【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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 夜半、彼女が眠ったあと、トーマスはそっと身を起こした。机の上の時計を見る。針は思っていたよりずっと先を指している。

(……ほとんど、図面が進んでいない)

 鉛筆を取り、一本だけ線を伸ばす。静かな紙の上に、かすかな苛立ちがにじむのを自覚する。すぐにその自分が嫌になる。

(俺が招いた。俺が承知した)

 窓辺に目をやると、並べられた香水瓶が月の光を拾っていた。

 ベッドからは快楽のあとの満たされた寝息。昨日の達成感と、今の空虚さが、体の中でぶつかって鈍い音を立て、苛立ちが顔を出す。

(……明日は朝からやろう。やれば取り戻せる)

 そう決めて灯りを落とす。
 横に柔らかな温もりがあるのに、眠りは浅く、天井の木目だけがはっきり見えた。



 翌朝。
 予定より早く目覚めた。昨日の余韻が残り、身体の気怠さが取れていなかったが、気合いを入れて薄明のうちに机へ向かった。

鉛筆が走り出したところで、背中に柔らかな腕が回った。

彼女の髪が頬に触れ、甘い香りがふっと鼻先をかすめる。

「もう起きたの?まだ暗いわよ」
「ハルディ….。少し、やっておきたいところがあるんだ」

「もう、仕事ばかりね?私がいるんだから、昨日の続きしましょうよ」
 耳殻にかかる艶やかな囁き。うしろから回った手が、遠慮のない軌道で下腹部へと伸びてく。

「また、気持ちよくしてあげる」

 ハルディが舌先で自分の唇を湿らせたのが視界の端でわかる。下着に触れようとした瞬間、トーマスはその手首をそっと押さえ、指先で力の向きを変えた。

「ごめん。気持ちは嬉しいけど、今は集中したい」
「もう、トーマス、ひどい。せっかくしてあげるって言ってるのにぃ!」
「本当にごめん。この埋め合わせは必ず」
 拗ねた吐息が首筋をくすぐり、彼女の腕がさらに密着する。

少し間を置いて、彼女は肩を落としながらも、声色を明るく持ち上げた。

「…わかったわ。我慢してあげる。その代わり、私の話をちゃんと聞いて?」
 返事を待たず、ハルディは背中に頬を預けたまま話し始める。

「トーマスの、が終わったら買い物行きましょうよ。これからの二人の生活に必要な物を揃えたいの」

 気を取り直したハルディは、軽やかで、未来の予定をいくつもぶら下げる。

「二人で使うリネンを揃えたいの。
ベッドカバーはベージュよりアイボリーが好き。
カーテンは光を透かすのがいいな。
ね、クッションは三つ、丸いのと四角いのと——それから玄関に鏡も欲しい。
姿見、大きいの。食器は可愛い縁取りのやつがあってね、
あと部屋にディフューザー置こうよ。柑橘と白い花の香り、絶対合うと思うの」

 トーマスは相槌を打ちながら、寸法線を一本、また一本と引いていく。

やがて彼女は椅子に座り、歌うように話しかけ続けた。

「ねえ、シーツは白? それとも淡いピンク? あ、でもあなたの好みはは白かしらね?タオルも新しいの買って——」

「……うん。どっちでも、いいと思う」

 ハルディはようやく、トーマスに抱きついていた腕を解いて椅子に腰を下ろた。

 脚を組み直してトントンと踵で床をつついた。鼻歌が細く続く。彼女はときどき身を乗り出しては、机の端に肘をつき、頬杖のまま笑った。

「そうだ、キッチンの棚、可愛い瓶を並べたいな。スパイスを入れて、見せる収納したいわ。ね? トーマス?」

「……うん。あとで、寸法見てみるよ」

 鉛筆の芯を軽く回して角を替える。基準通りの15ミリを保ち、縦横のバランスを確かめる。

 彼女の「ねえねえ」が波のように寄せては返し、意識の岸辺に泡を残していく。線は、しかし、まっすぐに伸びた。



 午前の光が壁を這い、時計の針は正午を越えた。引けた線は、思っていた半分にも届かない。胸の底に、形のない焦りが少しずつ溜まっていく。

(嫌いなわけじゃない。彼女は彼女のままで、まっすぐだ――だからこそ、俺が線を引かなきゃ)

 昼過ぎ、ようやくトーマスは鉛筆を置き、深く息を吐いた。

「ハルディ。悪いけど、午後はひとりで仕上げたい」

 彼女はぱちりと瞬き、唇を尖らせる。

「えー、買い物は?!」
「ごめん。思ったほど図面が進んでいないんだ」
「ひどい。買い物に行くって約束したのに」
「それは、また今度にしよう。……本当にごめん」

 機嫌を取る言葉を並べながら、そんな時間さえ惜しいと感じている自分に気づく。

「わかったわ。午後はあなたにあげる。――じゃあ、夜は来てもいい?」
 甘える調子に、いつもなら折れていた。けれどトーマスは、はっきりと言った。

「今日は……来ないでほしい。少しでいい、ひとりで整えたい」

 彼女の笑みがわずかに揺れ、視線がトーマスの目を探る。長い数秒ののち、ハルディは肩をすくめて立ち上がった。

「……意地悪。ばか。もう、トーマスなんて知らない」

 怒りを露わにして、彼女は部屋を出ていった。

 甘い香りだけが残る。扉の閉まる音と同時に、トーマスは椅子に深く座り直す。鉛筆が紙に触れた。滑りは、朝よりずっと良い。

(この感覚を、手放したくない)

 図面の遅れは、まだ取り戻せる。だが心のどこかで、別の遅れが静かに進み始めていることを、トーマスはうすうす感じていた。

 ハルディとの距離。境界線。その引き方。線を引くことは得意なはずなのに、大切な一本だけが、いまだ手の中で震えていた。

 
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