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その頃――。
ジャンヌは冷めた夕食の前で、芯の短くなった灯をぼんやり見つめていた。
(……遅いな)
今日は休日で出かけると言っていた。
トーマスからは「遅くなる」という短い書き置きだけが机の上に残されていた。
行き先も用件も知らない。胸騒ぎだけが膨らんでいく。
(せめて、どこへ行くのかだけでも聞いておけばよかった)
深くため息をつく。
恋人同士なら、お互いの予定を把握していてもいい――そんな考えが頭をもたげる。
開く気配のない玄関扉に視線を向けた。
いつもなら、遅くとも扉は開いていたが、今夜は風の音だけが聞こえる。
(事件とか、事故でなければいいけど)
言い訳は、夜半を過ぎるほど重くなる。
鳥が鳴き、空が白み始めても扉は動かなかった。
ジャンヌの胸騒ぎは、朝靄よりも濃くなっていく。もう一度ため息をつき、髪をまとめて紺のリボンを結ぶ。
椅子から立ち上がり、洗面所へ向かった。鏡の前で笑顔の練習をして、寮を出た。
*
商会に出社したジャンヌは、冴えない顔色を手の速さで上書きした。
帳簿を取り出し、転記、照合、予定の整理。影より先に指が動く。
「ジャンヌ、頼みたいことがある」
帳場にライリーが現れた。
刈り揃えた栗色の短髪に灰青の瞳。背筋がすっと伸び、無駄のない所作で澄んだ声は、まっすぐ要件だけを射抜いてくる。
「新規先の台帳を分けたい。税の扱いが違うから、列を増やして見やすく整理したいんだ」
「承知しました。摘要を分けて転記ルールを書き出します。今日中に原紙を作ります」
一を言えば十を汲む理解と段取りだった。ライリーは内心、舌を巻く。他の新人のような余計な私語は一切ない。
「無理はしないこと」
「大丈夫です」
迷いのない返事。頼もしさと同時に、少し危うい速さ――何かを誤魔化す時の速度だ、とライリーは感じた。
「助かる」
そうだけ告げて持ち場へ戻る。
*
昼休み。
食堂の隅で、ライリー、マイルズ、ケイシーの同期三人が皿を並べていた。気安い会話が続く。
「今回の出張、長かったな。二年くらいか?」
マイルズがサラダをつつきながら訊く。
「二年ちょっと。隣国で新規店舗を立ち上げられたのは、いい経験になったよ」
「いいわね。やりがいがあるでしょう」
ケイシーが水で喉を潤し、言葉を継いだ。
「私もチャンスがあれば行きたいわ」
「君みたいな有能な人が抜けると本店は痛手だろ」
「おや、それは安易に“俺は有能じゃない”と言ってないか?」
「ち、違う違う!君のルートは出世コースだ」
戯けるライリーに吹き出し、慌てて訂正するマイルズ。
「ケイシーが抜けると、女性陣の士気が下がるというか」
「私は監視役を任された覚えはないのだけれどね」
ケイシーが片目をつぶって肩をすくめる。ライリーがふと思い出したように口を開いた。
「君の担当のジャンヌ、すごくいいね。一度言えば先回りして手を打つ。数字も速い」
「今年の新人では群を抜いてるわ」
「頭も回るし気も利く。続けていけばケイシーみたいになる」
「私を例に出さないで」
ケイシーが笑う。
「ただ、仕事に打ち込みすぎているのが気になる」
ライリーが低く言う。
「打ち込むこと自体は悪くない。新人なら早く覚えたい気持ちもあるだろうし、彼女なりの信念かもしれない。――ただ」
「ただ?」とケイシー。
「もし“自分の感情を誤魔化す逃げ場”として打ち込んでいるなら、やがて潰れるかもしれない」
「……彼女さ、良い恋愛をしていない気がするんだ。潰れないといいんだけど」
マイルズは、笑顔を貼りつけたまま冴えない顔色で働くジャンヌを思い出しながら言った。
「ケイシー、相談に乗れば?」
「私は恋愛相談がいちばん苦手」
「同感」
ライリーも頷く。
「じゃあマイルズが」
二人に振られ、マイルズは顔をしかめて首を振った。
「勘弁して。後輩女子と二人きりで相談なんて、変な噂が立ったら困る」
三人は苦笑し、結論を一つにした。
「……見守るしかないね」
ちょうどそのとき、食堂の扉が軋む。
ジャンヌが入ってきた。三人に気づかず、窓辺の奥へ。静かに腰を下ろし、器を両手で包む。所作は乱れず、表情は薄い。
(大丈夫か)
ライリーは一瞬だけ視線を遣り、すぐ戻した。今は――見守る。それがいちばんいい。
