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切れない悪縁
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あの夜から再び、夕麿は武にベッタリの状態に戻った。一同はそれこそホッとしたが、『またか』とウンザリもする。
義勝は二人がそれぞれ安定した精神状態になったので、思わず胸を撫で下ろした。
響一人がこの様子を不快そうに見つめているが、誰もそれに構わないでいた。そう、清方と高子さえも。
春休みシーズンになり、静麿たちがそれぞれの家に帰宅した。
蓮も貴之と敦紀の元へ戻り、連日、武の側に侍っている。そのお陰で彼の体調はさらに改善し、社に出る日数と時間が増えた。
ただ、出社しない日には十分に身体を休めるように、と周から強く指示が出ていた。米国側から手渡されたカルテには、正巳が通常の生活を支障なくおくれるようになるまで、幾度か発熱等の体調不良を起こしている記載があったかるだ。
本人に確認してみると確かに事実だった。彼を取り巻く医師団もハッキリとした原因はわからない様子で、時としてかなりの高熱になって大変だったと答えた。だが一年を経過したあたりからその症状は減り、二年目には起こらなくなったと言う。
正巳は武より健康な体質だった。彼らに利用され薬漬けにされるまでは。行長たち同級生の話によれば快活でムードメーカー的なところがあった。
これはもうすべては紫霄をめぐる大人たちが悪い、としか言いようがない。本来は皇家の貴種の暗殺などに関与するはずのない人間だった。
一方、武は元より身体が弱い。皇家の血筋には一定の割合で誕生する体質で、武はまだまだ丈夫な方であった。現東宮、つまり薫の双子の兄はその典型とも言うべき虚弱体質である。皇家と貴族、特に摂関六家と清華貴族の上部との婚姻が、長きにわたって繰り返されて来た結果とも言えた。
現在、皇家に子供が誕生する数が減っており、数多の女御・更衣が後宮にひしめいても、皇子どころか皇女もなかなか生まれて来ない。これは継承の控えとして存在する『宮家』でも同じであった。
唯一、他よりも子に恵まれているのは、皮肉にも新帝の異母弟のところで、皇女二人に皇子三人がいた。
先帝の第三皇子である彼は、半家出身の更衣を生母とする。彼女は大変な美女であるのが知られているが、現在は息子の御在所の奥にひっそりと暮らしているという。
武が新帝の顔を写真やTVのえいぞうでしか知らないように、この皇子の顔も知らない。いや、武は父宮の同母妹の顔も知らない。
皇家側の身内は祖父皇帝が崩御した今、薫しか知らないのだ。それだけ隔離されていると言っても過言ではない。
ついでに言えば彼を目の敵にしているらしい新帝の生母、近徽殿の御息所の顔も知らないのだ。
武からすれば顔も知らない相手を憎んだり妬んだり恨んだりできるのが、まるで理解できず不思議で仕方がない。彼が彼女を恐れてはいない。ただ理解不能な女性という感覚でしかなかった。
人が誰かを憎む時、憎しみのミナモトは『誰か』にあるのではなく、その感情を抱く本人の心にあるのかもしれない。
週に二日か三日のペースで出社しているが、その日の武は午前中から体調が悪かった。
「武さま、雫さんと周先生には連絡いたしました。車がすぐに参ります」
武のために用意されたベッドで横になっていたが、体調は悪化するばかりだ。周から発熱の可能性について説明されていたので、これがおそらくはそれに当てはまるのだろうと考えている。
夕麿は今朝から西の島へ出張中だ。榊と雅久も同行しているため、後は影暁にと圭に任せて通宗と智恭に付き添われて階下に降りた。
「武さま、こちらへお座りになられてください」
ホールの奥にあるソファに座らされる。既に座っているのもかなり辛い。背もたれに全身を預けて荒い息を吐く。
通宗が手に触れて驚いた顔をした。
「武さま、かなり熱いです、大丈夫ですか」
大丈夫なはずはないが、他に何を言えるだろう?
「ん……ちょっと辛い」
変に意地を張っても意味がない。余計に心配させるだけだとわかっている。
「朝は元気だったから出て来たのに……悪くなるなら朝からなればいいのにな」
そうしたら皆に迷惑かけずにすんだのに。この忙しい時に役立たずは辛い。
「武兄さん」
不意に聞き慣れた声が上からした。顔を上げると制服姿の希が、見慣れない少年を伴って立っていた。
「希か……珍しいな」
「夕麿兄さんは」
「朝から出張」
「武兄さんは行かないよね」
行かないのではなく行けないのだ。夕麿にしても日帰り限定で、今日も早朝に新幹線で向かい、同じく新幹線で遅くに帰宅する。それが許されるギリギリなのである。
「それでなんの用だ?」
「何って……帰ってこないから」
「引っ越したからな」
「何で⁉」
「俺のための住処が完成したから」
「答えになってない!」
希が叫んだ瞬間だった。駆け付けて来た雫に押し退けられた。
「希君、体調の良くない相手にそれは良くない」
そう言ったのは康孝だった。
「は?また?」
反抗時期でも最近の彼はあまりにも態度が良くない。特に武に対しては血の繋がりゆえの甘えなのか、それとも夕麿を独占する兄への苛立ちと妬みなのか、思い遣りの欠片すら見せなくなっていた。そういった行為が夕麿に、さらなる嫌悪を持たせるとも気付かずに。
希の言葉に康孝が怒りを顕にした時だった。朔耶が駆け込んで来たのだ。
「朔耶?どうしてここに?」
武を支えていた雫が問いかけた。
