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その朝、寮の廊下で金具が小さく鳴った。
配達箱のふたを開けると、見覚えのある筆致の封筒が一通。宛名は端正に、ジャンヌ。
(……トーマス)
胸の奥で古い音がひとつ鳴る。
けれど、脈は暴れなかった。封は切らずに外套の内ポケットへ入れて、ジャンヌは石畳へ足を出した。
***
夕刻。鐘が鳴り、封印紙に今日の日付を置く。
いつもの角でライリーを待っている間に、外套の内側から封筒を取り出し、丁寧に開いた。
紙は短く、まっすぐだった。
あの日の言葉を詫びること。境界を引けなかった自分の未熟さを認めること。返事はいらない、君の時間をこれ以上奪いたくない、と綴ってあった。
読み終えても、涙はこぼれなかった。
胸の真ん中に、冷たい石がひとつ落ち、それがやがて丸くなる感覚だけがあった。
(……受け取った。ここまで)
指先で紙の端をそろえ、そっと折り目をつける。
返信はしない――彼の望みどおりにしよう。
心の中では静かに「許す」を置く。
過去は過去、印影のように確かに残るけれど、今の自分の手は別の方向を向いている。
「ジャンヌ。寒くないか」
声に振り向くと、通り抜ける風の向こうにライリーがいた。
「大丈夫。……幼なじみからの手紙を読んでいたの」
「そうか」
ライリーはうなずいた。
灰青の瞳は静かで、ただ受け止めている。何も聞かないでいてくれる人の存在が、こんなにも温かい。
「返事は書かないつもり……」
それだけ告げて、ジャンヌは薄青のスカーフの端を握り直した。
「返事は義務じゃない。君の時間は、君のものだ」
「……うん。ライリーは、聞かないでいてくれるのね」
一拍おいて、彼は視線をそらさず続けた。
「もちろんだ。無理に聞こうとは思わない。急がなくていい。君の歩幅で、君の言葉で。過去を隠さなくてもいいし、抱えたままでもいい。――話したくなったときにだけ、話してくれたらいい」
胸の奥で、固くなっていたものがすこしほどける。
ジャンヌは小さく笑って、ほんの少しだけ近づいた。
「ありがとう。……ライリー」
「礼を言うのは俺の方だよ」
彼はスカーフのほどけた端を整えるみたいに、指先でそっと結び目の形を直す。
それは「線引き」ではなく、「結び直し」でもなく、ただ“いま”を整えるささやかな手つきだった。
「歩こうか。風に当たると、少し楽になる」
「うん」
石畳に二人の音が並ぶ。
角を曲がる前、ライリーがぽつりと言った。
「俺は君の“いま”が好きだ。だから、過去で君を測らない」
「……ライリー」
肩が触れる距離で、ジャンヌは息をひとつ深く吸う。
雨上がりの匂いと、彼の石鹸の匂いが混ざり合い、胸のざわめきがゆっくり沈んでいった。
*
夜の入口、ジャンヌの寮の門前まで来た。
「おやすみ」と言い合う前に、ジャンヌは白いリボンの端を指でつまみ、ほんの少しだけためらう。
「……いつか、ちゃんと話すね。私から」
「ああ。いつでも。――急がなくていいから」
ランタンの灯が揺れ、灰青の瞳がやわらかく光る。
その光に背中を押されるみたいに、ジャンヌは小さく息を吸った。
「……それと、もうひとつだけ」
視線が薄青のスカーフの先で泳いで、すぐに戻る。
「今夜、もしよかったら……あなたと一緒にいたいの。明日はお休みだし……。都合が悪かったら、いいのだけど」
言い終えると、頬がふっと熱くなる。
ライリーのまぶたが一度だけ瞬き、次の瞬間、灯にとけるような微笑みが広がった。
「……うれしい。俺もそう思っていた。――行こうか」
「うん」
差し出された手に、そっと指を重ねる。
彼は自然にジャンヌの紙包みを受け取り、外套の襟を直した。
「足もと、気をつけて。夜風が少し冷たい」
「大丈夫。あなたがいるから」
