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ハルディと別れて、一年が過ぎた。
図面は嘘をつかず、トーマスの評価は静かに戻っていた。そんな折、同僚のセドリックが昼休みに肩を叩く。
「今度の土曜、顔合わせだけでもどうだ? 相手が“ぜひ”って言っててさ。断ってばかりだと俺の面子が立たないから、悪いけど来てくれないか」
「……すまない。まだ、そういう気分じゃ――」
「向こうの希望なんだ。茶でも一杯、十五分だけでも、な?」
***
渋るうちに当日になった。
石畳に面した小さな喫茶に現れた彼女は、淡い藤色のワンピースに白いカーディガンを来ていた。
名はフラン。声は小ぶりで、言葉の端に気遣いが滲み、微笑む姿は清らかで可憐だった。
湯気の立つカップを彼のほうにそっと寄せて、
「お砂糖は……入れますか?」
「少しだけ」
卓に落ちる影がやわらぐ。
笑う目のかたち、相手の話を受け取ってから返す間合い――ジャンヌをそのまま重ねるには失礼だと分かっているのに、似ているところが胸をくすぐった。
(断るつもりだったのに……)
強くは断れず、「仕事が忙しいから、友人から」と線を引いて、お茶を二杯だけで別れた。
*
その後も、城門近くまでの帰り道がたまたま同じだと分かると、数度だけ並んで歩いた。
彼女は気が利く人だった。
雨の前には小ぶりの折り畳みを彼に差し出し、ほつれたシャツのボタンを見つけると、
「よかったら、針と糸、持っています」
と、路地のベンチで器用に留めてしまう。家では弟妹の世話をよくしているという。控えめで、温かった。彼女なりの歩幅で近づいてくるのが分かる。
(……悪くない。むしろ……安らぐ)
けれど、心の中心は別の名前でいつも満たされていた。
(ジャンヌ……)
*
ある夕暮れ、帰り道の角でフランが言う。
「うち、すぐそこの路地なんです。……ハーブティー、淹れますので…うちに寄っていきませんか?」
いつものように「締め切りが」という言葉は出て来なかった。
灯りの柔らかな部屋。棚に並ぶ瓶、整った麻布、窓辺の小さな植木があり、彼女らしい、慎ましやかな空間だった。湯気の香りは静かで、心を撫でた。
「ありがとう。最近、よく君の世話になってしまって…」
「いいえ。……あの」
控えめに静かに言い置いて、彼女はそっと距離を詰めた。
肩に触れ、華奢な指先でトーマスの袖口をつまむ。指先は、ためらいがちに、けれど確かな意図をもっていた。
彼女の睫毛が揺れ、視線が「ここにいて」と告げる。
フランの細い香りが近づく――その瞬間、胸の奥で冷たい音がした。
(だめだ)
身体が先に固まった。あの白い花の香り、派手な色の家具、夜の笑い声、ガラス瓶の増える音。
ーーハルディの部屋の影が、一瞬にして壁一面に広がった。
「……フラン、ごめん」
声が掠れた。フランの指が止まる。
驚きと戸惑いと、すぐに押し隠した痛みが、その顔に走ったのをトーマスは見た。
「私……はしたないことを…ごめんなさい」
「いや、違う。君のせいじゃない。俺の問題だ。……本当に、すまない」
背中に汗が浮く。一歩下がる足音が、床板に不器用な線を引く。
彼女は首を振り、笑顔を作った。
作り物の笑顔だと分かるぶん、胸がきしむ。
「お茶、冷めちゃいますね。……新しいの淹れ直しましょうか…」
「…いや、ここで失礼するよ」
玄関までの短い道のりが、とてつもなく長かった。扉の金具が鳴る。外の空気が肌に触れる。
「ほんとうに……ごめん」
言い置いて、彼は石畳に出た。背後で扉が静かに閉まる音が、罪の印に聞こえた。
*
夜が更けた。
机の上に図面を伏せ、トーマスは椅子の背にもたれた。
窓の外は風が鳴り、灯の輪が小さく揺れる。胸のどこかで、まださっきの扉の閉まる音が響いていた。
(また、傷つけた。――もう、曖昧にはしない)
