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黄泉比良坂
黄昏色の空は晴れるでもなく、かと言って曇っている様でもなく、ただ重く垂れ込めていた。
見渡す景色はどこもかしこも乾いており、ただ細い坂だけが下へと長く続いていた。坂は片側は乾いた岩の壁、もう片側は底の見えない切り立った断崖。道幅はひと一人が歩くには十分であるが、誰かとすれ違ったり並んだりするのはできそうにない。ただ先頭がどこで最後尾がどこなのかもわからないほど、人々が無言で俯いて歩き続けていた。
叫ぶことも身悶えすることもできない苦痛の中で気付くとここを歩いている自分がいた。
ここはどこだ……と呟く前に答えがわかってしまった。
『黄泉比良坂』、死者の国へ向かう道である。
ああ、自分は今度こそ本当に死んでしまったのだな、と納得してしまう。
「ちゃんとお別れが言えなかったな」
心残りだらけだが黄泉比良坂を歩いているということは、迷い霊にすらなれずに黄昏の彼方へと導かれているのだ。せめて少しの間でもいいから愛する人の傍らにとどまりたかったのに。
自分ではどうしようもない状態にただ茫然とするが、足は確実に坂を下るために歩を進めていく。どれぐらいの距離を何時間歩いているのかも定かではない。遥か向こうの地平線の手前に煌めく川があるらしいのは見えるが、いつになったらそこへ至ることができるのだろう?
「ん?」
かすかに何かが耳に響いてくる。どこかで聞いた覚えがある。あれはどこだったのだろう……?
「あ、大祓か?いや……違うなぁ」
聞こえてくるのは死者を慰撫し弔う時に唱えられる祝詞だった。紫霄の弔いの折に誰かが唱えているのを何度か耳にしていた。
今は自分が受ける側になるとは……現実味があまりにもなさ過ぎる。心のどこかで毒で夢現を未だに彷徨っているいるだけではないのか。そう想いたい自分がいた。
けれども足の裏に感じるゴツゴツとした感覚も、手を伸ばして触れた壁の岩肌の手触りもこれがまぎれもなく事実であると告げている。
何よりも時折聞こえてくる「ああ」「おお」と言った、同じく黄泉路を歩く人々があげる嘆きの声がこれを「受け入れろ」とでも言っているようだった。
歩み続ける人々のどれくらいが、別れて来た人生に心残りを抱いてここにいるのだろうか。大切な誰かを残してここを歩んでいるのだろうか。
ああ……申し訳ない。もう謝罪すらできなくなってしまったが、「必ず帰る」と言う約束を果たせなかった。
様々な記憶が走馬燈の様に浮かんでは消えていく。『過去』は儚く眩しく美しかった。それらがどんなに大切であったかをわかっていたつもりだったが、垣間見た輝きそのものまでは理解はしていなかった。
気付いたことに嘆くように空を見上げると清らかな鈴が鳴った。
驚いているとサラサラと煌めく何かが降って来る。そっと両手を差し出すと人生で見たどの宝石よりも美しい欠片が降り注いで来た。それはあっという間に両手に一杯になり、サラサラとこぼれ落ちていく。
これは大切なものだ、こぼしてはいけない。そんな気がして両腕に抱え込んだ。
よく見ると欠片の輝きの中に過ぎ去った日々が浮かび上がるではないか。欠片はおそらく、たった今見た走馬燈が結晶化したものなのだろう。
前を進む者も後に続く者も皆、同じように美しい欠片を腕に抱いていた。皆が愛し気な眼差しで見つめて微笑んでいる。
歩み続ける者の人生すべてが美しいわけではないだろう。けれどどんな人生にも一瞬の煌きは存在する。欠片は嘆きも心残りも輝きに変えてしまうのかもしれない。
どんなに富を築こうとも、どんなに高い地位や権力を得たとしても、黄泉比良坂を下るのは己の身一つなのだ。ただ思い出だけを抱いて下って行く。
一人で生まれ、一人で黄泉路を渡る。
だからこそ人は家族を愛し、友を求め親交を深めて生きる。
大切な人々と共に泣いて笑って過ごした時間が愛しかった。
帰りたかった。
還りたかった。
愛する人の傍らに戻って春に咲く桜の花を見上げたかった。
春の大地に生える土筆をまた、二人で指先を土塗れにしながら摘みたかった。
笑顔で「ただいま」と言いたかった。
よく響く優しいあの声で「おかえり」と言ってもらいたかった。
ただただ逢いたかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
欠片を抱きしめて泣きながら歩いた。
流した涙さえ欠片へと変わっていく。
ただ一つだけホッとしたことがあった。自分を守るために大男と命懸けで闘ってくれた友の姿を見ない。酷い怪我で残りの人生にまで影響があるかもしれないが、それでも生きていた欲しいと望んだ。
結果がこれであってもそのこと自体に対しては後悔はしていない。
誰かを犠牲にしても自分の生命を守らなくてはいけない。身分の尊き者としてのそれが役目であったとして、友の生死に関係なく自分の息の根を確実に止めに来た相手の目的は変わらない。
ならば……自分だけでいい。
道連れも殉死者も必要ない。欲しくはない。
これでよかったのだ、約束は守れなかったけれど。
人生そのものに後悔はない。物心ついたころから身体が弱く、高熱を出して寝込んでは母に苦労をかけた。
紫霄に編入してからも周囲に気遣いをさせた。