「じゃあ、家に着いたら、もっと温かくしよう」
石畳に並んだ影が、角を曲がるたび寄り添うように長くなる。路肩側へさりげなく回り込む彼の歩幅に、ジャンヌの靴音がぴたりと合う。
小さな水たまりを避けるとき、ライリーが指先でそっと合図をくれる。段差の前では、肘に軽く触れて「ここ、少し高い」と耳元で囁く。その低い声がくすぐったい。
「手、冷えてる?」
「少しだけ」
「なら、ここへどうぞ」
ライリーは自分の外套のポケットを片手で開き、もう片方の手でジャンヌの指を包んで中へ導いた。ひとつのポケットに二人の手。思わず笑い合う。
「すごく、あったかい」
「君の手を握っているからかな」
通りの角で、遠くの屋台が看板の灯を落とした。
キーリングが小さく鳴り、錫の笛がかすかに触れ合う。その音に、ジャンヌの指先がポケットの中で小さく震える。
「……鍵の音まで、好きになりそう」
「俺は、君が笑う音がいちばん好きだ」
短い言葉に胸がきゅっと鳴る。
人通りの少ない路地で足を止めると、ライリーが身を屈め、額に軽く口づけた。印を置くみたいに、やさしい口付けだった。
「もう少しだけ、早足でもいい?」
「……はい」
二人の歩幅が、ほんの少し弾む。
窓辺の明かりを横目に抜け、細い坂道を上ると、木の扉が連なる裏通りへ出た。軒から下がる植木鉢が風に揺れ、土と緑の匂いが混じる。
「ようこそ」
三階の踊り場で足を止める。鍵が鳴り、錫の笛がもう一度だけ小さく応えた。
扉が開く。ふわりと、乾いた木と石鹸の匂いがこぼれる。
「お邪魔します」
上着を受け取りながら、ライリーはポケットからまだ離れない手をそっと握り直す。
「外は冷えたね。お茶を淹れる。――ジャンヌ」
「うん?」
「今夜、来てくれてありがとう」
その言葉が胸の奥に灯のようにともって、ジャンヌは小さく頷いた。
さっきまで背中に揺れていたランタンの光はもうないけれど、安心という温度は、指先から全身へ静かに広がっていった。
配達箱のふたを開けると、見覚えのある筆致の封筒が一通。宛名は端正に、ジャンヌ。
(……トーマス)
胸の奥で古い音がひとつ鳴る。
けれど、脈は暴れなかった。封は切らずに外套の内ポケットへ入れて、ジャンヌは石畳へ足を出した。
***
夕刻。鐘が鳴り、封印紙に今日の日付を置く。
いつもの角でライリーを待っている間に、外套の内側から封筒を取り出し、丁寧に開いた。
紙は短く、まっすぐだった。
あの日の言葉を詫びること。境界を引けなかった自分の未熟さを認めること。返事はいらない、君の時間をこれ以上奪いたくない、と綴ってあった。
読み終えても、涙はこぼれなかった。
胸の真ん中に、冷たい石がひとつ落ち、それがやがて丸くなる感覚だけがあった。
(……受け取った。ここまで)
指先で紙の端をそろえ、そっと折り目をつける。
返信はしない――彼の望みどおりにしよう。
心の中では静かに「許す」を置く。
過去は過去、印影のように確かに残るけれど、今の自分の手は別の方向を向いている。
「ジャンヌ。寒くないか」
声に振り向くと、通り抜ける風の向こうにライリーがいた。
「大丈夫。……幼なじみからの手紙を読んでいたの」
「そうか」
ライリーはうなずいた。
灰青の瞳は静かで、ただ受け止めている。何も聞かないでいてくれる人の存在が、こんなにも温かい。
「返事は書かないつもり……」
それだけ告げて、ジャンヌは薄青のスカーフの端を握り直した。
「返事は義務じゃない。君の時間は、君のものだ」
「……うん。ライリーは、聞かないでいてくれるのね」
一拍おいて、彼は視線をそらさず続けた。
「もちろんだ。無理に聞こうとは思わない。急がなくていい。君の歩幅で、君の言葉で。過去を隠さなくてもいいし、抱えたままでもいい。――話したくなったときにだけ、話してくれたらいい」
