【完結・R18】花のように微笑み、棘のように傷ついて

とっくり

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 ある日の夕方、帰路の空が急に暗くなり、ジャンヌは夕立に捕まった。
ライリーは出張中で、頼れる肩は遠い。

 本屋の回廊へ駆け込み、軒の雫を指先で払う。雨に濡れた薄青のスカーフが、首元でしっとりと重い。紙と革の匂い、濡れた石畳に灯が揺れて映る。

「すみません」

 肩がふいに触れた。
 相手も同じように雨を避けて飛び込んできたらしい。

 顔を上げるとーートーマスだった。

 一瞬、時間が薄くなる。雨音だけがくっきり残って、心臓の鼓動がひと拍遅れて追いつく。

「……ジャンヌ」

 濡れた前髪が額に貼りついている。
 昔より頬が少し削け、手には図面筒。喉の奥で言葉を探している顔だった。

「こんばんは」
 ジャンヌは白いリボンを指で確かめ、いつもの調子で小さく会釈した。

 本屋の鈴がちりんと鳴り、ふたりの間に雨の匂いが流れ込む。

「手紙、読んでくれたかな…」
 トーマスが口を開く。声は低く、少し掠れていた。
「勝手に出して、悪かった。……どうしても、一度だけ、ちゃんと謝りたかった」

 ジャンヌは静かにうなずく。
「読んだわ」

 指先でスカーフの端を整え、言葉を選ぶ。
「あのときのことは……私にも至らないところがあったと思うの。でも、今は大丈夫――もう、前に進んでいるから」

 雨脚が少し弱まる。回廊の外で、露店の灯がひとつ息を吹き返した。

 トーマスは視線を落とし、深く息を吐く。
「そうか。……よかった」

 たぶん、それだけで来た意味があったのだろう――そんな顔をしたあと、彼は苦笑に似た表情で続けた。

「遅すぎるって、やっとわかったんだ。
ジャンヌのことを“”のまま掴んでいたくて、何も見えていなかった。

……いまさら言っても仕方ないけど、あのときの俺は、君をちゃんと大切にできていなかった」

 言い訳を挟まない、短い言葉だった。
 雨が作る静けさに、素直に落ちていく。

 ジャンヌは小さく首を振った。
「トーマスには、これまでたくさん助けられたわ。本当に感謝しているの。今までありがとう。私にも大切な人ができて、その人も私を愛してくれて……幸せに過ごしているわ」

 トーマスは顔を上げ、目尻にわずかな安堵を滲ませてうなずく。
「今、君が幸せなら、それでいい。本当に」
「ありがとう、トーマス」
 花が綻ぶようにジャンヌは微笑み、言葉を継なぐ。

「トーマスも、どうか元気で。……まっすぐ、いい線を引けますように」
 自分でも少し照れくさい言い回しになって、ジャンヌは笑った。

「努力するよ」
 彼も、かすかに笑う。昔より少し大人びた笑い方だ。

 雨はさらに細くなり、屋根の縁から落ちる水が糸みたいにほどけていく。

 遠くで車輪が水たまりを割る音がして、本屋の奥から店主が紙傘を片手に姿を見せた。

「一本、お貸ししましょう」
 店主の言葉に、ジャンヌは礼を言って首を横に振る。
「大丈夫です、すぐ止みますから」

トーマスも「俺は近いから」と手を振った。

 短い沈黙。
 けれど、もう気まずさはない。

「じゃあ」
「じゃあ」

 互いに一礼して、別の方向へ歩き出す。 
 数歩進んでから、ジャンヌは振り返った。トーマスも同じタイミングで振り返って、軽く手を上げる。

 ふたりの間に残っていた古い雨雲が、さっと風で薄くなった気がした。

 再び前を向く。
 白いリボンはほどけていない。足取りは軽い。

 胸の中に静かな余白が戻ってきて、そこへ新しい明日の気配がやさしく満ちていた。

***

(トーマス視点)

