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夜が白みはじめたころ、ジャンヌは目を覚ました。枕元に残る体温と、シーツにほのかに香る彼の匂い。
昨夜、自分のために触れてくれた手の感覚が、肌の下でやわらかくまた灯りはじめる。
横を見ると、トーマスはもう起きたのだろう。
寝台の片側は静かで、机の端に彼の癖字で短いメモが置かれていた――「帰りは遅い」。
それだけの素っ気ない一行なのに、ジャンヌには不思議と冷たくは映らなかった。
忙しい人だから、余計な言葉を足さないだけ。昨夜の確かさが、紙片の寡黙をやわらげてくれる。
のろのろと身を起こすと、からだの内側に心地よい重みがあった。
痛みというより、甘い疲労だった。
立ち上がるとき少しだけ膝に力が入らず、思わず笑ってしまう。
昨日の愛の行為を思い出すと、再び身体が熱くなるのがわかった。
初めて、激しく全身が快楽に襲われた事実に、自分でも驚いた。まだ快楽の余韻を少し纏っていた。
鏡の前で髪を結い直す。
鎖骨のあたりに薄く残った跡を見つけ、指先でそっとなぞった。
熱がさっと頰にのぼる。――愛された、という実感が、胸の奥をやさしく満たしていく。
湯をわかし、彼が飲み残したカップを洗い、窓を少しだけ開ける。
遠くの鐘の音、石畳を行き交う車輪のきしみ、焼きたてのパンの匂い。いつもと同じ朝のはずなのに、すべてがやわらかい光を帯びて見える。
鼻歌が自然とこぼれるのを、自分でもおかしく思いながら止められない。
テーブルに座り、パンの端をちぎって口に運ぶ。噛むほどに広がる小麦の甘さが、昨夜の記憶とまじり合う。
彼の呼吸、確かめるように重ねられた視線、問いかける声――「気持ちいい?」。
これまでとは違った。
彼の愛撫が全身を蕩けさせた。
(私、ちゃんと応えられていたよね……)
不安はゼロではない。
けれど、その小さな影さえ今朝はやさしく溶ける。
今までの自分は行為中は、戸惑い怯えるばかりだったが、昨日は違う。
触れられるたびにほどけて、気づけば指先が彼の肩を探し、名前を呼んでいた。
恥ずかしいのに、うれしくて、泣きたいほどの安堵があった。
――「愛される」という言葉を、本当の意味で身体が覚えはじめたのだと、ジャンヌは密かに思っていた。
***
早朝、ジャンヌは女子寮に一度寄った後、着替えて出社した。
席について、帳面を開く。数字が整然と並ぶ欄が、いつも以上にリズムよく埋まっていく。
伝票の突合も予定より早く終わりそうだ。角を揃え、紐でとじる指先に、昨夜の余韻がふとよぎって、慌てて深呼吸をする。
顔に出ていないだろうか――でも、もし出ていたとしても、今日は隠さない。
隠す必要のない幸せがある、と初めて知ったのだ。
昼休み、窓際の席で簡単なサンドイッチを食べながら、ジャンヌは小さな布袋をひらいた。
今月は少し節約できたから、紺の細いリボンを一本買った。いつもより少し大人っぽい色だった。
今夜、彼の部屋へ行く前に髪に結んでいこう。気づいてくれるだろうか。気づかなくても構わない。
自分の中で、小さな「恋人らしさ」をひとつずつ重ねていけるなら、と胸を高鳴らせた。
午後の鐘が鳴り、忙しさが戻る。
人の出入り、呼び鈴、紙をめくる音。合間にぬるいお茶を一口含むと、ふっと心が落ち着いた。
――あの家にいたころ、幸せは自分の番には来ないとどこかで諦めていた。
耐えることが「生きること」だと思っていた。それがどうだろう。
今、手を伸ばせば届く場所に、あたたかい灯りがある。帰る場所と呼んでいい、と言っても罰は当たらないだろうか。
夕刻、仕事を終えると、ジャンヌは少し足早になった。市場の角で蜂蜜を買い足し、パン屋で小さな焼き菓子を包んでもらう。
(今日は帰りが遅いとメモにあったけど…)
――昨夜のように、また愛を確かめ合えるだろうか。
そう考えたとき、からだの深いところが静かに反応した。
もう、怖くない。彼の手が触れたら、その先でどう呼吸をすればいいのか、どこに指を置けば自分がほどけていくのか、少しだけわかった気がする。
恥ずかしい。でも嬉しい。愛されるということは、こんなふうに自分を大切にすることでもあるのだと、やっと理解できたと思っていた。
幸せは、今ここにある。
