蓬莱皇国物語Ⅵ~浮舟

翡翠

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思慕

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 昼休み生徒会室から一人で出て来た月耶は、講堂の階段に座って運動場と校舎を見ていた。あの日、缶ビールを呑みながら行長も、ここから運動場や校舎を見ていた。彼の目にはきっと在校していた頃の武の幻が見えていたのだろう。

 行長の想いは決して報われる事はない。武には夕麿がいて、あの二人の間には誰も入れはしない。それでも行長は10年もの歳月を、武への想いと共に生きて来た。武の為に学院にとどまり教師として内側から武の望みを叶える助けになる。彼への密かな愛情の証として行長は学院の教師を選んだ。

 月耶は今は行長への自分の感情を自覚していた。あの日、ベッドに組み敷かれて重ねられた唇。口腔を蹂躙じゅうりんした舌。

 そして……行長の口から出た名前。

 どんなに頑張っても武にはかなわない。月耶から見た武は、まさに仰ぎ見るような人物だった。自分より小柄なのに、彼は他者を圧倒する輝きを持っている。夕麿と並んだ姿はまさに皇家の威厳そのものだった。

 武を庇ってボウガンの矢に倒れた行長。生命をかけて決して報われない想いに生きる。あのまま死んだとしても、行長は後悔しなかった筈だ。 

 自分にそこまでの想いや強さがあるか。そう問われたら首を振るしかない。 

 朔耶が周と行って今また、三日月が秀一と行こうとしている。薫も葵と結婚して紫霞宮家に迎えられた。幸久は雅久の養子になった。ただ朔耶が元気になって幸せだから、これで良かったと思う。三日月も幸久も…薫も。その幸せを歓んでいる。 

 でも……気が付けば一人になってた。好きな想いは報われず、かと言って行長や成美の境地に至るには、月耶はまだまだ幼過ぎる。行き場のない想いを消化も昇華する事も出来ない。 

 膝を抱いて頭を額を乗せた。幸久と一緒の部屋に戻った為に、一人で泣く事も出来ない。だからここに逃げて来た。校舎から遠く離れたここは、昼休みには完全に無人だ。かつての武が唐橘の中や図書館裏に逃げ込んだように、月耶の逃げ場所はここだった。いや、ここで缶ビールを呑んでいた行長と鉢合わせしたという事は、彼にとってもここは逃げ場所だったのかもしれない。ここで10年前の記憶の中に戻り、武や夕麿たちと過ごした日々に逃げ込んでいたのかもしれない。 

 そこは月耶は知らない場所。 

 踏み込めない場所。 

 行長の聖域。 

 それが月耶には悲しい。もっと早く生まれたかったと思う。せめて生徒同士で行長と出会いたかった。 



 一方、行長も悩んでいた。あれから月耶の態度が一変してしまった。軽口が向けられる事はなくなり、視線すらそらされてしまう。行長が一人でいると以前は、どこからか現れて横に座って来た。今は近付いても来ない。大切な教え子を傷付けてしまった。酔っ払って武と間違え、無体な事をした。微かに残る記憶が行長を責め苛んでいる。

 しかも何があったのかを幸久が知っているらしい。月耶が目を背け行長から離れるのを見ると、非難するような眼差しが向けられる。

 胸が痛い。あの屈託のない笑顔を失ってしまった事が、行長の胸を締め付ける。ずっと武だけを想い続けて来たから、私生活はストイックそのものだった。寂しいと思った事はない。ずっと一人で武の為に生きていく。朔耶に出会う前の周のように、行長は武への想いを忠義と献身に変えて生きて来た。その事に満足していた。

 だがそれが今、揺らぎ始めていた。行長は未だ自覚していない。月耶の事を考えている自分が、既に武への想いから離脱している事に。

 同僚である長与 秀一が、三日月と共に生きて行くという。二人の関係は知っていた。三日月が異母兄 朔耶を想っているのも、何となく気が付いていた。三日月は秀一を捨てて、学院を出て行くと思っていた。だが彼は秀一と生きる道を選んだ。ふと見ると月耶は一人になっていた。

