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新年参賀
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控室の全員が緊張で息苦しく思っていた。唯一、今上皇帝に対面した経験がある雫はここにはいなかった。
謁見は武の伴侶である夕麿と側近たちも共に……と言われてここにいた。
ただし成人していない者は参内するのは、特別な許可が与えられた時のみゆえ、静麿や蓮の姿はここにはない。
また、葵は療養中であることと薫が不在のままでの参内は難しかった。
今上皇帝は敵ではない……雫や久方の言葉の端々からわかってはいる。だがここは武たちにとっては『敵地』なのだ。如何に警護を固めても、面識のまるでない者たちばかりでは気を緩めることはできなかった。
貴之はもちろん共に参内してはいたが、怪我は完治はしていない。蓮が来れる立場にないのが今は痛かった。
同時に静麿も参賀には同じ理由で出席できない。
また麗は平民であるために殿上はできない。平民で殿上が許されるのは大臣以上の地位を得ている者に限定されている。
もちろん響もここにはいない。彼はあくまでも一条家の現当主の弟の息子で、おそらくは謁見の間以上の宮中の部屋へ殿上を許されたことはないであろう。しかも彼は武の側近にも含まれてはいない。夕麿の従兄として取り入ろうとして武を邪魔者扱いしている状態では、誰も彼を側近としては扱わないし認めもしないだろう。
「武さま、これを」
周が差し出したのはかなり強い鎮痛剤だった。常用させるわけにはいかないが、今日の様な場合はやむを得ないと判断しての処方だった。
薬を飲んでからほどなくして、武たちを謁見の間への案内役が訪れた。
雫だった。本来ならば宮中に仕える誰かが来るはずであるが、警護を兼ねての彼の任命であるのだろう。本来ならば女系とはいえ彼は皇家の外戚でもある。この様な身分の低い者が行う役目は任命されないし、引き受けはしないであろう。
「行くぞ」
まだ幾分かすれている声で武が言った。
ここからは戦いの場に出陣するようなものだった。
武たちに割り当てられた部屋はその身位と体調を鑑みて、比較的近い場所を与えられていた。何しろ正式な参内は初めてであるため、武にはまだ宮中に専用の部屋を与えられてはいない。あくまでも仮の部屋である。
本来ならば謁見の間よりも奥の区画にある場所が与えられるべきであった。
謁見の間はこの日の様に殿上を許されている貴族が一堂に会するほどの大きさがある。
長い廊下を並んで歩いてようやく、謁見の間の大きく重厚な扉の前に到着した。
雫が合図をすると重々しい音を立てて扉が押開かれた。
一斉に両脇に並んだ者たちの視線が武たちに注がれた。
「紫霞宮殿下、並びにご伴侶 六条 夕麿さま、ご到着でございます」
かなり前から参内させておいて『ご到着』もないものだ、と陰で何人かが小さく溜息を吐いた。
武は真っ直ぐに前を見つめて堂々と歩いた。半歩遅れて夕麿が従う。皇家の皇子の妃は公式の場では伴侶よりも前に出てはならない。これは国際的な儀礼でもある。もちろん女王などの女性が上の身分の場合は、配偶者が半歩下がる。后妃や配偶者が前に出てしまうことは、相手の国の元首に対して大変な非礼を働いたことになる。同時に国内でもこの儀礼は守られるべきである。
実は長きに亘る九條家の専横で、かの家の出身の妃や女御が皇帝や皇太子の前にしゃしゃり出ることがあり、眉をひそめる者が多かった。先帝の御代は後宮を仕切る皇后が早世したがゆえに、このあたりの儀礼が乱れてしまっていた。もの申せば嫌がらせをする。
お陰で後宮に娘を差し出す貴族は減り、今上皇帝の女御は九條家の女性と彼女の脅威にはなり得ない身分の低い出自の更衣が二人いるのみ。皇太子に至っては虚弱体質であるのもわざわいして、九條家の娘が一人だけ女御として入内しているだけである。
こんな有様では皇子・皇女がほとんど誕生していないのも当たり前であると言えた。
武を先頭に半歩下って夕麿が、残りは一歩分の間を開けて皇帝の前に進んで行く。
半分ほど進んだ所で真っ直ぐに前を見据えていた武が、静かに目を伏せて歩む。
これは許可なく皇帝の顔を真っ直ぐに見ない………というのがルールであるからだ。特に今は皇帝が、階段を数段上がった玉座にいる。
武が先帝と対面していたのは、あくまでも非公式で個人的なものであった。ゆえに顔を真っ直ぐに見ることを咎められたりはしなかった。
しかし今は違う。これは公式な『謁見』としての対面であり、『今上皇帝の甥』にすぎない武は、一歩も二歩も下がった段下に跪くしかできない。それでも久方より皇帝が敵ではないと聞いているからこそ、無理をしてでもこの場に足を運んだのだった。
もちろん、本来ならば武は皇家が並ぶ場所の先頭にいるはずである。皇太子が皇帝の傍らに立っている現在は。
ましてや跪く必要はないとも言えた。それでもこれを久方が勧めたのは、武たちが今上皇帝の臣下である証明のを集まった者たちに見せるためであった。
貴族たちの一部は九條家に従うか、ゴマをする立場にいる。それ以外の中立に立つ者も、彼らが振り撒く『悪意』になんとなくこちらに良い感情は持っていないはずだった。
その理由の一つとして先帝が様々なルールを破って、武を特別に扱った経緯もあったであろう。
まさに登城は『敵地』であったのだ。