「みんな………ありがとう」
どうかこの想いも言葉も届いて欲しい。
生命を狙って来る勢力には、周囲を巻き込んでくるので心底腹がたった。生命を奪われる恐怖もあった。
けれどそれももう、どうでもいい。この結果に満足して、暴挙はやめるだろう。彼らには彼らの正義があって、こちらの願いや望むことなど関係なかったのだから。
相変わらず空の色は変わらない。坂は一向に終わる様子がなく続いている。
「この景色飽きたなぁ」
こんな呟きが出るほどには余裕が出て来た。
焦っても泣いても笑っても、黄泉比良坂を下っている事実は消えない。
自分は首筋に打たれた注射器の中の毒物で、間違いなく死んだのだ。
息を吸うことも吐くこともほぼできなくなり、無数の針を全身に深く突き立てられている様な痛みだけを記憶していた。
人工呼吸器を付けてもらって、懸命になんとかしようとしてくれる周の妨げにならない様に、激痛に暴れたくなる気持ちをなだめても、ジッと横たわるのも苦痛だった。
『もういい……苦痛は終わった』
心の中に言葉が浮かんで消えていく。それが自分の思考なのか、誰かの言葉なのかはわからなかった。
誰もが時折、嘆きの声を漏らしながら進んで行く。そこに言葉は発せられない。もしかしたら自分と同じく心に言葉を受け取りながら、『想い』の欠片を抱きしめているのかもしれない。
たくさんの想い出と哀しみと後悔と……悔しさと心残り。それらが欠片に変じた今、心の中に輝いているものは唯一無二の『愛』だった。穢れの存在しない純粋な『想い』としての『愛』
自分の『生』の時間は終わったのだとわかっているのに、やはり彼のもとへ帰りたかった。黄泉比良坂をこうして下っているのだ。それでも『必ず戻る』と約束した。
果たせないことが悔しい……申し訳ない。
想いが堂々巡りする。
黄泉比良坂を下り黄泉路の果てには幾つかの場所がある。
一つはかつて死にかけた時に引き寄せられた場所。美しい花々が咲く光に満ちた心温まる安らぎの場所だ。
一つは行く末が見付からない者が辿り着く場所。現世とあまり変わらない風景が続いて、人々は現世と変わらない想いで生きている。しかしここには変化はなく、来世に繋がるものが欠けている。心残りが強い者は大抵はここに辿り着く。
一つは心残りの中身が執着や怨嗟などのコールタールのような、重く暗く粘着的な想いの者が辿り着く。
最初の一つ以外は人々は大きな川の畔に行き当たる。ここで一人ひとりが舟に乗る。
不思議なのは遠く離れたヨーロッパでも古代には、冥界には坂を下り川に行き着く話があることだ。同じく一人で船に乗り流れていく。
ヨーロッパの場合はこの川を『忘却の川レテ』と呼ぶ。日本や蓬莱皇国では『三途の川』と呼ぶ。
ここを歩く人々の魂はどれくらいこの話をしっているのだろうか。
そして重い心を捨てられないと舟は暗い方へと流されて行く。その途中の川底にはこの事実に気が付いた者が投げ捨てた欠片が、キラキラと輝きながら沈んでいるという。
すべてを投げ捨てられて、あたたかな気持ちを宝に抱いて進める者だけが最初の場所に導かれ、それぞれの『想い』によってそれぞれの場所に吸い込まれるように辿り着く。
その場所は無数に存在している。仏教でいうところの『三千世界』で、実は現世もここに含まれるのだという。
黄泉路を進む者は己の名前を失念し、記憶と想いを美しい欠片に変えて歩み続ける。決してそれらを失うわけではなく、自分の今の状態を純粋に見れるようにする配慮なのかもしれない。
しかし強い心残りは欠片になりながらも、未だに自分の中にあった。以前は真っ直ぐに光ある場所に立つことができたのに、今は多くの迷える魂と共に黄泉比良坂を下っている。
だがそれを良くないとは言えない。『生』に執着がなさ過ぎるのもまたよいとは言えないからだ。
人は独りで生まれ、一人で終焉を迎える。これは変えることのできない事実だ。誰かと共に息絶えても、歩み出すのは個々の魂であるからだ。
だからこそ人は家族を求め、友を求め、愛する人を求め、迷い苦悩し生きていく。
心の中に様々な言葉と映像が流されて行く。
ゆっくりと心が溶けていくような心地がした。
「ああ……」
嘆きの声を自分もいつの間にか口にしていた。
ここには何もない。
嘆きの声を漏らしながら歩み続ける人々と乾いた坂道の感覚、同じように乾いている切り立った壁。
太陽の暖かな熱も月の穏やかな光もない。空には日も月も星もなく、黄昏色が重く覆い尽くしていた。
照りもせず曇りも果てない。かと言って『朧』気な空でもない。現世では決して出会うことのない、奇妙で不思議な空だった。
足は間違いなく地面を踏みしめているのに、自分の足元からも周囲からも音は全く聞こえてこない。
肌にまとわりつくような静寂の中を人々は言葉を失って歩き続ける。
そこに神仏の救いはない。神仏は人が自ら選択する行き先には干渉はしない。
手を差し伸べるのは各々が行き着いた場所で、救いを願い祈る時のみだ。
そもそも黄泉比良坂を下る人々は、祈りの言葉さえ失っている。ただ流されるままに歩を進め下って行く。
「…………さま、……るさま」
どこかでこれまでとは違う声がする。これまでのは頭の中に言葉が浮かんで来るような声だったが、これは人が発する声の様な気がする。
どこだろう?どこから聞こえてくるのか?
