45 / 74
45
しおりを挟む
朝、白いリボンの結び目をきゅっと確かめる。もう指先は震えない。鏡越しに息をひとつ整え、ジャンヌは商会へ向かった。
帳場はここ数日の通達で空気が少し澄み、一連の騒動も収まりつつある。
「朝の共有を始めます」
ケイシーが簡潔に段取りを述べ、視線を巡らせた。
「回覧札、時刻の書き方に迷いが出ると聞いたわ。改善案、ある人?」
手が挙がる前に、ジャンヌは小さく息を吸う。
「札の色を午前と午後で変えるのはどうでしょうか。さらに、受け取り時に『受領印の上に時刻を書く』と決めておけば、後で追うときに目が迷いません」
一瞬の静けさののち、ケイシーが頷く。
「採用。今日からやりましょう」
「いいね。このほうがわかりやすい」
マイルズも頷き、にこやかに微笑みかける。
「たしかに」
「あとで確認するとき、どこからか一瞬迷うからな」
ほかの社員からも肯定の声が上がった。
(……よかった。賛同してもらえた)
提案にどきどきしていた胸の鼓動が、少し落ち着く。
――午前の流れは滑らかだった。
ジャンヌは受け渡し簿の余白に小さく印を置き、台帳の栞を指でなぞり、数字をひとつずつ拾い上げる。
昨日までより心の“足場”が広い。手順が体に沈み込み、考えるより先に指先が正解へ向かう。
「ジャンヌ、この控え、どこに回せばいい?」
倉庫口から顔を出した年配の職人が伝票束を掲げる。
「午前の回覧札は青です。受領印の上に時刻をお願いします。終わったらこちらへ」
「助かるよ。見やすくなったな」
素朴なひと言が胸に落ちる。軽いけれど、確かな重みだった。
昼前、急ぎの返品差額が飛び込んだ。
以前なら胸が縮む案件だ。今は、伝票と入金札を横一列に並べ、差額の根拠を三行で走り書きし、印影の位置を指先で示す。
「ここ。受領印の上の時刻が一致。――このまま処理します」
「了解」
ケイシーが短く頷く。マイルズは親指を立てて笑った。
「いいね、その三行メモ。あとで俺も真似するわ」
午後には、同じ年に入った仕入れ係の同僚が、帳面を抱えたまま机の脇で固まっていた。
「ここ、時刻はどこに書けばいい…?」
「受領印の“上”にお願いします。午前は青、午後は赤です。迷ったら、受け渡し簿の冒頭に戻れば大丈夫です」
同僚はほっと息をつき、小さく頭を下げ「助かった」とつげた。
その礼が、少し前の自分に向けられた言葉のように思えて、ジャンヌは「いえ」と微笑む。
日が傾くころ、ケイシーが通りがかりに言う。
「朝の提案、評判いいわ。回覧のもたつきが半分になった」
「……本当ですか」
「本当よ。続けましょう」
短い承認が、背中に一本、強い芯を通してくれる。
終業の鐘。
封印紙に今日の日付を記し、印を押す。引き出しを閉じると、胸の奥が静かに満ちていることに気づいた。
気づけば、あれほど胸を締めつけていた彼の名を、今日は一度も思い出さずに過ごせた。
(……ここに、居場所がある)
唐突にそう思う。帳場のざわめき、紙の匂い、誰かの「助かった」という声、短い「よくやった」。それらが自分の輪郭を、少しずつ塗り直してくれている。
田舎にいた頃――頼れる人は、ほとんどトーマスだけだった。
叔父一家の家で、声を小さくして過ごした日々。失敗しないように、目立たないように、殻の中で息を潜めていた自分。
だから、余計に彼に寄りかかっていたのだと思う。温かい手に触れた瞬間だけ、殻の外へ出られる気がしたからだった。
恋していた気持ちは、嘘じゃない。
いまも完全に過去になったわけではない。体のどこかに残っている。
けれど――それだけでは、もう歩けない。
(私とトーマスは、別々の道を歩き始めた)
心の中でゆっくり言葉にする。
(それでいい。私は、私の道を生きていく)
白いリボンの結び目を指先でそっと確かめる。――今日もほどけない。胸の内で静かに頷くと、外套を羽織って石畳の廊下へ出た。
