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トーマスは職場の製図台に肘をつき、深く息を吐いた。
ハルディを怒らせたあの日以来、ふたりの関係は細い綱の上をおそるおそる渡っているように心もとなかった。
彼は彼女の部屋を出て自宅へ戻り、同棲の話はいったん保留にした。
ハルディは涙をこぼしたが、別れではなく「少し距離を置く」という形で落ち着いた。
職場では言葉を交わし、時に笑い合う。けれど、その笑いの下で何かが擦れて、かすかな音を立てる。
彼女は甘え、艶やかな誘惑で引き寄せ、時には涙で訴える。
トーマスはそのたびに「今は仕事を」と押し返した。押し返すほど彼女の腕は強く絡んだ――が、ここ数日は潮が引くようにおとなしく、「見守る」と言って表面上は落ち着いている。
仕事では、久しぶりに線が思うように伸びた。提出した図面に上司が頷き、先輩が肩を叩く。
「よくやった」
その言葉が胸に刺さるたび、別の言葉がむくりと頭をもたげる。
(……ジャンヌに、謝らなきゃ)
思いは日ごとに重みを増し、ある夕方、彼はとうとうジャンヌが住む女子寮の通りへ足を向けた。
石畳を踏む自分の靴音だけが響く。
門灯の油がちろちろと揺れ、夕餉の匂いが流れてくるころ――遠く、寮の前に白い影が見えた。
ジャンヌだ。外套の襟に指をかけ、門の前で誰かと話している。
相手は背の高い男。市祭の天幕の下で見た横顔――ライリーだった。
男は門の灯を顎で示し、ジャンヌは小さく頷いて笑う。ごく短い会釈、やわらかくほどける口元。門が開き、彼女は中へ消える。
男は灯が点いたのを見届け、肩の力を抜いて背を向けた。
トーマスは街路樹の陰に身を引き、気づかれない距離をとったまま立ち尽くす。
胸のどこかが静かにきしんだ。
会釈ひとつ、笑みひとつ――たったそれだけのやりとりが、恋人の合図に見えてしまう。
(違う、勝手に決めつけるな)
わかっている。ショックを受ける資格なんて、自分にはない。
それでも――あの笑顔がもう自分に向けられないのだと想像するだけで、胸の真ん中が張り裂けそうに痛んだ。
足は自然と反対の道を選ぶ。石畳の角をいくつか曲がると、テラスのある小さなカフェが賑わっていた。
細い椅子が並び、色とりどりの帽子が夕暮れに揺れる。砂糖壺のスプーンがカップに触れて軽い音を立てる。
ふと、耳が言葉を拾う。
「――ハルディも、よくやるよね」
足が止まった。女たちのテーブルは通りに向いていて、こちらからは死角。
トーマスは庇の柱の陰に身を寄せ、彼女たちの数人の視線が届かない位置に立つ。
「営業部のエースを振ってまで手に入れた“イケメン新人”に、いま振られそうなんだって?」
「ちょっと、いい気味。ほら、同棲の話をしたから引かれたんでしょう?結婚に持ち込みたいのが見え見え」
「だって、“早く仕事辞めたい”が口癖だもの、あの子」
「未練タラタラのユアン先輩とよりを戻せば良いのに」
「それがさ、ユアン先輩とは“身体の相性”が合わないんだって!」
「その点、“新人くん”は良いみたいよ。こうなったら“デキ婚”狙うって」
「ああ、それ、私も聞いたわ。ここ最近、避妊薬を飲むの止めたんだってね」
「えー、強硬手段ってやつ?」
「でも、今は新人くんに距離を空けられちゃってるんでしょう?」
「それ、ハルディの駆け引きだから。押してダメなら引くってやつ。今“引き”の最中なんだって」
ひとつひとつの言葉が、乾いた机にこぼれた砂粒みたいに、心の上をざらざらと滑っていく。笑い声。カップの音。砂糖を落とす白い匙。どれも軽いのに、ひどく重い。
(……俺のことを、そんなふうに)
腹の底に冷たいものが沈む。
真偽はわからない。噂話は誇張も混じる。だが、自分が“話の種”になっている事実だけは変わらない。
市祭の夜、浮かれた頭で彼女の笑う目を眩しいと思った。いつのまにか、その眩しさに目が慣れ、暗さも光も見分けにくくなっていたのかもしれない。
(ジャンヌ……)
門前のあの笑顔が脳裏で光る。胸の奥で、ずっと言えずにいる短い言葉が棘のように疼く。
――ごめん。
いまさらだ。会社に来た彼女へ、あのとき自分は何と言った?