しばらく沈黙が続いた。
武たちは皇帝が声をかけない限り、何かを口にすることはできない。初対面で身分が低い者は自分よりも身分が上の者に対して、声をかけることはできない。
「陛下、紫霞宮殿下及び王配殿下、お二人の側近方でございます」
ゆっくりとしかし謁見室中に響き渡る声で、久方が皇帝に告げた。
「うむ。よく参った」
少し低めの良く通る声だった。
「面を上げよ」
武が顔を上げると皇帝はスッと目を細めて微笑んだ。
「兄上に似ている」
「ありがとうございます」
武は深々と頭を垂れた。
「本日、其方に来てもらったのは他でもない。今は亡き我が兄上に『准皇』を贈ろうと思うからだ」
武と皇帝との対面を固唾を呑んで見ていた諸侯から、一斉にざわめきが溢れ出した。
「へ、陛下……そんなご相談もなく……」
「黙れ、九條 実輔。何故、我が兄に追贈するのを其方に相談せねばならん」
皇帝の言葉に老齢の男が顔を引きつらせる。
武は横目でチラッと彼を見た。この男が嵐子の弟かと。
久方や高子の話によると彼は、姉の言いなりだという。
そしてこの男はかつて高子が袖にした許婚者だったそうだ。
「高飛車な癖に姉にはヘコヘコする二面性が、虫唾が走るほど嫌いでした」
彼女は今回の参内の様々な儀礼の説明に加わって、心底嫌そうな表情でこう言った。
実際に見た実輔はまるでダルマの様な男で、皇帝の御前であるというのに、腹を突き出してふんぞり返っていた。皇帝の生母である嵐子がいる限り、自分の立場は安泰であると思っているのだろう。
もしかしたら今日行われる叙位叙勲で、嵐子が何某かの身分を与えられると考えての態度かもしれない。何しろただの『女御』である嵐子は、皇帝の生母であっても『皇太后』にはなれない。
『続日本紀』に文武天皇の側室であった藤原宮子に、ゴリ押しで『大夫人』の称号が与えられたことがある。それを現在の皇国でも実行しようと周囲に圧力をかけ、皇帝にも打診しているらしい。
武たちと皇帝の『謁見』はこれで終了したが、引き続き叙位叙勲を行うと久方が皇帝の意を汲んで宣言した。
武たちはそのまま皇帝の前に跪いたままだった。
「まず、先ほど申したように今は亡き兄に准皇を追贈する。本来ならばここに座しているのは兄であった。余は彼より数多くのことを教わった。そのことを感謝しても感謝しきれない。追贈でその恩に報いられるとは思わないが、皇位に准ずる立場にて人身を離れていただく。
従ってその遺児である紫霞宮にも相応しい身位を与えなければならない。紫霞宮を一品親王に叙す」
武は驚きに目を見開いた。一品親王とは皇太子に次ぐ身分である。これまでの武は父の身位を無視して低い身分である『王』であった。当然ながら『皇位継承権』はなかった。それは先帝が武を守るために選択したものだった。武本人はそれで十分過ぎた。
現皇太子の双子の弟である薫を差し置いて、自分がこの様な身分を得てよいのだろうか。視線が戸惑いに揺らぐ。
「次いで六条 夕麿」
「はっ」
武の半歩後ろで跪いていた夕麿が顔を上げて短く返事をした。
「欧州では配偶者に爵位を与える決まりになっている。だが残念ながら我が皇国は爵位を採用していない。そこで古に従い、そなたに『院号』を与える。本日、この場より『六条院』と名乗るがよい」
「え……あ、ありがとうございます」
武の一品親王宣下は夕麿にも予想はできていた。しかし自分に院号が宣下されるとは予想もしていなかった。正式に『親王配』という呼び方に変わるだけだと思っていたのだ。
「これは紫霞宮を支えてくれたことに対する、余からの感謝の証でもある」
「その様な……私はこれまで殿下に支えていただきました。本日、ここにいられるのもすべて殿下のお蔭でございます……」
率直で嘘偽りのない夕麿の本心であった。
「そなたの誠実さがよくわかる。これからも変わらず宮を支えてやってくれ」
「はっ。誠心誠意、お仕えさせていただきます」
胸に手を当て深々と頭を垂れた夕麿を振り返って見て、武は穏やかで満ち足りた笑みを浮かべた。これで自分がいなくなっても夕麿の立場は揺らぎはしない。院号にはそれだけの力があった。
「そこでだ、親王は所領地を定める決まりになっている。どこか希望の土地はあるか?」
所領地。自分が支配することができる場所で、そこからの収入を宮内省から割り当てられる費用に上乗せすることができる。武にはそのような場所は必要ないと思ったのだが、あることに気が付いてそのまま口を開いた。
「それは紫霄学院都市でも可能でしょうか」
紫霄学院都市は中・高・大の各学部を含めて、都市の運営自体に赤字が続いていることは理事の一人として知っている。貴族にも昔よりも大きく貧富の差ができていることも、入学者が著しく減少している原因であるのがわかっている。『皇立』である限り皇家の予算の一部が流れている。それを紫霞宮の所領地にすれば不要になる。それを見越しての発言だった。
「紫霄か。あれは収入にはならんと思えるが?」
「ゆえに欲しく思います。私はこれまでの様に皇家の費用は必要ありません。あそこはここにいる皆には大切な母校です。できれば自分たちの手で建て直しをしたく思います」
「親王になったゆえ、現在のそなたの住まいは『宮』になる。その維持費もあるのに費用はいらぬのか?」
「はい。これまでもこれからも身に余る収入があります。それに皆が助力してくれます」
「そうか。その覚悟があるならばよかろう。紫霄学院都市を紫霞宮の所領地に配す」
