」
「見た事がありません」
「武さま、藤堂からの返信が来ました。 僕の年にもなかったと」
「何かおかしい…何故今年だけこんなものが来る?
逸見!」
「はい、会長」
「これ、どこから来る?」
「確認して来ます!」
拓真が駆け出して行く。 その後ろ姿を見た瞬間、武の心をザラリとした感覚が舐めるように揺れた。 その不快感を確かめようとした瞬間、左腕の傷痕に痛みが走った。
「痛ッ…」
「武さま?」
誰かの強い『想い』に傷痕が反応している?武は呼ばれたように立ち上がり、テントの外へと歩き出した。先程まで晴れていた空が、厚く真っ黒な雲に覆われていた。
「雨が降る。全員雨対策をして屋内へ退避しろ!」
武の指示に全員が慌てて従う。だが武自身は歩みを止めない。追い付いた周が用意していた薄手のコートを羽織らせた。
雫とSPも周囲を窺いながら武に従う。降雨を知らせる湿った匂いのする風が、校庭を囲む木々の梢を揺らす。
「出て来たら如何です、物井先生?」
木立の中に武の声が響いた。雫が慌てる。
「みんなそこから動かないで」
武の言葉にそこにいる全員が、射止められたかのように立ち竦んだ。
「よくわかったな…」
「それだけ感情的なら、俺の力が反応するのは当たり前だけど?」
物井は一人ではなかった。美禰を抱えるようにして姿を現した。その手には日本刀が握られていた。美禰は蒼白で歯の根が合わぬ程震えていた。
「彼は関係ないだろう?あんたが恨んでいるのは、中等部の生徒会長じゃなくて、高等部の生徒会長だろう?
間違うな。今の高等部生徒会長は俺だ。彼を解放しろ」
美禰はまるで学祭準備には参加していない。総指揮の武の元へ、中等部の決済までが回って来るほどだ。多分その辺でサボっていたところを物井に発見されたのだろう。
「断る。
成瀬 雫、やっとお前に出会えた。俺はお前を探していたんだ」
「そのようですね」
雫が武を庇うように立った。
「祥太には何の罪もなかった。ただ学祭の指揮をするお前に憧れただけだ。
それをお前は…」
「昨年、生徒会のPCをハッキングしたのはあんただな?成瀬さんの行方を知りたかったんだろう?でも生徒会のも学院のも、成瀬さんが皇立帝大へ進学した事しか記載されていない。だからあんたは俺たち生徒会長に就任した者に、嫌がらせ以上の事をして腹癒せにして来たんだろう」
夕麿を一年以上にわたって侮辱して来た事実を武は許せない。しかし同時にそこへ至った物井の悲しみや恨みもわかる。
「あなたの狙いは私の筈です。 彼を放しなさい」
雫が一歩前に踏み出した。
「成瀬さん、やめてください。 あなたは無実だ。 あなたに何かあったら、俺は高辻先生に合わす顔がなくなる。
物井先生。 成瀬さんは本当に祥太さんを死に追いやった人々に、保身の為の濡れ衣を着せられただけです」
罪のない人間を恨まされた、物井の16年。無実でありながら愛する人を守る為に、黙って背負って生きて来た雫。
累が及ばぬようにと引き裂かれても、ただ恋人を想い続けた高辻の愛。
ただ保身の為に流された噂。
16年もの歳月が過ぎて再び噂が流れ始めたのは、警察省での人事の争いからだと判明していた。かつて雫に濡れ衣を着せた一族の一人が、来春の人事で雫とライバル状態なのだという。故に雫を排除する為に噂を流した。武の伴侶として候補に上がった時にも、小夜子の耳に話が入るように操作したのだ。
ここにいる誰にも罪はないのだ。
「成瀬、その手の拳銃を自分自身に向けろ!」
日本刀の切っ先が美禰の詰め襟を切り裂く。
「ひッ…ひィィィ」
美禰の口から引きつった悲鳴が漏れた。
日本刀はゾリンゲンの剃刀に匹敵する程、切れ味の良い刀剣である。通常は両手で扱う剣ではあるが、片手でも扱えるように軽量化して造られる。切る・突く・叩くが出来る世界でも有数の刀剣と言える。唯一の欠点は焼きが強い為に、一定以上の衝撃で簡単に折れるという事。また何かを斬ってすぐは刀身が歪み、鞘に入らなくなる。時代劇で人間を複数斬った後に鞘に入れるシーンは物語だけのものである。
雫は無言で銃口を自分の胸に向けた。
「成瀬さん!」
武の声に雫は首を振って答えた。SPたちにも緊張が走る。
「ふははは…死ね…死んでしまえ!」
涙を流しながら物井は笑い続ける。自らに銃口を向けた雫の顔は驚く程静かだった。悲痛な眼差しを向ける武と周に、何もかもを包み込むような笑顔さえ浮かべた。
武は焦った。雫をこのまま死なせるわけにはいかない。高辻に無事に再会させるのだから。その想いは武と周。どちらも同じだった。引き裂かれ16年の歳月が流れても、尚も互いへの愛情を宝物に生きて来た二人を再会させずに、二度と手の届かぬ別れをさせたくはない。
「物井先生、成瀬さんは無実だ」
「煩い!そいつを庇ってお前に何の得がある?ああ、六条が留守の間に慰めてもらってるのか?てっきり久我とよろしくやってるのかと思っていたが…?それとも3人で楽しんでるのか?」
「そんなに同性で愛し合うのがダメな事なのか?同性愛は淫乱なわけじゃない。異性愛にだって浮気者と一途な者がいる。俺たちだって同じだよ」
ただ夕麿だけを愛する想い。それはどんな理由でも穢されたくはない。
「あんたが同性愛を否定するというのは、そのまま亡くなった祥太さんを否定する。そんな単純な図式まで見えないの?第一、ここがどんな場所か、あんたも見て来ただろう?それでも同性で愛し合う俺たちを侮辱するのか?だったら俺たちは誰を何を愛すれば良い?ここに閉じ込められる哀しみをどうすれば癒せる?
非難して憎んであんたは何も見て来なかった。閉じ込められる恐怖も愛する人と引き裂かれてしまう痛みも。この学院で生命を絶つ者の一番の理由は、ここから出られなくなる事だ。あんたにその苦痛や恐怖がわかるか?祥太さんはそれに負けたんだ。負けて絶望して…死ぬ事を選んだ。同級生だった人の証言も幾つか聞いてある」
誰かを恨み復讐だけで生きる。それは悲しみの連鎖しか生まない。武はそれを断ち切りたかった。断ち切らなければまた悲劇は繰り返される。
「煩い!煩い!煩い! それ以上喋ると、こいつを真っ二つにするぞ!
