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匂菫
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周の言葉通り武の意識は3日後に回復した。わずかに下肢麻痺が残るものの18日にはギリギリ間に合った。
夕方から会場に向かう前に武は夕麿と居間にいた。朔耶も周を病院へ送り出した後、皆と一緒に居間にいた。
そこへ薫が何やら手にして駆け寄って来た。
「武兄さま!」
「どうしたの、薫?そんなに慌てなくても、俺たちは逃げないよ?」
いつもよりも柔らかな武の笑顔に薫はもっと笑顔になった。
発作時の武に朔耶は敢えて薫を会わせた。そして周の話を聞かせたのだ。
伴侶を得て紫霄から出る事。
大切な人々を守るという事。
その意味をわかって欲しかったのだ。
薫は変わり初めていた。自分の立場や人生を考えようとしていた。
「これ見て、兄さま!私はこれが良い!」
そう言って薫が見せたのは、押し花が貼られたしおりだった。
「押し花?」
「おたあさんがくださったの!」
「母さんが?ええっと菫だよな、これ?」
武の言葉を受けて夕麿がしおりを覗き込んだ。
「匂菫の一種だと思います」
「匂菫?匂いがするわけ?」
「一輪でかなりの芳香を放つものだと聞いています」
「へえ…で、これがどうかしたのか、薫?」
「私の印はこれが良い!」
「御印?確かに俺が決めるんだけど…花で良いのか?」
武は祖父が決めた『紫雲英』、つまりレンゲ草。夕麿の御印は『蝋梅』で、夕麿の母方の宮家の家紋が梅だったのを忍んで二人で決めたものだった。宮家の家族の御印は長が決める事になっている。
「夕麿、どう思う?」
「匂菫は根や茎に毒成分を持っています」
「毒?薫、毒草を御印にする覚悟はあるか?」
「覚悟?」
首を傾げる彼に武は告げた。
「紫霞宮は普通の宮家じゃない。だから俺と夕麿は通常は女性のものである花が御印だ。レンゲ草を紫雲英と言ったり、蝋梅は梅じゃなかったりする」
「隠された者の意味を含んでいるのです」
「お前の隠すものは毒だという覚悟が出来るかと訊いているんだ」
「毒は分量を間違えなければ薬にもなります」
「隠れた意味としては重いぞ?」
蓮華は蓮とイコールの意味で仏の座する花であり、蓬莱皇国の皇帝の紋章でもある。本来は武の父が東宮であり、武自身が高御座を継承するはずだった。ゆえに祖父である今上皇帝は武に皇家の一員として、誇りをもって国と民のために生きるように促したとも考えられた。
夕麿の蝋梅は梅よりも早く咲く。しかもその油は薬になる。どんな冬の寒さにも負けずに花開き、武を助けたいという夕麿の願いが込められていた。
「毒があったら私は、兄さまをお守り出来る?」
「え?」
「私は兄さまをお守りしたい…」
薫はそう言って武に抱き付いた。
「薫…ありがとう…」
発作中の自分がどんなであるのか。武は一切、覚えてはいない。ただぼんやりと霧の中にいる感覚だけがある。
「薫、いえ、薫さま。それはあなた様が愛する方に出会われた時に、お使いになってくださいませ」
夕麿の優しい声が響いた。
「武さまの妃として申し上げます。あのボウガンの矢は警告であろうと思われます。きっと薫さまが共に生きようと思われる方は、私と同じように狙われる可能性がござります」
「薫、俺たちはもう大丈夫だ。だからお前は自分と好きな人を守れ」
薫を外に出したいという想いで動き出したからには、現紫霞宮の武と妃格の夕麿が一番邪魔なのだ。本当は薫本人より武たちの方が危険ともいえた。わかっていて敢えて二人は薫に事実を秘した。
「この花で良いんだな?」
「これでなきゃイヤです」
「よろしいのではありませんか、武さま。薫さまの御名前から鑑みても『匂菫』はお似合いかもしれません」
夕麿の言葉に武が頷いた。
「文月」
「はい、武さま」
「御厨はアトリエか?」
「いいえ、昨日、作品が出来たと仰られていましたからお部屋だと思います。お呼びいたしますか?」
「そうして」
「承知いたしました」
文月が居間を出て行てすぐに敦紀と戻って来た。武の御印は違うが夕麿の御印は敦紀がデザインしたものだった。
「お呼びですか、武さま」
「休んでるのをごめんな。薫の印なんだけどな、この…匂菫にする事になった。夕麿の時みたいに、デザインをお願い出来るかな?」
「わかりました。パーティーまでに出来ると思います」
「悪いな」
「ではこれはお預かりしますね?」
「うん!お願いします!」
「では早々に」
敦紀はしおりを預かって自室へ戻った。紫霞宮家自体の家紋は螢と夕麿との関連で、今は無き宮家のものが与えられていた。それにアレンジを加えたものが家紋として認証されている。アレンジも敦紀の手によるものだった。
「パーティーで発表するからな?」
パーティーで正式に薫を紫霞宮家の一員だと発表する。武と夕麿は某かの形で今夜、薫の事を出席者に発表するつもりではあった。薫の立場を明確にする事で彼を紫霄から解放すると宣言する。武自らが標的になる覚悟があっての事だった。
パーティーは華やかに行われた。
まず麗と影暁がアメリカで同性婚をした事が発表された。その祝いとして有人から驚くべき事が発表された。藤堂家との話し合いの結果、影暁が御園生家の養子になるならば皇国に住む事を許すと。
武や夕麿への負担を考えた結果、影暁の優秀さを二人の補助に。有人はそう考えたのである。もちろん裏で巨額が動いただろう事は全員に想像できた。そうまでしても影暁は御園生家に欲しい人材だった。
この話は前以って夕麿だけが聞かされていた。
「麗、あなたは皇国とロサンゼルスを行き来する事になりますが」
「良いよ。皇国で改めて店を持つよ。姉さんたちにも帰国してもらう。でもロサンゼルスの屋敷はどうするの?」
「文月の弟に一任します」
「これで81代が全員、揃ったな。住処はどうなるんだ?」
義勝が訊くと武が答えた。
「周さんがマンションに移るから、取り敢えずそこに」
榊が通宗と同居する事になった為、部屋が片方が空室になる事になった。そこへ周が移り朔耶が同居する事になったのだ。
影暁を皇国に帰国させたいと武が希望している話は周からも耳にしていた。彼は周の親友でもあるのだ。今回の朔耶を巡る経緯は、影暁が周の側にいたらもっと違うかもしれなかった。
そして周と朔耶の結び付きが発表された。紫霄時代に散々醜聞を広めた周が、とうとう年貢の納め所を得たと喝采と野次が会場の笑いを誘った。
次いで薫の御印が発表された。敦紀のデザインを喜んでいる薫に武が告げた。
「これでお前が伴侶を見付けたら、完全になるんだというのを忘れるな?」
