【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

文字の大きさ
19 / 74

19

しおりを挟む
 夜が白みはじめたころ、ジャンヌは目を覚ました。枕元に残る体温と、シーツにほのかに香る彼の匂い。

 昨夜、自分のために触れてくれた手の感覚が、肌の下でやわらかくまた灯りはじめる。

 横を見ると、トーマスはもう起きたのだろう。

 寝台の片側は静かで、机の端に彼の癖字で短いメモが置かれていた――「帰りは遅い」。

 それだけの素っ気ない一行なのに、ジャンヌには不思議と冷たくは映らなかった。

 忙しい人だから、余計な言葉を足さないだけ。昨夜の確かさが、紙片の寡黙をやわらげてくれる。

 のろのろと身を起こすと、からだの内側に心地よい重みがあった。

 痛みというより、甘い疲労だった。
 立ち上がるとき少しだけ膝に力が入らず、思わず笑ってしまう。

 昨日の愛の行為を思い出すと、再び身体が熱くなるのがわかった。

 初めて、激しく全身が快楽に襲われた事実に、自分でも驚いた。まだ快楽の余韻を少し纏っていた。

 鏡の前で髪を結い直す。
 鎖骨のあたりに薄く残った跡を見つけ、指先でそっとなぞった。

 熱がさっと頰にのぼる。――愛された、という実感が、胸の奥をやさしく満たしていく。

 湯をわかし、彼が飲み残したカップを洗い、窓を少しだけ開ける。

 遠くの鐘の音、石畳を行き交う車輪のきしみ、焼きたてのパンの匂い。いつもと同じ朝のはずなのに、すべてがやわらかい光を帯びて見える。

 鼻歌が自然とこぼれるのを、自分でもおかしく思いながら止められない。

 テーブルに座り、パンの端をちぎって口に運ぶ。噛むほどに広がる小麦の甘さが、昨夜の記憶とまじり合う。

 彼の呼吸、確かめるように重ねられた視線、問いかける声――「気持ちいい?」。

 これまでとは違った。
 彼の愛撫が全身を蕩けさせた。

(私、ちゃんと応えられていたよね……)

 不安はゼロではない。
 けれど、その小さな影さえ今朝はやさしく溶ける。

 今までの自分は行為中は、戸惑い怯えるばかりだったが、昨日は違う。

 触れられるたびにほどけて、気づけば指先が彼の肩を探し、名前を呼んでいた。
 恥ずかしいのに、うれしくて、泣きたいほどの安堵があった。

――「愛される」という言葉を、本当の意味で身体が覚えはじめたのだと、ジャンヌは密かに思っていた。


***

 早朝、ジャンヌは女子寮に一度寄った後、着替えて出社した。
 
 席について、帳面を開く。数字が整然と並ぶ欄が、いつも以上にリズムよく埋まっていく。

 伝票の突合も予定より早く終わりそうだ。角を揃え、紐でとじる指先に、昨夜の余韻がふとよぎって、慌てて深呼吸をする。

 顔に出ていないだろうか――でも、もし出ていたとしても、今日は隠さない。
 隠す必要のない幸せがある、と初めて知ったのだ。

 昼休み、窓際の席で簡単なサンドイッチを食べながら、ジャンヌは小さな布袋をひらいた。

 今月は少し節約できたから、紺の細いリボンを一本買った。いつもより少し大人っぽい色だった。

 今夜、彼の部屋へ行く前に髪に結んでいこう。気づいてくれるだろうか。気づかなくても構わない。

 自分の中で、小さな「恋人らしさ」をひとつずつ重ねていけるなら、と胸を高鳴らせた。

 午後の鐘が鳴り、忙しさが戻る。
 人の出入り、呼び鈴、紙をめくる音。合間にぬるいお茶を一口含むと、ふっと心が落ち着いた。

 ――あの家にいたころ、幸せは自分の番には来ないとどこかで諦めていた。

 耐えることが「生きること」だと思っていた。それがどうだろう。
 今、手を伸ばせば届く場所に、あたたかい灯りがある。帰る場所と呼んでいい、と言っても罰は当たらないだろうか。

 夕刻、仕事を終えると、ジャンヌは少し足早になった。市場の角で蜂蜜を買い足し、パン屋で小さな焼き菓子を包んでもらう。

(今日は帰りが遅いとメモにあったけど…)


 ――昨夜のように、またを確かめ合えるだろうか。

 そう考えたとき、からだの深いところが静かに反応した。

 もう、怖くない。彼の手が触れたら、その先でどう呼吸をすればいいのか、どこに指を置けば自分がほどけていくのか、少しだけわかった気がする。

 恥ずかしい。でも嬉しい。愛されるということは、こんなふうに自分を大切にすることでもあるのだと、やっと理解できたと思っていた。

 幸せは、今ここにある。

 それを信じていい朝と、信じ続けたい夜が、確かにつながっているとジャンヌは感じていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