夕風が入り口から流れ込み、紙とインクの匂いをさらっていく。
門を抜けると、暮れかけの空が薄紫に染まり、露店の支度の音が遠くに響いた。
「ジャンヌ」
呼ばれて振り向くと、門柱の影に寄りかかる長身がひとつ。ライリーだった。
両手はポケット、肩の力は抜けているのに、目だけはまっすぐこちらを見ている。
「ライリーさん」
「もし良かったら、今から食事でも……焼きたてのパンがうまい店、前にも話したろう?行かないか?」
その言葉に、ジャンヌの胸がふっと温かくなる。今日の提案が通り、「助かった」と言われた瞬間が、誰かにきちんと聞いてほしい記憶としてよみがえった。
「ぜひ。あの店、気になっていたんです」
「良かった」
軽く顎で合図するライリーに並んで歩き出す。石畳に靴の音が二つ、テンポよく重なった。
商会通りを抜け、焼き窯のある小さな角を曲がると、風に乗って香ばしい匂いが漂ってきた。
「……あ、もう香りが」
「だろ?この時間、窯の二回目が上がる」
ライリーの声が少しだけ柔らかくなる。
店の看板が見えてきた。小さな窓から、焼き立てのパンを並べる店主の影。扉の上の鈴が風に鳴っている。
「着いた。席、空いてるといいが」
「わくわくします」
「おすすめは、まだ教えない。……最初の一口で君の顔を見たいから」
「ふふっ…どんな顔をするか当てみてください」
思わず笑うと、ライリーも目尻だけで笑った。
扉に手を掛ける前、ジャンヌはふと立ち止まり、結び目をもう一度だけ確かめる。ほどけていない。大丈夫。視線を上げると、ガラス越しに柔らかな灯りが揺れた。
「行こうか」
「はい」
二人は並んで扉を押した。
焼きたての香りと、あたたかな空気が、夜の入口で彼らを迎え入れた。
帳場はここ数日の通達で空気が少し澄み、一連の騒動も収まりつつある。
「朝の共有を始めます」
ケイシーが簡潔に段取りを述べ、視線を巡らせた。
「回覧札、時刻の書き方に迷いが出ると聞いたわ。改善案、ある人?」
手が挙がる前に、ジャンヌは小さく息を吸う。
「札の色を午前と午後で変えるのはどうでしょうか。さらに、受け取り時に『受領印の上に時刻を書く』と決めておけば、後で追うときに目が迷いません」
一瞬の静けさののち、ケイシーが頷く。
「採用。今日からやりましょう」
「いいね。このほうがわかりやすい」
マイルズも頷き、にこやかに微笑みかける。
「たしかに」
「あとで確認するとき、どこからか一瞬迷うからな」
ほかの社員からも肯定の声が上がった。
(……よかった。賛同してもらえた)
提案にどきどきしていた胸の鼓動が、少し落ち着く。
――午前の流れは滑らかだった。
ジャンヌは受け渡し簿の余白に小さく印を置き、台帳の栞を指でなぞり、数字をひとつずつ拾い上げる。
昨日までより心の“足場”が広い。手順が体に沈み込み、考えるより先に指先が正解へ向かう。
「ジャンヌ、この控え、どこに回せばいい?」
倉庫口から顔を出した年配の職人が伝票束を掲げる。
「午前の回覧札は青です。受領印の上に時刻をお願いします。終わったらこちらへ」
「助かるよ。見やすくなったな」
素朴なひと言が胸に落ちる。軽いけれど、確かな重みだった。
昼前、急ぎの返品差額が飛び込んだ。
以前なら胸が縮む案件だ。今は、伝票と入金札を横一列に並べ、差額の根拠を三行で走り書きし、印影の位置を指先で示す。
「ここ。受領印の上の時刻が一致。――このまま処理します」
「了解」
ケイシーが短く頷く。マイルズは親指を立てて笑った。
「いいね、その三行メモ。あとで俺も真似するわ」
午後には、同じ年に入った仕入れ係の同僚が、帳面を抱えたまま机の脇で固まっていた。
「ここ、時刻はどこに書けばいい…?」
「受領印の“上”にお願いします。午前は青、午後は赤です。迷ったら、受け渡し簿の冒頭に戻れば大丈夫です」
同僚はほっと息をつき、小さく頭を下げ「助かった」とつげた。
その礼が、少し前の自分に向けられた言葉のように思えて、ジャンヌは「いえ」と微笑む。
日が傾くころ、ケイシーが通りがかりに言う。
「朝の提案、評判いいわ。回覧のもたつきが半分になった」
「……本当ですか」
「本当よ。続けましょう」
短い承認が、背中に一本、強い芯を通してくれる。
終業の鐘。
封印紙に今日の日付を記し、印を押す。引き出しを閉じると、胸の奥が静かに満ちていることに気づいた。
気づけば、あれほど胸を締めつけていた彼の名を、今日は一度も思い出さずに過ごせた。
(……ここに、居場所がある)
唐突にそう思う。帳場のざわめき、紙の匂い、誰かの「助かった」という声、短い「よくやった」。それらが自分の輪郭を、少しずつ塗り直してくれている。
田舎にいた頃――頼れる人は、ほとんどトーマスだけだった。
叔父一家の家で、声を小さくして過ごした日々。失敗しないように、目立たないように、殻の中で息を潜めていた自分。
だから、余計に彼に寄りかかっていたのだと思う。温かい手に触れた瞬間だけ、殻の外へ出られる気がしたからだった。
恋していた気持ちは、嘘じゃない。
いまも完全に過去になったわけではない。体のどこかに残っている。
けれど――それだけでは、もう歩けない。
(私とトーマスは、別々の道を歩き始めた)
心の中でゆっくり言葉にする。
(それでいい。私は、私の道を生きていく)
白いリボンの結び目を指先でそっと確かめる。――今日もほどけない。胸の内で静かに頷くと、外套を羽織って石畳の廊下へ出た。
夕風が入り口から流れ込み、紙とインクの匂いをさらっていく。
門を抜けると、暮れかけの空が薄紫に染まり、露店の支度の音が遠くに響いた。
「ジャンヌ」
呼ばれて振り向くと、門柱の影に寄りかかる長身がひとつ。ライリーだった。
両手はポケット、肩の力は抜けているのに、目だけはまっすぐこちらを見ている。
「ライリーさん」
「もし良かったら、今から食事でも……焼きたてのパンがうまい店、前にも話したろう?行かないか?」
その言葉に、ジャンヌの胸がふっと温かくなる。今日の提案が通り、「助かった」と言われた瞬間が、誰かにきちんと聞いてほしい記憶としてよみがえった。
「ぜひ。あの店、気になっていたんです」
「良かった」
軽く顎で合図するライリーに並んで歩き出す。石畳に靴の音が二つ、テンポよく重なった。
商会通りを抜け、焼き窯のある小さな角を曲がると、風に乗って香ばしい匂いが漂ってきた。
「……あ、もう香りが」
「だろ?この時間、窯の二回目が上がる」
ライリーの声が少しだけ柔らかくなる。
店の看板が見えてきた。小さな窓から、焼き立てのパンを並べる店主の影。扉の上の鈴が風に鳴っている。
「着いた。席、空いてるといいが」
「わくわくします」
「おすすめは、まだ教えない。……最初の一口で君の顔を見たいから」
「ふふっ…どんな顔をするか当てみてください」
思わず笑うと、ライリーも目尻だけで笑った。
扉に手を掛ける前、ジャンヌはふと立ち止まり、結び目をもう一度だけ確かめる。ほどけていない。大丈夫。視線を上げると、ガラス越しに柔らかな灯りが揺れた。
「行こうか」
「はい」
二人は並んで扉を押した。
焼きたての香りと、あたたかな空気が、夜の入口で彼らを迎え入れた。
461
あなたにおすすめの小説
あなたの隣は私ではないけれど、それでも好きでいてもいいですか、レオナルド様
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢エリアーナには、三年間ずっと抱えてきた秘密がある。
婚約者であるヴァルフォード公爵・レオナルドへの、誰にも言えない恋心だ。
しかし彼の隣にいるのは、いつも幼馴染の伯爵令嬢・ソフィア。
儚げな笑顔と上目遣いで男性を虜にするあざとい彼女に、レオナルドも例外ではないようで——
