蓬莱皇国物語Ⅱ~飛翔

翡翠

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   武たちの学際

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学祭の開会は高等部生徒会長の宣言で始まる。 武は昨年、夕麿の開会宣言を見て自分が行うのを楽しみにしていた。

「本年度の紫霄学院祭を開会します。

 みんな、楽しめ~!!」

 元気いっぱいな武の声に、生徒たちは歓声で応えてそれぞれの場所へ散って行った。

「お疲れさまです!」

 本部テントに戻ると敦紀が笑顔で出迎えた。 行長たちは見回りに出ていて姿がない。 昨年は武も本部テントで留守番をしていた。

 ここは持ち込まれる雑事の処理の為に、結構多忙だったりする。 故に次年度の会長候補が留守番をするのが通例となっていた。

「開会宣言、かっこいいですよね~ 昨年の夕麿さまの時には、悲鳴混じりでしたけど」

「うん。 俺もここから見てたけど…自分がやるのが楽しみだった」

「武さまもかっこ良かったです」

「そう? だったら嬉しいなあ…」

 半分照れながら喜ぶ武に敦紀も笑顔で返した。

「武さま~」

 元気な声に振り返ると、透麿が白い箱を片手に取り巻きと立っていた。

「透麿!」

「差し入れ持って来ました」

 物井の事件が片付いて出入り許可が出た透麿は、嬉々として武の所へスイーツやフルーツを片手に連日通っていた。

「お前、真っ先に俺の所へ来てどうすんの?」

「だって差し入れ持って来たんだもん!」

 武は透麿に不必要な敬語を禁じていた。

「いつもありがとうな。

 今日は何?」

「オレンジのタルトです」

「御厨~お茶~!」

「はいはい。 すぐにお入れします」

 敦紀が苦笑する。 一時不安定だったが今は食欲も回復しつつある。 それでも会長としての多忙さに見合わない食事量で、常に誰かしらが差し入れと称して食べ物を用意していた。

「君たちもどうぞ。 食べ物はいくらでもあるからね」

 敦紀がテントの一部に透麿の取り巻きたちを誘う。

「武さま、開会宣言、かっこ良かったです」

 透麿に言われて武は赤くなる。

「ありがとう…な。 去年の夕麿はもっとかっこ良かったぞ?」

「え~見たかったなあ…それ」

「見れるぞ、映像でなら。 ここ数年の開会宣言は、誰かが撮影してるからな。 すぐに学院内に出回るんだ」

「へぇ…じゃ、周さんのも?」

「あるよ?」

「後で観せてください」

「わかった」

 開会直後はまだここも閑散としている。

「タケル、お前は見に行かないのか?」

 相変わらず高飛車に、唐突に姿を現したハキムが言う。

「あのな、生徒会にそんな暇ないの。俺は去年もここにいたよ」

「マツリは皆が参加するものだと聞いたぞ?」

「だからハキム、カリムと楽しんでよ?

 カリム、準備の時はありがとう、お陰で助かった」

「いえ、お役に立てて嬉しく思います」

 いつも影のようにハキムに従うカリムは、武と彼を取り巻く生徒たちを見て様々な事を学んでいた。

 庶民育ちだというのを恥じない武。身分に胡座をかくのではなく、皇家の血を引く者として努力を惜しまない。さすがに学院に慣れて来て、夕麿の事も少しずつカリムの耳に入るようになって来た。イスラムでは同性愛は神への冒涜ぼうとくであり、背信であり裏切りである。とは言っても当然ながら同性愛者は存在する。身分が高かったり金持ちだった場合は、密かに隠れて同性の愛人を囲う。または海外に移り住んで同性と暮らす者もいた。だから武と夕麿の結婚は、彼らの身分からすると驚きではあったが、この学院の有り様からどこかで納得していた。

 しかし…そのカリムを悩ませている事があった。ハキムの武に対する異常と感じる思い入れである。余りにも武に絡むので副会長の行長が目をつり上げて追い払ってしまう。今も彼がいないのを見計らって、武を連れ出しに来たのだ。

「武さま、お茶どうぞ」

「ん、ありがとう。

 ふふ、オレンジ・タルト~」

 取り分けられたオレンジのスライスがたっぷりのせられた、タルトを武は手放しで喜んでいた。それを見て透麿も笑顔になる。実は前日にスイーツ店に注文して、特別に作らせたものだった。

 一昨日、電話で夕麿に頼まれたのだ。夕麿は透麿が武の食欲がないのを補う為に、スイーツやフルーツを差し入れしているのをちゃんと把握していて、透麿に感謝を言った上で依頼して来たのだ。透麿にすれば大好きな兄に礼を言われた上に、頼み事までされたのだから嬉しくて仕方がない。

 しかもそれを知らない武が手放しで喜んでいる。そこへいきなり、武の携帯が『紫雲英』を奏で始めた。

「もしもし、夕麿?試験中じゃなかったっけ?」

〔試験は明日からです。1日ズレているのを忘れていませんか?〕

「あ…そっか。そっちはまだ10月だっけ~」

〔学祭、今日からでしたよね?〕

「そ、ついさっき開会宣言したばかりだよ?」

〔ちょうど良かったみたいですね。体調は如何ですか?〕

「大丈夫だって。全く、相変わらず心配性だなぁ」

〔何を言ってるんですか。心配してブレーキをかけておかないと、あなたはすくに無茶をするでしょう?〕

「俺の事言えないだろう?聞いたぞ?朝までピアノ弾いてたって」

〔…余計な事を…誰です、余計な告げ口をあなたにしたのは?〕

「言わない。

 それ以外も知ってるけどね」

 自分の事はほぼ完全に筒抜けで、夕麿の事はまるでわからない。それが嫌だった。だから岳大の協力で昨年留学した学生を通じて、ある程度の情報が入るようになっていた。

〔私の何を知っていると言うんです?〕

「俺が送ったクッキー、人参ジャムのを食べて飛び上がったとか?」

〔な…飛び上がってなどいません!〕

 慌てて叫んだ夕麿の声に武は吹き出した。

「兄さんたちに大笑いされたくせに」

〔……嫌な人ですね?せっかく早く帰国出来そうだから、そちらへ戻ろうと思っていたのですが…やめたくなりました〕

「え!?早めに帰国出来るの!?学院に戻ってくれるんだ?」

 みるみるうちに武の顔が満面の笑顔になる。

〔武…今の話、ちゃんと聴いてました?〕

 電話の向こうで夕麿が苦笑する。

「で、いつ帰国するの!?」

〔こちらの時間で23日の夕方の便が取れました。 高辻先生と先に帰国します。 義勝たちは24日の午後の便で帰国すると〕

「成瀬さんの事、心配だもの」

 雫は搬送された御園生系列の病院で、肋骨を繋ぐ手術を受けて現在も入院中である。 容態などについては、小夜子が見舞いに行って伝えてくれていた。

〔12月頃には退院出来るそうですよ?〕

「うん、俺も聞いてる。 やっと成瀬さんと高辻先生、再会出来るんだね」

〔そうですね。

 武、お願いがあります〕

 そう言った夕麿の声はどこか悲痛だった。

「何かあったの?」

〔冬休みに入ったら、精密検査を受けて欲しいのです〕

「精密検査…?」

〔お願いです、武〕

「俺が受けたら、夕麿は安心するの?」

 子供の頃から病気ばかりして、母に心配ばかりさせて来た。 今度は夕麿を心配させてしまっている。 病院も検査も嫌いだ。 でもそれで夕麿が安心するなら嫌でも我慢出来る。

〔あなたが心配なのです、武。 私も一緒に受けます。 だから受けてください〕

 離れているからこそ心配が募る。 夕麿の発作を武が心配するのと同じだ。

「わかった。 夕麿の言う通りにする」

 そう答えると電話の向こう側で、夕麿が安堵の溜息を吐いたのがわかった。 こんなにも心配させていたのだと、武は胸がいっぱいになった。

「……心配させてごめんなさい…」

〔武…謝らないでください。 私が勝手に心配してるだけですから〕

 その言葉に夕麿の愛情を感じた。 遠く離れている為に武が熱を出す度に心配しているのだろう。 熱を出したくらいの事をいちいち、夕麿に知らせないで欲しいとは思う。 その反面、武も夕麿の様子が知りたいと思ってしまう。 夏休みのように痩せ細る程、夕麿が一人で思い詰める姿は見たくないから。