朔耶も本当はそんな制約もなくしたい。だがその条件がないと、紫霞宮家をそういう形で存続させる手立てがないのも確かなのだ。
「お待たせいたしました。紫霞宮武王さまと夕麿さまご夫妻の、結婚10周年の祝賀会を始めます!」
先に皆の事をと武が望んでの進行だった。
身内と友人だけのパーティーだったが、賑やかに立ち食スタイルでそこここで会話が展開された。
「藤堂さんも兄さんになるんだ………という事は、麗先輩も兄さん?いや、姉さんかな?」
「ちょっと待て、武君!何で僕が女扱いなんだ!?」
「いや…だって…」
笑う武の首を掴んで麗が揺すぶった。
「雅久も僕と似たような立場だろう!?なんで雅久は兄で僕が姉になるんだ!?」
麗の言葉に夕麿たちが笑い転げた。
「ちょっと、笑ってないで何か言ってよ!」
武は嬉しかった。
発作中、武は麗のつくったスイーツを食べた。拒食に近い状態になる武にオレンジのジュレを試した。それを食べたので次はオレンジのパイをつくった。
雅久がつくる摺り卸し林檎は食べる。雅久がつくったものしか食べないのだ。
だが今回、麗のスイーツを武は食べたのだ。麗はフルーツだけでなくミートパイなどをつくって試した。
武は少量ながらも食べた。それを夕麿や小夜子はどれだけ喜んだか。影暁の養子もこれも考慮されてだった。
紫霄のOBが揃って爆笑する。もちろん行長も夏休みで出席していた。
「おめでとうございます」
次々贈られる祝いに武は満面の笑みで応えていた。今日はまだ武は長時間は立ってられない。用意された椅子に座って、夕麿が代わりに皆に挨拶をしているのを眺めていた。プレゼントが並べられるのも喜んでいた。
いつもより子供っぽいのは発作が多少、尾を引いているらしかった。
オレンジジュースを飲んで会場を眺めていた。
武は酒類を呑めない。アルコールが脳にどんな作用を起こすのかわからないからだ。取り返しのつかない事態を考慮して武の飲酒は禁止されていた。夕麿も軽くしか呑まない。接待などで二人共、呑まない訳にはいかないからだ。
周も基本的には呑まない。侍医としての立場を貫いていた。当然、雫たちも警護を兼ねているので呑まない。
アルコール分の少ないパーティーだった。
武が動けない分、薫を連れて夕麿が招待客へ挨拶に回っていた。久し振りの友人に挨拶を交わす人々もいた。
護院夫妻が朔耶を紹介していた。このまま普通に時間が過ぎようとしていたその時、ふらふらと覚束ない足元で武に近付いた者がいた。
透麿だった。手にはナイフが握られている。側にいた雫が武を全身で庇い、貴之が取り押さえた。
「放せ!コイツさえいなかったら、兄さまは六条家に帰ってくださるんだ!」
透麿の態度に貴之は鋭く言った。
「佐田川 和喜と同じ事をするな?お前は六条家の血より佐田川の血が濃いようだ」
10年前、夕麿を狙った和喜を取り押さえた記憶と重なる。夕麿が六条家から出すと宣言している以上、貴之は透麿に遠慮はしなかった。
「放せ!僕は夕麿さまの弟だぞ!」
手錠を出した貴之にそう言った時、夕麿が透麿に近付いた。これ以上ないという醒めた瞳が冷たく透麿を見下ろしていた。
「私の弟?あの女の一族に身内はいません。貴之、見苦しいから外へ連れ出してください」
「所轄が引き取りに来ます」
雫の指示で通報した、間部 岳大が告げた。
「立て、佐田川 透麿」
「え?」
佐田川姓で呼ばれて透麿は戸惑ったような顔をした。夕麿に問い掛けようとしたが、彼は既に踵を返したあとだった。
そして悟ったのだ。夕麿によって自分が六条家から排除されたのを。かつて自分の母が継子の夕麿を廃嫡したように。異常なまでに執着した異母兄を本当に怒らせて、見捨てられてしまったのだという事実を。
彼は貴之に連れられて肩を落として出て行った。
「武、怪我はありませんか?」
周が脈拍や血圧、体温を診ていた。武は首を振った。雫と貴之の素早い対応で、透麿は武の1mほど手前で取り押さえられた。武の無事を確認した夕麿は会場を振り返った。
そしてあの、良く通る声で告げた。
「お騒がせ致しました。どうか御歓談にお戻りください」 と。
こういう場面での貴族の切り替えは早い。人々は何事もなかったかのように、再び互いの話へと気を向けた。
「夕麿……」
「これで良いのです、武」
「でも…でも六条家はどうするんだ?」
「その件についてですが」
声をあげたのは行長だった。
「まずこれをご覧ください」
彼は武と夕麿にタブレットを差し出した。そこには特待生の制服を来た少年が映し出されていた。
「中等部の制服ですね?」
映像の中の少年が笑う。
「!?」
後ろから覗き込んでいた、義勝が息を呑んだのがわかった。
「昔のお前にそっくりだ…」
透麿も武がかつて口にしたように、声変わり前の声が夕麿のそれと似ていた。だが彼は成長過程で夕麿とはかけ離れた声に変化した。
『あれ?どうして撮影してるのですか?』
気付いた彼が正面を向いて口を開いた。
「声も似てない?」
麗が呟いた。
「この少年は誰ですか、下河辺君?」
夕麿がタブレットを返しながら問い掛けた。
「名前は六条 静麿。 六条 陽麿氏の三番目の子息、つまり夕麿さまの異母弟です」
「私の異母弟…私は聞いておりません」
「今中等部という事は、俺たちが中等部時代に生まれたんだな?」
「佐田川 詠美の子ではない?」
それは驚くべき事実だった。
「陽麿氏の実子として、9年前に認知されています」
戻って来た貴之が断言した。
「静麿君は詠美がまだ六条家にいた頃に、陽麿さまが成されたお子さまです。認知が9年前になっているのは、詠美が夕麿さまの時のような行動に出るのを懸念されたからだと思います」
それは十分に考えられる事だった。
「それで彼はどのような立場にいるのですか、下河辺君」
「ご母堂が小等部の頃に嫁がれまして、現在は正式な身元引受人がいません」
「待って、陽麿氏は何をしてるの?」
武がやっと口を開いた。
「透麿君がネックになっていたのと…陽麿氏は、様々な事への気力は失われていらっしゃるようです」
貴之の報告に夕麿は思わず天を仰いだ。
「下河辺君、新学期に彼に会えるように手配をしていただけますか?」
「承知いたしました」
「六条家へ?」
武の言葉に夕麿が首を振った。
「私が引き取りたいと思いますが、お許しをいただけますか、武さま」
「良いよ。六条家の後継ぎに相応しい人に。絹子さんが張り切りそうだよな」
「そうですね」
「じゃあどうする、六条家の屋敷は?」
「家屋はやはり建て替えが必要だと思います」
「残すのか?」
周の言葉に夕麿が微笑んだ。
「古いですから耐震性の問題があります。それに維持費が半端ではないのです。近代的なものに替えたいと思います」
