【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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 翌朝、ジャンヌは身の回りの“わずかな異変に気づいた。

 最初は羽根ペンだった。
 席に着き、穂先を硯に含ませて数字を書き出すと、線がいつもより太い。

 二桁目でインクがぽたりと落ち、桁の境目がにじむ。よく見ると、穂の根元が微かに潰れていた。

(……昨日までは、こんな書き味じゃなかったのに)

 深く息を吸い、引き出しの内側に貼った“手順メモ”へ指先で触れる。
――替えの穂先に換え、記録を残す。

 静かに替え穂を取り出して差し替え、潰れた方は布に包み、日付と時刻を書いた紙片を添えて小箱に納める。

ペン先はふたたび素直に滑り、数列がいつもの細さで整いはじめた。

 昼の鐘が鳴り、席を立つと、離れた卓から同期の笑い声。

「ねえ、あの子、昨日は先輩卓で楽しそうだったわよね?」
「病み上がりなのに元気、ってやつ?」
「ふふ、若いから回復も早いんだって」

 聞こえるか聞こえないかの音量だった。ジャンヌは肩から力を抜くように白いリボンの結び目をそっと確かめ、食堂を後にした。



 翌日も異変は続いた。
 帳場の共用印影台に置かれた印泥がやけに薄く、押したばかりの印影の輪の上部だけが霞む。

印章の欠けではない。印面は無傷。印泥の表面に、妙な光の膜が張っている。

(……水?)

 小瓶の匂いをかぐと、わずかに薄い気配がした。誰かが共用壺に水を落としたのかもしれない。

 ジャンヌは備品棚から新しい壺を出し、薄い方には紐を掛けて封をし、「薄い・要確認」と札を結わえて棚の奥へ移した。棚札にも小さく日付を記す。


 午後、通りかかったケイシーが印影台を見て小さく頷いた。

「対応が早いわね。――共用品だから、私から支配人に上げておく」

「お願いします」
 それだけ答えて作業に戻る。腹の底でかすかな不安が形を取りかけたが、珠を弾く音に溶けていった。


***


 さらに翌日――。
 小口台帳の束に、見慣れない紙が混じっていた。よく似ている。けれど罫の間隔が半分分だけ違う。紙面右下の水印も、去年の様式だった。

(年度違い……)

「この様式、去年版だと思うのですが」
 ジャンヌは紙束をマイルズの机へ持っていき、静かに示す。

マイルズは目を細め、紙を指先で軽く弾いた。

「よく気づいたね。外部の束に紛れたか……誰が持ち込んだ?」
「わかりません。棚に戻しておきます。混入防止の注意書きを棚前に出しますね」
「そうだね。紛らわしいから」

 自席へ戻る途中、通路の角で同期二人と目が合う。

一瞬、指先が止まり、視線がすぐ逸れる。その速さが妙に胸に残る。

(考え過ぎかな……?)

 白いリボンの結び目をもう一度指で確かめ、“手順メモ”の次の行をなぞる。


 その日の午後。
 昼休憩から戻り、帳面を開いたジャンヌは眉を寄せた。

(……栞の位置がおかしい)

 昨夜、終業間際に共用の人員賃金台帳へ挟んだはずの箇所が、朝には一枚先に移っている。

(私が閉じ方を間違えた……?)

 ひやりと喉の奥を冷たい空気が通る。
 引き出しを静かに開け、内側に貼った小さな紙へ目を落とす。

――先日、ライリーの助言で作った「栞が動いても迷わない用」のメモだった。

台帳を開く前に栞と前日の最終行を指でなぞる。
伝票の順番と差し替えの痕をちらりと確かめ、最後に印影と印泥をひと押し試す――。

 その順番をひとつずつ辿って戻ると、飛び越えそうになった一行が見つかった。

 ペン先で薄く印をつけ、再集計すると数字はぴたりと合う。胸の内側の小石が、ひとつ転がって位置を変えた。

(ああ、良かった……)

 安堵はした。けれど、度重なる“偶然”に、心の底で別の色が滲み始める。

 帳場の隅で紙束を整えていると、背後で小さな舌打ちが聞こえた。

 振り向くと、同期の一人が顔を伏せ、もう一人が肩を竦める。視線が合うと、すぐに笑顔が貼られた。

「ジャンヌって、仕事が早いわね」
「ほんと。ミスもないし……すごいわよね。私たち、見習わなきゃだわ」

「……そうかな、ありがとう」
 控えめに笑って返し、自席に戻る。
 机の鍵を回して引き出しの中を確かめる。

 手順メモを指で追いながら、小箱の蓋に今日の日付がひとつ増える。
『旧様式混入』『印泥希釈』――短い語を整然と並べ、蓋を閉じた。

(“誰か”に気づいてほしいわけじゃない。自分が、忘れないために)


 就業が終わる頃。
 ジャンヌは、自分の机の引き出しを閉める前、ある工夫をした。

 前板と枠の合わせ目に、爪幅ほどに折った薄紙を三分の一だけ差し込み、端に小さく自分の印を記す。

夜のあいだに引き出しがわずかでも開けば、紙は落ちるか裂ける――目立たない封印だ。

 犯人探しではなく、自分のための小さな工夫として、異変をすぐ“手順”へ載せるための行動だった。


 帰り支度をしていると、ケイシーが足音を忍ばせて近づき、小声で囁いた。

「今日の件、些細なことだけれど、共用品の話は念のため支配人に報告したわ」
「……はい」

「何かしらの嫌がらせかもしれない。あなたは“いつも通り”でね」
「はい。わかりました」
 ジャンヌは深く頷いた。

 廊下に出ると、夕風が白いリボンをかすかに揺らす。

 別部署の扉の影でライリーがこちらを見た。軽く顎を上げて、「また明日」と唇だけが動く。

 ジャンヌも同じ言葉を返し、寮へ向かった。白いリボンの結び目を確かめる。解けないように、自分の心もしっかり結び直しした。


***


――そして翌朝。

 いつものように朝早く出勤したジャンヌは、机の鍵を回す前に、合わせ目を確かめる。

 薄紙は斜めに裂け、半分だけ残っていた。胸が冷える。

 鍵を挿すまでもなく、誰かの手が入ったとわかったのだった。


 

 
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