胸の奥で、固くなっていたものがすこしほどける。
ジャンヌは小さく笑って、ほんの少しだけ近づいた。
「ありがとう。……ライリー」
「礼を言うのは俺の方だよ」
彼はスカーフのほどけた端を整えるみたいに、指先でそっと結び目の形を直す。
それは「線引き」ではなく、「結び直し」でもなく、ただ“いま”を整えるささやかな手つきだった。
「歩こうか。風に当たると、少し楽になる」
「うん」
石畳に二人の音が並ぶ。
角を曲がる前、ライリーがぽつりと言った。
「俺は君の“いま”が好きだ。だから、過去で君を測らない」
「……ライリー」
肩が触れる距離で、ジャンヌは息をひとつ深く吸う。
雨上がりの匂いと、彼の石鹸の匂いが混ざり合い、胸のざわめきがゆっくり沈んでいった。
*
夜の入口、ジャンヌの寮の門前まで来た。
「おやすみ」と言い合う前に、ジャンヌは白いリボンの端を指でつまみ、ほんの少しだけためらう。
「……いつか、ちゃんと話すね。私から」
「ああ。いつでも。――急がなくていいから」
ランタンの灯が揺れ、灰青の瞳がやわらかく光る。
その光に背中を押されるみたいに、ジャンヌは小さく息を吸った。
「……それと、もうひとつだけ」
視線が薄青のスカーフの先で泳いで、すぐに戻る。
「今夜、もしよかったら……あなたと一緒にいたいの。明日はお休みだし……。都合が悪かったら、いいのだけど」
言い終えると、頬がふっと熱くなる。
ライリーのまぶたが一度だけ瞬き、次の瞬間、灯にとけるような微笑みが広がった。
「……うれしい。俺もそう思っていた。――行こうか」
「うん」
差し出された手に、そっと指を重ねる。
彼は自然にジャンヌの紙包みを受け取り、外套の襟を直した。
「足もと、気をつけて。夜風が少し冷たい」
「大丈夫。あなたがいるから」
「じゃあ、家に着いたら、もっと温かくしよう」
石畳に並んだ影が、角を曲がるたび寄り添うように長くなる。路肩側へさりげなく回り込む彼の歩幅に、ジャンヌの靴音がぴたりと合う。
小さな水たまりを避けるとき、ライリーが指先でそっと合図をくれる。段差の前では、肘に軽く触れて「ここ、少し高い」と耳元で囁く。その低い声がくすぐったい。
「手、冷えてる?」
「少しだけ」
「なら、ここへどうぞ」
ライリーは自分の外套のポケットを片手で開き、もう片方の手でジャンヌの指を包んで中へ導いた。ひとつのポケットに二人の手。思わず笑い合う。
「すごく、あったかい」
「君の手を握っているからかな」
通りの角で、遠くの屋台が看板の灯を落とした。
キーリングが小さく鳴り、錫の笛がかすかに触れ合う。その音に、ジャンヌの指先がポケットの中で小さく震える。
「……鍵の音まで、好きになりそう」
「俺は、君が笑う音がいちばん好きだ」
短い言葉に胸がきゅっと鳴る。
人通りの少ない路地で足を止めると、ライリーが身を屈め、額に軽く口づけた。印を置くみたいに、やさしい口付けだった。
「もう少しだけ、早足でもいい?」
「……はい」
二人の歩幅が、ほんの少し弾む。
窓辺の明かりを横目に抜け、細い坂道を上ると、木の扉が連なる裏通りへ出た。軒から下がる植木鉢が風に揺れ、土と緑の匂いが混じる。
「ようこそ」
三階の踊り場で足を止める。鍵が鳴り、錫の笛がもう一度だけ小さく応えた。
扉が開く。ふわりと、乾いた木と石鹸の匂いがこぼれる。
「お邪魔します」
上着を受け取りながら、ライリーはポケットからまだ離れない手をそっと握り直す。
「外は冷えたね。お茶を淹れる。――ジャンヌ」
「うん?」
「今夜、来てくれてありがとう」
その言葉が胸の奥に灯のようにともって、ジャンヌは小さく頷いた。
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