六条家を断絶するつもりで売却するつもりだった。だが後継ぎがいるならばその必要がない。
「母親にはお会いになられますか?」
久方が言った。
「父がご迷惑をかけた事を詫びなければならないでしょう」
「では私どもが席を設けさせていただきます」
「それには私も出席してもよろしいかしら、夕麿さん」
「母さんが行ってどうするの?」
「夕麿さんの弟さんは私にとっては息子も同然。母親同士でお話をしておきたいと思いますの」
おっとりとした口調だが、小夜子の決意のようなものが感じられた。
小夜子は翠子の後輩。一人娘の彼女は翠子を姉のように慕っていた。そして翠子は末っ子でやはり小夜子と姉妹のように仲が良かった。乳児だった武を連れて姿を消す時、小夜子は翠子に別れの手紙を出していた。それは彼女の遺品から見付かっていた。
別れを告げずにいたならば、夕麿を引き取れたかもしれない。母子家庭で貧しい暮らしではあったけれど。小夜子にそんな想いが密かにあった。
「ありがとうございます、お義母さん」
小夜子は分け隔てなく、御園生家にいる者を愛してくれる。養子に入った者だけではなく、貴之や敦紀も等しく愛情を受けていた。彼女はまさしく聖母だった。既に半世紀近く生きているが、彼女の美しさは少しも損なわれてはいない。そして亡き異母妹の事を彼女と語り合う高子は既に本当の姉妹のようだった。
「ありがとう、下河辺。持つべきものは良き友だちだな。今日一番の贈り物だ」
武の喜びに満ちた言葉に行長は目を見張った。武は在校中、なかなか心を周囲に開かなかった。副会長として一番近くにいながら、何か壁のようなものがあった。軽口は今でも交わすが、自分は同級生で生徒会の仲間。決して友だちとは思ってもらってはいない。今の今までそう思い込んでいた。けれど武はちゃんと友だちだと思ってくれていたのだ。
武の願いを叶える為に紫霄高等部の教師になった彼を、努力をちゃんと見てくれていたのだと。行長は胸がいっぱいになった。
「いえ、私は出来る事をさせていただいただけですから」
そう答えるのが精一杯だった。そこへ薫が近付いて来た。
「先生、昔の武兄さまってどんな方でした?」
「薫、余計な事訊くなよ」
武が苦笑すると行長がしれっとした顔で答えた。
「学院にお戻りになられましたら、幾らでもお話させていただきます」
「下河辺、それはないだろう?」
「武さまも熱心に、夕麿さまの事を周さんに伺われていらっしゃいましたよねぇ?」
「え? それは本当ですか、周さん?」
ギョッとした夕麿を見て周が吹き出した。
「大した事は話してない」
周が武に話した幼き日々の夕麿の姿は周の夕麿への愛情に満ちていた。その想いに自らの想いを重ねる事で、武は夕麿に逢えなかった半年間を乗り越えたのだ。
「なあ、下河辺。お前、好きな人はいないのか?」
彼が夕麿のファンなのは承知しているが、それとは別に彼の恋愛を見た事も聞いた事もない。同性と異性、どちらが好きなのか…も彼は口にした事がない。
「恋…ですか。気になる相手はいますが…」
「気になる相手?」
言い澱んだ彼を見て義勝が言った。
「紫霄の生徒だな」
断言する言葉に珍しく行長が狼狽して見せた。
「図星のようですね」
雅久の言葉に彼は一瞬、切なげ眼差しで遠くを見た。
「教え子とそのような間に…なるわけには参りません」
悲痛な呟きだった。
「紫霄では許されるようですよ?」
そう言ったのは清方だった。都市から出られない二人は、たまたま教師と生徒だった。または教師が生徒の身元引受になって、紫霄を出て行った例もあったらしい。
「それまで禁じてしまったら、紫霄での生活は難しかったのかもしれません」
「そうだな、周も自分の患者と…」
雫の言葉を清方が肘鉄で遮った。
「どうしてあなたはすぐに、余計な事を言うんです、雫?」
クスクス笑いがあがる。
「お前が真剣に考えるなら、それはそれで良いんじゃないか?その、教師は続けられなくなるかもしれないけど」
武がそう言っても行長は首を振るだけだった。想う相手に何かあるのかもしれない。教師として生徒の事情はわかっている筈だ。いやそれ以上に行長は副会長時代に貴之与えられた情報網を今も握っている。様々な事がわかるだけに自分の想いを秘め続けているのかもしれない。
「そっか。まあ、どうしてもって時は俺に言えよ?一人で悩むな、下河辺」
「ありがとうございます」
行長は深々と頭を下げた。この様子を脇で見ていた朔耶と幸久が、互いに顔を見合わせて頷き合っていた。それを周が見ていた。
「朔耶」
帰宅して部屋に戻って周は早々に切り出した。
「お前と幸久君は下河辺の想い人に心当たりがあるようだな?」
「多分…と思っていたのですが、幸久も同じように感じていたらしいので、間違いはないと思います」
「誰だ?」
周の問い掛けに朔耶は目を伏せた。
「そんなに問題がある相手か?」
「ある意味では」
「教えてくれ。口外はしない。ここだけの話にする」
薫の主治医としてこれからも周は紫霄に出入りする。知っていた方が良いような気がしていた。
「弟…です」
「どっちの?」
「月耶の方です。その、薫さまの事では御影は敵側と言えます。月耶自身はそうでなくても、三日月はそうなるでしょう。今の状態でしたら、月耶は中立でいられます。
でももし…」
「下河辺は紫霞宮家への忠義心の厚い奴だ。それがどれくらいかは、夕麿のもう一人の異母弟を見付けて来たのでもわかる」
「月耶も下河辺も板挟みになるな。
月耶はどうなんだ?」
「さあ…?あれはまだ子供ですから」
「なる程な。わかった。僕の胸の内に留めておこう」
「ありがとうございます」
人の想いはどこまでも柵しがらみを計算する事なく動く。夕麿に憧れ、夕麿を理想とした行長は、武への忠義心から教師になった。彼自身は学院都市に閉じ込められる身ではない。実際、週末に外へ出ているし夏休みも外部で過ごしている。彼の実家は武への忠義心を理解しているらしい。置かれた環境からの同性愛も、覚悟しているのかもしれない。
「朔耶、もう一つ訊いて良いか?」
「………三日月の事でしょう?あれは一見、掴み所がないですからね」
そう言って少し目を伏せた。
「周、三日月には気を付けてください。彼は真性のサディストです。彼が私たち兄弟の中で唯一、特別室の隣室にいないのはそういう理由です。生徒会長用の部屋には夜毎に、彼の奴隷になった生徒が何人も繋がれて夜を明かします」
「サディスト……」
義勝が雅久の為にそうなったのは知っていた。だがそれは彼の雅久への愛情だ。朔耶の口から語られた三日月の性癖とは違う。
「三日月の好みはどんな生徒だ?」
周は好みを把握しておくべきだと感じた。