「周の指示で…」
朔耶はその場の不穏な空気を察したのか、鋭い眼差しを希へ向けた。もちろん朔耶も例の一件は聞き及んでいる。こちらに気付かれていないと思っているだろうが、よくここへ顔を出せたものだと怒りを通り越して呆れてしまう。
「武さま、解熱剤をお持ちしました。まずはこれをお飲みください」
そう言って手にしたポーチから、薬とミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。
雫が受け取ってぐったりしている武に差し出した。武は頷いて薬を口に含む。ペットボトルの蓋を開けて差し出すと水でを口に含んで飲み込んだ。
「雫さん、病院棟の準備を整えて周たちが待っています」
「急ごう」
もう誰も希たちを気にしていなかった。ただ雫たちが気になったのは、希と一緒に来ていた少年の存在だった。彼は結局、一言も発さずに無言で皆を見ていた。どこか皆を見下しているように感じられて、朔耶はかなり不快に感じていた。
「あれは誰でしょう」
車の中で昨夜が呟くと通宗がこう返事した。
「写真は撮りました。貴之さんならば誰なのか突き止めれられるのではないでしょうか」
貴之がいくら調査能力に優れていると言っても、果たして写真だけで少年の正体を突き止められるのであろうか?朔耶は次々と現れては面倒を運んで来る『誰か』にうんざりしていたのだった。
武の発熱から数日後、紫霄の新学期間近ということで、夕麿は異母弟の静麿と共に街に買い物に出ていた。実は建て直しをしていた六条邸が完成し、この春休み中に仮住まいから移転したばかりだった。古い調度品の一部は現在ではすでに製造されていないもであったり、アンティークとしての価値が上がっているものもあるが、新しい建物に会わないものもあった。
そこでデザイナーに会って古い調度品をうまく利用しながらのデザインを依頼することにしたのだ。デザイナーは御園生と契約している事務所の所属で、夕麿が個人的に依頼することになっていた。本来は静麿の名前でするべきだが、彼はまだ未成年であることを踏まえ配慮した。
武はようやく熱が下がったばかりであったし、六条のことは六条の人間がすればよいこととわかっている。ただ蓮が休み中、ほとんど御在所と住居で過ごしていたのを見かねて、夕麿の警護をする貴之に相談して静麿の護衛という名目で同行させていた。
「静麿、どうしますか?すべてインテリア・デザイナーに任せますか?それもあくまでもアドバイスだけにして、自分で選びますか?あなたの家なのですから好きなようにして良いのですよ?」
かかった経費はすぺて夕麿が負担したが、それは持ち直したとらいえ六条家はまだまだ財政状態が良いとは言えなかった。それに夕麿としても実家と弟を守りたかった。
「はい、私の部屋と書斎以外はそのまま施工してもらおうと思っています」
「そうですね、自室の使い勝手はやはり自分でしないとダメかもしれませんね」
お陰で御在所の夕麿の部屋は、本人がペントハウスから移ってから整えられた。机などにやはりこだわりがあり、彼方此方探し回った物もある。
「それでなのですが……」
「何でしょう?」
成長してからの兄弟関係は難しい。特に年齢が離れてしまった場合は。それは武と希を見ていればわかる。まして夕麿と静麿は共に暮らした経験がなく、出会った時には既に兄である夕麿は武の伴侶だった。
王家や皇家、貴族などの特権階級では、父親が同じであれば母親の出自で序列が決まる。
夕麿の生母である翠子は近衛家の末娘であり、その母は今は男系後継者が絶えて失われた宮家最後の女王である。一方、静麿の生母藤子は近衛家の縁者ではあるが、身分では到底翠子には及ぶものではない。
ゆえに初めから静麿は夕麿を『兄』とは呼ばなかった。皇家の貴種の元に入れば、実の親兄弟でも敬称を付けて呼ぶことになる。それがルールなのは確かだ。それでも夕麿にすれば少し寂しく感じていた。
その気持ちを察したのか先日武が静麿に、表立って身分を明らかにできない状態なので、外では夕麿を『兄』と呼ぶように依頼していた。これならば静麿を戸惑わせることもない。
「やはり翠子さまのお遺しなられたものは、今の六条では扱いが難しく思われます。翠子さまも兄上のお手元にある方が喜ばれるのではないでしょうか」
翠子の遺品は皆、実家であった近衛家が厳選したりオーダーしたものだった。当然ながら一点ものが多く物によって値段の付けようにない物もある。これらの相続権は夕麿であり、蔵の地下に保管されていたものはあらかたは引き取った。だが調度品の一部は大き過ぎて地下の隠し保管庫に入らなかったようで、そのまま屋敷の中に置かれていた。現在は屋敷の建て直しのために御園生の経営する保管用倉庫に預けられている。
「そうですね……私の一存では決められませんので、後日に返事で良いですか」
武が反対しないはずだが、そこはやはり彼の承諾が欲しい。
「わかりました。お待ちしております」
その辺りはルールとも言えるので、静麿も取り立てて反対はしない。
こうした穏やかな時間を過ごせるのは、本当に幸福で素晴らしいと思う。その裏で雫たちの努力と苦労があるのも、夕麿も静麿も理解している。
「兄さま!」
不意に背後で声がした。この声と呼び方は聞き覚えがあった。
とっさに貴之と蓮が身構える。少し離れてついて来ていた成実と康孝も、素早く二人を護る体制に入った。
「え……うそ……」
同時に振り返った夕麿と静麿に声の主が言葉を失う。
「何で……どうして!」
