蓬莱皇国物語Ⅵ~浮舟

翡翠

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悲嘆

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 透麿が案内した店は煉瓦れんが造りを模した佇まいで、通りから一本入った静かな場所だった。 

 紅茶とスコーンのセットを注文し、朔耶は透麿に切り出した。 

「お話しを伺いましょう」 

 余り透麿とは一緒にいたくない。用があるのならば早く済ませて欲しい。 

「朔耶さんて、周さんと付き合ってるんだよね?それ、間違いじゃないよね?」 

 念を押すのが不快だった。朔耶が周と付き合っていたからと言って、透麿には何の関係があるのだろう?

「そう……です」 

 不安を隠せずに躊躇ためらいがちに答えると、透麿は嘲笑うような顔になった。 

「朔耶さんてさ、兄さまに似てるよね?そう言われない?」 

 思わず身構えたのに違う方向の言葉が飛び出して虚を突かれた気分だった。 

「いえ…」 

「そうなの?兄さまの再来とかって言われた生徒会長だったって、近所の高等部の子に聞いたけど?」 

「知りません」 

 かつて夕麿が自分の渾名あだなを知らなかったように、意外と本人はそのような事を知らないものだ。 

「ふうん。みんな、気を遣って言わないんだ」 

 ますます透麿の顔が醜く歪む。その表情に朔耶の心の不安はさらに強くなった。 

「朔耶さんさ、周さんが長い間、兄さまの事を好きだったって知ってる?」 

「はい」 

「そっか…承知の上で付き合ってるんだ?」 

「言われている意味がわかりません」 

「え!?わからないの!? 周さんに兄さまの身代わりにされてるのに?」 

「何…言って…」 

「周さんと兄さまは一度、上手く行きかけたんだ」 

 透麿は旅行で周が夕麿を抱き締めていたのを目撃した話を朔耶に説明した。夕麿が極度に蛇に恐怖心を持つ事実を隠して。 

「武さまもそれを見たんだ。なのにあの方が嫉妬から騒動を起こして、兄さまは結局…周さんから離れなきゃならなかったんだよ。それに…兄さま、周さんとそういう関係になった事、あるみたいなんだけど?」 

「そんな……まさか……」 

 否定的な言葉を口にしてみたものの思い当たる事がある。周は温泉に入った夕麿の身体を見たと言っていた。だが夕麿を美しかったのだと言うなら、その肌に触れた事がある方が、現実的なのではないだろうか? 

「兄さまを失えば武さまは、紫霄の特別室に幽閉される筈だった。だからあの方はあらゆる手を講じて、兄さまを自分に繋ぎ止めたんだ。見ててわかるでしょう?兄さまが今もどんなに苦労してるかを」 

 朔耶は真っ青だった。 

「朔耶さんを見てて感じたんだ。話し方とか考え方、仕草とかが凄く兄さまに似てるってなって。周さん、多分、今でも兄さまの事を好きだよ。好きだから紫霞宮家の侍医として、自分の時間を犠牲にしても尽くしてるんだよ」 