「両極端です。気が強い……そうですね、結城 麗さんのような方。一方で幸久や薫さまも好みです。そして…周。あなたも夕麿さまも好みでしょうね」
「夕麿は過去にその手の奴の被害に合ってるからわかるが…」
「ええ。あなたにはわからないでしょう。三日月の奴隷に教師が一人います。あなたに似た性格の人物です」
本当は周を一人で紫霄に行かせたくない。三日月は危険過ぎる。
「気を付けてください。絶対に三日月と二人だけにならないようにしてください。幸久にもそう言ってあります」
それでも不安なのだ。
「夕麿さまにもどうか」
夕麿は薫にピアノを教えに多忙なスケジュールを縫って紫霄に足を運んでいる。
「夕麿か?あれに手を出したらただではすまないぞ? 下手をすれば御影家は破滅。三日月は学院都市の裏送りだ」
「学院都市の裏?」
「お前でも知らないか?」
周は学院都市の裏側に存在する男娼館の話をした。
「そんな場所が?」
朔耶の驚きに周はしっかりと頷いた。
「必ずしも相手を得られる訳ではないからな。都市に閉じ込められた者の需要があるからだ。犯罪者や都市生活で破綻した者がいる。
お前…10数年前の中等部の事件を知ってるか? それと10年前の特別室の事件は?」
「どちらも知っていますが…」
「どちらも同じ人間が起こした。被害者は……夕麿だ」
現在の紫霄の記録ではその部分は削除されていたのだ。
「では特別室の事件は……」
「賊が盗みに入った訳じゃない。夕麿に執着していた元中等部教師が彼を陵辱したんだ。その事件に透麿の母親とその一族が関与していた。武さまのお怒りはただではすまなかった。佐田川…それが透麿の母親の一族だが、81代と82代の生徒会が御園生の力を借りて破滅させた。
犯人の男は裏側へ投げ込まれた」
その言葉に朔耶は声が出なかった。
「一応、弟は可愛いだろう、お前も?武さまを怒らせるなと三日月に忠告しておけ」
「そんな事を言ったら逆効果です。夕麿さまに忠告してください」
難関であればある程、三日月は執拗に残酷に相手を追い詰める。
「わかった、言っておく」
武の耳に入らない形で話しておかなければ……周はそう思った。
周の部屋の中にはもう荷物はほとんど残っていなかった。朔耶と生活するマンションへと粗方移してしまっていた。
最初は朔耶を護院夫妻の元へ帰らせるつもりだった。自分はここを離れる訳にはいかないと思っていた。だが緊急の場合の最初の処置は自分でも出来ると義勝が言って出た。彼は先日の騒動での朔耶の心の傷を気にした。朔耶がずっと孤独に生きて来たのを理解して、周と一緒である事が必要だと判断したのだ。清方も同意した。
護院夫妻はもとより反対する気持ちはなかった。そこへ榊が申し出たのだ。通宗と同居するから今までの彼の部屋が空くと。
迷う周の背を押したのは武と夕麿だった。
周に幸せになって欲しいと。武の強い望みがどこから来ているのか、わからない周ではなかった。
周から夕麿を奪った。武の心には未だにその想いがある。間違いだと周は思うが武の気持ちは変わらない。自分が御園生邸を出て朔耶と生きるのを見れば、武の心の中の罪の意識は消えるかもしれない。そう思って踏み切ったのだ。
何よりも朔耶といたかった。状況や立場もあって離れて暮らす覚悟はしてはいた。だが本当は寂しかった。
朔耶は周の複雑な気持ちをわかっていた。だから一緒にいたいと強請った。精一杯、年下らしく甘えた。周にはもっと自分自身の事を考えて生きて欲しかった。忠義や献身はわかる。しかし周は余りにも自分を捨て過ぎていた。武や夕麿の言う周の幸せはきっとそこにある。周が自分の為に生きる人生は朔耶と共に歩いて行く未来であって欲しい。
朔耶は自分と周の結び付きが、周囲の希望の中で成り立ったのを感じていた。こうして空っぽに近くなった部屋は明日への切符のようなものだ。幾つかの家具は元々この部屋にあったものだと言う。今残っているのはそれとわずかな身の回りのものだけ。
明後日、薫と幸久が紫霄に戻った後、避難解除を雫が出す。それぞれの住居に帰る者と一緒に周と朔耶は御園生邸を出る。
久我家を出てロサンゼルスに留学。帰国してずっと住んでいたこの屋敷を出て行く。やっと周の止まっていた時間が動き出したのだ。過去と決別はしたが前に進めなかった周の明日がそこにはあった。
8月20日の夕方、薫と幸久はゲートのエントランスに榊と成美と一緒に降り立った。ゲートでは三日月と月耶が待っていたが薫は何も声を掛けなかった。代わりに榊が口を開いた。
「お二方の薫さまのご学友を解除になりました」
「それは如何なる理由によって、どなたの御命令ですか?」
三日月が詰め寄る。
「薫さまの保護者であらしゃる、紫霞宮武王さまのご意志です。ですが同時に今上陛下にお許しもいただいております」
既に警告の矢が放たれた事を周が今上に報告していた。その上での憂いを払うようにと勅書を周に渡されたのである。
榊は周から預けられたそれを、恭しい態度で取り出して示した。
「今現在のご学友は御園生 幸久君ただ一人。今後、新たに選ばれる方が出るかもしれませんが。よろしくご了承ください」
勅書まで出されては三日月は反論は出来ない。月耶は唇を拳を握り締めて薫に言った。
「薫の君はそれで良いのか!?」
「武兄さまと夕麿兄さまは、私の事を本当に考えてくださいますから」
あの無邪気で言いなりな薫の姿はもうなかった。薫は薫なりに御園生邸での経験で、自分が知らない事ばかりなのに気が付いた。発作を起こしている状態の武を見て、薫は僅かばかり自分の状況を理解した。
夕麿に言われた、自分と自分の好きな人を守るという意味。薫は少しずつ考え始めていた。そして朔耶が彼に謝罪したのだ。自分たち三兄弟が薫が何もわからないようにしていたのだと。
薫には三日月はよくわからない相手だった。ただ三兄弟を自分の拠るべきものと、ひたすらに無心に思っていた。数年後には自分が一人きりになってしまうのに。朔耶が病気の本当の治療もしてもらえず、自分に従って紫霄に残される事になっていた事実が三日月への不信を呼んだ。
周と一緒にいる朔耶は別人だった。今までの彼が彼自身の人生を捨てていた事実は周の口から薫に語られた。そういった事実を薫に話すようにと夕麿が二人に依頼したのだ。薫は今までの自分の生活がどんなものの上に成り立って来たのかをやっと理解したのだ。それを朔耶に強要していたのが御影家であった事も。だからもう御影家も三日月も信じられなかった。
「さあ、薫さま」
「はい。幸久、行こう」
「はい、薫さま」
幸久に手を差し出して歩き始めた。
御印を匂菫に決めてもらった。まだ毒を持つという意味はわからない。だから自分で学んでいきたい。好きな人だけじゃなく大切な人を守りたいから。
