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ハルディとの決定的な喧嘩は、取るに足らないことから始まった。
互いの休日が重なった日、久しぶりに顔を合わせた。
トーマスの部屋を訪れた彼女は「買い物に行きたい」と言い、さらに「そのあと、今夜は私の部屋に泊まって」とねだった。
「今夜は無理だ。明日の提出に間に合わせたい」
そう告げた瞬間、ハルディの笑みが紙を裂くように薄くなった。
「また仕事?!私と将来の話より?」
「将来の話は、焦って決めることじゃない」
「じゃあいつ?“いつか”って、何度目?」
声の端でガラスが鳴る。トーマスは言い募る言葉を飲み込み、静かに息を吐いた。
「同棲の件は、保留より、一旦、白紙にしたい」
「……え、何それ」
ハルディは表情を失い、言葉をなくした。
「ごめん…よく考え直したいんだ」
トーマスは俯き、言葉を絞り出す。
黙っていたハルディは一歩にじり寄り、顎を上げた。
「わかったわ。同棲の話は白紙にしましょう。もう、喧嘩はしたくないの。トーマスも、そうでしょう?」
「……ああ」
彼女は甘えた声を出して、トーマスにしなだれかかった。
「ねぇ、トーマス…愛しているの。仲直りしましょうよ…」
ハルディの柔らかな香りと、熱い指先がトーマスの首筋に這う。
「ねぇ、ベッドで仲直り…良いでしょう?」
ハルディの唇が近づき、胸の鼓動が乱れるより早く、脳裏に別の言葉が閃いた。
――『ここ最近、避妊薬を飲むの止めたんだって』
先日のカフェテラスで耳に入った言葉だった。筋肉が先に固まり、肩に置かれた手を、そっと外す。
「……ハルディ。ごめん。今は、できない」
「“できない”?どうして?気持ちよくさせてあげるわ」
そう言って彼女はトーマスの欲望の証に触れてから、口で奉仕し始めた。
――『デキ婚狙ってるって』
――『強硬手段ってやつ?』
女子社員達の言葉が響く。
トーマスはどんどん頭も身体も冷えていき、ハルディの口淫に、全く反応を示さなかった。
とうとう彼女の目に火が入った。
「トーマス、なんで反応しないの?!」
「今日は……いや、しばらくは無理だと思う」
「どういうこと!?ひどい、バカにしてるわっ!私がここまでしているのにっ」
ハルディの激情が刃のように返ってくる。返す言葉を探した指先が空をつかむ。
「……もういい」
ハルディは短く告げ、笑みを消した。
「別れましょう、トーマス。こんな男だと思わなかったわ」
扉が強く閉じ、揺れが壁を走った。
残ったのは、皿の上の未飲の茶と、自分の呼吸音だけ。
謝る言葉は喉まで上がっていたのに、出てこなかった。代わりに、肺のどこかがひそかに膨らみ、軽くなるのを自覚する。
(……終わった)
ほっとしている自分に、遅れて気づき、うなだれた。
*
数日後。
部材を取りにトーマスが倉庫へ向かったとき、大きな棚の陰で人影が重なっているのが目に入った。
――ユアンとハルディが、抱き合っていた。
「んっ、ユアン、ここじゃ、ダメでしょ」
「ああ、ハルディ、我慢できない…」
二人は激しく唇を重ねたあと、ユアンの手はハルディのワンピースの中の秘部をまさぐり、卑猥な水音が倉庫内に響いていた。
ぐちゅっ、ぐちゅっ、
「はぁ、はぁ、ハルディ、挿れさせて……」
「……もう、仕方のない人ね」
ユアンは切羽詰まった声を出し、スラックスを下げる。
ハルディはユアンの首筋に両腕を絡めたあと、立ったまま片足を彼に持ち上げられ貫かれた。
「ああ、ハルディ、気持ちいいっ、ああ、ハルディ、ハルディっ、気持ち良過ぎるっ」
一心不乱にユアンは腰の律動を繰り返し、ハルディの名を叫び続ける。
「あん、ユアン、もっと奥、奥を突いて…」
「ああ、ハルディ、ハルディっ、もうダメだ、うっ、イキそうっ…」
「………膣にちょうだい。熱いのたくさん出して」
「はぁ、はぁ、ハルディ、ハルディ、出すよ、受け止めて?あぁっ、あ、あ、イクっ」
絶頂をむかえたユアンはハルディの中に欲望を吐き出した。
トーマスは、二人の行為を目の当たりにしても、不思議と胸は動かなかった。
怒りも、嫉妬も、何も感じなかった。
(……完全に、冷めている)
足音を忍ばせてその場を離れた。
声を上げる必要もない。彼らの物語は、もう自分の線路から外れている。
*
やがて社内に告知が回った。
