蓬莱皇国物語Ⅵ~浮舟

翡翠

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忠愛

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「周さまと朔耶さまがお帰りになりました」

 居間で全員が二人を待っていた。文月に言われて入って来た二人は、様子がおかしかった。どちらも元気がない。疲れている……という感じでもなかった。二人は夕麿に呼ばれて全員が揃っているのを不思議に思いながら座った。

「敦紀、始めてくれ」

 貴之の言葉に顔を上げると、敦紀の横に青年が一人立っていた。朔耶は彼に見覚えがあった。先日、透麿の警護をしていた人物だ。

「彼は籠手田 則良こてだのりよしと言って私の代の風紀委員長で、現在は御園生の警備会社で要人警護の部署に所属しています。彼は先日まで六条 透麿君の警護をしていましたが、ある事をきっかけに交代しました。

 まず、彼の話を聞いてください」

 則良は敦紀に促されて先日、朔耶に透麿がした話をそのまま語った。

「俺は武さまの事も夕麿さまの事も知っています。彼が夕麿さまの弟君であっても、あれは悪意が過ぎます。だから警護を他の人と代わってもらいました。気持ちがどうしても、守ろうと思えなくなって…」

「誰も君を責めたりしません。よく話に来てくれました」 

 敦紀が則良を労った。 

 周は血の気が失せて強張った顔で、傍らの朔耶の方を掴んで言った。

「朔耶…お前は信じたのか?透麿のこんな戯れ言を!だから…だから、あれを受け取らなかったのか…」 

 この旅行の間、朔耶がどんな気持ちでいたのか。それを思うと周は胸が痛かった。 

「以前は御厨君が私と似ているという話が以前ありました。実際に彼と私は近い血縁にありますので、それは当たり前であると思っています。ですが朔耶君の事はわかりません。 

 ……どうなのですか、周さん。朔耶君は私に似ているのですか?」 

 もしそうであるならば許さない。夕麿からはそんな気迫を感じて周は深々と溜息吐いた。 

「御厨がお前に似てるのは、敢えてそうしていたからだろう?朔耶は全然似てないぞ?」 

 あっさりと躊躇いなく断言した周の顔を、朔耶は驚いて見詰めた。 

「この年齢のお前はもっと老長ろうたけていただろう?朔耶は素直で可愛いぞ?憎まれ口も言わないしな」 

「それは悪かったですね」 

 夕麿がふてくされる。 

「朔耶、よく聞け。僕は一度だってお前と夕麿を重ねて見た事はない。たとえお前が夕麿と瓜二つの容姿をしていても、別の人間ならば違うものだ」 

「そうですね。全く同じ人間は二人とはいませんね」 

 夕麿も周も慈園院兄弟を見ている。司と保は容姿も声も瓜二つだが性格はまるで違う。最初は惑わされたが別人なのだと次第にわかって行った。 

「俺が…悪いんだ」 

 今まで無言だった武が口を開いた。 

「武、あなたの所為ではありません」 

 夕麿が慌てて言った言葉に武は首を振った。 

「恨みに恨みで返してはいけなかったんだ。憎しみを憎しみで報復してはダメだったんだ。それがあの頃の俺にはわからなかった。恨みに恨みで、憎しみに憎しみで返せば、また同じ事が返って来る。透麿をあんな風にしてしまったのは……俺なんだ」

「やめてください、武。透麿がああなったのは結局、本人の在り方の問題です。佐田川が潰れなかったら、透麿はもっと凶悪になっていたかもしれません」

 武は夕麿を守る為に佐田川を潰したのだ。どうして責める事が出来る?

「あなたが彼らを潰さなかったら、私や本庄君のような被害者が、今も出ていたかもしれないのです!」

 透麿の歪みは彼自身の問題だ。自分の母親とその実家の犯罪の事実は消えない。武が関わらなかったとしても。罪を犯したのは彼らで、武はそれを告発したに過ぎない。透麿のは逆恨みでしかない。そう思ってそのままを口にしようとした時だった。夕麿の腕を掴んだまま武が仰け反った。