紫霄は元々皇家の持ち物である。ゆえに皇帝の意思一つで決定した。これが国有地などであったならば、国政を行う政府側と相談して許可を待たなければならない。ましてや赤字続きを求めたのだから、皇帝も宮内省もホッとしただろう。
「ふむ。
さて紫霞宮の側近たちにもこれまでの功に報いなければならぬ。
まず、生家に戻れぬ者には新たに『橘』の姓を与えよう。またこの姓を名乗る者に清華貴族に列する。もちろん元の身分が清華よりも上の者は、立場はそのままでよいとする」
また並ぶ人々からざわめきが起こった。
現代の皇国に於ける『叙位叙勲』は、新たな皇帝が即位した時にのみ行われる。ただ、貴族内での叙位叙勲で、戦前のように平民から選ぶことはできなくなっている。貴族の増減を鑑みて、分家を作るのが現代の叙位叙勲になっている。
今回の准皇の追贈と武を一品親王に叙すること及び、夕麿の院号については、国政議会の承認を受けてのものであった。
「本日、参内が叶わなかった方を含めて、これまでの功績に対する報奨が下賜されます」
久方は書類を手に言った。報奨の内容を敢えて言わないのはそれぞれに違う物が下賜されるのだろう。
全員が深々と頭を垂れた。彼らにすれば武を主と仰いでいるからこその『当たり前』だったのだが。
この後、武たちは指定された場所に移動し、叙位叙勲が続けられた。
その中で武が認識できたのはまず、六条 陽麿の隠居届は受託され、未成年ではあるが静麿の六条家当主就任の許可が下りたことだった。ただし当分の間は夕麿の助力を仰ぐようにという条件付きで。
今一つは一条家の分家だった。現当主の弟、つまり響の実父を摂関貴族である一条家から外して、新たな家に分けるという宣下だった。この場合、よほどの功績がなければ出身階級に関係なく『新家』という、下層の身位に叙される決まりになっている。元々は正当なる血統ゆえに場合によっては身位が上がるという可能性があった、戦前には。
現在の叙位叙勲は新たなる皇帝の即位時にのみ特例として行われる。一御代に一度限りで、それ以外は欠員などの理由があった時のみ特別に行われていた。つまりここで宣下されたことは翻らないということである。
それでも今回の叙位叙勲は大盤振る舞いであった。何しろ武の側近だけでも参内できなかった物を含めて、三十余名もいたからだ。
一時間ほどかかって叙位叙勲は終了した。
「紫霞宮殿下」
久方に再び呼ばれて皇帝の前に志向する。
「そなたに東宮を紹介するのを失念していた」
皇帝にこう言われて武は壇上に座る人物を見上げて口を開いた。
「薫、葵は保護した。茶番はもういいぞ」
「ホント⁈」
その叫びと共に彼は壇上から駆け下りて武に飛びついた。
再び集まった人々のざわめきが広がる。
これを見越したように玉座のカーテンの後ろから、薫によく似た人物が姿を現した。
彼が薫の兄であり、現皇太子だった。これを見た薫は着ていた上着を脱いで彼に差し出した。
「ありがとう、薫」
二人が並ぶとさすがに似てはいるが別人であるのがはっきりとする。それでも二卵性の双子。背格好や面差しが似ていた。これでは違和感は感じたとしても判別はつき難いだろう。
皇帝は優しい笑みを浮かべて何も言わない。それがこの場の答えなのだろう。
武は何事もなかったかのように、皇帝の隣の座に就いた皇太子に改めて挨拶をした。
だがこの間も薫が武に縋り付いていた。それを背後で周が顔を引きつらせて見ていた。さすがにこの場所で止めに入ることはできない。それなりの時間が経過している。武に投与した鎮痛剤は既に効果が薄れているのがわかるのだ。ただでさえ中和できない毒の作用で、鎮痛剤の類が非常に聞きにくい状態なのだ。
だがこの周の様子に夕麿が気付いた。武にむやみに触れることは苦痛を与えることだ。
夕麿はさりげなく二人の背後に回ってそっと薫に伝えた。
「え……?」
言われた意味がわからず薫は武を見た。
すると武は青白い顔で額は汗で濡れていて、今にも倒れそうに見えた。ピーク時より症状は和らいだとはいえ、全身を襲う痛みはまだまだ強い。誰かが手を握るだけでそれは激痛に変わる。今の様に抱き着かれたならば感じる痛みは半端ではないだろう。
薫はもちろん一度武が死んだことを聞いてはいる。しかし原因が猛毒を与えられたことによるものであり、現在も後遺症に苦しめられている事実までは知らない様子だった。
「今日は無理を押して参内してくれたことを感謝している」
久方に何か耳打ちされた皇帝が口を開いた。
「退出して身体を休めよ」
「ありがとうございます、お言葉に甘えさせていただきます」
武たちは今一度、皇帝に深く頭を下げてから謁見室を出た……背後で重厚な扉が重々しく閉じられる音が響いた……と、武の身体がぐらりと揺れる。慌てて夕麿が支えた。
「大丈夫だ」
武はこう言ったが大丈夫なはずがない。それでも立っているのは今は宮中で倒れるわけにはいかないからだ。
貴之が無線で車寄せに車を用意するように告げる。武、夕麿、薫を中心にして成美と康孝が先頭に立ち、先頃配属された皇宮警護官が三人を取り囲む。その後ろに周たちが続く。
車寄せには十人乗りのワゴン車が数台待っていた。それぞれが分かれて乗り込む。武と夕麿は周や義勝たちと同じ車で、次の車に薫が乗り込んだ。
本来ならばここで先導が付くのであるが、この日は敢えてそれを断っていた。目立つことはしたくなかったのだ。
武たちを乗せた先頭車は途中で他の車両と別れ、久しぶりの御園生邸へ向かった。