そりゃ驚くだろうな、と貴之は苦笑した。年齢差があるのはわかるだろうが、そっくりの人間が二人振り返ったのだ。
よく見れば夕麿には大人の纏う落ち着きと威厳があり、静麿には若さゆえの澄んだ気品がある。二人の身長は夕麿がやや高いだけで、おそらくはすぐに静麿が追い越してしまうだろう。
「兄上、お知り合いですか?」
もちろん透麿という異母兄がいたことは、静麿も話には聞いている。目の前の人物の反応から彼がそうだとわかる。だが彼は武の生命を脅かし、夕麿によって六条から追放され、犯罪者として貴族籍を剥奪された只びとだ。
「いいえ、人違いでしょう」
冷たく言って踵を返す。静麿もそれに倣う。貴之と蓮も従い、成実と康孝は透麿を警戒しながら歩き出した。
「兄さま!兄さま!」
背後で悲鳴のような呼び声がしたが、彼らが振り返ることはなかった。
「……という状態でした」
貴之が今日の透麿との遭遇を、いつも通りに集まった雫、周、朔耶、それに製作を終えた敦紀に説明した。
「ええ?おかしくないですか?確か実刑判決だったはずですが、何故にこんなに早く外にいるんです!」
敦紀の怒りはもっともだった。透麿は武に凶器を向けたのだ。皇家への犯罪は重罪である。事と次第によっては極刑に処せられる場合もある。
「……それな。俺もそう思うさ。しかし司法が屁理屈言い出して、一般扱いの判決になった、と聞いている」
雫が苦々しく呟いた。
「は?ありえないだろ!武さまを何だと思ってるんだ」
今度は周が怒りを露わにする。
「佐田川の科刑も全体的に軽かった。多分……何処かから圧力がかかってる」
思い当たるのは一つしかない。
「つまり彼らは元からそっちの手先か」
「一概には言えません」
うんざりした言葉を呟いた周に答えるように、貴之が言った。
「佐田川の元からの目的は、六条家を乗っ取ることだったでしょう。だから夕麿さまを排除するための汚い手を使ったと考えられます」
「つまりこうですか?夕麿さまが武さまの伴侶になられたことで、あちらが佐田川へ接近し手駒にしたと?」
敦紀がすぐさま貴之の言いたいことを受け取る。
「断定はできない。だがそう考えた方が辻褄の合うこともある」
雫が答えた。だが歯切れが悪い。
「あくまでも『ではないか』で、我々も何某かの証拠を得ているわけではない」
「透麿が六条からも貴族籍からも追放された今、乗っ取りはできないと思うが……何が目的なんだ?」
周の疑問はもっともだった。ただ、本来は摂関貴族の家に一般民が嫁ぐことはできないはずだった。だから佐田川一族と九条家、もしくは双方を後に繋ぐ『誰か』がいたと考えられた。
「単純に武さまへの復讐じゃないでしょうか」
朔耶にすればそれしか思いつかない。
「あとは報酬……じゃないかと」
悪徳な一族であっても彼らはそれなりの資産家ではあった。武は彼らを破産させた。罪科を暴いただけではなかったのである。
彼らが贅沢な生活をもう一度取り戻そうと望んでも不思議はない。
「面倒くさいことになりそうだな。あっちが静かなのはこれが原因か?」
雫の純粋な疑問符だった。武がここと社の間しか動かないのは、不測の事態を避けるためであるのは誰もがわかっている。
透麿との再会は偶然だった様子だが、この先の動きまではわからない。
「プロファイリングしてみるか……」
「それには彼の現状を調べませんと」
透麿の基本的な情報はある。しかし刑期を努め、外に出てからの状態まではわからない。佐田川との関わりもだ。何某かの関係があるのであれば、そこからまた変わってくる。
「あいつの根元は夕麿を取り戻すことだろう」
周の脳裏を過ぎったのはロスでの事件だ。主犯は純粋に武の暗殺が目的。協力者は雫への腹いせ。だが彼らが薬剤で操っていた者は、夕麿を報酬として動かされていた。
透麿は兄を性的な目で見てはいなかったと記憶している。だがあの異様とも感じられる執着の仕方は、もしかしたら……とさえ思えて背筋が冷たくなる。
「貴之、透麿は今はどこに身を寄せているか調べてくれ」
「承知いたしました」
雫も周と同じ懸念を持ったのだろう。
「これ以上、厄介事が増えなければいいが……」
周がうんざり顔で天を仰いだ。
「それで、先日、希と一緒に会社に現れた少年の正体はわかったのですか?」
問いかけたのは朔耶だった。
「……彼は衣尾谷家の嫡男、尚志君だと思われます」
貴之が答えた。彼が少し躊躇ったのは、衣尾谷家が九條側であるからだ。
「また面倒なのを」
周がさらにうんざりした声をあげる。
衣尾谷家は身分としては清華貴族の中の下くらいだ。
「おそらく彼は武さまのことを父親不明の私生児だと思っているのだろう」
「またそれか。飽きもせずに次から次へと似たような輩が出現するな」
雫の見解に周がまたうんざりする。
「すべては武さまのお立場ゆえですが、どうも『貴族』というものの在り方をはき違えている者が増えつつあるような気がします」
朔耶が口にしたことはここにいる全員が日頃から感じつつあるものだった。
「時代だといえば身も蓋もありませんが、世界的な風潮が大きな流れとして我が皇国をも巻き込みつつあるのではないでしょうか」
敦紀は海外から訪れたバイヤーと接見することも多々ある。取引は主に武の認めている美術商が間にはいるが、時には敦紀本人に会いたがるバイヤーもいて、相手の人と成りを聞いた上で貴之の都合がつく時を限定に顔を合わせることにしている。
貴之を護衛として紹介し、相手の態度によってはその身分を明確にすることで、相手がこちらに無理難題を持ちかけて来ないように牽制していた。
