【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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 ハルディとの決定的な喧嘩は、取るに足らないことから始まった。

 互いの休日が重なった日、久しぶりに顔を合わせた。
 トーマスの部屋を訪れた彼女は「買い物に行きたい」と言い、さらに「そのあと、今夜は私の部屋に泊まって」とねだった。

「今夜は無理だ。明日の提出に間に合わせたい」
 そう告げた瞬間、ハルディの笑みが紙を裂くように薄くなった。

「また仕事?!私と将来の話より?」
「将来の話は、焦って決めることじゃない」
「じゃあいつ?“いつか”って、何度目?」

 声の端でガラスが鳴る。トーマスは言い募る言葉を飲み込み、静かに息を吐いた。

「同棲の件は、保留より、一旦、白紙にしたい」
「……え、何それ」
 ハルディは表情を失い、言葉をなくした。

「ごめん…よく考え直したいんだ」
 トーマスは俯き、言葉を絞り出す。
 黙っていたハルディは一歩にじり寄り、顎を上げた。

「わかったわ。同棲の話は白紙にしましょう。もう、喧嘩はしたくないの。トーマスも、そうでしょう?」
「……ああ」
 彼女は甘えた声を出して、トーマスにしなだれかかった。

「ねぇ、トーマス…愛しているの。仲直りしましょうよ…」
 ハルディの柔らかな香りと、熱い指先がトーマスの首筋に這う。

「ねぇ、ベッドで仲直り…良いでしょう?」
 ハルディの唇が近づき、胸の鼓動が乱れるより早く、脳裏に別の言葉が閃いた。

――『ここ最近、避妊薬を飲むの止めたんだって』

 先日のカフェテラスで耳に入った言葉だった。筋肉が先に固まり、肩に置かれた手を、そっと外す。

「……ハルディ。ごめん。今は、できない」
「“できない”?どうして?気持ちよくさせてあげるわ」
 そう言って彼女はトーマスの欲望の証に触れてから、口で奉仕し始めた。

――『デキ婚狙ってるって』

――『強硬手段ってやつ?』

 女子社員達の言葉が響く。
 トーマスはどんどん頭も身体も冷えていき、ハルディの口淫に、全く反応を示さなかった。

 とうとう彼女の目に火が入った。
「トーマス、なんで反応しないの?!」
「今日は……いや、しばらくは無理だと思う」
「どういうこと!?ひどい、バカにしてるわっ!私がここまでしているのにっ」

 ハルディの激情が刃のように返ってくる。返す言葉を探した指先が空をつかむ。

「……もういい」
 ハルディは短く告げ、笑みを消した。
「別れましょう、トーマス。こんな男だと思わなかったわ」

 扉が強く閉じ、揺れが壁を走った。
 残ったのは、皿の上の未飲の茶と、自分の呼吸音だけ。

 謝る言葉は喉まで上がっていたのに、出てこなかった。代わりに、肺のどこかがひそかに膨らみ、軽くなるのを自覚する。

(……終わった)

 ほっとしている自分に、遅れて気づき、うなだれた。



 数日後。
 部材を取りにトーマスが倉庫へ向かったとき、大きな棚の陰で人影が重なっているのが目に入った。

――ユアンとハルディが、抱き合っていた。

「んっ、ユアン、ここじゃ、ダメでしょ」
「ああ、ハルディ、我慢できない…」
 二人は激しく唇を重ねたあと、ユアンの手はハルディのワンピースの中の秘部をまさぐり、卑猥な水音が倉庫内に響いていた。

ぐちゅっ、ぐちゅっ、

「はぁ、はぁ、ハルディ、挿れさせて……」
「……もう、仕方のない人ね」
 ユアンは切羽詰まった声を出し、スラックスを下げる。

 ハルディはユアンの首筋に両腕を絡めたあと、立ったまま片足を彼に持ち上げられ貫かれた。

「ああ、ハルディ、気持ちいいっ、ああ、ハルディ、ハルディっ、気持ち良過ぎるっ」
 一心不乱にユアンは腰の律動を繰り返し、ハルディの名を叫び続ける。

「あん、ユアン、もっと奥、奥を突いて…」
「ああ、ハルディ、ハルディっ、もうダメだ、うっ、イキそうっ…」
「………なかにちょうだい。熱いのたくさん出して」
「はぁ、はぁ、ハルディ、ハルディ、出すよ、受け止めて?あぁっ、あ、あ、イクっ」 
 絶頂をむかえたユアンはハルディの中に欲望を吐き出した。

 トーマスは、二人の行為を目の当たりにしても、不思議と胸は動かなかった。

 怒りも、嫉妬も、何も感じなかった。

(……完全に、冷めている)

 足音を忍ばせてその場を離れた。
 声を上げる必要もない。彼らの物語は、もう自分の線路から外れている。



 やがて社内に告知が回った。
――ハルディがユアンとの子を授かり、結婚退職する。

 ユアンは幸せそうだった。上司に肩を叩かれ、何度も握手を受け、照れ笑いをこぼす。

 その光景を遠巻きに見ながら、トーマスの胸は静かに沈んだ。

(あの位置に立っていたのは――かもしれなかった)

 想像しただけで、肝が冷える。

(避妊を、全部ハルディ任せにしていた。あのを聞かなかったら……今ごろは)

 背筋を、氷の指でなぞられたみたいな冷気が走る。

(……ジャンヌにも、同じように無責任だった。俺は、本当に最低だ)

 掌を見つめ、ゆっくり握り込む。

(二度と、曖昧にしない)


***


 その週末、同僚に誘われて小さな食事会に顔を出した。

 料理は悪くなく、笑いも途切れない。
 仕事の武勇伝、失敗談、冗談などたくさんの会話に、ひさしぶりに、肩の力を抜いて楽しんだ。

 帰り道、同じ方向の女子社員が並んで歩く。

 角を二つ曲がったところで、彼女は足を止め、熱のこもった眼差しを向けてきた。

「トーマスさん。もしよかったら……今度、二人で」

 その瞳が、ふいにハルディのそれと重なる。
絡め取るような熱。背中に小さな冷汗が滲む

「……ごめん。今は仕事を詰めたいから、約束はできない」
 できるだけ柔らかく、なるべく短く、彼女の面子を潰さないように言葉を選ぶ。

「そう、ですか……」
 彼女は唇を噛み、すぐに笑顔をつくった。

「また機会があれば」

 彼女の背が角に消える。夜風が一度だけ頬を撫でた。

(全部、ハルディに見えてしまうのは……俺の問題だ)

 歩幅を少しだけ速める。石畳の継ぎ目が均等に並ぶ。

 脳裏に浮かぶのは、可憐に微笑むジャンヌの顔。

(ジャンヌ……)

 もう二度と、あの真っ直ぐな恋心に触れることはできない――その現実が、いまさら胸の奥で重く腰を下ろす。
 後悔と未練が、同じ重さで底に沈んでいく。

(俺は、とんでもないことをした)

 幼馴染として過ごした時間も、身体の関係に進んだ時間も、彼女にまつわるすべての瞬間を、もう取り戻せない。

(もう、時間は戻らない…)

 喉の奥に小石のような「ごめん」が引っかかったまま、浅い息だけが出入りする。
後悔と未練は、胸の内で暗闇のように淀みつづけた。

 いつまで続くのか――
 出口の見えない真っ暗なトンネルに、ひとり取り残された気がした。

 


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