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月曜の朝、鐘が鳴るより少し早くにジャンヌは出勤していた。
帳場の掲示板に、ケイシーが新しい通達を貼った。紙質がいつもより厚く、赤い紐で上が留めてあって、職員の何人かが「何だろう」と視線だけ向ける。
「おはようございます」
「おはよう、これも見ておいてね」
ジャンヌが席につくのを待っていたみたいに、ケイシーが手で示す。
そこには整った文字でこうあった。
――運用・営業部 ライリー主任
隣国支部への監査・指導のため、来月末より長期派遣。
現行業務については今月中に引き継ぎを開始すること。
たったそれだけなのに、空気が一瞬だけふわっと動いた。
「長期だって」
「出世コースだな、戻ったら管理職のポストが待ってるんじゃないか」
「だろうな。向こうでも仕事してたらしいしな」
「やっぱり抜かれるよな」…いろんな声が小さく飛ぶ。
ジャンヌは一度だけ紙を読み、呼吸を細く整える。
(…いよいよ、本当に行くんだわ)
昨日まで彼の部屋で過ごしていた温度と、掲示板に貼られた冷たい紙が、頭の中でちょっとだけ重ならない。
けれど、胸の奥は不思議と静かだった。前もって聞かされていたからだろう。
「大丈夫?」
隣で書類を仕分けていたマイルズが、ひそめた声で耳を寄せる。
「はい。……しばらくは忙しくなりますね」
「まあね。やり手がいないぶん、こっちにも回ってくるだろうし」
マイルズはそこで一拍置いて、声をさらに低くした。
「それに、ほら。向こうが落ち着いたら戻るって、支配人が言ってたろ」
「そうですね」
ジャンヌは、ほんのすこしだけ笑う。
“戻る前提”と何度も言ってくれた彼の声が、そのまま背中を支えていた。
そこへ、運用棟から伝票束が回ってきた。今日の担当はまたミナだった。
「おはようございまーす。掲示、見ましたよ。主任って、すごいですね。さすが、って感じ」
声はいつもより一段明るい。
けれど、その明るさの奥に「長期でいなくなるって聞いてない」という揺れも垣間見える。
「おはようございます。お預かりします」
ジャンヌはいつも通りの角度で一礼し、受領印の上に時刻を置いた。
ミナは書類を机に置いたまま、掲示板に視線をやり、
「主任って、王都に落ち着くと思ってたのになぁ。急なお話だったんですねぇ」
と、何でもないふりでこぼす。
「ええ、必要とされているのでしょうね」
ジャンヌはやわらかく返すだけだ。
「そうですよねぇ。…帳場のほう、さみしくなりますね?」
「さみしい、というより。戻ってきたときに滞らないように整えておかないと、と思っています」
「へぇー、えらいなぁ」
今度の「えらいなぁ」には、ほんの少しだけ棘があるように思われた。
その後ろで、ケイシーが控えめに咳払いをした。
「ミナ、伝票ありがとう。無駄口はやめて、こちらはこっちで処理するから、そちらはそちらの午前を進めて」
「あ、はーい。失礼しました~」
ミナはにっこり笑って去っていく。
通りすがりに、ジャンヌの白いリボンを一瞬見た。今日もほどけていない。
その視線を、ケイシーは見逃していなかった。
「……手順の話だけならいいけど、個人のところには踏み込ませないようにしないとね」
「はい。すみません」
「謝るのはジャンヌじゃないわよ」
ケイシーはそう言って、掲示板の紙をもう一度まっすぐにした。
*
昼休み前、運用棟。
「主任って、来月のいつから行くんですか?」
「掲示に書いてあるが?」
「……その。急でびっくりして。もっと王都でお仕事されるのかと思ってたんです」
「仕事は王都でも隣国でも同じだよ。必要なところでやるだけだ」
ライリーは書類を綴じながら淡々と答える。ミナは一歩引いたが、引ききれない。
今日こそは近づけると思っていたのに、掲示で「長期派遣」と出てしまったのだ。焦りがある。
「主任、戻ってくるんですよね?」
「もちろん。戻るつもりだよ」
「……じゃあ、そのときまた、港のこと、教えてくださいね」
ほんの少し潤んだような目で言う。
この“しおらしさ”なら、誰だって少しは気を許す。そう思っていた。
けれどライリーは、変わらない声で、