「俺だっておんなじだよ? だからありがとう、夕麿。

 ……早く逢いたい」

〔私もです、武。 愛しています〕

「うん…俺も、俺も愛してる」

 そう答えて周囲がニヤついているのに気が付いた。 瞬時に顔が熱くなる。

「あ…夕麿、透麿がここにいるんだけど」

 照れ隠しに話題を変えてみる。

〔透麿が?〕

「うん。 朝から差し入れを持って来てくれたんだ。

 替わる?」

〔お願いします〕

「ん、わかった。

 透麿、夕麿から」

「ありがとうございます!」

 武は携帯を彼に手渡すと、オレンジ・タルトを頬張る。

「く~美味しい…!」

 甘さを控えてオレンジの酸味を生かした味が武の舌を唸らせる。

「武さま、本当に柑橘系がお好きですね?」

「うん。 味も香りも大好きなんだ」

「夕麿さまと柑橘系、どっちかって問われたら如何なさいます?」

 拓真がとぼけた顔で振って来た。

「え!? そりゃあ…夕麿に決まってるだろ!! アホな事を訊くな!」

「つまんないなあ…そこは、ジョークで迷ってみせるもんですよ?」

「あのなあ…今の、間違いなく聞こえてるぞ?」

 武が透麿の方を向くと、彼は笑いながら答えた。

「先輩、兄さまが『きちんとお返しをしますから、期待しておいてください』だって」

「ヒィ!?」

 真っ青になる拓真の横で武が笑い転げる。

「逸見、夕麿は言った限りは実行するぞ?」

「ええ~? ごめんなさい、すみません、すみません…夕麿さま。 俺が間違ってました。 また、新しい本をたっぷり手に入れましたから、いらっしゃられたら…ヒィ、武さま!?」

「お前、また夕麿に変な本を渡そうってのか?」

 拓真が夕麿にせっせと貢ぐもの。 それは彼の姉から送られて来るBL本である。 バレンタインはそれの内容を本気にした夕麿に、とんでもない事に及ばれた記憶がある。

「兄さまが楽しみしてるって」

「しなくていい!!」

 武の叫びが響き渡り、テントの中の全員が爆笑した。電話の向こうで夕麿が笑い転げているのを聞いて武が頭を抱える。

「逸見、わかってるだろうな?夕麿におかしな物を渡したら、卒業まで口をきいてやんないぞ!」

 拓真は武と夕麿の間に挟まれてオロオロし始めた。そこへ助け舟とばかりに透麿が言った。

「兄さまが武さまには黙っていただくから、心配しないで良いって…あっ!」

 武は透麿の手から携帯を取り返す。

「そんなもの受け取ったら、部屋に入れてやらないからな!」

〔良いですよ、別に?冬休みまで迎えに行きませんから〕

「ちょっ…何だよそれ?」

〔些細な事で私を追い出すなら、会いたくないってことでしょう?〕

 意地悪な物言いだ。でも武にすれば夕麿が帰国しているのに逢えないのは悲しい。

〔返事はどうしました、武?〕

「う…」

〔何です?聞こえませんよ?〕

「…夕麿の…いじめっ子…」

〔それは、寮へ戻らなくても良いと言う意味ですね?〕

「そんな…事…言ってない…」

〔じゃあ、何だと言うんです?〕

 武はもう泣きそうな顔になっていた。見かねた透麿が武から携帯を取った。

「兄さま、武さまを虐めたらダメ。武さまは物凄~く頑張っていらっしゃるのに。 酷いよ、兄さま。 兄さまは武さまのお妃でしょ?

 もっと優しくしなよ」

 透麿は言いたい事だけ言って武に携帯を返した。

〔ジョークですからね、武?〕

「意地悪だ…」

〔機嫌を直してください?〕

「本はなしだぞ?」

〔ダメですか?〕

 がっかりした声を出す夕麿の様子に武が今度は迷う。

「……おかしな事…しない…なら…」

 消え入りそうな声で呟く。

〔おかしな事…? 何の事でしょう?〕

「……」

 周囲に人がたくさんいる状態で、それを口にするなど出来る筈がない。

〔黙っている所をみると、何か余計な想像でもしたみたいですね、武?〕

「う…」

〔そこまで期待されたら、応えないわけには参りませんね?〕

「な、何だよ、それ…」

〔今言ったら意味がないでしょう? ああ、逸見君に伝えてください。 この前いただいたDVDも本も、なかなか面白かったと〕

「はあ!? DVD!?」

〔それでは25日中にはそちらに着けると思います。 楽しみにしていてくださいね、武〕

「え!? ちょ…夕麿!? もしもし?」

 含み笑いを残して夕麿は電話を切ってしまった。

「逸見~どうゆう事か、説明してもらおうか? お前、この前に夕麿が来た時に一体、何を渡した?

 あ、こら! 逃げるな!」

 悲鳴を上げてテントを飛び出して行った拓真に、全員が再び大爆笑する。 武は羞恥と怒りが入り混じって、首まで真っ赤になっていた。

「はいはい、お熱い事で結構ですね。 皆さん、持ち場に戻ってくださいね?」

 行長が半ば呆れた顔で皆に解散を命じた。いつの間にか戻って来ていて武が夕麿と電話で、話している様子を一部始終見ていたらしい。武はもっと赤くなって、すっかり冷めてしまったお茶を飲み干した。

「兄さまって、結構お茶目なんだね、武さま?」

 まだクスクス笑いが止まらない透麿が言う。

「お茶目じゃなくて、天然なんだよ!全く…何でBL小説なんかを…」

「え?さっき、武さまがダメって言われてたの、BL小説の事だったの?……兄さま、そんなの読むんだ…」

 目を白黒させる透麿に、武は肩を竦めて見せた。

「夕麿にあんなものに興味を持たせた犯人は逸見なんだけどな」

「ああ、それで…」

「期待なんかしてないっての…」

 淹れ直してもらったお茶を所在なさげに啜る。それでも夕麿が1日でも早く戻ってくれるのは嬉しい。やっと逢える。その事実が武の胸を熱くする。

「兄さま、学院にまた戻って来るんだ」

「25日は多分、かなり遅い時間になると思う。26日には会えるよ、透麿も」

「やった!」

 透麿の笑顔に武ももっと笑顔になる。

「下河辺、どうだった?」

「滞りなく開催されています。 透麿君と回って来られては如何ですか?」

「会長の俺が行けないだろ?」

「本来は。 でも昨年もここでずっといらっしゃったでしょう? 武さまは高等部から編入なされたのですから、学祭を楽しまれた事はおありにならないのですから。紫霄の学祭を楽しんでいらしてください」

 大抵の生徒会執行部は中等部に学祭を楽しんでいるし、本来ならば武も昨年は途中で遊びに行けた筈だった。 だが板倉の事件で怪我をした事もあって、夕麿が許可を出さなかったのだ。海外留学をする武には来年は学祭はない。 だからまだ始まったばかりのこの時間に、武に楽しんで来て欲しかった。

「わかった…ありがとう、下河辺。

 透麿、行くか?」

「はい!」

 今年は16年ぶりに中等部と高等部が、まとまって様々な催しを行っている。 透麿やその取り巻き、ハキムまで加わって賑やかに出て行った武を見送って、行長はようやく一息吐く為に座った。

「お疲れさまです、副会長」

 敦紀がお茶にクッキーを添えて出した。 外の喧騒とは別にテントの中は静かだった。

「さすがに今日は久我先輩たちも、おいでにはなられないみたいですね?」

 開会宣言の時には確かに立ち合っていたのを確認したがその後は姿を見ていない。 初日ゆえに大学部も忙しいと見える。 隣の救護テントには、二人いる校医が交代で詰めていた。