――ハルディがユアンとの子を授かり、結婚退職する。
ユアンは幸せそうだった。上司に肩を叩かれ、何度も握手を受け、照れ笑いをこぼす。
その光景を遠巻きに見ながら、トーマスの胸は静かに沈んだ。
(あの位置に立っていたのは――自分かもしれなかった)
想像しただけで、肝が冷える。
(避妊を、全部ハルディ任せにしていた。あの噂話を聞かなかったら……今ごろは)
背筋を、氷の指でなぞられたみたいな冷気が走る。
(……ジャンヌにも、同じように無責任だった。俺は、本当に最低だ)
掌を見つめ、ゆっくり握り込む。
(二度と、曖昧にしない)
***
その週末、同僚に誘われて小さな食事会に顔を出した。
料理は悪くなく、笑いも途切れない。
仕事の武勇伝、失敗談、冗談などたくさんの会話に、ひさしぶりに、肩の力を抜いて楽しんだ。
帰り道、同じ方向の女子社員が並んで歩く。
角を二つ曲がったところで、彼女は足を止め、熱のこもった眼差しを向けてきた。
「トーマスさん。もしよかったら……今度、二人で」
その瞳が、ふいにハルディのそれと重なる。
絡め取るような熱。背中に小さな冷汗が滲む
「……ごめん。今は仕事を詰めたいから、約束はできない」
できるだけ柔らかく、なるべく短く、彼女の面子を潰さないように言葉を選ぶ。
「そう、ですか……」
彼女は唇を噛み、すぐに笑顔をつくった。
「また機会があれば」
彼女の背が角に消える。夜風が一度だけ頬を撫でた。
(全部、ハルディに見えてしまうのは……俺の問題だ)
歩幅を少しだけ速める。石畳の継ぎ目が均等に並ぶ。
脳裏に浮かぶのは、可憐に微笑むジャンヌの顔。
(ジャンヌ……)
もう二度と、あの真っ直ぐな恋心に触れることはできない――その現実が、いまさら胸の奥で重く腰を下ろす。
後悔と未練が、同じ重さで底に沈んでいく。
(俺は、とんでもないことをした)
幼馴染として過ごした時間も、身体の関係に進んだ時間も、彼女にまつわるすべての瞬間を、もう取り戻せない。
(もう、時間は戻らない…)
喉の奥に小石のような「ごめん」が引っかかったまま、浅い息だけが出入りする。
後悔と未練は、胸の内で暗闇のように淀みつづけた。
いつまで続くのか――
出口の見えない真っ暗なトンネルに、ひとり取り残された気がした。
互いの休日が重なった日、久しぶりに顔を合わせた。
トーマスの部屋を訪れた彼女は「買い物に行きたい」と言い、さらに「そのあと、今夜は私の部屋に泊まって」とねだった。
「今夜は無理だ。明日の提出に間に合わせたい」
そう告げた瞬間、ハルディの笑みが紙を裂くように薄くなった。
「また仕事?!私と将来の話より?」
「将来の話は、焦って決めることじゃない」
「じゃあいつ?“いつか”って、何度目?」
声の端でガラスが鳴る。トーマスは言い募る言葉を飲み込み、静かに息を吐いた。
「同棲の件は、保留より、一旦、白紙にしたい」
「……え、何それ」
ハルディは表情を失い、言葉をなくした。
「ごめん…よく考え直したいんだ」
トーマスは俯き、言葉を絞り出す。
黙っていたハルディは一歩にじり寄り、顎を上げた。
「わかったわ。同棲の話は白紙にしましょう。もう、喧嘩はしたくないの。トーマスも、そうでしょう?」
「……ああ」
彼女は甘えた声を出して、トーマスにしなだれかかった。
「ねぇ、トーマス…愛しているの。仲直りしましょうよ…」
ハルディの柔らかな香りと、熱い指先がトーマスの首筋に這う。
「ねぇ、ベッドで仲直り…良いでしょう?」
ハルディの唇が近づき、胸の鼓動が乱れるより早く、脳裏に別の言葉が閃いた。
――『ここ最近、避妊薬を飲むの止めたんだって』
先日のカフェテラスで耳に入った言葉だった。筋肉が先に固まり、肩に置かれた手を、そっと外す。
「……ハルディ。ごめん。今は、できない」
「“できない”?どうして?気持ちよくさせてあげるわ」
そう言って彼女はトーマスの欲望の証に触れてから、口で奉仕し始めた。
――『デキ婚狙ってるって』
――『強硬手段ってやつ?』
女子社員達の言葉が響く。
トーマスはどんどん頭も身体も冷えていき、ハルディの口淫に、全く反応を示さなかった。
とうとう彼女の目に火が入った。
「トーマス、なんで反応しないの?!」
「今日は……いや、しばらくは無理だと思う」
「どういうこと!?ひどい、バカにしてるわっ!私がここまでしているのにっ」