引き出しから、一番まっさらな便箋を取り出す。角がつぶれていない封筒を一枚取り出した。
羽根ペンの先を慎重に整え、深く呼吸する。
一度、二度、三度。書いては破り、言い訳に見える言葉を捨てる。紙の白さに、やっと残ったのは短い芯だけだった。
彼は姿勢を正し、静かに書き始める。
⸻
ジャンヌへ
突然の手紙をすまない。
今日まで、言葉にしなければならないことから逃げてきた。ようやく、まっすぐ書く。
あの日、会社で君に「もう来るな」と言った。
最悪の言葉だった。あれは君を守るためでも、君のためでもなく、未熟な自分を守るための一言だった。
そして、君との関係の中で、境界をきちんと引けなかったこと――どれも俺の責任だ。
この一年、仕事に没頭しながら何度も考えた。
誰かの優しさで空白を埋めようとしたのは俺の弱さで、二度と同じことはしないと決めた。遅すぎる反省だが、まずは君に謝りたかった。
許しを乞うつもりはない。
返事は要らないし、俺から会いに行くこともない。君の時間と心を、これ以上、俺のために使わせたくないからだ。
ただ――君のこれからが穏やかであることを、遠くから願っている。
本当に、ごめん。
トーマス
⸻
最後の一行を書き終えると、ペン先がかすかに震えた。
封筒に入れ、糊を引く。封を押さえる指先に、わずかな体温が移った。
(届けるだけでいい。――ここから先は、彼女の時間だ)
外套を羽織り、夜気の中へ出る。
か石畳は冷たく、星は少ない。寮の通りへは行かない。まっすぐ、通り角の郵便箱へ。投入口の金具に手をかけ、ためらわず差し入れる。
からん、と小さな音。
それで終わりだ。返事を待つ場所は、どこにも作らない。
帰り道、胸の奥で長く張っていた糸が、ほんの少しだけ緩むのを感じた。部屋へ戻ると明かりを落とし、図面台に手を置く。
(線を引こう。仕事に打ち込もう)
新しい芯を差し込み、一度だけ窓の外を見た。夜風が薄く通り抜け、紙の端をやさしく持ち上げた。
図面は嘘をつかず、トーマスの評価は静かに戻っていた。そんな折、同僚のセドリックが昼休みに肩を叩く。
「今度の土曜、顔合わせだけでもどうだ? 相手が“ぜひ”って言っててさ。断ってばかりだと俺の面子が立たないから、悪いけど来てくれないか」
「……すまない。まだ、そういう気分じゃ――」
「向こうの希望なんだ。茶でも一杯、十五分だけでも、な?」
***
渋るうちに当日になった。
石畳に面した小さな喫茶に現れた彼女は、淡い藤色のワンピースに白いカーディガンを来ていた。
名はフラン。声は小ぶりで、言葉の端に気遣いが滲み、微笑む姿は清らかで可憐だった。
湯気の立つカップを彼のほうにそっと寄せて、
「お砂糖は……入れますか?」
「少しだけ」
卓に落ちる影がやわらぐ。
笑う目のかたち、相手の話を受け取ってから返す間合い――ジャンヌをそのまま重ねるには失礼だと分かっているのに、似ているところが胸をくすぐった。
(断るつもりだったのに……)
強くは断れず、「仕事が忙しいから、友人から」と線を引いて、お茶を二杯だけで別れた。
*
その後も、城門近くまでの帰り道がたまたま同じだと分かると、数度だけ並んで歩いた。
彼女は気が利く人だった。
雨の前には小ぶりの折り畳みを彼に差し出し、ほつれたシャツのボタンを見つけると、
「よかったら、針と糸、持っています」
と、路地のベンチで器用に留めてしまう。家では弟妹の世話をよくしているという。控えめで、温かった。彼女なりの歩幅で近づいてくるのが分かる。
(……悪くない。むしろ……安らぐ)
けれど、心の中心は別の名前でいつも満たされていた。
(ジャンヌ……)
*
ある夕暮れ、帰り道の角でフランが言う。
「うち、すぐそこの路地なんです。……ハーブティー、淹れますので…うちに寄っていきませんか?」