薫が本当の人生に、自らの歩みを踏み出した瞬間だった。
夕方から会場に向かう前に武は夕麿と居間にいた。朔耶も周を病院へ送り出した後、皆と一緒に居間にいた。
そこへ薫が何やら手にして駆け寄って来た。
「武兄さま!」
「どうしたの、薫?そんなに慌てなくても、俺たちは逃げないよ?」
いつもよりも柔らかな武の笑顔に薫はもっと笑顔になった。
発作時の武に朔耶は敢えて薫を会わせた。そして周の話を聞かせたのだ。
伴侶を得て紫霄から出る事。
大切な人々を守るという事。
その意味をわかって欲しかったのだ。
薫は変わり初めていた。自分の立場や人生を考えようとしていた。
「これ見て、兄さま!私はこれが良い!」
そう言って薫が見せたのは、押し花が貼られたしおりだった。
「押し花?」
「おたあさんがくださったの!」
「母さんが?ええっと菫だよな、これ?」
武の言葉を受けて夕麿がしおりを覗き込んだ。
「匂菫の一種だと思います」
「匂菫?匂いがするわけ?」
「一輪でかなりの芳香を放つものだと聞いています」
「へえ…で、これがどうかしたのか、薫?」
「私の印はこれが良い!」
「御印?確かに俺が決めるんだけど…花で良いのか?」
武は祖父が決めた『紫雲英』、つまりレンゲ草。夕麿の御印は『蝋梅』で、夕麿の母方の宮家の家紋が梅だったのを忍んで二人で決めたものだった。宮家の家族の御印は長が決める事になっている。
「夕麿、どう思う?」
「匂菫は根や茎に毒成分を持っています」
「毒?薫、毒草を御印にする覚悟はあるか?」
「覚悟?」
首を傾げる彼に武は告げた。
「紫霞宮は普通の宮家じゃない。だから俺と夕麿は通常は女性のものである花が御印だ。レンゲ草を紫雲英と言ったり、蝋梅は梅じゃなかったりする」
「隠された者の意味を含んでいるのです」
「お前の隠すものは毒だという覚悟が出来るかと訊いているんだ」
「毒は分量を間違えなければ薬にもなります」
「隠れた意味としては重いぞ?」
蓮華は蓮とイコールの意味で仏の座する花であり、蓬莱皇国の皇帝の紋章でもある。本来は武の父が東宮であり、武自身が高御座を継承するはずだった。ゆえに祖父である今上皇帝は武に皇家の一員として、誇りをもって国と民のために生きるように促したとも考えられた。
夕麿の蝋梅は梅よりも早く咲く。しかもその油は薬になる。どんな冬の寒さにも負けずに花開き、武を助けたいという夕麿の願いが込められていた。
「毒があったら私は、兄さまをお守り出来る?」
「え?」
「私は兄さまをお守りしたい…」
薫はそう言って武に抱き付いた。
「薫…ありがとう…」
発作中の自分がどんなであるのか。武は一切、覚えてはいない。ただぼんやりと霧の中にいる感覚だけがある。
「薫、いえ、薫さま。それはあなた様が愛する方に出会われた時に、お使いになってくださいませ」
夕麿の優しい声が響いた。
「武さまの妃として申し上げます。あのボウガンの矢は警告であろうと思われます。きっと薫さまが共に生きようと思われる方は、私と同じように狙われる可能性がござります」
「薫、俺たちはもう大丈夫だ。だからお前は自分と好きな人を守れ」
薫を外に出したいという想いで動き出したからには、現紫霞宮の武と妃格の夕麿が一番邪魔なのだ。本当は薫本人より武たちの方が危険ともいえた。わかっていて敢えて二人は薫に事実を秘した。
「この花で良いんだな?」
「これでなきゃイヤです」
「よろしいのではありませんか、武さま。薫さまの御名前から鑑みても『匂菫』はお似合いかもしれません」
夕麿の言葉に武が頷いた。
「文月」
「はい、武さま」
「御厨はアトリエか?」
「いいえ、昨日、作品が出来たと仰られていましたからお部屋だと思います。お呼びいたしますか?」
「そうして」
「承知いたしました」
文月が居間を出て行てすぐに敦紀と戻って来た。武の御印は違うが夕麿の御印は敦紀がデザインしたものだった。
「お呼びですか、武さま」
「休んでるのをごめんな。薫の印なんだけどな、この…匂菫にする事になった。夕麿の時みたいに、デザインをお願い出来るかな?」
「わかりました。パーティーまでに出来ると思います」
「悪いな」
「ではこれはお預かりしますね?」
「うん!お願いします!」
「では早々に」
敦紀はしおりを預かって自室へ戻った。紫霞宮家自体の家紋は螢と夕麿との関連で、今は無き宮家のものが与えられていた。それにアレンジを加えたものが家紋として認証されている。アレンジも敦紀の手によるものだった。
「パーティーで発表するからな?」
パーティーで正式に薫を紫霞宮家の一員だと発表する。武と夕麿は某かの形で今夜、薫の事を出席者に発表するつもりではあった。薫の立場を明確にする事で彼を紫霄から解放すると宣言する。武自らが標的になる覚悟があっての事だった。
パーティーは華やかに行われた。
まず麗と影暁がアメリカで同性婚をした事が発表された。その祝いとして有人から驚くべき事が発表された。藤堂家との話し合いの結果、影暁が御園生家の養子になるならば皇国に住む事を許すと。
武や夕麿への負担を考えた結果、影暁の優秀さを二人の補助に。有人はそう考えたのである。もちろん裏で巨額が動いただろう事は全員に想像できた。そうまでしても影暁は御園生家に欲しい人材だった。
この話は前以って夕麿だけが聞かされていた。
「麗、あなたは皇国とロサンゼルスを行き来する事になりますが」
「良いよ。皇国で改めて店を持つよ。姉さんたちにも帰国してもらう。でもロサンゼルスの屋敷はどうするの?」
「文月の弟に一任します」
「これで81代が全員、揃ったな。住処はどうなるんだ?」
義勝が訊くと武が答えた。
「周さんがマンションに移るから、取り敢えずそこに」
榊が通宗と同居する事になった為、部屋が片方が空室になる事になった。そこへ周が移り朔耶が同居する事になったのだ。
影暁を皇国に帰国させたいと武が希望している話は周からも耳にしていた。彼は周の親友でもあるのだ。今回の朔耶を巡る経緯は、影暁が周の側にいたらもっと違うかもしれなかった。
そして周と朔耶の結び付きが発表された。紫霄時代に散々醜聞を広めた周が、とうとう年貢の納め所を得たと喝采と野次が会場の笑いを誘った。
次いで薫の御印が発表された。敦紀のデザインを喜んでいる薫に武が告げた。
「これでお前が伴侶を見付けたら、完全になるんだというのを忘れるな?」
朔耶も本当はそんな制約もなくしたい。だがその条件がないと、紫霞宮家をそういう形で存続させる手立てがないのも確かなのだ。
「お待たせいたしました。紫霞宮武王さまと夕麿さまご夫妻の、結婚10周年の祝賀会を始めます!」