ハルディの激情が刃のように返ってくる。返す言葉を探した指先が空をつかむ。
「……もういい」
ハルディは短く告げ、笑みを消した。
「別れましょう、トーマス。こんな男だと思わなかったわ」
扉が強く閉じ、揺れが壁を走った。
残ったのは、皿の上の未飲の茶と、自分の呼吸音だけ。
謝る言葉は喉まで上がっていたのに、出てこなかった。代わりに、肺のどこかがひそかに膨らみ、軽くなるのを自覚する。
(……終わった)
ほっとしている自分に、遅れて気づき、うなだれた。
*
数日後。
部材を取りにトーマスが倉庫へ向かったとき、大きな棚の陰で人影が重なっているのが目に入った。
――ユアンとハルディが、抱き合っていた。
「んっ、ユアン、ここじゃ、ダメでしょ」
「ああ、ハルディ、我慢できない…」
二人は激しく唇を重ねたあと、ユアンの手はハルディのワンピースの中の秘部をまさぐり、卑猥な水音が倉庫内に響いていた。
ぐちゅっ、ぐちゅっ、
「はぁ、はぁ、ハルディ、挿れさせて……」
「……もう、仕方のない人ね」
ユアンは切羽詰まった声を出し、スラックスを下げる。
ハルディはユアンの首筋に両腕を絡めたあと、立ったまま片足を彼に持ち上げられ貫かれた。
「ああ、ハルディ、気持ちいいっ、ああ、ハルディ、ハルディっ、気持ち良過ぎるっ」
一心不乱にユアンは腰の律動を繰り返し、ハルディの名を叫び続ける。
「あん、ユアン、もっと奥、奥を突いて…」
「ああ、ハルディ、ハルディっ、もうダメだ、うっ、イキそうっ…」
「………膣にちょうだい。熱いのたくさん出して」
「はぁ、はぁ、ハルディ、ハルディ、出すよ、受け止めて?あぁっ、あ、あ、イクっ」
絶頂をむかえたユアンはハルディの中に欲望を吐き出した。
トーマスは、二人の行為を目の当たりにしても、不思議と胸は動かなかった。
怒りも、嫉妬も、何も感じなかった。
(……完全に、冷めている)
足音を忍ばせてその場を離れた。
声を上げる必要もない。彼らの物語は、もう自分の線路から外れている。
*
やがて社内に告知が回った。
――ハルディがユアンとの子を授かり、結婚退職する。
ユアンは幸せそうだった。上司に肩を叩かれ、何度も握手を受け、照れ笑いをこぼす。
その光景を遠巻きに見ながら、トーマスの胸は静かに沈んだ。
(あの位置に立っていたのは――自分かもしれなかった)
想像しただけで、肝が冷える。
(避妊を、全部ハルディ任せにしていた。あの噂話を聞かなかったら……今ごろは)
背筋を、氷の指でなぞられたみたいな冷気が走る。
(……ジャンヌにも、同じように無責任だった。俺は、本当に最低だ)
掌を見つめ、ゆっくり握り込む。
(二度と、曖昧にしない)
***
その週末、同僚に誘われて小さな食事会に顔を出した。
料理は悪くなく、笑いも途切れない。
仕事の武勇伝、失敗談、冗談などたくさんの会話に、ひさしぶりに、肩の力を抜いて楽しんだ。
帰り道、同じ方向の女子社員が並んで歩く。
角を二つ曲がったところで、彼女は足を止め、熱のこもった眼差しを向けてきた。
「トーマスさん。もしよかったら……今度、二人で」
その瞳が、ふいにハルディのそれと重なる。
絡め取るような熱。背中に小さな冷汗が滲む
「……ごめん。今は仕事を詰めたいから、約束はできない」
できるだけ柔らかく、なるべく短く、彼女の面子を潰さないように言葉を選ぶ。
「そう、ですか……」
彼女は唇を噛み、すぐに笑顔をつくった。
「また機会があれば」
彼女の背が角に消える。夜風が一度だけ頬を撫でた。
(全部、ハルディに見えてしまうのは……俺の問題だ)
歩幅を少しだけ速める。石畳の継ぎ目が均等に並ぶ。
脳裏に浮かぶのは、可憐に微笑むジャンヌの顔。
(ジャンヌ……)
もう二度と、あの真っ直ぐな恋心に触れることはできない――その現実が、いまさら胸の奥で重く腰を下ろす。
後悔と未練が、同じ重さで底に沈んでいく。
(俺は、とんでもないことをした)
幼馴染として過ごした時間も、身体の関係に進んだ時間も、彼女にまつわるすべての瞬間を、もう取り戻せない。
(もう、時間は戻らない…)
喉の奥に小石のような「ごめん」が引っかかったまま、浅い息だけが出入りする。
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