【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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 翌朝のジャンヌは、いつも通りに髪をまとめ、紺の細いリボンを結んだ。

 寮の水場で冷たい水を頬に当てると、昨夜のざわめきが薄紙一枚ぶんだけ遠のく。

 トーマスから漂った甘い香り。
 もう香るはずがないのに、ふいに鼻腔を掠めた気がして、胸の奥が小さく波立つ。

 余計なことは考えない――そう決め、彼女はいつもより早く商会へ向かった。

 商会の帳場の窓を開け、帳簿を整え、羽根ペンの先を切り直す。手を動かしている間は、思考が静まる。

 注文票の転記、納品書の照合、出納の端数合わせ。細かな作業を矢継ぎ早に片づけていると、背後から声がした。

「ジャンヌ、頑張ってるわね」
 ケイシーが机に片肘をつき、目を細める。

「誤記もない。おかげで朝の集計が早いわ」

「ありがとうございます」

 自然に笑みが返った。褒められると、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。

「でも、あまり突っ走らないで。仕事は逃げないけど、体力は逃げるわよ?」
 珍しく釘を刺され、ジャンヌはうなずく。

「……はい。気をつけます」

 返事をしながらも、指先は止めなかった。止めれば、考えが戻ってくる気がしたからだ。

 やがて朝礼の鐘が鳴り、倉庫口の前に人が集う。支配人が報せを読み上げた。

「隣国への長期出張に出ていたライリーが、本日より復帰する」

 小さな拍手が広がり、人垣の向こうで背の高い青年が一礼した。

 栗色の髪は短く整えられ、涼やかな灰青の瞳が真っ直ぐ前を見る。
 派手さはないのに、端正な顔立ちと落ち着いた立ち姿が、不思議と場のざわめきを和らげた。

(あの人が……)

 解散のあと、マイルズがライリーの肩を叩き、ケイシーも混ざって三人で笑っている。

 同期だけに通じる気安さがちらりと覗き、ジャンヌは小さく会釈して持ち場に戻った。



 その日の午後、帳場にライリーが現れた。

「君がジャンヌだね? ケイシーとマイルズから“期待の新人”って聞いたんだ。
新規の取引先の台帳を立ち上げたい。手を貸してくれる?」

 丁寧だが無駄のない物言い。声の調子も落ち着いていて、要点だけがすっと届く。

「はい。喜んで」

 ジャンヌは即答した。今の自分には、仕事がある方が良かった。
 必要事項を端的に示すライリーの説明はわかりやすく、作業は驚くほど滑らかに進んだ。

「助かる。ここ、数字の癖が強いだろう? 君の合わせ方が早い」

「ありがとうございます。帳票の並びが綺麗なので、迷いませんでした」

 短い往復だけれど、誠実なやり取り。
ジャンヌには「真面目で、少しだけ無愛想に見える人」という第一印象だけが残り、特別な感情は湧かない。

 ただ、仕事がしやすい人だ――それだけははっきりと刻まれた。




 仕事を終えたジャンヌの足は、自然とトーマスの部屋へ向かっていた。

「遅くなっちゃって、ごめんね」

 扉を開け、外套を脱ぎながら笑う。息は浅く、肩で呼吸を整える。

 会えた安堵の方が、疲れより勝っていた。

「来てくれたのか。……助かるよ」

 トーマスは机の図面をまとめ、目頭を指で押した。笑ってはいるのに、どこか遠い。

 視線はジャンヌの手許ではなく、部屋のどこかを彷徨っている。

「ちょっとだけ待ってて。すぐ作るから」

 彼の様子に気づきながらも、ジャンヌは台所に行き、調理に取り掛かる。

 やがて、温かい煮込み料理が完成し、食事を共にする。

「おいしい。…ほんと、君が来てくれると助かる」

 素っ気なく聞こえるかもしれないその言葉は、何度も彼から向けられてきたものだ。
 
 飾り気のない感謝は、喉元で甘く絡み、嬉しさと痛みをごちゃ混ぜにする。

「よかった」

 短く返しながら、横顔を盗み見る。睫毛の影が深く、言葉になる手前で唇がときおり躊躇う。

 何を考えているのかを問いたい気持ちが喉までせり上がるが、声音になる前に引っ込めた。

 食器を洗い終えると、トーマスがふいに近づく。背中が壁に触れ、髪へ大きな手が差し込まれる。

 口づけは急で、熱い。求められている――そう思えば、強張りはすぐほどけた。

「……ジャンヌ、今日は泊まっていく?」

 低く名前を呼ばれただけで、足元がほどける。

「うん……泊まっていくね」

 抱きしめられながら、彼の衣から微かな香りがしないか確かめる。

――今日は香らない。

 胸の奥で冷たい指先が触れたような感覚を、ジャンヌは呑み込み、彼の肩に腕を回した。縋るように、ほどけない結び目を確かめるみたいに。

「助かる。朝、起きられるかわからないし」

 彼の口元に笑みが戻る。それで十分だった。理由は何だっていい。傍にいられるなら、今日を明日に繋げられる。

 夜、彼が求めると、ジャンヌは応じた。
彼と愛を交わし、快楽に身を委ねている時は、何も考えられなくなって楽だった。

 心の奥で絡まる不安は、唇や身体の温度で覆い隠せると信じた。

 彼の腕がきつく締まり、息苦しさといっしょに、妙に安心する感覚が胸骨の内側に広がる。

 求められている。だから大丈夫。
 ――そうやって自分を説き伏せる。

「トーマス、私、幸せだよ…」

 身体を繋げたあと、小さな声で囁くと、トーマスは「よかった」と言って目を閉じた。

 彼から返ってきた言葉が、どこか遠くから届く。目尻が熱くなるのを枕に押しつけ、息を整える。

「ねえ、今度の休みは?」

 勇気を出してトーマスに尋ねると、彼は少し間を置いて肩をすくめた。

「用事があって。…ごめん、また今度にしよう」

「そう、よね。忙しいものね」

 言葉は柔らかく、指先は小さく震えた。   
 代わりに笑顔を一枚、重ねる。笑顔はいくつあっても邪魔にならない。そう信じることで、息が続いた。

 彼が眠ったあと、また起き上がる。
 明日の彼のために、服を畳み、床に落ちた紙片を拾い、火を落とす。

 窓の外では、夜更けの風が石畳を撫でた。

 テーブルの端に、紺色のリボンをそっと置く。ほどけかけた結び目を結び直し、彼の視界に入る場所へ移す。

 いつか気づいたとき、何も言わずに笑ってもらえたら、それでいい。

「おやすみ、トーマス」

 二度目の囁きは、最初よりも静かだった。

 縋るという言葉は、声にすると脆くなる。だから今日も、所作にして結び直す。靴ひもを。布団の端を。自分の心を。

――ほどけないように、何度でも。



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