いつものように「締め切りが」という言葉は出て来なかった。
灯りの柔らかな部屋。棚に並ぶ瓶、整った麻布、窓辺の小さな植木があり、彼女らしい、慎ましやかな空間だった。湯気の香りは静かで、心を撫でた。
「ありがとう。最近、よく君の世話になってしまって…」
「いいえ。……あの」
控えめに静かに言い置いて、彼女はそっと距離を詰めた。
肩に触れ、華奢な指先でトーマスの袖口をつまむ。指先は、ためらいがちに、けれど確かな意図をもっていた。
彼女の睫毛が揺れ、視線が「ここにいて」と告げる。
フランの細い香りが近づく――その瞬間、胸の奥で冷たい音がした。
(だめだ)
身体が先に固まった。あの白い花の香り、派手な色の家具、夜の笑い声、ガラス瓶の増える音。
ーーハルディの部屋の影が、一瞬にして壁一面に広がった。
「……フラン、ごめん」
声が掠れた。フランの指が止まる。
驚きと戸惑いと、すぐに押し隠した痛みが、その顔に走ったのをトーマスは見た。
「私……はしたないことを…ごめんなさい」
「いや、違う。君のせいじゃない。俺の問題だ。……本当に、すまない」
背中に汗が浮く。一歩下がる足音が、床板に不器用な線を引く。
彼女は首を振り、笑顔を作った。
作り物の笑顔だと分かるぶん、胸がきしむ。
「お茶、冷めちゃいますね。……新しいの淹れ直しましょうか…」
「…いや、ここで失礼するよ」
玄関までの短い道のりが、とてつもなく長かった。扉の金具が鳴る。外の空気が肌に触れる。
「ほんとうに……ごめん」
言い置いて、彼は石畳に出た。背後で扉が静かに閉まる音が、罪の印に聞こえた。
*
夜が更けた。
机の上に図面を伏せ、トーマスは椅子の背にもたれた。
窓の外は風が鳴り、灯の輪が小さく揺れる。胸のどこかで、まださっきの扉の閉まる音が響いていた。
(また、傷つけた。――もう、曖昧にはしない)
引き出しから、一番まっさらな便箋を取り出す。角がつぶれていない封筒を一枚取り出した。
羽根ペンの先を慎重に整え、深く呼吸する。
一度、二度、三度。書いては破り、言い訳に見える言葉を捨てる。紙の白さに、やっと残ったのは短い芯だけだった。
彼は姿勢を正し、静かに書き始める。
⸻
ジャンヌへ
突然の手紙をすまない。
今日まで、言葉にしなければならないことから逃げてきた。ようやく、まっすぐ書く。
あの日、会社で君に「もう来るな」と言った。
最悪の言葉だった。あれは君を守るためでも、君のためでもなく、未熟な自分を守るための一言だった。
そして、君との関係の中で、境界をきちんと引けなかったこと――どれも俺の責任だ。
この一年、仕事に没頭しながら何度も考えた。
誰かの優しさで空白を埋めようとしたのは俺の弱さで、二度と同じことはしないと決めた。遅すぎる反省だが、まずは君に謝りたかった。
許しを乞うつもりはない。
返事は要らないし、俺から会いに行くこともない。君の時間と心を、これ以上、俺のために使わせたくないからだ。
ただ――君のこれからが穏やかであることを、遠くから願っている。
本当に、ごめん。
トーマス
⸻
最後の一行を書き終えると、ペン先がかすかに震えた。
封筒に入れ、糊を引く。封を押さえる指先に、わずかな体温が移った。
(届けるだけでいい。――ここから先は、彼女の時間だ)
外套を羽織り、夜気の中へ出る。
か石畳は冷たく、星は少ない。寮の通りへは行かない。まっすぐ、通り角の郵便箱へ。投入口の金具に手をかけ、ためらわず差し入れる。
からん、と小さな音。
それで終わりだ。返事を待つ場所は、どこにも作らない。
帰り道、胸の奥で長く張っていた糸が、ほんの少しだけ緩むのを感じた。部屋へ戻ると明かりを落とし、図面台に手を置く。
(線を引こう。仕事に打ち込もう)
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