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遅い時間の光が部屋を満たすころ、ふたりはようやく上体を起こした。額をこつんと合わせて、同時に笑う。
「幸せって、こういうことだな」
「私も、同じこと考えてた」
彼が指先で前髪をそっと払う。
そのやさしい触れ方に、さっきまでの熱がふっとよみがえり、ジャンヌは思わず頬を染めた。
「顔が赤い。無理させ過ぎたかな」
ライリーが申し訳なさそうに眉を下げ、頬に触れる。
「ううん、違うの。――こうしていられるのが嬉しくて」
慌てて答えると、彼は目を細め、静かに抱きしめた。
「なら、よかった。少し待ってて。簡単だけど朝ごはんを作るから」
「私も手伝うわ」
「じゃあ、君は椅子に座って“見守り係”。危ない役目だ」
「ふふふ……その係、任せて」
小さな火がぱち、と控えめに鳴る。
鉄板の上でハーブ入りの卵がふわりと膨らみ、薄く煮た林檎の甘い香りが部屋に広がった。
昨夜たたんでおいた彼のシャツを羽織ったジャンヌは、長すぎる袖をくるくる折る。少し可笑しくて、少し恥ずかしかった。
「ちょうどいい。似合う」
「……ライリー、背が高いから…大きいね」
「可愛いな」
「…ありがとう」
皿を並べて、ふたりで「いただきます」を合わせる。
パンを割る音、湯気の立つマグの香り。テーブルの向こうで、ライリーが何度も目を細めた。
「ライリーと朝を迎えられて嬉しい…」
「俺も。――もうお昼だけどね」
ふたりはまた笑い合い、時間はゆっくりと進んだ。
*
午後、街は雨上がりみたいに澄んでいた。
「準備、いい?」
「はい」
ジャンヌは紺色のワンピースに白いカーディガン、首元には薄青のスカーフを細く結んだ。
ライリーは紺の上着の襟をきちんと留め、腕を差し出した。
「当番交代だ。午後は俺が“散歩係”」
「頼もしい係さん」
二人の指先がからむ。石畳とちぎれ雲。歩幅を合わせるだけで、鼓動まで歩調をそろえた。
角の花屋から、蜂蜜と土と葉の匂いがしていた。
木の台の小さな束から、ライリーは迷わずひとつを取る。淡い青のわすれな草を紙でそっと包んだ。
「花言葉は……今は言わない」
「どうして?」
「見るたび、今日を思い出してくれたら、それで十分だから」
包みを受け取る手の節まで、温かった。
「ありがとうございます」
言葉より先に、頬がふわりとゆるむのを自分でも止められなかった。
二人の足取りは、川沿いに出た。
水面は薄い金色。欄干に肘を置けば、風がスカーフの端を撫でる。
ライリーが後れ毛を耳にかけてくれる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
彼は柔らかく微笑む。
「ねえ、さっきの花言葉」
「ああ」
「いつか教えてくれる?」
「“いつか”じゃなくて、今、少しだけヒント」
彼は声を落として囁く。
「“忘れない”。――俺にとっては、君の笑顔のこと」
胸が、きゅっと鳴った。
ジャンヌは返事の代わりに包みを抱きしめ、紙越しの小さな茎の感触ごと、今日を覚えこませた。
*
夕暮れが街の輪郭をやわらげる。
帰り道、ライリーは自然に路肩側を歩き、ぬかるみでは手を差し出す。寮の前に着くと、門灯がぱっと灯った。
「ライリー、素敵な誕生日をありがとう。今日を忘れないわ」
「ああ。君の二十歳を一緒に過ごせて、俺も忘れない。――これからも、忘れたくない日々を二人で重ねていこう」
ライリーはまっすぐな眼差しでジャンヌをの瞳を見つめ、言葉を継なぐ。
「ジャンヌ、愛している」
「ライリー……私も。愛してる」
別れ際、さらに低く名を呼ばれる。
「ジャンヌ」
「はい」
「――おやすみの前に、ひとつだけ」
短く、やさしい口づけを交わす。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
