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朝の帳場は、まだ暖炉の火が細く、紙とインクの匂いが静かに満ちていた。
ジャンヌは机に腰を下ろし、深く一度だけ息を吸った。
前髪を耳にかけ、白い細リボンの結び目にそっと触れてから、羽根ペンを動かした。筆圧は軽く、線はまっすぐ――ペン先は、思ったより素直に紙の上を滑った。
「おはよう、ジャンヌ。早いわね」
背後から、ケイシーに声を掛けられる。
「おはようございます。体調も戻ったので、いつも通りに起きられるようになりました。」
少しだけ張りのある声で返せたのが、自分でも分かった。
伝票の束を手前へ寄せ、入荷記録の照合を始めた。ページを繰る音が、いつもの朝の音に重なった。
*
昼の鐘が鳴ると、帳場の雰囲気はふっと軽くなる。
ジャンヌは食堂へ移動し、木の盆を抱えて、列に並んだ。温かいスープの湯気に顔を撫でられ、少しだけ肩の力が抜ける。
空いた席を探していると、奥の窓辺で手が上がった。
「ジャンヌ、こっち! 席、空いてるよ」
マイルズが手を振る。ケイシーも目元を少し綻ばせた。その隣には、書類束を小脇に置いたライリーの姿もある。
「ご一緒しても……よろしいですか?」
「もちろん。座って」
ケイシーが隣の椅子を引き、ジャンヌは静かに腰掛けた。
「体調は良さそうだな」
水をひと口含んでから、ライリーが口を開く。
「はい。完全に良くなりました」
ジャンヌは控えめに微笑んで答えた。
「若いから回復が早いね! 俺なら一週間は寝込むよ」
「若いって……私たちだってまだ若いわよ?」
マイルズとケイシーの軽口が始まる。
「そりゃ中年ではないけどさ、十九歳のジャンヌから見たら、二十六歳の俺らとはもう違うよ」
パンを口に運びながら、マイルズが続ける。
「なんだか、疲れが翌日まで残るんだよねぇ」
「俺は残らないけどな」
ライリーが飄々と呟く。
「私も平気。マイルズが不摂生なだけでしょ?」
「えー、ここにきて仲間はずれかよ」
三人のやり取りを聞きながら、ジャンヌは小さく笑った。
(私より、七つ上なのね……)
「そういえばさ」
マイルズが思い出したように顔を上げる。
「市祭の臨時勘定、初陣であれは立派だったね。噂、聞いてるよ」
「クレーム対応も落ち着いてたそうね」
ケイシーが感心したようにうなずく。
「ライリーさんに、たくさんフォローしていただきました」
ジャンヌが照れたように視線を向けると、ライリーは肩をすくめた。
「最小限しかしてない。君がよくやった」
その一言に、ジャンヌの表情が和らぐ。
「ありがとうございます」
小さく頭を下げる。
「それと――“急ぎでない仕事は明日に回す”って言えたの、進歩よ」
ケイシーが目を細める。
ジャンヌは一拍おいてから、言葉を選んだ。
「はい。体調も気持ちも、仕事のペースも……自分で整えることが大事なんだって、わかりました」
「続けていくには一番の気づきだ」
ライリーが短く添え、マイルズが「だね」とパンをちぎりながら頷いた。
話は仕事から、他愛のない会話にうつる。
「なぁ、ライリー、また背が伸びた?」
「なんで。いまさら伸びるわけないだろ」
「最近、ライリーが机にいる姿が窮屈そうだから」
「机が縮んだだけだろ」
マイルズとライリーが戯けた口調で会話を続け、冷静にケイシーが突っ込む。
「机に罪をなすりつけないの」
小さな笑いがテーブルの上に広がる。
ジャンヌも控えめに笑って、スープをひと口、含んだ。
(いつもの結び目)