 朔耶は茫然自失状態で立ち上がった。その後、紅茶セットの代金をどうしたのか、記憶がない。気付くと御園生邸の玄関だった。 

「ただいま帰りました」 

「お帰りなさいませ。朔耶さま、御不快であらしゃりますか?」 

 出迎えた文月が慌てた。周はまだ帰宅していない。今日の水族館行きは、ディナーを摂って帰宅の予定だった。 

「大丈夫…ちょっと、雑踏に疲れたみたいだから。部屋で休むよ」 

 靴を脱いで上がった瞬間、身体がふらりと揺れた。 

「朔耶さま!」 

 慌てた文月に身体を支えられた。 

「ありがとう」 

「お部屋までお連れいたします」 

 文月の言葉に朔耶は力なく頷いた。部屋へ向かう廊下で高子と行き会った。 

「朔耶さん!?」 

 文月に話を聞いて、高子は急いで清方を呼びに行った。部屋へ入ってすぐ朔耶は洗面所で吐いた。吐くものがなくなるまで吐いて崩れ落ちた。 

文月が慌てていると、清方と一緒に来た雫がベッドに運んだ。 

「義兄さん…ごめんなさい…」 

 療養中の清方を煩わせてしまった事が、申し訳ないと思ってしまう。 

「つまらない気をまわすのはやめなさい」 

 血圧を計って清方は絶句した。異様に低い。 

「本当に雑踏に酔っただけですか、朔耶?」 

「ええ。買い物に行っただけですから」 

 精神科医を欺くのは難しい。朔耶は腕で目を覆うようにして答えた。 

「周に連絡をしますか?」 

「いえ…大丈夫です」 

 今、周の顔を見たくない。彼の顔を見たらきっと問い詰めて傷付けてしまう。 

「そう……少し眠りなさい。疲れが出たのでしょう」 

「はい、そうします」 

「また気持ち悪くなったら、遠慮しないで言ってください」 

「はい」 

 清方と文月が出て行ったのを確認して、朔耶は窓の遮光カーテンを全部閉めた。ベッドのカーテンを閉めてはじめて、携帯にメール着信に気付いた。透麿からだった。 

『言い忘れたけど周さんが今使ってる部屋って以前、武さまと兄さまが使ってた部屋なんだよね。どんな気持ちでそこを使ってるんだろうね?』

 息を呑んだ。この部屋は武と夕麿の部屋だった?想う相手が伴侶と暮らしていた部屋に、周は何を想って暮らして来たのか。 

 それでも周が好きだと言う気持ちを捨てる事は出来ない。もう朔耶には周がいない生活など考えられない。けれど周にとって自分は夕麿の身代わりでしかない。 

 透麿の言葉を信じたくはなかった。信じたくはないのだ。けれどもあまりにも思い当たる事が有り過ぎた。 

 周の夕麿への想いが生半可なものでなかったらしいのは、周が昔を話す口振りで感じていた。 

 終わらせた。 

 終わった事。 
  
 それは必死に周が自分自身に言い聞かせている事なのではないのか。 

 周と夕麿は肌を重ねた事がある。 

 一度は想い合っていた。 

 透麿に投げ付けられた言葉に納得してしまう自分がいた。 

「周…周…」 

 生まれて初めて好きになった人の心には既に別の人が住んでいた。その人の身代わりとして自分が側にいる。きっと……周の心を本当の意味で、自分に向けさせる事は出来ない。 

 では夕麿は?武を気遣い、大切にする姿は常に見ている。仲睦まじい夫婦だと思う。だが夕麿は周の為に動いたではないか。既に夕麿の中で思い出であっても、嫌ったり憎んだりして成就しなかった訳じゃない。武という存在を守る為に、彼の伴侶であり続ける道を選んだのなら……身代わり以外に自分の居場所はない。武と夕麿を巡るあらゆる事を余り知らない朔耶は、事実を歪めて伝えられた話に支配されてしまっていた。 

 ただ泣く事しか出来なかった。自分がこんなに涙を流せるとは、今まで思った事すらなかった。感情などない方が良い。そんなものは邪魔だと全てを封じて生きて来た。時の流れは自分の目の前を、虚しく過ぎて行くものだった。周と出逢い恋をして朔耶は感情も人生も時の流れも得た。 

 もう、元には戻れない。知らずに生きていた自分には決して。 

 膝を抱えて幼子のように朔耶は泣き続けた。得た筈のものが幻でしかなかった事実に。周を求め続ける自分をどうしても止められない。 

 悲しい…… 

 苦しい…… 

 痛い…… 

 居場所がなくなった自分はどこにいれば良いのだろう? 答えの出ない問い掛けを、自問自答を際限なく繰り返していた。


 次の日、朔耶は周と旅行に出た。朔耶が二人っきりを望んだので周は駅の改札で警護を帰した。

 朔耶の体調を気にして周は出発を遅らせようとした。だが朔耶が予定通りを強く望んだ。それで周が折れた。護院夫妻と清方に自分がきちんと気をつけると約束して御園生邸を出て来たのである。