あなたの隣は私ではないけれど、それでも好きでいてもいいですか、レオナルド様

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢エリアーナには、三年間ずっと抱えてきた秘密がある。 婚約者であるヴァルフォード公爵・レオナルドへの、誰にも言えない恋心だ。 しかし彼の隣にいるのは、いつも幼馴染の伯爵令嬢・ソフィア。 儚げな笑顔と上目遣いで男性を虜にするあざとい彼女に、レオナルドも例外ではないようで—— 「レオ、私のこと嫌いにならないでね?」 「……そんなことにはならない」 また始まった二人の世界。

「妹の方が可愛い」と不倫夫に捨てられた私。どうぞ借金まみれの実家ごと引き取って。私が肩代わりしていた負債、すべてお二人に引き継いでおきました

唯崎りいち
恋愛
「お前より妹の方が可愛い」 不倫した夫は私を追い出し、略奪した妹と笑った。 どうぞ、その「可愛い妹」と地獄までお幸せに。 私が肩代わりしていた実家と店の多額の借金、すべてお二人に引き継いでおきましたから。 「財布」を失った元夫と、逃げ場を失った妹。 身の丈に合わない贅沢を望んだ寄生虫たちの、惨めな末路を特等席で眺めさせていただきます。

側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません!

花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」 婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。 追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。 しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。 夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。 けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。 「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」 フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。 しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!? 「離縁する気か?  許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」 凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。 孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス! ※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。 【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】

狂おしいほど愛しています、なのでよそへと嫁ぐことに致します

ちより
恋愛
 侯爵令嬢のカレンは分別のあるレディだ。頭の中では初恋のエル様のことでいっぱいになりながらも、一切そんな素振りは見せない徹底ぶりだ。  愛するエル様、神々しくも真面目で思いやりあふれるエル様、その残り香だけで胸いっぱいですわ。  頭の中は常にエル様一筋のカレンだが、家同士が決めた結婚で、公爵家に嫁ぐことになる。愛のない形だけの結婚と思っているのは自分だけで、実は誰よりも公爵様から愛されていることに気づかない。  公爵様からの溺愛に、不器用な恋心が反応したら大変で……両思いに慣れません。

龍王の番〜双子の運命の分かれ道・人生が狂った者たちの結末〜

クラゲ散歩
ファンタジー
ある小さな村に、双子の女の子が生まれた。 生まれて間もない時に、いきなり家に誰かが入ってきた。高貴なオーラを身にまとった、龍国の王ザナが側近二人を連れ現れた。 母親の横で、お湯に入りスヤスヤと眠っている子に「この娘は、私の○○の番だ。名をアリサと名付けよ。 そして18歳になったら、私の妻として迎えよう。それまでは、不自由のないようにこちらで準備をする。」と言い残し去って行った。 それから〜18年後 約束通り。贈られてきた豪華な花嫁衣装に身を包み。 アリサと両親は、龍の背中に乗りこみ。 いざ〜龍国へ出発した。 あれれ?アリサと両親だけだと数が合わないよね?? 確か双子だったよね? もう一人の女の子は〜どうしたのよ〜! 物語に登場する人物達の視点です。

どうぞお好きになさってください

みおな
恋愛
学園に入学して一ヶ月。 婚約者の第一王子殿下は言った。 「学園にいる間くらい自由にさせてくれないか。君が王太子妃になることは決定事項だ。だから、せめて学園に通う二年間は、僕は恋がしたい」 公爵令嬢はその綺麗な顔に冷酷な笑みを浮かべる。 「好きになさればよろしいわ」

夫が運命の番と出会いました

重田いの
恋愛
幼馴染のいいなづけとして育ってきた銀狼族の族長エーリヒと、妻ローゼマリー。 だがエーリヒに運命の番が現れたことにより、二人は離別する。 しかし二年後、修道院に暮らすローゼマリーの元へエーリヒが現れ――!?

前世で私を嫌っていた番の彼が何故か迫って来ます!

ハルン
恋愛
私には前世の記憶がある。 前世では犬の獣人だった私。 私の番は幼馴染の人間だった。自身の番が愛おしくて仕方なかった。しかし、人間の彼には獣人の番への感情が理解出来ず嫌われていた。それでも諦めずに彼に好きだと告げる日々。 そんな時、とある出来事で命を落とした私。 彼に会えなくなるのは悲しいがこれでもう彼に迷惑をかけなくて済む…。そう思いながら私の人生は幕を閉じた……筈だった。

処理中です...