「武!?」

 その瞬間、武の口から絶叫が迸った。周が血相を変えて立ち上がった。

「夕麿!」

 夕麿は慌てて仰け反る武の身体を抱き締めた。 

「朔耶、部屋から診察鞄を!」 

 仰け反るのを放置すると背骨を損傷する可能性があるのだ。発作の前触れを繰り返しながら、発作に至らずにいたというのに。よりにもよって一番悪い発作の起こり方だった。幻覚症状を起こしている。 

 鞄を持って駆け戻って来た朔耶から受け取り、周は中から注射器とアンプルを取り出した。薬剤を吸い上げ中の空気を抜く。アルコール綿を取った。 

 清方が顔を背け雫が抱き寄せた。PTSDで彼は注射器が怖いのだ。医師としては致命傷に近い。 

 周は出来るだけ清方に注射器を見せないように移動して、武の襟元を緩めた。肩をアルコール綿で拭い、注射針を刺した。中の薬剤を注入すると、夕麿の腕の中で武は意識を失った。 

「すぐに戻ります」 

 武を抱き上げて夕麿は立ち上がった。絹子がそれに従う。 

 周は手早く片付けて再び朔耶の横に座った。 

 部屋にいた者が互いに頷き合う。 

 ここで義勝が口を開いた。 

「朔耶、夕麿と周さんの間には、透麿が言うような事実はない」 

 未遂の話は透麿が言うよなものではなかったし、今更、それを持ち出しても双方が傷付くだけだ。 

「それに皇大神宮旅行の時のあれは長虫が出たからだ」 

 まだあれが尾を引くのかと義勝はうんざりしていた。 

「夕麿さまは長虫が大変苦手でいらっしゃいます」 

 敦紀が言うと事実を知らない、薫と幸久、それに朔耶以外が頷いた。 

「翠子さんが大層な長虫嫌いで、それが夕麿さまにまで影響してしまったのですわ」 

 高子が朔耶に優しい眼差しを向けてしっかりと頷いた。 

「すぐに戻ると言ってたな。見せてやろう」 

 義勝はそういうとポケットからゴム製の蛇を取り出した。彼は今日の話を貴之から事前に聞かされて知っていたのだ。 

 それを椅子の上に置き近くに立った。 

 夕麿が戻って来た。何も知らずに座ろうとして動きが止まる。どういう細工になっているのか、ゴム製の蛇が動いたように見えた。 

 夕麿は悲鳴を上げて側で待ち受けている義勝に縋り付いた。今にも気を失いそうな顔色で義勝に縋って震えている。それは普段の夕麿の姿とは、余りにもかけ離れた有り様だった。 

「雅久、片付けてやってくれ」 

「はい」 

 雅久本人には記憶がないが中等部時代、まだ紫霄の駆除が十分ではなかった頃は、それが当たり前の光景だった。蛇に行き会って悲鳴を上げて、夕麿は側の誰彼構わず縋り付く。蛇を片付けるのはいつも、雅久の役目だったのだ。 

「夕麿、雅久が片付けてくれたぞ?」 

 だが夕麿は首を振って嫌がる。どうやら蛇がいた場所に座りたくないらしい。 

「夕麿兄さま、こっちへ座って」 

 薫が立って自分の席を譲る。薫の方が身分が上だ。彼をたとえ玩具であっても、蛇がいた場所に座らせる訳には行かない。薫を制して清方と雫が動いた。夕麿を今まで清方が座っていた席に座らせる。横に小夜子が移って来た。義勝は彼女に頭を下げて、元いた自分の席に戻った。 