残っている荷物の移転の手配をして、正式に離れることを当主である有人に告げるためだった。同時に本日の叙位叙勲の結果を報告する目的もあり、宮大夫の名代として清方も同道していた。
「おかえりなさいませ」
連絡は入れてあるため、玄関口で文月が出迎えた。
武は無言で頷いたが、夕麿をはじめとした者たちは不満だった。むしろ怒りすら感じていた。出迎えが執事だけと言うのは武の立場を考えればあまりにも礼を欠く。
改めてここは武には相応しくない場所だったと思えた。
居間に入るとそこには有人と希、そして今日のために帰宅していた小夜子がいた。
「おかえりなさい、お疲れ様」
小夜子が立ち上がって穏やかな声で言った。
「ただいま」
武が短く応えた。車の中でもう一度鎮痛剤を呑んだが、連続して強い物は投与できないために効き目は緩やかであった。ゆえに言葉が少なめであるのは仕方がなかった。
小夜子は改めて武の晴れの衣装を着た武を見た。皇子としての様々な飾りは車中ではずしていたが、着ている服は皇家にのみ許された物だった。
「あの方を思い出すわ」
涙を浮かべて小夜子が言った。本当は息子を抱きしめたいであろうが、今の彼に苦痛しか与えないのを、先日までは向こうにいた彼女には十分すぎるほどわかっていた。
「今日の内容はそれとなく久方さまから窺ってはいるけど……」
そう言って彼女は清方を見た。
応えるように清方が一歩踏み出した瞬間、大きな音が居間に響いた。希がテーブルの上にあった過敏を叩き落とした音だった。
「な……」
全員が驚いて声も出ない中、瞬時に貴之と康孝が武と夕麿を庇うように進み出た。それにさらに苛付いた様子で希が立ちあって迫って来た。
「いきなり帰って来てその態度かよ!死んだとか生き返ったとかで散々こっちに迷惑をかけておきながら、何事もなかったかのような顔で……何様だよ!兄さんなんてそのまま死んでいればよかったんだ‼」
武を睨みつけて言い放った次の瞬間、希の身体は吹っ飛んで背後の壁にぶつかっていた。
「⁉」
驚いて見上げた彼の目に映ったのは、拳を固めて怒りに震える夕麿の姿だった。
「ばか!なんてことをする!」
周がそう叫んだのを見て希がホッとしたのもつかの間、彼は夕麿に近付いてたった今、希を殴った手を持ち上げた。
「ゆっくり開いてみろ」
その言葉にハッとして我に返ったらしい夕麿が、ゆっくりと手を開いた。それを周が診る。
「表立っての傷はない……動かして強い痛みもないようだな。ピアノを弾く大事な手を痛めるようなことをするな」
「そう……ですね、すみません」
殴られた希は鼻血を出し、唇にも血がにじんでいた。無理もない。ピアノ奏者はかなり力が強い。そうでなければ鍵盤をたたき続けることはできない。細く長い指をしていても、腕にはかなりの筋肉がついているのだ。
希の言葉に何のためらいもなく渾身の力で殴ったのだ。下手をすれば鼻骨にひびでも入っているかもしれなかった。
「御園生 有人。これはどういうことか説明しなさい」
夕麿の声が低く鋭く響いた。
息子の行動に驚いて立ち上がっていた有人がガックリと床に膝を突いた。希が驚いて父親と夕麿を交互に見た。
「今日の参賀のための途上までに事実を息子に説明しておくようにと、宮内省からの通達を受け取っていたはずです。何ゆえに実行していないのですか。あなたは武さまを愚弄するつもりですか」
「そ、そのようなことは……」
狼狽する有人の前に夕麿を制して清方が進み出た。
「本日の叙位叙勲の結果を申し伝えます。
武さまに置かれましては亡き父宮さまに『准皇』が追贈になられ、一品親王の宣下がございました。また、夕麿さまは『親王配』として『六条院』の院号が下りました」
「一品親王……」
有人は目を大きく見開いてから床に手をついて深々と頭を下げた。
「おめでとうございます」
武の乳部としての任はとっくに解かれてはいたが、仮初の親子として過ごした日々が彼に何某かの錯覚を起こさせていたのかもしれない。
「小夜子さま、あなたさまには皇家より殿下の育成に対する慰労金が払われます」
「あら、それはもらっても良いのかしら?」
「本来ならば准皇さまが薨御(皇太子が死亡した場合に使用される)された後に支払われるべきものでした」
「でも私は正式に入内したわけではないですのに」
「ですから殿下の養育費の返還という形になります」
「そうなのね」
小夜子はまだ戸惑ってはいたが拒絶はしなかった。金品が欲しいのではなく、このような形であれ自分と准皇の恋愛を皇家に正式に認められた事実が嬉しかった。
ふんわりとした空気が武たちにに流れる。が、再び希が叫んだ。
「何だよそれ!どういう意味だよ」
血をボタボタと床に落としながら。
「聞いた通りですよ、希君。武さまはあなたの兄上であっても身分が違われるのです」
雅久が答えた。
「あなたが小さいうちは差をつけて扱われるのを殿下が嫌われたからです」
清方が言葉を繋いだ。
「ですがもうあなたは物事の分別がつかない幼子ではない。よって先ほどの様な暴言は不敬になると覚えておいてください。しかもあなたは我々、側近の中でも最も身分が低いという事実も理解しておくように」
清方は冷たく告げた。実際には平民の側近も何人かいる。それでも貴族の中では戦前の叙位叙勲で『勲功貴族』になった御園生家は、皇国に於いては長きに亘ってその血を受け継いで来た『新家・半家』よりも下に置かれている。
