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終業の鐘が静まった回廊。
封印紙に日付を置いたジャンヌが外套を肩にかけ、寮へ向けて歩き出す。
石畳を洗った夕風が、白いリボンの端をそっと揺らした。
「ジャン――」
運用棟側から現れたライリーが、呼びかけかけて一歩近づく。灰青の眼がやわらぐ。その背後から、軽い鈴の音が鳴った。
「ライリー主任、よろしいですか?」
蜂蜜色の巻き髪がふわりと揺れる。
ミナが小走りに追いつき、笑顔のまま立ち止まった。
「港の書式で至急ご相談があって……五分だけでも」
ライリーは視線だけで状況を測り、声の温度を変えない。
「相談は明朝の点呼後に扱おう。会議室を押さえるから、要点を三つに絞ってメモにしておいてくれ。今は解散だ」
「……承知しました。ありがとうございます、主任」
ミナはにこやかに一歩下がる。
その目だけが一瞬、ジャンヌをかすめて、すぐ笑みに戻った。
ライリーはジャンヌのほうへ体を戻し、短く、いつもの調子で。
「気をつけて帰って」
「はい。ありがとうございます。――また明日」
言葉は仕事どおり、けれど胸の奥で小さな鈴が鳴る。ジャンヌは会釈して回廊を抜けた。
背に受けるランタンの明かりが温かい。
足音が遠のくまで、ライリーは立ち位置を変えない。
ミナはその横顔を見上げ、笑顔のままブレスレットを指で弾いた。
「明朝、要点は三つですね。準備しておきます」
「頼む」
ライリーの声は、いつもどおり抑えられていた。背後で交わされるやり取りを耳に受けながら、ジャンヌは寮へ歩き出した。
扉の向こうで、寮の灯がぱっと灯る。
その明るさを背に受けて歩幅を少し弾ませる。
――けれど、廊下で向けられたあの一瞬の視線が、胸の奥に小さな棘みたいに残った。スカーフの端をそっと確かめ、ひとつ深呼吸する。
(大丈夫。――私を見てくれている)
ライリーの静かな声を思い出すと、棘は少し丸くなる。足取りを整えながら、言葉にしない合図が胸の中でひとつ増えた。
*
寮の門灯がともるころ、部屋の扉をノックする音がした。
開けると、ライリーが紙袋を片手に立っている。外套の肩に夜露が少し光っていた。
「お邪魔しても?」
「もちろん。……わぁ、いい匂い」
机の上に、彼は包みを次々と広げた。
鶏の香草焼き、白い豆のスープ、小さなパンと柔らかなチーズ、切り分けた林檎。寮の小さな机が、一気に温かい晩餐の顔になる。
「商会の近くに美味しそうな店を見つけてね。ジャンヌと一緒に食べたいと思ったんだ」
「ありがとう。あの大通りにできたお店よね。嬉しい。すごく気になってたの」
「ふふ…それは良かった」
向かい合ってパンを割る。
湯気とハーブの香りがふわりと混じり、今日一日のせわしなさが静かにほどけていく。
ひと口ごとに「おいしい」「これも絶品」と短い言葉が往復し、やがて二人の目じりだけが同じリズムでゆるんだ。
スープを飲みながら、ジャンヌが少しだけ迷って口を開く。
「ねえ…ライリーの部下のミナさん…可愛い人だよね。仕事も一生懸命で」
ライリーはスプーンを置き、まっすぐ頷いた。
「うーん、どうだろう。俺が見ているのは君だけだから、そういう風に見えたことは無いな」
言い切ってから、いつもの落ち着いた調子で続ける。
「彼女を“部下”として伸ばしたい。甘やかさず、公平に、きちんと一人前の仕事ができるように育てたい――それだけだ。俺の心は、いつだって君だけに向いている。」
「……ふふっ、ありがとう」
胸の奥の小さな固まりが、するりと溶けた気がした。
「変なこと言って、ごめんなさい。ちょっとだけ気になってたの。いまは、もう平気」
「よかった」
ライリーはパンを小さくちぎり、チーズをのせて差し出す。
「ほら、こっちも美味しいぞ」
「ライリー、ありがとう」
受け取って頬張ると、笑いがこぼれた。