 山深くの温泉地。美しい清流が流れ、かなり気温が低い。その為だろうか。8月に入ったこの時期でも蛍が飛び交うという。

 朔耶と蛍を見たい。周がそう言って選んだ宿だった。秘湯中の秘湯で、宿は少人数が泊まる所しかない。周は離れ屋を予約していた。清流に面したそこは庭まで蛍が舞うという。

 夕方前に最寄り駅に宿の車が迎えに来ていた。それに乗って奥深い山間へと入って行った。

「静かで良い場所ですね」

 都会の喧騒と猛暑が嘘のようで肌寒いくらいだ。

「気に入ったか?」

「ええ」

 周さえいればどこでも良かった。たとえ自分を見ていなくても。

「ありがとうございます」

 精一杯笑顔を向けて、感謝の言葉を紡いだ。

『 身代わりでも良いから 好きな人の側にいたい』 

 それが朔耶が出した答えだった。けれども自分は夕麿ではない。その違いにいつか周は気付いてしまって去って行く。その時まで側にいる。この生命は周にもらったものだから。 

「先に温泉に入るか?」 

「良いですけど……大浴場に行くのですか?」 

「いや、この外に専用の露天風呂がある」 

 周が指差した方向に近付いて障子を開けてみた。硝子張りの向こうに露天風呂が見えた。 

「へぇ…」 

 露天風呂の向こうは断崖になっていて、外からは入り込めないようになっていた。美しい景色を眺めていると背後から抱き締められた。 

「僕が一緒に入浴するのは、お前だけだ」 

 耳元に幾分恥じらいを込めた言葉が囁かれた。胸が熱くなった。 

「恥ずかしがり屋なのに……」 

 顔が見えないのが救いだった。周の些細な言動にに胸が詰まる。 

「来て早々にはないでしょう?まずはお茶でも飲みませんか?」 

 周の腕を抜けて座った。お茶のセットを引き寄せる。 

「人が勇気を出して言ったのに…」 

 半分拗ねた顔て座った周に苦笑して答えた。 

「それは悪かったですね」 

「体調はどう?」 

 ちょっと心配そうに周は朔耶の顔を覗き込んだ。 

「大丈夫です。本当に雑踏に酔っただけですから。こんなに静かで美しい場所へ連れて来てくださったのですからすぐに気分はよくなります、きっと」 

 あなたが側にいてくれるから……言葉には出来ない想いを胸の中で呟いて、そっと周の手に手を重ねて微笑んだ。もう身代わりでも良い。今この時は確かに自分の腕の中にいてくれるのだから。 

「愛しています、あなただけを」 

「朔耶」 

 周が嬉しそうに目を細めるのを見て、これだけで十分だと思う。周が夕麿を見つめ続けたように彼をみつめて行こう。たくさんの事を望めば、どこかでしっぺ返しが来る。わかっていた筈なのに、初めての恋に夢中になり過ぎていたのだと。 

 周は重ねられた手を取って朔耶を抱き寄せた。無言で抱き締められた温もりは、間違いなく本物。二人はそのまま次第に夕暮れに色を変えて行く清流を見詰めた。 

 蛍が飛び交う庭を見ながら夕食を食べた。取りとめない会話の中に、時々周の口から武や夕麿の名前が出る。朔耶はその度に胸を抉られるような、鋭い痛みを味わった。手術前の心臓ですらこんなに痛くはなかった。それでも愛しい人に笑顔を向けて箸を動かし続けた。 

 味も何を食べたのかもわからなかった。ただ周の笑顔を消したくなかった。 

 結局、露天風呂に入ったのは蛍の舞う中だった。 

「綺麗ですね。夢の世界にいるようです」 

 そうこれは一時の夢なのかもしれない。 

「武さまの前に特別室に住まわれた方は、夕麿の母方の大伯父にあたる方で名も無き宮さまだった。武さまが願われて、今上から賜った御名は『螢』。今の僕くらいの年齢で薨去された儚い生命だった」 

 差し出した手に止まった蛍を見て周は悲しそうに呟いた。 

「ねぇ、周。夕麿さまはどんな方?」 

「今更聞くか?」 

「あなたが見ているあの方を知りたい」 

「朔耶、まだお前は…昔、僕が彼を好きだった事を気にしているのか?」 

「実際には良く知らないから、訊いているだけです。 

 では武さまは?」 

「武さまは夕麿の為になら、鬼にでもなって守ろうとされる。いや、僕たち全員を守る為ならば、御自らを犠牲にされる事も厭わない方だ…」 

 人間の脳とは時には不可解で面倒な状態になる。互いの言葉をきちんと受け取り、返しているつもりでいる。だが脳はその時の思考がどちらを向いているかや、経験などで根付いてしまった傾きで解釈する。だから言った言わないの争いが起こるのである。 

 この時の朔耶は、『夕麿の為に鬼にでもなる』と言う言葉だけを、脳が受け取ってしまった 武が皆を守る為に自らを犠牲にし、その結果今でも後遺症に苦しんでいる事実に胸を痛める周の姿を、想う相手と引き裂かれた悲しみに見てしまう。 