 幸久や薫との関係が改善されて、特別室の隣へ戻ったが…月耶だけが取り残された形になっている。その所為か彼は時々、姿を消す。そしてしばらく戻って来ない。

 何とかしなければ……教師としての役目だと行長は自分を言い聞かせていた。

 だがどこにいるのだろう?今日も昼食早々に姿を消してしまった。密の話だと生徒会副会長の引き継ぎは、ほぼ終了していると言う。

 5時限の開始のチャイムが鳴っても、戻って来ない月耶が心配になった。幸いにも行長の授業はない。特別棟から出て庭園をぐるりと回る。どこにも月耶の姿はない。

 この寒空の下、どこへ行ったのか。今日は昨日よりも気温が低い。制服だけでは身体を冷やしてしまう。 

 学院ではインフルエンザの予防接種を、10月と1月の2度実施してはいる。その所為かそれとも、隔離された環境の為か、10数年に亘って学院都市では罹患者が出ていない。

 ふとある事に気が付いた。独りになって思い出に浸る時、行長が必ず行く場所がある。 幾度となくそこで月耶と鉢合わせしている。 

 もしかしたら………同じ場所を、自分たちは選んでいるのではないのか。確信めいたものがあった。 

 行長は駆け出した。心の中はもう、月耶の事でいっぱいになっていた。 



「寒ッ」 

 出口のない考えにぐるぐるしていて、時間の経過をすっかり忘れてしまっていた。腕時計で確かめた時間は、5時限目がかなり前に始まっている事を告げている。身体が冷え切っていた。ノロノロと立ち上がった瞬間、大きなくしゃみをした。 

「教室に帰んないと…」 

 制服に着いた埃を払って階段を降り立た……と思ったら尻餅を付いて座り込んでしまった。妙に力が入らない。 

「あれ…?」 

 首を傾げながらもう一度、立ち上がってゆっくりと歩き出した。地面に足を着けて歩いているのに、フワフワした感覚がある。これには覚えがある。発熱した時の感覚だ。そう言えば何となく、昨日から怠い感じがあった。 

 今日、気分がいつになく滅入ったのは、これが原因だったかもしれない。今更気が付いても遅い。ここは校舎まではかなり距離がある。辿り着けるだろうか。普段から余り人が来ない場所でしかも今は授業中だ。当然ながら誰かの助けは望めない。自分がいない事には誰かが気付いているだろう。だがこんな場所にいるとは誰も思わない筈だ。 

「先生…下河辺先生…」 

 行長なら……彼が武を想っているのを知って、拒絶しているのは自分だ。探しに来る筈がない。それでも行長に助けに来て欲しかった。 

 真っ直ぐ歩けない足取りで道の半ば辺りまでやっと歩いた。けれどもう視界が歪み始めた。この気温の中で制服だ。倒れて長時間発見されなかったら…死ねかもしれない。月耶は怖くなった。最早、立っているのも辛い。

  いる筈のない行長を求めて手を差し伸べた。すると誰かが駆けて来る。 

 ああ…助かった。そう思ったら一気に力が抜けた。 

 倒れる……思った次の瞬間、月耶は抱き上げられていた。 

「月耶、しっかりしなさい」 

 来る筈のない人の声がした。嬉しくて嬉しくて月耶は縋り付いた。 



 抱き上げた月耶の身体は、熱いとしか言いようがなかった。行長の頭を過ぎ去った時の記憶が蘇る。9年前の夏、生徒会室で倒れた武が、やはり今の月耶のように熱い身体をしていた。

 まず周に連絡をする。次に三日月に連絡し、寮へと急ぐ。特別室の隣室はダメだ。感染性のある疾患の場合、薫や葵と接触させられない。幸久にもダメだ。けれど医務室も信用出来ない。

 附属病院へは周の判断を待ちたい。行長は彼を自分の部屋へ運んだ。行長は元は学院都市にある、職員用住居に住んでいた。だが、薫が高等部に進学して来て、武の要請で特別寮に移ったのだ。今の部屋は寮監用の部屋だったが、この建物が新築されてから廃止になった。故に何かの折に一時使用される事はあっても、ずっと空き部屋になっていたのだ。ここの寮監は生徒会執行部が兼任しているようなもので、実際に問題が度々起こった夕麿や武の在校時代にはきちんと作動していた。