貴族が現在も存在している国にとって、特権階級の格差は越え難い確固たる制度として生き続けている。皇国とて例外ではないのである。
謁見は武の伴侶である夕麿と側近たちも共に……と言われてここにいた。
ただし成人していない者は参内するのは、特別な許可が与えられた時のみゆえ、静麿や蓮の姿はここにはない。
また、葵は療養中であることと薫が不在のままでの参内は難しかった。
今上皇帝は敵ではない……雫や久方の言葉の端々からわかってはいる。だがここは武たちにとっては『敵地』なのだ。如何に警護を固めても、面識のまるでない者たちばかりでは気を緩めることはできなかった。
貴之はもちろん共に参内してはいたが、怪我は完治はしていない。蓮が来れる立場にないのが今は痛かった。
同時に静麿も参賀には同じ理由で出席できない。
また麗は平民であるために殿上はできない。平民で殿上が許されるのは大臣以上の地位を得ている者に限定されている。
もちろん響もここにはいない。彼はあくまでも一条家の現当主の弟の息子で、おそらくは謁見の間以上の宮中の部屋へ殿上を許されたことはないであろう。しかも彼は武の側近にも含まれてはいない。夕麿の従兄として取り入ろうとして武を邪魔者扱いしている状態では、誰も彼を側近としては扱わないし認めもしないだろう。
「武さま、これを」
周が差し出したのはかなり強い鎮痛剤だった。常用させるわけにはいかないが、今日の様な場合はやむを得ないと判断しての処方だった。
薬を飲んでからほどなくして、武たちを謁見の間への案内役が訪れた。
雫だった。本来ならば宮中に仕える誰かが来るはずであるが、警護を兼ねての彼の任命であるのだろう。本来ならば女系とはいえ彼は皇家の外戚でもある。この様な身分の低い者が行う役目は任命されないし、引き受けはしないであろう。
「行くぞ」
まだ幾分かすれている声で武が言った。
ここからは戦いの場に出陣するようなものだった。
武たちに割り当てられた部屋はその身位と体調を鑑みて、比較的近い場所を与えられていた。何しろ正式な参内は初めてであるため、武にはまだ宮中に専用の部屋を与えられてはいない。あくまでも仮の部屋である。
本来ならば謁見の間よりも奥の区画にある場所が与えられるべきであった。
謁見の間はこの日の様に殿上を許されている貴族が一堂に会するほどの大きさがある。
長い廊下を並んで歩いてようやく、謁見の間の大きく重厚な扉の前に到着した。
雫が合図をすると重々しい音を立てて扉が押開かれた。
一斉に両脇に並んだ者たちの視線が武たちに注がれた。
「紫霞宮殿下、並びにご伴侶 六条 夕麿さま、ご到着でございます」
かなり前から参内させておいて『ご到着』もないものだ、と陰で何人かが小さく溜息を吐いた。
武は真っ直ぐに前を見つめて堂々と歩いた。半歩遅れて夕麿が従う。皇家の皇子の妃は公式の場では伴侶よりも前に出てはならない。これは国際的な儀礼でもある。もちろん女王などの女性が上の身分の場合は、配偶者が半歩下がる。后妃や配偶者が前に出てしまうことは、相手の国の元首に対して大変な非礼を働いたことになる。同時に国内でもこの儀礼は守られるべきである。
実は長きに亘る九條家の専横で、かの家の出身の妃や女御が皇帝や皇太子の前にしゃしゃり出ることがあり、眉をひそめる者が多かった。先帝の御代は後宮を仕切る皇后が早世したがゆえに、このあたりの儀礼が乱れてしまっていた。もの申せば嫌がらせをする。
お陰で後宮に娘を差し出す貴族は減り、今上皇帝の女御は九條家の女性と彼女の脅威にはなり得ない身分の低い出自の更衣が二人いるのみ。皇太子に至っては虚弱体質であるのもわざわいして、九條家の娘が一人だけ女御として入内しているだけである。
こんな有様では皇子・皇女がほとんど誕生していないのも当たり前であると言えた。
武を先頭に半歩下って夕麿が、残りは一歩分の間を開けて皇帝の前に進んで行く。
半分ほど進んだ所で真っ直ぐに前を見据えていた武が、静かに目を伏せて歩む。
これは許可なく皇帝の顔を真っ直ぐに見ない………というのがルールであるからだ。特に今は皇帝が、階段を数段上がった玉座にいる。
武が先帝と対面していたのは、あくまでも非公式で個人的なものであった。ゆえに顔を真っ直ぐに見ることを咎められたりはしなかった。
しかし今は違う。これは公式な『謁見』としての対面であり、『今上皇帝の甥』にすぎない武は、一歩も二歩も下がった段下に跪くしかできない。それでも久方より皇帝が敵ではないと聞いているからこそ、無理をしてでもこの場に足を運んだのだった。
もちろん、本来ならば武は皇家が並ぶ場所の先頭にいるはずである。皇太子が皇帝の傍らに立っている現在は。
ましてや跪く必要はないとも言えた。それでもこれを久方が勧めたのは、武たちが今上皇帝の臣下である証明のを集まった者たちに見せるためであった。
貴族たちの一部は九條家に従うか、ゴマをする立場にいる。それ以外の中立に立つ者も、彼らが振り撒く『悪意』になんとなくこちらに良い感情は持っていないはずだった。
その理由の一つとして先帝が様々なルールを破って、武を特別に扱った経緯もあったであろう。
まさに登城は『敵地』であったのだ。
しばらく沈黙が続いた。
武たちは皇帝が声をかけない限り、何かを口にすることはできない。初対面で身分が低い者は自分よりも身分が上の者に対して、声をかけることはできない。
「陛下、紫霞宮殿下及び王配殿下、お二人の側近方でございます」