 ただ朔耶は透麿のように武を恨んだり、憎んだりする感情は抱かなかった。胸を満たしていたのは強い悲しみだっだ。周と自分の年齢差も夕麿に似た性格であるのも。 

「朔耶、どうした?また、気分でも悪いのか?」 

 黙ってしまった朔耶を周が心配した。 

「え?ああ、大丈夫です…あっ」 

 腕を引かれて抱き寄せられた。 さり気なく周の指が脈を調べる。 

「大丈夫みたいだな」 

「だからそう言ったではありませんか」 

 抗議する朔耶の肩に周は湯をすくってかける。 

「寒くないか?あんまり身体を冷やすなよ?」 

「寒くはありません。 

 ………周。こんな時までお医者さんはやめてください」 

 医師と患者。自分と周の関係は本当はそれだけだと、言われているようで嫌だった。 

「あ、つい癖で…それにお前の体調を診て行動すると、高子さまに約束した」 

「それでも…」 

 普通の恋人同士のようでいたい。飛び交う蛍のように儚い寿命の恋ならば。ささやかでも良い。彼らに負けない程度には闇を照らす光になりたい。 

「人生を考えた事がありませんでした。 私には考えても無駄だと思っていました」 

 何とはなしに呟いた。すると周の手が優しく背中を撫でた。 

「………紫霄に閉じ込められると皆、同じように思うのだろうか?今、朔耶が言ったのと同じような言葉を、僕は何人かから聞いた覚えがある」 

 清方もその一人だった。いや、外に出た人間からも聞いた。藤堂 影暁からも。絶望と失意は人間を同じ所へと導いて行くのだろうか。 

「孤独なんです。闇がすぐ側に口を開けているんです。そこへ吸い込まれたら、ただ流されるままに生きる事すら出来なくなる。でも近いのにそこへ飛び込めないんですよ。見えない壁のようなものがあって、私はそれをずっと眺めたままでいるんです。それすらも私には現実のものではありませんでした」

「朔耶、そんなものは思い出さなくて良い。忘れてしまえ!」

「忘れてしまえれば…良いのですが。今もまだどこかでそれは口を開けて、私を待っている気がします」

 そうすぐそこまで近付いて来ている。まだ姿は見えないけど。孤独は心を麻痺させる。だから本当の孤独に生きる人間は感情の動きが乏しい。恐怖も悲しみもどんどん感じなくなって行く。ただ虚ろになって、時の流れに全てを委ねてしまう。

 朔耶は周と出逢い恋をして、麻痺していた心が解放された。でも今はそれが良かったのかどうか、わからなくなっていた。好きな人が自分を見てはいない。耳をくすぐる囁きも甘い口付けも、熱い抱擁すらも…自分へ向けられたものではない。

 悲しくて哀しくて痛い。苦しくて辛い。

「周、もう出ましょう?」

「やっぱり、具合が良くないのか?」 

「そうじゃありません…周…今夜は…あなたに抱いて欲しい…」 

 周が自分に夕麿を重ねて抱くのだとしても確かな情熱が欲しい。心は偽りでも重ねる肌の熱は本物だから。 

「わかった」 



 周の愛撫は巧みだ。初めて抱かれる側になった時、戸惑う朔耶を燃え上がらせ、快楽の中へと導いてくれた。朔耶が抱かれる側になるのは余りない。いつもは周を抱きたい。抱き締めたいという激情の方が強い。 

 周の指は弦楽器奏者独特のたこがあるものの、基本的には滑らかだ。総合医は様々な年齢層の患者に触れる。触診などで荒れた指は不快感を与える。それだけで信頼関係が構築出来なかったりするのだ。だから周は手指の手入れを決して怠らない。それすらも肌が弱い武への気遣いから始まった習慣だった。 

 耳朶を甘噛みされ、未だ成長過程である乳首を摘まれる。 

「あはッ…周…そこ…ああッ…」 

 いつの間にか周は朔耶の弱点を探り当てている。逆の時も周は感じる部分へ、朔耶を導いて教える。最近、少しずつ筋トレを始めた朔耶は、以前よりしなやかでバランスの取れた身体になりつつあった。 

「ひぁ…ヤ…ダメ…」 

 乳首を口に含まれて、舌を絡めて吸い立てられる。快感がゾクゾクと背中を駆け上がり、悲鳴のような嬌声を上げてしまう。最初は声を上げるのが恥ずかしくて、懸命に歯を食いしばって耐えようとした。相手に嬌声を上げさせるのは得意だが、自分が上げる側になるとは思っていなかった。身体を刺激されて自分では直接見れない部分を開かされるのが、こんなにも快感でこんなにも恥ずかしくものだと思わなかった。 