「レオ、私のこと嫌いにならないでね?」
「……そんなことにはならない」
また始まった二人の世界。
「妹の方が可愛い」と不倫夫に捨てられた私。どうぞ借金まみれの実家ごと引き取って。私が肩代わりしていた負債、すべてお二人に引き継いでおきました
唯崎りいち
恋愛
「お前より妹の方が可愛い」
不倫した夫は私を追い出し、略奪した妹と笑った。
どうぞ、その「可愛い妹」と地獄までお幸せに。
私が肩代わりしていた実家と店の多額の借金、すべてお二人に引き継いでおきましたから。
「財布」を失った元夫と、逃げ場を失った妹。
身の丈に合わない贅沢を望んだ寄生虫たちの、惨めな末路を特等席で眺めさせていただきます。
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。
【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】
狂おしいほど愛しています、なのでよそへと嫁ぐことに致します
ちより
恋愛
侯爵令嬢のカレンは分別のあるレディだ。頭の中では初恋のエル様のことでいっぱいになりながらも、一切そんな素振りは見せない徹底ぶりだ。
愛するエル様、神々しくも真面目で思いやりあふれるエル様、その残り香だけで胸いっぱいですわ。
頭の中は常にエル様一筋のカレンだが、家同士が決めた結婚で、公爵家に嫁ぐことになる。愛のない形だけの結婚と思っているのは自分だけで、実は誰よりも公爵様から愛されていることに気づかない。
公爵様からの溺愛に、不器用な恋心が反応したら大変で……両思いに慣れません。
龍王の番〜双子の運命の分かれ道・人生が狂った者たちの結末〜
クラゲ散歩
ファンタジー
ある小さな村に、双子の女の子が生まれた。
生まれて間もない時に、いきなり家に誰かが入ってきた。高貴なオーラを身にまとった、龍国の王ザナが側近二人を連れ現れた。
母親の横で、お湯に入りスヤスヤと眠っている子に「この娘は、私の○○の番だ。名をアリサと名付けよ。
そして18歳になったら、私の妻として迎えよう。それまでは、不自由のないようにこちらで準備をする。」と言い残し去って行った。
それから〜18年後
約束通り。贈られてきた豪華な花嫁衣装に身を包み。
アリサと両親は、龍の背中に乗りこみ。
いざ〜龍国へ出発した。
あれれ?アリサと両親だけだと数が合わないよね??
確か双子だったよね?
もう一人の女の子は〜どうしたのよ〜!
物語に登場する人物達の視点です。
どうぞお好きになさってください
みおな
恋愛
学園に入学して一ヶ月。
婚約者の第一王子殿下は言った。
「学園にいる間くらい自由にさせてくれないか。君が王太子妃になることは決定事項だ。だから、せめて学園に通う二年間は、僕は恋がしたい」
公爵令嬢はその綺麗な顔に冷酷な笑みを浮かべる。
「好きになさればよろしいわ」
夫が運命の番と出会いました
重田いの
恋愛
幼馴染のいいなづけとして育ってきた銀狼族の族長エーリヒと、妻ローゼマリー。
だがエーリヒに運命の番が現れたことにより、二人は離別する。
しかし二年後、修道院に暮らすローゼマリーの元へエーリヒが現れ――!?
前世で私を嫌っていた番の彼が何故か迫って来ます!
ハルン
恋愛
私には前世の記憶がある。
前世では犬の獣人だった私。
私の番は幼馴染の人間だった。自身の番が愛おしくて仕方なかった。しかし、人間の彼には獣人の番への感情が理解出来ず嫌われていた。それでも諦めずに彼に好きだと告げる日々。
そんな時、とある出来事で命を落とした私。
彼に会えなくなるのは悲しいがこれでもう彼に迷惑をかけなくて済む…。そう思いながら私の人生は幕を閉じた……筈だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる