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翌朝、外はまだ薄青い。帳場の窓には早くも灯りがともっている。
ジャンヌはいつもより早く出勤していた。机の上には、小さな瓶が二つ。
昨夜、ライリーから受け取った林檎を薄く煮て、熱の名残があるうちに瓶詰めにしたものだ。
ふたの下から、やさしい甘さがふわりと立ちのぼる。
「……少しだけ、味見してもいいかな」
木匙の先でひと口。
とろりとした果肉が舌の上でほどけ、胸の奥が温まる。
(ライリーさん、驚くかな)
そのとき、扉が軽く叩かれた。
「早いな。誰もいないと思ってたのに」
低い声とともに、ライリーが顔を覗かせる。小瓶に目を留め、わずかに眉を上げた。
「おはようございます。昨日の林檎……煮てみました」
「もう?帰ってから作ったのか」
感心したようにライリーが呟く。
「ええ。砂糖は控えめにして、白ワインを少し。それと皮だけレモンを」
恥ずかしそうに一本を差し出すと、ライリーは受け取り、指先で温もりを確かめた。
「ひとくち、いい?」
「もちろん。どうぞ」
ジャンヌが小さな匙を手渡し、蓋が開く。香りを吸い込んだライリーは、ひと匙を口に含む。
「……美味い。香りもいいな。君の仕事みたいだ。丁寧さが、そのまま味になってる」
穏やかな響きに、ジャンヌの頬がわずかに染まる。
「ありがとうございます。そんなふうに言っていただけるなんて」
「正直な感想だ。帳場の朝が、少し違って見えるよ」
二人の間を、外の光がゆっくり明るくしていく。窓の外では商会の馬車が動きはじめ、通りに朝の音が戻った。
「昨日の店、良かったかな?」
「はい。ライリーさんの言う通り、焼きたてパンが絶品でした」
「ならよかった。君に喜んでもらえて何より」
言葉とことばの間に短い沈黙が落ちる。
けれど居心地は悪くない。小瓶の中で、薄い琥珀色が静かに揺れた。
「この瓶を二つ作りました。ひとつはライリーさんにと思って。もうひとつは、お昼に皆で食べられたらと」
「え、俺にもくれるのか。ありがとう。嬉しいな」
驚いた表情のライリーを見て、ジャンヌは思わず破顔する。
「ふふ…喜んでもらえて、作った甲斐がありました」
ふたりで栓を締め直したとき、廊下の向こうから始業前の足音が近づいてきた。
いつもの朝だ。けれど、少しだけ甘い。
先ほどのやり取りを思い返すたび、胸がふっと高鳴り、ぬくもりがじんわりと広がる。
ライリーもそれに気づいたのか、視線でそっと合図を返した。
扉の向こうから、同僚たちの声が聞こえてくる。ジャンヌは瓶を棚に置き、整った姿勢で一礼した。
「今日も、頑張ります」
「ああ。——いい一日になるよ」
ライリーの声が背中をやさしく押す。
帳場に差し込む光の粒が、紙とインクの間で静かにきらめいた。
***
午前の流れは淀みなく進んだ。
受け渡しの列はすっと伸び、回覧の札は午前の青で迷いなく動く。
ジャンヌは栞を指でなぞり、数字を拾い、三行メモで差額の根拠を添える――手順が手の内に沈み、思考より先に指先が正解を示した。
ふいに外が暗くなり、小雨が叩いた。倉庫口から誰かが慌てて声をかける。
「帳面、濡れるぞ!」
ライリーは一歩早く、上衣を脱いで束の上にふわりと掛け、庇の下へ抱えて運ぶ。
「天気は予定を動かす。先に紙を守ろう」
早口で言いながら、自然にジャンヌの歩幅に合わせて下がり、防ぐ位置を入れ替える。
「ありがとうございます」
「癖だよ。隣国にいた冬は、天気のほうが上司だったからさ」
冗談めかしたライリーの声に、淡い記憶の影が見えた。
*
昼の鐘が鳴った。
食堂では湯気の立つ茶が配られ、ジャンヌは小瓶の封を切る。薄く煮た林檎の香りがふわりと広がった。
「では、少しずつどうぞ」
小さな匙で一口ずつ回すと、マイルズが目を丸くする。
「うまい! これは元気が出るやつだ」
ケイシーも微笑んで頷いた。
「砂糖が控えめなのがいいわね。仕事中でも重くならない」
「お口に合って良かったです」
頬を染めるジャンヌの横で、ライリーが穏やかに笑いながら言葉を添える。
「優しい味だ。俺なら一瞬で瓶を空けてしまいそうだ」
瓶はあっという間に半分になり、残りは蓋を締めて涼しい棚へ。
(嬉しい。自分が作ったものを、こんなに喜んでもらえるなんて)
そう思ったとき、食堂の入口から支配人オーベルが顔をのぞかせた。
「午後一番に、営業と仕入れの合同会議が入る。――ライリー、同席を頼む」
「はい。わかりました」
名を呼ばれて返事をするその声音に、周囲の視線が自然と集まる。ライリーは席を立ち、オーベルの後に続いて食堂を後にした。
「さすが、順調に出世街道を走ってるだけあるな。支配人の期待も大きい」
マイルズが感心したように呟く。
「確かに。彼は同期の中で一番早く支配人になるかも」
「ケイシーも負けていられないね!」
戯けた口調のマイルズに、ケイシーはわざと大きくため息をつき、肩をすくめて応じた。
「私とあなたは帳場でしょ。ここで頑張るのよ。彼とは部署が違うもの」
「まあね」
ケイシーとマイルズは再びトレイに視線を移し、食事を続けた。
(ライリーさん……)
ジャンヌの視線は、出て行ったライリーの背中が消えた方角にしばらく留まっていた。