食後は、紙ナプキンをたたみながら他愛ない話へと移った。
今日の港の風の向き、帳場の小さな工夫、道端の露店が新しい花を並べはじめたこと。
言葉の行き来に、ふいに名残惜しさが混ざったのは、寮では泊まれない夜だからだ。
「……そろそろ、帰らないとな」
片付けを終えると、ライリーが外套を手に取る。
「本当は、あと百歩くらい君の隣に座っていたいけど、規則は規則だからね」
「うん。ねえ、週末——私、あなたの部屋に行ってもいい?」
言ってから、ジャンヌは指先で白いリボンの端をつまむ。視線がすぐ戻る前に、ライリーの瞳がやわらかく笑った。
「喜んで。任せて、計画はもう半分できてる」
「ふふふっ…計画、早いわね?」
ジャンヌは思わず声を出して笑ってしまう。
「朝は市場で果物とパン、昼は丘のベンチで簡単なピクニック、夕方に君の好きな画家の小さな常設展、夜は家で煮込み。その間に“抱きしめる係”を何度か挟む」
「素敵な係だわ」
「ああ、予定表の欄ではなく、内緒の欄に書いておくからね」
冗談を交わすほどに、さっきまでの一抹の不安は影も形もなくなっていた。週末の景色が胸の中で少しずつ色を帯びる。
二人で並んで廊下へ出ると、ランタンの灯が近づいて、扉の前にやわらかな明るさが落ちた。
「今日はありがとう。夕食も、言葉も、全部」
「こちらこそ。君の“平気”が聞けて嬉しい。——また明日」
別れ際、ライリーは周りを確かめてから、指先でそっとジャンヌのこめかみの後れ毛を整え、額に短い口づけを置いた。音も立てない、小さな印だった。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
扉が閉まっても、胸には灯りが残る。
ジャンヌは机の上に今日の紙ナプキンを一枚だけそっと重ね、薄青のスカーフを椅子の背へ掛けた。
週末のプランを思い浮かべると、自然と笑みが深くなる。
彼の「見ているのは君だけだよ」という声が、枕元の守り札みたいにあたたかかった。
封印紙に日付を置いたジャンヌが外套を肩にかけ、寮へ向けて歩き出す。
石畳を洗った夕風が、白いリボンの端をそっと揺らした。
「ジャン――」
運用棟側から現れたライリーが、呼びかけかけて一歩近づく。灰青の眼がやわらぐ。その背後から、軽い鈴の音が鳴った。
「ライリー主任、よろしいですか?」
蜂蜜色の巻き髪がふわりと揺れる。
ミナが小走りに追いつき、笑顔のまま立ち止まった。
「港の書式で至急ご相談があって……五分だけでも」
ライリーは視線だけで状況を測り、声の温度を変えない。
「相談は明朝の点呼後に扱おう。会議室を押さえるから、要点を三つに絞ってメモにしておいてくれ。今は解散だ」
「……承知しました。ありがとうございます、主任」
ミナはにこやかに一歩下がる。
その目だけが一瞬、ジャンヌをかすめて、すぐ笑みに戻った。
ライリーはジャンヌのほうへ体を戻し、短く、いつもの調子で。
「気をつけて帰って」
「はい。ありがとうございます。――また明日」
言葉は仕事どおり、けれど胸の奥で小さな鈴が鳴る。ジャンヌは会釈して回廊を抜けた。
背に受けるランタンの明かりが温かい。
足音が遠のくまで、ライリーは立ち位置を変えない。
ミナはその横顔を見上げ、笑顔のままブレスレットを指で弾いた。
「明朝、要点は三つですね。準備しておきます」
「頼む」
ライリーの声は、いつもどおり抑えられていた。背後で交わされるやり取りを耳に受けながら、ジャンヌは寮へ歩き出した。
扉の向こうで、寮の灯がぱっと灯る。
その明るさを背に受けて歩幅を少し弾ませる。
――けれど、廊下で向けられたあの一瞬の視線が、胸の奥に小さな棘みたいに残った。スカーフの端をそっと確かめ、ひとつ深呼吸する。
(大丈夫。――私を見てくれている)
ライリーの静かな声を思い出すと、棘は少し丸くなる。足取りを整えながら、言葉にしない合図が胸の中でひとつ増えた。
*