ゆっくりとしかし謁見室中に響き渡る声で、久方が皇帝に告げた。
「うむ。よく参った」
少し低めの良く通る声だった。
「面を上げよ」
武が顔を上げると皇帝はスッと目を細めて微笑んだ。
「兄上に似ている」
「ありがとうございます」
武は深々と頭を垂れた。
「本日、其方に来てもらったのは他でもない。今は亡き我が兄上に『准皇』を贈ろうと思うからだ」
武と皇帝との対面を固唾を呑んで見ていた諸侯から、一斉にざわめきが溢れ出した。
「へ、陛下……そんなご相談もなく……」
「黙れ、九條 実輔。何故、我が兄に追贈するのを其方に相談せねばならん」
皇帝の言葉に老齢の男が顔を引きつらせる。
武は横目でチラッと彼を見た。この男が嵐子の弟かと。
久方や高子の話によると彼は、姉の言いなりだという。
そしてこの男はかつて高子が袖にした許婚者だったそうだ。
「高飛車な癖に姉にはヘコヘコする二面性が、虫唾が走るほど嫌いでした」
彼女は今回の参内の様々な儀礼の説明に加わって、心底嫌そうな表情でこう言った。
実際に見た実輔はまるでダルマの様な男で、皇帝の御前であるというのに、腹を突き出してふんぞり返っていた。皇帝の生母である嵐子がいる限り、自分の立場は安泰であると思っているのだろう。
もしかしたら今日行われる叙位叙勲で、嵐子が何某かの身分を与えられると考えての態度かもしれない。何しろただの『女御』である嵐子は、皇帝の生母であっても『皇太后』にはなれない。
『続日本紀』に文武天皇の側室であった藤原宮子に、ゴリ押しで『大夫人』の称号が与えられたことがある。それを現在の皇国でも実行しようと周囲に圧力をかけ、皇帝にも打診しているらしい。
武たちと皇帝の『謁見』はこれで終了したが、引き続き叙位叙勲を行うと久方が皇帝の意を汲んで宣言した。
武たちはそのまま皇帝の前に跪いたままだった。
「まず、先ほど申したように今は亡き兄に准皇を追贈する。本来ならばここに座しているのは兄であった。余は彼より数多くのことを教わった。そのことを感謝しても感謝しきれない。追贈でその恩に報いられるとは思わないが、皇位に准ずる立場にて人身を離れていただく。
従ってその遺児である紫霞宮にも相応しい身位を与えなければならない。紫霞宮を一品親王に叙す」
武は驚きに目を見開いた。一品親王とは皇太子に次ぐ身分である。これまでの武は父の身位を無視して低い身分である『王』であった。当然ながら『皇位継承権』はなかった。それは先帝が武を守るために選択したものだった。武本人はそれで十分過ぎた。
現皇太子の双子の弟である薫を差し置いて、自分がこの様な身分を得てよいのだろうか。視線が戸惑いに揺らぐ。
「次いで六条 夕麿」
「はっ」
武の半歩後ろで跪いていた夕麿が顔を上げて短く返事をした。
「欧州では配偶者に爵位を与える決まりになっている。だが残念ながら我が皇国は爵位を採用していない。そこで古に従い、そなたに『院号』を与える。本日、この場より『六条院』と名乗るがよい」
「え……あ、ありがとうございます」
武の一品親王宣下は夕麿にも予想はできていた。しかし自分に院号が宣下されるとは予想もしていなかった。正式に『親王配』という呼び方に変わるだけだと思っていたのだ。
「これは紫霞宮を支えてくれたことに対する、余からの感謝の証でもある」
「その様な……私はこれまで殿下に支えていただきました。本日、ここにいられるのもすべて殿下のお蔭でございます……」
率直で嘘偽りのない夕麿の本心であった。
「そなたの誠実さがよくわかる。これからも変わらず宮を支えてやってくれ」
「はっ。誠心誠意、お仕えさせていただきます」
胸に手を当て深々と頭を垂れた夕麿を振り返って見て、武は穏やかで満ち足りた笑みを浮かべた。これで自分がいなくなっても夕麿の立場は揺らぎはしない。院号にはそれだけの力があった。
「そこでだ、親王は所領地を定める決まりになっている。どこか希望の土地はあるか?」
所領地。自分が支配することができる場所で、そこからの収入を宮内省から割り当てられる費用に上乗せすることができる。武にはそのような場所は必要ないと思ったのだが、あることに気が付いてそのまま口を開いた。
「それは紫霄学院都市でも可能でしょうか」
紫霄学院都市は中・高・大の各学部を含めて、都市の運営自体に赤字が続いていることは理事の一人として知っている。貴族にも昔よりも大きく貧富の差ができていることも、入学者が著しく減少している原因であるのがわかっている。『皇立』である限り皇家の予算の一部が流れている。それを紫霞宮の所領地にすれば不要になる。それを見越しての発言だった。
「紫霄か。あれは収入にはならんと思えるが?」
「ゆえに欲しく思います。私はこれまでの様に皇家の費用は必要ありません。あそこはここにいる皆には大切な母校です。できれば自分たちの手で建て直しをしたく思います」
「親王になったゆえ、現在のそなたの住まいは『宮』になる。その維持費もあるのに費用はいらぬのか?」
「はい。これまでもこれからも身に余る収入があります。それに皆が助力してくれます」
「そうか。その覚悟があるならばよかろう。紫霄学院都市を紫霞宮の所領地に配す」
紫霄は元々皇家の持ち物である。ゆえに皇帝の意思一つで決定した。これが国有地などであったならば、国政を行う政府側と相談して許可を待たなければならない。ましてや赤字続きを求めたのだから、皇帝も宮内省もホッとしただろう。