海外だけでなく国内のバイヤーも接触して来ており、決まった画廊にしか出さないと断言してもなお食い下がって来る。その中には御厨家よりも立場が上だとして、強引に自分の意向を通させようとする者もいる。また貴族でない者は金を積んで従わせようとする。
敦紀は確かに若手の画家である。しかしその実力は既に海外でも高く評価されている。権力や金品で動かせるものではないと彼らがなぜわからないのかと、首を傾げてしまう。
「確かに貴族制度は古いのかもしれない。だが皇帝や王を失った国であっても貴族は現存している」
第二次世界大戦が終了した時には百を超える王家が存在していた。皇家は日本の天皇家と蓬莱の皇家以外は失われていた。そして現在、王家はその数が戦後の半分以下にまで減少している。そういった存在があることが正しいわけではない。一部の国を除いて王家や皇家が直接政治に関わることがなくなった例もある。ただ皇国は国民選出の首相たちが一般的な政治を行い、皇家や貴族内での取り決めは基本的に皇帝が裁定している。国政に関わりがある場合は議会へ承認を求める決まりでもある。
それでも皇家の者には自分のことを自分で選択する権利がない。国家元首として特権階級のトップに君臨しても、その動向は常に国家に最も重きを置くのである。そして本来はこれを補助し守護するのが貴族の役目なのである。
フランスやドイツ、スイスやオーストリアなどは既に王皇族を失って久しい。それでも貴族は現存している。特権性はかなり失ってはいるが、『蒼き血』と呼ばれる彼らの血脈は現在も受け継がれ続けている事実を忘れてはならない。
「僕たちにできることは目の前の問題を解決できるように努力するだけだ」
周の言葉に皆が頷いた。今は彼の言葉通りが唯一の方法であるのは確かだろう。
「ああ……僕はもう行かなくては。武さまをご様子を拝見する時間だ」
周は腕時計をチラリと見て告げ、足早に部屋から出て行った。それを他の全員が軽く言葉をかけて見送った。その後、すぐにドアの錠を貴之がかけた。この部屋は普段は開かずの間扱いになっているからだ。
「で?」
元の位置に戻って来た貴之に雫が問いかけた。
「透麿君の居場所、知っていますよね、貴之?」
敦紀も笑顔だ。それを見て朔耶は心底『恐怖』に背筋が冷たくなる。さすが、紫霄在校中は『氷人形』と渾名されただけある。
「……」
貴之が先程、透麿の現在について知らぬ顔をしたのは、周のためであるだと朔耶にもわかる。
周は優しく繊細なところがある。透麿が武を襲撃した事実があっても、そこは従弟の一人である。彼の現状がよくないものであれば、多少は心が揺さぶられるだろう。
「佐田川一族の主だった者は現在、郊外の端にある廃ホテルを購入し、住処としています」
「そこに透麿もいるわけか」
「はい……」
なおも言いよどむ貴之が口を開くのを皆が待った。
「……彼は六条家を追放されたとして、今は役立たずと呼ばれています。それで和喜を中心とした佐田川の若者の慰みものにされています」
一瞬、誰もが息を呑んでしまった。追放されようとも透麿は、六条家の血を引く人間だ。特別に扱えとは言わないが、いくらなんでもそれはない。
「あの一族はどこまでもクズだな。少しでも己の罪を悔い改めようとは思わないのか」
雫があきれる。一族が揃いも揃って外に出たのは彼も知っていた。
「元から自分たちが悪いとは思ってはいないでしょう。透麿くんにしても自分の何が悪かったのか、何が夕麿さまをあんなに怒らせたのか……理解できていないのですから」
透麿との付き合いはこの中では、敦紀が一番長い。透麿が武を憎むようになってからも、彼は懸命に何故そうなったのかを説明したが、もう聞く耳を持つことはなかった。
敦紀の言葉にそこにいた全員が頷いた。
「この話はこの四人だけで共有しよう。周にもだが、夕麿さまにも知られないように。武さまには特に欠片でもお耳にされないように全員が気を付けること」
皆が無言で頷く。武が知ったならば絶対に何とかしようとするからだ。たとえ関係ない方面で動こうとも、今はこちらのすきになる。まして佐田川一族は何某かの形で、九條家に協力していた可能性も考えられるのだ。
「夕麿さまの警護を強化しよう」
「周さまにも必要ではありませんか?」
「いや、それを言うなら御厨君にも朔耶にも必要だろう」
二人はそれなりに透麿と関わりがあり、憎まれている可能性も高い。そして武の側近である。
「それを言っていたらキリがないのではありませんか」
朔耶が深々と溜息吐いた。
「義父に来るまでの送迎を頼むことにします」
朔耶はキャンパスへの通学を車にして、門から門へで一人になる時間と距離を最小限にする気だ。
「私はまた製作に取り掛かりますから、外に出ることは少ないです。やむを得ず外出する時は……できるだけ貴之の非番の日にしますが、そうでない時にはお知らせします」
敦紀も外に出ない方向を選択する。
「で結局は周さまだけが残られますね」
振り出しに戻ったと貴之が呟く。
「それぞれが単独で行動しないように言うことにしよう」
全員が弱点になり得る。これは佐田川に限ったことではない。誰がどう動くのか、今はもうわからないのだ。友人が敵にまわることも事実としてあった。
とりあえずは単独での行動は控えてもらう……という手で今は様子を見ることになった。
相手は手段を選ばない。この事実は全員が身に沁みている。そしてそれは最終的に武の弱点になって、彼の生命を危険にさらす。