成瀬! 何をしてる! さっさと死んでしまえ!」
物井は興奮状態で既に武の言葉の意味を理解していなかった。
日本刀を胴に当てられた美禰は恐怖で声も発せない。
「わかった。 お前の望みを叶えてやろう。 その代わりその坊やを放すと約束しろ、物井」
「成瀬さん!?」
普段とは違う口調。 多分それは雫の本来の話し方。
「返事はどうした?」
「お前が実行するなら、こんな臆病者のガキなどいらん!」
その言葉が物井の口から放たれた次の瞬間……かん高い拳銃の発射音が響いた。
「成瀬さん!」
武の悲鳴が続く。 雫の手から拳銃が落ちた。 駆け寄って差し出された周の腕の中へ、雫の身体がゆっくりと崩れるように倒れた。
「そんな…どうして…」
茫然と立ち竦む武の口から、呻くような言葉が漏れた。
「こんな事…何の意味もないのに…」
衝撃の余り涙も出ない。
「どうして…復讐して…憎い相手を死なせて…死んだ人が返ってくるなら、俺だってとっくにやってる!」
武はその場に座り込んで、拳で地面を激しく叩いた。
「死んだ人を取り戻せるなら、俺だって何だってする! 出来ないから恨みや憎しみじゃない道を選択したんだ! それを…それを…あんたは…!!」
武は叫びながら立ち上がった。
「戸沢を放せ」
「く…来るな!」
武の全身から怒りの気が立ち上っていた。 夕麿を守る為に佐田川一族を徹底的に叩いたからこそ、武には復讐や報復の虚しさがわかる。
「紫霞宮さま! おやめください!」
SPから上がる声は悲鳴に近かった。 彼らは銃を構えたまま撃てないでいた。 美禰は完全に物井の楯になっている為、タイミングをはかりかねているのだ。だが完全に怒り狂っている武には、怯むような感情は失せていた。
「あんたがここの教師になったのは3年前。 その3年間、何を見てた?毎年、ここでは誰かが死を選ぶ。 歴代の生徒会はそれを止められなくてずっと、ずっと…悔しくて悲しい想いをして来た。周さんの年も慈園院さんの年も…去年も…成瀬さんだって…誰かが死ぬのを止められなかったんだ。何故本当の原因を調べなかった? 成瀬さんの事が濡れ衣だってすぐにわかった筈だ。 この学院には16年前の事を知っている人が、何人か残っているんだから。
結局、あんたは一番楽な選択をしたんだ。だってそうだろ? 本当の原因はここに祥太さんを閉じ込めようとした人たちと、それを可能にする学院にあったんだから」
今でも閉じ込められる全ての生徒を救う事は出来ない。 御園生だけでは限界がある。 だからこそ一定の水準以上の状態のOBに、身元引受の資格が得られるように理事会に掛けてもらっているのだ。閉じ込められても、まだチャンスはある。 それが蜘蛛の糸のように細く脆く儚い夢であったとしても縋って生きて行ける。やがてそれは、閉じ込める事を無意味な事へと変えていく筈だから。
もちろん、武が閉じ込められた場合。どんな事があっても適応される事はない。全ては他者の為。 自ら死を選択した多くの生徒への鎮魂の祈りを込めて学院を改革へと導く為。 内と外でその想いを繋いでいく。雫も…哀しみを知るひとりだ。 外側の活動の中心になってもらいたかった。
「俺は、俺たちは祥太さんのような人をなくす為に頑張って来たのに! あんたはそれを潰すのか!?」
すぐ目の前に迫った武に慌てた物井は美禰を突き飛ばした。 泣きながら這ってその場から逃げ出したのを確認して、武は真っ直ぐに物井と向き合った。
「あんたは愚かだ。 復讐は復讐を呼ぶ。 それは罪のない人を罪へと駆り立てる。恨みを晴らす? こんな状況のどこが晴れてるんだ? 教えてくれよ?!」
悲しかった。 たとえようもなく悲しく痛かった。
「煩い!!」
物井は手にしていた日本刀を武に向かって振り上げた。 振り下ろされれば、恐らくは致命的な傷を負う。武は逃げなかった。 心のどこかで夕麿に謝りながら。 切っ先が風を斬り、武を斬り裂く寸前、銃声が高く長く響いた。物井の手から日本刀が弾き飛ばされ、間髪を入れずに再度銃声が響いた。 物井が右肩を押さえて、ガックリと膝をついた。
「痛たた…ッ!」
雫の苦痛の声が響いた。 武は驚いて振り向く。 雫は周に抱きかかえられるようにして銃を構えていた。
「成瀬さん!?」
SPたちが物井に駆け寄るのを確認して、雫はゆっくりと銃を下ろした。
武が血相を変えて駆け寄った。
「武さま、お怪我は?」
雫は左胸を押さえて苦痛に顔を歪めながら言った。
「俺よりもあなたでしょう!? 何で生きているんです!?」
武の言葉に雫と周は苦笑した。 雫はシャツのボタンを外して、中に着ている白い物を見せた。
「米軍が使用する高性能ボディアーマーです。 国産のの防弾装備は刃物には無力ですので」
物井が何で狙って来るのかわからなかった。 だからナイフなどにも有効な最新型のボディアーマーを密かに身に着けていたのだ。
「だったら教えておいてください!」
「それでは意味がありません。 武さまがご存知ないからこそ、効果があったのですから。 最も日本刀はヤバかったかも…… うわッ! 武さま、泣かれるのは構いませんが縋り付かないで!そこ、折れてるんです! 痛いッ!やめてください! ひぃ!死ぬ~!」
弾丸は貫通しないがボディアーマーは衝撃までは防げない。 至近距離からの発砲は雫の肋骨を砕いていた。 それでも折れた骨が心臓を傷付けないように、計算して銃口を向けて引き金を引いたのだ。
さすがに気の毒に思った周が、行長と康孝に合図して武を離れさせた。
「だから…申し上げた筈です…自分の身は…守ると…」
「救急車、来ました! 成瀬警視、このまま外の病院へ搬送指示が出ています!」
その言葉に雫が頷いた。
「周さま、清方に連絡を…怒るでしょうけど」
「わかりました」
周は雫を乗せた救急車を見送って、まだ泣いている武に駆け寄った。
「武さま」
周が声をかけると武は笑顔で振り返った。周は眉をひそめた。こんな時に笑顔になれる程、武は図太い性格はしていない。いくら無事だったからと言って、雫が重傷を負った事に違いはないのだ。戸惑う周の背後で雷鳴が響いた。続いて激しい雨音が迫って来る。
「武さま、テントに避難なさってください!」
行長が武の手を引く。だが雨足の方が早かった。全員がテントに帰り着いた時には、全身びしょ濡れになっていた。
「武さま、ジャージにお着替えください!」
敦紀がタオルとジャージを手に駆け寄って来た。
「うん、ありがとう、御厨」
「久我先輩も着替えられてください」
「あ…ああ。御厨、僕のは救護テントの方だからここをお願いする。
武さま、ついでに清方さんに連絡して来ます」
「ん…?あ、成瀬さんの事?
