【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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 ある日の昼下がり。
 帳場の窓からからりとした陽が差し、通りの荷車の音がやわらかく届く。

 ジャンヌの席は、受付と出入口を見渡せる端にあり、廊下を行き交う社員の声や受付の賑わいがよく伝わってくる。

 今日も受け渡し簿の欄を埋め、受領印の「上」に時刻を小さく記す。黙々と手を動かしていると、ふいに入口がざわついたのがわかった。

 見慣れない上衣の男が肩から雪焼けの鞄を下げて入ってくる。

「国境の方からでして――」と受付に声を掛けるその男の靴底には、乾いた泥がわずかに残っていた。

 北の空気を連れてくる匂い。帳場の誰かが呼ばれ、廊下の向こうで低い笑い声が交わる。

 笑い声の主――男は、毛皮の縁をあしらった外套を羽織り、こめかみに霜に晒されたような淡い色の髪が混じっている。

短く整えた顎髭が冷たい光を受け、狼の灰めいた目は笑っても油断がなく、唇の端に古い小さな傷があった。

 受付当番の若手書記が顔をのぞかせる。
「……ライリーさん、お客さまです」

 廊下を曲がって姿を見せたライリーに、男の顔がぱっと明るくなる。

「おいおい、やっぱり。――隊長!」

 その声に、近くの羽根ペンが一瞬だけ止まった。ライリーは苦笑して男の肩を軽く叩く。

「ここではその呼び名は勘弁してくれ、ハンネス。ようこそ」
「悪い悪い。口が先に出ちまう。……相変わらず背が伸びたように見えるな」
「それは錯覚だ」

 ひとしきりの冗談のあと、話は業務の段取りへ移る。荷の明細、港の時間、関所の紙――入口寄りの席のジャンヌには、手元を動かしながらでも会話の端々が耳に入る。

「今年、あの峠は早く閉まったか?」
「例の“雪崩の年”ほどじゃないが、用心はしてる。あの時みたいに道がふさがったら、おれぁ泣くね」
「泣く前に、別の道を引き直せばいいんだ」
ライリーは片目をつぶって肩をすくめる。

「出たよ、隊……じゃない、ライリーの癖。――そういや覚えてるか? 倉庫の火のとき、お前が先に“手を分ける順番”を決めたろ。水と毛布と紙と、口笛で合図してさ。火は上で止まって、下の在庫は無事だった。あの手順、今でも真似してる連中がいるぞ」

 ライリーは目を細めただけで、「仕事の話に戻ろう」と穏やかに笑った。

「おお、そうだな。相変わらず真面目なヤツだな!」
 ハンネスが豪快に笑い、ライリーの肩を小突く。ポケットからキーリングが落ち、
チャリン――と金属の音が床に転がった。

 拾い上げた輪には小さな笛がひとつ、鈍い擦り傷を帯びてぶら下がっている。側面に、控えめな「E」の刻み。

 その金具が、ひと呼吸遅れて鳴る癖だけが、ジャンヌの耳にも残った。

「そうだ、今日は娘も連れて来てるんだ。ライリーに会いたいとうるさくてな」

 彼の影から、ひとりの娘が一歩進み出る。

 深い紺の外套に白い襟、髪は後ろでひと結び。日焼けの残る頬と長い睫毛、黒曜石のような瞳がまっすぐにこちらを掃いた。健康的で凛とした美しさ、口元には勝気さの影。

「隊長! 久しぶり!」
 帳場のざわめきが一拍だけ薄くなる。
 入口寄りの席から様子を見ていたジャンヌは、手を止め静かに立ち上がった――受付とライリー、来客の三人がひと目に収まる位置だ。

「おお、エレナか。久しぶりだな」
 ライリーが目を見開き、口元が綻ぶ。

「ねぇ、ねぇ! 私、二年前より、女らしくなったでしょう?」
 エレナはライリーの腕に触れ、軽い笑みの縁に挑むような光を宿す。

 その視線が、するりとジャンヌへ滑った。白いリボンの結び目で一瞬止まり、すぐに戻る。

「……こちらは?」
「帳場のジャンヌです」
 ライリーが端正に紹介する。
「はじめまして。雪見亭のエレナです。国境の帳簿は少し頑固で、王都流が羨ましいわ」

 丁寧な言い回しの奥で、測るような目をしていた。ジャンヌは微笑を崩さず一礼する。
「ようこそ。王都の帳場は手順が多いのですが、困ったことがあればいつでもお声がけください」

 エレナは外套の内ポケットから小さな包みを取り出す。薄く焼いた蜂蜜の乾菓子だ。
「隊長の好み、覚えてるわ。蜂蜜は少なめ、歯切れのいいやつよね?」
 差し出された瞬間、ライリーのキーリングの笛がかすかに触れ合って鳴る。「E」の刻印が光った。

(……あの笛)
 ジャンヌの胸が、わずかにきゅっと鳴る。

 ライリーは受け取り、簡潔に礼を返す。
「わざわざありがとう。――ただ、ここは仕事場だから、後でゆっくりいただく」

 その一言で、線が引かれる。エレナの笑みが刹那だけ尖り、すぐ艶やかさを取り戻した。
「そうね。“仕事のときは仕事”――あなた、そこだけは変わらないね」

 ハンネスが気まずさを割るように咳払いする。
「書式の確認をお願いしたくてな。越境の控えが今年版か、見てくれるかい?」
「拝見します」
 ジャンヌは受付脇へ移動して台紙を並べ、受領印の“上”に置かれた時刻に目をやる――自分の提案どおりだ。さらりと見通しをつける。

「こちらは昨年版が一枚だけ混じっています。……この記号、冬季特例の旧印ですね。差し替えれば通ります」

 エレナの瞳がほんの少し見開かれた。
「気づいたのね、その印。国境じゃ当たり前でも、王都では見落とされがちなのに」

 ライリーが横から淡々と補う。
「差し替えは俺が窓口へ通す。――ジャンヌ、差替票の三行メモ、頼めるか」
「はい」
 羽根ペンが軽く走り、必要最小限が整然と並ぶ。ハンネスが満足げに頷いた。

「手際がいい。さすが王都だ」

 エレナは一歩、ジャンヌに近づいた。雪国の針葉樹の香りがふわりと舞った。声は丸く、言葉は鋭い。

「白いリボン、似合ってる。……ほどけない結び、ね」
 ジャンヌは微笑の角度を変えずに返す。
「ほどけても、結び直せます。それがリボンの良さですから」

 視線が一瞬、静かにぶつかった。
 ライリーが軽く片手を上げ、ふたりの間をやわらかく割る。

「午後、窓口の手続きが済んだら知らせる。――ハンネス、エレナ、案内するよ」

 ハンネスとエレナが廊下へ出る。去り際、エレナは肩越しに振り返った。

「隊長、あとで少しだけ時間ちょうだい? “笛”の話、続きがあるの」
「……仕事が終わったらな」
 返事は短く、温度は一定だった。

 扉が閉まり、帳場のざわめきが戻る。
 ジャンヌは席へ戻り、胸の内側に触れて白いリボンの結び目をそっと確かめた。

(……ほどけても、結べる)

 ペン先が、いつもの細さで滑り出した。
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