共に歩んで来た仲間だけを呼んで告げられた、雫の指示に首を横に振る者はいなかった。
不気味とも言える今の静けさに、焦りが募るのを皆が振り払って堪えていた。
義勝は二人がそれぞれ安定した精神状態になったので、思わず胸を撫で下ろした。
響一人がこの様子を不快そうに見つめているが、誰もそれに構わないでいた。そう、清方と高子さえも。
春休みシーズンになり、静麿たちがそれぞれの家に帰宅した。
蓮も貴之と敦紀の元へ戻り、連日、武の側に侍っている。そのお陰で彼の体調はさらに改善し、社に出る日数と時間が増えた。
ただ、出社しない日には十分に身体を休めるように、と周から強く指示が出ていた。米国側から手渡されたカルテには、正巳が通常の生活を支障なくおくれるようになるまで、幾度か発熱等の体調不良を起こしている記載があったかるだ。
本人に確認してみると確かに事実だった。彼を取り巻く医師団もハッキリとした原因はわからない様子で、時としてかなりの高熱になって大変だったと答えた。だが一年を経過したあたりからその症状は減り、二年目には起こらなくなったと言う。
正巳は武より健康な体質だった。彼らに利用され薬漬けにされるまでは。行長たち同級生の話によれば快活でムードメーカー的なところがあった。
これはもうすべては紫霄をめぐる大人たちが悪い、としか言いようがない。本来は皇家の貴種の暗殺などに関与するはずのない人間だった。
一方、武は元より身体が弱い。皇家の血筋には一定の割合で誕生する体質で、武はまだまだ丈夫な方であった。現東宮、つまり薫の双子の兄はその典型とも言うべき虚弱体質である。皇家と貴族、特に摂関六家と清華貴族の上部との婚姻が、長きにわたって繰り返されて来た結果とも言えた。
現在、皇家に子供が誕生する数が減っており、数多の女御・更衣が後宮にひしめいても、皇子どころか皇女もなかなか生まれて来ない。これは継承の控えとして存在する『宮家』でも同じであった。
唯一、他よりも子に恵まれているのは、皮肉にも新帝の異母弟のところで、皇女二人に皇子三人がいた。
先帝の第三皇子である彼は、半家出身の更衣を生母とする。彼女は大変な美女であるのが知られているが、現在は息子の御在所の奥にひっそりと暮らしているという。
武が新帝の顔を写真やTVのえいぞうでしか知らないように、この皇子の顔も知らない。いや、武は父宮の同母妹の顔も知らない。
皇家側の身内は祖父皇帝が崩御した今、薫しか知らないのだ。それだけ隔離されていると言っても過言ではない。
ついでに言えば彼を目の敵にしているらしい新帝の生母、近徽殿の御息所の顔も知らないのだ。
武からすれば顔も知らない相手を憎んだり妬んだり恨んだりできるのが、まるで理解できず不思議で仕方がない。彼が彼女を恐れてはいない。ただ理解不能な女性という感覚でしかなかった。
人が誰かを憎む時、憎しみのミナモトは『誰か』にあるのではなく、その感情を抱く本人の心にあるのかもしれない。
週に二日か三日のペースで出社しているが、その日の武は午前中から体調が悪かった。
「武さま、雫さんと周先生には連絡いたしました。車がすぐに参ります」
武のために用意されたベッドで横になっていたが、体調は悪化するばかりだ。周から発熱の可能性について説明されていたので、これがおそらくはそれに当てはまるのだろうと考えている。
夕麿は今朝から西の島へ出張中だ。榊と雅久も同行しているため、後は影暁にと圭に任せて通宗と智恭に付き添われて階下に降りた。
「武さま、こちらへお座りになられてください」
ホールの奥にあるソファに座らされる。既に座っているのもかなり辛い。背もたれに全身を預けて荒い息を吐く。
通宗が手に触れて驚いた顔をした。
「武さま、かなり熱いです、大丈夫ですか」
大丈夫なはずはないが、他に何を言えるだろう?
「ん……ちょっと辛い」
変に意地を張っても意味がない。余計に心配させるだけだとわかっている。
「朝は元気だったから出て来たのに……悪くなるなら朝からなればいいのにな」
そうしたら皆に迷惑かけずにすんだのに。この忙しい時に役立たずは辛い。
「武兄さん」
不意に聞き慣れた声が上からした。顔を上げると制服姿の希が、見慣れない少年を伴って立っていた。
「希か……珍しいな」
「夕麿兄さんは」
「朝から出張」
「武兄さんは行かないよね」
行かないのではなく行けないのだ。夕麿にしても日帰り限定で、今日も早朝に新幹線で向かい、同じく新幹線で遅くに帰宅する。それが許されるギリギリなのである。
「それでなんの用だ?」
「何って……帰ってこないから」
「引っ越したからな」
「何で⁉」
「俺のための住処が完成したから」
「答えになってない!」
希が叫んだ瞬間だった。駆け付けて来た雫に押し退けられた。
「希君、体調の良くない相手にそれは良くない」
そう言ったのは康孝だった。
「は?また?」
反抗時期でも最近の彼はあまりにも態度が良くない。特に武に対しては血の繋がりゆえの甘えなのか、それとも夕麿を独占する兄への苛立ちと妬みなのか、思い遣りの欠片すら見せなくなっていた。そういった行為が夕麿に、さらなる嫌悪を持たせるとも気付かずに。
希の言葉に康孝が怒りを顕にした時だった。朔耶が駆け込んで来たのだ。
「朔耶?どうしてここに?」
武を支えていた雫が問いかけた。
「周の指示で…」
朔耶はその場の不穏な空気を察したのか、鋭い眼差しを希へ向けた。もちろん朔耶も例の一件は聞き及んでいる。こちらに気付かれていないと思っているだろうが、よくここへ顔を出せたものだと怒りを通り越して呆れてしまう。
