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夕暮れ、広場の喧噪がゆっくり薄まっていく。
提灯に火が入り、石畳に温かな橙が落ち始めたころ、ライリーが示した小路の先に、木の扉の小さな食堂があった。
看板には麦の穂と湯気の立つ鍋の絵。窓辺にはローズマリーの鉢。
「ここ、よく来るんだ。派手さはないけど、煮込み料理がとても美味い」
「素敵……。落ち着いたお店ですね、ライリーさん」
扉を押すと、芳ばしいパンの匂いと、香草を溶かしたスープの湯気が迎えてくれる。
磨かれた木の卓、壁には素朴な風景画。隅で年配の楽士がゆるい調子で弦を爪弾いていた。
二人は窓際の席に腰を下ろした。
給仕が運んできた木板の献立を、ライリーが半分ほどこちらへ滑らせる。
「君が好きなの物を何でも頼んでくれ」
「ありがとうございます。たくさんメニューがあって、迷いますね…」
二人は木板の献立をにこやかに覗きこんだ。
「迷ったら、全部頼めばいいさ」
「えっ、それは…食べきれませんよ?」
「俺が食べるから、問題ないよ。好き嫌いは全くないし。何でも食べる」
ライリーの自信満々な様子に、ジャンヌは笑いを堪える。
「ほんとに?じゃあ……焦げたパンは?」
「食べる。香ばしいってことにする」
「冷めた煮込みは?」
「どちらかというと、猫舌だから冷めてる方が食べやすいな」
「………ふふっ、それでは、苦い会計のミスは?」
「甘い修正で包む。――今日みたいにに?」
ジャンヌは思わず吹き出した。
笑い声が自分の口からこぼれること自体が久しぶりで、くすぐったかった。ライリーも笑っていた。
「ライリーさんにお任せします。おすすめを」
「了解。前菜のサラダに羊の煮込みと根菜のポタージュ。あと、黒パンに山羊のチーズ。飲み物は?」
「温かいハーブティーを……」
「俺はコーヒーにする」
注文を終えると、窓の外を行き交う人の影が、灯の明滅に合わせて長く伸びたり短くなったりした。
さっきまで耳を満たしていた太鼓や笛の音は遠のき、代わりに食器が触れ合う小さな音が心地よく響く。
「昼間の勘定所、落ち着いてたな」
「いえ……途中で、手が止まってしまって」
「見た。――止まって、また動いた。大事なのはそこだ。問題ない」
「……ありがとうございます」
ハーブティーが先に届いた。
湯気に乗って、レモンバームとタイムのやさしい香りが鼻先をくすぐる。
カップを両手で包むと、指先から胸の奥にまで温かさがじわりと降りていった。
「白のリボン、似合ってる」
「えっ……」
「昼の天幕でも思ったんだ。人混みってすぐ迷うだろ?でも君には“いつもの結び目”がある。あれを見ると、君が君でいられる目印だって分かる」
「……目印、ですか?そんなふうに考えたこと、なかったです」
「そう。ほどけたら結び直す。それでまた進める」
ジャンヌは指先でそっと結び目を確かめた。ほどけかけた心を、もう一度きゅっと結ぶみたいに。
料理が運ばれてくる。
深い器の羊の煮込みはハーブが香り、根菜は角が取れるほどやわらかい。
黒パンにチーズをのせ、湯気を立てるポタージュをひと匙。ジャンヌの頬に、自然と血色が戻っていく。
「……おいしい」
「だろ?」
「身体の中が、あたたかくなる味です」
「店主の自慢だ。“腹が満ちれば心は整う、心が整えば数字も揃う”ってな」
「いい言葉」
少し食べたところで、ジャンヌはカップを持ち直した。
「ライリーさん。今日は、いろいろと助けてくださって……本当にありがとうございます。お祭りの勘定所、最初は怖くて」
「よくやり切った。新人が簡単に積める場数じゃない。自信を持っていい」
「……そうでしょうか」
「ああ。君の力になる経験だ」
短い断言に、胸の奥がふっと軽くなる。言葉の形というより、その確かな温度が、肩に残っていた緊張をほどいていった。
器が空になっていくにつれて、会話は小さなものにほどけた。
祭で見かけた珍しい仮面の話、
露店の蜂蜜菓子、
ライリーの妹が子どものころ熱を出すと決まって猫を布団に連れ込んでいたこと、
ジャンヌが田舎で覚えた保存食の工夫――。
どの話題も、肩で笑える軽さと、ふと胸の奥を温める芯の両方を持っていた。
軽口に、また笑いがこぼれる。笑いながら、ジャンヌはふと気づく――今夜、自分はまだ一度も涙の気配を喉に感じていない。
会計を済ませて外に出ると、夜気が頬を撫でた。
祭の灯は遠くに点々と残り、石畳には露が光っている。二人は寮へ続く道を、半歩分だけ距離を保って歩いた。
角を曲がるたび、街灯の影が交差して、足元に二人の影が寄ったり離れたりする。
石畳の端でジャンヌが躓いた所で、ライリーの手が反射的に伸びた。
指先がかすかに触れる。ふたりとも、同時に息を呑んで手を引っ込め、そして、同時に小さく笑った。
「……ありがとうございます」
「段差、見えづらいからな」
寮の前に着く。玄関灯の下で、ジャンヌはトーマスにお礼を伝える。
「本当に、楽しかったです。久しぶりに、ゆっくりと食事を味わえました」
「それは店がいいからだな」
「いえ。ライリーさんのおかげです」
言い切ったあと、頬が熱くなる。
ライリーはわずかに目を細め、からかいも気取りもない調子で言った。
「じゃあ、また行こう。次は……焼きたてのパンがうまい店、知ってる」
「はい。――あの、今度は、私も何か作っていきます。保存食の話、したでしょう? 林檎のコンポート、得意なんです」
「楽しみにしてる」
短い約束は、軽く結ばれた小さなリボンみたいに、夜気の中でほどけずに留まった。
「おやすみなさい、ライリーさん」
「ああ。おやすみ、ジャンヌ」
扉が閉まる直前、ジャンヌは自分の胸に手を当てた。静かだった。
痛みが消えたわけではないのに、今夜は泣きたくないと思えた。
ライリーと過ごした時間のあいだだけ、胸の中に明かりが灯っていたからだ。
提灯に火が入り、石畳に温かな橙が落ち始めたころ、ライリーが示した小路の先に、木の扉の小さな食堂があった。
看板には麦の穂と湯気の立つ鍋の絵。窓辺にはローズマリーの鉢。
「ここ、よく来るんだ。派手さはないけど、煮込み料理がとても美味い」
「素敵……。落ち着いたお店ですね、ライリーさん」
扉を押すと、芳ばしいパンの匂いと、香草を溶かしたスープの湯気が迎えてくれる。
磨かれた木の卓、壁には素朴な風景画。隅で年配の楽士がゆるい調子で弦を爪弾いていた。
二人は窓際の席に腰を下ろした。
給仕が運んできた木板の献立を、ライリーが半分ほどこちらへ滑らせる。
「君が好きなの物を何でも頼んでくれ」
「ありがとうございます。たくさんメニューがあって、迷いますね…」
二人は木板の献立をにこやかに覗きこんだ。
「迷ったら、全部頼めばいいさ」
「えっ、それは…食べきれませんよ?」
「俺が食べるから、問題ないよ。好き嫌いは全くないし。何でも食べる」
ライリーの自信満々な様子に、ジャンヌは笑いを堪える。
「ほんとに?じゃあ……焦げたパンは?」
「食べる。香ばしいってことにする」
「冷めた煮込みは?」
「どちらかというと、猫舌だから冷めてる方が食べやすいな」
「………ふふっ、それでは、苦い会計のミスは?」
「甘い修正で包む。――今日みたいにに?」
ジャンヌは思わず吹き出した。
笑い声が自分の口からこぼれること自体が久しぶりで、くすぐったかった。ライリーも笑っていた。
「ライリーさんにお任せします。おすすめを」
「了解。前菜のサラダに羊の煮込みと根菜のポタージュ。あと、黒パンに山羊のチーズ。飲み物は?」
「温かいハーブティーを……」
「俺はコーヒーにする」
注文を終えると、窓の外を行き交う人の影が、灯の明滅に合わせて長く伸びたり短くなったりした。
さっきまで耳を満たしていた太鼓や笛の音は遠のき、代わりに食器が触れ合う小さな音が心地よく響く。