立ち止ると列は彼を避けてまた元通りに続いていく。何事もなかったかの様に。
どうやら声は自分にしか聞こえてはいない様子だ。
誰かを呼んでいるみたいだが、はっきりとは聞こえない。
誰を呼んでいるのか問いかけてみたいが、口から漏れるのは嘆きの呻きのみ。
そもそも自分が『何処の誰』であったのかすら、今は定かではないのだ。返事をしても意味はないのかもしれない。
しかしその呼び声は魂の深い場所を揺さぶる。
「う…ぁあ………」
言い知れぬ哀しさがこみ上げてくる。欠片になってしまって失った記憶や想いが、自分を呼んでいる。
応えたい。
自分はここにいると叫びたい。
切実な願いが届いたのだろうか。
不意に目の前に一人の少年が現れた。
「ああ、良かった!ここにいらっしゃったのですね。お迎えにあがりました」
美しい面差しに笑みを浮かべて、彼は両手を差し出して来た。
しかし彼は坂のすぐ横、何もない空間に浮かぶようにして立っているのだ。その手を取ってどうなるというのだ?
そもそも彼は何で宙に浮いていられるのだろう?
「そちらからはお見えになられないだけで、こちら側にも道があります。
私を信じていただけませんか」
彼の口から響く言葉は黄金の輝きとなって降り注いで来た。それは肌に触れると優しい温かさが感じられた。
「皆さまがお待ちです」
恐る恐る彼の手を取るとさらに温かい何かが流れ込んで来た。
「あ……れ、ん」
そうだ、彼は蓮だ。
「はい。こちら側にいらっしゃいましたら、もっと大切なことが戻られますよ」
「大切なこと……」
彼の手を取った時に足元に落とした欠片を見下ろす。
「それは『未練』の残骸です。残しておかれても大丈夫です」
次第に言葉が戻って来る。
「み…れ…ん?」
何の未練だったのだろうか?
先程はあれだけ嘆き悲しんだはずなのに、それすらもう霧に包まれているようだ。
「あなたの大切な御方がお待ちになられておられます」
「大切な………?」
誰だろう?誰だっただろう?
「さあ、お手を、武さま」
タケル?武……そうだ、自分の名前だ。
「……つッ?!」
頭の中がズキンと痛む。何かが『行くな』と警告しているようだ。
「大丈夫です、私を信じてください」
そう言った蓮の顔に複数の顔が重なって視えた。その顔が口々に言う。『還って来て』と。
胸が熱くなった。
まだ必要とされている。
その事実が嬉しい。
おずおずと差し出されている蓮の手に、自らの手を重ね合わせた。
グイッとばかりに引き寄せられて、何も視えない場所に踏み込んだ。途端に観る景色が変化した。
「道?」
「還り道です。現世へ還るための道で、古くは伊弉諾の神が戻ったものです」
火の神を出産して隠れた妻神を探して、黄泉の国を訪れた伊弉諾神は、と言われた妻神、伊弉冉神の黄泉での真実の姿を見てしまう。驚いて黄泉比良坂をかけ上って行く夫神の姿に怒った伊弉冉神は黄泉醜女に追いかけさせる。
伊弉諾神は櫛を取って彼女たちに投げるとそれは桃に転じる。醜女たちがそれに齧り付いている間に、一気にかけ上がるがすぐに追いつかれてしまう。再びくを投げてまた逃げる、追いつかれる……三度繰り返してようやく黄泉の出口に辿り着いた。それでこの出入口に大きな岩を置いて蓋をした。
武は『記紀』で読んだ伊弉諾神が黄泉を訪れる話を思い出していた。そう言えばギリシャ神話のオルフェウスの冥界の話と共通点があると言われていたっけ。
ギリシャ神話の方を思い出して振り返りそうになる武を、蓮が慌てて制した。
「ダメです、武さま。ここは還る者が振り返ってはいけないのです」
「オルフェウスみたいだな」
「あれで冥界に引き戻されたのは彼の妻ですが、ここではあなた様が黄泉の底へ引っ張られます」
「それは勘弁して願いたい」
そんな場所に連れて行かれたならば生まれ変わることすら難しそうだった。
武がそんなことを考えていると蓮の顔が険しくなった。
「いけません!黄泉醜女が来ます」
神話の中の存在が本当にいるのか。武は息を呑んだ。振り返ってその姿を見てみたいが、振り返ることはできないのだ。
「急ぎましょう、追いつかれてしまったら、武さまも私も取り返しのつかないことになります」
蓮に手を引かれて駆け出した。元々、運動が得意ではない上にここでは異様に身体に重い『何か』が圧し掛かって来る感覚がある。
伊弉諾神は元は『太陽神』だったという説がある。それが事実であるのならば世界の神話のパターンとして、伊弉冉神は『月神』ということになる。月神を祖霊神とする蓬莱の皇家の血筋は黄泉の女神でもある伊弉冉神と深い関係にある。ならばその血を色濃く引いている武に絡みつく力は通常よりも強いのだろう。
坂はどこまで続いているのだろうか。そう言えば随分下った感覚がある。上るのも長いのだろう。
それでも武は力を振り絞って走り続ける。愛する人の待つ場所へ。彼の腕の中へ。
還る……帰るのだ。
不意に蓮が立ち止まってポケットから何かを取り出し、よく聞き取れないくらいの小声で何やら唱えた。すると彼の手の中の『何か』が桃になる。これを武の背後に向かって投げた。