 雨脚が急に強くなって、俺は本屋の回廊へ駆け込んだ。

 軒から落ちる雫を指で払う。
 紙と革の匂い。濡れた石畳に灯りが揺れて映る。

「すみません」

 肩がふいに触れた。
 もう一人、同じように雨を避けて飛び込んできたらしい。

 顔を上げる――胸の内側で時間が薄くなる。

 ジャンヌだった。

 雨に濡れた睫毛の奥の瞳は落ち着いていて、(ああ、綺麗になった)と一瞬で思う。

 線の細さはそのままなのに、輪郭に芯が通ったような強さがある。

回廊の灯りに照らされた横顔が、昔は知らなかった光を帯びて見えた。
 
 心臓が一拍、雨に遅れて跳ねた。

「……ジャンヌ」

 声が掠れた。濡れた前髪が額に貼りつくのが自分でもわかる。言葉を探す間に、彼女はいつもの調子で小さく会釈した。

「こんばんは」

 本屋の鈴がちりんと鳴って、雨の匂いが二人の間を通り抜ける。

逃げ道は作らないほうがいい――そう思って、切り出した。

「手紙、読んでくれたかな。勝手に出して……悪かった。どうしても、一度だけ、ちゃんと謝りたかった」

 ジャンヌは静かにうなずく。

「読んだわ」

 スカーフの端を整え、言葉を選ぶように続けた。
「あのときのことは、私にも至らないところがあったと思うの。でも、今は大丈夫――もう、前に進んでいるから」

 雨脚が少し弱まる。回廊の外で、露店の灯が一つ、息を吹き返した。

 胸の奥で固まっていた何かが、音もなくほどける。

「トーマスには、これまでたくさん助けられたわ。本当に感謝しているの。今までありがとう。私にも大切な人ができて、その人も私を愛してくれて……幸せに過ごしているわ」

 心臓がまた一つ跳ねる――痛い、けれど、正しい痛みだ。

 それでも顔を上げ、うなずくことはできた。

「今、君が幸せなら、それでいい。本当に」
「ありがとう、トーマス」

 花が綻ぶみたいに、ジャンヌは笑った。
続けて、少し照れくさそうに言う。

「トーマスも、どうか元気で。……まっすぐ、いい線を引けますように」

 その言い回しに、思わず俺も笑う。
 昔より少し大人びた笑い方になっているのを、自分で変に意識する。


「じゃあ」
「じゃあ」

 互いに一礼して、別々の方向へ歩き出す。

 数歩進んで、同じタイミングで振り返った。彼女が小さく手を上げる。俺も上げる。

(“”…そう、これはだ)

 トーマスは立ち尽くす代わりに、欄干の方へ二歩だけ退いた。

 薄く濡れた石の匂い。指先に、蜜蝋の匂いがかすかに残っている。

(終わった。――やっと)

 胸の奥で、音のない何かがほどけた。
 そして遅れて、自分の感情に名前を与える。

(俺は……ジャンヌを愛していたんだ)

 涙は、声にならずに落ちた。
 誰も見ない。そのまま、深く息を吐く。

(でも、もう彼女の“今”には俺はいない。
そして、これからも俺は必要とされない)

 彼女の人生から自分が消えた――その事実を思うだけで胸が締めつけられ、静かに落ちていた涙に、堪えきれない嗚咽がまじった。

「……っ、ジャンヌ……」

 愚かだった、としか言えない。
 大切なものはずっと隣にあったのに、目をそらし続けたのは自分だ。

 結局、台なしにしたのも、自分。

 呼吸が乱れたまま、石畳に最後の雫が落ちる。小さな光が弾けて、夜の底に吸い込まれた。

(彼女はもう前を向いている。――俺も、前へ)

 トーマスは外套の襟を正し、濡れた図面筒を握り直した。

(まっすぐ、いい線を)

 いまさら気づいた感情には静かに蓋をする。

 代わりに、掌の中の鉛筆の芯だけが、折れずに確かな重みを残していた。

 その後、彼は一度も振り返らず、雨上がりの通りへ歩き出した。
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