 詰め襟を脱がして、まだ未使用のパジャマを出して着替えさせた。制服をハンガーに掛けた所で、周と三日月が一緒に駆け付けて来た。 

「教室に戻って来ないので、探しに行くと…私の目の前で…」 

 簡単な経緯と野外にずっといたらしい事を伝えた。 

「昨日辺りからくしゃみをしていましたので、今日、周先生に診ていただくように言ったのです」 

 三日月が様子をうかがいながら言う。 

 周は鞄からインフルエンザの検査キットを出した。綿棒で鼻腔奥の粘膜から体液を採集する。それを試験液の入った試験管に入れる。しばらくすると液が緑色に変化した。 

「インフルエンザだ。隔離の必要がある」 

 周は附属病院に救急車を回してくれるように要請した。閉鎖的な学院では感染症が一番恐ろしい。 

「下河辺、服を着替えて校舎に戻り、生徒会室や食堂、特待生教室をアルコールで消毒しろ。三日月、全員に手洗いとうがいを徹底させ、少しでも体調が悪い者は名乗りださせろ」 

 二人は返事をして飛び出した。救急車に月耶を運び込んでいる時に、三日月が高等部にインフルエンザが発生したと告げる校内放送が流れた。

 この年のインフルエンザはワクチンの効果が今一つだと報告されていた。当然、周は知っていたが紫霄の大学附属病院では把握していなかった。外部との接触を極端に嫌う場所……それがこんなところにも弊害を起こしていた。 

 三日月の校内放送で何件かの連絡があった。一般寮で高熱を発して寝込んでいる生徒が、数人いる事が確認されて早急に隔離された。こうなると周も学院外に出られなくなってしまった。そこで中高大全学部の医務室勤務の校医に命じて、一斉に生徒の健康チェックを実施した結果、罹患者がかなりいる事が判明した。 

 紫霄学院の歴史に於いてワクチンが、普及する以前の大量罹患以来であった。当然ながら特効薬が不足していた。 

 周は御園生 有人に直接連絡して、薬の調達を依頼した。御園生系列には薬を扱う企業があるのだ。特効薬は発症初期の段階で投与しなければ効果がない。周は兎に角、病院内にある薬を投与する指示を出した。如何にアメリカでロースクールを卒業し、既に博士号を取得しているとはいっても、周はまだまだ駆け出しの医師である。本来ならば全ての指揮を執るには経験不足だった。それでも附属病院の医師たちは古参も含めて、インフルエンザの治療経験がほとんどないのだ。 

 本来ならば薫や葵、それに中高の生徒会執行部に発症を抑える為の投薬を行うべきなのだ。だが特効薬の絶対的数が不足している。 

 周は悩んだ。薫や葵だけにでも投薬すべきかどうかを。周の迷いを悟ったように、夕麿から電話がかかって来た。 

「武さまからの伝言です。今は患者の治療を優先するように、と」 

「御意…感謝いたします」 

 これで迷いはなくなった。 

「薬ですが、現在出来得る限りの機関に、問い合わせてかき集めている最中です。まず関連企業にあったものからそちらに運ばせました」 

「感謝する」 

「周さん、学院を御願いします」 

「全力で対処させてもらう」 

 大袈裟に見えるだろう。数年前に新型インフルエンザが発生した時を思い出して欲しい。紫霄学院では毎年、生徒や教職員を初めとした者全てに、ワクチン接種を徹底しているのだ。その為にもう何十年も、罹患者が発生していなかった。当然ながら医師たち医療関係者は、インフルエンザを治療した経験がない。 

 知識はある。だがそれだけではどうにもならないのが医療行為である。当然ながら外部の病院に勤務する周は、インフルエンザの治療経験がある。ゆえに若く未だ新米の部類である周に、全てが圧し掛かって来た。 

 行長も罹患した月耶に直接触れている為に、隔離の対象になった。生徒たちが収容された病棟に部屋をもらい、月耶を含めた生徒たちの看病にあたる。看護師たちで気が回らぬ部分を、行長は懸命にサポートした。 

 御園生の懸命な努力で集められた特効薬が次々と投与されていく。回復していく生徒とすでに手遅れな状態まで進行している生徒とに別れる。 

 月耶も間に合った患者だった。熱は徐々に下がり回復をみせた。 

「月耶は向こうの部屋へ移しても大丈夫だな」 

 抗生剤で熱が下がり症状が改善しても、体内のウイルスはまだ完全に排出されない。ゆえに熱が下がっても1週間程度の隔離が必要で、これは法律によって定められている。症状の改善した生徒は別室に移し、次の患者が運び込まれる。 

