【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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 朝、白いリボンの結び目をきゅっと確かめる。もう指先は震えない。鏡越しに息をひとつ整え、ジャンヌは商会へ向かった。

 帳場はここ数日の通達で空気が少し澄み、一連の騒動も収まりつつある。

「朝の共有を始めます」
 ケイシーが簡潔に段取りを述べ、視線を巡らせた。

「回覧札、時刻の書き方に迷いが出ると聞いたわ。改善案、ある人?」
 手が挙がる前に、ジャンヌは小さく息を吸う。

「札の色を午前と午後で変えるのはどうでしょうか。さらに、受け取り時に『受領印の上に時刻を書く』と決めておけば、後で追うときに目が迷いません」

 一瞬の静けさののち、ケイシーが頷く。
「採用。今日からやりましょう」
「いいね。このほうがわかりやすい」
 マイルズも頷き、にこやかに微笑みかける。

「たしかに」
「あとで確認するとき、どこからか一瞬迷うからな」
 ほかの社員からも肯定の声が上がった。

(……よかった。賛同してもらえた)

 提案にどきどきしていた胸の鼓動が、少し落ち着く。

――午前の流れは滑らかだった。
 ジャンヌは受け渡し簿の余白に小さく印を置き、台帳の栞を指でなぞり、数字をひとつずつ拾い上げる。

昨日までより心の“足場”が広い。手順が体に沈み込み、考えるより先に指先が正解へ向かう。

「ジャンヌ、この控え、どこに回せばいい?」
 倉庫口から顔を出した年配の職人が伝票束を掲げる。

「午前の回覧札は青です。受領印の上に時刻をお願いします。終わったらこちらへ」
「助かるよ。見やすくなったな」
 素朴なひと言が胸に落ちる。軽いけれど、確かな重みだった。


 昼前、急ぎの返品差額が飛び込んだ。
 以前なら胸が縮む案件だ。今は、伝票と入金札を横一列に並べ、差額の根拠を三行で走り書きし、印影の位置を指先で示す。

「ここ。受領印の上の時刻が一致。――このまま処理します」
「了解」
 ケイシーが短く頷く。マイルズは親指を立てて笑った。
「いいね、その三行メモ。あとで俺も真似するわ」

 午後には、同じ年に入った仕入れ係の同僚が、帳面を抱えたまま机の脇で固まっていた。

「ここ、時刻はどこに書けばいい…?」
「受領印の“上”にお願いします。午前は青、午後は赤です。迷ったら、受け渡し簿の冒頭に戻れば大丈夫です」
 同僚はほっと息をつき、小さく頭を下げ「助かった」とつげた。

 その礼が、少し前の自分に向けられた言葉のように思えて、ジャンヌは「いえ」と微笑む。

 日が傾くころ、ケイシーが通りがかりに言う。

「朝の提案、評判いいわ。回覧のもたつきが半分になった」
「……本当ですか」
「本当よ。続けましょう」
 短い承認が、背中に一本、強い芯を通してくれる。

 終業の鐘。
 封印紙に今日の日付を記し、印を押す。引き出しを閉じると、胸の奥が静かに満ちていることに気づいた。

 気づけば、あれほど胸を締めつけていたトーマスの名を、今日は一度も思い出さずに過ごせた。

(……ここに、居場所がある)

 唐突にそう思う。帳場のざわめき、紙の匂い、誰かの「助かった」という声、短い「よくやった」。それらが自分の輪郭を、少しずつ塗り直してくれている。

 田舎にいた頃――頼れる人は、ほとんどトーマスだけだった。

 叔父一家の家で、声を小さくして過ごした日々。失敗しないように、目立たないように、殻の中で息を潜めていた自分。

 だから、余計に彼に寄りかかっていたのだと思う。温かい手に触れた瞬間だけ、殻の外へ出られる気がしたからだった。

 恋していた気持ちは、嘘じゃない。

 いまも完全に過去になったわけではない。体のどこかに残っている。
けれど――それだけでは、もう歩けない。

(私とトーマスは、別々の道を歩き始めた)
心の中でゆっくり言葉にする。

(それでいい。私は、私の道を生きていく)

 白いリボンの結び目を指先でそっと確かめる。――今日もほどけない。胸の内で静かに頷くと、外套を羽織って石畳の廊下へ出た。

 夕風が入り口から流れ込み、紙とインクの匂いをさらっていく。

門を抜けると、暮れかけの空が薄紫に染まり、露店の支度の音が遠くに響いた。

「ジャンヌ」

 呼ばれて振り向くと、門柱の影に寄りかかる長身がひとつ。ライリーだった。

 両手はポケット、肩の力は抜けているのに、目だけはまっすぐこちらを見ている。

「ライリーさん」
「もし良かったら、今から食事でも……焼きたてのパンがうまい店、前にも話したろう?行かないか?」

 その言葉に、ジャンヌの胸がふっと温かくなる。今日の提案が通り、「助かった」と言われた瞬間が、誰かにきちんと聞いてほしい記憶としてよみがえった。

「ぜひ。あの店、気になっていたんです」
「良かった」

 軽く顎で合図するライリーに並んで歩き出す。石畳に靴の音が二つ、テンポよく重なった。

 商会通りを抜け、焼き窯のある小さな角を曲がると、風に乗って香ばしい匂いが漂ってきた。

「……あ、もう香りが」
「だろ?この時間、窯の二回目が上がる」

 ライリーの声が少しだけ柔らかくなる。  
 店の看板が見えてきた。小さな窓から、焼き立てのパンを並べる店主の影。扉の上の鈴が風に鳴っている。

「着いた。席、空いてるといいが」
「わくわくします」
「おすすめは、まだ教えない。……最初の一口で君の顔を見たいから」
「ふふっ…どんな顔をするか当てみてください」
 思わず笑うと、ライリーも目尻だけで笑った。

 扉に手を掛ける前、ジャンヌはふと立ち止まり、結び目をもう一度だけ確かめる。ほどけていない。大丈夫。視線を上げると、ガラス越しに柔らかな灯りが揺れた。

「行こうか」
「はい」

 二人は並んで扉を押した。
 焼きたての香りと、あたたかな空気が、夜の入口で彼らを迎え入れた。
 
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