わかった」
武は周を見送って詰め襟を脱いだ。襟元の生徒会長記章と学年記章を大事に机に置く。
「うわっ…どうしよう、御厨。下着までびしょ濡れだよ?」
「それは困りましたね…寮からお持ちいたしましょうか?」
「いや…多分、そこのストーブの前にいたら乾く…とは思うけど」
「ストーブ?わかりました。スイッチを入れますから、水分をちゃんと拭ってくださいね?」
「わかってるって」
笑顔で答えるが武の唇は紫色になっていた。敦紀は旧式のストーブに火が点ったのを確認して毛布を取りに走った。昨日は発熱していたのだ。身体を冷やして良いわけがない。康孝も同じ考えらしく、温かい飲み物を淹れていた。
「下河辺、展示物とかは大丈夫か?」
ジャージに着替えた武が声をかける。行長がストーブの前に座った武に駆け寄った。
「会長が先程、雨の警告を出されましたから、濡れてませんよ、展示物や生徒たちは」
「そっか…」
敦紀は毛布を武の肩に掛け、跪くようにして前を合わせた。
「お寒くはあられませんか?」
「うん、暖かくなって来た」
それでも顔色が悪い。 敦紀は武の手から空っぽになったカップを受け取り、側のデスクの上に置いてから、周囲に目配せして武から遠ざけた。
「武さま…」
武の横に椅子を移動させて、敦紀は並ぶように座った。
「ダメですよ、ご自分を偽られたら。 夕麿さまがいつも仰られているでしょう? 辛い時には辛いと、悲しい時には悲しいと、仰らなければいけませんよ?」
武は彼の言葉に目を見開いて絶句した。 余りにも夕麿と同じ言い方だったからだ。 そしてそれは今の武には誰も言ってはくれない言葉でもあった。
「…」
「副会長から伺いました。 成瀬さん、随分思い切った事をなさいますよね…でもこちらはたまりませんよね?もう少しこちらの身になってもらいたいものです」
「うん…どうして良いのか…わかんなかった…怖くて…怖くて…」
武の震える指が毛布を握り締めた。
「私がその場にいたらきっと腰を抜かすか、泣き叫んでいただろうと思います」
恥じるように俯く仕草が、やはりどこかしら夕麿に似ていた。 それが武の胸を突く。 夕麿に会いたかった。
武の頬を涙が零れ落ちた。 泣いてはいけない。 武は漏れそうになる嗚咽を歯を噛み締めて殺す。 敦紀は立ち上がって武を抱き締めた。
「我慢なさらないでください。 大丈夫です、今は誰もいません」
雨の中、本部テントには誰もいなかった。 敦紀の合図の意味を理解して皆、そっと別の場所へ移動したのだ。
武は涙で霞んだ目で周囲を見回した。 確かに自分と敦紀しかいない。 武を抱き締める敦紀の腕は、確かに夕麿のものとは違う。 それでもどこかが似ていた。武は手を伸ばして、敦紀の詰め襟の胸元を握り締めた。 涙がとめどなく溢れ、口からは振り絞るような嗚咽が漏れた。
怖かったのだ。 純粋に自分の目の前で雫が傷を負って倒れたのが。 空気を貫き引き裂いた銃声のかん高い音が、これほど恐怖を呼ぶものだとは知らなかった。怖かった。 怖かったからこそ武は日本刀を手にした、物井に迫ったのだ…怖かったから。
泣きじゃくりながら武の身体はありありと蘇って来る恐怖に戦慄いた。
敦紀は震える武をしっかりと抱き締めて、いつか見た夕麿の仕草を真似て、武の髪を指で梳くようにして撫でた。
夕麿にはなれない。 如何に似ていると揶揄されても、夕麿は夕麿、敦紀は敦紀。 別々の存在だ。 声が似ていたら武をもっと安心させれるかもしれないが、夕麿とは声質からしてまるで違う。それでも武が張り詰めていた気を緩ませたのは、自分が夕麿にどことなく似ている部分があるからだと思っていた。武の孤独は夕麿にしか埋められない。でも少しだけでも、一時でも、忘れられる時間があれば、武のストレスは軽減されないだろうか。
武は頑張り屋で自分を限界を超えてまで、自分の立場を貫こうとする。敦紀より1歳年上だけれど武はどこか幼く見える時がある。 様々な事に怯えて身を縮こませる幼子のような、そんな雰囲気を漂わせている時があるのだ。夕麿たちが側にいると武はそれを隠そうともしないで甘えていた。 彼らも兄のように父のように応えていた。
父親の存在しない家庭で育った武。 その欠落が見せる幼さなのかもしれないと、敦紀は最近になって何となく感じるようになった。 その顔を生徒会長としての顔や紫霞宮としての顔の下に、無理やり覆い隠してしまう姿は痛々しくて、今は同室の行長と繰り返し話し合った。 だが周にすらわからないものをもっと若い彼らにはもっとわからなかった。二人は蒼褪めた顔をして懸命に振る舞う武を見て、泣かせて上げたいと直感的に思ったのだ。 こうして泣いている武を抱き締めていると、いつも彼はいっぱい一杯でいるのに気が付いた。
それは夕麿を守ろうとした時も同じ。 人との関わりにとても不器用な武の姿が今、やっと敦紀には見えて来た。 いつも行長が気にしていたのはこれだったのだと思う。 ありのままの武でも皆はちゃんと受け入れる筈だ。 だが武はそうは思ってはいない。
ああ、そうか。 と納得する答えを敦紀は見つけ出した。 夕麿が言っていたではないか。
『私になる必要はありません』 と…
夕麿の存在が生徒会長としても、学院内で最も身分高き者としても、武の理想になり過ぎているだけなのだ。
「武さま、先程、中等部の生徒が覗きに来てました」
「?」
不思議そうな瞳が見つめて来る。
「憧れの高等部生徒会長に会いたかったそうです」
「それ…高等部生徒会長ってのだけ…一人歩きしてない…?」
ようやく泣き止んだ武、途切れ途切れに言った。
「ちゃんと武さまにお目もじしたかったみたいですよ? 中等部の生徒会室での一件、あちらではかなり噂になっているみたいです。
お陰で透麿君の周りは、大変な状態らしいです」
「夕麿の事じゃなくて? 本当に俺?」
「雨が止んだらまた、来ると思います。 ご自分で確かめられたら?」
「……恥ずかしいよ…」
頬を染めて俯く。 年上相手に可愛いと思う。 何となくデレデレの夕麿の気持ちがわかってしまう。
「物井元教諭の事も片付きましたから、透麿君に出入り許可を出しますね?」
「うん…良いよ」
「お茶、もう一杯いががですか?」
「うん、欲しい」
まだ雷鳴が地面を揺るがせていた。 雨足も衰えない。
「去年はこんな雨、降らなかったのにな」
「そうですね、小雨程度ならありましたけど」
何を見ても想いを馳せるのは夕麿の事だった。
「夕麿さまがいらっしゃる時に、こんなお天気にならなくて良かったですね?」
「うん。 でも、まだ去年の今頃はそんなに酷い状態じゃなかったから」
カップを受け取って武は雨に煙る校庭を眺めた。
「ほとんど完全かな?」
「そうですね。 やはり武さまが動かれたのが、みんなの士気を高めたようです。 副会長は『鋸挽いて釘打ちする宮さまがどこの世界にいる』って、嘆かれていましたけどね」
クスクスと笑う敦紀に武も笑う。
「母がさ、そういうのダメでさ…仕方なく覚えたんだよ。 まさかこんな所で役に立つとは思わなかったけど」