 外は見事な秋晴れの澄んだ蒼空が広がっていた。



 振り返ると大行列になっていた。最初は武と透麿、取り巻きたちとハキムとカリム。10人足らずだったのが、気が付けば2~30人に膨れ上がっていた。

 雫が怪我でいなくなった為、学院はSPをさらせてしまっていた。有人が抗議したが理事長が首を横に振ったのだ。それで普段は大学部から岳大が来て付いていたが、今日は彼も多忙らしく顔を見せていない。現風紀委員長の久留島 成美も学祭独特の多忙さで各所に配置した風紀委員が、目を配っているが少なくとも今日は武には護衛が付いてはいなかった。

 大勢で賑やかに過ごした後、少し疲れた武は透麿と二人で、図書館近くの木立の影のベンチに座った。

「大丈夫ですか、武さま?」

「ごめん…俺、本当に体力ないよな…夕麿が精密検査をすすめる筈だよな…」

「精密検査?受けられるんですか?」

「夕麿が安心出来るなら…確かにこの前の肺炎から、熱を出す頻度が上がってるから。ちょっと…怖いけどな」

 免疫力の異常な低下が肺炎を呼んだ。ならば他の病気を呼んでいない保証はない。 夕麿もそれに気付いたから、精密検査を武が受けるのを望んだのだろう。

「おや、お二人だけですか、珍しい」

 その言葉に振り向く、戸沢 美禰と五嶋 忠臣が立っていた。

「ああ、戸沢。 この前は悪かったな、こっちの騒動に巻き込んで」

 武が物井の事件の事を口にすると、美禰は不快げに顔を背けた。

「ねぇ、六条君。 君は宮さまが君の母君とその一族を破滅させたって、知っていて一緒にいるのかな?」

「…え?」

「それに六条家の屋敷も企業も、宮さまが買収したのは知っているの?」

「あの…家も会社も、兄さまのものになっていると…」

「へぇ…誰に聴いたの、それ?」

「兄さまに…」

 透麿はわけがわからず傍らの武を見た。 武は透麿に背を向けるようにして項垂れていた。

「武…さま?」

「反論出来ませんよね、宮さま」

「本当なのですか、武さま?」

 振り返った武は、強張った顔をしていた。

「…夕麿から…聞かなかったのか…」

「兄さまは、僕がおとなになったら…って…」

「そうか。

 ……透麿、彼らの言う通りだ。 知っていると思ってた」

「武さま…」

 どんな理由があっても人を陥れたのは事実だった。 世の中は因果応報。 やった事の報いは受けなければならない。

「で、お前たち…用はそれだけか?」

「まさか。 少々、痛い目を見ていただきたくて」

 二人の後ろから何人かの高等部の一般生が姿を現した。

「なる程な…お前たちが、協力者か。

 透麿、お前は行け」

 武は詰め襟を脱いで透麿に手渡した。

「その記章は夕麿からもらったものだから、なくしたくない。それ持って行け透麿。 これは俺の問題だ。 お前が巻き込まれる必要はない」

 透麿は渡された武の詰め襟を抱き締めて、学祭会場の方へと駆け出して行った。

「で? 3年生ですよね、皆さんは? 夕麿たちの同級生が、何で中等部に協力するんです?」

「ああ、簡単ですよ、宮さま。 この中に、俺の従兄がいるんです、二人」

 忠臣がニヤニヤと笑いながら答えた。

「ふうん。 それだけでいろいろと妨害してくれたわけ?」

「まさか…皆さん、あなたや夕麿さまたちにいろいろと、恨みやら妬みやらがあるそうですよ?」

 美禰が愉しげに言う。

「ああ、夕麿や兄さんたちにふられた口か…?」

 武のその言葉にザワッとする。

「わかりやすいね。 図星の人がいるんだ? 体型からしてお目当ては夕麿か雅久兄さん? 全員が相変わらずアメリカでもモテてるみたいだけどね」

 話ながら彼らとの間合いを図る。 体力がどれくらい保つかわからないが、多少の反撃は出来るだろう。

余裕綽々よゆうしゃくしゃくですね、宮さま」

「一応、護身術くらいは出来るからね」

 大きく息を吸い込み、気合いと共に吐き出す。 周囲の空気がビリビリと震えた。

「誰から来る? 来ないの?」

 まさか武道が出来るとは思っていなかったらしい。 彼らに軽い動揺が走る。

「何? 俺が怖いわけ、先輩方。 それで夕麿に手を出そうとしたわけ?」

 合気道は基本的には相手の気を利用する。 自分から行動を起こすのは不利とも言える。 特に小柄な武が複数を相手にするならば。

「夕麿さまに可愛がられているからって…何が宮さまだ! 私生児の癖に…本当にその血筋かどうかわかるもんか!」

 一人が叫んで武に飛びかかって来た。 素早く下がってそれをかわす。

「危ないなあ…」

「この…舐めやがって!」

 再び掴みかかって来た彼の手首を掴んで、あっさりと投げ飛ばした。

「下品だね。 夕麿が聞いたら嫌がるよ? 一つ言っておくけど、ちゃんとDNA検査したみたいだよ? 面倒な事に間違いないらしい。俺が望んだわけじゃない!」

 別の生徒が殴りかかって来た。 その手を摘まんで投げ飛ばす。

「ねぇ、知らないだろ? 夕麿って、抱くと壮絶なくらい綺麗なんだよね。 可愛いしさ」

「嘘を言うな!」

「あれ? 結構有名な筈だけど? 俺が夕麿を抱く事があるって。 ああ、信じてなかったんだ」

 クスクス笑うと一気に殺気が増す。

「一人ずつバラバラにかかるから倒されるんです、先輩方。 全員でかかれば対応が出来なくなります!」

 美禰が叫んだ。 言葉で煽って一人ずつ相手にする、武の目論見を見破ったのだ。 警戒しながら全員が間合いを詰めて来る。

 武は貴之の言葉を思い出していた。

『多数を相手にしなければならない場合は、雑念を捨てて相手の気だけを感じるのです。 それぞれの人間の発する気は違います。 それを見分けて動く事です。 相手を倒そうとしてはいけません』

 静かに目を閉じてそれぞれが放つ気だけに集中する。 スーっと気が目の前を寄って来る。 目を開いて向けられた腕を払うように相手を倒す。 間髪入れずに来た拳をやり過ごし、気合い弾で吹き飛ばした。それを見て怯む者もいたが、次々と殴りかかって来る。 投げたり吹き飛ばしたりしても、彼らはそれくらいでは参らない。 呻きながらも立ち上がり襲撃して来る。キリがない。 呼吸が乱れ始めた。 体力が尽き始めたのだ。

「先輩方、宮さまはもうフラフラですよ。 一気に押さえ込んでください」

 取り囲まれてジリジリと間合いを詰められる。 心臓が早鐘のように打っていた。 気を溜めて気合い弾を放つ。 受けた一人がフラついた。だが吹き飛ばす程の威力はもうない。

「利かないなあ…」

 嘲笑が八方から響く。 自分の呼吸音がやけに大きく聞こえる。 右側から迫って来た生徒にもう一度、気合い弾を放つがその瞬間に景色が歪んだ。 冷たい汗が頬を伝う感触が不快に感じられた。

 武はがっくりと膝をついた。 目の前がチカチカする。 ポタリと生温い物が、差し出した手に落ちた。 鼻血だった。 体力の限界を超えてしまった警告だった。 武はそのままゆっくりと土の上に倒れた。

 嘲笑う彼らの声を聞きながら意識が遠退いた。

 

 気が付くと猿轡さるぐつわを咬まされ、目隠しをされた上で縛られていた。 近くに人の気配はない。 かびと湿った土の匂いがした。 横たわっているのは感触からして、体育マットのようだった。

 武は深々と溜息を吐いた。

(俺って学祭と相性悪いのか? 二年続けて拉致監禁かよ? 情けなさ過ぎだろ~透麿、上手く逃げられたかな?)