「教えるよ。俺がいなくても回るように今、書式を残している。君が続けてくれているなら、帰ってきたときに助かる」
とだけ返した。
“君が続けてくれているなら”。
“君だから”ではない。
ミナはそこでようやく、それが自分に向いた情ではないとわかる。
胸の奥がちりっとした。
同時に、今朝の帳場の空気を思い出す。
(……やっぱり。あの人のせいだ)
青いスカーフと白いリボン。
自分の声にさっと話題を戻した、あの静かな笑顔。
(主任がいなくなるの、平気そうな顔してた。前から知ってた顔だった)
ミナは唇の内側を噛んで、笑顔を崩さないまま持ち場へ戻った。
*
夕方。
ジャンヌが寮へ向かう回廊で、ライリーが待っていた。いつものように、灯りが点くまで見届けるつもりなのだろう。
「掲示、見た?」
「はい。……いよいよですね」
「寂しい?」
「……正直に言うと、寂しいです。でも、行ってほしくないわけじゃないんです」
「ありがとう」
ライリーはほっとしたように目を細めて、手に持っていた小さな包みを差し出した。
「帰るまで、寮で使えるものを少しずつ渡していこうと思って」
「えっ」
「印。覚えてるだろ? 君が見ればわかるやつ」
中には、小ぶりの紙挟みと、細い紐で縛ったメモ用紙が入っていた。
どれもジャンヌが仕事でよく使う形だ。紙挟みの端に、ごく小さく「R」と刻んである。
「……可愛い…」
「でかいものは寮に持ち込めないだろう? だから小さいやつで攻める」
「ふふっ。攻めるんですか」
「ああ、攻める」
二人で笑う。
笑えているから大丈夫だと、お互い確認するみたいに。
「また週末、来る?」
「はい。行ってもいいですか」
「もちろん。むしろ来てほしいな。今のうちに、君の好きなもの全部覚えるから」
「じゃあ……次は、焼き林檎お願いします」
「おやすいご用」
寮の灯りがぱっと灯る。
ジャンヌは扉に手を掛ける前に、ほんの一瞬だけ振り返った。
「……行ってらっしゃい、って、今から言っておきますね。隣国まで届くように」
「行ってきます。必ず戻るから」
扉が閉まる。
中から、足音が奥へ消えていく。
回廊にひとり残ったライリーは、しばらくその扉を見つめてから、静かに外套の襟を立てた。
帳場の掲示板に、ケイシーが新しい通達を貼った。紙質がいつもより厚く、赤い紐で上が留めてあって、職員の何人かが「何だろう」と視線だけ向ける。
「おはようございます」
「おはよう、これも見ておいてね」
ジャンヌが席につくのを待っていたみたいに、ケイシーが手で示す。
そこには整った文字でこうあった。
――運用・営業部 ライリー主任
隣国支部への監査・指導のため、来月末より長期派遣。
現行業務については今月中に引き継ぎを開始すること。
たったそれだけなのに、空気が一瞬だけふわっと動いた。
「長期だって」
「出世コースだな、戻ったら管理職のポストが待ってるんじゃないか」
「だろうな。向こうでも仕事してたらしいしな」
「やっぱり抜かれるよな」…いろんな声が小さく飛ぶ。
ジャンヌは一度だけ紙を読み、呼吸を細く整える。
(…いよいよ、本当に行くんだわ)
昨日まで彼の部屋で過ごしていた温度と、掲示板に貼られた冷たい紙が、頭の中でちょっとだけ重ならない。
けれど、胸の奥は不思議と静かだった。前もって聞かされていたからだろう。
「大丈夫?」
隣で書類を仕分けていたマイルズが、ひそめた声で耳を寄せる。
「はい。……しばらくは忙しくなりますね」
「まあね。やり手がいないぶん、こっちにも回ってくるだろうし」
マイルズはそこで一拍置いて、声をさらに低くした。
「それに、ほら。向こうが落ち着いたら戻るって、支配人が言ってたろ」
「そうですね」
ジャンヌは、ほんのすこしだけ笑う。
“戻る前提”と何度も言ってくれた彼の声が、そのまま背中を支えていた。
そこへ、運用棟から伝票束が回ってきた。今日の担当はまたミナだった。
「おはようございまーす。掲示、見ましたよ。主任って、すごいですね。さすが、って感じ」
声はいつもより一段明るい。
けれど、その明るさの奥に「長期でいなくなるって聞いてない」という揺れも垣間見える。
「おはようございます。お預かりします」
ジャンヌはいつも通りの角度で一礼し、受領印の上に時刻を置いた。
