【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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 パン屋の扉を押すと、焼き立ての香りが胸いっぱいに広がった。

 奥の窯で、ぱちりと小さく木がはぜる。窓際の二人席がひとつ空いていて、ライリーが顎で示す。

「運がいいな。座ろうか」

 籠には黄金色のバゲットと小さな丸パン、ハーブを練り込んだパンがいくつか入っていた。
店主がそれらを薄切りにして温かい皿にのせ、蜂蜜と柔らかな白いチーズを添えてくれた。

「まずはこれだ。外は軽いのに、中はしっとりしてる」
「……わぁ、本当に。いい香りがします」

 ジャンヌはおそるおそる一切れをちぎって口へ運ぶ。焼きたての湯気がふっと頬を撫で、肩の力がするりと抜けた。

 つられて、ここ数日のことが自然と口をつく。

「今日、回覧札の色を分ける提案が通って……受け取った側が、受領印の“上”に時刻を書くって決まりにしました」
「ああ、聞いてる。いい手だな。“あとで追う人の目線”が入ってる」
「実は、とても緊張したんです。私なんかが、って。でも言えて良かったです」

 ライリーは目を細めて短くうなずく。その仕草だけで、十分な肯定だった。

「君は自分で地図を引き直した。道は、それで迷わなくなる」
「……地図、ですか」
「合図でもいい。君にとっての“白いリボン”みたいな」

 頬をゆるめたジャンヌの口元に、小さなパンくずが光る。ライリーは言葉の代わりに、自分の口の端を指で軽く示した。

「あ……」
 慌ててハンカチを出しかける手がもつれる。ライリーがさっと予備の清潔な布を差し出した。

「これ、使って」
「す、すみません……失礼しました」
「店のパンがうますぎるせいだ」

 ふたりで笑い合う。
 蜂蜜の琥珀色が皿に細い線を描き、白いチーズがやわらかく溶ける。温かいスープが運ばれる。

「そういえば……前に、妹さんに子守歌の代わりに口笛を吹いていたって、仰ってましたよね?」
「ああ、その話、覚えてたか。癖で、いまでも時々やってしまう。この話をすると……君の部屋に押しかけた日のことを思い出すな」
 スープをひと口飲んだあと、ライリーがつぶやく。ジャンヌは慌てて首を振った。

「そんな、押しかけたなんて。あの時は、本当に助かりました。ありがとうございます」
「どういたしまして」

 言葉は短い。けれど店内の灯りが彼の瞳にやわらかく映り、そこに揺るぎない温度があった。



 

 店を出ると、夜気がひやりと頬を撫でた。通りの先で焼き栗の屋台が白い湯気を上げている。

「少し歩くし、手を温めようか」
 ライリーが屋台に立ち寄り、焼き栗を一袋注文した。温かな紙袋を受け取ると、口を少し開けて湯気を逃がし、
「熱いから気をつけて」
 とそっとジャンヌに手渡した。

「ありがとうございます」
 ジャンヌが両手で受け取る。袋ごしの熱が掌にじんわり広がる。

「……本当に温かい」

 石畳に小さな水たまりが残っていた。
 ライリーは何も言わず、路肩側へ一歩ずれて歩幅を合わせる。ジャンヌが裾を気にして進むと、屋台の灯が二人の影を長く伸ばした。

「今日の回覧、うまく回ってたな」
「朝の共有で、回覧札の色を午前・午後で分ける提案をして……採用になりました。受領印の上に時刻を書く決まりも。みんなが“わかりやすい”って言ってくれました」
「いい判断だ。『あとで追う人』の目線が入ってる」
「仕事中、何度も自分に言い聞かせてました。――迷わない工夫を先に置く、って」
「それ、君の合図になってるな」

 ジャンヌはふっと笑って袋を差し出す。
「ライリーさん、おひとつどうぞ」
「ああ、ありがとう」

 二人の指先が一瞬、袋の上で触れ合う。ライリーは栗の殻を器用に割り、歩きながら、ぽん、と路面の端の空き缶へ投げ入れた。

「命中」
「わ、すごい」
「運がよかっただけだよ」

 今度は殻を手の中にしまい、小走りで路地のごみ籠へ落とす。些細な動作に、ジャンヌの口元が和らいだ。

 角を曲がると、果物屋の紙灯が風で消えかけ、店主が困った顔をしている。

 ライリーが足を止め、
「火、借ります」
 と短く声をかけて火打ち箱を受け取り、風下に身を傾けて火を起こす。
掌で風をよけると、芯が静かに赤く灯った。店主が礼を言い、林檎を一つ小袋に入れて差し出す。

「いえ、ついでです」
「受け取ってください、縁起物ですから」
 ライリーは一瞬迷ってから受け取り、ジャンヌに手渡す。
「明日の朝にでも」
「……ありがとうございます。薄く切って、少しだけ砂糖で煮てみます」
「それはきっとうまい」

 寮の門が見えてきた。門前のランタンが穏やかに揺れている。

「今日は誘ってくださって、ありがとうございました」
 ジャンヌが小さく会釈する。
「仕事のこと、話せてよかったです」
「こちらこそ。君の“うまくいった”を、また聞かせてくれ」

 門の取っ手に手を掛ける前、ジャンヌは紙袋を抱え直した。
「栗、半分残しておきます。明日のご褒美に」
「いいご褒美だ」

 ライリーは微笑み、顎で灯りを示す。
「中まで明るいのを見届けたら帰る。気をつけてな」
「はい。おやすみなさい、ライリーさん」
「おやすみ」

 ジャンヌが扉の向こうへ消える。
 廊下の灯がぱっと点り、足音が軽く遠ざかるのを確かめると、ライリーは肩の力を抜いて踵を返した。

 手の中には、さきほどの林檎の紙袋が軽く残る。

 歩き出す彼の横顔に、焼き栗の湯気で温まった夜気が、やわらかく絡みついていた。
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