桃は武の視界を通り過ぎるその時に、数多くに増えて飛んで行った。
神話と同じことが目の前で起こっている?振り向くことができない故に、武には黄泉醜女の姿も彼女たちが桃を貪る姿も見ることはできない。
神話と同じく三度繰り返してようやく、二人は黄泉と現世を分ける千引の岩までたどり着いた。ここは記紀で黄泉醜女たちにが現世に出て来ないように、これ以上、伊弉諾神を追って来れないようにするために黄泉比良坂をを閉じた岩である。
千引の岩は本来は死者が黄泉路への旅立ちにのみ開かれる。だが今は人が一人通り抜けられる幅だけ開かれていた。ここへ武を迎えに来た蓮が開いたのだろう。
「さあ、この先です」
蓮がそう言った瞬間だった。
『行かせぬ!』
声が武の身体を貫いた。漆黒の靄が沸いて来て武を包み始める。靄は重く身動きができない。
ああ、やはり自分は『死』の宿命から逃れられないのか。絶望が心を満たした。
「いけません、武さま!強く望むのです、あの方の元へと戻りたいと!」
蓮はこう言って武の手を強く握りしめた。この手が離れてしまったしまったら、武は黄泉の国の深くにある奥津城に閉じ込められてしまう。輪廻転生の輪から離され、愛する人や家族と永劫に隔離されてしまう。
『そなたは既にわがものじゃ。戻ることは許さぬぞ!』
言葉とも声とも感じられるものが衝撃となって全身を震わせた。
「おやめください、黄泉の神よ。この御方の天命はまだ尽きてはいないはずです。心無い者の愚かな陰謀をやめさせるためにも、この御方を皆さまの所へお返しください」
天命はまだ尽きてはいない……?
蓮の言葉に息を呑んだ。まだ生きられるならば帰りたい。愛する人の腕の中へ。
「帰りたい……約束したんだ、必ず戻るって」
早春の温泉宿の庭で土筆を共に積みながら約束をしたのだ。
帰らなくては、約束を果たさなければ。
想いが強くなると武を包む漆黒の靄が色を濃くする。
「帰る……帰るんだ」
うわ言の様に呟き続ける。現世はもう手が届きそうなところにある。
蓮にとってはこれは賭けともいえた。何故ならば本来は死者の魂を取り戻すには対価が必要なのだ。それを提示しないで神に武を返せと言っているのだ。
対価……死者の黄泉返りや延命には誰かの寿命を必要なだけ差し出すのがあの世とこの世の決まりである。だが本人が差し出しても誰の寿命を削るのかは、神の匙加減でしかない。ある時は死の床の誰かもしれない。生まれたばかりの乳児かもしれない。そもそも誰にどれだけの寿命があるのか、残りはどれくらいであるのかは、ほとんどの人間にはわかりえないことであるのだ。神が削った人物に寿命が残り少なければ、その人物は明日にでも突然に死んでしまうかもしれないのだ。それに対価として交換できる生命の長さは、どんなに望んでも数年が限界であるのだ。
だからこそ蓮は対価を示さなかった。本来の武の寿命、天命を全うさせるべきだと主張しているのだ。
すると武を包んでいた漆黒の靄がすぅーっと引いた。
『よかろう。一年だけ時間を与えよう。もしもその間にある条件を満たせば、寿命が尽きるその時まで生きるのを許そう』
「条……件?」
『何が条件かは教えない。一年を大事に生きるのだな』
条件を出しながらも内容は告げない。あたかも不本意ながら武の黄泉返りを認めたのがわかる。
『それでも良いならばそこを通って行くがいい』
「帰ります」
一年でもいい。やるべきことをやってしまいたい。
『よかろう。だがな、妨害はさせてもらう』
この言葉と共に二人は千引きの岩の向こう、まばゆい光の中へと強い力で押し出された。
ドーンと音がしたかのような強い衝撃と共に、それまで固く閉じられていた目が見開かれた。
同時に呼吸ができない苦しみと全身を走る激痛が襲って来た。
黄泉返りは猛毒の中毒症状までは払拭できないようだった……
見渡す景色はどこもかしこも乾いており、ただ細い坂だけが下へと長く続いていた。坂は片側は乾いた岩の壁、もう片側は底の見えない切り立った断崖。道幅はひと一人が歩くには十分であるが、誰かとすれ違ったり並んだりするのはできそうにない。ただ先頭がどこで最後尾がどこなのかもわからないほど、人々が無言で俯いて歩き続けていた。
叫ぶことも身悶えすることもできない苦痛の中で気付くとここを歩いている自分がいた。
ここはどこだ……と呟く前に答えがわかってしまった。
『黄泉比良坂』、死者の国へ向かう道である。
ああ、自分は今度こそ本当に死んでしまったのだな、と納得してしまう。
「ちゃんとお別れが言えなかったな」
心残りだらけだが黄泉比良坂を歩いているということは、迷い霊にすらなれずに黄昏の彼方へと導かれているのだ。せめて少しの間でもいいから愛する人の傍らにとどまりたかったのに。
自分ではどうしようもない状態にただ茫然とするが、足は確実に坂を下るために歩を進めていく。どれぐらいの距離を何時間歩いているのかも定かではない。遥か向こうの地平線の手前に煌めく川があるらしいのは見えるが、いつになったらそこへ至ることができるのだろう?