それを信じていい朝と、信じ続けたい夜が、確かにつながっているとジャンヌは感じていた。
昨夜、自分のために触れてくれた手の感覚が、肌の下でやわらかくまた灯りはじめる。
横を見ると、トーマスはもう起きたのだろう。
寝台の片側は静かで、机の端に彼の癖字で短いメモが置かれていた――「帰りは遅い」。
それだけの素っ気ない一行なのに、ジャンヌには不思議と冷たくは映らなかった。
忙しい人だから、余計な言葉を足さないだけ。昨夜の確かさが、紙片の寡黙をやわらげてくれる。
のろのろと身を起こすと、からだの内側に心地よい重みがあった。
痛みというより、甘い疲労だった。
立ち上がるとき少しだけ膝に力が入らず、思わず笑ってしまう。
昨日の愛の行為を思い出すと、再び身体が熱くなるのがわかった。
初めて、激しく全身が快楽に襲われた事実に、自分でも驚いた。まだ快楽の余韻を少し纏っていた。
鏡の前で髪を結い直す。
鎖骨のあたりに薄く残った跡を見つけ、指先でそっとなぞった。
熱がさっと頰にのぼる。――愛された、という実感が、胸の奥をやさしく満たしていく。
湯をわかし、彼が飲み残したカップを洗い、窓を少しだけ開ける。
遠くの鐘の音、石畳を行き交う車輪のきしみ、焼きたてのパンの匂い。いつもと同じ朝のはずなのに、すべてがやわらかい光を帯びて見える。
鼻歌が自然とこぼれるのを、自分でもおかしく思いながら止められない。
テーブルに座り、パンの端をちぎって口に運ぶ。噛むほどに広がる小麦の甘さが、昨夜の記憶とまじり合う。
彼の呼吸、確かめるように重ねられた視線、問いかける声――「気持ちいい?」。
これまでとは違った。
彼の愛撫が全身を蕩けさせた。
(私、ちゃんと応えられていたよね……)
不安はゼロではない。
けれど、その小さな影さえ今朝はやさしく溶ける。
今までの自分は行為中は、戸惑い怯えるばかりだったが、昨日は違う。
触れられるたびにほどけて、気づけば指先が彼の肩を探し、名前を呼んでいた。
恥ずかしいのに、うれしくて、泣きたいほどの安堵があった。
――「愛される」という言葉を、本当の意味で身体が覚えはじめたのだと、ジャンヌは密かに思っていた。
***
早朝、ジャンヌは女子寮に一度寄った後、着替えて出社した。
席について、帳面を開く。数字が整然と並ぶ欄が、いつも以上にリズムよく埋まっていく。
伝票の突合も予定より早く終わりそうだ。角を揃え、紐でとじる指先に、昨夜の余韻がふとよぎって、慌てて深呼吸をする。
顔に出ていないだろうか――でも、もし出ていたとしても、今日は隠さない。
隠す必要のない幸せがある、と初めて知ったのだ。
昼休み、窓際の席で簡単なサンドイッチを食べながら、ジャンヌは小さな布袋をひらいた。
今月は少し節約できたから、紺の細いリボンを一本買った。いつもより少し大人っぽい色だった。
今夜、彼の部屋へ行く前に髪に結んでいこう。気づいてくれるだろうか。気づかなくても構わない。
自分の中で、小さな「恋人らしさ」をひとつずつ重ねていけるなら、と胸を高鳴らせた。
午後の鐘が鳴り、忙しさが戻る。
人の出入り、呼び鈴、紙をめくる音。合間にぬるいお茶を一口含むと、ふっと心が落ち着いた。
――あの家にいたころ、幸せは自分の番には来ないとどこかで諦めていた。
耐えることが「生きること」だと思っていた。それがどうだろう。
今、手を伸ばせば届く場所に、あたたかい灯りがある。帰る場所と呼んでいい、と言っても罰は当たらないだろうか。
夕刻、仕事を終えると、ジャンヌは少し足早になった。市場の角で蜂蜜を買い足し、パン屋で小さな焼き菓子を包んでもらう。
(今日は帰りが遅いとメモにあったけど…)
――昨夜のように、また愛を確かめ合えるだろうか。
そう考えたとき、からだの深いところが静かに反応した。
もう、怖くない。彼の手が触れたら、その先でどう呼吸をすればいいのか、どこに指を置けば自分がほどけていくのか、少しだけわかった気がする。
恥ずかしい。でも嬉しい。愛されるということは、こんなふうに自分を大切にすることでもあるのだと、やっと理解できたと思っていた。
幸せは、今ここにある。
それを信じていい朝と、信じ続けたい夜が、確かにつながっているとジャンヌは感じていた。
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