 周が不眠不休で治療にあたる中、行長もほとんど眠らずに生徒たちを看病してまわった。 

「下河辺、少し休め。顔色が悪いぞ?」 

 そう言う周は本当に丈夫だと思った。身に着けている白衣こそよれよれだが、在学中に下級生を魅了した美しさは少しも損なわれてはいない。目の下の隈さえも彼の魅力を彩っているようにすら思えた。 

「お元気ですね、先輩は」 

「普段、救急にも対応してるからな。鍛え方が違うんだ。第一、医者が先に倒れたら困るだろうが」 

 それこそ彼が紫霞宮家の侍医として、最も心がけている事であろうと思った。 

「一応、罹患者のピークは過ぎた。しばらく時間をおいて次のピークが来る。休めるうちに休んでおけ」 

 最初の集団発症者が回復すると、しばらくは発症者が激変する。だがそこから感染した人間がタイムラグで現れるのだ。最も可能性があるのが行長だった。そろそろ潜伏期が終わって発症する時期だ。 

 今回のインフルエンザはワクチンの効果が低いだけでなく、異常に感染力が強いのも特徴だった。学院がこの程度で済んだのは周が内部にいた事。彼の指示を受けた三日月が的確に行動した事。夕麿の手配で必要な分量の特効薬が、さほど時間がかからずに揃えられ、生徒たちに行き渡った事。そして何よりも武が紫霞宮として、普段から学院に内部に強い影響を与えている事などがあった。 

 薬が間に合わなかった生徒もいるにはいたが、彼らも順調に回復をみせている。だからこそ周は行長を心配する。体力の消耗と看病によるストレスは、確実に彼の免疫力を下げている筈だった。 

「取り敢えず、これはお前の分だ、飲んでおけ」 

 3日分の薬を手渡した。 

「有り難うございます」 

 確かに限界だった。昨夜から食事が喉を通らない程、行長は疲労の局地にあった。自分に与えられた部屋に入って渡された薬を飲んでベッドに横になった。 

 一人になると月耶の顔が浮んだ……



「退~屈~」 

 そう呟いた言葉に同じ病室にいる全員が同意した。月耶には途中からの記憶がない。発熱しているらしいのを気付いてから先の記憶が曖昧なのだ。気が付いたら病院の大部屋で行長に看病されていた。喜んだのも一瞬で彼は生徒たちが、治療を受けている大部屋病室を幾つか行き来して、生徒たちの看病をしていたのだ。 

 自分だけを看病してくれていたらどんなに嬉しかっただろう。だが行長は教師で自分と接触したために学院に戻れない状態なのだと。そう看護師の一人に知らされて、月耶は申し訳なさで一杯になった。それでも高熱に苦しむ月耶の手を握り締めて、声をかけて安心させてくれた。 

 もう…やめよう 好きな事は止められなくても、追っかけ続けるのは無理だ。一人の生徒として行長の側にいよう。彼は自分には振り向かない。何故なら彼は自らの恋心を、花開かせない事を選んだ人間だから。想う人の為に尽くす時間を選んだ。叶わない夢よりも、一人の友として、忠臣として生きる道を選んだ。それが下河辺 行長なのだから。 

「先生…俺も俺も同じように生きる。薫の君の為に生きる」 

 誰もいないと思った場所で呟いた言葉は、偶然通りがかった周が耳にしていたのも気付かずに。周はそっとその場を離れたが、胸の痛みが治まらなかった。 

 あれはかつての自分の姿。夕麿を想い温もりよりも見守る愛を選んだ。幸いにも周は朔耶と出会った。自分が全身全霊で愛して、愛してくれる相手に出会った。 

 行長の想い…… 

 月耶の想い…… 

 誰もが相思相愛になれるわけではない。苦しみも悲しみも、抱いたままで生きる苦悩を知っているからこそ、二人を痛ましく想う。 

「八百万の神よ、願わくば彼らに最良の道を示したまえ。あんな想いは…彼らにこれ以上させたくはない」 

「周!」

 仮眠室に入って座り込んでいた周は、ドアの向こうから響いた声に立ち上がった。ドアを開けると朔耶が立っていた。

「何故、来た?」

「予防接種はしてます。γガンマ-グロブリンも打ちました。特効薬も服用しています。あなたが心配で来ました」

「………」

 朔耶に相談したいと思っていたのは事実だ。だが突然、その気持ちを悟ったかのように、彼がここに来るとは思わなかった。

「そろそろ私が必要でしょう、周?」

 10歳以上も年下の彼は時々こんな風に、周の感情に同調するかのような行動をする。誰かに相談する…という行為は周は清方以外にした事がない。清方にすら言えない事はたくさんあった。一人で悩み続けた記憶がある。朔耶は10歳も年下である事を時々失念してしまう。