「ここはイヤだとは言ってないぞ?」 

 欲望にぷくりと膨れた乳首を、周の指先が押し潰す。朔耶は首を振って、快楽に溺れる自分自身に抗う。周の執拗に快感を引き出す愛撫は、彼の夕麿への想いを表しているように感じた。 

 周は夕麿を抱いた事がある。自分はきっと夕麿のようには美しくない。周は比べながら抱いているのだろうか?そう思うと悲しい。 

「周…周…もう…もう…欲しい…」 

 何も考えられなくなる程、快楽に溺れさせて欲しい。今、周に抱かれているのは自分だと、その熱で実感させて欲しい。今この時だけで良いから。 

 周の指が体内をかき混ぜる。異物感と快楽が混じる。涙を溢れさせながら耐えていると、指が引き抜かれた。両脚を抱え上げられ、熱を帯びたモノが蕾をゆっくりと圧し開く。 

「あッああッ…周…周…熱い…熱いのが…来る…!」 

 一層の事、その熱で何もかもを焼き尽くして欲しい。 

「朔耶、お前の中の僕がわかるか?」 

 頬の涙を指先で拭いながら、周が瞳を覗き込んで問う。朔耶は何度も頷いて答えた。 

「周…愛してます…」 

 たとえ身代わりにされていても、彼を想う気持ちは変わらない。この想いだけが自分の真実。 

 ただ、あなただけを想い続ける。 




 翌日、二人は宿の主催する周辺観光に参加した。宿が小型バスで周辺の観光スポットに案内してくれるのだ。時期が時期なので、宿はそれなりに宿泊客を得ていた。 

 周と朔耶。二人の間を問い掛けて来る客もいた。朔耶はそれに笑顔で答えた。周は自分の親戚で医師であると。初夏に大手術を受けた自分の療養に、主治医として付き添ってくれていると言っておけば二人が、肩を並べて寄り添っていても不審には思われない。やましい気持ちはなくても、好奇の眼差しは浴びたくないし、周を守りたい。 

 滝を見に行く川の岩場を歩く時には、二人は手を繋いで歩いた。所々で周が朔耶を抱き寄せて、間違っても川に落ちないように庇う。それが他の客たちには、患者を気遣う医師として有効に見えたらしい。だから二人が普通より触れ合っていても、誰も疑問に思わなくなった。 

 宿に戻って来た時、朔耶はかなり顔色が悪かった。無理もない、生まれて初めて遠出をしたのだ。 

 武が初めて旅行に出た時には初日に体力が尽きて食事も思うように摂れなかった。朔耶はそこまで弱くはないがやはり連続しての移動は堪えたらしい。 

 バスで一緒に観光に回った人々が周と朔耶に夕食を皆でどうかと言って来たが、朔耶の体調が悪いからと断った。 

 部屋に戻ってすぐに横にならせて、早々に状態を把握する。 

「熱はないな…吐き気は?」 

「ありません」 

「苦しいか?」 

「少し…」 

「無理をさせたな…もう少し考えれば良かった」 

「いいえ…楽しかったです」 

「少し眠れ。夕食の時間を1時間程ずらしてもらったから」 

「はい」 

 朔耶はそのまま目を閉じた。 



「朔耶…朔耶…」 

 揺り動かされて目を開けると、外はすっかり夜の帳に包まれていた。 

「夕食が来たが気分はどうだ?起きて食べられそうか?」 

 脈を診ながら言う。 

「楽になりました」 

 周の手を借りて起き上がる。 

「無理をするな?」 

「大丈夫です。それにお腹がすきました」 

 周に支えられるようにして隣の部屋へ行く。いっぱいに並べられた料理に、朔耶から歓声が上がった。 

「凄い!」 

 昨夜の料理は宿の規定の料理。今夜は周が特別料理を頼んでおいたのだ。 

 周は朔耶を席に着かせて言った。 

「誕生日おめでとう」 

「え?あ、忘れてました」 

 誕生日はいつも夏休み中。紫霄の中にいて、誰も祝ってくれる者などいなかった。だから自分の誕生日など忘れていた。 

 そこへ宿の女将がケーキを持って来た。 

「これでお前も18歳だ」 

「はい」 

 自分の為に周が用意してくれたもの。それが嬉しかった。 

「これくらいで泣くな」 

 困ったような顔をする周に、懸命に笑顔をつくって向ける。 

「さあ、蝋燭ろうそくを吹き消せ」 

 こんな当たり前の光景を朔耶は知らないで生きて来た。御影家では終ぞ彼の誕生日が祝われる事はなかったのだ。紫霄に入学してからはせめて、休み中でなければ誰かが手配しただろう。わずか20日しかない夏休みの最中では誰も気が付かないのだ。 

