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ある日の昼下がり。
帳場の窓からからりとした陽が差し、通りの荷車の音がやわらかく届く。
ジャンヌの席は、受付と出入口を見渡せる端にあり、廊下を行き交う社員の声や受付の賑わいがよく伝わってくる。
今日も受け渡し簿の欄を埋め、受領印の「上」に時刻を小さく記す。黙々と手を動かしていると、ふいに入口がざわついたのがわかった。
見慣れない上衣の男が肩から雪焼けの鞄を下げて入ってくる。
「国境の方からでして――」と受付に声を掛けるその男の靴底には、乾いた泥がわずかに残っていた。
北の空気を連れてくる匂い。帳場の誰かが呼ばれ、廊下の向こうで低い笑い声が交わる。
笑い声の主――男は、毛皮の縁をあしらった外套を羽織り、こめかみに霜に晒されたような淡い色の髪が混じっている。
短く整えた顎髭が冷たい光を受け、狼の灰めいた目は笑っても油断がなく、唇の端に古い小さな傷があった。
受付当番の若手書記が顔をのぞかせる。
「……ライリーさん、お客さまです」
廊下を曲がって姿を見せたライリーに、男の顔がぱっと明るくなる。
「おいおい、やっぱり。――隊長!」
その声に、近くの羽根ペンが一瞬だけ止まった。ライリーは苦笑して男の肩を軽く叩く。
「ここではその呼び名は勘弁してくれ、ハンネス。ようこそ」
「悪い悪い。口が先に出ちまう。……相変わらず背が伸びたように見えるな」
「それは錯覚だ」
ひとしきりの冗談のあと、話は業務の段取りへ移る。荷の明細、港の時間、関所の紙――入口寄りの席のジャンヌには、手元を動かしながらでも会話の端々が耳に入る。
「今年、あの峠は早く閉まったか?」
「例の“雪崩の年”ほどじゃないが、用心はしてる。あの時みたいに道がふさがったら、おれぁ泣くね」
「泣く前に、別の道を引き直せばいいんだ」
ライリーは片目をつぶって肩をすくめる。
「出たよ、隊……じゃない、ライリーの癖。――そういや覚えてるか? 倉庫の火のとき、お前が先に“手を分ける順番”を決めたろ。水と毛布と紙と、口笛で合図してさ。火は上で止まって、下の在庫は無事だった。あの手順、今でも真似してる連中がいるぞ」
ライリーは目を細めただけで、「仕事の話に戻ろう」と穏やかに笑った。
「おお、そうだな。相変わらず真面目なヤツだな!」
ハンネスが豪快に笑い、ライリーの肩を小突く。ポケットからキーリングが落ち、
チャリン――と金属の音が床に転がった。
拾い上げた輪には小さな笛がひとつ、鈍い擦り傷を帯びてぶら下がっている。側面に、控えめな「E」の刻み。
その金具が、ひと呼吸遅れて鳴る癖だけが、ジャンヌの耳にも残った。
「そうだ、今日は娘も連れて来てるんだ。ライリーに会いたいとうるさくてな」
彼の影から、ひとりの娘が一歩進み出る。
深い紺の外套に白い襟、髪は後ろでひと結び。日焼けの残る頬と長い睫毛、黒曜石のような瞳がまっすぐにこちらを掃いた。健康的で凛とした美しさ、口元には勝気さの影。
「隊長! 久しぶり!」
帳場のざわめきが一拍だけ薄くなる。
入口寄りの席から様子を見ていたジャンヌは、手を止め静かに立ち上がった――受付とライリー、来客の三人がひと目に収まる位置だ。
「おお、エレナか。久しぶりだな」
ライリーが目を見開き、口元が綻ぶ。
「ねぇ、ねぇ! 私、二年前より、女らしくなったでしょう?」
エレナはライリーの腕に触れ、軽い笑みの縁に挑むような光を宿す。
その視線が、するりとジャンヌへ滑った。白いリボンの結び目で一瞬止まり、すぐに戻る。
「……こちらは?」
「帳場のジャンヌです」
ライリーが端正に紹介する。
「はじめまして。雪見亭のエレナです。国境の帳簿は少し頑固で、王都流が羨ましいわ」
丁寧な言い回しの奥で、測るような目をしていた。ジャンヌは微笑を崩さず一礼する。
「ようこそ。王都の帳場は手順が多いのですが、困ったことがあればいつでもお声がけください」
エレナは外套の内ポケットから小さな包みを取り出す。薄く焼いた蜂蜜の乾菓子だ。
「隊長の好み、覚えてるわ。蜂蜜は少なめ、歯切れのいいやつよね?」
差し出された瞬間、ライリーのキーリングの笛がかすかに触れ合って鳴る。「E」の刻印が光った。