「ん?」
かすかに何かが耳に響いてくる。どこかで聞いた覚えがある。あれはどこだったのだろう……?
「あ、大祓か?いや……違うなぁ」
聞こえてくるのは死者を慰撫し弔う時に唱えられる祝詞だった。紫霄の弔いの折に誰かが唱えているのを何度か耳にしていた。
今は自分が受ける側になるとは……現実味があまりにもなさ過ぎる。心のどこかで毒で夢現を未だに彷徨っているいるだけではないのか。そう想いたい自分がいた。
けれども足の裏に感じるゴツゴツとした感覚も、手を伸ばして触れた壁の岩肌の手触りもこれがまぎれもなく事実であると告げている。
何よりも時折聞こえてくる「ああ」「おお」と言った、同じく黄泉路を歩く人々があげる嘆きの声がこれを「受け入れろ」とでも言っているようだった。
歩み続ける人々のどれくらいが、別れて来た人生に心残りを抱いてここにいるのだろうか。大切な誰かを残してここを歩んでいるのだろうか。
ああ……申し訳ない。もう謝罪すらできなくなってしまったが、「必ず帰る」と言う約束を果たせなかった。
様々な記憶が走馬燈の様に浮かんでは消えていく。『過去』は儚く眩しく美しかった。それらがどんなに大切であったかをわかっていたつもりだったが、垣間見た輝きそのものまでは理解はしていなかった。
気付いたことに嘆くように空を見上げると清らかな鈴が鳴った。
驚いているとサラサラと煌めく何かが降って来る。そっと両手を差し出すと人生で見たどの宝石よりも美しい欠片が降り注いで来た。それはあっという間に両手に一杯になり、サラサラとこぼれ落ちていく。
これは大切なものだ、こぼしてはいけない。そんな気がして両腕に抱え込んだ。
よく見ると欠片の輝きの中に過ぎ去った日々が浮かび上がるではないか。欠片はおそらく、たった今見た走馬燈が結晶化したものなのだろう。
前を進む者も後に続く者も皆、同じように美しい欠片を腕に抱いていた。皆が愛し気な眼差しで見つめて微笑んでいる。
歩み続ける者の人生すべてが美しいわけではないだろう。けれどどんな人生にも一瞬の煌きは存在する。欠片は嘆きも心残りも輝きに変えてしまうのかもしれない。
どんなに富を築こうとも、どんなに高い地位や権力を得たとしても、黄泉比良坂を下るのは己の身一つなのだ。ただ思い出だけを抱いて下って行く。
一人で生まれ、一人で黄泉路を渡る。
だからこそ人は家族を愛し、友を求め親交を深めて生きる。
大切な人々と共に泣いて笑って過ごした時間が愛しかった。
帰りたかった。
還りたかった。
愛する人の傍らに戻って春に咲く桜の花を見上げたかった。
春の大地に生える土筆をまた、二人で指先を土塗れにしながら摘みたかった。
笑顔で「ただいま」と言いたかった。
よく響く優しいあの声で「おかえり」と言ってもらいたかった。
ただただ逢いたかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
欠片を抱きしめて泣きながら歩いた。
流した涙さえ欠片へと変わっていく。
ただ一つだけホッとしたことがあった。自分を守るために大男と命懸けで闘ってくれた友の姿を見ない。酷い怪我で残りの人生にまで影響があるかもしれないが、それでも生きていた欲しいと望んだ。
結果がこれであってもそのこと自体に対しては後悔はしていない。
誰かを犠牲にしても自分の生命を守らなくてはいけない。身分の尊き者としてのそれが役目であったとして、友の生死に関係なく自分の息の根を確実に止めに来た相手の目的は変わらない。
ならば……自分だけでいい。
道連れも殉死者も必要ない。欲しくはない。
これでよかったのだ、約束は守れなかったけれど。
人生そのものに後悔はない。物心ついたころから身体が弱く、高熱を出して寝込んでは母に苦労をかけた。
紫霄に編入してからも周囲に気遣いをさせた。
「みんな………ありがとう」
どうかこの想いも言葉も届いて欲しい。
生命を狙って来る勢力には、周囲を巻き込んでくるので心底腹がたった。生命を奪われる恐怖もあった。
けれどそれももう、どうでもいい。この結果に満足して、暴挙はやめるだろう。彼らには彼らの正義があって、こちらの願いや望むことなど関係なかったのだから。
相変わらず空の色は変わらない。坂は一向に終わる様子がなく続いている。
「この景色飽きたなぁ」
こんな呟きが出るほどには余裕が出て来た。
焦っても泣いても笑っても、黄泉比良坂を下っている事実は消えない。
自分は首筋に打たれた注射器の中の毒物で、間違いなく死んだのだ。
