【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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 出社したその朝、トーマスは一人、廊下を歩いていた。

 資料を抱えて歩いていると、不意に背後から甘やかな声が響いた。

「トーマス君」

 振り返った瞬間、そこに立っていたのはハルディだった。大きな瞳に艶を宿し、彼女はゆるやかに近づいてくる。

「この前の手紙……返事のことなんだけど」
「あ、はい……その、返事を――」

 慌てて口を開いたトーマスの唇に、ハルディの人差し指がそっと触れた。白く細い指先が彼の言葉を封じる。

「返事は…そうね、今度の休みのデートの時に聞かせて?」
 低く囁いたあと、ハルディはトーマスの唇に触れていた自分の指を離したあと、わざとらしく柔らかく口づけた。

「……!」

 そのなまめかしい仕草に、トーマスは固まった。頭が真っ白になり、呼吸さえ忘れそうになる。

 ハルディは意味深に微笑み、自身のふっくらとした唇を舐めたあと、トーマスの耳元で囁いた。

「ふふっ。私、ウブな男の子大好きよ。――デート、楽しませてね?」

 そう告げると、踵を返し、揺れる腰つきで廊下を去っていった。

 残されたトーマスは、全身の熱を持て余し、呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。



 午後になっても、彼の心は乱れっぱなしだった。 

 図面を広げても線は揺れ、寸法の数字が目に入っても頭に入らない。仲間に話しかけられても上の空で、気づけばため息ばかりが零れていた。

(……今日、ハルディに返事をして、食事にでも行くつもりだったのに……)

 胸に残るのは、ハルディの艶めかしい指の感触と、甘やかに微笑む横顔ばかり。

 仕事にならず、定時を迎えるとトーマスは早々に資料を片づけて帰宅準備をしていた。

 今朝、ジャンヌに書いたメモを思い出す。

――遅くなるー

 そう書きながらも、寄り道する気にはなれなかった。結局その足で、まっすぐ自分の部屋へと帰った。




 部屋の扉を開けると、そこにはいつものようにジャンヌがいた。

 夕食は、まだ仕込みの途中で彼女は申し訳なさそうに顔を上げる。

「トーマス、おかえりなさい!
今日は遅くなるって聞いていたから、
夕飯、まだできていなくて……ごめんなさい」

 ジャンヌは、落ち着いたベージュのエプロンを身につけて、髪には新しく買った紺色のリボンが結ばれている。

 彼に気づいてほしくて選んだものだった。
けれど、トーマスの目にはそれが映っていなかった。

 ハルディの官能的な誘惑が脳裏に焼き付いている。
 胸の奥で欲望だけが膨れ上がり、抑えきれない衝動に駆られていた。

「……ジャンヌ」

 囁くような掠れ声を出すと同時に、玄関先で彼女の肩を抱き寄せた。
 目を見開き驚くジャンヌを見つめながら、トーマスは激しい口づけを押し付けた。

 彼女の小さな身体を腕に閉じ込め、息も荒く唇を求め、口内を弄る。

「んっ、んん。と、トーマス……?」

 彼女の困惑に揺れる瞳を見ても、理性はもう戻らなかった。

 ハルディの影に火を点けられた欲望は、ジャンヌを求める形でしか解き放てない。

 ジャンヌは一瞬だけ戸惑いを覚えた。
 けれど、その腕に込められる熱の強さに逆らえず、羞恥を胸に抱きながらも受け入れてしまう。

 トーマスの頭の中は、昼間に見たハルディの艶めかしい笑みと、あの指先の感触でいっぱいだった。

 彼女に触れられた指先を思い出すたび、熱が込み上げ、理性を奪っていく。
そして、その欲望の行き先を、ジャンヌの身体にぶつけていた。

「ジャンヌ……頼む、今すぐ……」
 彼女の耳元で熱に浮かされたように、トーマスは囁いた。

 その声音は、彼女を愛するからではなく、ただ自分の衝動を抑えきれない苦しさからにじみ出たものだった。

 ジャンヌは必死に笑顔を作ろうとした。
――愛されているのだから。

そう思い込もうとしながらも、胸の奥ではほんの少しの冷たい違和感があった。

(……どうして、こんなに急いでいるの?)

 考えながらも、身体は彼の求めに応えるように熱を帯びていく。

 昨晩、ようやく快楽を知り始めた彼女の体は、抗えない反応を返してしまうのだ。

(また、愛してもらえたら…)

(昨晩のように愛し合ったら、この違和感は無くなるわ、きっと)

 トーマスに抱かれた悦びを知ったジャンヌは、行為に縋ることで、自分を納得させようとしていた。

「ええ、トーマス。私もあなたが欲しいわ」
「あぁ、ジャンヌっ」

 再び、覆い被さるように抱きしめられた。

 その瞬間ーー
 トーマスの首筋から甘い香りが漂った。

(……この匂い、私の知らないもの……)
 
 ジャンヌの心は凍りついた。

 彼が誰と、どこで、何をしてきたのか。
 問いただすことはできなかった。怖かった。

 ただ唇を噛み、彼に抱きすくめられるままに、胸の奥で冷たい予感を噛み殺すしかなかった。

 トーマスはそんなジャンヌの心の揺らぎに気づきもしない。

 彼にとって今必要なのは「欲望のはけ口」でしかなく、目の前の幼馴染を抱くことで、自分の不安と焦燥を覆い隠しているにすぎなかった。

「……やっぱり、ジャンヌがいてくれて良かった」

 身体を繋いたあと、無邪気にそう呟くトーマス。

 満ち足りた表情を浮かべるトーマスと、涙をこらえながら笑顔を作るジャンヌ――

 二人の思いの温度差は、静かに、しかし確実に広がっていった。


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