(……あの笛)
ジャンヌの胸が、わずかにきゅっと鳴る。
ライリーは受け取り、簡潔に礼を返す。
「わざわざありがとう。――ただ、ここは仕事場だから、後でゆっくりいただく」
その一言で、線が引かれる。エレナの笑みが刹那だけ尖り、すぐ艶やかさを取り戻した。
「そうね。“仕事のときは仕事”――あなた、そこだけは変わらないね」
ハンネスが気まずさを割るように咳払いする。
「書式の確認をお願いしたくてな。越境の控えが今年版か、見てくれるかい?」
「拝見します」
ジャンヌは受付脇へ移動して台紙を並べ、受領印の“上”に置かれた時刻に目をやる――自分の提案どおりだ。さらりと見通しをつける。
「こちらは昨年版が一枚だけ混じっています。……この記号、冬季特例の旧印ですね。差し替えれば通ります」
エレナの瞳がほんの少し見開かれた。
「気づいたのね、その印。国境じゃ当たり前でも、王都では見落とされがちなのに」
ライリーが横から淡々と補う。
「差し替えは俺が窓口へ通す。――ジャンヌ、差替票の三行メモ、頼めるか」
「はい」
羽根ペンが軽く走り、必要最小限が整然と並ぶ。ハンネスが満足げに頷いた。
「手際がいい。さすが王都だ」
エレナは一歩、ジャンヌに近づいた。雪国の針葉樹の香りがふわりと舞った。声は丸く、言葉は鋭い。
「白いリボン、似合ってる。……ほどけない結び、ね」
ジャンヌは微笑の角度を変えずに返す。
「ほどけても、結び直せます。それがリボンの良さですから」
視線が一瞬、静かにぶつかった。
ライリーが軽く片手を上げ、ふたりの間をやわらかく割る。
「午後、窓口の手続きが済んだら知らせる。――ハンネス、エレナ、案内するよ」
ハンネスとエレナが廊下へ出る。去り際、エレナは肩越しに振り返った。
「隊長、あとで少しだけ時間ちょうだい? “笛”の話、続きがあるの」
「……仕事が終わったらな」
返事は短く、温度は一定だった。
扉が閉まり、帳場のざわめきが戻る。
ジャンヌは席へ戻り、胸の内側に触れて白いリボンの結び目をそっと確かめた。
(……ほどけても、結べる)
ペン先が、いつもの細さで滑り出した。
帳場の窓からからりとした陽が差し、通りの荷車の音がやわらかく届く。
ジャンヌの席は、受付と出入口を見渡せる端にあり、廊下を行き交う社員の声や受付の賑わいがよく伝わってくる。
今日も受け渡し簿の欄を埋め、受領印の「上」に時刻を小さく記す。黙々と手を動かしていると、ふいに入口がざわついたのがわかった。
見慣れない上衣の男が肩から雪焼けの鞄を下げて入ってくる。
「国境の方からでして――」と受付に声を掛けるその男の靴底には、乾いた泥がわずかに残っていた。
北の空気を連れてくる匂い。帳場の誰かが呼ばれ、廊下の向こうで低い笑い声が交わる。
笑い声の主――男は、毛皮の縁をあしらった外套を羽織り、こめかみに霜に晒されたような淡い色の髪が混じっている。
短く整えた顎髭が冷たい光を受け、狼の灰めいた目は笑っても油断がなく、唇の端に古い小さな傷があった。
受付当番の若手書記が顔をのぞかせる。
「……ライリーさん、お客さまです」
廊下を曲がって姿を見せたライリーに、男の顔がぱっと明るくなる。
「おいおい、やっぱり。――隊長!」
その声に、近くの羽根ペンが一瞬だけ止まった。ライリーは苦笑して男の肩を軽く叩く。
「ここではその呼び名は勘弁してくれ、ハンネス。ようこそ」
「悪い悪い。口が先に出ちまう。……相変わらず背が伸びたように見えるな」
「それは錯覚だ」
ひとしきりの冗談のあと、話は業務の段取りへ移る。荷の明細、港の時間、関所の紙――入口寄りの席のジャンヌには、手元を動かしながらでも会話の端々が耳に入る。
「今年、あの峠は早く閉まったか?」
「例の“雪崩の年”ほどじゃないが、用心はしてる。あの時みたいに道がふさがったら、おれぁ泣くね」
「泣く前に、別の道を引き直せばいいんだ」
ライリーは片目をつぶって肩をすくめる。
「出たよ、隊……じゃない、ライリーの癖。――そういや覚えてるか? 倉庫の火のとき、お前が先に“手を分ける順番”を決めたろ。水と毛布と紙と、口笛で合図してさ。火は上で止まって、下の在庫は無事だった。あの手順、今でも真似してる連中がいるぞ」