扉が閉まる直前、ジャンヌは振り返った。
外套の襟を整え、片手を上げる彼。
胸の中で、青い小花がそっと咲いた音がした。
***
その夜。
寮の扉を閉めた瞬間、胸の奥で花火がぱっと弾けた。
ジャンヌは駆け足で机へ行き、小さな瓶にわすれな草を挿す。窓辺に置けば、紙包みからこぼれた土の匂いが、昼の川風と一緒に部屋へ戻ってくる。
――二十歳の誕生日を、あの人と過ごした。
しかも「愛してる」と言ってくれた。自分も言えた。
その事実を心の真ん中で何度も確かめるたび、鼓動が可笑しいくらい跳ねあがる。
ライリーと愛し合った。
彼の強さとやさしさが、まっすぐに降りそそいでくる。
思い返すと顔から火が出そうな仕草もあったけれど――「可愛い」と言って抱きしめられた腕の記憶が、一瞬で不安をとかしてしまう。
恋人同士の行為が、こんなふうに心と身体を同時に満たすなんて、知らなかった世界が、今日、静かに開いた。
(ライリー……)
名前を胸の中で呼ぶだけで、あたたかさが全身に広がる。
指先がむずむずして、思わずスカーフの端をぎゅっと握った。
(わたし、彼を――愛してる)
薄青のスカーフを椅子の背にひらりとかけ、ベッドにもぐりこむ。
枕に頬を埋めると、今日という一日が宝石みたいにきらきら並びはじめる。
雨宿りの口づけ、彼の部屋、川沿いの風、花屋で交わした小さな秘密。
思い出すたび、胸の奥がくすぐったくて、笑いがこぼれる。
(……ライリー)
もう一度、そっと名を呼ぶ。頬がふわりと熱くなる。
耳の奥では、雨どいの水音がまだ続いている気がして、あの回廊の灯りまで蘇る。
胸の上で指を組むと、午後の散歩の時と同じ形に、ぴたりとおさまった。それだけで、となりに彼がいるみたいに心が落ち着く。
「おやすみなさい、ライリー」
誰にも聞こえない小さな声で囁く。
窓の外の灯が瞬き、瓶のわすれな草がかすかに揺れた。
“忘れない印”が、窓辺と胸の内にひとつずつ。
その幸せを抱えたまま、やさしい眠りがするりとジャンヌに降りてきたのだった。
「幸せって、こういうことだな」
「私も、同じこと考えてた」
彼が指先で前髪をそっと払う。
そのやさしい触れ方に、さっきまでの熱がふっとよみがえり、ジャンヌは思わず頬を染めた。
「顔が赤い。無理させ過ぎたかな」
ライリーが申し訳なさそうに眉を下げ、頬に触れる。
「ううん、違うの。――こうしていられるのが嬉しくて」
慌てて答えると、彼は目を細め、静かに抱きしめた。
「なら、よかった。少し待ってて。簡単だけど朝ごはんを作るから」
「私も手伝うわ」
「じゃあ、君は椅子に座って“見守り係”。危ない役目だ」
「ふふふ……その係、任せて」
小さな火がぱち、と控えめに鳴る。
鉄板の上でハーブ入りの卵がふわりと膨らみ、薄く煮た林檎の甘い香りが部屋に広がった。
昨夜たたんでおいた彼のシャツを羽織ったジャンヌは、長すぎる袖をくるくる折る。少し可笑しくて、少し恥ずかしかった。
「ちょうどいい。似合う」
「……ライリー、背が高いから…大きいね」
「可愛いな」
「…ありがとう」
皿を並べて、ふたりで「いただきます」を合わせる。
パンを割る音、湯気の立つマグの香り。テーブルの向こうで、ライリーが何度も目を細めた。
「ライリーと朝を迎えられて嬉しい…」
「俺も。――もうお昼だけどね」
ふたりはまた笑い合い、時間はゆっくりと進んだ。
*
午後、街は雨上がりみたいに澄んでいた。
「準備、いい?」
「はい」
ジャンヌは紺色のワンピースに白いカーディガン、首元には薄青のスカーフを細く結んだ。
ライリーは紺の上着の襟をきちんと留め、腕を差し出した。
「当番交代だ。午後は俺が“散歩係”」
「頼もしい係さん」
二人の指先がからむ。石畳とちぎれ雲。歩幅を合わせるだけで、鼓動まで歩調をそろえた。
角の花屋から、蜂蜜と土と葉の匂いがしていた。