「夕麿さん、もう大丈夫ですよ?どこにもいませんから。 

 文月、皆さまのお茶を淹れかえてちょうだい」 

「承知いたしました」 

 文月が下がるのを目で追っていると義勝が朔耶に向き直った。 

「見ての通りだ。 

 ………夕麿、すまん。今のはゴム製の偽物だ。口で説明してもわからんからな。朔耶に実際に見てもらったんだ」 

 頭を下げる義勝に夕麿は恐る恐る問い返した。 

「偽物?」 

 まだ小夜子に縋り付いていた。その声も震えていた。 

「偽物だ。家の中に蛇が入り込んだりはしない」 

 きっちりと納得させないと夕麿は、普段の自分の席には二度と座ろうとはしない、ソファを取り替えても。 

 まだ半信半疑の顔をしていた。 

「朔耶、見ての通りだ。あの保養所には冬眠しない奴がいた。それでそういう事になったんだ」 

「翠子さんは絵でもダメでしたわ」 

「そうでしたわねぇ。私たち、教科書の絵とかを先に塗り潰したのを覚えてますわ」 

 小夜子と高子が亡き翠子を偲ぶ。 

「もう少し丈夫だったら、六条家の在り方も違ったのでしょうか…」 

 夕麿がまだ声を震わせながら呟いた。 

「そうね。せめて透麿さんが翠子さんの産んだ子ならば」 

 そうすれば浅子が彼を育てた筈だ。久我家の有り様も違ったかもしれない。 

「でもそれは言っても仕方がない事だわ、夕麿さま」 

 高子が目を伏せて呟いた。それから彼女はもう一度、夕麿を見て言った。 

「どうなさるおつもりですか、夕麿さま。武さまの御心を斯様かよう無碍むげにされては、紫霞宮家としての面目を穢されたのも同然でございましょう?如何に実の弟君とはいえ、これ以上の庇い立ては無理というものではございませんか?」 

「わかっています。武さまの思い遣りを有り難き事と、最後のチャンスを与えたつもりでおりました。しかしこの度の事は武さまを貶める為に、朔耶君を巻き込んだのは言語道断です」 

 言葉を切った夕麿の顔は悲痛だった。血を分けた弟が愛しくない筈がない。だが透麿の状態は余りと言えば余りに酷過ぎる。 

「お義父さん。海外の関連企業で弟に赴任が可能な所はありますでしょうか?」 

 有人は全てを夕麿に委ねるつもりで、敢えて口を挟まずに傍観していた。 

「希望の場所にどこでも」 

「ありがとうございます。出来れば現地語がわからない場所を希望します」 

 夕麿の言葉を受けて有人は少し考えた。 

「皇国に簡単に帰って来れないようにしよう。………南アフリカ共和国はどうかな?」 

 南アフリカ共和国には蓬莱皇国からの直行便がない。ヨーロッパを経由しなければならないのだ。 

「素直に従いますでしょうか?」 

 雅久が言った。 

「従わなければ即刻、六条家から廃嫡します。姓も六条を名乗らせません」 

 それは事実上の追放宣言だった。 

「六条家の相続は如何あそばされますか?」 

 護院久方が口を開いた。 

「朔耶君のような者を探します。浅子伯母さまが養子を欲しがっていますし…この際、六条家に養子を入れます。父に新しい人を迎えて、子供を待っていては成り立ちませんから」

 夕麿の瞳に迷いはなかった。

 部屋に戻って荷解きをした朔耶は、周にどう謝罪して良いのかわからなかった。 

 愛する人の心を疑ってしまった。しかもせっかく連れて行ってもらった旅行を、台無しにしてしまったのも同然だったのだ。嫌われたかもしれない。誕生日を祝ってもらい、約束の指輪まで用意してくれたのに。 

 ソファに座って頭を抱えた。今更ながら自分の愚かさに腹が立つ。何故、透麿の言葉を信じてしまったのだろうか。 

「朔耶」 

 周が声を掛けて横に座った。 

 怖くて顔が上げられなかった。いつか来る別れではなく、今ここに告げられる別れに恐怖した。背中に手がまわされて抱き寄せられた。 

「馬鹿が…何故僕に訊かなかった」 

「怖かったし…周が自覚していないなら…傷付くから…」 

「全く…お前は…」 

 そう呟いて強く抱き締められた。 

「お前は夕麿より武さまに似てる。あの方も自分が傷付くよりも他者が、特に夕麿が傷付く事を最も厭われる」 

 その結果が今の姿だと周は悲痛な声で付け加えた。 

「武さまの…あれが発作なんですね」 

「今回は酷い。連続して起こされているから、仕方がないと言えばそうなんだが…18日に間に合わせたい」 

「間に合うのですか?」 

「明日の御様子次第だ」 

 武がどのような状態になるのか、朔耶にはわからない。だが尋常な状態ではないのだろう。 

「朔耶。もし僕が夕麿の身代わりを求めるならば、清方さんとの関係を終わらせていない。雫さんがいても、僕を受け入れ続けてくれていたんだ。清方さんは夕麿と血が繋がっている。 だから似ているんだ……」 

