20 / 74
20
しおりを挟む
出社したその朝、トーマスは一人、廊下を歩いていた。
資料を抱えて歩いていると、不意に背後から甘やかな声が響いた。
「トーマス君」
振り返った瞬間、そこに立っていたのはハルディだった。大きな瞳に艶を宿し、彼女はゆるやかに近づいてくる。
「この前の手紙……返事のことなんだけど」
「あ、はい……その、返事を――」
慌てて口を開いたトーマスの唇に、ハルディの人差し指がそっと触れた。白く細い指先が彼の言葉を封じる。
「返事は…そうね、今度の休みのデートの時に聞かせて?」
低く囁いたあと、ハルディはトーマスの唇に触れていた自分の指を離したあと、わざとらしく柔らかく口づけた。
「……!」
その艶めかしい仕草に、トーマスは固まった。頭が真っ白になり、呼吸さえ忘れそうになる。
ハルディは意味深に微笑み、自身のふっくらとした唇を舐めたあと、トーマスの耳元で囁いた。
「ふふっ。私、ウブな男の子大好きよ。――デート、楽しませてね?」
そう告げると、踵を返し、揺れる腰つきで廊下を去っていった。
残されたトーマスは、全身の熱を持て余し、呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。
*
午後になっても、彼の心は乱れっぱなしだった。
図面を広げても線は揺れ、寸法の数字が目に入っても頭に入らない。仲間に話しかけられても上の空で、気づけばため息ばかりが零れていた。
(……今日、ハルディに返事をして、食事にでも行くつもりだったのに……)
胸に残るのは、ハルディの艶めかしい指の感触と、甘やかに微笑む横顔ばかり。
仕事にならず、定時を迎えるとトーマスは早々に資料を片づけて帰宅準備をしていた。
今朝、ジャンヌに書いたメモを思い出す。
――遅くなるー
そう書きながらも、寄り道する気にはなれなかった。結局その足で、まっすぐ自分の部屋へと帰った。
*
部屋の扉を開けると、そこにはいつものようにジャンヌがいた。
夕食は、まだ仕込みの途中で彼女は申し訳なさそうに顔を上げる。
「トーマス、おかえりなさい!
今日は遅くなるって聞いていたから、
夕飯、まだできていなくて……ごめんなさい」
ジャンヌは、落ち着いたベージュのエプロンを身につけて、髪には新しく買った紺色のリボンが結ばれている。
彼に気づいてほしくて選んだものだった。
けれど、トーマスの目にはそれが映っていなかった。
ハルディの官能的な誘惑が脳裏に焼き付いている。
胸の奥で欲望だけが膨れ上がり、抑えきれない衝動に駆られていた。
「……ジャンヌ」
囁くような掠れ声を出すと同時に、玄関先で彼女の肩を抱き寄せた。
目を見開き驚くジャンヌを見つめながら、トーマスは激しい口づけを押し付けた。
彼女の小さな身体を腕に閉じ込め、息も荒く唇を求め、口内を弄る。
「んっ、んん。と、トーマス……?」
彼女の困惑に揺れる瞳を見ても、理性はもう戻らなかった。
ハルディの影に火を点けられた欲望は、ジャンヌを求める形でしか解き放てない。
ジャンヌは一瞬だけ戸惑いを覚えた。
けれど、その腕に込められる熱の強さに逆らえず、羞恥を胸に抱きながらも受け入れてしまう。
トーマスの頭の中は、昼間に見たハルディの艶めかしい笑みと、あの指先の感触でいっぱいだった。
彼女に触れられた指先を思い出すたび、熱が込み上げ、理性を奪っていく。
そして、その欲望の行き先を、ジャンヌの身体にぶつけていた。
「ジャンヌ……頼む、今すぐ……」
彼女の耳元で熱に浮かされたように、トーマスは囁いた。
その声音は、彼女を愛するからではなく、ただ自分の衝動を抑えきれない苦しさからにじみ出たものだった。
ジャンヌは必死に笑顔を作ろうとした。
――愛されているのだから。
そう思い込もうとしながらも、胸の奥ではほんの少しの冷たい違和感があった。
(……どうして、こんなに急いでいるの?)