ライリーは目を細めただけで、「仕事の話に戻ろう」と穏やかに笑った。
「おお、そうだな。相変わらず真面目なヤツだな!」
ハンネスが豪快に笑い、ライリーの肩を小突く。ポケットからキーリングが落ち、
チャリン――と金属の音が床に転がった。
拾い上げた輪には小さな笛がひとつ、鈍い擦り傷を帯びてぶら下がっている。側面に、控えめな「E」の刻み。
その金具が、ひと呼吸遅れて鳴る癖だけが、ジャンヌの耳にも残った。
「そうだ、今日は娘も連れて来てるんだ。ライリーに会いたいとうるさくてな」
彼の影から、ひとりの娘が一歩進み出る。
深い紺の外套に白い襟、髪は後ろでひと結び。日焼けの残る頬と長い睫毛、黒曜石のような瞳がまっすぐにこちらを掃いた。健康的で凛とした美しさ、口元には勝気さの影。
「隊長! 久しぶり!」
帳場のざわめきが一拍だけ薄くなる。
入口寄りの席から様子を見ていたジャンヌは、手を止め静かに立ち上がった――受付とライリー、来客の三人がひと目に収まる位置だ。
「おお、エレナか。久しぶりだな」
ライリーが目を見開き、口元が綻ぶ。
「ねぇ、ねぇ! 私、二年前より、女らしくなったでしょう?」
エレナはライリーの腕に触れ、軽い笑みの縁に挑むような光を宿す。
その視線が、するりとジャンヌへ滑った。白いリボンの結び目で一瞬止まり、すぐに戻る。
「……こちらは?」
「帳場のジャンヌです」
ライリーが端正に紹介する。
「はじめまして。雪見亭のエレナです。国境の帳簿は少し頑固で、王都流が羨ましいわ」
丁寧な言い回しの奥で、測るような目をしていた。ジャンヌは微笑を崩さず一礼する。
「ようこそ。王都の帳場は手順が多いのですが、困ったことがあればいつでもお声がけください」
エレナは外套の内ポケットから小さな包みを取り出す。薄く焼いた蜂蜜の乾菓子だ。
「隊長の好み、覚えてるわ。蜂蜜は少なめ、歯切れのいいやつよね?」
差し出された瞬間、ライリーのキーリングの笛がかすかに触れ合って鳴る。「E」の刻印が光った。
(……あの笛)
ジャンヌの胸が、わずかにきゅっと鳴る。
ライリーは受け取り、簡潔に礼を返す。
「わざわざありがとう。――ただ、ここは仕事場だから、後でゆっくりいただく」
その一言で、線が引かれる。エレナの笑みが刹那だけ尖り、すぐ艶やかさを取り戻した。
「そうね。“仕事のときは仕事”――あなた、そこだけは変わらないね」
ハンネスが気まずさを割るように咳払いする。
「書式の確認をお願いしたくてな。越境の控えが今年版か、見てくれるかい?」
「拝見します」
ジャンヌは受付脇へ移動して台紙を並べ、受領印の“上”に置かれた時刻に目をやる――自分の提案どおりだ。さらりと見通しをつける。
「こちらは昨年版が一枚だけ混じっています。……この記号、冬季特例の旧印ですね。差し替えれば通ります」
エレナの瞳がほんの少し見開かれた。
「気づいたのね、その印。国境じゃ当たり前でも、王都では見落とされがちなのに」
ライリーが横から淡々と補う。
「差し替えは俺が窓口へ通す。――ジャンヌ、差替票の三行メモ、頼めるか」
「はい」
羽根ペンが軽く走り、必要最小限が整然と並ぶ。ハンネスが満足げに頷いた。
「手際がいい。さすが王都だ」
エレナは一歩、ジャンヌに近づいた。雪国の針葉樹の香りがふわりと舞った。声は丸く、言葉は鋭い。
「白いリボン、似合ってる。……ほどけない結び、ね」
ジャンヌは微笑の角度を変えずに返す。
「ほどけても、結び直せます。それがリボンの良さですから」
視線が一瞬、静かにぶつかった。
ライリーが軽く片手を上げ、ふたりの間をやわらかく割る。
「午後、窓口の手続きが済んだら知らせる。――ハンネス、エレナ、案内するよ」
ハンネスとエレナが廊下へ出る。去り際、エレナは肩越しに振り返った。
「隊長、あとで少しだけ時間ちょうだい? “笛”の話、続きがあるの」
「……仕事が終わったらな」
返事は短く、温度は一定だった。
扉が閉まり、帳場のざわめきが戻る。
ジャンヌは席へ戻り、胸の内側に触れて白いリボンの結び目をそっと確かめた。
(……ほどけても、結べる)
ペン先が、いつもの細さで滑り出した。
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