白いリボンに指先が触れ、ジャンヌは小さく息を整える。胸の奥に、無理のない熱が灯っている。
*
同じ頃、食堂の柱の陰、離れた卓で同期の二、三人が身を寄せていた。
「見た?あの席」
「さすが“できる子”。できる先輩の輪に自然に入るの、上手ね」
匙の先で皿を叩く小さな音。
「病み上がりアピールも効いてるんじゃない?守ってあげたい感じ、出して」
「そうそう。ああいうの、得だよね」
「ほんと。あざといわ」
声は落ちて、笑いは薄い。当人たちの耳には届かない距離感を保っている。
一人が周囲をぐるりと見回し、囁きをさらに細くした。
「……少し冷やかしてやろうか。ほんの“ちょっとだけ”ね」
*
窓辺の卓では、話が締まりかけていた。
片付けに立ち上がると、ライリーがさりげなく言葉を足した。
「机の引き出しの内側に“手順メモ”を貼っておくと良い」
「手順メモ……ですか」
「ああ。伝票の栞がずれたり、何かしらのトラブルで行を見失っても、その順番を見れば、落ち着いて立て直せるから」
「……やってみます。ありがとうございます」
「俺、昔やらかしたんだ。二行飛ばしの名人時代ってやつだ」
とマイルズが肩をすくめると
「それ、名人って言わないからね」
ケイシーが即座に突っ込み、四人が小さく笑う。
その笑い声は、冬を抜けた陽だまりのように短く、温かかった。
*
午後。
帳場へ戻る途中、廊下でライリーとすれ違った。彼は書類束を肩へ、足を止めずに言った。
「自分のペースでな」
言葉は短かったが、ジャンヌは彼の気遣いに感謝した。
ジャンヌは席に戻ると、まず胸の結び目を一度、きゅっと結び直した。
ページの角を揃え、深呼吸。ペン先は、また素直に滑り出す。
――“いつも通り”は、すぐには取り戻せない。けれど、戻る道筋はもう見えた。
あとは、結び目を確かめながら、少しずつ進むだけだ。
ジャンヌは机に腰を下ろし、深く一度だけ息を吸った。
前髪を耳にかけ、白い細リボンの結び目にそっと触れてから、羽根ペンを動かした。筆圧は軽く、線はまっすぐ――ペン先は、思ったより素直に紙の上を滑った。
「おはよう、ジャンヌ。早いわね」
背後から、ケイシーに声を掛けられる。
「おはようございます。体調も戻ったので、いつも通りに起きられるようになりました。」
少しだけ張りのある声で返せたのが、自分でも分かった。
伝票の束を手前へ寄せ、入荷記録の照合を始めた。ページを繰る音が、いつもの朝の音に重なった。
*
昼の鐘が鳴ると、帳場の雰囲気はふっと軽くなる。
ジャンヌは食堂へ移動し、木の盆を抱えて、列に並んだ。温かいスープの湯気に顔を撫でられ、少しだけ肩の力が抜ける。
空いた席を探していると、奥の窓辺で手が上がった。
「ジャンヌ、こっち! 席、空いてるよ」
マイルズが手を振る。ケイシーも目元を少し綻ばせた。その隣には、書類束を小脇に置いたライリーの姿もある。
「ご一緒しても……よろしいですか?」
「もちろん。座って」
ケイシーが隣の椅子を引き、ジャンヌは静かに腰掛けた。
「体調は良さそうだな」
水をひと口含んでから、ライリーが口を開く。
「はい。完全に良くなりました」
ジャンヌは控えめに微笑んで答えた。
「若いから回復が早いね! 俺なら一週間は寝込むよ」
「若いって……私たちだってまだ若いわよ?」
マイルズとケイシーの軽口が始まる。
「そりゃ中年ではないけどさ、十九歳のジャンヌから見たら、二十六歳の俺らとはもう違うよ」
パンを口に運びながら、マイルズが続ける。
「なんだか、疲れが翌日まで残るんだよねぇ」
「俺は残らないけどな」
ライリーが飄々と呟く。