考えながらも、身体は彼の求めに応えるように熱を帯びていく。
昨晩、ようやく快楽を知り始めた彼女の体は、抗えない反応を返してしまうのだ。
(また、愛してもらえたら…)
(昨晩のように愛し合ったら、この違和感は無くなるわ、きっと)
トーマスに抱かれた悦びを知ったジャンヌは、行為に縋ることで、自分を納得させようとしていた。
「ええ、トーマス。私もあなたが欲しいわ」
「あぁ、ジャンヌっ」
再び、覆い被さるように抱きしめられた。
その瞬間ーー
トーマスの首筋から甘い香りが漂った。
(……この匂い、私の知らないもの……)
ジャンヌの心は凍りついた。
彼が誰と、どこで、何をしてきたのか。
問いただすことはできなかった。怖かった。
ただ唇を噛み、彼に抱きすくめられるままに、胸の奥で冷たい予感を噛み殺すしかなかった。
トーマスはそんなジャンヌの心の揺らぎに気づきもしない。
彼にとって今必要なのは「欲望のはけ口」でしかなく、目の前の幼馴染を抱くことで、自分の不安と焦燥を覆い隠しているにすぎなかった。
「……やっぱり、ジャンヌがいてくれて良かった」
身体を繋いたあと、無邪気にそう呟くトーマス。
満ち足りた表情を浮かべるトーマスと、涙をこらえながら笑顔を作るジャンヌ――
二人の思いの温度差は、静かに、しかし確実に広がっていった。
資料を抱えて歩いていると、不意に背後から甘やかな声が響いた。
「トーマス君」
振り返った瞬間、そこに立っていたのはハルディだった。大きな瞳に艶を宿し、彼女はゆるやかに近づいてくる。
「この前の手紙……返事のことなんだけど」
「あ、はい……その、返事を――」
慌てて口を開いたトーマスの唇に、ハルディの人差し指がそっと触れた。白く細い指先が彼の言葉を封じる。
「返事は…そうね、今度の休みのデートの時に聞かせて?」
低く囁いたあと、ハルディはトーマスの唇に触れていた自分の指を離したあと、わざとらしく柔らかく口づけた。
「……!」
その艶めかしい仕草に、トーマスは固まった。頭が真っ白になり、呼吸さえ忘れそうになる。
ハルディは意味深に微笑み、自身のふっくらとした唇を舐めたあと、トーマスの耳元で囁いた。
「ふふっ。私、ウブな男の子大好きよ。――デート、楽しませてね?」
そう告げると、踵を返し、揺れる腰つきで廊下を去っていった。
残されたトーマスは、全身の熱を持て余し、呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。
*
午後になっても、彼の心は乱れっぱなしだった。
図面を広げても線は揺れ、寸法の数字が目に入っても頭に入らない。仲間に話しかけられても上の空で、気づけばため息ばかりが零れていた。
(……今日、ハルディに返事をして、食事にでも行くつもりだったのに……)
胸に残るのは、ハルディの艶めかしい指の感触と、甘やかに微笑む横顔ばかり。
仕事にならず、定時を迎えるとトーマスは早々に資料を片づけて帰宅準備をしていた。
今朝、ジャンヌに書いたメモを思い出す。
――遅くなるー
そう書きながらも、寄り道する気にはなれなかった。結局その足で、まっすぐ自分の部屋へと帰った。
*
部屋の扉を開けると、そこにはいつものようにジャンヌがいた。
夕食は、まだ仕込みの途中で彼女は申し訳なさそうに顔を上げる。
「トーマス、おかえりなさい!