「武さま、解熱剤をお持ちしました。まずはこれをお飲みください」
そう言って手にしたポーチから、薬とミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。
雫が受け取ってぐったりしている武に差し出した。武は頷いて薬を口に含む。ペットボトルの蓋を開けて差し出すと水でを口に含んで飲み込んだ。
「雫さん、病院棟の準備を整えて周たちが待っています」
「急ごう」
もう誰も希たちを気にしていなかった。ただ雫たちが気になったのは、希と一緒に来ていた少年の存在だった。彼は結局、一言も発さずに無言で皆を見ていた。どこか皆を見下しているように感じられて、朔耶はかなり不快に感じていた。
「あれは誰でしょう」
車の中で昨夜が呟くと通宗がこう返事した。
「写真は撮りました。貴之さんならば誰なのか突き止めれられるのではないでしょうか」
貴之がいくら調査能力に優れていると言っても、果たして写真だけで少年の正体を突き止められるのであろうか?朔耶は次々と現れては面倒を運んで来る『誰か』にうんざりしていたのだった。
武の発熱から数日後、紫霄の新学期間近ということで、夕麿は異母弟の静麿と共に街に買い物に出ていた。実は建て直しをしていた六条邸が完成し、この春休み中に仮住まいから移転したばかりだった。古い調度品の一部は現在ではすでに製造されていないもであったり、アンティークとしての価値が上がっているものもあるが、新しい建物に会わないものもあった。
そこでデザイナーに会って古い調度品をうまく利用しながらのデザインを依頼することにしたのだ。デザイナーは御園生と契約している事務所の所属で、夕麿が個人的に依頼することになっていた。本来は静麿の名前でするべきだが、彼はまだ未成年であることを踏まえ配慮した。
武はようやく熱が下がったばかりであったし、六条のことは六条の人間がすればよいこととわかっている。ただ蓮が休み中、ほとんど御在所と住居で過ごしていたのを見かねて、夕麿の警護をする貴之に相談して静麿の護衛という名目で同行させていた。
「静麿、どうしますか?すべてインテリア・デザイナーに任せますか?それもあくまでもアドバイスだけにして、自分で選びますか?あなたの家なのですから好きなようにして良いのですよ?」
かかった経費はすぺて夕麿が負担したが、それは持ち直したとらいえ六条家はまだまだ財政状態が良いとは言えなかった。それに夕麿としても実家と弟を守りたかった。
「はい、私の部屋と書斎以外はそのまま施工してもらおうと思っています」
「そうですね、自室の使い勝手はやはり自分でしないとダメかもしれませんね」
お陰で御在所の夕麿の部屋は、本人がペントハウスから移ってから整えられた。机などにやはりこだわりがあり、彼方此方探し回った物もある。
「それでなのですが……」
「何でしょう?」
成長してからの兄弟関係は難しい。特に年齢が離れてしまった場合は。それは武と希を見ていればわかる。まして夕麿と静麿は共に暮らした経験がなく、出会った時には既に兄である夕麿は武の伴侶だった。
王家や皇家、貴族などの特権階級では、父親が同じであれば母親の出自で序列が決まる。
夕麿の生母である翠子は近衛家の末娘であり、その母は今は男系後継者が絶えて失われた宮家最後の女王である。一方、静麿の生母藤子は近衛家の縁者ではあるが、身分では到底翠子には及ぶものではない。
ゆえに初めから静麿は夕麿を『兄』とは呼ばなかった。皇家の貴種の元に入れば、実の親兄弟でも敬称を付けて呼ぶことになる。それがルールなのは確かだ。それでも夕麿にすれば少し寂しく感じていた。
その気持ちを察したのか先日武が静麿に、表立って身分を明らかにできない状態なので、外では夕麿を『兄』と呼ぶように依頼していた。これならば静麿を戸惑わせることもない。
「やはり翠子さまのお遺しなられたものは、今の六条では扱いが難しく思われます。翠子さまも兄上のお手元にある方が喜ばれるのではないでしょうか」
翠子の遺品は皆、実家であった近衛家が厳選したりオーダーしたものだった。当然ながら一点ものが多く物によって値段の付けようにない物もある。これらの相続権は夕麿であり、蔵の地下に保管されていたものはあらかたは引き取った。だが調度品の一部は大き過ぎて地下の隠し保管庫に入らなかったようで、そのまま屋敷の中に置かれていた。現在は屋敷の建て直しのために御園生の経営する保管用倉庫に預けられている。
「そうですね……私の一存では決められませんので、後日に返事で良いですか」
武が反対しないはずだが、そこはやはり彼の承諾が欲しい。
「わかりました。お待ちしております」
その辺りはルールとも言えるので、静麿も取り立てて反対はしない。
こうした穏やかな時間を過ごせるのは、本当に幸福で素晴らしいと思う。その裏で雫たちの努力と苦労があるのも、夕麿も静麿も理解している。
「兄さま!」
不意に背後で声がした。この声と呼び方は聞き覚えがあった。
とっさに貴之と蓮が身構える。少し離れてついて来ていた成実と康孝も、素早く二人を護る体制に入った。
「え……うそ……」
同時に振り返った夕麿と静麿に声の主が言葉を失う。
「何で……どうして!」
そりゃ驚くだろうな、と貴之は苦笑した。年齢差があるのはわかるだろうが、そっくりの人間が二人振り返ったのだ。
よく見れば夕麿には大人の纏う落ち着きと威厳があり、静麿には若さゆえの澄んだ気品がある。二人の身長は夕麿がやや高いだけで、おそらくはすぐに静麿が追い越してしまうだろう。