息を吸うことも吐くこともほぼできなくなり、無数の針を全身に深く突き立てられている様な痛みだけを記憶していた。
人工呼吸器を付けてもらって、懸命になんとかしようとしてくれる周の妨げにならない様に、激痛に暴れたくなる気持ちをなだめても、ジッと横たわるのも苦痛だった。
『もういい……苦痛は終わった』
心の中に言葉が浮かんで消えていく。それが自分の思考なのか、誰かの言葉なのかはわからなかった。
誰もが時折、嘆きの声を漏らしながら進んで行く。そこに言葉は発せられない。もしかしたら自分と同じく心に言葉を受け取りながら、『想い』の欠片を抱きしめているのかもしれない。
たくさんの想い出と哀しみと後悔と……悔しさと心残り。それらが欠片に変じた今、心の中に輝いているものは唯一無二の『愛』だった。穢れの存在しない純粋な『想い』としての『愛』
自分の『生』の時間は終わったのだとわかっているのに、やはり彼のもとへ帰りたかった。黄泉比良坂をこうして下っているのだ。それでも『必ず戻る』と約束した。
果たせないことが悔しい……申し訳ない。
想いが堂々巡りする。
黄泉比良坂を下り黄泉路の果てには幾つかの場所がある。
一つはかつて死にかけた時に引き寄せられた場所。美しい花々が咲く光に満ちた心温まる安らぎの場所だ。
一つは行く末が見付からない者が辿り着く場所。現世とあまり変わらない風景が続いて、人々は現世と変わらない想いで生きている。しかしここには変化はなく、来世に繋がるものが欠けている。心残りが強い者は大抵はここに辿り着く。
一つは心残りの中身が執着や怨嗟などのコールタールのような、重く暗く粘着的な想いの者が辿り着く。
最初の一つ以外は人々は大きな川の畔に行き当たる。ここで一人ひとりが舟に乗る。
不思議なのは遠く離れたヨーロッパでも古代には、冥界には坂を下り川に行き着く話があることだ。同じく一人で船に乗り流れていく。
ヨーロッパの場合はこの川を『忘却の川レテ』と呼ぶ。日本や蓬莱皇国では『三途の川』と呼ぶ。
ここを歩く人々の魂はどれくらいこの話をしっているのだろうか。
そして重い心を捨てられないと舟は暗い方へと流されて行く。その途中の川底にはこの事実に気が付いた者が投げ捨てた欠片が、キラキラと輝きながら沈んでいるという。
すべてを投げ捨てられて、あたたかな気持ちを宝に抱いて進める者だけが最初の場所に導かれ、それぞれの『想い』によってそれぞれの場所に吸い込まれるように辿り着く。
その場所は無数に存在している。仏教でいうところの『三千世界』で、実は現世もここに含まれるのだという。
黄泉路を進む者は己の名前を失念し、記憶と想いを美しい欠片に変えて歩み続ける。決してそれらを失うわけではなく、自分の今の状態を純粋に見れるようにする配慮なのかもしれない。
しかし強い心残りは欠片になりながらも、未だに自分の中にあった。以前は真っ直ぐに光ある場所に立つことができたのに、今は多くの迷える魂と共に黄泉比良坂を下っている。
だがそれを良くないとは言えない。『生』に執着がなさ過ぎるのもまたよいとは言えないからだ。
人は独りで生まれ、一人で終焉を迎える。これは変えることのできない事実だ。誰かと共に息絶えても、歩み出すのは個々の魂であるからだ。
だからこそ人は家族を求め、友を求め、愛する人を求め、迷い苦悩し生きていく。
心の中に様々な言葉と映像が流されて行く。
ゆっくりと心が溶けていくような心地がした。
「ああ……」
嘆きの声を自分もいつの間にか口にしていた。
ここには何もない。
嘆きの声を漏らしながら歩み続ける人々と乾いた坂道の感覚、同じように乾いている切り立った壁。
太陽の暖かな熱も月の穏やかな光もない。空には日も月も星もなく、黄昏色が重く覆い尽くしていた。
照りもせず曇りも果てない。かと言って『朧』気な空でもない。現世では決して出会うことのない、奇妙で不思議な空だった。
足は間違いなく地面を踏みしめているのに、自分の足元からも周囲からも音は全く聞こえてこない。
肌にまとわりつくような静寂の中を人々は言葉を失って歩き続ける。
そこに神仏の救いはない。神仏は人が自ら選択する行き先には干渉はしない。
手を差し伸べるのは各々が行き着いた場所で、救いを願い祈る時のみだ。
そもそも黄泉比良坂を下る人々は、祈りの言葉さえ失っている。ただ流されるままに歩を進め下って行く。
「…………さま、……るさま」
どこかでこれまでとは違う声がする。これまでのは頭の中に言葉が浮かんで来るような声だったが、これは人が発する声の様な気がする。
どこだろう?どこから聞こえてくるのか?