 周は言葉の後、そっと朔耶から離れた。 

「長虫に驚いた夕麿が抱き付いて来た時、僕が喜んだのは確かだ。夕麿は人に触れられるのに極度な嫌悪感を抱く。今はかなり軽減されたが、当時は武さまだけが無条件で触れる事が出来た。僕は脈を取るくらいしか出来なかった。 

 だから…不謹慎にも抱き締められたのを喜んだ。透麿が今でもそれを持ち出すのは、僕のそんな不埒な当時の想いをわかっているからだろう」 

 武が雪の中へ彷徨さまよい出る程、傷付いてしまったのは周にはショックだったと呟いた。

「だが、朔耶。僕はお前を夕麿と重ねた事は一度もない。やっと本当の運命の相手に出逢った。そう思っている」 

 顔を上げるとすぐ側に周の顔があった。その頬は涙で濡れていた。 

 愛する人にその想いを疑われる。誰しもが自分の過去を塗り替える事は出来ない。自分の心を相手の目の前に、差し出して見せる事も不可能だ。 

 想いは見えないからこそ不安定で哀しい。見えないからこそ美しい。 

「ごめんなさい…ごめんなさい…」 

 ただ謝罪するしか朔耶には出来なかった。傷付けたくなかったのに、逆にもっと深く傷付けてしまった。幸せにすると約束したのに。 

「僕は…お前を許さない」 

 告げられた言葉に朔耶の心が絶望に染まって行く。自らの浅はかさが招いたとわかっていても、初めて本当に愛した人を失うのは痛い。目の前が真っ暗になった。涙が溢れた。そして、今更ながら自分の周への想いがどれだけ深く強いものだったかを自覚した。 

 朔耶のそんな様子を黙って見ていた周は、両手を伸ばして彼の腕を掴んだ。痛みを感じる程の強い力だった。その痛みに朔耶は驚いて俯いていた顔を上げた。 

「よく聞け、朔耶。疑った事を僕は絶対に許さない。その償いをしてもらう、お前の一生をかけて。お前はずっと僕の側で死ぬまで償え」 

「周…」 

 震える声で名前を呟くのが精一杯だった。 

「指輪を受け取るな?」 

 嗚咽を噛み殺して頷いた。何度も何度も。 

「周…周…」 

 手を伸ばして抱き付いて声を上げて泣いた。込み上げる感情を言葉では表現出来なかったから。 

 腕の中で全身を震わせて泣く彼を、周は胸一杯の愛しさを込めてしっかりと抱き締めた。 

 自分のいるべき場所。心の在処をようやく、周は見出した瞬間だった。 

 ずっと、ずっと欲しかったもの。この想いを受け止め、受け入れてくれる人。自分を求めてくれ、愛してくれる人。自分の心のたけを込めて、周は腕の中の朔耶に囁いた。 

「愛している」 と。

 

 翌朝、朔耶は周に付いて武と夕麿の部屋を訪ねた。ちょうど朝食が終わって、絹子が片付けている最中だった。武と夕麿はソファに座っている。 

「失礼いたします、武さま。お加減は如何でいらっしゃいますか?」 

 周の呼び掛けに武は怯えたように夕麿に縋り付いた。いつもとはかなり雰囲気が違う。 

 周と夕麿は頷き合った。 

「絹子さん、武さまはどれくらい召し上がられた?」 

ご飯おだいをお二口、おかずおめぐり味噌汁おみおつけの焼きあさがお豆腐おかべをお一口ずつ」 

「やはりか…絹子さん、雅久にいつものあれをと」 

「承りました」 

 食器を片付けて絹子は部屋を下がった。 

「夕麿はちゃんと食べたな?」 

「もちろんです。私まで食べないと絹が今頃大騒ぎしてますよ」 

 武に優しい眼差しを向けながら夕麿が答えた。周は床に座ってからゆっくりと武に近付いた。 

「武、周さんです。怖い人ではありませんよ?」 

 朔耶は夕麿の言葉に息を呑んだ。 

「失礼いたします」 

 周は壊れ物に触れるように、その指に血圧計を付けた。それから耳で体温を調べる。 

「脈は少し弱い。血圧も低め…微熱状態。身体的症状はいつもと同じであらしゃるな」 

「怯え方が少し強いように感じます」 

「わかった。清方さんと義勝に言っておく。 

 朔耶がお前と話したいと言ってる」 

「わかりました」 

「朔耶、そのまま立たないでこちらへ」 

「はい」 

 フローリングの床を膝で進んだ。 

「伺いましょう」 

「つまらない疑いを抱いた事をお詫びいたします」 

 手を突いて頭を下げた。 

「頭をお上げなさい、朔耶君。あなたは悪くありません。むしろ謝罪しなければならないのは、私の方なのですから。弟が心ない事を申して、あなたや周さんを傷付けてしまいました。どうかお許しください」 

