【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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 その朝、寮の廊下で金具が小さく鳴った。

 配達箱のふたを開けると、見覚えのある筆致の封筒が一通。宛名は端正に、ジャンヌ。

(……トーマス)

 胸の奥で古い音がひとつ鳴る。
 けれど、脈は暴れなかった。封は切らずに外套の内ポケットへ入れて、ジャンヌは石畳へ足を出した。


***


 夕刻。鐘が鳴り、封印紙に今日の日付を置く。

 いつもの角でライリーを待っている間に、外套の内側から封筒を取り出し、丁寧に開いた。

 紙は短く、まっすぐだった。
 あの日の言葉を詫びること。境界を引けなかった自分の未熟さを認めること。返事はいらない、君の時間をこれ以上奪いたくない、と綴ってあった。

 読み終えても、涙はこぼれなかった。
 胸の真ん中に、冷たい石がひとつ落ち、それがやがて丸くなる感覚だけがあった。


(……受け取った。ここまで)


 指先で紙の端をそろえ、そっと折り目をつける。

 返信はしない――彼の望みどおりにしよう。
 心の中では静かに「許す」を置く。
 過去は過去、印影のように確かに残るけれど、今の自分の手は別の方向を向いている。

「ジャンヌ。寒くないか」

 声に振り向くと、通り抜ける風の向こうにライリーがいた。

「大丈夫。……幼なじみからの手紙を読んでいたの」

「そうか」
 ライリーはうなずいた。
 灰青の瞳は静かで、ただ受け止めている。何も聞かないでいてくれる人の存在が、こんなにも温かい。

「返事は書かないつもり……」
 それだけ告げて、ジャンヌは薄青のスカーフの端を握り直した。

「返事は義務じゃない。君の時間は、君のものだ」
「……うん。ライリーは、聞かないでいてくれるのね」

 一拍おいて、彼は視線をそらさず続けた。

「もちろんだ。無理に聞こうとは思わない。急がなくていい。君の歩幅で、君の言葉で。過去を隠さなくてもいいし、抱えたままでもいい。――話したくなったときにだけ、話してくれたらいい」

 胸の奥で、固くなっていたものがすこしほどける。

 ジャンヌは小さく笑って、ほんの少しだけ近づいた。

「ありがとう。……ライリー」
「礼を言うのは俺の方だよ」

 彼はスカーフのほどけた端を整えるみたいに、指先でそっと結び目の形を直す。
 それは「線引き」ではなく、「結び直し」でもなく、ただ“いま”を整えるささやかな手つきだった。

「歩こうか。風に当たると、少し楽になる」
「うん」

 石畳に二人の音が並ぶ。
 角を曲がる前、ライリーがぽつりと言った。

「俺は君の“いま”が好きだ。だから、過去で君を測らない」
「……ライリー」

 肩が触れる距離で、ジャンヌは息をひとつ深く吸う。

 
 雨上がりの匂いと、彼の石鹸の匂いが混ざり合い、胸のざわめきがゆっくり沈んでいった。



 夜の入口、ジャンヌの寮の門前まで来た。

「おやすみ」と言い合う前に、ジャンヌは白いリボンの端を指でつまみ、ほんの少しだけためらう。

「……いつか、ちゃんと話すね。私から」

「ああ。いつでも。――急がなくていいから」

 ランタンの灯が揺れ、灰青の瞳がやわらかく光る。

 その光に背中を押されるみたいに、ジャンヌは小さく息を吸った。

「……それと、もうひとつだけ」
 視線が薄青のスカーフの先で泳いで、すぐに戻る。
「今夜、もしよかったら……あなたと一緒にいたいの。明日はお休みだし……。都合が悪かったら、いいのだけど」

 言い終えると、頬がふっと熱くなる。
 ライリーのまぶたが一度だけ瞬き、次の瞬間、灯にとけるような微笑みが広がった。

「……うれしい。俺もそう思っていた。――行こうか」

「うん」

 差し出された手に、そっと指を重ねる。 
 彼は自然にジャンヌの紙包みを受け取り、外套の襟を直した。

「足もと、気をつけて。夜風が少し冷たい」
「大丈夫。あなたがいるから」
「じゃあ、家に着いたら、もっと温かくしよう」

 石畳に並んだ影が、角を曲がるたび寄り添うように長くなる。路肩側へさりげなく回り込む彼の歩幅に、ジャンヌの靴音がぴたりと合う。

 小さな水たまりを避けるとき、ライリーが指先でそっと合図をくれる。段差の前では、肘に軽く触れて「ここ、少し高い」と耳元で囁く。その低い声がくすぐったい。

「手、冷えてる?」
「少しだけ」
「なら、ここへどうぞ」

 ライリーは自分の外套のポケットを片手で開き、もう片方の手でジャンヌの指を包んで中へ導いた。ひとつのポケットに二人の手。思わず笑い合う。

「すごく、あったかい」
「君の手を握っているからかな」

 通りの角で、遠くの屋台が看板の灯を落とした。

 キーリングが小さく鳴り、錫の笛がかすかに触れ合う。その音に、ジャンヌの指先がポケットの中で小さく震える。

「……鍵の音まで、好きになりそう」
「俺は、君が笑う音がいちばん好きだ」

 短い言葉に胸がきゅっと鳴る。
 人通りの少ない路地で足を止めると、ライリーが身を屈め、額に軽く口づけた。印を置くみたいに、やさしい口付けだった。

「もう少しだけ、早足でもいい?」
「……はい」

 二人の歩幅が、ほんの少し弾む。
 窓辺の明かりを横目に抜け、細い坂道を上ると、木の扉が連なる裏通りへ出た。軒から下がる植木鉢が風に揺れ、土と緑の匂いが混じる。

「ようこそ」

 三階の踊り場で足を止める。鍵が鳴り、錫の笛がもう一度だけ小さく応えた。
 扉が開く。ふわりと、乾いた木と石鹸の匂いがこぼれる。

「お邪魔します」

 上着を受け取りながら、ライリーはポケットからまだ離れない手をそっと握り直す。

「外は冷えたね。お茶を淹れる。――ジャンヌ」
「うん?」
「今夜、来てくれてありがとう」

 その言葉が胸の奥に灯のようにともって、ジャンヌは小さく頷いた。

 さっきまで背中に揺れていたランタンの光はもうないけれど、安心という温度は、指先から全身へ静かに広がっていった。
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