「着替えを持って来ました。シャワーを浴びて、きちんと眠ってください」

「しかし…」

「山は越えたと聞きました。大丈夫です。ここは病院です」

 目の下に隈を作ってよれよれになった白衣を、着てる姿は朔耶には痛々しく見えた。周が如何に元気に見えても、全てがその肩にかかった状態に耐えたのだ。シャワーを浴びに行っている間に、朔耶はナースセンターに彼を休ませると連絡した。師長も心配していたらしく、緊急な事態にならない限り明日の朝までの休養を受け入れた。仮眠室では障りがある為、開いている個室を用意してくれると言う。周に病室の事をドア越しに告げて、彼の為に持って来た荷物を手に向かった。 

 間違いなく何かがあった。ドアを開けて朔耶を見た目は縋るような色をしていた。

 程なく入って来た周は目の前のベッドへ力なく座った。他の者の前では平気な顔をしていたが、本当は逃げ出してしまいたかったのだ。自分が指示を間違えばインフルエンザは人命を左右する事もある感染症だ。幸いに三日月が高等部生徒会長の権限をフルに使って、あらゆる場所を連日消毒させたのが効をそうした。際限なく感染者は出て来なかった。 

 それでも一割を越す患者数は、病院スタッフ総動員を余儀なくされた。過労と心労は免疫力を低下させる。周は彼ら病院スタッフの勤務スケジュールまで管理していたのだ。 

 その間も看病に手を貸す行長をみていた。周は朔耶に縋るように抱き付いて、つい先程聞いた月耶の言葉を伝えた。

「やめさせてくれ、朔耶」

「周?」

「僕たちは片想いでもまだ報われた。久留島も下河辺も想う相手への気持ちを、忠義に変えて自分に出来る事をしている。僕も武さまの笑顔が夕麿の笑顔だとわかっていたから、何もかもを捧げても良かった。

 だが月耶は……彼にとっての薫さまはそういう感情以外の相手だ。そんな事をしたら苦しみしか味合わない」

「周…」

 ただ想い続けるだけの苦しみと寂しさ。でも愛する人の為にという想いがあるなら、耐えて大地を踏み締める強さを保てる。想いが全てを支えるのだから。

 だが月耶は……

「弟の為に…あなたが苦しんでどうするのです、周」

 言葉とは裏腹に周のこの優しさを愛しく想う。

「ありがとうございます。あとで月耶と話してみます。ですからさあ休んでください」

「朔耶…抱いてくれ」

 極度の緊張を強いられた脳は、周を眠らせようとはしない。

「周、愛してます」

「朔耶…逢いたかった」

 そっと唇を重ねると周はゆっくりと唇を開いた。口腔を貪りながらシャツのボタンを外していく。周の指も朔耶の上着を脱がせ、シャツを脱がしていく。程なく二人は互いの肌を重ねあった。

「朔耶…あッ…そこ…ン…」

 いつもより強めの刺激を与えると、引き締まった身体が仰け反って戦慄く。朔耶を待ち望んでいたと……いうように貪欲に反応する。赤く色付いた乳首は、愛撫を受けて欲望に膨れる。

「周、いやらしいですね。ここはもうこんなですよ?」

「ああッ…朔耶…朔耶…もっと…もっと…」

 甘やかな声をあげて強請るの姿は、年齢差など関係ないと思う。周はただ朔耶に溺れ縋り付く。

 ロサンゼルスで夕麿への想いを終わらせた後、周は別に禁欲的に生きていたわけではない。帰国して今の病院へ就職してから、男女の別なく迫られ告白された。そのうちの何人かは恋愛的な付き合いをした。だが彼らとは続かなかった。母 浅子の影への怯えもあった。決定的に周を溺れさせなかったのは、彼に対する彼らの甘えだった。