先に皆の事をと武が望んでの進行だった。
身内と友人だけのパーティーだったが、賑やかに立ち食スタイルでそこここで会話が展開された。
「藤堂さんも兄さんになるんだ………という事は、麗先輩も兄さん?いや、姉さんかな?」
「ちょっと待て、武君!何で僕が女扱いなんだ!?」
「いや…だって…」
笑う武の首を掴んで麗が揺すぶった。
「雅久も僕と似たような立場だろう!?なんで雅久は兄で僕が姉になるんだ!?」
麗の言葉に夕麿たちが笑い転げた。
「ちょっと、笑ってないで何か言ってよ!」
武は嬉しかった。
発作中、武は麗のつくったスイーツを食べた。拒食に近い状態になる武にオレンジのジュレを試した。それを食べたので次はオレンジのパイをつくった。
雅久がつくる摺り卸し林檎は食べる。雅久がつくったものしか食べないのだ。
だが今回、麗のスイーツを武は食べたのだ。麗はフルーツだけでなくミートパイなどをつくって試した。
武は少量ながらも食べた。それを夕麿や小夜子はどれだけ喜んだか。影暁の養子もこれも考慮されてだった。
紫霄のOBが揃って爆笑する。もちろん行長も夏休みで出席していた。
「おめでとうございます」
次々贈られる祝いに武は満面の笑みで応えていた。今日はまだ武は長時間は立ってられない。用意された椅子に座って、夕麿が代わりに皆に挨拶をしているのを眺めていた。プレゼントが並べられるのも喜んでいた。
いつもより子供っぽいのは発作が多少、尾を引いているらしかった。
オレンジジュースを飲んで会場を眺めていた。
武は酒類を呑めない。アルコールが脳にどんな作用を起こすのかわからないからだ。取り返しのつかない事態を考慮して武の飲酒は禁止されていた。夕麿も軽くしか呑まない。接待などで二人共、呑まない訳にはいかないからだ。
周も基本的には呑まない。侍医としての立場を貫いていた。当然、雫たちも警護を兼ねているので呑まない。
アルコール分の少ないパーティーだった。
武が動けない分、薫を連れて夕麿が招待客へ挨拶に回っていた。久し振りの友人に挨拶を交わす人々もいた。
護院夫妻が朔耶を紹介していた。このまま普通に時間が過ぎようとしていたその時、ふらふらと覚束ない足元で武に近付いた者がいた。
透麿だった。手にはナイフが握られている。側にいた雫が武を全身で庇い、貴之が取り押さえた。
「放せ!コイツさえいなかったら、兄さまは六条家に帰ってくださるんだ!」
透麿の態度に貴之は鋭く言った。
「佐田川 和喜と同じ事をするな?お前は六条家の血より佐田川の血が濃いようだ」
10年前、夕麿を狙った和喜を取り押さえた記憶と重なる。夕麿が六条家から出すと宣言している以上、貴之は透麿に遠慮はしなかった。
「放せ!僕は夕麿さまの弟だぞ!」
手錠を出した貴之にそう言った時、夕麿が透麿に近付いた。これ以上ないという醒めた瞳が冷たく透麿を見下ろしていた。
「私の弟?あの女の一族に身内はいません。貴之、見苦しいから外へ連れ出してください」
「所轄が引き取りに来ます」
雫の指示で通報した、間部 岳大が告げた。
「立て、佐田川 透麿」
「え?」
佐田川姓で呼ばれて透麿は戸惑ったような顔をした。夕麿に問い掛けようとしたが、彼は既に踵を返したあとだった。
そして悟ったのだ。夕麿によって自分が六条家から排除されたのを。かつて自分の母が継子の夕麿を廃嫡したように。異常なまでに執着した異母兄を本当に怒らせて、見捨てられてしまったのだという事実を。
彼は貴之に連れられて肩を落として出て行った。
「武、怪我はありませんか?」
周が脈拍や血圧、体温を診ていた。武は首を振った。雫と貴之の素早い対応で、透麿は武の1mほど手前で取り押さえられた。武の無事を確認した夕麿は会場を振り返った。
そしてあの、良く通る声で告げた。
「お騒がせ致しました。どうか御歓談にお戻りください」 と。
こういう場面での貴族の切り替えは早い。人々は何事もなかったかのように、再び互いの話へと気を向けた。
「夕麿……」
「これで良いのです、武」
「でも…でも六条家はどうするんだ?」
「その件についてですが」
声をあげたのは行長だった。
「まずこれをご覧ください」
彼は武と夕麿にタブレットを差し出した。そこには特待生の制服を来た少年が映し出されていた。
「中等部の制服ですね?」
映像の中の少年が笑う。
「!?」
後ろから覗き込んでいた、義勝が息を呑んだのがわかった。
「昔のお前にそっくりだ…」
透麿も武がかつて口にしたように、声変わり前の声が夕麿のそれと似ていた。だが彼は成長過程で夕麿とはかけ離れた声に変化した。
『あれ?どうして撮影してるのですか?』
気付いた彼が正面を向いて口を開いた。
「声も似てない?」
麗が呟いた。
「この少年は誰ですか、下河辺君?」
夕麿がタブレットを返しながら問い掛けた。
「名前は六条 静麿。 六条 陽麿氏の三番目の子息、つまり夕麿さまの異母弟です」
「私の異母弟…私は聞いておりません」
「今中等部という事は、俺たちが中等部時代に生まれたんだな?」
「佐田川 詠美の子ではない?」
それは驚くべき事実だった。
「陽麿氏の実子として、9年前に認知されています」
戻って来た貴之が断言した。
「静麿君は詠美がまだ六条家にいた頃に、陽麿さまが成されたお子さまです。認知が9年前になっているのは、詠美が夕麿さまの時のような行動に出るのを懸念されたからだと思います」
それは十分に考えられる事だった。
「それで彼はどのような立場にいるのですか、下河辺君」
「ご母堂が小等部の頃に嫁がれまして、現在は正式な身元引受人がいません」
「待って、陽麿氏は何をしてるの?」
武がやっと口を開いた。
「透麿君がネックになっていたのと…陽麿氏は、様々な事への気力は失われていらっしゃるようです」
貴之の報告に夕麿は思わず天を仰いだ。
「下河辺君、新学期に彼に会えるように手配をしていただけますか?」
「承知いたしました」
「六条家へ?」
武の言葉に夕麿が首を振った。
「私が引き取りたいと思いますが、お許しをいただけますか、武さま」
「良いよ。六条家の後継ぎに相応しい人に。絹子さんが張り切りそうだよな」
「そうですね」
「じゃあどうする、六条家の屋敷は?」
「家屋はやはり建て替えが必要だと思います」
「残すのか?」
周の言葉に夕麿が微笑んだ。
「古いですから耐震性の問題があります。それに維持費が半端ではないのです。近代的なものに替えたいと思います」
六条家を断絶するつもりで売却するつもりだった。だが後継ぎがいるならばその必要がない。
「母親にはお会いになられますか?」
久方が言った。
「父がご迷惑をかけた事を詫びなければならないでしょう」
「では私どもが席を設けさせていただきます」
「それには私も出席してもよろしいかしら、夕麿さん」
「母さんが行ってどうするの?」
「夕麿さんの弟さんは私にとっては息子も同然。母親同士でお話をしておきたいと思いますの」
おっとりとした口調だが、小夜子の決意のようなものが感じられた。
小夜子は翠子の後輩。一人娘の彼女は翠子を姉のように慕っていた。そして翠子は末っ子でやはり小夜子と姉妹のように仲が良かった。乳児だった武を連れて姿を消す時、小夜子は翠子に別れの手紙を出していた。それは彼女の遺品から見付かっていた。
別れを告げずにいたならば、夕麿を引き取れたかもしれない。母子家庭で貧しい暮らしではあったけれど。小夜子にそんな想いが密かにあった。
「ありがとうございます、お義母さん」
小夜子は分け隔てなく、御園生家にいる者を愛してくれる。養子に入った者だけではなく、貴之や敦紀も等しく愛情を受けていた。彼女はまさしく聖母だった。既に半世紀近く生きているが、彼女の美しさは少しも損なわれてはいない。そして亡き異母妹の事を彼女と語り合う高子は既に本当の姉妹のようだった。
「ありがとう、下河辺。持つべきものは良き友だちだな。今日一番の贈り物だ」
武の喜びに満ちた言葉に行長は目を見張った。武は在校中、なかなか心を周囲に開かなかった。副会長として一番近くにいながら、何か壁のようなものがあった。軽口は今でも交わすが、自分は同級生で生徒会の仲間。決して友だちとは思ってもらってはいない。今の今までそう思い込んでいた。けれど武はちゃんと友だちだと思ってくれていたのだ。
武の願いを叶える為に紫霄高等部の教師になった彼を、努力をちゃんと見てくれていたのだと。行長は胸がいっぱいになった。
「いえ、私は出来る事をさせていただいただけですから」
そう答えるのが精一杯だった。そこへ薫が近付いて来た。
「先生、昔の武兄さまってどんな方でした?」
「薫、余計な事訊くなよ」
武が苦笑すると行長がしれっとした顔で答えた。
「学院にお戻りになられましたら、幾らでもお話させていただきます」
「下河辺、それはないだろう?」
「武さまも熱心に、夕麿さまの事を周さんに伺われていらっしゃいましたよねぇ?」
「え? それは本当ですか、周さん?」
ギョッとした夕麿を見て周が吹き出した。
「大した事は話してない」
周が武に話した幼き日々の夕麿の姿は周の夕麿への愛情に満ちていた。その想いに自らの想いを重ねる事で、武は夕麿に逢えなかった半年間を乗り越えたのだ。
「なあ、下河辺。お前、好きな人はいないのか?」
彼が夕麿のファンなのは承知しているが、それとは別に彼の恋愛を見た事も聞いた事もない。同性と異性、どちらが好きなのか…も彼は口にした事がない。
「恋…ですか。気になる相手はいますが…」
「気になる相手?」
言い澱んだ彼を見て義勝が言った。
「紫霄の生徒だな」
断言する言葉に珍しく行長が狼狽して見せた。
「図星のようですね」
雅久の言葉に彼は一瞬、切なげ眼差しで遠くを見た。
「教え子とそのような間に…なるわけには参りません」
悲痛な呟きだった。
「紫霄では許されるようですよ?」
そう言ったのは清方だった。都市から出られない二人は、たまたま教師と生徒だった。または教師が生徒の身元引受になって、紫霄を出て行った例もあったらしい。
「それまで禁じてしまったら、紫霄での生活は難しかったのかもしれません」
「そうだな、周も自分の患者と…」
雫の言葉を清方が肘鉄で遮った。
「どうしてあなたはすぐに、余計な事を言うんです、雫?」
クスクス笑いがあがる。
「お前が真剣に考えるなら、それはそれで良いんじゃないか?その、教師は続けられなくなるかもしれないけど」
武がそう言っても行長は首を振るだけだった。想う相手に何かあるのかもしれない。教師として生徒の事情はわかっている筈だ。いやそれ以上に行長は副会長時代に貴之与えられた情報網を今も握っている。様々な事がわかるだけに自分の想いを秘め続けているのかもしれない。
「そっか。まあ、どうしてもって時は俺に言えよ?一人で悩むな、下河辺」
「ありがとうございます」
行長は深々と頭を下げた。この様子を脇で見ていた朔耶と幸久が、互いに顔を見合わせて頷き合っていた。それを周が見ていた。
「朔耶」
帰宅して部屋に戻って周は早々に切り出した。
「お前と幸久君は下河辺の想い人に心当たりがあるようだな?」
「多分…と思っていたのですが、幸久も同じように感じていたらしいので、間違いはないと思います」
「誰だ?」
周の問い掛けに朔耶は目を伏せた。
「そんなに問題がある相手か?」
「ある意味では」
「教えてくれ。口外はしない。ここだけの話にする」
薫の主治医としてこれからも周は紫霄に出入りする。知っていた方が良いような気がしていた。
「弟…です」
「どっちの?」
「月耶の方です。その、薫さまの事では御影は敵側と言えます。月耶自身はそうでなくても、三日月はそうなるでしょう。今の状態でしたら、月耶は中立でいられます。
でももし…」
「下河辺は紫霞宮家への忠義心の厚い奴だ。それがどれくらいかは、夕麿のもう一人の異母弟を見付けて来たのでもわかる」
「月耶も下河辺も板挟みになるな。
月耶はどうなんだ?」
「さあ…?あれはまだ子供ですから」
「なる程な。わかった。僕の胸の内に留めておこう」
「ありがとうございます」
人の想いはどこまでも柵しがらみを計算する事なく動く。夕麿に憧れ、夕麿を理想とした行長は、武への忠義心から教師になった。彼自身は学院都市に閉じ込められる身ではない。実際、週末に外へ出ているし夏休みも外部で過ごしている。彼の実家は武への忠義心を理解しているらしい。置かれた環境からの同性愛も、覚悟しているのかもしれない。
「朔耶、もう一つ訊いて良いか?」
「………三日月の事でしょう?あれは一見、掴み所がないですからね」
そう言って少し目を伏せた。
「周、三日月には気を付けてください。彼は真性のサディストです。彼が私たち兄弟の中で唯一、特別室の隣室にいないのはそういう理由です。生徒会長用の部屋には夜毎に、彼の奴隷になった生徒が何人も繋がれて夜を明かします」
「サディスト……」
義勝が雅久の為にそうなったのは知っていた。だがそれは彼の雅久への愛情だ。朔耶の口から語られた三日月の性癖とは違う。
「三日月の好みはどんな生徒だ?」
周は好みを把握しておくべきだと感じた。
「両極端です。気が強い……そうですね、結城 麗さんのような方。一方で幸久や薫さまも好みです。そして…周。あなたも夕麿さまも好みでしょうね」
「夕麿は過去にその手の奴の被害に合ってるからわかるが…」