 蝋燭を吹き消して、灯りを付けて箸を取った。 

「美味しい…」 

 昨日とは違って今日はちゃんと味がわかる。 

「お前の好き嫌いがわからないから、適当に頼んだが大丈夫か?」 

「ええ」 

「苦手なものは?」 

「………ピーマン」 

「意外とお子さまだな」 

「どうせ!」 

 拗ねるように横を向いた朔耶に周は楽しそうに声を上げて笑った。

「拗ねるな。さあ食べろ」 

「はい」 

 食事をしながらの会話は、昼間の観光の話だった。 

「昼の鮎と岩魚の塩焼きは、美味しかったですね」 

「串に刺したのを食べたのは初めてだろう?」 

「ええ。ちょっと戸惑いました」 

 先ほどまで寝込んでいたとは思えないくらい、朔耶は笑いよく食べた。 

「お腹いっぱいです」 

 座椅子に背を預けて朔耶が笑う。 

「気持ち良いくらい食べたな」 

 そう言って周が朔耶の横に来た。 

「僕からのプレゼントだ」 

 差し出されたものを見て、朔耶の顔から笑みが消えた。それは指輪だった。 

「お前は護院家へ養子に入ったばかりだし、僕も久我姓を捨てられない。そんな事をしたら母が、それこそ何をするかわからない。だが僕はお前と人生を歩いて行きたい。だから形だけだけど、指輪を贈りたいと思ったんだ」 

「周……」 

 嬉しかった。でもこれは自分が受け取ってはいけないものだ。自分は身代わりでしかないのだから。 

「朔耶?」 

 朔耶は訝る周の前に手を突いて頭を下げた。 

「周…許してください。私はこれを受け取れません」 

 身代わりが証をもらってはいけない。いつか真実に周自身が気付いた時、きっとそれ故に苦しむ。自分は決して周の枷になってはいけない。 

「何故だ…何故…」 

 周は拒否される理由がわからない。 

「お願いです、周…わかってください」 

 周の自分への想いが真実ならば、躊躇わずに喜んで受け取った。 

 周と一緒に生きて行けたらどんなに幸せだろう。だがどんなに似ていると言われても、夕麿にはなれないのだ。なれないからいつかは別れの日が訪れる。その時が来たら…周が自由に生きていけるようにしたい。 

 頭を下げたままの朔耶に、周はそれ以上言葉が紡げなかった。 

「わかった。時期尚早だったみたいだな」 

 周が指輪のケースを手にして元の席に戻った。一転して重苦しい空気の中、二人は湯を使い布団に入った。 



 眠れぬまま朔耶はそっと庭に面して作られている縁側に座って飛び交う蛍を眺めた。いにしえ人は蛍は亡くなった人の霊が、誰かに会う為に変じたものだと信じていたという。真っ暗な空間の向こうに、清流のせせらぎが聞こえる。 

 昨日、到着した時に見た深い淵を思い出す。女将が3M以上の深さがあると言った。エメラルド色の美しい淵だった。 

 周が去って行ったらここへ身を沈めて終わるのも良いかもしれない。そして蛍になっている筈のない人を探すのだ。短い夏を飛び回り、また次を待って眠る。いつか周は自分を懐かしく思って、ここを訪れてくれるだろうか?もし誰かと一緒でも、その肩に止まるくらいは許して欲しい。 

 ほんの一時ひとときで良い。好きな人との再会を懐かしみたいから。 

 嗚咽おえつを噛み殺して朔耶は泣き続けた。幸せはもうどこにもなかった。 





 ふと目が醒めて周は隣の布団が空なのに気付いた。慌てて隣の部屋に行くと、ガラス戸の向こう側の縁側に朔耶はいた。声をかけようと踏み出しかけて、足が止まってしまった。 

 朔耶が肩を震わせて泣いていた。何もかもを拒絶するような空気をまとって泣き続けていた。その肩にも頭にも蛍が止まり、儚く哀しい光を灯していた。

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