「昼間の勘定所、落ち着いてたな」
「いえ……途中で、手が止まってしまって」
「見た。――止まって、また動いた。大事なのはそこだ。問題ない」
「……ありがとうございます」
ハーブティーが先に届いた。
湯気に乗って、レモンバームとタイムのやさしい香りが鼻先をくすぐる。
カップを両手で包むと、指先から胸の奥にまで温かさがじわりと降りていった。
「白のリボン、似合ってる」
「えっ……」
「昼の天幕でも思ったんだ。人混みってすぐ迷うだろ?でも君には“いつもの結び目”がある。あれを見ると、君が君でいられる目印だって分かる」
「……目印、ですか?そんなふうに考えたこと、なかったです」
「そう。ほどけたら結び直す。それでまた進める」
ジャンヌは指先でそっと結び目を確かめた。ほどけかけた心を、もう一度きゅっと結ぶみたいに。
料理が運ばれてくる。
深い器の羊の煮込みはハーブが香り、根菜は角が取れるほどやわらかい。
黒パンにチーズをのせ、湯気を立てるポタージュをひと匙。ジャンヌの頬に、自然と血色が戻っていく。
「……おいしい」
「だろ?」
「身体の中が、あたたかくなる味です」
「店主の自慢だ。“腹が満ちれば心は整う、心が整えば数字も揃う”ってな」
「いい言葉」
少し食べたところで、ジャンヌはカップを持ち直した。
「ライリーさん。今日は、いろいろと助けてくださって……本当にありがとうございます。お祭りの勘定所、最初は怖くて」
「よくやり切った。新人が簡単に積める場数じゃない。自信を持っていい」
「……そうでしょうか」
「ああ。君の力になる経験だ」
短い断言に、胸の奥がふっと軽くなる。言葉の形というより、その確かな温度が、肩に残っていた緊張をほどいていった。
器が空になっていくにつれて、会話は小さなものにほどけた。
祭で見かけた珍しい仮面の話、
露店の蜂蜜菓子、
ライリーの妹が子どものころ熱を出すと決まって猫を布団に連れ込んでいたこと、
ジャンヌが田舎で覚えた保存食の工夫――。
どの話題も、肩で笑える軽さと、ふと胸の奥を温める芯の両方を持っていた。
軽口に、また笑いがこぼれる。笑いながら、ジャンヌはふと気づく――今夜、自分はまだ一度も涙の気配を喉に感じていない。
会計を済ませて外に出ると、夜気が頬を撫でた。
祭の灯は遠くに点々と残り、石畳には露が光っている。二人は寮へ続く道を、半歩分だけ距離を保って歩いた。
角を曲がるたび、街灯の影が交差して、足元に二人の影が寄ったり離れたりする。
石畳の端でジャンヌが躓いた所で、ライリーの手が反射的に伸びた。
指先がかすかに触れる。ふたりとも、同時に息を呑んで手を引っ込め、そして、同時に小さく笑った。
「……ありがとうございます」
「段差、見えづらいからな」
寮の前に着く。玄関灯の下で、ジャンヌはトーマスにお礼を伝える。
「本当に、楽しかったです。久しぶりに、ゆっくりと食事を味わえました」
「それは店がいいからだな」
「いえ。ライリーさんのおかげです」
言い切ったあと、頬が熱くなる。
ライリーはわずかに目を細め、からかいも気取りもない調子で言った。
「じゃあ、また行こう。次は……焼きたてのパンがうまい店、知ってる」
「はい。――あの、今度は、私も何か作っていきます。保存食の話、したでしょう? 林檎のコンポート、得意なんです」
「楽しみにしてる」
短い約束は、軽く結ばれた小さなリボンみたいに、夜気の中でほどけずに留まった。
「おやすみなさい、ライリーさん」
「ああ。おやすみ、ジャンヌ」
扉が閉まる直前、ジャンヌは自分の胸に手を当てた。静かだった。
痛みが消えたわけではないのに、今夜は泣きたくないと思えた。
ライリーと過ごした時間のあいだだけ、胸の中に明かりが灯っていたからだ。
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