 甘え縋られる事。ただそれだけでは周は疲れてしまうのだ。最初の相手が10歳上の清方で、彼が周を不憫に思って甘やかしたからかもしれない。雫が加わっての関係も、一方的に甘やかされ慰められた関係だった。武にしても夕麿にしても、周に甘えながらも甘えさせている部分があった。そうして支えなければならない程、周は苦悩の中で小さな歓びを見付ける生き方しか出来ない状態だったのだ。

 朔耶は本能的に周のそんな心を理解した人間だった。だから周は彼を求めたとも言える。朔耶も心臓病のもたらす死への恐怖に怯えて、誰にも縋れずに孤独に生きて来た。周に甘えながら彼の孤独を感じとっていたのだ。あんな形で始まってしまった関係だが、二人が互いに望んだのはささやかな幸せだった。

 朔耶は周のSOSが何故か離れていてもわかる。だから今回も駆け付けたのだ。周が自分を欲している気がしたのだ。来てみればその優しさゆえに、他者の哀しみを見て苦しむ姿があった。幼い頃の夕麿を助けようとした話は聞いている。きっと今のように、周は夕麿の苦しみを自分の事のように感じていたのだろう。

「愛してます、周。もっと感じてください」

 何もかもを忘れさせてやりたい。今は官能に溺れさせてやりたい。こんなにも彼が愛しい。

「朔耶…もっと…もっと…欲しい」

 何度も求める彼を可愛いとすら思う。誰にも渡したくない。こんな硝子細工のような心の彼を、誰かに触れさせて壊されたくない。相変わらず彼がモテるのが、朔耶には腹立たしく苛々する。

 周を上辺だけ見て本当に理解しない彼らが嫌いだ。だから嫉妬にすり替えて周には見せている。朔耶が嫉妬の心を抱いたのは本当は、清方と夕麿に対してだけだった。彼らは周にとって本当に特別だった。

 貴之に対して抱いた感情は怒り。多分、彼は本質的には周に似たタイプの人間だ。想う事を他の感情に変えて、ひたすらに忍んで生きる人間。それが一時的にでも周を揺り動かした。 けれども彼は結局、周に背を向けた。周の孤独を理解しなかった。理解出来た筈なのに。

 それが朔耶の感情だった。

 全ては周を愛しているから。周を守れるようになりたい。だから朔耶は周のSOSを感じる事が出来るのだとはわかってはいない。

 ただ純粋に周を想う。周が欲していた本当のものだった。朔耶が唯一かなわないと思う相手は義兄 清方だった。彼自身、雫と引き離されていた時の苦悩はあっただろう。だが、肉体的な関係が完全になくなった今でも、周は清方に対して強い思慕の念を抱いている。恋愛感情とは別のものだとわかっていても、大人の懐の大きさで周を精神的に受け止め、受け入れているのがわかる。

 自分に絶対に出来ない事。周の何もかもを自分のものにしたいのに、年齢ゆえに出来ないもどかしさがある。そんな感情さえも、子供っぽい独占欲だとはわかっている。わかっているが不安なのだ、朔耶には。自分がまだ子供だと自覚しているから。穏やかな顔で眠りに就いた周を見つめて、朔耶は年上の恋人にそっと口付けた。

「あなたの憂いを晴らして来ます」

 月耶と行長。双方と話をしなければならない。そうしないとこの件は解決しない。ダメならばダメで、ちゃんと行長に月耶を振って欲しかった。中途半端だから、月耶は苦しむのだ。行長が誰を想っていたとしても、けじめをつけてもらはなければ。

 恋愛には介入するべきじゃない。そう思うから今までは誰の恋愛にも関わらなかった。三日月が複数の愛人を部屋に引っ張り込んで、夜毎の饗宴を繰り返していても。月耶がいつまでも恋に淡い夢を見ていても。

 朔耶自身が全てを諦めて、生きて来た事もあった。全てが映画のように、自分の前を流れていく感覚だった。そんな彼を嘲笑うかのように、心臓発作だけが朔耶を揺さぶった。

 今の人生は周が与えてくれたものだ。だから、周の憂いは自分が取り去りに行く。周の悲しみも苦しみも、全部晴らしてやりたいから。

 朔耶は身仕度を済ませると、そっと周が眠る病室を出た。

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