「私も平気。マイルズが不摂生なだけでしょ?」
「えー、ここにきて仲間はずれかよ」
三人のやり取りを聞きながら、ジャンヌは小さく笑った。
(私より、七つ上なのね……)
「そういえばさ」
マイルズが思い出したように顔を上げる。
「市祭の臨時勘定、初陣であれは立派だったね。噂、聞いてるよ」
「クレーム対応も落ち着いてたそうね」
ケイシーが感心したようにうなずく。
「ライリーさんに、たくさんフォローしていただきました」
ジャンヌが照れたように視線を向けると、ライリーは肩をすくめた。
「最小限しかしてない。君がよくやった」
その一言に、ジャンヌの表情が和らぐ。
「ありがとうございます」
小さく頭を下げる。
「それと――“急ぎでない仕事は明日に回す”って言えたの、進歩よ」
ケイシーが目を細める。
ジャンヌは一拍おいてから、言葉を選んだ。
「はい。体調も気持ちも、仕事のペースも……自分で整えることが大事なんだって、わかりました」
「続けていくには一番の気づきだ」
ライリーが短く添え、マイルズが「だね」とパンをちぎりながら頷いた。
話は仕事から、他愛のない会話にうつる。
「なぁ、ライリー、また背が伸びた?」
「なんで。いまさら伸びるわけないだろ」
「最近、ライリーが机にいる姿が窮屈そうだから」
「机が縮んだだけだろ」
マイルズとライリーが戯けた口調で会話を続け、冷静にケイシーが突っ込む。
「机に罪をなすりつけないの」
小さな笑いがテーブルの上に広がる。
ジャンヌも控えめに笑って、スープをひと口、含んだ。
(いつもの結び目)
白いリボンに指先が触れ、ジャンヌは小さく息を整える。胸の奥に、無理のない熱が灯っている。
*
同じ頃、食堂の柱の陰、離れた卓で同期の二、三人が身を寄せていた。
「見た?あの席」
「さすが“できる子”。できる先輩の輪に自然に入るの、上手ね」
匙の先で皿を叩く小さな音。
「病み上がりアピールも効いてるんじゃない?守ってあげたい感じ、出して」
「そうそう。ああいうの、得だよね」
「ほんと。あざといわ」
声は落ちて、笑いは薄い。当人たちの耳には届かない距離感を保っている。
一人が周囲をぐるりと見回し、囁きをさらに細くした。
「……少し冷やかしてやろうか。ほんの“ちょっとだけ”ね」
*
窓辺の卓では、話が締まりかけていた。
片付けに立ち上がると、ライリーがさりげなく言葉を足した。
「机の引き出しの内側に“手順メモ”を貼っておくと良い」
「手順メモ……ですか」
「ああ。伝票の栞がずれたり、何かしらのトラブルで行を見失っても、その順番を見れば、落ち着いて立て直せるから」
「……やってみます。ありがとうございます」
「俺、昔やらかしたんだ。二行飛ばしの名人時代ってやつだ」
とマイルズが肩をすくめると
「それ、名人って言わないからね」
ケイシーが即座に突っ込み、四人が小さく笑う。
その笑い声は、冬を抜けた陽だまりのように短く、温かかった。
*
午後。
帳場へ戻る途中、廊下でライリーとすれ違った。彼は書類束を肩へ、足を止めずに言った。
「自分のペースでな」
言葉は短かったが、ジャンヌは彼の気遣いに感謝した。
ジャンヌは席に戻ると、まず胸の結び目を一度、きゅっと結び直した。
ページの角を揃え、深呼吸。ペン先は、また素直に滑り出す。
――“いつも通り”は、すぐには取り戻せない。けれど、戻る道筋はもう見えた。
あとは、結び目を確かめながら、少しずつ進むだけだ。
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