「ふむ。
さて紫霞宮の側近たちにもこれまでの功に報いなければならぬ。
まず、生家に戻れぬ者には新たに『橘』の姓を与えよう。またこの姓を名乗る者に清華貴族に列する。もちろん元の身分が清華よりも上の者は、立場はそのままでよいとする」
また並ぶ人々からざわめきが起こった。
現代の皇国に於ける『叙位叙勲』は、新たな皇帝が即位した時にのみ行われる。ただ、貴族内での叙位叙勲で、戦前のように平民から選ぶことはできなくなっている。貴族の増減を鑑みて、分家を作るのが現代の叙位叙勲になっている。
今回の准皇の追贈と武を一品親王に叙すること及び、夕麿の院号については、国政議会の承認を受けてのものであった。
「本日、参内が叶わなかった方を含めて、これまでの功績に対する報奨が下賜されます」
久方は書類を手に言った。報奨の内容を敢えて言わないのはそれぞれに違う物が下賜されるのだろう。
全員が深々と頭を垂れた。彼らにすれば武を主と仰いでいるからこその『当たり前』だったのだが。
この後、武たちは指定された場所に移動し、叙位叙勲が続けられた。
その中で武が認識できたのはまず、六条 陽麿の隠居届は受託され、未成年ではあるが静麿の六条家当主就任の許可が下りたことだった。ただし当分の間は夕麿の助力を仰ぐようにという条件付きで。
今一つは一条家の分家だった。現当主の弟、つまり響の実父を摂関貴族である一条家から外して、新たな家に分けるという宣下だった。この場合、よほどの功績がなければ出身階級に関係なく『新家』という、下層の身位に叙される決まりになっている。元々は正当なる血統ゆえに場合によっては身位が上がるという可能性があった、戦前には。
現在の叙位叙勲は新たなる皇帝の即位時にのみ特例として行われる。一御代に一度限りで、それ以外は欠員などの理由があった時のみ特別に行われていた。つまりここで宣下されたことは翻らないということである。
それでも今回の叙位叙勲は大盤振る舞いであった。何しろ武の側近だけでも参内できなかった物を含めて、三十余名もいたからだ。
一時間ほどかかって叙位叙勲は終了した。
「紫霞宮殿下」
久方に再び呼ばれて皇帝の前に志向する。
「そなたに東宮を紹介するのを失念していた」
皇帝にこう言われて武は壇上に座る人物を見上げて口を開いた。
「薫、葵は保護した。茶番はもういいぞ」
「ホント⁈」
その叫びと共に彼は壇上から駆け下りて武に飛びついた。
再び集まった人々のざわめきが広がる。
これを見越したように玉座のカーテンの後ろから、薫によく似た人物が姿を現した。
彼が薫の兄であり、現皇太子だった。これを見た薫は着ていた上着を脱いで彼に差し出した。
「ありがとう、薫」
二人が並ぶとさすがに似てはいるが別人であるのがはっきりとする。それでも二卵性の双子。背格好や面差しが似ていた。これでは違和感は感じたとしても判別はつき難いだろう。
皇帝は優しい笑みを浮かべて何も言わない。それがこの場の答えなのだろう。
武は何事もなかったかのように、皇帝の隣の座に就いた皇太子に改めて挨拶をした。
だがこの間も薫が武に縋り付いていた。それを背後で周が顔を引きつらせて見ていた。さすがにこの場所で止めに入ることはできない。それなりの時間が経過している。武に投与した鎮痛剤は既に効果が薄れているのがわかるのだ。ただでさえ中和できない毒の作用で、鎮痛剤の類が非常に聞きにくい状態なのだ。
だがこの周の様子に夕麿が気付いた。武にむやみに触れることは苦痛を与えることだ。
夕麿はさりげなく二人の背後に回ってそっと薫に伝えた。
「え……?」
言われた意味がわからず薫は武を見た。
すると武は青白い顔で額は汗で濡れていて、今にも倒れそうに見えた。ピーク時より症状は和らいだとはいえ、全身を襲う痛みはまだまだ強い。誰かが手を握るだけでそれは激痛に変わる。今の様に抱き着かれたならば感じる痛みは半端ではないだろう。
薫はもちろん一度武が死んだことを聞いてはいる。しかし原因が猛毒を与えられたことによるものであり、現在も後遺症に苦しめられている事実までは知らない様子だった。
「今日は無理を押して参内してくれたことを感謝している」
久方に何か耳打ちされた皇帝が口を開いた。
「退出して身体を休めよ」
「ありがとうございます、お言葉に甘えさせていただきます」
武たちは今一度、皇帝に深く頭を下げてから謁見室を出た……背後で重厚な扉が重々しく閉じられる音が響いた……と、武の身体がぐらりと揺れる。慌てて夕麿が支えた。
「大丈夫だ」
武はこう言ったが大丈夫なはずがない。それでも立っているのは今は宮中で倒れるわけにはいかないからだ。
貴之が無線で車寄せに車を用意するように告げる。武、夕麿、薫を中心にして成美と康孝が先頭に立ち、先頃配属された皇宮警護官が三人を取り囲む。その後ろに周たちが続く。
車寄せには十人乗りのワゴン車が数台待っていた。それぞれが分かれて乗り込む。武と夕麿は周や義勝たちと同じ車で、次の車に薫が乗り込んだ。
本来ならばここで先導が付くのであるが、この日は敢えてそれを断っていた。目立つことはしたくなかったのだ。
武たちを乗せた先頭車は途中で他の車両と別れ、久しぶりの御園生邸へ向かった。
残っている荷物の移転の手配をして、正式に離れることを当主である有人に告げるためだった。同時に本日の叙位叙勲の結果を報告する目的もあり、宮大夫の名代として清方も同道していた。
「おかえりなさいませ」