「もう来るな」――よりにもよって、一番言ってはいけない言葉で扉を閉めたのは自分だ。
柱の陰からそっと離れる。
カフェの笑い声は背中へ遠ざかり、夜風が汗ばむ襟足を冷やした。石畳の節目がくっきり見える。
どこへ戻ればいいのか、一歩ごとに足が重くなる。
(謝りたい。けれど、どの顔で)
女子寮の呼び鈴に指を伸ばす自分を想像する。扉が開き、彼女の瞳が揺れる――その光景は、今の自分には勝手な願いでしかない。
(せめて――胸を張って、会える自分で)
家路を選ぶ。自室の灯りを点け、鉛筆を削り、線を引く。
そうやってしか、もう彼女の前に立てない。“幼馴染に戻る”という言い訳でさえ、今の自分には贅沢だ。
夜空はよく晴れ、星の粒が滲まずに光っている。
トーマスはゆっくりと息を吐き、窓の外を見つめた。二度と軽い足取りで誰かの部屋へ流れ込まないよう、自分の部屋へ戻る道だけをしっかりと選ぶ。
扉を閉めたら、机に向かおう。遅れている演習図を一本ずつ片づける。
胸のどこかで棘のように疼く「ごめん」を、いつか言葉にできる日まで――。
遠くで、誰かの口笛が短く三度、長く一度。どこからか聞こえたその合図に、彼は顔を上げた。夜の空気は冷たく澄み、痛む場所だけがはっきりしていた。
ハルディを怒らせたあの日以来、ふたりの関係は細い綱の上をおそるおそる渡っているように心もとなかった。
彼は彼女の部屋を出て自宅へ戻り、同棲の話はいったん保留にした。
ハルディは涙をこぼしたが、別れではなく「少し距離を置く」という形で落ち着いた。
職場では言葉を交わし、時に笑い合う。けれど、その笑いの下で何かが擦れて、かすかな音を立てる。
彼女は甘え、艶やかな誘惑で引き寄せ、時には涙で訴える。
トーマスはそのたびに「今は仕事を」と押し返した。押し返すほど彼女の腕は強く絡んだ――が、ここ数日は潮が引くようにおとなしく、「見守る」と言って表面上は落ち着いている。
仕事では、久しぶりに線が思うように伸びた。提出した図面に上司が頷き、先輩が肩を叩く。
「よくやった」
その言葉が胸に刺さるたび、別の言葉がむくりと頭をもたげる。
(……ジャンヌに、謝らなきゃ)
思いは日ごとに重みを増し、ある夕方、彼はとうとうジャンヌが住む女子寮の通りへ足を向けた。
石畳を踏む自分の靴音だけが響く。
門灯の油がちろちろと揺れ、夕餉の匂いが流れてくるころ――遠く、寮の前に白い影が見えた。
ジャンヌだ。外套の襟に指をかけ、門の前で誰かと話している。
相手は背の高い男。市祭の天幕の下で見た横顔――ライリーだった。
男は門の灯を顎で示し、ジャンヌは小さく頷いて笑う。ごく短い会釈、やわらかくほどける口元。門が開き、彼女は中へ消える。
男は灯が点いたのを見届け、肩の力を抜いて背を向けた。
トーマスは街路樹の陰に身を引き、気づかれない距離をとったまま立ち尽くす。
胸のどこかが静かにきしんだ。
会釈ひとつ、笑みひとつ――たったそれだけのやりとりが、恋人の合図に見えてしまう。
(違う、勝手に決めつけるな)
わかっている。ショックを受ける資格なんて、自分にはない。
それでも――あの笑顔がもう自分に向けられないのだと想像するだけで、胸の真ん中が張り裂けそうに痛んだ。
足は自然と反対の道を選ぶ。石畳の角をいくつか曲がると、テラスのある小さなカフェが賑わっていた。