今日は遅くなるって聞いていたから、
夕飯、まだできていなくて……ごめんなさい」
ジャンヌは、落ち着いたベージュのエプロンを身につけて、髪には新しく買った紺色のリボンが結ばれている。
彼に気づいてほしくて選んだものだった。
けれど、トーマスの目にはそれが映っていなかった。
ハルディの官能的な誘惑が脳裏に焼き付いている。
胸の奥で欲望だけが膨れ上がり、抑えきれない衝動に駆られていた。
「……ジャンヌ」
囁くような掠れ声を出すと同時に、玄関先で彼女の肩を抱き寄せた。
目を見開き驚くジャンヌを見つめながら、トーマスは激しい口づけを押し付けた。
彼女の小さな身体を腕に閉じ込め、息も荒く唇を求め、口内を弄る。
「んっ、んん。と、トーマス……?」
彼女の困惑に揺れる瞳を見ても、理性はもう戻らなかった。
ハルディの影に火を点けられた欲望は、ジャンヌを求める形でしか解き放てない。
ジャンヌは一瞬だけ戸惑いを覚えた。
けれど、その腕に込められる熱の強さに逆らえず、羞恥を胸に抱きながらも受け入れてしまう。
トーマスの頭の中は、昼間に見たハルディの艶めかしい笑みと、あの指先の感触でいっぱいだった。
彼女に触れられた指先を思い出すたび、熱が込み上げ、理性を奪っていく。
そして、その欲望の行き先を、ジャンヌの身体にぶつけていた。
「ジャンヌ……頼む、今すぐ……」
彼女の耳元で熱に浮かされたように、トーマスは囁いた。
その声音は、彼女を愛するからではなく、ただ自分の衝動を抑えきれない苦しさからにじみ出たものだった。
ジャンヌは必死に笑顔を作ろうとした。
――愛されているのだから。
そう思い込もうとしながらも、胸の奥ではほんの少しの冷たい違和感があった。
(……どうして、こんなに急いでいるの?)
考えながらも、身体は彼の求めに応えるように熱を帯びていく。
昨晩、ようやく快楽を知り始めた彼女の体は、抗えない反応を返してしまうのだ。
(また、愛してもらえたら…)
(昨晩のように愛し合ったら、この違和感は無くなるわ、きっと)
トーマスに抱かれた悦びを知ったジャンヌは、行為に縋ることで、自分を納得させようとしていた。
「ええ、トーマス。私もあなたが欲しいわ」
「あぁ、ジャンヌっ」
再び、覆い被さるように抱きしめられた。
その瞬間ーー
トーマスの首筋から甘い香りが漂った。
(……この匂い、私の知らないもの……)
ジャンヌの心は凍りついた。
彼が誰と、どこで、何をしてきたのか。
問いただすことはできなかった。怖かった。
ただ唇を噛み、彼に抱きすくめられるままに、胸の奥で冷たい予感を噛み殺すしかなかった。
トーマスはそんなジャンヌの心の揺らぎに気づきもしない。
彼にとって今必要なのは「欲望のはけ口」でしかなく、目の前の幼馴染を抱くことで、自分の不安と焦燥を覆い隠しているにすぎなかった。
「……やっぱり、ジャンヌがいてくれて良かった」
身体を繋いたあと、無邪気にそう呟くトーマス。
満ち足りた表情を浮かべるトーマスと、涙をこらえながら笑顔を作るジャンヌ――
二人の思いの温度差は、静かに、しかし確実に広がっていった。
151
あなたにおすすめの小説
あなたの隣は私ではないけれど、それでも好きでいてもいいですか、レオナルド様
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢エリアーナには、三年間ずっと抱えてきた秘密がある。
婚約者であるヴァルフォード公爵・レオナルドへの、誰にも言えない恋心だ。
しかし彼の隣にいるのは、いつも幼馴染の伯爵令嬢・ソフィア。
儚げな笑顔と上目遣いで男性を虜にするあざとい彼女に、レオナルドも例外ではないようで——
「レオ、私のこと嫌いにならないでね?」
「……そんなことにはならない」