連絡は入れてあるため、玄関口で文月が出迎えた。
武は無言で頷いたが、夕麿をはじめとした者たちは不満だった。むしろ怒りすら感じていた。出迎えが執事だけと言うのは武の立場を考えればあまりにも礼を欠く。
改めてここは武には相応しくない場所だったと思えた。
居間に入るとそこには有人と希、そして今日のために帰宅していた小夜子がいた。
「おかえりなさい、お疲れ様」
小夜子が立ち上がって穏やかな声で言った。
「ただいま」
武が短く応えた。車の中でもう一度鎮痛剤を呑んだが、連続して強い物は投与できないために効き目は緩やかであった。ゆえに言葉が少なめであるのは仕方がなかった。
小夜子は改めて武の晴れの衣装を着た武を見た。皇子としての様々な飾りは車中ではずしていたが、着ている服は皇家にのみ許された物だった。
「あの方を思い出すわ」
涙を浮かべて小夜子が言った。本当は息子を抱きしめたいであろうが、今の彼に苦痛しか与えないのを、先日までは向こうにいた彼女には十分すぎるほどわかっていた。
「今日の内容はそれとなく久方さまから窺ってはいるけど……」
そう言って彼女は清方を見た。
応えるように清方が一歩踏み出した瞬間、大きな音が居間に響いた。希がテーブルの上にあった過敏を叩き落とした音だった。
「な……」
全員が驚いて声も出ない中、瞬時に貴之と康孝が武と夕麿を庇うように進み出た。それにさらに苛付いた様子で希が立ちあって迫って来た。
「いきなり帰って来てその態度かよ!死んだとか生き返ったとかで散々こっちに迷惑をかけておきながら、何事もなかったかのような顔で……何様だよ!兄さんなんてそのまま死んでいればよかったんだ‼」
武を睨みつけて言い放った次の瞬間、希の身体は吹っ飛んで背後の壁にぶつかっていた。
「⁉」
驚いて見上げた彼の目に映ったのは、拳を固めて怒りに震える夕麿の姿だった。
「ばか!なんてことをする!」
周がそう叫んだのを見て希がホッとしたのもつかの間、彼は夕麿に近付いてたった今、希を殴った手を持ち上げた。
「ゆっくり開いてみろ」
その言葉にハッとして我に返ったらしい夕麿が、ゆっくりと手を開いた。それを周が診る。
「表立っての傷はない……動かして強い痛みもないようだな。ピアノを弾く大事な手を痛めるようなことをするな」
「そう……ですね、すみません」
殴られた希は鼻血を出し、唇にも血がにじんでいた。無理もない。ピアノ奏者はかなり力が強い。そうでなければ鍵盤をたたき続けることはできない。細く長い指をしていても、腕にはかなりの筋肉がついているのだ。
希の言葉に何のためらいもなく渾身の力で殴ったのだ。下手をすれば鼻骨にひびでも入っているかもしれなかった。
「御園生 有人。これはどういうことか説明しなさい」
夕麿の声が低く鋭く響いた。
息子の行動に驚いて立ち上がっていた有人がガックリと床に膝を突いた。希が驚いて父親と夕麿を交互に見た。
「今日の参賀のための途上までに事実を息子に説明しておくようにと、宮内省からの通達を受け取っていたはずです。何ゆえに実行していないのですか。あなたは武さまを愚弄するつもりですか」
「そ、そのようなことは……」
狼狽する有人の前に夕麿を制して清方が進み出た。
「本日の叙位叙勲の結果を申し伝えます。
武さまに置かれましては亡き父宮さまに『准皇』が追贈になられ、一品親王の宣下がございました。また、夕麿さまは『親王配』として『六条院』の院号が下りました」
「一品親王……」
有人は目を大きく見開いてから床に手をついて深々と頭を下げた。
「おめでとうございます」
武の乳部としての任はとっくに解かれてはいたが、仮初の親子として過ごした日々が彼に何某かの錯覚を起こさせていたのかもしれない。
「小夜子さま、あなたさまには皇家より殿下の育成に対する慰労金が払われます」
「あら、それはもらっても良いのかしら?」
「本来ならば准皇さまが薨御(皇太子が死亡した場合に使用される)された後に支払われるべきものでした」
「でも私は正式に入内したわけではないですのに」
「ですから殿下の養育費の返還という形になります」
「そうなのね」
小夜子はまだ戸惑ってはいたが拒絶はしなかった。金品が欲しいのではなく、このような形であれ自分と准皇の恋愛を皇家に正式に認められた事実が嬉しかった。
ふんわりとした空気が武たちにに流れる。が、再び希が叫んだ。
「何だよそれ!どういう意味だよ」
血をボタボタと床に落としながら。
「聞いた通りですよ、希君。武さまはあなたの兄上であっても身分が違われるのです」
雅久が答えた。
「あなたが小さいうちは差をつけて扱われるのを殿下が嫌われたからです」
清方が言葉を繋いだ。
「ですがもうあなたは物事の分別がつかない幼子ではない。よって先ほどの様な暴言は不敬になると覚えておいてください。しかもあなたは我々、側近の中でも最も身分が低いという事実も理解しておくように」
清方は冷たく告げた。実際には平民の側近も何人かいる。それでも貴族の中では戦前の叙位叙勲で『勲功貴族』になった御園生家は、皇国に於いては長きに亘ってその血を受け継いで来た『新家・半家』よりも下に置かれている。
貴族が現在も存在している国にとって、特権階級の格差は越え難い確固たる制度として生き続けている。皇国とて例外ではないのである。
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