立ち止ると列は彼を避けてまた元通りに続いていく。何事もなかったかの様に。
どうやら声は自分にしか聞こえてはいない様子だ。
誰かを呼んでいるみたいだが、はっきりとは聞こえない。
誰を呼んでいるのか問いかけてみたいが、口から漏れるのは嘆きの呻きのみ。
そもそも自分が『何処の誰』であったのかすら、今は定かではないのだ。返事をしても意味はないのかもしれない。
しかしその呼び声は魂の深い場所を揺さぶる。
「う…ぁあ………」
言い知れぬ哀しさがこみ上げてくる。欠片になってしまって失った記憶や想いが、自分を呼んでいる。
応えたい。
自分はここにいると叫びたい。
切実な願いが届いたのだろうか。
不意に目の前に一人の少年が現れた。
「ああ、良かった!ここにいらっしゃったのですね。お迎えにあがりました」
美しい面差しに笑みを浮かべて、彼は両手を差し出して来た。
しかし彼は坂のすぐ横、何もない空間に浮かぶようにして立っているのだ。その手を取ってどうなるというのだ?
そもそも彼は何で宙に浮いていられるのだろう?
「そちらからはお見えになられないだけで、こちら側にも道があります。
私を信じていただけませんか」
彼の口から響く言葉は黄金の輝きとなって降り注いで来た。それは肌に触れると優しい温かさが感じられた。
「皆さまがお待ちです」
恐る恐る彼の手を取るとさらに温かい何かが流れ込んで来た。
「あ……れ、ん」
そうだ、彼は蓮だ。
「はい。こちら側にいらっしゃいましたら、もっと大切なことが戻られますよ」
「大切なこと……」
彼の手を取った時に足元に落とした欠片を見下ろす。
「それは『未練』の残骸です。残しておかれても大丈夫です」
次第に言葉が戻って来る。
「み…れ…ん?」
何の未練だったのだろうか?
先程はあれだけ嘆き悲しんだはずなのに、それすらもう霧に包まれているようだ。
「あなたの大切な御方がお待ちになられておられます」
「大切な………?」
誰だろう?誰だっただろう?
「さあ、お手を、武さま」
タケル?武……そうだ、自分の名前だ。
「……つッ?!」
頭の中がズキンと痛む。何かが『行くな』と警告しているようだ。
「大丈夫です、私を信じてください」
そう言った蓮の顔に複数の顔が重なって視えた。その顔が口々に言う。『還って来て』と。
胸が熱くなった。
まだ必要とされている。
その事実が嬉しい。
おずおずと差し出されている蓮の手に、自らの手を重ね合わせた。
グイッとばかりに引き寄せられて、何も視えない場所に踏み込んだ。途端に観る景色が変化した。
「道?」
「還り道です。現世へ還るための道で、古くは伊弉諾の神が戻ったものです」
火の神を出産して隠れた妻神を探して、黄泉の国を訪れた伊弉諾神は、と言われた妻神、伊弉冉神の黄泉での真実の姿を見てしまう。驚いて黄泉比良坂をかけ上って行く夫神の姿に怒った伊弉冉神は黄泉醜女に追いかけさせる。
伊弉諾神は櫛を取って彼女たちに投げるとそれは桃に転じる。醜女たちがそれに齧り付いている間に、一気にかけ上がるがすぐに追いつかれてしまう。再びくを投げてまた逃げる、追いつかれる……三度繰り返してようやく黄泉の出口に辿り着いた。それでこの出入口に大きな岩を置いて蓋をした。
武は『記紀』で読んだ伊弉諾神が黄泉を訪れる話を思い出していた。そう言えばギリシャ神話のオルフェウスの冥界の話と共通点があると言われていたっけ。
ギリシャ神話の方を思い出して振り返りそうになる武を、蓮が慌てて制した。
「ダメです、武さま。ここは還る者が振り返ってはいけないのです」
「オルフェウスみたいだな」
「あれで冥界に引き戻されたのは彼の妻ですが、ここではあなた様が黄泉の底へ引っ張られます」
「それは勘弁して願いたい」
そんな場所に連れて行かれたならば生まれ変わることすら難しそうだった。
武がそんなことを考えていると蓮の顔が険しくなった。
「いけません!黄泉醜女が来ます」
神話の中の存在が本当にいるのか。武は息を呑んだ。振り返ってその姿を見てみたいが、振り返ることはできないのだ。
「急ぎましょう、追いつかれてしまったら、武さまも私も取り返しのつかないことになります」
蓮に手を引かれて駆け出した。元々、運動が得意ではない上にここでは異様に身体に重い『何か』が圧し掛かって来る感覚がある。
伊弉諾神は元は『太陽神』だったという説がある。それが事実であるのならば世界の神話のパターンとして、伊弉冉神は『月神』ということになる。月神を祖霊神とする蓬莱の皇家の血筋は黄泉の女神でもある伊弉冉神と深い関係にある。ならばその血を色濃く引いている武に絡みつく力は通常よりも強いのだろう。