 美禰の目的がわからなかった。 こんな事をして何になる? 透麿に持って行かせた詰め襟のポケットに携帯も入っている。昨年のようにGPSで武の居場所を突き止めるのは不可能だと思われた。 透麿が本部テントに駆け込んでいれば…そう思いかけて武は諦めた。

 武が何をしたのか。 事実を知って助けを呼ぶとは思えなかった。 助けは来ない。 そう考えた方が良かった。このままここに放置される可能性もあった。 詰め襟を脱いだ状態、シルクのシャツ一枚では日没後の気温低下に体温の保持は出来ない。 しかも大量に汗を流した後だ。 水分の補充もない。

 体力を消耗し尽くした状態で、今の自分の身体がどれくらい保つのか。 どんな状況でも諦めてはならない。

 夕麿はそう教えてくれた。だが透麿のあんな顔を見た今、武は投げやりな精神状態だった。これは全部、自分が撒いた種。 仕方がない事だと。

(夕麿…せっかく作ってもらったのに、歌えないかも…)

 武は押し寄せて来る絶望と失神では回復しなかった、体力の双方に身体から力が全て抜け出て行く感じだった。今はただ眠かった。 武は現実から逃れるかのように静かに目蓋を閉じた。

(夕麿…ごめん…俺…頑張れない…)

 急激な眠気に誘われるように、武は深い眠りへと堕ちて行った。

 

 成美に引きずられるようにして特別室に連れて来られた透麿は、まだ武の詰め襟を手にしていた。部屋にいたのは行長と敦紀、それに周だった。 他の者は武の捜索に出ているらしい。 口を開く者はいない。 成美はソファに透麿を座らせると、踵を返して出て行った。

 周が携帯を取り出しどこかにかけた。

「僕だ。 取り敢えず透麿を連れて来た。 ああ、わかった。ちょっと待っててくれ、夕麿」

 周の口から出た名前に、透麿は身体を強張らせた。 周はオーディオの横に置いてあった、ハンズフリー用の機材を取り出して携帯を繋いだ。

「言われた通り繋いだぞ、夕麿」

〔ありがとうございます、周さん〕

 スピーカー越しの夕麿の声が常のものより低く響く。 彼が激怒しているのを透麿以外が感じて、思わず身震いしてしまった。

「さて、透麿。 武さまはどこだ? 一体、何があった?」

 周が覗き込むようにして問い掛けた。

「…僕…知らない」

 周を睨み付けるように透麿は答えた。

「だ、そうだ。 どうする、夕麿?」

〔素直に事情を話してくれるならば…と思いましたが、私もまだまだ甘いようです〕

 全身が粟立つような冷たい口調だった。 行長や敦紀もこんな夕麿の声は初めて聴く。

〔周さん、構いません、あれを使ってください〕

「本当に良いんだな?」

〔…武さまの身は誰とも代える事はできません〕

「承知した」

 周はテーブルに置かれていた、金属製のケースから一本の注射器を取り出した。

「それ…何…?」

 恐怖に透麿の声が掠れる。

「心配しなくて良い。 大量に使用したら問題だが、これ一本ならば2~3日寝込むくらいだ。

 下河辺、御厨、透麿が暴れないように押さえていてくれ」

「構いませんが…中身は何ですか?」

 行長が迷うように問い掛けた。

「簡単に言うと自白剤だ。 一番緩いやつだから、さほど心配はいらない」

〔周さん、悠長に無駄話をしている場合ではないでしょう?〕

「夕麿……」

 更に低くなった声は完全に凍り付いたように感情すら感じられない。

「兄さま…どうして…」

〔どうして? 私が逆に訊きたいですね、透麿。 まさかあなたに裏切られるとは思いませんでした〕

「裏切り…そんな…だって、武さまは母さまたちを…」

「透麿君、それにはちゃんとした理由があります。 武さまは夕麿さまをお守りする為に…」

〔下河辺君、やめなさい。 誰が教えたかは知りませんが、常日頃の武を見ていてわからない者に何を言っても無駄です。

 周さん、お願いします〕

「兄さま!」

 透麿の口から悲鳴が漏れる。

〔我が六条家から皇家への背信者が出るなど、末代までの恥〕

 それは断罪の言葉だった。

「下河辺、御厨」

 二人とももう、夕麿の怒りには抗えない。

「イヤ! 兄さま! 周さん、やめて!」

 周は透麿の右腕を捲り上げ上腕にゴムを巻く。 血管の状態を調べて注射器の針を向けた。

「話すから…やめて…」

 力なく啜り泣く。

〔始めから素直に言えば良いものを……無駄な手間を取らせて〕

 周が注射器をケースに戻し、行長と敦紀も胸を撫でおろした。 透麿は泣きながら、武に詰め襟を渡された経緯を話した。その内容に全員が絶句した。

「透麿、人数はどれくらいだ?」

「…15人くらい…」

〔…通常でも武さまの体力では無理です〕

 貴之の声がやや小さめに聞こえた。 引き続き夕麿と貴之が何やら会話をしているのが聞こえる。 だが離れていて良く聞き取れない。

〔周さん、武の居場所がわかりました〕

「どこだ?」

〔旧特別室だと思われます。 あそこならば誰も近付きません〕

 旧特別室。 そこはかつて別棟だった。 図書館横の今は消えかけている道の奥に、既に荒れ果てた状態で存在している。 まだ取り壊される事なく、現存しているのを知っているのは、歴代の生徒会長と風紀委員長くらいだ。

「確かにあそこは忘れられた場所だが…」

〔何度となく取り壊しの話は出ますが、未だに放置されています。 問題なのは……〕

「倒壊の危険性か…」

〔久留島君たちに急行してもらっています〕

 倒壊の危険があるそれが、未だに放置されている理由。 それは最後にここの住人だった人物の幽霊が出ると言われているからだった。 高貴なる人物が死後もなお住まい続ける場所を、学院側はどうしても取り壊されないのだ。

「僕は幽霊など信じないが…」

〔出る…というのは歴代の会長は皆、聞いています。 真偽はわかりませんが、武に悪い影響が出なければ…良いのですが〕

 学院の中で忌むべき場所として、打ち捨てられた旧特別室。 何人かの高貴なる住人が、姥捨てさながらに幽閉された場所。

「行った事はあるか、夕麿?」

〔一度。 慈園院から会長を引き継いだ折に。 ……彼も行った話をしていました。

 その様子では、周さんも行ったのですね?〕

「ああ…就任してすぐに…だったかな? 藤堂と一緒に見に行った」

 枝すら払われない鬱蒼とした木々に囲まれて、蔦植物に絡まれながら辛うじて原型を留めていた。 それはまるでここの住人の姿そのもののようだった。 打ち捨てられて朽ちて行くだけ。歴代の会長と風紀委員長に引き継ぎが行われなければ、ここの存在はとうに忘れられていただろう。それが周と影暁の感想だった。 数年前、まだ周が中等部に編入したばかりの頃、前年度から現在の場所に建設されていた新しい寮が完成した。 その新しい寮に造られた特別室の最初の住人が武と夕麿だ。

 あの旧特別室の光景を思い出すと胸が痛む。 それは海の向こう側にいる夕麿も同じだった。




 どれくらい眠ったのだろう? いつの間にか、目隠しも猿轡も外されていた。 かすかな月明かりが辺りを照らしていた。

「目が覚められましたか?」

 不意に声をかけられて、武は身じろぎした。

「!?」

 淡い光をまとったその人物は半透明だった。 肩まで伸びた髪が風もないのに揺れていた。

「驚かせてしまいましたか?」

「あなたは…最後にここに住んでいらした…宮さま?」

「はい。 目隠しと猿轡は外せましたが…その手足のは無理でした」

 武の手足は手錠で拘束されている。

「いえ、ありがとうございます。 えっと…俺は、紫霞宮 武と申します。

 あなたのお名前をお聞かせいただけますか?」

 すると彼は悲しげに首を振った。

「私に名前はごさいません。 皆はただ私を『宮』と呼んでいました」

「お名前がない!? 俺みたいな立場でも、宮名と王号を賜ったのに?」

「あなたも特別室に?」

「新しい方に」

 不思議な人物だった。 幽霊なのに恐怖感がわかない。

「不埒な者がいるのですね、今の時代は。 皇家の者にかような真似をするとは…」

 眉をひそめたその顔を見て、武は得心がいった。 彼はどことなく夕麿に似ているのだ。

「ふふ…」

「何か?」

「宮さまは俺の好きな人に似てる」

「あなたの好きな方?」

「うん。 面差しがなんとなく…似てる」

「そう。 その方とはお互いに想い合う仲ですか?」

「うん。 夕麿は俺の妃だからね」

「その方のお名前ですか? …お妃? 殿方ですよね?」

「男だよ? でも…結婚したんだ、俺たち」

 夕麿に似た面影の幽霊が、穏やかに優しく微笑んだ。

「羨ましいですね」

「宮さまには好きな人はいなかったの?」

「…片想いの相手もいましたが、大切に愛しく想う者もいました。 でも私はここへ幽閉された身。 結局は引き離されて儚い夢となりました」

 夕麿と生きる道を選ばせてもらえたのは、本当に幸運だったのだと思う。

「宮さまは何故まだここにいらっしゃるの?」

 すると彼は部屋の片隅を指差した。 そこにあったのは一台のピアノだった。

「6本脚…ベヒシュタイン!」

 それは夕麿が愛してやまないピアノと同じだった。 不思議な事に荒れ果てたこの場所にありながら、美しく典雅な姿はどこも傷んだ様子がなかった。

「私の大切な友。 あれがここと一緒に朽ちて行く事が耐えられないのです」

「わかるような気がする。 夕麿もピアノが好きで大切にしてるから」

「本当にその方を想っていらっしゃるのですね」

 そう呟きながら、幽霊は滑るようにピアノに近付いた。 ピアノは自ら蓋を開けて、佳人の演奏を待ち受けた。彼が奏で始めたのは美しい旋律だった。 そこに彼の哀しげな歌声が重なる。 悲しくて儚い恋の歌だった。閉じ込められた場所で静かに静かに夢もなく、ただ時の流れのままに生きて行くだけだった彼。 名前すら与えられず忘れ去られてしまった存在。それはもしかしたら武だったかもしれない。 今更ながら母が武の存在を隠して育てた理由がわかる。

 この宮さまはもう一人の自分。 そして…武と出逢わなかった場合の夕麿。

 涙が止まらない。 この方を救いたい。 純粋にそう想う。

「宮さま、そのピアノ…今、俺が住んでる新しい特別室へ移すよ。 ちゃんと手入れもさせる」

「ありがとうございます」

 振り返って礼を口にした宮さまの幽霊の鮮やかで美しい笑顔は安堵に包まれていた。

「あ…紫霞宮さま、どうやら助けが来られたようです」

「やっと…見つけてくれたのか……

 宮さま、ありがとう。 約束は必ず守るからね」

 武が見上げて言うと幽霊は微笑みを残して消えた。 その瞬間、今までが夢だったように室内が闇に包まれた。


 次の日、武は何事もなかったかのように学祭に参加していた。明日はOBが訪れる。 その準備が忙しいのに休んでなどいられない。

 幽霊の仕業なのか、シャツ一枚で放置されていたにも関わらず、武の身体は冷えていなかった。 周が用意していた軽食を入浴後に摂り普通に眠った。もっとも早朝から電話で夕麿と貴之にたっぷりと油を絞られた。 武はただただ、謝るしかなかった。 だが透麿の名前を出した瞬間、夕麿の声が変わった。

〔武、その名を二度と口にしないでください〕

「夕麿! ダメだ、ちゃんと理由を聴いて……」

〔その必要はありません〕

 取り付く島もない。 朝から喧嘩はしたくなかったし、心配かけたのは事実だったので、武はそこで口を噤んでしまった。

 テントで武が奮闘しているその時、周は都市警察署の一室にいた。 美禰と忠臣が連行されたと連絡を受けたからだ。 彼らはここに至って、自分たちの所業の重大さを自覚したようだった。

「僕たちは…どうなるのですか?」

 その問い掛けに周は渋い顔で答えた。

「武さまのご身分を差し引いても、お前たちがやったのは拉致監禁だ。 ましてや倒壊の危険性がある場所に放置した。殺意を問われても、おかしくはないぞ?」

「そんな…」

「武さまは悪ふざけで処理されたがったがな…怒らせた相手が悪い」

「え…?」

「夕麿が激怒してるんだよ。 僕は散々彼を怒らせた人間だが、あそこまで怒ったのを見たのは初めてだ。

 情状酌量はないと思え。 お前たちは皇家に害を為したんだ」

 もう二人は声も出なかった。

「武さまはお前たちに寛大な処置を要請された。 だが夕麿は厳罰を命令して来た。 都市警察は夕麿の命令を受理した。 身分は武さまの方が上だが、まだ未成年であられる。夕麿は貴族として成人している。 従って彼の命令が優先される。武さまのは要請……という扱いになる」

 夕麿は透麿についてもそれなりの処分を命じて来た。 周は武の望みを全て無碍には出来ないと透麿に関しては、彼は学祭への参加禁止と寮の建物での無期限の謹慎が言い渡された。学祭は始まったばかりである。 それに参加出来ないだけで、充分重い処罰だと言えた。

「君たちに協力した高等部の生徒を全部言いなさい。 黙ってると本当に夕麿を説得出来なくなるよ?」



「周さん…どうなってる?」

 テントに来た周に武は真っ先に尋ねた。

「透麿は無期限の謹慎で何とかなりました。 戸沢と五嶋は無理ですね」

「無理…?」

「都市警察が夕麿からの正式な命令を受理しました」

「正式な命令って…」

「直筆の命令書をFAXで送信して来たそうです。 透麿にも厳しい処置を求めていましたが、そちらだけ何とか下げさせました」

「そう…」

「武さま、あの二人は自覚もないままに、今回の行為を実行しています。 彼らがもし軽い処罰で済んでしまったら、第二第三の彼らが出現する可能性があります。それでは学院の風紀は乱れる一方になってしまうでしょう。

 従って彼らは少なくともこの学院からは追放になるでしょう。

 それと透麿の事はしばらく夕麿と話されませんように」

「どうして?」

「今は何をどう言っても、余計に拗れるだけだと思います。 今月末には帰国して来るのですから、 対面で話をした方が説得しやすいのではないでしょうか。出来ましたら今は冷却期間として、夕麿と透麿をそっとしてやってください」

「わかった。 周さんがそういうならそうする」

 焦っても上手く行かないと諭されて武はそれを受け入れた。

「御気分は如何ですか?」

「今のところ何ともない。

 あ、ピアノの方、学院に申請してくれた?」

「しました。 確かに記録にもベヒシュタインがあったのが記載されているようです」

「そっか…」

「学祭中に運び出してメンテナンスの手配をするそうですが…」

「費用は全面的に俺が出す」

「最終的に武さまにお引き取り願いたいと申しております」

「まあ…特別室にそのままは、維持費の問題もあるだろうな。 わかった、御園生へ問い合わせてみる。 既に夕麿のがあるけど、母さんや義勝先輩もピアノ使うしね」

 多分それであの幽霊も納得してくれるだろう。

「幽霊は夕麿に似ていた…と仰いましたね?」

「うん。 似てた。

 名前…何とかならないかな? 既に亡くなっているんだし…」

 名前を与えられないままに、哀しい人生を過ごした高貴なる人。 夕麿に似た面差しで夕麿と同じピアノを愛した。 亡くなった人にしてあげられる事を今はしてあげたい。

「その方が学院に幽閉された経緯を調べてみます。 お名前も上に許可をいただきましょう。

 いみな(亡くなった方へ贈る名前)としてなら大丈夫だと思われますし、幽霊として彷徨さまよっておられるわけですから、供養として了承してくれるでしょう」

「ねぇ…あの宮さまは、もしかしたら俺だったかもしれないよね?」

「おやめください。あなたは夕麿という伴侶を得て、違う人生を歩いておられます」

「でも…紙一重だ」

 少し俯き加減に呟いた武に周は言葉を紡げなかった。小夜子が武を懐妊した時に届けていたら、確かに武は名前を与えられないままで、学院に幽閉される運命だったかもしれない。逆に小夜子が前の東宮の正妃として、武の存在も一緒に受け入れていたとしたら……皇位継承順位は武の方が上になる。つまり武こそが現東宮として成長していたかもしれない。

 どちらが武の運命だったのか…それはもう誰にもわからない。

「とにかく、事情を知る者たちには口外を禁じました。

 武さまもご了承ください」

「わかった。

 周さん、今日はこっちに来てて大丈夫なの?」

「今日はこちらの準備のボランティアを派遣しましたから、僕もここにいる事になります」

「あ、ありがとうございます。助かります」

「いよいよですね…」

「うん。この結果次第でOBの身元引受の議案が、理事会で可決されるかどうかを左右する」

 武は『暁の会』の内部理事としてOBたちに、今回の学祭参加の主旨とその状態によって是非が問われる、OBの身元引受資格を説明し協力を呼びかけるビラを制作していた。 それを彼らの出入り口となる高等部ゲートで配る予定だった。

 どれくらいの人数が帰って来るのだろうか。 過去20年の卒業生に招待状を郵送したが、3分の1は宛先不明で戻って来た。参加希望の返信は4割程度。 最寄りの街から臨時のバスも用意した。 その中のどれくらいが本当に学院に足を運んで訪れてくれるのか。 それは未知数だった。けれど成瀬 雫から始まって武まで、歴代の生徒会長が要請を出し続けた願いなのだ。 七夕のような一年に一度の訪問が、内部に残る友や愛する人との再会になれば良い。 閉ざされたこの場所を、こじ開ける為の要請であり、羽ばたきの為の議案であれと武は願っていた。 どうか訪れる人々にもこの想いが届いて欲しい。

「あ…あのさ、周さん。 この曲、なんてのかわかる?」

 武が口ずさんだのは幽霊が弾き語りをしていた曲だった。

「確か、古い流行歌だったと記憶していますが?」

「楽譜って手に入る?」

「多分、図書館の楽譜庫にあるとは思いますが…今から曲目を増やされるのですか?」

「うん、出来たらそうしたい。 これ、あの宮さまが弾き語りしてたんだ」

「追悼の意味を込めて、と仰有るんですね? わかりました。 最悪の場合、僕のギターでよろしければ、飛び入りでアンコールとして伴奏させていただきますが?」

「それ、面白いかもしれない」

「わかりました、午後にでも探しに行って参ります」

 哀しくて切ない歌詞と旋律の曲。 恐らくはあの部屋で叶えられなかった想いを抱いて、彼はずっと歌い続けていたのかもしれない。

 届けたいと思う。 彼の想い人本人が来る事はないだろうけれど、彼と同じ想いで学院で生きる人々がいる。 彼らに逢いたくて訪れる人もいるだろう。 儚くなってしまった人の想いは成就出来なくても、今を生きている人の想いはまだ成就出来る。

 成瀬 雫と高辻 清方のように、一心に想う心さえあれば。

 亡き人の無念の為にも。 あの人は武に優しかったから。

 引き裂かれた人と人、心と心。 どれだけが繋ぎなおせるのだろう。 ここに戻るだけで少しでも癒されるならどんなに嬉しいだろう。

 武はこの学院を哀しみの場所ではなく、人生を歩く上での誇りの源となる場所にしたかった。 少なくとも武にとって学院は、本当の人生の始まりの場所だと思っている。

 明日に向けて慌ただしく準備が進む学院を武は一日中眺め続けた。



 11月6日、OB訪問日の最終日、彼らを対象に生徒会イベントが開催された。 在学生対象のは通年通り、学祭の最終日に開催される。 中等部は相良通宗を会長に据えて、規模を縮小しての雅楽演奏を行った。

 そして大学部々生会による演奏。 曲目はロドリーゴの『アランフェス協奏曲』。周がリッケンバッカーの12弦ギターを手に登場した。

 このギターは1964年にビートルズが使用したのでも有名なギターであり。管弦楽器で構成される『アランフェス』は、ギターアレンジされた第二楽章がソロで演奏されるのでも有名である。オーケストラのものは、オーボエやホルンとギターの主旋律が美しい。

 周のギターの演奏を以前、夕麿が誉めていた事がある。確かにギターの哀愁を帯びた音色が、ここまで美しく響くのを武は初めて聴いた。周のソロを聴いてみたいとまで想う。普段の周は美形ではあるが、軽薄さを帯びた雰囲気がある。だが舞台の上の彼は別人だった。同時に大学部の学生のレベル全体が高い。

 武は周にすすめられるままに、高等部の出演を最後にしてしまったのを本気で後悔していた。昨年、高等部生徒会が最後だったのは夕麿と雅久がいたからだ。

 そこへ行長がOBをひとり連れて来た。

「赤佐先輩!」

 春に卒業した赤佐 実彦だった。

「久我先輩のギターには勝てませんから、ゲスト出演をお願いさました」

「慈園院さんのお墓参りに来られたのですね?」

「はい。紫霞宮さま、心より感謝申し上げます。あの温室にもう一度、来れるとは思いませんでした」

「そのうちに学祭じゃなくても入れるように出来れば良いよね」

 卒業生が理事資格でも得なければ、母校を訪問出来ないのはおかしい。それが武の率直で当たり前の想いだった。

「今年、戻って来られて良かったと思っております。実は来年、コロンビア大学に留学する許可をいただきき来れないのです」

 どこか儚げに微笑む姿はそれでも誇らしげだった。

「おめでとうございます。

 あ…そうだ。クリスマス・イブの家のパーティーに来られませんか?慈園院さんのお兄さんを夕麿が招待したそうなんです」

「夕麿さまが…ああ、保さまですね?司さまからUCLAに留学されているお話は、伺った記憶があります」

「雅久兄さんの話だと、驚くくらいそっくりなんだって。

 ……辛いかな?」

「お心遣い痛み入ります、紫霞宮さま。お目もじさせていただきます」

 実彦と話しているうちに、会場を揺るがすような拍手喝采が響いた。大学部の演奏が終了したのだ。だが拍手とアンコールの声が鳴り止まない。すると舞台の上には周だけが残った。それはついさっき武が聴いてみたいと思った第二楽章のギターソロだった。しかも12弦ギター用に編曲がしてあった。会場は水を打ったように静まり返った。どうやら周は全員で演奏する時にはかなり控え目に爪弾いていたらしい。音色も響きもソロ演奏の方が遥かに素晴らしい。

「この曲は…このギターソロは確か、夕麿さまがお好きだったと記憶しております」

 実彦の言葉に武は驚いた。初めて聞く話だった。

「ご存知ありませんでしたか?まだ夕麿さまが一年生でいらっしゃった時に、久我さまが特待生教室にギターを持ち込まれて…爪弾いていらっしゃった事がありました。その折にリクエストなされて、久我さまが『相変わらずアランフェスが好きか』とお尋ねになられて、微笑んでいらっしゃいました」

 義勝たちからでさえ聞いた事がない話だった。それは武の中からどうしても消えないある事を一層確信させる話だった。

 学院を既に卒業して去った夕麿。来年、武が卒業してしまえば周は夕麿との接点を失う。この曲を今年の演目に選んだのも、アンコールをソロ演奏にしたのもこれが録音されているからではないのか。

 『暁の会』が寄付集めに、今年も販売する。 当然、夕麿の手にも渡る事になっている。 全ては夕麿に聴かせる為。

 武は行長と実彦に気付かれないように、舞台の上の周を見つめてそっと唇を噛んだ。周の演奏は会場を振動させる程の拍手喝采で終わりを告げた。間違いなく今年のイベントの主役は周だった。

 退場して来た周を武は笑顔で迎えた。

「お疲れさまです。素晴らしい演奏をありがとうございました」

「ありがとうございます、武さま」

 周は深々と武に頭を下げた。

「本当に素晴らしい演奏でした、久我さま」

「赤佐…ああ、慈園院の墓参りか。これはないですよ、武さま」

「あはは、これくらいハンデはもらうよ?俺たちに周さんのギターに勝てる実力はないから。

 下河辺、赤佐先輩、行きましょう」

 周に背を向けて舞台へと踏み出した。準備が整ったのを確認して幕が上がった。

「こんにちは。多分、殆どの方が初対面だと思うのですが…えっと、俺を知ってる方はどれくらいいます?」

 そこここからバラバラと手が上がった。

「あ、結構いらっしゃった。嬉しいな。んじゃ、去年の生徒会長の夕麿を知ってる方は?………やっぱり、俺より多いなあ…悔しいけど、仕方ないかな?