ミナは書類を机に置いたまま、掲示板に視線をやり、
「主任って、王都に落ち着くと思ってたのになぁ。急なお話だったんですねぇ」
と、何でもないふりでこぼす。
「ええ、必要とされているのでしょうね」
ジャンヌはやわらかく返すだけだ。
「そうですよねぇ。…帳場のほう、さみしくなりますね?」
「さみしい、というより。戻ってきたときに滞らないように整えておかないと、と思っています」
「へぇー、えらいなぁ」
今度の「えらいなぁ」には、ほんの少しだけ棘があるように思われた。
その後ろで、ケイシーが控えめに咳払いをした。
「ミナ、伝票ありがとう。無駄口はやめて、こちらはこっちで処理するから、そちらはそちらの午前を進めて」
「あ、はーい。失礼しました~」
ミナはにっこり笑って去っていく。
通りすがりに、ジャンヌの白いリボンを一瞬見た。今日もほどけていない。
その視線を、ケイシーは見逃していなかった。
「……手順の話だけならいいけど、個人のところには踏み込ませないようにしないとね」
「はい。すみません」
「謝るのはジャンヌじゃないわよ」
ケイシーはそう言って、掲示板の紙をもう一度まっすぐにした。
*
昼休み前、運用棟。
「主任って、来月のいつから行くんですか?」
「掲示に書いてあるが?」
「……その。急でびっくりして。もっと王都でお仕事されるのかと思ってたんです」
「仕事は王都でも隣国でも同じだよ。必要なところでやるだけだ」
ライリーは書類を綴じながら淡々と答える。ミナは一歩引いたが、引ききれない。
今日こそは近づけると思っていたのに、掲示で「長期派遣」と出てしまったのだ。焦りがある。
「主任、戻ってくるんですよね?」
「もちろん。戻るつもりだよ」
「……じゃあ、そのときまた、港のこと、教えてくださいね」
ほんの少し潤んだような目で言う。
この“しおらしさ”なら、誰だって少しは気を許す。そう思っていた。
けれどライリーは、変わらない声で、
「教えるよ。俺がいなくても回るように今、書式を残している。君が続けてくれているなら、帰ってきたときに助かる」
とだけ返した。
“君が続けてくれているなら”。
“君だから”ではない。
ミナはそこでようやく、それが自分に向いた情ではないとわかる。
胸の奥がちりっとした。
同時に、今朝の帳場の空気を思い出す。
(……やっぱり。あの人のせいだ)
青いスカーフと白いリボン。
自分の声にさっと話題を戻した、あの静かな笑顔。
(主任がいなくなるの、平気そうな顔してた。前から知ってた顔だった)
ミナは唇の内側を噛んで、笑顔を崩さないまま持ち場へ戻った。
*
夕方。
ジャンヌが寮へ向かう回廊で、ライリーが待っていた。いつものように、灯りが点くまで見届けるつもりなのだろう。
「掲示、見た?」
「はい。……いよいよですね」
「寂しい?」
「……正直に言うと、寂しいです。でも、行ってほしくないわけじゃないんです」
「ありがとう」
ライリーはほっとしたように目を細めて、手に持っていた小さな包みを差し出した。
「帰るまで、寮で使えるものを少しずつ渡していこうと思って」
「えっ」
「印。覚えてるだろ? 君が見ればわかるやつ」
中には、小ぶりの紙挟みと、細い紐で縛ったメモ用紙が入っていた。
どれもジャンヌが仕事でよく使う形だ。紙挟みの端に、ごく小さく「R」と刻んである。
「……可愛い…」
「でかいものは寮に持ち込めないだろう? だから小さいやつで攻める」
「ふふっ。攻めるんですか」
「ああ、攻める」
二人で笑う。
笑えているから大丈夫だと、お互い確認するみたいに。
「また週末、来る?」
「はい。行ってもいいですか」
「もちろん。むしろ来てほしいな。今のうちに、君の好きなもの全部覚えるから」
「じゃあ……次は、焼き林檎お願いします」
「おやすいご用」
寮の灯りがぱっと灯る。
ジャンヌは扉に手を掛ける前に、ほんの一瞬だけ振り返った。
「……行ってらっしゃい、って、今から言っておきますね。隣国まで届くように」
「行ってきます。必ず戻るから」
扉が閉まる。
中から、足音が奥へ消えていく。
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