「兄上、お知り合いですか?」
もちろん透麿という異母兄がいたことは、静麿も話には聞いている。目の前の人物の反応から彼がそうだとわかる。だが彼は武の生命を脅かし、夕麿によって六条から追放され、犯罪者として貴族籍を剥奪された只びとだ。
「いいえ、人違いでしょう」
冷たく言って踵を返す。静麿もそれに倣う。貴之と蓮も従い、成実と康孝は透麿を警戒しながら歩き出した。
「兄さま!兄さま!」
背後で悲鳴のような呼び声がしたが、彼らが振り返ることはなかった。
「……という状態でした」
貴之が今日の透麿との遭遇を、いつも通りに集まった雫、周、朔耶、それに製作を終えた敦紀に説明した。
「ええ?おかしくないですか?確か実刑判決だったはずですが、何故にこんなに早く外にいるんです!」
敦紀の怒りはもっともだった。透麿は武に凶器を向けたのだ。皇家への犯罪は重罪である。事と次第によっては極刑に処せられる場合もある。
「……それな。俺もそう思うさ。しかし司法が屁理屈言い出して、一般扱いの判決になった、と聞いている」
雫が苦々しく呟いた。
「は?ありえないだろ!武さまを何だと思ってるんだ」
今度は周が怒りを露わにする。
「佐田川の科刑も全体的に軽かった。多分……何処かから圧力がかかってる」
思い当たるのは一つしかない。
「つまり彼らは元からそっちの手先か」
「一概には言えません」
うんざりした言葉を呟いた周に答えるように、貴之が言った。
「佐田川の元からの目的は、六条家を乗っ取ることだったでしょう。だから夕麿さまを排除するための汚い手を使ったと考えられます」
「つまりこうですか?夕麿さまが武さまの伴侶になられたことで、あちらが佐田川へ接近し手駒にしたと?」
敦紀がすぐさま貴之の言いたいことを受け取る。
「断定はできない。だがそう考えた方が辻褄の合うこともある」
雫が答えた。だが歯切れが悪い。
「あくまでも『ではないか』で、我々も何某かの証拠を得ているわけではない」
「透麿が六条からも貴族籍からも追放された今、乗っ取りはできないと思うが……何が目的なんだ?」
周の疑問はもっともだった。ただ、本来は摂関貴族の家に一般民が嫁ぐことはできないはずだった。だから佐田川一族と九条家、もしくは双方を後に繋ぐ『誰か』がいたと考えられた。
「単純に武さまへの復讐じゃないでしょうか」
朔耶にすればそれしか思いつかない。
「あとは報酬……じゃないかと」
悪徳な一族であっても彼らはそれなりの資産家ではあった。武は彼らを破産させた。罪科を暴いただけではなかったのである。
彼らが贅沢な生活をもう一度取り戻そうと望んでも不思議はない。
「面倒くさいことになりそうだな。あっちが静かなのはこれが原因か?」
雫の純粋な疑問符だった。武がここと社の間しか動かないのは、不測の事態を避けるためであるのは誰もがわかっている。
透麿との再会は偶然だった様子だが、この先の動きまではわからない。
「プロファイリングしてみるか……」
「それには彼の現状を調べませんと」
透麿の基本的な情報はある。しかし刑期を努め、外に出てからの状態まではわからない。佐田川との関わりもだ。何某かの関係があるのであれば、そこからまた変わってくる。
「あいつの根元は夕麿を取り戻すことだろう」
周の脳裏を過ぎったのはロスでの事件だ。主犯は純粋に武の暗殺が目的。協力者は雫への腹いせ。だが彼らが薬剤で操っていた者は、夕麿を報酬として動かされていた。
透麿は兄を性的な目で見てはいなかったと記憶している。だがあの異様とも感じられる執着の仕方は、もしかしたら……とさえ思えて背筋が冷たくなる。
「貴之、透麿は今はどこに身を寄せているか調べてくれ」
「承知いたしました」
雫も周と同じ懸念を持ったのだろう。
「これ以上、厄介事が増えなければいいが……」
周がうんざり顔で天を仰いだ。
「それで、先日、希と一緒に会社に現れた少年の正体はわかったのですか?」
問いかけたのは朔耶だった。
「……彼は衣尾谷家の嫡男、尚志君だと思われます」
貴之が答えた。彼が少し躊躇ったのは、衣尾谷家が九條側であるからだ。
「また面倒なのを」
周がさらにうんざりした声をあげる。
衣尾谷家は身分としては清華貴族の中の下くらいだ。
「おそらく彼は武さまのことを父親不明の私生児だと思っているのだろう」
「またそれか。飽きもせずに次から次へと似たような輩が出現するな」
雫の見解に周がまたうんざりする。
「すべては武さまのお立場ゆえですが、どうも『貴族』というものの在り方をはき違えている者が増えつつあるような気がします」
朔耶が口にしたことはここにいる全員が日頃から感じつつあるものだった。
「時代だといえば身も蓋もありませんが、世界的な風潮が大きな流れとして我が皇国をも巻き込みつつあるのではないでしょうか」
敦紀は海外から訪れたバイヤーと接見することも多々ある。取引は主に武の認めている美術商が間にはいるが、時には敦紀本人に会いたがるバイヤーもいて、相手の人と成りを聞いた上で貴之の都合がつく時を限定に顔を合わせることにしている。
貴之を護衛として紹介し、相手の態度によってはその身分を明確にすることで、相手がこちらに無理難題を持ちかけて来ないように牽制していた。
海外だけでなく国内のバイヤーも接触して来ており、決まった画廊にしか出さないと断言してもなお食い下がって来る。その中には御厨家よりも立場が上だとして、強引に自分の意向を通させようとする者もいる。また貴族でない者は金を積んで従わせようとする。