ジャンヌはいつもより早く出勤していた。机の上には、小さな瓶が二つ。
昨夜、ライリーから受け取った林檎を薄く煮て、熱の名残があるうちに瓶詰めにしたものだ。
ふたの下から、やさしい甘さがふわりと立ちのぼる。
「……少しだけ、味見してもいいかな」
木匙の先でひと口。
とろりとした果肉が舌の上でほどけ、胸の奥が温まる。
(ライリーさん、驚くかな)
そのとき、扉が軽く叩かれた。
「早いな。誰もいないと思ってたのに」
低い声とともに、ライリーが顔を覗かせる。小瓶に目を留め、わずかに眉を上げた。
「おはようございます。昨日の林檎……煮てみました」
「もう?帰ってから作ったのか」
感心したようにライリーが呟く。
「ええ。砂糖は控えめにして、白ワインを少し。それと皮だけレモンを」
恥ずかしそうに一本を差し出すと、ライリーは受け取り、指先で温もりを確かめた。
「ひとくち、いい?」
「もちろん。どうぞ」
ジャンヌが小さな匙を手渡し、蓋が開く。香りを吸い込んだライリーは、ひと匙を口に含む。
「……美味い。香りもいいな。君の仕事みたいだ。丁寧さが、そのまま味になってる」
穏やかな響きに、ジャンヌの頬がわずかに染まる。
「ありがとうございます。そんなふうに言っていただけるなんて」
「正直な感想だ。帳場の朝が、少し違って見えるよ」
二人の間を、外の光がゆっくり明るくしていく。窓の外では商会の馬車が動きはじめ、通りに朝の音が戻った。
「昨日の店、良かったかな?」
「はい。ライリーさんの言う通り、焼きたてパンが絶品でした」
「ならよかった。君に喜んでもらえて何より」
言葉とことばの間に短い沈黙が落ちる。
けれど居心地は悪くない。小瓶の中で、薄い琥珀色が静かに揺れた。
「この瓶を二つ作りました。ひとつはライリーさんにと思って。もうひとつは、お昼に皆で食べられたらと」
「え、俺にもくれるのか。ありがとう。嬉しいな」
驚いた表情のライリーを見て、ジャンヌは思わず破顔する。
「ふふ…喜んでもらえて、作った甲斐がありました」
ふたりで栓を締め直したとき、廊下の向こうから始業前の足音が近づいてきた。
いつもの朝だ。けれど、少しだけ甘い。
先ほどのやり取りを思い返すたび、胸がふっと高鳴り、ぬくもりがじんわりと広がる。
ライリーもそれに気づいたのか、視線でそっと合図を返した。
扉の向こうから、同僚たちの声が聞こえてくる。ジャンヌは瓶を棚に置き、整った姿勢で一礼した。
「今日も、頑張ります」
「ああ。——いい一日になるよ」
ライリーの声が背中をやさしく押す。
帳場に差し込む光の粒が、紙とインクの間で静かにきらめいた。
***
午前の流れは淀みなく進んだ。
受け渡しの列はすっと伸び、回覧の札は午前の青で迷いなく動く。
ジャンヌは栞を指でなぞり、数字を拾い、三行メモで差額の根拠を添える――手順が手の内に沈み、思考より先に指先が正解を示した。
ふいに外が暗くなり、小雨が叩いた。倉庫口から誰かが慌てて声をかける。
「帳面、濡れるぞ!」
ライリーは一歩早く、上衣を脱いで束の上にふわりと掛け、庇の下へ抱えて運ぶ。
「天気は予定を動かす。先に紙を守ろう」
早口で言いながら、自然にジャンヌの歩幅に合わせて下がり、防ぐ位置を入れ替える。
「ありがとうございます」
「癖だよ。隣国にいた冬は、天気のほうが上司だったからさ」
冗談めかしたライリーの声に、淡い記憶の影が見えた。
*
昼の鐘が鳴った。
食堂では湯気の立つ茶が配られ、ジャンヌは小瓶の封を切る。薄く煮た林檎の香りがふわりと広がった。
「では、少しずつどうぞ」
小さな匙で一口ずつ回すと、マイルズが目を丸くする。
「うまい! これは元気が出るやつだ」
ケイシーも微笑んで頷いた。
「砂糖が控えめなのがいいわね。仕事中でも重くならない」
「お口に合って良かったです」
頬を染めるジャンヌの横で、ライリーが穏やかに笑いながら言葉を添える。
「優しい味だ。俺なら一瞬で瓶を空けてしまいそうだ」
瓶はあっという間に半分になり、残りは蓋を締めて涼しい棚へ。
(嬉しい。自分が作ったものを、こんなに喜んでもらえるなんて)
そう思ったとき、食堂の入口から支配人オーベルが顔をのぞかせた。
「午後一番に、営業と仕入れの合同会議が入る。――ライリー、同席を頼む」
「はい。わかりました」
名を呼ばれて返事をするその声音に、周囲の視線が自然と集まる。ライリーは席を立ち、オーベルの後に続いて食堂を後にした。
「さすが、順調に出世街道を走ってるだけあるな。支配人の期待も大きい」
マイルズが感心したように呟く。
「確かに。彼は同期の中で一番早く支配人になるかも」
「ケイシーも負けていられないね!」
戯けた口調のマイルズに、ケイシーはわざと大きくため息をつき、肩をすくめて応じた。
「私とあなたは帳場でしょ。ここで頑張るのよ。彼とは部署が違うもの」
「まあね」
ケイシーとマイルズは再びトレイに視線を移し、食事を続けた。
(ライリーさん……)
ジャンヌの視線は、出て行ったライリーの背中が消えた方角にしばらく留まっていた。
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