「ええ。あなたにはわからないでしょう。三日月の奴隷に教師が一人います。あなたに似た性格の人物です」
本当は周を一人で紫霄に行かせたくない。三日月は危険過ぎる。
「気を付けてください。絶対に三日月と二人だけにならないようにしてください。幸久にもそう言ってあります」
それでも不安なのだ。
「夕麿さまにもどうか」
夕麿は薫にピアノを教えに多忙なスケジュールを縫って紫霄に足を運んでいる。
「夕麿か?あれに手を出したらただではすまないぞ? 下手をすれば御影家は破滅。三日月は学院都市の裏送りだ」
「学院都市の裏?」
「お前でも知らないか?」
周は学院都市の裏側に存在する男娼館の話をした。
「そんな場所が?」
朔耶の驚きに周はしっかりと頷いた。
「必ずしも相手を得られる訳ではないからな。都市に閉じ込められた者の需要があるからだ。犯罪者や都市生活で破綻した者がいる。
お前…10数年前の中等部の事件を知ってるか? それと10年前の特別室の事件は?」
「どちらも知っていますが…」
「どちらも同じ人間が起こした。被害者は……夕麿だ」
現在の紫霄の記録ではその部分は削除されていたのだ。
「では特別室の事件は……」
「賊が盗みに入った訳じゃない。夕麿に執着していた元中等部教師が彼を陵辱したんだ。その事件に透麿の母親とその一族が関与していた。武さまのお怒りはただではすまなかった。佐田川…それが透麿の母親の一族だが、81代と82代の生徒会が御園生の力を借りて破滅させた。
犯人の男は裏側へ投げ込まれた」
その言葉に朔耶は声が出なかった。
「一応、弟は可愛いだろう、お前も?武さまを怒らせるなと三日月に忠告しておけ」
「そんな事を言ったら逆効果です。夕麿さまに忠告してください」
難関であればある程、三日月は執拗に残酷に相手を追い詰める。
「わかった、言っておく」
武の耳に入らない形で話しておかなければ……周はそう思った。
周の部屋の中にはもう荷物はほとんど残っていなかった。朔耶と生活するマンションへと粗方移してしまっていた。
最初は朔耶を護院夫妻の元へ帰らせるつもりだった。自分はここを離れる訳にはいかないと思っていた。だが緊急の場合の最初の処置は自分でも出来ると義勝が言って出た。彼は先日の騒動での朔耶の心の傷を気にした。朔耶がずっと孤独に生きて来たのを理解して、周と一緒である事が必要だと判断したのだ。清方も同意した。
護院夫妻はもとより反対する気持ちはなかった。そこへ榊が申し出たのだ。通宗と同居するから今までの彼の部屋が空くと。
迷う周の背を押したのは武と夕麿だった。
周に幸せになって欲しいと。武の強い望みがどこから来ているのか、わからない周ではなかった。
周から夕麿を奪った。武の心には未だにその想いがある。間違いだと周は思うが武の気持ちは変わらない。自分が御園生邸を出て朔耶と生きるのを見れば、武の心の中の罪の意識は消えるかもしれない。そう思って踏み切ったのだ。
何よりも朔耶といたかった。状況や立場もあって離れて暮らす覚悟はしてはいた。だが本当は寂しかった。
朔耶は周の複雑な気持ちをわかっていた。だから一緒にいたいと強請った。精一杯、年下らしく甘えた。周にはもっと自分自身の事を考えて生きて欲しかった。忠義や献身はわかる。しかし周は余りにも自分を捨て過ぎていた。武や夕麿の言う周の幸せはきっとそこにある。周が自分の為に生きる人生は朔耶と共に歩いて行く未来であって欲しい。
朔耶は自分と周の結び付きが、周囲の希望の中で成り立ったのを感じていた。こうして空っぽに近くなった部屋は明日への切符のようなものだ。幾つかの家具は元々この部屋にあったものだと言う。今残っているのはそれとわずかな身の回りのものだけ。
明後日、薫と幸久が紫霄に戻った後、避難解除を雫が出す。それぞれの住居に帰る者と一緒に周と朔耶は御園生邸を出る。
久我家を出てロサンゼルスに留学。帰国してずっと住んでいたこの屋敷を出て行く。やっと周の止まっていた時間が動き出したのだ。過去と決別はしたが前に進めなかった周の明日がそこにはあった。
8月20日の夕方、薫と幸久はゲートのエントランスに榊と成美と一緒に降り立った。ゲートでは三日月と月耶が待っていたが薫は何も声を掛けなかった。代わりに榊が口を開いた。
「お二方の薫さまのご学友を解除になりました」
「それは如何なる理由によって、どなたの御命令ですか?」
三日月が詰め寄る。
「薫さまの保護者であらしゃる、紫霞宮武王さまのご意志です。ですが同時に今上陛下にお許しもいただいております」
既に警告の矢が放たれた事を周が今上に報告していた。その上での憂いを払うようにと勅書を周に渡されたのである。
榊は周から預けられたそれを、恭しい態度で取り出して示した。
「今現在のご学友は御園生 幸久君ただ一人。今後、新たに選ばれる方が出るかもしれませんが。よろしくご了承ください」
勅書まで出されては三日月は反論は出来ない。月耶は唇を拳を握り締めて薫に言った。
「薫の君はそれで良いのか!?」
「武兄さまと夕麿兄さまは、私の事を本当に考えてくださいますから」
あの無邪気で言いなりな薫の姿はもうなかった。薫は薫なりに御園生邸での経験で、自分が知らない事ばかりなのに気が付いた。発作を起こしている状態の武を見て、薫は僅かばかり自分の状況を理解した。
夕麿に言われた、自分と自分の好きな人を守るという意味。薫は少しずつ考え始めていた。そして朔耶が彼に謝罪したのだ。自分たち三兄弟が薫が何もわからないようにしていたのだと。
薫には三日月はよくわからない相手だった。ただ三兄弟を自分の拠るべきものと、ひたすらに無心に思っていた。数年後には自分が一人きりになってしまうのに。朔耶が病気の本当の治療もしてもらえず、自分に従って紫霄に残される事になっていた事実が三日月への不信を呼んだ。
周と一緒にいる朔耶は別人だった。今までの彼が彼自身の人生を捨てていた事実は周の口から薫に語られた。そういった事実を薫に話すようにと夕麿が二人に依頼したのだ。薫は今までの自分の生活がどんなものの上に成り立って来たのかをやっと理解したのだ。それを朔耶に強要していたのが御影家であった事も。だからもう御影家も三日月も信じられなかった。
「さあ、薫さま」
「はい。幸久、行こう」
「はい、薫さま」
幸久に手を差し出して歩き始めた。
御印を匂菫に決めてもらった。まだ毒を持つという意味はわからない。だから自分で学んでいきたい。好きな人だけじゃなく大切な人を守りたいから。
薫が本当の人生に、自らの歩みを踏み出した瞬間だった。
応援ありがとうございます!
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