寮の門灯がともるころ、部屋の扉をノックする音がした。
開けると、ライリーが紙袋を片手に立っている。外套の肩に夜露が少し光っていた。
「お邪魔しても?」
「もちろん。……わぁ、いい匂い」
机の上に、彼は包みを次々と広げた。
鶏の香草焼き、白い豆のスープ、小さなパンと柔らかなチーズ、切り分けた林檎。寮の小さな机が、一気に温かい晩餐の顔になる。
「商会の近くに美味しそうな店を見つけてね。ジャンヌと一緒に食べたいと思ったんだ」
「ありがとう。あの大通りにできたお店よね。嬉しい。すごく気になってたの」
「ふふ…それは良かった」
向かい合ってパンを割る。
湯気とハーブの香りがふわりと混じり、今日一日のせわしなさが静かにほどけていく。
ひと口ごとに「おいしい」「これも絶品」と短い言葉が往復し、やがて二人の目じりだけが同じリズムでゆるんだ。
スープを飲みながら、ジャンヌが少しだけ迷って口を開く。
「ねえ…ライリーの部下のミナさん…可愛い人だよね。仕事も一生懸命で」
ライリーはスプーンを置き、まっすぐ頷いた。
「うーん、どうだろう。俺が見ているのは君だけだから、そういう風に見えたことは無いな」
言い切ってから、いつもの落ち着いた調子で続ける。
「彼女を“部下”として伸ばしたい。甘やかさず、公平に、きちんと一人前の仕事ができるように育てたい――それだけだ。俺の心は、いつだって君だけに向いている。」
「……ふふっ、ありがとう」
胸の奥の小さな固まりが、するりと溶けた気がした。
「変なこと言って、ごめんなさい。ちょっとだけ気になってたの。いまは、もう平気」
「よかった」
ライリーはパンを小さくちぎり、チーズをのせて差し出す。
「ほら、こっちも美味しいぞ」
「ライリー、ありがとう」
受け取って頬張ると、笑いがこぼれた。
食後は、紙ナプキンをたたみながら他愛ない話へと移った。
今日の港の風の向き、帳場の小さな工夫、道端の露店が新しい花を並べはじめたこと。
言葉の行き来に、ふいに名残惜しさが混ざったのは、寮では泊まれない夜だからだ。
「……そろそろ、帰らないとな」
片付けを終えると、ライリーが外套を手に取る。
「本当は、あと百歩くらい君の隣に座っていたいけど、規則は規則だからね」
「うん。ねえ、週末——私、あなたの部屋に行ってもいい?」
言ってから、ジャンヌは指先で白いリボンの端をつまむ。視線がすぐ戻る前に、ライリーの瞳がやわらかく笑った。
「喜んで。任せて、計画はもう半分できてる」
「ふふふっ…計画、早いわね?」
ジャンヌは思わず声を出して笑ってしまう。
「朝は市場で果物とパン、昼は丘のベンチで簡単なピクニック、夕方に君の好きな画家の小さな常設展、夜は家で煮込み。その間に“抱きしめる係”を何度か挟む」
「素敵な係だわ」
「ああ、予定表の欄ではなく、内緒の欄に書いておくからね」
冗談を交わすほどに、さっきまでの一抹の不安は影も形もなくなっていた。週末の景色が胸の中で少しずつ色を帯びる。
二人で並んで廊下へ出ると、ランタンの灯が近づいて、扉の前にやわらかな明るさが落ちた。
「今日はありがとう。夕食も、言葉も、全部」
「こちらこそ。君の“平気”が聞けて嬉しい。——また明日」
別れ際、ライリーは周りを確かめてから、指先でそっとジャンヌのこめかみの後れ毛を整え、額に短い口づけを置いた。音も立てない、小さな印だった。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
扉が閉まっても、胸には灯りが残る。
ジャンヌは机の上に今日の紙ナプキンを一枚だけそっと重ね、薄青のスカーフを椅子の背へ掛けた。
週末のプランを思い浮かべると、自然と笑みが深くなる。
彼の「見ているのは君だけだよ」という声が、枕元の守り札みたいにあたたかかった。
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