【完結・R18】恋は一度、愛は二度

とっくり

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 セリーヌが屋敷を去ったその夜、ノエルは誰にも告げず、書斎にこもっていた。

 重厚な扉が静かに閉まると、まるで長く張り詰めていた糸がぷつりと切れたように、部屋の空気は静まり返った。窓辺のカーテンが夜風に揺れ、わずかに蝋燭の灯が揺らめく。

 机に腰を下ろしたノエルは、手元のグラスに赤ワインを注ぐ。ルビーのような深い色が、灯りを反射してゆらゆらと揺れた。

 口をつけたワインは、渋みよりも、どこか金属的な冷たさを含んでいた。けれど、それよりも胸を満たしたのは、言葉にできないほどの空虚さだった。

 静けさが、やけに耳に沁みた。

 ふと、何の気なしに立ち上がり、書棚の隅に手を伸ばす。手に取ったのは、もう何年も開くことのなかった一冊の本だった。革の表紙は乾ききり、角がすこしめくれていた。

 ページをめくる手は無意識だったが、ふと心に浮かんできたのは――たったひとつの名前だった。

 ――アリス。

 初めて彼女を見た、王立図書館の静かな午後の記憶が、鮮明によみがえった。

 差し込む光の中で、夢中で本を読んでいた栗色の髪の少女。
 棚の影に隠れるように、ひっそりと座っていた姿。

 ふと顔を上げたとき、柔らかな陽光に包まれた横顔が、息を呑むほど美しく見えた――そんな記憶さえ、今も鮮明だった。

 話したこともない。彼女の下の名前すら知らなかった。
 それでも、あのとき彼の心に灯った小さな火は、誰にも知られぬまま、ひっそりと燃え続けていた。

 彼女の身分も、粗末な身なりも、何もかもどうでもよかった。ただ、あの澄んだ瞳と、どこか寂しげな背中だけが、ノエルの記憶から消えることはなかった。


***

 一方――

 両親、シュヴァリエ公爵夫妻も、息子たちの“白い結婚”に気づいていた。

 名門として、息子夫婦に世継ぎを得られないことは致命的だった。
 結婚から三年が過ぎても子宝に恵まれないことから、夫妻はノエルに、第二夫人を迎えるよう打診した。

 けれど、ノエルはそれをきっぱりと断った。

 一度は引き下がった公爵夫妻だったがーー
 五年という結婚生活の中で、子も授からず、夫婦の間にぬくもりが感じられない。

 人前では礼節を保ち、仲睦まじいと誤魔化せていても、その冷えた空気は、両親から見たら明白だった。

 そんな息子夫婦の様子に、公爵夫妻はただ焦るだけではなかった。むしろ、静かな危機感と、ノエルという一人の人間への理解が、根底にあった。

「ノエル、結婚する前に、好きな女性がいたのではなくて?」

 ある晩、母・テレーゼ夫人はふと、ノエルにそう尋ねた。

 詮索するような声音ではなかった。
 むしろ、“好きな人がいるなら、その想いは否定しない”という気配すら滲んでいた。

 を認めるつもりはない――そういう建前は、当然ある。
 だが、もしその女性がある程度の素性を持ち、息子が本気で愛しているのであれば、仮に妾という立場でも、将来的に子を成す望みがあるのなら――反対はしない。

 そんな一縷の想いを、夫妻は抱いていた。

 しかし、ノエルは何も語らなかった。

「いえ。特には……」

 そう答えた彼の横顔は、穏やかに微笑んでいたが、どこか、遠い場所を見つめるように静かだった。

 ――彼は、はっきりと自覚していた。

 自分の胸にある想いが、憧れでも幻想でもなく、“恋”であることを。

 棚の影からのぞく横顔。微笑。
 読みかけのページに指を添える仕草。
 たった数度見かけただけの少女の面影が、心の深くに根を張って離れない。

 けれど、話したこともない少女に、
何年も想いを寄せている――それを誰が信じられるだろう。
 誰が、理解してくれるだろう。

(……気味が悪いと思われるに違いない)

 そう思ったから、何も言えなかった。
 語ろうとすればするほど、自分自身がどれほど滑稽に映るかを、彼はよくわかっていた。

 彼女はもう――歳の離れた男爵と結婚し
 男爵の妻として、日々を共に過ごしている。

 それでも――想いは消えなかった。

 どれだけ理性で「終わったこと」だと分かっていても、胸の奥に灯ったあの小さな火は、風に吹かれても消えることはなく、むしろ時間の中でじわじわと芯を熱くしていった。

 彼女の婚儀の報せを耳にしたとき、胸の奥で何かが崩れた。
 おそらく、自分でも気づかぬうちに、どこかで「いつか偶然、また出会えるかもしれない」と信じていたのだ。

 再会して、彼女がまだ独りでいれば……そんな淡い期待を、愚かにも手放せずにいた。

 けれど現実は、まるで残酷な天秤だった。彼女の人生の中に、自分の名は一度も刻まれていなかった。

 それでも。

 ノエルは、図書館に通うようになった。

 執務の合間、わずかな空き時間――気づけば足が向いている。
 書棚の間を静かに歩き、読みかけの本を開いては、また閉じる。
 無為な時間だと分かっていても、そこに彼女の面影を探さずにはいられなかった。

 思い出の中にしか存在しないはずの少女――
 どこかでふと現れてくれるような気がして、あの頃と同じ午後の光に満ちた閲覧室に立ち尽くした。

 アリスという名しか知らず、言葉も交わさなかった相手を、何年も想い続けているなど、傍から見れば滑稽だろう。

 だがノエルにとって、それは“誰でもいい”という慰めでは埋まらない、ただ一つの願いだった。

 ――もう一度、会えたなら。

 それだけでよかった。
 話しかける勇気がなくてもいい。
 声がかけられなくてもいい。
 彼女が変わらず本を読み、光の中に佇む姿を、もう一度、目にできれば――

 たったそれだけの願いが、どうしても捨てられなかった。


***

 そして、ある日。

 扉を開けた瞬間、聴こえてきた懐かしい声。

「やっぱり、アリス嬢ね!」

 息が止まるとは、まさにこのことだった。

 書架の向こう。
 涙を浮かべ、誰かの名前を語る栗色の髪の女性。――アリスだった。

 その声も、姿も、大人びた面差しも、あの頃とは違っていた。
 けれど、間違えようがなかった。

 彼女の「物語」は終わっていた。
 そこに、自分の名前は一度もなかった。

 でも――それでも。

(アリス……)

 たった一度でいい。
 君の名前を、この喉から出して、呼んでみたかった。
 君が、振り返る姿を、見てみたかった――。
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