 夕麿が頭を下げるのを見て朔耶は慌てた。 

「おやめくださいませ、夕麿さま!私も悪かったのです。あの前日に皆さまの言葉についのせられて、透麿さんをあなたの弟君にしては凡庸と…言ってしまいました」 

「紫霄高等部生徒会長としての透麿の評価ですね。私も聞いています。事実ですから仕方がありません。それを言われて腹を立てるようではダメです」

 評価と言うものは如何に辛辣しんらつであろうとも、某かの真実を語っているものである。振り回されるのは良くないが、意に染まぬからと言って腹を立てても意味はない。まして紫霄での評価は結構、その人となりを見抜いていた。透麿がいちいち夕麿を引き合いに出されるのは、可哀想と言えば可哀想である。かつて夕麿の後任として武が苦労したように。

「さすがに今度は僕も庇ってはやれない」

 周も透麿を気にかけ、進学の相談にのったりしていた。だが自分の大切な人を傷付けられたのだ。恩を仇で返されたようなものだ。

「透麿はお前が六条に帰らない事も、佐田川一族の悪行も理解しない」

「したくないのか…それとも理解する能力に欠けているのか。もう私にはわかりません。説明はそれこそ皆さんがしてくれた筈です。けれども透麿は自分の意志が通らない事が理解出来ないのです。私の立場や現状を理解しようはしないのです」

 武との結び付きは夕麿自身が望んだ事だ。だが先に夕麿を六条家から追い出したのは透麿の母親だったのだ。 

 唇を噛み締める夕麿を心配したのか、武が袖を掴んで見上げた。気付いた夕麿が頷く。 

「今日は部屋にいる。何かあったら連絡を」 

「わかりました」 

 朔耶と部屋を出て行こうとすると夕麿が呼び止めた。 

「ありがとうございます、周さん。私はあなたに何も返せないのを哀しく思います」 

「馬鹿な事を。僕はお前には十分報いてもらった。武さまにはもっとだ。それに好きでやってるんだ」 

 周の言葉に夕麿は武を抱き締めたまま頭を下げた。 





「あの…周。説明していただけますか?」 

 周は清方と義勝に何やら話した後、部屋に戻って来た。待っていた朔耶は飛び付くように聞いた。 

「見ての通りだ。武さまは件の薬を投与される前、度重なるストレスで失声と両脚麻痺を起こされていた。声は取り戻されていたが、脚の麻痺からは回復されていなかった」 

 周は朔耶にロサンゼルスでの出来事を簡単に話した。 

「一度は影響など微塵もおありにならないご様子だった」 

「いつから症状が?」 

「ご帰国なされて、数ヶ月後に最初の発作を起こされた。それはごく軽いもので、アメリカに御滞在中とは違って国内では御制約が多い。だからストレスから来る不調だと思ってた。翌日には回復されていたしな」 

 元々、武はストレスが溜まると食欲不振になる。しかし次第に症状が重くなり、最も悪い状態が幻覚作用のフラッシュバックだった。 

「ただ発作の最初が激しいからと言って、必ずしも全体的な症状が重くなるとは言えない」 

「何か他に要因があるのですか?」 

「一度、最初はそれ程でないのに異常と言えるように悪化された事があられた。僕と清方さん、義勝と脳神経の専門家には、原因はたった一つしかなかった」 

「それ程明らかなものがあったのですか?」 

 朔耶の問い掛けに、周は渋い顔で頷いた。 

「夕麿の不在だ。その時期中東の政治的転換が相次いで起こってな。現地の御園生系企業の人間を無事に帰国させたり、混乱する株式やら先物の異常変動で、有人氏も夕麿も雅久も早朝から深夜まで帰宅しなかった。 

 武さまはその最中に発作を起こされたんだ」 

 不眠症状を起こしている武に、導入剤を投与した辺りから悪化が始まった。最初は導入剤が悪影響を及ぼしているのではと判断されて投与を中止した。だが症状は緩和されるどころか、更に悪化して行ったのだ。不眠、極度の食欲不振は最早、拒食症に近い状況を示した。 

 夕麿は武が眠っている間に出社し、眠ってから帰宅する。武が眠らなかったのは夕麿を待つ気持ちからだったのではないのか。そう言い出したのは武に付き添って看病をしていた絹子だった。朝、彼女が寝室に上がると武は、夕麿の脱いだパジャマを抱き締めて泣いていたと言うのだ。 

 失声、下肢麻痺、幼児化。その症状が進む中で武が見せた状態。清方はそれをこう判断した。 

 薬が投与された時期以前の武が抱えていたものが、幻覚と同じようにフラッシュバックするのではないかと。 

 夕麿に背を向けられる不安。

 発作時以外にはどんなにカウンセリングを重ねても、武は夕麿の気持ちを疑っていない。 

 二人で歩いて行く。 

 それは揺るぎない気持ちであるのがわかっていた。 

 だが脳は記憶を決して忘れない。表面意識から遠ざけても記憶はどこかに存在を続ける。発作時の武は別人格のように過ぎ去った時間の中にいる。夕麿を失う恐怖の中に。 

 武の精神が病んでいる訳ではなかった。投与された薬が脳へ与えたダメージが引き起こす症状だった。 

「朔耶、武さまの状態から目をそらすな。いいか。薫さまを守り切れなかったらどうなるのか。お前がまず自分の頭に叩き込んでおけ。あれを未来の薫さまの姿にしてはいけない」 

 肩を掴まれて周にそう言われた。 

「お前は卒業したから直接の関与は難しい。それでも何か出来る筈だ。それを考えてくれ。僕はもう悲しみを繰り返したくはない」 

 帰国して紫霞宮家の大夫を辞め、侍医に徹する周の本心を見た気がした。脳への目に見えないダメージが、過去の記憶を使って別人格を構築する。 

 幾ら朔耶がまだ医学的な学びをしていなくても、そんな話は聞いた事がなかった。 

「治療法は今現在ではない。だから夕麿は武さまの発作を、あの状態を受け入れた。全てが武さまだとして、受け入れて生きる決心をしたんだ。生半可な決心じゃない。悩んで苦しんで自分を責めた。清方さんや義勝のカウンセリングもあったが、最終的には夕麿本人の覚悟だ」 

 そう、全てが武なのだと夕麿は納得したのだ。中途半端な気持ちでは決して出来る事ではなかった。そして夕麿の決心を補助するべく、献身的に忠義を以て尽くしているのは絹子だった。雅久も夕麿の不在の時に緩和的な役目が出来るとわかって、武の側にいたり料理をつくったりした。 

 小夜子は母親として、多忙な中を少しでも効果のある治療法はないかと、今現在も様々な研究者に資金を出している。 

 発作を起こしていない時の武は、身体が弱いのとストレスを溜めやすい以外は普通に生活をしていた。御園生ホールディングスで仕事に励み、休日には希の遊び相手にもなる。夕麿との夫婦生活も満ち足りた、穏やかな時間を過ごしていた。幸せでいるのだ。 

 幸せとは何だろう。外から見ていたら、武の発作の事はわからない。だから二人は不足など何もない幸せな人間に見えるだろう。 

 人間はないものねだりで幸せを求める。だがないものねだりを続けていれば、次々に欲しいものが出来る。結局は幸せは遠くなる。 

 仏教の言葉に『少欲知足しょうよくちそく』というのがある。『 欲は少なく足る事を知る』ないものねだりではなく、今の自分の中で幸せを見付ける。些細なものかもしれない。 

 家族がいる幸せ。 

 愛する人がいる幸せ。 

 大切なものが一つでもあれば、本当は幸せなのではないのだろうか。 

 武と夕麿が望んだものは如何なる苦難があっても握り締めた手を放さない事。共に生きて行く事。 

 幸せは求めるものではない。そこにあるものから見出すもの。そして紡いで行くものなのだと。 

「朔耶、僕たちも負けてはいられないぞ?」 

「そうですね」 

 朔耶は愛する人の言葉に穏やかな笑みを浮かべて答えた。
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