ジャンヌは冷めた夕食の前で、芯の短くなった灯をぼんやり見つめていた。
(……遅いな)
今日は休日で出かけると言っていた。
トーマスからは「遅くなる」という短い書き置きだけが机の上に残されていた。
行き先も用件も知らない。胸騒ぎだけが膨らんでいく。
(せめて、どこへ行くのかだけでも聞いておけばよかった)
深くため息をつく。
恋人同士なら、お互いの予定を把握していてもいい――そんな考えが頭をもたげる。
開く気配のない玄関扉に視線を向けた。
いつもなら、遅くとも扉は開いていたが、今夜は風の音だけが聞こえる。
(事件とか、事故でなければいいけど)
言い訳は、夜半を過ぎるほど重くなる。
鳥が鳴き、空が白み始めても扉は動かなかった。
ジャンヌの胸騒ぎは、朝靄よりも濃くなっていく。もう一度ため息をつき、髪をまとめて紺のリボンを結ぶ。
椅子から立ち上がり、洗面所へ向かった。鏡の前で笑顔の練習をして、寮を出た。
*
商会に出社したジャンヌは、冴えない顔色を手の速さで上書きした。
帳簿を取り出し、転記、照合、予定の整理。影より先に指が動く。
「ジャンヌ、頼みたいことがある」
帳場にライリーが現れた。
刈り揃えた栗色の短髪に灰青の瞳。背筋がすっと伸び、無駄のない所作で澄んだ声は、まっすぐ要件だけを射抜いてくる。
「新規先の台帳を分けたい。税の扱いが違うから、列を増やして見やすく整理したいんだ」
「承知しました。摘要を分けて転記ルールを書き出します。今日中に原紙を作ります」
一を言えば十を汲む理解と段取りだった。ライリーは内心、舌を巻く。他の新人のような余計な私語は一切ない。
「無理はしないこと」
「大丈夫です」
迷いのない返事。頼もしさと同時に、少し危うい速さ――何かを誤魔化す時の速度だ、とライリーは感じた。
「助かる」
そうだけ告げて持ち場へ戻る。
*
昼休み。
食堂の隅で、ライリー、マイルズ、ケイシーの同期三人が皿を並べていた。気安い会話が続く。
「今回の出張、長かったな。二年くらいか?」
マイルズがサラダをつつきながら訊く。
「二年ちょっと。隣国で新規店舗を立ち上げられたのは、いい経験になったよ」
「いいわね。やりがいがあるでしょう」
ケイシーが水で喉を潤し、言葉を継いだ。
「私もチャンスがあれば行きたいわ」
「君みたいな有能な人が抜けると本店は痛手だろ」
「おや、それは安易に“俺は有能じゃない”と言ってないか?」
「ち、違う違う!君のルートは出世コースだ」
戯けるライリーに吹き出し、慌てて訂正するマイルズ。
「ケイシーが抜けると、女性陣の士気が下がるというか」
「私は監視役を任された覚えはないのだけれどね」
ケイシーが片目をつぶって肩をすくめる。ライリーがふと思い出したように口を開いた。
「君の担当のジャンヌ、すごくいいね。一度言えば先回りして手を打つ。数字も速い」
「今年の新人では群を抜いてるわ」
「頭も回るし気も利く。続けていけばケイシーみたいになる」
「私を例に出さないで」
ケイシーが笑う。
「ただ、仕事に打ち込みすぎているのが気になる」
ライリーが低く言う。
「打ち込むこと自体は悪くない。新人なら早く覚えたい気持ちもあるだろうし、彼女なりの信念かもしれない。――ただ」
「ただ?」とケイシー。
「もし“自分の感情を誤魔化す逃げ場”として打ち込んでいるなら、やがて潰れるかもしれない」
「……彼女さ、良い恋愛をしていない気がするんだ。潰れないといいんだけど」
マイルズは、笑顔を貼りつけたまま冴えない顔色で働くジャンヌを思い出しながら言った。
「ケイシー、相談に乗れば?」
「私は恋愛相談がいちばん苦手」
「同感」
ライリーも頷く。
「じゃあマイルズが」
二人に振られ、マイルズは顔をしかめて首を振った。
「勘弁して。後輩女子と二人きりで相談なんて、変な噂が立ったら困る」
三人は苦笑し、結論を一つにした。
「……見守るしかないね」
ちょうどそのとき、食堂の扉が軋む。
ジャンヌが入ってきた。三人に気づかず、窓辺の奥へ。静かに腰を下ろし、器を両手で包む。所作は乱れず、表情は薄い。
(大丈夫か)
ライリーは一瞬だけ視線を遣り、すぐ戻した。今は――見守る。それがいちばんいい。
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