建て付けの悪いボロアパートで、壁やドアの補修をしたのを思い出した。 自分たちの部屋だけでなく他の部屋のも頼まれて補修して、そのお礼に大家が家賃を下げてくれたのを覚えている。
「それにしても…義勝兄さんが鋸を使えたなんて、知らなかったなあ…」
「私もびっくりしました」
「体格やあの性格から考えると違和感なさ過ぎだけど…」
武はまた楽しげに声を上げて笑う。 そこへ周が戻って来た。
「御厨、僕にもお茶を」
「はい」
「高辻先生、何だって?」
「ついでに2~3発殴っておいて欲しかったそうです」
周が笑い混じりに言う。
「あははは…あんなに痛がってたんだから、十分だと思うけど?」
笑い転げる武に周は胸を撫でおろした。 お茶を持って来た敦紀にそっと礼を告げる。
「あ…止んだ」
武が立ち上がった。
周は思う。 人間は出会いによって愛し合う。 求め合う。 そこから憎しみが生まれ、怨みが生まれる。 そうなれば人と人との結び付きが苦痛になる。 皮肉なものだと。誰かに会わなければ、憎しみや怨みの苦しみは生まれない。 だが同時に愛する事も愛される事もない。 人としての至高の歓びも、奈落の底の闇も出会いの中から生じるのだ。
けれど憎しみや怨みは虚しい。 何故ならばそれは、相手にその因があるわけではないからだ。その対象となる人間がいなくなっても、本当の意味で心から憎しみも怨みも完全に消えない。 何故ならば憎しみも怨みも、存在するのはその感情を持つ人間の中だからだ。 自らの内なる憎しみや怨みを昇華させない限り、苦しみから脱却する事など出来ない。 澄み切った青空のような、一点の曇りもない心は得られないのだ。
理論としてわかっても、どこまでそのように生きて行けるだろうか? 憎しみや怨みは不毛だ。 生むのは苦しみと更なる憎しみと怨みだけ。 出会いが愛も憎しみも怨みももたらすならば、愛に生きたいと周は願う。
たとえ胸を満たす想いが、報われる事がないとしても。 想う人の幸せを祈る事は出来る。 想い人が伴侶として愛する方を守る。 辛くないわけではない。 それでも氷のように冷たい眼差しが、温もりに満ち溢れて、その微笑みに幸せが零れているのを見てしまったから。 それを消したくはない。 二度とあのように傷付いて欲しくはない。
こういう愛し方もあるのだと。 周は雲の切れ目から降り注ぐ光を見上げて、愛しい想い人の含羞んだ笑顔を思い出していた。
熱は完全に下がっていたが11月が近付いたこの時期は木枯らしが時折、吹き抜けて辺りの気温を下げる。 本部テントの奥は暖かいが気温が低くくなった外を、ジャージ姿で走り回られたら鼬ごっこになってしまう。本当ならば昨日の今日で部屋で休ませるか、せめて救護テントのベッドに横にならせて置きたいくらいだ。今日は制服で本部テントの会長席にいる。 登校を止められないからこそ周は武に約束をさせた。
「破られますと…お仕置きしますよ、武さま?」
「え…!?」
驚き蒼褪める武に周はニンマリと笑った。
「夕麿に頼まれましたからね、僕は。 武さまの御教育も…と。 夕麿と同じお仕置きは出来ませんから…何か考えて置きます」
「周さんの…イジワル…」
「何か仰いましたか、武さま?」
「……言ってません!」
『拗ねて頬を膨らませプイと横を向く。 子供の時に必要な行動を行わなかった人間は、治療の過程でその行動を行う事がある』
周はそんな言葉を思い出していた。
母一人子一人。 母を心配させない為に、周囲に非難中傷をさせない為に、物わかりの良い優等生でいなければならなかった。 周囲が羨むような子供ならば母は誉められ羨ましがられる。置かれた状況や対象になるものは違えども武と夕麿は、同じような道筋を選択して来たのだろうと周は感じていた。
武は母小夜子の為。
夕麿は六条家の誇りと名誉の為。
それぞれ優等生になる必要があった。 武は喜怒哀楽を捨てて自分の防御を固めた。 夕麿は心を凍り付かせて、完全完璧な鎧をまとった。
武は友人も持たず恋心すら抱いた事がなかった。
夕麿は誰かを求める心そのものを封印した。 友に囲まれてはいてもどんなに慕われても、彼を取り囲む氷壁越しの眼差ししか向けなかった。
武は自分の内側に誰かが入り込み、捨てた筈の喜怒哀楽が呼び戻されるのを恐れた。
夕麿は自分を嫌悪しその自分に触れようとする者に激しい嫌悪感を抱いた。
だが人間はどんなに否定しても、拒否しても、誰かを求める存在である。 一人で誕生し一人で終焉を迎えるからこそ始めと終わりの間、人生という束の間の煌めきと温もりを求めて生きるのだ。求めるからこそ、得られぬ傷みを恐れる。 愛するからこそ、愛されない悲しみを背負う。もし二人が他者よりも、救われている部分を上げるとするならば…彼らは誰も憎まなかった。誰にも恨みを抱かなかった。 与えられた境遇の中でもがき苦しんだけれど、他者の所為にして逃げる事はしなかった。 あくまでも逃げ込んだのは自分の中へだった。
憎しみや恨みは不毛。 しかも必ず連鎖を呼ぶ。 だから彼らは変われたとも言えた。
「でも全く動かないわけにはいかないよ?」
「わかってます。 お忘れですか? 夕麿には無能呼ばわりされてますが、僕も一応、元生徒会長ですよ?」
「知ってるよ? この時期は何してた?」
「目星を付けた実行委員の子を口説いてました」
「仕事してない…」
武が笑い転げる。
「確かに無能ですね、周さま」
雫が横槍を入れた。 彼も周の意図を理解した様子だ。
「伝説の切れ者は何をされていましたか?」
「昼はちゃんと仕事をしていましたよ?」
「夜は?」
「当然、デートです」
「高辻先生と?」
「もちろん。 昨年の武さまも、夜は夕麿さまと過ごされたでしょう?」
そう切り返されて武は真っ赤になった。
「独り者は辛いですね、周さま?」
笑みを浮かべて意味深な眼差しを周に向けて言う。
「周さんさあ…好きな人っていないの?」
「おりません」
武の質問にギクリとしながらも、懸命に取り繕って答えた。
「成瀬さん、周さんをお嫁に貰ってくれる人、どこかにいない?」
「嫁?」
「武さま、だから何故、僕を嫁に行かせたがれるのですか…」
「久我先輩、お嫁さん希望なんですか?」
拓真が後ろから声を掛けた。
「何でそうなる!?」
悲鳴を上げる周にテント内は爆笑の渦に包まれた。
「どっちも経験済みですよねぇ、周さま?」
雫が笑いながら言う。
「そうなの?」
武が驚きつつ不思議そうに問う。
「えっと…いや…あれは…」
「意外だな~。 昔、夕麿に手を出そうとしたらしいし、貴之先輩との事もあるから、抱く側一辺倒かと思ってた」
ニヤニヤと笑いながら武が言う。 どうやら先程の『お仕置き』の言葉の逆襲のつもりらしい。
「根に持っておられますね、武さま」
「まあね。 昔で未遂でもムカつく」
「そんな事を? なる程ね…」
また、雫は意味深に笑う。 周はその顔を軽く睨んだ。
「成瀬さん、絡む相手がいなくなって寂しいのはわかりますが、僕に絡まないでもらえませんか?」
「ふうん…そういうツレない事を仰いますか? 残念ですね…清方からいろいろ頼まれたのですが…」
周は高辻にはいろいろと、周囲にバラされるとマズい事を知られている。 その一部をどうやら雫は聞いているらしい。
「はいはい、何気に惚気はやめてください?」
「別に惚気てませんよ?」
「そこまで…煩い、二人とも。 俺、仕事したいんだけど?」
「あ…」
「え…」
書類を手にした武に睨まれて、二人とも黙り込んでしまった。 いつの間にか、武の顔は生徒会長の顔になっていた。 次々と回って来る書類に目を通して、可か不可を決定していく。 そのスピードには揺るぎない『想い』が見えた。
「お茶をどうぞ」
雫が武の前にお茶を出した。
「ありがとう。 去年、夕麿が飲み食いしないでここで仕事してたけど、何だかわかる気がする。
何でこんな細かい事まで生徒会長が決めるだろ?」
幾枚かの書類を手に武は、誰に言うともなく呟いた。
「拝見いたします」
雫がそれを武から受け取り読む。
「確かに…私の時代には、それぞれの現場で作業しているリーダーに任されていた筈です。
昨年もこれがあったのですか?」
「どうだろう…? 夕麿にメールで聞いてみる…」
現場の判断で済む事まで会長が決済する。 それを止めさせればもう少し武の仕事も減る。 何よりも作業のスピードが上がる筈だ。
夕麿からの返信はすぐに来た。
「え…?」
「武さま?」
「周さん、藤堂先輩に連絡着く?」
「出来ますが?」
「夕麿が昨年はそんな事をしていないって…」
「それで藤堂に確認を?」
「うん。 滝脇先輩、こういうの…慈園院さんの時には?」
「見た事がありません」
「武さま、藤堂からの返信が来ました。 僕の年にもなかったと」
「何かおかしい…何故今年だけこんなものが来る?
逸見!」
「はい、会長」
「これ、どこから来る?」
「確認して来ます!」
拓真が駆け出して行く。 その後ろ姿を見た瞬間、武の心をザラリとした感覚が舐めるように揺れた。 その不快感を確かめようとした瞬間、左腕の傷痕に痛みが走った。
「痛ッ…」
「武さま?」
誰かの強い『想い』に傷痕が反応している?武は呼ばれたように立ち上がり、テントの外へと歩き出した。先程まで晴れていた空が、厚く真っ黒な雲に覆われていた。
「雨が降る。全員雨対策をして屋内へ退避しろ!」
武の指示に全員が慌てて従う。だが武自身は歩みを止めない。追い付いた周が用意していた薄手のコートを羽織らせた。
雫とSPも周囲を窺いながら武に従う。降雨を知らせる湿った匂いのする風が、校庭を囲む木々の梢を揺らす。
「出て来たら如何です、物井先生?」
木立の中に武の声が響いた。雫が慌てる。
「みんなそこから動かないで」
武の言葉にそこにいる全員が、射止められたかのように立ち竦んだ。
「よくわかったな…」
「それだけ感情的なら、俺の力が反応するのは当たり前だけど?」
物井は一人ではなかった。美禰を抱えるようにして姿を現した。その手には日本刀が握られていた。美禰は蒼白で歯の根が合わぬ程震えていた。
「彼は関係ないだろう?あんたが恨んでいるのは、中等部の生徒会長じゃなくて、高等部の生徒会長だろう?
間違うな。今の高等部生徒会長は俺だ。彼を解放しろ」
美禰はまるで学祭準備には参加していない。総指揮の武の元へ、中等部の決済までが回って来るほどだ。多分その辺でサボっていたところを物井に発見されたのだろう。
「断る。
成瀬 雫、やっとお前に出会えた。俺はお前を探していたんだ」
「そのようですね」
雫が武を庇うように立った。
「祥太には何の罪もなかった。ただ学祭の指揮をするお前に憧れただけだ。
それをお前は…」
「昨年、生徒会のPCをハッキングしたのはあんただな?成瀬さんの行方を知りたかったんだろう?でも生徒会のも学院のも、成瀬さんが皇立帝大へ進学した事しか記載されていない。だからあんたは俺たち生徒会長に就任した者に、嫌がらせ以上の事をして腹癒せにして来たんだろう」
夕麿を一年以上にわたって侮辱して来た事実を武は許せない。しかし同時にそこへ至った物井の悲しみや恨みもわかる。
「あなたの狙いは私の筈です。 彼を放しなさい」
雫が一歩前に踏み出した。
「成瀬さん、やめてください。 あなたは無実だ。 あなたに何かあったら、俺は高辻先生に合わす顔がなくなる。
物井先生。 成瀬さんは本当に祥太さんを死に追いやった人々に、保身の為の濡れ衣を着せられただけです」
罪のない人間を恨まされた、物井の16年。無実でありながら愛する人を守る為に、黙って背負って生きて来た雫。
累が及ばぬようにと引き裂かれても、ただ恋人を想い続けた高辻の愛。
ただ保身の為に流された噂。
16年もの歳月が過ぎて再び噂が流れ始めたのは、警察省での人事の争いからだと判明していた。かつて雫に濡れ衣を着せた一族の一人が、来春の人事で雫とライバル状態なのだという。故に雫を排除する為に噂を流した。武の伴侶として候補に上がった時にも、小夜子の耳に話が入るように操作したのだ。
ここにいる誰にも罪はないのだ。
「成瀬、その手の拳銃を自分自身に向けろ!」
日本刀の切っ先が美禰の詰め襟を切り裂く。
「ひッ…ひィィィ」
美禰の口から引きつった悲鳴が漏れた。
日本刀はゾリンゲンの剃刀に匹敵する程、切れ味の良い刀剣である。通常は両手で扱う剣ではあるが、片手でも扱えるように軽量化して造られる。切る・突く・叩くが出来る世界でも有数の刀剣と言える。唯一の欠点は焼きが強い為に、一定以上の衝撃で簡単に折れるという事。また何かを斬ってすぐは刀身が歪み、鞘に入らなくなる。時代劇で人間を複数斬った後に鞘に入れるシーンは物語だけのものである。
雫は無言で銃口を自分の胸に向けた。
「成瀬さん!」
武の声に雫は首を振って答えた。SPたちにも緊張が走る。
「ふははは…死ね…死んでしまえ!」
涙を流しながら物井は笑い続ける。自らに銃口を向けた雫の顔は驚く程静かだった。悲痛な眼差しを向ける武と周に、何もかもを包み込むような笑顔さえ浮かべた。
武は焦った。雫をこのまま死なせるわけにはいかない。高辻に無事に再会させるのだから。その想いは武と周。どちらも同じだった。引き裂かれ16年の歳月が流れても、尚も互いへの愛情を宝物に生きて来た二人を再会させずに、二度と手の届かぬ別れをさせたくはない。
「物井先生、成瀬さんは無実だ」
「煩い!そいつを庇ってお前に何の得がある?ああ、六条が留守の間に慰めてもらってるのか?てっきり久我とよろしくやってるのかと思っていたが…?それとも3人で楽しんでるのか?」
「そんなに同性で愛し合うのがダメな事なのか?同性愛は淫乱なわけじゃない。異性愛にだって浮気者と一途な者がいる。俺たちだって同じだよ」
ただ夕麿だけを愛する想い。それはどんな理由でも穢されたくはない。
「あんたが同性愛を否定するというのは、そのまま亡くなった祥太さんを否定する。そんな単純な図式まで見えないの?第一、ここがどんな場所か、あんたも見て来ただろう?それでも同性で愛し合う俺たちを侮辱するのか?だったら俺たちは誰を何を愛すれば良い?ここに閉じ込められる哀しみをどうすれば癒せる?
非難して憎んであんたは何も見て来なかった。閉じ込められる恐怖も愛する人と引き裂かれてしまう痛みも。この学院で生命を絶つ者の一番の理由は、ここから出られなくなる事だ。あんたにその苦痛や恐怖がわかるか?祥太さんはそれに負けたんだ。負けて絶望して…死ぬ事を選んだ。同級生だった人の証言も幾つか聞いてある」
誰かを恨み復讐だけで生きる。それは悲しみの連鎖しか生まない。武はそれを断ち切りたかった。断ち切らなければまた悲劇は繰り返される。
「煩い!煩い!煩い! それ以上喋ると、こいつを真っ二つにするぞ!
成瀬! 何をしてる! さっさと死んでしまえ!」
物井は興奮状態で既に武の言葉の意味を理解していなかった。
日本刀を胴に当てられた美禰は恐怖で声も発せない。
「わかった。 お前の望みを叶えてやろう。 その代わりその坊やを放すと約束しろ、物井」
「成瀬さん!?」
普段とは違う口調。 多分それは雫の本来の話し方。
「返事はどうした?」
「お前が実行するなら、こんな臆病者のガキなどいらん!」
その言葉が物井の口から放たれた次の瞬間……かん高い拳銃の発射音が響いた。
「成瀬さん!」
武の悲鳴が続く。 雫の手から拳銃が落ちた。 駆け寄って差し出された周の腕の中へ、雫の身体がゆっくりと崩れるように倒れた。
「そんな…どうして…」
茫然と立ち竦む武の口から、呻くような言葉が漏れた。
「こんな事…何の意味もないのに…」
衝撃の余り涙も出ない。
「どうして…復讐して…憎い相手を死なせて…死んだ人が返ってくるなら、俺だってとっくにやってる!」
武はその場に座り込んで、拳で地面を激しく叩いた。
「死んだ人を取り戻せるなら、俺だって何だってする! 出来ないから恨みや憎しみじゃない道を選択したんだ! それを…それを…あんたは…!!」
武は叫びながら立ち上がった。
「戸沢を放せ」
「く…来るな!」
武の全身から怒りの気が立ち上っていた。 夕麿を守る為に佐田川一族を徹底的に叩いたからこそ、武には復讐や報復の虚しさがわかる。
「紫霞宮さま! おやめください!」
SPから上がる声は悲鳴に近かった。 彼らは銃を構えたまま撃てないでいた。 美禰は完全に物井の楯になっている為、タイミングをはかりかねているのだ。だが完全に怒り狂っている武には、怯むような感情は失せていた。
「あんたがここの教師になったのは3年前。 その3年間、何を見てた?毎年、ここでは誰かが死を選ぶ。 歴代の生徒会はそれを止められなくてずっと、ずっと…悔しくて悲しい想いをして来た。周さんの年も慈園院さんの年も…去年も…成瀬さんだって…誰かが死ぬのを止められなかったんだ。何故本当の原因を調べなかった? 成瀬さんの事が濡れ衣だってすぐにわかった筈だ。 この学院には16年前の事を知っている人が、何人か残っているんだから。
結局、あんたは一番楽な選択をしたんだ。だってそうだろ? 本当の原因はここに祥太さんを閉じ込めようとした人たちと、それを可能にする学院にあったんだから」
今でも閉じ込められる全ての生徒を救う事は出来ない。 御園生だけでは限界がある。 だからこそ一定の水準以上の状態のOBに、身元引受の資格が得られるように理事会に掛けてもらっているのだ。閉じ込められても、まだチャンスはある。 それが蜘蛛の糸のように細く脆く儚い夢であったとしても縋って生きて行ける。やがてそれは、閉じ込める事を無意味な事へと変えていく筈だから。
もちろん、武が閉じ込められた場合。どんな事があっても適応される事はない。全ては他者の為。 自ら死を選択した多くの生徒への鎮魂の祈りを込めて学院を改革へと導く為。 内と外でその想いを繋いでいく。雫も…哀しみを知るひとりだ。 外側の活動の中心になってもらいたかった。
「俺は、俺たちは祥太さんのような人をなくす為に頑張って来たのに! あんたはそれを潰すのか!?」
すぐ目の前に迫った武に慌てた物井は美禰を突き飛ばした。 泣きながら這ってその場から逃げ出したのを確認して、武は真っ直ぐに物井と向き合った。
「あんたは愚かだ。 復讐は復讐を呼ぶ。 それは罪のない人を罪へと駆り立てる。恨みを晴らす? こんな状況のどこが晴れてるんだ? 教えてくれよ?!」
悲しかった。 たとえようもなく悲しく痛かった。
「煩い!!」
物井は手にしていた日本刀を武に向かって振り上げた。 振り下ろされれば、恐らくは致命的な傷を負う。武は逃げなかった。 心のどこかで夕麿に謝りながら。 切っ先が風を斬り、武を斬り裂く寸前、銃声が高く長く響いた。物井の手から日本刀が弾き飛ばされ、間髪を入れずに再度銃声が響いた。 物井が右肩を押さえて、ガックリと膝をついた。
「痛たた…ッ!」
雫の苦痛の声が響いた。 武は驚いて振り向く。 雫は周に抱きかかえられるようにして銃を構えていた。
「成瀬さん!?」
SPたちが物井に駆け寄るのを確認して、雫はゆっくりと銃を下ろした。
武が血相を変えて駆け寄った。
「武さま、お怪我は?」
雫は左胸を押さえて苦痛に顔を歪めながら言った。
「俺よりもあなたでしょう!? 何で生きているんです!?」
武の言葉に雫と周は苦笑した。 雫はシャツのボタンを外して、中に着ている白い物を見せた。
「米軍が使用する高性能ボディアーマーです。 国産のの防弾装備は刃物には無力ですので」
物井が何で狙って来るのかわからなかった。 だからナイフなどにも有効な最新型のボディアーマーを密かに身に着けていたのだ。
「だったら教えておいてください!」
「それでは意味がありません。 武さまがご存知ないからこそ、効果があったのですから。 最も日本刀はヤバかったかも…… うわッ! 武さま、泣かれるのは構いませんが縋り付かないで!そこ、折れてるんです! 痛いッ!やめてください! ひぃ!死ぬ~!」
弾丸は貫通しないがボディアーマーは衝撃までは防げない。 至近距離からの発砲は雫の肋骨を砕いていた。 それでも折れた骨が心臓を傷付けないように、計算して銃口を向けて引き金を引いたのだ。
さすがに気の毒に思った周が、行長と康孝に合図して武を離れさせた。
「だから…申し上げた筈です…自分の身は…守ると…」
「救急車、来ました! 成瀬警視、このまま外の病院へ搬送指示が出ています!」
その言葉に雫が頷いた。
「周さま、清方に連絡を…怒るでしょうけど」
「わかりました」
周は雫を乗せた救急車を見送って、まだ泣いている武に駆け寄った。
「武さま」
周が声をかけると武は笑顔で振り返った。周は眉をひそめた。こんな時に笑顔になれる程、武は図太い性格はしていない。いくら無事だったからと言って、雫が重傷を負った事に違いはないのだ。戸惑う周の背後で雷鳴が響いた。続いて激しい雨音が迫って来る。
「武さま、テントに避難なさってください!」
行長が武の手を引く。だが雨足の方が早かった。全員がテントに帰り着いた時には、全身びしょ濡れになっていた。
「武さま、ジャージにお着替えください!」
敦紀がタオルとジャージを手に駆け寄って来た。
「うん、ありがとう、御厨」
「久我先輩も着替えられてください」
「あ…ああ。御厨、僕のは救護テントの方だからここをお願いする。
武さま、ついでに清方さんに連絡して来ます」
「ん…?あ、成瀬さんの事?
わかった」
武は周を見送って詰め襟を脱いだ。襟元の生徒会長記章と学年記章を大事に机に置く。
「うわっ…どうしよう、御厨。下着までびしょ濡れだよ?」
「それは困りましたね…寮からお持ちいたしましょうか?」
「いや…多分、そこのストーブの前にいたら乾く…とは思うけど」
「ストーブ?わかりました。スイッチを入れますから、水分をちゃんと拭ってくださいね?」
「わかってるって」
笑顔で答えるが武の唇は紫色になっていた。敦紀は旧式のストーブに火が点ったのを確認して毛布を取りに走った。昨日は発熱していたのだ。身体を冷やして良いわけがない。康孝も同じ考えらしく、温かい飲み物を淹れていた。
「下河辺、展示物とかは大丈夫か?」
ジャージに着替えた武が声をかける。行長がストーブの前に座った武に駆け寄った。
「会長が先程、雨の警告を出されましたから、濡れてませんよ、展示物や生徒たちは」
「そっか…」
敦紀は毛布を武の肩に掛け、跪くようにして前を合わせた。
「お寒くはあられませんか?」
「うん、暖かくなって来た」
それでも顔色が悪い。 敦紀は武の手から空っぽになったカップを受け取り、側のデスクの上に置いてから、周囲に目配せして武から遠ざけた。
「武さま…」
武の横に椅子を移動させて、敦紀は並ぶように座った。
「ダメですよ、ご自分を偽られたら。 夕麿さまがいつも仰られているでしょう? 辛い時には辛いと、悲しい時には悲しいと、仰らなければいけませんよ?」
武は彼の言葉に目を見開いて絶句した。 余りにも夕麿と同じ言い方だったからだ。 そしてそれは今の武には誰も言ってはくれない言葉でもあった。
「…」
「副会長から伺いました。 成瀬さん、随分思い切った事をなさいますよね…でもこちらはたまりませんよね?もう少しこちらの身になってもらいたいものです」
「うん…どうして良いのか…わかんなかった…怖くて…怖くて…」
武の震える指が毛布を握り締めた。
「私がその場にいたらきっと腰を抜かすか、泣き叫んでいただろうと思います」
恥じるように俯く仕草が、やはりどこかしら夕麿に似ていた。 それが武の胸を突く。 夕麿に会いたかった。
武の頬を涙が零れ落ちた。 泣いてはいけない。 武は漏れそうになる嗚咽を歯を噛み締めて殺す。 敦紀は立ち上がって武を抱き締めた。
「我慢なさらないでください。 大丈夫です、今は誰もいません」
雨の中、本部テントには誰もいなかった。 敦紀の合図の意味を理解して皆、そっと別の場所へ移動したのだ。
武は涙で霞んだ目で周囲を見回した。 確かに自分と敦紀しかいない。 武を抱き締める敦紀の腕は、確かに夕麿のものとは違う。 それでもどこかが似ていた。武は手を伸ばして、敦紀の詰め襟の胸元を握り締めた。 涙がとめどなく溢れ、口からは振り絞るような嗚咽が漏れた。
怖かったのだ。 純粋に自分の目の前で雫が傷を負って倒れたのが。 空気を貫き引き裂いた銃声のかん高い音が、これほど恐怖を呼ぶものだとは知らなかった。怖かった。 怖かったからこそ武は日本刀を手にした、物井に迫ったのだ…怖かったから。
泣きじゃくりながら武の身体はありありと蘇って来る恐怖に戦慄いた。
敦紀は震える武をしっかりと抱き締めて、いつか見た夕麿の仕草を真似て、武の髪を指で梳くようにして撫でた。
夕麿にはなれない。 如何に似ていると揶揄されても、夕麿は夕麿、敦紀は敦紀。 別々の存在だ。 声が似ていたら武をもっと安心させれるかもしれないが、夕麿とは声質からしてまるで違う。それでも武が張り詰めていた気を緩ませたのは、自分が夕麿にどことなく似ている部分があるからだと思っていた。武の孤独は夕麿にしか埋められない。でも少しだけでも、一時でも、忘れられる時間があれば、武のストレスは軽減されないだろうか。
武は頑張り屋で自分を限界を超えてまで、自分の立場を貫こうとする。敦紀より1歳年上だけれど武はどこか幼く見える時がある。 様々な事に怯えて身を縮こませる幼子のような、そんな雰囲気を漂わせている時があるのだ。夕麿たちが側にいると武はそれを隠そうともしないで甘えていた。 彼らも兄のように父のように応えていた。
父親の存在しない家庭で育った武。 その欠落が見せる幼さなのかもしれないと、敦紀は最近になって何となく感じるようになった。 その顔を生徒会長としての顔や紫霞宮としての顔の下に、無理やり覆い隠してしまう姿は痛々しくて、今は同室の行長と繰り返し話し合った。 だが周にすらわからないものをもっと若い彼らにはもっとわからなかった。二人は蒼褪めた顔をして懸命に振る舞う武を見て、泣かせて上げたいと直感的に思ったのだ。 こうして泣いている武を抱き締めていると、いつも彼はいっぱい一杯でいるのに気が付いた。
それは夕麿を守ろうとした時も同じ。 人との関わりにとても不器用な武の姿が今、やっと敦紀には見えて来た。 いつも行長が気にしていたのはこれだったのだと思う。 ありのままの武でも皆はちゃんと受け入れる筈だ。 だが武はそうは思ってはいない。
ああ、そうか。 と納得する答えを敦紀は見つけ出した。 夕麿が言っていたではないか。
『私になる必要はありません』 と…
夕麿の存在が生徒会長としても、学院内で最も身分高き者としても、武の理想になり過ぎているだけなのだ。
「武さま、先程、中等部の生徒が覗きに来てました」
「?」
不思議そうな瞳が見つめて来る。
「憧れの高等部生徒会長に会いたかったそうです」
「それ…高等部生徒会長ってのだけ…一人歩きしてない…?」
ようやく泣き止んだ武、途切れ途切れに言った。
「ちゃんと武さまにお目もじしたかったみたいですよ? 中等部の生徒会室での一件、あちらではかなり噂になっているみたいです。
お陰で透麿君の周りは、大変な状態らしいです」
「夕麿の事じゃなくて? 本当に俺?」
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「……恥ずかしいよ…」
頬を染めて俯く。 年上相手に可愛いと思う。 何となくデレデレの夕麿の気持ちがわかってしまう。
「物井元教諭の事も片付きましたから、透麿君に出入り許可を出しますね?」
「うん…良いよ」
「お茶、もう一杯いががですか?」
「うん、欲しい」
まだ雷鳴が地面を揺るがせていた。 雨足も衰えない。
「去年はこんな雨、降らなかったのにな」
「そうですね、小雨程度ならありましたけど」
何を見ても想いを馳せるのは夕麿の事だった。
「夕麿さまがいらっしゃる時に、こんなお天気にならなくて良かったですね?」
「うん。 でも、まだ去年の今頃はそんなに酷い状態じゃなかったから」
カップを受け取って武は雨に煙る校庭を眺めた。
「ほとんど完全かな?」
「そうですね。 やはり武さまが動かれたのが、みんなの士気を高めたようです。 副会長は『鋸挽いて釘打ちする宮さまがどこの世界にいる』って、嘆かれていましたけどね」
クスクスと笑う敦紀に武も笑う。
「母がさ、そういうのダメでさ…仕方なく覚えたんだよ。 まさかこんな所で役に立つとは思わなかったけど」
建て付けの悪いボロアパートで、壁やドアの補修をしたのを思い出した。 自分たちの部屋だけでなく他の部屋のも頼まれて補修して、そのお礼に大家が家賃を下げてくれたのを覚えている。
「それにしても…義勝兄さんが鋸を使えたなんて、知らなかったなあ…」
「私もびっくりしました」
「体格やあの性格から考えると違和感なさ過ぎだけど…」
武はまた楽しげに声を上げて笑う。 そこへ周が戻って来た。
「御厨、僕にもお茶を」
「はい」
「高辻先生、何だって?」
「ついでに2~3発殴っておいて欲しかったそうです」
周が笑い混じりに言う。
「あははは…あんなに痛がってたんだから、十分だと思うけど?」
笑い転げる武に周は胸を撫でおろした。 お茶を持って来た敦紀にそっと礼を告げる。
「あ…止んだ」
武が立ち上がった。
周は思う。 人間は出会いによって愛し合う。 求め合う。 そこから憎しみが生まれ、怨みが生まれる。 そうなれば人と人との結び付きが苦痛になる。 皮肉なものだと。誰かに会わなければ、憎しみや怨みの苦しみは生まれない。 だが同時に愛する事も愛される事もない。 人としての至高の歓びも、奈落の底の闇も出会いの中から生じるのだ。
けれど憎しみや怨みは虚しい。 何故ならばそれは、相手にその因があるわけではないからだ。その対象となる人間がいなくなっても、本当の意味で心から憎しみも怨みも完全に消えない。 何故ならば憎しみも怨みも、存在するのはその感情を持つ人間の中だからだ。 自らの内なる憎しみや怨みを昇華させない限り、苦しみから脱却する事など出来ない。 澄み切った青空のような、一点の曇りもない心は得られないのだ。
理論としてわかっても、どこまでそのように生きて行けるだろうか? 憎しみや怨みは不毛だ。 生むのは苦しみと更なる憎しみと怨みだけ。 出会いが愛も憎しみも怨みももたらすならば、愛に生きたいと周は願う。
たとえ胸を満たす想いが、報われる事がないとしても。 想う人の幸せを祈る事は出来る。 想い人が伴侶として愛する方を守る。 辛くないわけではない。 それでも氷のように冷たい眼差しが、温もりに満ち溢れて、その微笑みに幸せが零れているのを見てしまったから。 それを消したくはない。 二度とあのように傷付いて欲しくはない。
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BL
閲覧ありがとうございます。
ゆっくり書いていきます。
毎日19時更新です。
よろしくお願い致します。
2022.04.28
お気に入り、栞ありがとうございます。
とても励みになります。
引き続き宜しくお願いします。
2022.05.01
近々番外編SSをあげます。
よければ覗いてみてください。
2022.05.10
お気に入りしてくれてる方、閲覧くださってる方、ありがとうございます。
精一杯書いていきます。
2022.05.15
閲覧、お気に入り、ありがとうございます。
読んでいただけてとても嬉しいです。
近々番外編をあげます。
良ければ覗いてみてください。
2022.05.28
今日で完結です。閲覧、お気に入り本当にありがとうございました。
次作も頑張って書きます。
よろしくおねがいします。
【完結】抱っこからはじまる恋
* ゆるゆ
BL
満員電車で、立ったまま寄りかかるように寝てしまった高校生の愛希を抱っこしてくれたのは、かっこいい社会人の真紀でした。接点なんて、まるでないふたりの、抱っこからはじまる、しあわせな恋のお話です。
ふたりの動画をつくりました!
インスタ @yuruyu0 絵もあがります。
YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。
プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら!
完結しました!
おまけのお話を時々更新しています。
BLoveさまのコンテストに応募しているお話に、真紀ちゃん(攻)視点を追加して、倍以上の字数増量でお送りする、アルファポリスさま限定版です!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
【完結】毎日きみに恋してる
藤吉めぐみ
BL
青春BLカップ1次選考通過しておりました!
応援ありがとうございました!
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その日、澤下壱月は王子様に恋をした――
高校の頃、王子と異名をとっていた楽(がく)に恋した壱月(いづき)。
見ているだけでいいと思っていたのに、ちょっとしたきっかけから友人になり、大学進学と同時にルームメイトになる。
けれど、恋愛模様が派手な楽の傍で暮らすのは、あまりにも辛い。
けれど離れられない。傍にいたい。特別でありたい。たくさんの行きずりの一人にはなりたくない。けれど――
このまま親友でいるか、勇気を持つかで揺れる壱月の切ない同居ライフ。
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