坂はどこまで続いているのだろうか。そう言えば随分下った感覚がある。上るのも長いのだろう。
それでも武は力を振り絞って走り続ける。愛する人の待つ場所へ。彼の腕の中へ。
還る……帰るのだ。
不意に蓮が立ち止まってポケットから何かを取り出し、よく聞き取れないくらいの小声で何やら唱えた。すると彼の手の中の『何か』が桃になる。これを武の背後に向かって投げた。
桃は武の視界を通り過ぎるその時に、数多くに増えて飛んで行った。
神話と同じことが目の前で起こっている?振り向くことができない故に、武には黄泉醜女の姿も彼女たちが桃を貪る姿も見ることはできない。
神話と同じく三度繰り返してようやく、二人は黄泉と現世を分ける千引の岩までたどり着いた。ここは記紀で黄泉醜女たちにが現世に出て来ないように、これ以上、伊弉諾神を追って来れないようにするために黄泉比良坂をを閉じた岩である。
千引の岩は本来は死者が黄泉路への旅立ちにのみ開かれる。だが今は人が一人通り抜けられる幅だけ開かれていた。ここへ武を迎えに来た蓮が開いたのだろう。
「さあ、この先です」
蓮がそう言った瞬間だった。
『行かせぬ!』
声が武の身体を貫いた。漆黒の靄が沸いて来て武を包み始める。靄は重く身動きができない。
ああ、やはり自分は『死』の宿命から逃れられないのか。絶望が心を満たした。
「いけません、武さま!強く望むのです、あの方の元へと戻りたいと!」
蓮はこう言って武の手を強く握りしめた。この手が離れてしまったしまったら、武は黄泉の国の深くにある奥津城に閉じ込められてしまう。輪廻転生の輪から離され、愛する人や家族と永劫に隔離されてしまう。
『そなたは既にわがものじゃ。戻ることは許さぬぞ!』
言葉とも声とも感じられるものが衝撃となって全身を震わせた。
「おやめください、黄泉の神よ。この御方の天命はまだ尽きてはいないはずです。心無い者の愚かな陰謀をやめさせるためにも、この御方を皆さまの所へお返しください」
天命はまだ尽きてはいない……?
蓮の言葉に息を呑んだ。まだ生きられるならば帰りたい。愛する人の腕の中へ。
「帰りたい……約束したんだ、必ず戻るって」
早春の温泉宿の庭で土筆を共に積みながら約束をしたのだ。
帰らなくては、約束を果たさなければ。
想いが強くなると武を包む漆黒の靄が色を濃くする。
「帰る……帰るんだ」
うわ言の様に呟き続ける。現世はもう手が届きそうなところにある。
蓮にとってはこれは賭けともいえた。何故ならば本来は死者の魂を取り戻すには対価が必要なのだ。それを提示しないで神に武を返せと言っているのだ。
対価……死者の黄泉返りや延命には誰かの寿命を必要なだけ差し出すのがあの世とこの世の決まりである。だが本人が差し出しても誰の寿命を削るのかは、神の匙加減でしかない。ある時は死の床の誰かもしれない。生まれたばかりの乳児かもしれない。そもそも誰にどれだけの寿命があるのか、残りはどれくらいであるのかは、ほとんどの人間にはわかりえないことであるのだ。神が削った人物に寿命が残り少なければ、その人物は明日にでも突然に死んでしまうかもしれないのだ。それに対価として交換できる生命の長さは、どんなに望んでも数年が限界であるのだ。
だからこそ蓮は対価を示さなかった。本来の武の寿命、天命を全うさせるべきだと主張しているのだ。
すると武を包んでいた漆黒の靄がすぅーっと引いた。
『よかろう。一年だけ時間を与えよう。もしもその間にある条件を満たせば、寿命が尽きるその時まで生きるのを許そう』
「条……件?」
『何が条件かは教えない。一年を大事に生きるのだな』
条件を出しながらも内容は告げない。あたかも不本意ながら武の黄泉返りを認めたのがわかる。
『それでも良いならばそこを通って行くがいい』
「帰ります」
一年でもいい。やるべきことをやってしまいたい。
『よかろう。だがな、妨害はさせてもらう』
この言葉と共に二人は千引きの岩の向こう、まばゆい光の中へと強い力で押し出された。
ドーンと音がしたかのような強い衝撃と共に、それまで固く閉じられていた目が見開かれた。
同時に呼吸ができない苦しみと全身を走る激痛が襲って来た。
黄泉返りは猛毒の中毒症状までは払拭できないようだった……
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