木の台の小さな束から、ライリーは迷わずひとつを取る。淡い青のわすれな草を紙でそっと包んだ。
「花言葉は……今は言わない」
「どうして?」
「見るたび、今日を思い出してくれたら、それで十分だから」
包みを受け取る手の節まで、温かった。
「ありがとうございます」
言葉より先に、頬がふわりとゆるむのを自分でも止められなかった。
二人の足取りは、川沿いに出た。
水面は薄い金色。欄干に肘を置けば、風がスカーフの端を撫でる。
ライリーが後れ毛を耳にかけてくれる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
彼は柔らかく微笑む。
「ねえ、さっきの花言葉」
「ああ」
「いつか教えてくれる?」
「“いつか”じゃなくて、今、少しだけヒント」
彼は声を落として囁く。
「“忘れない”。――俺にとっては、君の笑顔のこと」
胸が、きゅっと鳴った。
ジャンヌは返事の代わりに包みを抱きしめ、紙越しの小さな茎の感触ごと、今日を覚えこませた。
*
夕暮れが街の輪郭をやわらげる。
帰り道、ライリーは自然に路肩側を歩き、ぬかるみでは手を差し出す。寮の前に着くと、門灯がぱっと灯った。
「ライリー、素敵な誕生日をありがとう。今日を忘れないわ」
「ああ。君の二十歳を一緒に過ごせて、俺も忘れない。――これからも、忘れたくない日々を二人で重ねていこう」
ライリーはまっすぐな眼差しでジャンヌをの瞳を見つめ、言葉を継なぐ。
「ジャンヌ、愛している」
「ライリー……私も。愛してる」
別れ際、さらに低く名を呼ばれる。
「ジャンヌ」
「はい」
「――おやすみの前に、ひとつだけ」
短く、やさしい口づけを交わす。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
扉が閉まる直前、ジャンヌは振り返った。
外套の襟を整え、片手を上げる彼。
胸の中で、青い小花がそっと咲いた音がした。
***
その夜。
寮の扉を閉めた瞬間、胸の奥で花火がぱっと弾けた。
ジャンヌは駆け足で机へ行き、小さな瓶にわすれな草を挿す。窓辺に置けば、紙包みからこぼれた土の匂いが、昼の川風と一緒に部屋へ戻ってくる。
――二十歳の誕生日を、あの人と過ごした。
しかも「愛してる」と言ってくれた。自分も言えた。
その事実を心の真ん中で何度も確かめるたび、鼓動が可笑しいくらい跳ねあがる。
ライリーと愛し合った。
彼の強さとやさしさが、まっすぐに降りそそいでくる。
思い返すと顔から火が出そうな仕草もあったけれど――「可愛い」と言って抱きしめられた腕の記憶が、一瞬で不安をとかしてしまう。
恋人同士の行為が、こんなふうに心と身体を同時に満たすなんて、知らなかった世界が、今日、静かに開いた。
(ライリー……)
名前を胸の中で呼ぶだけで、あたたかさが全身に広がる。
指先がむずむずして、思わずスカーフの端をぎゅっと握った。
(わたし、彼を――愛してる)
薄青のスカーフを椅子の背にひらりとかけ、ベッドにもぐりこむ。
枕に頬を埋めると、今日という一日が宝石みたいにきらきら並びはじめる。
雨宿りの口づけ、彼の部屋、川沿いの風、花屋で交わした小さな秘密。
思い出すたび、胸の奥がくすぐったくて、笑いがこぼれる。
(……ライリー)
もう一度、そっと名を呼ぶ。頬がふわりと熱くなる。
耳の奥では、雨どいの水音がまだ続いている気がして、あの回廊の灯りまで蘇る。
胸の上で指を組むと、午後の散歩の時と同じ形に、ぴたりとおさまった。それだけで、となりに彼がいるみたいに心が落ち着く。
「おやすみなさい、ライリー」
誰にも聞こえない小さな声で囁く。
窓の外の灯が瞬き、瓶のわすれな草がかすかに揺れた。
“忘れない印”が、窓辺と胸の内にひとつずつ。
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