細い椅子が並び、色とりどりの帽子が夕暮れに揺れる。砂糖壺のスプーンがカップに触れて軽い音を立てる。
ふと、耳が言葉を拾う。
「――ハルディも、よくやるよね」
足が止まった。女たちのテーブルは通りに向いていて、こちらからは死角。
トーマスは庇の柱の陰に身を寄せ、彼女たちの数人の視線が届かない位置に立つ。
「営業部のエースを振ってまで手に入れた“イケメン新人”に、いま振られそうなんだって?」
「ちょっと、いい気味。ほら、同棲の話をしたから引かれたんでしょう?結婚に持ち込みたいのが見え見え」
「だって、“早く仕事辞めたい”が口癖だもの、あの子」
「未練タラタラのユアン先輩とよりを戻せば良いのに」
「それがさ、ユアン先輩とは“身体の相性”が合わないんだって!」
「その点、“新人くん”は良いみたいよ。こうなったら“デキ婚”狙うって」
「ああ、それ、私も聞いたわ。ここ最近、避妊薬を飲むの止めたんだってね」
「えー、強硬手段ってやつ?」
「でも、今は新人くんに距離を空けられちゃってるんでしょう?」
「それ、ハルディの駆け引きだから。押してダメなら引くってやつ。今“引き”の最中なんだって」
ひとつひとつの言葉が、乾いた机にこぼれた砂粒みたいに、心の上をざらざらと滑っていく。笑い声。カップの音。砂糖を落とす白い匙。どれも軽いのに、ひどく重い。
(……俺のことを、そんなふうに)
腹の底に冷たいものが沈む。
真偽はわからない。噂話は誇張も混じる。だが、自分が“話の種”になっている事実だけは変わらない。
市祭の夜、浮かれた頭で彼女の笑う目を眩しいと思った。いつのまにか、その眩しさに目が慣れ、暗さも光も見分けにくくなっていたのかもしれない。
(ジャンヌ……)
門前のあの笑顔が脳裏で光る。胸の奥で、ずっと言えずにいる短い言葉が棘のように疼く。
――ごめん。
いまさらだ。会社に来た彼女へ、あのとき自分は何と言った?
「もう来るな」――よりにもよって、一番言ってはいけない言葉で扉を閉めたのは自分だ。
柱の陰からそっと離れる。
カフェの笑い声は背中へ遠ざかり、夜風が汗ばむ襟足を冷やした。石畳の節目がくっきり見える。
どこへ戻ればいいのか、一歩ごとに足が重くなる。
(謝りたい。けれど、どの顔で)
女子寮の呼び鈴に指を伸ばす自分を想像する。扉が開き、彼女の瞳が揺れる――その光景は、今の自分には勝手な願いでしかない。
(せめて――胸を張って、会える自分で)
家路を選ぶ。自室の灯りを点け、鉛筆を削り、線を引く。
そうやってしか、もう彼女の前に立てない。“幼馴染に戻る”という言い訳でさえ、今の自分には贅沢だ。
夜空はよく晴れ、星の粒が滲まずに光っている。
トーマスはゆっくりと息を吐き、窓の外を見つめた。二度と軽い足取りで誰かの部屋へ流れ込まないよう、自分の部屋へ戻る道だけをしっかりと選ぶ。
扉を閉めたら、机に向かおう。遅れている演習図を一本ずつ片づける。
胸のどこかで棘のように疼く「ごめん」を、いつか言葉にできる日まで――。
遠くで、誰かの口笛が短く三度、長く一度。どこからか聞こえたその合図に、彼は顔を上げた。夜の空気は冷たく澄み、痛む場所だけがはっきりしていた。
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