 で、俺たちの演奏に入る前に会場で副会長の下河辺が見付けて、ピンチ・ヒッターにお願いしちゃいました。

 現在T音楽大声楽科所属で、来年はコロンビア大学へ留学される、赤佐 実彦先輩です」

 実彦は拍手の中を前に進み出た。

「下河辺の伴奏でシューベルトの『魔王』。

 カウンター・テナーの天上の歌声をお聴きください」

 武がマイクから下がると行長が演奏を開始した。

 ほっそりとした身体のどこに、これだけのパワーがあるのかと思う程、実彦の透き通った声は力強く会場に響き渡った。それはまさに天上の歌声だった。周のギターに酔いしれていた観客を実彦の歌声が呼び戻した。

 武は拍手喝采を贈るOBたちの中に、今は亡き司と清治の姿を見た気がした。

「紫霞宮さま、母校で歌う機会を賜り光栄の至りでございます。

 ありがとうございました」

「赤佐先輩、ありがとうございます。素晴らしい歌声でした。心から感謝いたします」

 実彦はもう一度、武と観客に礼を述べて退場した。

「えっと、下河辺」

「何です、会長?」

「今ので良くない? 俺、帰りたくなったんだけど?」

 武の逃げ腰の言葉に会場から笑い声が上がった。

「良いわけないでしょう? あなたが尻尾巻いてどうするんです? 学院の生徒会記録に残っても良いなら構いませんけど?」

「う…」

「良いですよ、どうぞ。夕麿さまの輝かしい業績の後に、学祭イベントから逃げた武さまの記録が記載されるだけですから」

「その前に多分、夕麿さまのお仕置きですね」

 康孝がすかさず言う。

「あ、俺、すぐに電話します」

 拓真が携帯を取り出した。

「止めんか~!本当にお仕置きされるだろーが!」

 武の慌てぶりに会場が爆笑する。

「はいはい、逃げるのか続けるのか、どっちにするんです?」

 涼しい顔で行長が武を追い詰める。

「………お仕置きは…ヤダ」

 武の嫌がり方は夕麿のお仕置きが、事実なだけにリアル感があって会場を笑わせる。

「では我慢して歌ってください。あなたは歌しか出来ないのですから」

 その言葉に泣き真似をする。会場は笑い声がずっと響いていた。

「じゃあ、皆さん。俺の歌…聴きたい?」

 会場に責任を押し付ける。

「武さま、照れてないで歌ってください!」

 会場のどこかから叫ばれた。

「会長、往生際が悪いですね?夕麿さまが作った曲を台無しにするんですか?」

「………」

「武さま!」

「わかった。後で苦情や返品は受け付けないからな? …OK?

 じゃあ、最初は俺の大好きな歌…ジョン・レノンの『イマジン』を」



   『Imagine there's no Heaven  

    It's easy if you try

    No Hell below us

    Above us only sky

    Imagine all the people

    Living for today……

    (天国なんてないって想像してみて

     君には簡単に出来るさ

     俺たちの下に地獄はない

     俺たちの上には空だけがある

     全ての人々よ

     想像してみて

     今日の為に生きて…)』

 武の歌声に会場の人々の声が重なる。 大合唱になった。


   『Imagine there's no conuntries

    It isn't hard to do

    Nothing to kill or die for

    And no religion too

    Imagine all the peopleLiving life in peace

    (国なんてないって想像してみて

    実行するのは難しくない

    無宗教だったら

    それを理由に殺す事も死ぬ事もなくなる

    全ての人々よ

    想像してみて

    平和に生きる人生を)』

 気が付けば中等部や大学部の出演者が舞台に出て一緒に歌っていた。 全員がひとつになって歌が終わった。 拍手喝采の中、武がマイクに向かった。

「みんなありがとう。 言っておくけど、まだ一曲目だからな。 終わりにして帰らないでよ?」

 笑いが漏れる。

 武は引き続き『翼をください』を歌い、後2曲ほど歌って一度舞台袖に下がった。 連続して歌うのは体力がいる。 行長たちが演奏を聴かせている間に水分を摂って休息する。 周が武の脈を取り体温や血圧を計る。

「少し脈が速いですが…まあ、こんな時にはこれが普通ですね」

 周の言葉に頷いた。

「いよいよですね?」

「恥ずかしいよ、あれ歌うの」

「ちゃんと映像を撮ってますからね? 夕方にロサンゼルスに送信する約束をしております。

 夕麿は楽しみにしていますよ、あなたの詞を」

「わかってる…それよりあの曲の伴奏、お願いするね?」

「はい、承知しております」

 ちょうど予定されていた曲が終わった。 武は笑顔で舞台に再び登場した。

「お待たせしました。

 さて今回、軽音楽を選択した時に、久我 周さんが言ったんですよ。 オリジナルがいるって。でちょうどその時にいた夕麿に曲を作れって。 その歌詞を俺に書けって言うわけ。 届いた曲は2曲あって、片方には既に夕麿が歌詞をつけてました。

 まずはその曲から。 恥ずかしいんですけど…『君へ』…」



     『君と初めて遭ったのは

     桜の花が舞う季節

     慣れない場所で

     戸惑う君だった



     「冬来たりなば春遠からず」

     そんな言葉をあの頃の

     私は信じてはいなかった

     この心には春は来ないと

     凍ったままで生きて行くのだと

     けれど君はこの心にまで

     春を運んで来た



     雪解けは不安だった

     だから君から逃げようとしたけど

     冬は春の訪れを

     本当は待っていたんだと

     今ならわかる



     この先 君と共に

     巡り来る季節を

     どれくらい重ねて行けるだろう?

     世界がこんなに鮮やかで

     こんなにも美しいと

     君が教えてくれたから



     握り締めた

     この手はもう離せないから

     歩いて行こう

     人生という夢の果てまで

     君と二人で……』


 頬を染めて歌う武は可愛くて綺麗だった。 軽音楽風にアレンジしてあってもそこは夕麿の曲。 少し哀愁を帯びながらの美しい旋律に、武のややハスキーな声が絡む。 二つが重なって切なげな響きが会場を満たす。

 恥ずかしがりながらも、歌い出せば夕麿への想いが募る。 出逢いから毎日、顔を合わせていた。 もう少し我慢したら、逢えるんだと自分に言い聞かせる。

 武の想いが歌にのり聴く人々に染み込んで行く。 夕麿を想う武の心が。

「えっと…次は、俺が詞を書いた方です。 『誓い』」

     『恋なんて知らなかった

     突然それが

     姿を現すものだなんで

     俺は知らずに生きてた

     あの日 お前に出逢うまでは

     ただ闇雲に生きて来たから

     恋がこんなに

     熱い想いなんだと

     知る筈もなかった



    すれ違い 傷付け合い

    喧嘩もたくさん

    お互いに泣いて 怒って…

    でも これだけは誓うよ

    どんな事があっても

    俺は お前といたい

    だから 側にいて欲しい



    抱き締めたいと思うのも

    抱き締めて欲しいと思うのも

    お前だけだから

    歩いて行こうよ

    ずっと これからも



    桜の下で 交わした歌を

    俺は決して 忘れはしない

    生まれ変わっても

    俺はお前を 愛してる』

 
 歌い終わった武は恥ずかしさに耐えきれず顔を覆って横を向いた。拍手喝采に混じって冷やかしの言葉が飛ぶ。武の性格を知っている卒業生がヤジを飛ばして来る。武は耐えきれず舞台から袖に逃げ込んだ。

「会長、挨拶抜きに逃げないでください!」

 行長の言葉に会場が沸く。

「皆さん、アンコールで会長を呼び戻してください」

 敦紀の言葉に会場は、一斉にアンコールを叫び始めた。しばらく間を置いてギターを手にした周が武を引っ張り出して来た。

「武さま、往生際が悪いですね。 もう歌っちゃったんだから、諦めてくださいよ?」

 康孝が言う。 すると再び拓真が携帯を取り出して一言。

「やっぱり電話、しちゃいます?」

「逸見~」

 武が拓真の首を切る振りをする。

「や・ら・れ・た~」

 会場の人々は笑い転げていた。

「よしこれで邪魔者は消えた。 アンコールに行こう。

 先日、ある場所で幽霊に会いました。 この歌は幽霊が歌っていました。 綺麗だけれどとっても哀しい歌です。

 急遽きゅうきょ選曲したので、伴奏を周さんにお願いします。

 お聴きください、亡き方が死してなお、想い人を忍んで弾き語りする歌を。 『尽きせぬ想い』」


     『私に生きている価値はあるの?

     朝の光に問い掛ける

     でもいつも

     太陽は答えてくれない

     去って行くあの人の

     背中を立ち尽くして

     ただ見送るしかなかった私に

     まだ生きている意味はあるの?



     面影を求めても

     虚しさが募るだけ

     あなたは決して

     戻っては来ないから

     もう思い出の中にさえ

     あなた背中しか見えない



     ねえ 私に生きている価値はあるの?

     月に問い掛けてみるけど

     無言のまま輝いているだけ

     あなたを失った私は

     もうただの脱け殻なのに

     生き続けているのは 何故?

     神さま

     私はあとどれくらい

     生きていれば良いの?

     脱け殻のまま

     この想いを抱き締めて

     あなたはもういないというのに……』



 そこにいる全員が呼吸すら忘れてしまった。 武の声に重なるように確かに別の声が聞こえて来たのだ。 啜り泣くような哀しい声が、武と一緒に歌っていた。 すると後ろからひとりの老齢の紳士が、涙に頬を濡らして舞台のすぐ下に来た。 彼は歌が終わるとその場に泣き伏した。 武の合図で成美たちが彼を、そっと控え室へと案内した。

 イベントは最後にもう一度、『イマジン』を歌って閉幕になった。




 武は控え室で紳士と向き合った。

「あの方をご存知なのですね、あなたは?」

「はい。 ずっとお慕い申し上げておりました。宮さまも多分… …けれど私たちはお互いに、気持ちを告げる事は許されなかったのです。 だから何も申し上げずに、私は学院を卒業しました。

 それから60余年。 今日まで戻る事も、宮さまの御消息を知る事も出来ずに生きて参りました」

 彼の話はそのまま、幽霊の話と同じだった。

「失礼ですが…宮さまの御出自をご存知でいらっしゃいますか?」

 調べてもどこにも彼の出自は見つからなかった。 ここまで完全に消された人間は学院でも珍しいと言えた。

 老紳士は告げた。 宮の出自と名前すら与えられず闇に葬られた理由を。

「やはり…武さま。 彼は、旧特別室の宮さまは、夕麿の母方の大伯父君です」

「え!?」

「あの…」

「夕麿は旧姓を六条と申します」

「ああ…翠子さまの…」

「それで夕麿と似てたんだ…」

 幽霊の宮は夕麿の祖母の異母兄だった。 夕麿の曾祖父はひとりの花街の女性と恋に落ちた。 そして宮を彼女が身籠もった。 だがその時にとんでもない事が判明した。 彼女は彼の異母妹だったのだ。 花街の女として母親の希望で認知もなしに育ったのだ。 だから互いに兄妹だとは知らなかった。兄妹間で生まれた忌むべき子供。 それが名も与えられずに幽閉された理由だった。 皮肉な事に兄宮にはその後、姫君しか誕生せず宮家は断絶した。 皮肉は重なるもので女二代を経て、夕麿という男子が生まれた事になる。

 御厨家にも断絶した宮家の血は流れてはいるが、濃さは夕麿とは比べものにもならない。 そして夕麿は武との婚姻で子供は成せない。如何なる理由でも子供を成してはならない。 女系の末とはいえ直系の血は夕麿を最後に絶える事になるのだ。悲劇の血脈としか呼びようがない…と周は思った。

 武が彼の幽霊に会ったのは、確かにその強い皇家の霊感かもしれない。 だが幽霊が武を助けたのは多分、夕麿の事を知っていたのだと感じていた。 会った事のない異母妹の孫。武がその伴侶だからこそ現れたのだと。 それは歌よりも哀しい真実だった。



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☆本編番外編 完結済✨ 感想嬉しいです! 元バスケ部の俺が拾ったスマホのロック画は、ユニフォーム姿の“俺”。 持ち主は、顔面国宝の一年生。 なんで俺の写真? なんでロック画? 問い詰める間もなく「この人が最優先なんで」って宣言されて、女子の悲鳴の中、肩を掴まれて連行された。……俺、ただスマホ届けに来ただけなんだけど。 頼られたら嫌とは言えない南澤燈真は高校二年生。クールなイケメン後輩、北門唯が置き忘れたスマホを手に取ってみると、ロック画が何故か中学時代の燈真だった! 北門はモテ男ゆえに女子からしつこくされ、燈真が助けることに。その日から学年を越え急激に仲良くなる二人。燈真は誰にも言えなかった悩みを北門にだけ打ち明けて……。一途なメロ後輩 × 絆され男前先輩の、救いすくわれ・持ちつ持たれつラブ! ☆ノベマ!の青春BLコンテスト最終選考作品に加筆&新エピソードを加えたアルファポリス版です。

バイト先に元カレがいるんだが、どうすりゃいい?

cheeery
BL
サークルに一人暮らしと、完璧なキャンパスライフが始まった俺……広瀬 陽(ひろせ あき) ひとつ問題があるとすれば金欠であるということだけ。 「そうだ、バイトをしよう!」 一人暮らしをしている近くのカフェでバイトをすることが決まり、初めてのバイトの日。 教育係として現れたのは……なんと高二の冬に俺を振った元カレ、三上 隼人(みかみ はやと)だった! なんで元カレがここにいるんだよ! 俺の気持ちを弄んでフッた最低な元カレだったのに……。 「あんまり隙見せない方がいいよ。遠慮なくつけこむから」 「ねぇ、今どっちにドキドキしてる?」 なんか、俺……ずっと心臓が落ち着かねぇ! もう一度期待したら、また傷つく? あの時、俺たちが別れた本当の理由は──? 「そろそろ我慢の限界かも」

男子高校に入学したらハーレムでした!

はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。 ゆっくり書いていきます。 毎日19時更新です。 よろしくお願い致します。 2022.04.28 お気に入り、栞ありがとうございます。 とても励みになります。 引き続き宜しくお願いします。 2022.05.01 近々番外編SSをあげます。 よければ覗いてみてください。 2022.05.10 お気に入りしてくれてる方、閲覧くださってる方、ありがとうございます。 精一杯書いていきます。 2022.05.15 閲覧、お気に入り、ありがとうございます。 読んでいただけてとても嬉しいです。 近々番外編をあげます。 良ければ覗いてみてください。 2022.05.28 今日で完結です。閲覧、お気に入り本当にありがとうございました。 次作も頑張って書きます。 よろしくおねがいします。

【完結】抱っこからはじまる恋

  *  ゆるゆ
BL
満員電車で、立ったまま寄りかかるように寝てしまった高校生の愛希を抱っこしてくれたのは、かっこいい社会人の真紀でした。接点なんて、まるでないふたりの、抱っこからはじまる、しあわせな恋のお話です。 ふたりの動画をつくりました! インスタ @yuruyu0 絵もあがります。 YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。 プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら! 完結しました! おまけのお話を時々更新しています。 BLoveさまのコンテストに応募しているお話に、真紀ちゃん(攻)視点を追加して、倍以上の字数増量でお送りする、アルファポリスさま限定版です! 名前が  *   ゆるゆ  になりましたー! 中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!

【完結】毎日きみに恋してる

藤吉めぐみ
BL
青春BLカップ1次選考通過しておりました! 応援ありがとうございました! ******************* その日、澤下壱月は王子様に恋をした―― 高校の頃、王子と異名をとっていた楽(がく)に恋した壱月(いづき)。 見ているだけでいいと思っていたのに、ちょっとしたきっかけから友人になり、大学進学と同時にルームメイトになる。 けれど、恋愛模様が派手な楽の傍で暮らすのは、あまりにも辛い。 けれど離れられない。傍にいたい。特別でありたい。たくさんの行きずりの一人にはなりたくない。けれど―― このまま親友でいるか、勇気を持つかで揺れる壱月の切ない同居ライフ。

ヴァレンツィア家だけ、形勢が逆転している

狼蝶
BL
美醜逆転世界で”悪食伯爵”と呼ばれる男の話。

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