敦紀は確かに若手の画家である。しかしその実力は既に海外でも高く評価されている。権力や金品で動かせるものではないと彼らがなぜわからないのかと、首を傾げてしまう。
「確かに貴族制度は古いのかもしれない。だが皇帝や王を失った国であっても貴族は現存している」
第二次世界大戦が終了した時には百を超える王家が存在していた。皇家は日本の天皇家と蓬莱の皇家以外は失われていた。そして現在、王家はその数が戦後の半分以下にまで減少している。そういった存在があることが正しいわけではない。一部の国を除いて王家や皇家が直接政治に関わることがなくなった例もある。ただ皇国は国民選出の首相たちが一般的な政治を行い、皇家や貴族内での取り決めは基本的に皇帝が裁定している。国政に関わりがある場合は議会へ承認を求める決まりでもある。
それでも皇家の者には自分のことを自分で選択する権利がない。国家元首として特権階級のトップに君臨しても、その動向は常に国家に最も重きを置くのである。そして本来はこれを補助し守護するのが貴族の役目なのである。
フランスやドイツ、スイスやオーストリアなどは既に王皇族を失って久しい。それでも貴族は現存している。特権性はかなり失ってはいるが、『蒼き血』と呼ばれる彼らの血脈は現在も受け継がれ続けている事実を忘れてはならない。
「僕たちにできることは目の前の問題を解決できるように努力するだけだ」
周の言葉に皆が頷いた。今は彼の言葉通りが唯一の方法であるのは確かだろう。
「ああ……僕はもう行かなくては。武さまをご様子を拝見する時間だ」
周は腕時計をチラリと見て告げ、足早に部屋から出て行った。それを他の全員が軽く言葉をかけて見送った。その後、すぐにドアの錠を貴之がかけた。この部屋は普段は開かずの間扱いになっているからだ。
「で?」
元の位置に戻って来た貴之に雫が問いかけた。
「透麿君の居場所、知っていますよね、貴之?」
敦紀も笑顔だ。それを見て朔耶は心底『恐怖』に背筋が冷たくなる。さすが、紫霄在校中は『氷人形』と渾名されただけある。
「……」
貴之が先程、透麿の現在について知らぬ顔をしたのは、周のためであるだと朔耶にもわかる。
周は優しく繊細なところがある。透麿が武を襲撃した事実があっても、そこは従弟の一人である。彼の現状がよくないものであれば、多少は心が揺さぶられるだろう。
「佐田川一族の主だった者は現在、郊外の端にある廃ホテルを購入し、住処としています」
「そこに透麿もいるわけか」
「はい……」
なおも言いよどむ貴之が口を開くのを皆が待った。
「……彼は六条家を追放されたとして、今は役立たずと呼ばれています。それで和喜を中心とした佐田川の若者の慰みものにされています」
一瞬、誰もが息を呑んでしまった。追放されようとも透麿は、六条家の血を引く人間だ。特別に扱えとは言わないが、いくらなんでもそれはない。
「あの一族はどこまでもクズだな。少しでも己の罪を悔い改めようとは思わないのか」
雫があきれる。一族が揃いも揃って外に出たのは彼も知っていた。
「元から自分たちが悪いとは思ってはいないでしょう。透麿くんにしても自分の何が悪かったのか、何が夕麿さまをあんなに怒らせたのか……理解できていないのですから」
透麿との付き合いはこの中では、敦紀が一番長い。透麿が武を憎むようになってからも、彼は懸命に何故そうなったのかを説明したが、もう聞く耳を持つことはなかった。
敦紀の言葉にそこにいた全員が頷いた。
「この話はこの四人だけで共有しよう。周にもだが、夕麿さまにも知られないように。武さまには特に欠片でもお耳にされないように全員が気を付けること」
皆が無言で頷く。武が知ったならば絶対に何とかしようとするからだ。たとえ関係ない方面で動こうとも、今はこちらのすきになる。まして佐田川一族は何某かの形で、九條家に協力していた可能性も考えられるのだ。
「夕麿さまの警護を強化しよう」
「周さまにも必要ではありませんか?」
「いや、それを言うなら御厨君にも朔耶にも必要だろう」
二人はそれなりに透麿と関わりがあり、憎まれている可能性も高い。そして武の側近である。
「それを言っていたらキリがないのではありませんか」
朔耶が深々と溜息吐いた。
「義父に来るまでの送迎を頼むことにします」
朔耶はキャンパスへの通学を車にして、門から門へで一人になる時間と距離を最小限にする気だ。
「私はまた製作に取り掛かりますから、外に出ることは少ないです。やむを得ず外出する時は……できるだけ貴之の非番の日にしますが、そうでない時にはお知らせします」
敦紀も外に出ない方向を選択する。
「で結局は周さまだけが残られますね」
振り出しに戻ったと貴之が呟く。
「それぞれが単独で行動しないように言うことにしよう」
全員が弱点になり得る。これは佐田川に限ったことではない。誰がどう動くのか、今はもうわからないのだ。友人が敵にまわることも事実としてあった。
とりあえずは単独での行動は控えてもらう……という手で今は様子を見ることになった。
相手は手段を選ばない。この事実は全員が身に沁みている。そしてそれは最終的に武の弱点になって、彼の生命を危険にさらす。
共に歩んで来た仲間だけを呼んで告げられた、雫の指示に首を横に振る者はいなかった。
不気味とも言える今の静けさに、焦りが募るのを皆が振り払って堪えていた。
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