また始まった二人の世界。
「妹の方が可愛い」と不倫夫に捨てられた私。どうぞ借金まみれの実家ごと引き取って。私が肩代わりしていた負債、すべてお二人に引き継いでおきました
唯崎りいち
恋愛
「お前より妹の方が可愛い」
不倫した夫は私を追い出し、略奪した妹と笑った。
どうぞ、その「可愛い妹」と地獄までお幸せに。
私が肩代わりしていた実家と店の多額の借金、すべてお二人に引き継いでおきましたから。
「財布」を失った元夫と、逃げ場を失った妹。
身の丈に合わない贅沢を望んだ寄生虫たちの、惨めな末路を特等席で眺めさせていただきます。
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。
【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】
狂おしいほど愛しています、なのでよそへと嫁ぐことに致します
ちより
恋愛
侯爵令嬢のカレンは分別のあるレディだ。頭の中では初恋のエル様のことでいっぱいになりながらも、一切そんな素振りは見せない徹底ぶりだ。
愛するエル様、神々しくも真面目で思いやりあふれるエル様、その残り香だけで胸いっぱいですわ。
頭の中は常にエル様一筋のカレンだが、家同士が決めた結婚で、公爵家に嫁ぐことになる。愛のない形だけの結婚と思っているのは自分だけで、実は誰よりも公爵様から愛されていることに気づかない。
公爵様からの溺愛に、不器用な恋心が反応したら大変で……両思いに慣れません。
龍王の番〜双子の運命の分かれ道・人生が狂った者たちの結末〜
クラゲ散歩
ファンタジー
ある小さな村に、双子の女の子が生まれた。
生まれて間もない時に、いきなり家に誰かが入ってきた。高貴なオーラを身にまとった、龍国の王ザナが側近二人を連れ現れた。
母親の横で、お湯に入りスヤスヤと眠っている子に「この娘は、私の○○の番だ。名をアリサと名付けよ。
そして18歳になったら、私の妻として迎えよう。それまでは、不自由のないようにこちらで準備をする。」と言い残し去って行った。
それから〜18年後
約束通り。贈られてきた豪華な花嫁衣装に身を包み。
アリサと両親は、龍の背中に乗りこみ。
いざ〜龍国へ出発した。
あれれ?アリサと両親だけだと数が合わないよね??
確か双子だったよね?
もう一人の女の子は〜どうしたのよ〜!
物語に登場する人物達の視点です。
どうぞお好きになさってください
みおな
恋愛
学園に入学して一ヶ月。
婚約者の第一王子殿下は言った。
「学園にいる間くらい自由にさせてくれないか。君が王太子妃になることは決定事項だ。だから、せめて学園に通う二年間は、僕は恋がしたい」
公爵令嬢はその綺麗な顔に冷酷な笑みを浮かべる。
「好きになさればよろしいわ」
夫が運命の番と出会いました
重田いの
恋愛
幼馴染のいいなづけとして育ってきた銀狼族の族長エーリヒと、妻ローゼマリー。
だがエーリヒに運命の番が現れたことにより、二人は離別する。
しかし二年後、修道院に暮らすローゼマリーの元へエーリヒが現れ――!?
前世で私を嫌っていた番の彼が何故か迫って来ます!
ハルン
恋愛
私には前世の記憶がある。
前世では犬の獣人だった私。
私の番は幼馴染の人間だった。自身の番が愛おしくて仕方なかった。しかし、人間の彼には獣人の番への感情が理解出来ず嫌われていた。それでも諦めずに彼に好きだと告げる日々。
そんな時、とある出来事で命を落とした私。
彼に会えなくなるのは悲しいがこれでもう彼に迷惑をかけなくて済む…。そう思いながら私の人生は幕を閉じた……筈だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる